ホオズキジャムを作る

2週間放置していた畑にホオズキの実が成っていました。

今年のホオズキは順調です。
放っておくと枝が無秩序に多数伸び、そのうちに自からの重さで折れてしまったり、細い枝にも実を付けようとして実に栄養が回りきらないのがホオズキですが、今年は夏前に枝が増えすぎないように剪定しておいたのがよかったのでしょうか。

収穫前のホオズキ

すでに多数の実が成り、袋が枯れてしまっています。
収穫期を過ぎていて、東京に送る時期を過ぎています。
枝が折れやすいので注意して収穫します。

収穫したホオズキ

実そのものは傷んでいないので、加工することにします。
ジャムにしてみます。
ホオズキジャムを作るのは初めてです。

実を取り出して洗浄

ネットで確認すると、皮と種はそのまま煮ていいのですが、軸がついていた部分をカットするとあります。
実を袋から外し、洗浄した後に半分に切って、軸の部分を取り除きます。

実を半分に切って、軸に接する部分を取り除く

砂糖とレモン汁を加えて煮ます。

砂糖とレモン汁を加えて煮る

風味の良いジャムができました。
小瓶1個と余りが少々。

ホオズキは山小舎おばさんとその仲間にもファンがおり、出荷が待たれています。

煮沸した瓶に詰め、抜気して完成

令和8年畑 2週間ぶりの畑

孫たちの夏休み、蓼科山登山や東北、函館旅行にうつつを抜かしている間に2週間が過ぎました。
8月の2週間です。
畑はどうなってるのか?

軽トラをバックでつける畑のアプローチは太い雑草が伸び放題。
これ以上伸びるとタイヤがスリップしかねない勢いだ。
フェンスを開けて眺めた畑の景色はどこからが雑草で、どこからが畝かわからない。
予想通りだ。

草だらけの畑

雑草を刈らねばならないが、それは後日回し。
今日は収穫に徹しよう。
畝では真っ赤なトマトが収穫を待っている。

キューリが巨大になってぶら下がっている。
それらを採りこむと、ツルに残りの花は少ない。
キューリはもう終わりか。

キューリ

同じ畝に植えた夕顔が巨大な実を二つぶら下げている。
今年は計3個の収穫だ。
親ツルを早めに切って、脇芽に栄養を集中させたことがよかったのか。

収穫した夕顔2本

ナスは実の成長が遅い。
条件が良ければ2週間の間に鈴なりとなっているはず。
剪定の方法が悪かったのか、干ばつのせいか?

トマトはミニトマトの実がほとんど実割れしていた。
もったいないがしょうがない。
大玉も腐るか、実割れしているものが多い。
それでも何とか食べられそうなもの、煮て加工することはできるものを収穫する。
持って帰って食べたトマトは味が濃くてうまかった。

食べられそうなトマト。味はいい

ピーマンは順調な実成り。
トウガラシの実も色づいてきている。

トウガラシ

今年順調のほおずきには色あせた実が多数成っている。
収穫して持って帰る。

ズッキーニは収穫無し。虫による自然受粉はなかったようだ。

ほおずき
この日の収穫

上田映劇で クロード・シャブロル傑作選

クロード・シャブロル

クロード・シャブロル監督

『ヌーヴェルヴァーグは、伯母さんの遺産から始まった』という伝説は、シャブロルが当時の妻の祖母からの遺産を短編「王手飛車取り」(56年 ジャック・リヴェット監督)に出資した事象のことをいう。
シャブロルはヌーヴェルヴァーグの当事者であり、素人が映画を製作するという『掟破り』の首謀者であった。

ついでシャブロルは自身の長編デヴュー作「美しきセルジュ」(58年)を製作、ジャン・ヴィゴ賞を受賞した。
翌年製作した「いとこ同志」は、ベルリン映画祭で金熊賞を受賞し、興行的にもヒットした。

シャブロルは収益を仲間の映画製作に回し、また、ゴダールの長編デヴュー作「勝手にしやがれ」(59年)に監修として名を連ねるなど、仲間の映画製作への協力を惜しまなかった。

「美しきセルジュ」
「いとこ同志」

クロード・シャブロルは、1930年パリ生まれ。
大学時代からパリのシネマテークに通いつめ、ゴダール、リヴェット、トリュフォーなどと知り合い、「カイエ・デュ・シネマ」誌などに寄稿するようになった。
同時に探偵小説を書き発表してもいた。
心酔する映画監督は、フリッツ・ラングとアルフレッド・ヒッチコックだった。

売れっ子監督となった60年代には、007をフランス向けのパロデイとした「虎は新鮮な肉を好む」(64年)、「ジャガーの眼」(65年)、「スーパータイガー黄金作戦」(65年)など、タイトルからわかる通りの娯楽作品を連発。
周辺からは『商業映画の監督になった』といわれた。

「ジャガーの眼」。男装のステファーヌ・オードランと拳銃を持つマリー・ラフォレ!

今回の傑作選は、60年代後半のシャブロル全盛期といわれる頃の3本が集められた。
『時代』が終わり、ゴダール、トリュフォーはともかく、その後の『ヌーヴェルヴァーグ派作家』の映画は、日本では商業路線に乗らず、シャブロル作品を含めて輸入される本数が少なくなっていた中、作品を発表し続けていたシャブロルだったが、この間の未輸入作品は、日仏学院での特集上映などでしか観る機会はなかった。

ミステリーのテイストを生かしながら、サスペンスのみならず人間性の深淵をうかがうシャブロル映画の神髄をこの傑作選の3本に見ることができた。

傑作選チラシ
傑作選チラシより

「女鹿」   1968年   クロード・シャブロル監督   フランス    上田映劇(デジタル上映)

この日の上田映劇は9時開場。
ロビーで入場を待つ筆者に支配人が『おはようございます』と声をかけてくれた。
挨拶を返す。

予告編の後、場内が暗くなって開映。
ブザーこそ鳴らないが映画館で胸が高鳴る瞬間だ。

いざ上映開始の場内へ

観客のワクワクする高揚感に待ったをかけるような、暗く、落ち着いた開巻のクレジットは、この作品に限らず傑作選の3本に共通していた。
『まあ高揚するのはまだ待て、これは私の映画だ』とでもいうようなシャブロル映画の始まりだ。

暇そうなブルジョワ女とその日暮らしの若い自己流芸術家の物語。
ブルジョワ女はレズビアンで、冬のサントロペの別荘に若い女を連れてゆく。
若い女は自称処女。
そんな風に見えないこともない、当時28歳になるジャクリーヌ・ササールが演じている。
ブルジョワ女は当時のシャブロル夫人、ステファーヌ・オードラン。
この時期のシャブロル映画の語り部にして狂言回しだ。

自称処女のササールのむせかえるような肉感性。
直截的な肉体表現もラブシーンもないのだが、オードランの前でバスタブに浸かっているシーンと、風呂上りの着衣越しに匂い立つ官能性は、その道を飽きるほど極めた設定のブルジョワ女をも惑わせる。
その完成された美貌と、カメラ映りがよく自信に満ちた表情。
ササールと初めてスクリーンで接する観客は思う、『ジャクリーヌ・ササールって何者?』。

サントロペではもう一人の主要キャスト、ジャン=ルイ・トランテイニャンが登場し、二人の間に割って入る。
最初は男がササールを誘惑し、ササールはそれに乗る。
オードランが嫉妬したのか、男を奪い取り(男に興味がなかったはずなのにメロメロとなる)、今度はササールが嫉妬し返す。
オードランのメイクや服装を真似したりして恍惚とするササール。

映画スターとしての輝きで、地味で実力本位なオードランを圧倒するササールの存在感!
傑作選の3本中、本作だけが日本で一般公開となったことも理解できる。
ササールの輝きは客を呼べるのだ。

ラストはシャブロル映画にお決まりともいえる殺人で終わる。
この作品での殺人は、犯罪を犯す側の愛の完遂であるのだろうか。
それとも様々な映画解説が、シャブロル映画の共通するテーマだと説く、『ブルジョワ的日常の崩壊』を描いたものなのだろうか。

殺す側に驚きもおののきもなく、殺される側に恐怖の叫びもないのは、傑作選の3本に共通している。
おそらく他のシャブロル作品でもそうなのだろう。

車やたばこにこだわりがあるのか、登場人物に銘柄を言わせたりするのもシャブロル流か。
また、別荘の管理人(「不貞の女」にも登場)に毛沢東語録を持たせて革命ごっこのセリフを叫ばせたのは、ゴダールの「中国女」(67年)への風刺か。
勘ぐってゆくと、冬のサントロペの舞台設定にトランテイヤンを登場させるのも、「素直な悪女」(56年 ロジェ・ヴァデイム)への揶揄にも見えないこともないが・・・。

ラスト2分間の映像が途切れた。
フィルム上映の時代にはままあったこと。
ドラマの結末は映った後だったので、そのまま出ようとしたら、支配人が慌てて『映像が途切れましたか?』と観客席に確認に来て、直後に途切れた後の2分間(ほとんどエンドマークの部分)を上映してくれた。
映画好きの魂と、プロ根性を見た。

特集チラシより

ジャクリーヌ・ササールは1940年フランス生まれ。
57年の彼女の出世作「芽生え」(アルベルト・ラトアーダ監督)の記事を「映画の友」58年4月号で見つけたので紹介したい。

本ブログでもイタリアンレアリスモの流れをくむ作品として紹介した「明日では遅すぎる」(50年 レオニード・モギー監督)の流れをくむ、思春期世代の淡い感情を主題とした「芽生え」の出演時、ササールは17歳。
見た目が12年後の「女鹿」の時と変わっていない!のに驚く。

「芽生え」

監督のラトアーダは「ポー河の水車小屋」(48年)、「アンナ」(51年)と、ネオレアリスモの流れをくむ作品を発表した監督。
「芽生え」でササールの両親を演じるのはラフ・バローネとシルバ・コシナという第一級のキャステイング.。
目論見通り「芽生え」は世界的にヒットし、ササールは一時、ヤング世代を代表する世界的アイドルの一人となった。

「芽生え」。シルバ・コシナ、ラフ・ヴァローネと
「映画の友」1958年4月号より

「お嬢さんお手柔らかに」(59年 ミシェル・ボワロン監督)、「激しい季節」(59年 ヴァレリオ・ズルニーニ監督)、「できごと」(67年 ジョセフ・ロージー監督)など、話題作、問題作に出演したササールの最後の映画出演が「女鹿」だった。

「映画の友」1960年2月号より。ササールからのサイン入りポートレート

「不貞の女」  1969年    クロードシャブロル監督    仏・伊合作  上田映劇(デジタル上映)

「女鹿」の後連続してモギリに立つと支配人が『2本連続ありがようございます』。
ありがたいのは貴重な傑作選の鑑賞機会をいただいたこちらの方です。

さて、本作は開巻から結末まで緊張感が途切れない、カチッとまとまった作品だった。

郊外の平和な中流家庭の様子から始まる。
柔和と誠実と重厚さを絵にかいたような夫シャルル(ミシェル・ブーケ)はパリの保険会社の重役。
その妻エレーヌ(ステファーヌ・オードラン)は夫思いの陽気で快活な妻。
息子が一人いる。

映画が絵にかいたような幸福な家庭を描写するとき、観客は夫と妻にその闇の有無を想像する。
特にシャブロル作品においては。

シャルルとエレーヌと息子の幸せな家庭

注意深く観察すると、シャルルの柔和な表情には、他人に対して疑い深い性格や、ひとたび疑ったらいつまでも執着する粘着気質の影を見てしまう。
妻エレーヌの振舞いには、自身の秘密と本音を隠すような不自然さが見え隠れしてしまう。

エレーヌとシャルル

果たしてエレーヌは、パリに出かけるときには不倫相手と密会しているのであった。
探偵を雇い、確証を得たシャルルはなんと不倫相手の部屋に乗り込む。
『私たち夫婦はお互いに干渉しないのです』といいつつ、最大の妻に対する干渉行為を無自覚に行うシャルル。
彼の気質は粘着気質のほかに、衝動を抑えきれない性質もあった。
最初は親し気に見せていた両者が、ひょっとした瞬間にシャルルの本心(妻への嫉妬、執着)に触れ、衝動的に相手を殺害する。

偶然からエレーヌと知り合い、不倫相手となる男にモーリス・ロネ。
60年代当初のプレイボーイぶりも衰え、自覚もないまま有閑マダムの暇つぶしの相手となる、自らも離婚経験者の中年男として登場する。
しかもあっという間に殺された後、ご丁寧にシートで包まれ、池に沈められる。
これって「太陽がいっぱい」(60年 ルネ・クレマン監督)の揶揄であり、何より当時の二枚目俳優だったモーリス・ロネ自分自身のパロデイではないのか。

こういったさりげない、悪意と区別のつかない揶揄表現はシャブロル作品の特徴としてほかにもよく見られる。

殺人の後、白昼、事件処理を図るシャルルと、不倫相手が急にいなくなって文字通り意気消沈するエレーヌ。
急に寝たきり状態に陥ったように元気がなくなる妻というのもすごいが、不倫相手しかこの妻の生きがいというものはないのか(多分そうなのだろう)。

妻エレーヌ

この作品の基底を流れる緊張感は、殺人事件とその処理のスリルだけではなく、生きがいを失ったエレーヌの喪失感と、妻に執着するシャルルの焦燥感によるものであることがわかる。

不倫相手の失踪で警察が動き出す。
モーリス・ロネの手帖からエレーヌの存在が割り出される。
シラを切り続ける夫婦のもとに刑事が通い続ける。
この二人組の刑事、セリフなしの方が「太陽がいっぱい」でアラン・ドロンを突け狙う眼光鋭い刑事役に似ている。ここもシャブロルは、かの作品をパロったのか(考えすぎか)。

何度目かの刑事のお出ましにシャルルが対応する。
シャルルは遠くから心配そうに様子を見るエレーヌ親子に振り返る。
それは『とうとうバレたよ』という仕草なのか、『大丈夫だよ』ということなのか。
エンデイングとなる。

シャブロルがご執心?の「太陽がいっぱい」でも、我が世を謳歌していたドロンが、ロネのシートにくるまった死体がヨットとともに流れ着き、刑事がやって来る場面で終わったのだった(違っていたらゴメンナサイ)。

特集チラシより

ステファーヌ・オードランは、ブルジョワ女として前面に立つより、夫の影に隠れて不倫に生きがいを見出すような傍役の方があっている。
本作の主役は仮面の下の粘着気質と焦燥感を絶妙に表現したミシェル・ブーケだった。

上田映劇看板

「肉屋」   1970年   クロード・シャブロル監督   仏・伊合作   上田トライムライゼ(デジタル上映)

インドシナなどで極限の戦場を経験し、刺殺行為が自らの性癖となった男が故郷の肉屋を継ぐ。
その村の小学校には、児童や村民に慕われるオールドミスの教師がいた。
村の結婚式で知り合った肉屋は彼女を慕い、好意を抱く。

フランスの農村にロケし、『村の住民に捧げる』の字幕で始まるこの作品。
観客は『シャブロルの映画だから、いつ平凡な住民が日常の落とし穴に落ち込み、殺人事件が起こるのか』と先を予測することになるが、作品は観客の予測をもてあそぶかのような、陽気な村の結婚式の場面で始まる。

エレーヌと肉屋は村の結婚式で出会う

肉屋を演じるジャン・ヤンヌは一見おとなしく腕利きの職人風に見えるが、常に戦場での極限体験を話すなど、鬱屈した粘着気質を滲ませる。
その肉屋のぎこちないアプローチを受け入れて、部屋に招き、授業中の教室に招き入れたりする女教師は、周りからエレーヌ先生(マドモワゼル・エレーヌ)と呼ばれ、すっかり村に溶け込んでいる。

ステファーヌ・オードランが演じるエレーヌ先生は、肉屋を受け入れ個人的に付き合っているかのようにふるまうが、それ以上の交渉はない。
彼女のセリフで『10年以上前、相思相愛の男性がいたが、別れた傷を忘れるために村に赴任した』と過去が明かされるが、果たしてそれ以外にどんな秘密や心の闇があるのかは明かされない。

肉屋と歩く、くわえたばこのエレーヌ

連続殺人の犯人が肉屋だとわかったエレーヌは、屋外からいつものように『マドモワゼル・エレーヌ』と許しを請うように呼び掛ける肉屋の入室を断る。
地下室経由で入ってくる肉屋に恐怖を感じるが叫びはしない。
どんな危機的な場面でも、ヒロインが決して叫ばないのがシャブロル流だ。
シャブロル映画で危機に陥るヒロインは、被害者ではなく共犯者なのだから。

侵入した肉屋の『先生とキスをしたかった』という告白と、ナイフで自らの腹を刺す行為を黙って見聞きした後、エレーヌは、周りに助けるを求めるでもなく、自分の車で彼を病院に運ぶ。
病院でストレッチャーに乗せられた瀕死の肉屋を見送るエレーヌの表情にはかすかな笑みがあった。

家業を継ぐ肉屋。左は店の先代(村人が出演?)

戦場で人間としての精神的醸成を絶たれた肉屋と、過去を捨てて逃避した女教師との関係は、平時には補完的なものであり、非常時には共犯的なものとなった。
人間として永遠に未完成な存在(肉屋)は、心の中に巨大な喪失感を抱える教師にとっては、永遠の生徒のようなものだったのかもしれない。
いつも付きまとい、夜になると窓の外から甘えたような声をかける肉屋と、性愛抜きでそれを受け入れるエレーヌ(しかも彼女は学校の2階に住んでいる)の関係は、まさに先生と出来の悪い生徒の永遠の悪夢そのものだった。

事件の発生とともに村にやって来る警察。
刑事は『全く手掛かりがない』といいながら、エレーヌと肉屋にぴったり貼りつく。
シャブロル映画の刑事たちは「不貞の女」の時と同様に野生の獣のような嗅覚を持っている。

特集チラシより

作品のヒロインを演じた、ステファーヌ・オードランは、この時のシャブロル夫人。
「女鹿」や「不貞の女」でのブルジョワ女性役から一転、過去に闇がありそうだが現実社会に適応し、周りに慕われる教師という、いわば庶民の役。
この教師のようなミニ丈のワンピース姿で、くわえたばこで村を闊歩するような、ざっくばらんな仕草の訳あり庶民役が彼女に似合うと思うのは筆者だけでしょうか。

ブルジョワ女性役の「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(72年 ルイス・ブニュエル)もよかったが・・・。

トラムライゼの看板

令和8年の夏③ 東北、函館旅行

夏の家族行事、山小舎での登山に次いでの第2弾は、東北と函館への3泊旅行でした。

行程は、秋田の玉川温泉で1泊、青森で1泊、函館で1泊です。
初日は朝の東京駅に集合し、東北新幹線で盛岡に行きました。

朝の東京駅ホーム
盛岡に到着

夏の盛りの盛岡で冷麺を食べました。
駅前のぴょんぴょん舎は観光客で1時間待ちの盛況でした。

レンタカーを借りて秋田方面を目指します。
途中の雫石あねっこという道の駅に立より。
三陸産のカキが蒸していたのを立食いしました。

道の駅・雫石あねっこにて

田沢湖をかすめて八幡平の温泉ルートを北上、新玉川温泉に投宿です。
玉川温泉はいつ来てもとても体に良いと感じる温泉です。
眠い時に入ると眠気が飛び、後ろ向きな気持ちも前向きになります。
いい温泉は体にだけではなく、心にも効くのです。

レンタカーで八幡平を行く

体と心にしみ、癒す温泉に浸かり、地元の食材を生かしたバイキングを楽しみます。
別料金でオーダーできるカウンターで、秋田の地酒を楽しめるのもグッドです。
インバウンドも少なく騒然とした雰囲気もない、新玉川温泉の宿でした。

翌日は、青森までのドライブルートです。
八幡平を抜け、鹿角へ出ます。
田んぼが広がる秋田内陸部の風景です。
敷地を囲むフェンスもなく、プールが低いフェンスに囲まれただけの学校があります。

高速道路で弘前を目指します。

高速を降りた前方には津軽富士と呼ばれる岩木山がそびえています。
やがて、津軽の都、弘前の街中に入りました。
弘前では虹のマートという市民市場で海鮮の食事の後、弘前城へ。

立派な門を持ち、広々とした城内を歩いて天守閣へ。
1800年代に再建されたという天守閣は修理のため天守閣ごと移動修理中でした。
そこそこ観光客はいるのですが、混雑した感じが全くしないのは東北という隔絶された地域性なのでしょうか。
私は好きですが。

弘前城へ
大手門?を潜る
天守閣は修理中

そこから青森市内へ。
レンタカーを乗り捨てて駅近くのホテルへ投宿します。

何年ぶりの青森市内でしょうか。
駅建物から駅前通り、駅周辺の何と様変わりしたことか。
観光地のように表面的な賑わいに溢れ、そこらじゅうをインバウンド客が往来しています。
青森市は観光で蘇っていました。
観光客を迎える売店などの施設も充実しています。

インバウンド客の中国語が飛び交う居酒屋での夕食。
出てきた刺身がとても新鮮だったことと、店員の激しい青森訛りのイントネーションが、青森までやって来た実感を掻き立てます。

ついでに娘の婿さんと地元客100%のカラオケスナックへ。
イカと大根の煮物の付け出しに、東京の飲み屋の3倍は濃い水割り、安すぎるお勘定。
同年代のママさんの働きぶりを見、同年代のお姉さん客の青森訛りのイントネーションが残るカラオケを聞きながら、涙が出そうな青森の一夜を過ごしました。

翌朝は6時起きでフェリーに乗船し函館を目指します。
津軽海峡フェリーが函館までを4時間で結びます。
フェリー乗り場が、青森駅のホームと直結していた青函連絡船とは比べ物にならない遠方にあるのでタクシーで移動します。

津軽海峡フェリーに乗船する

フェリー内部は、外の景色を眺められるシート席のほか、伝統的はカーペット部屋、個室もあるようです。
慣れた人は窓側のテーブルに早速陣取っています。
船内に食堂や売店はなく自販機のみですが居住性はいいようです。

カーペット船室
公開中の甲板

函館に着きました。
函館のフェリー発着場所も、何となく函館駅周辺をイメージしていたのですが、着いたのは遥か離れた七重浜。
JR駅、市電乗り場とも遠く離れた場所でした。
とっくに函館は連絡船世代を脱皮して、新たな世紀に足を踏み入れていたのです。
当たり前か。

次男の先導で最寄りのラッキーピエロで昼食です。
ラッキーピエロは函館の名物バーガーショップで、私も既に何度か利用しています。
この日の同店は注文まで30分、注文から席に届くまでが45分の大混雑。
しかし孫たちはオムライスを食べて満足でした。

ラッキーピエロ七重浜店?にて
大混雑の店内

ここから次の目的地、五稜郭への移動がまた大変。
バスの便が間に合わなければ歩くか、タクシーしかありません。
2台目のタクシーを待つこと20分。
着いた五稜郭は観光客で大混雑でした。

五稜郭タワーから望む五稜郭

青森とはまた違う、函館の筋金入りのピンポイントな混雑ぶりに当てられながら、夕方前に宿泊地の湯の川に到着。
広々とした和室にゆったりします。
夕食と朝食は旅館で摂り、ゆっくりと湯につかって一晩。

勇の川温泉で泊まった旅館

翌日は市電に乗って、帰りの飛行機の時間まで、若い一家は函館山ロープウエイへ、我々一家はベイエリアや、またまたのラッキーピエロ(この日の十字街店は空いていた)で過ごしました。

湯川から十字街まで乗った函館市電
市電で十字街電停へ

ハードスケジュールでしたが、孫二人は元気いっぱいでした。
夏休みの良い思い出となったことでしょう。

ベイエリアの倉庫街
函館港

令和8年の夏② 孫と蓼科山登山

今年の夏の一大イベントは孫たちとの蓼科山登山です。
これに参加するのは大人4名、子供2名の計6名です。
参加予定だった山小舎おばさんの姉(山小舎おじさんと同年生まれの独身)が参加予定も、坐骨神経痛で急遽不参加となりましたが。

朝8時前にはおにぎりをもって出発。
駐車場は満車でしたが、車列の間に1列停めるスペースがありました。
7合目登山口で記念写真を撮ってスタートします。

しばらくは山小舎おじさんが案内を兼ねて先導。
次男に買ってもらった登山用ストックとキャップが重宝します。
小学3年生の孫に合わせて数えきれないほどの休憩を取ります。
靴擦れがしたといっては手当てをして登ります。
コケが広がったり、キノコが見えるなど高山の風景が楽しませてくれます。

足元不安定な登山道を行く

登山道らしき道を過ぎ、まっすぐに切り立った幅広いスペースを蛇行しながら登ってゆきます。
岩や石が転がっており、砂利のすべり止めに丸太まで転がっているワイルドなスペースです。
ここを思い思いにルートを決めて登れというのが蓼科山登山の流儀です。
斜度も急で、足元が滑ります。
若い人でなければストックがなければ上るのが困難です。

行違う登山者に『頑張ってるね』、『偉いね』などと3年生の孫は声をかけられます。
なるほど蓼科山は目的を持った大人の登山コースなのでした。
目的は百名山踏破だったり、蓼科神社の御参りだったりするのでしょうが。

やっと将軍平に到着。
3年生はぐったりしています。
早めの昼食を山小屋のテラスで摂った一行は元気回復。
その勢いで頂上までの急坂に挑みました。

将軍平から山頂までの崖登り
何度も休憩して山頂を目指す

『ここまで来たら戻ることはできないし、進むしかないよ』とママの激励を受けて3年生は覚悟を決めています。
当方も自分のことで精いっぱいです。

頂上では眼下を行く雲を眺め、八ヶ岳連峰の連なりを見ての休息。
夏の蓼科山を楽しみました。
山登りは頂上まで行ってナンボ、と思いました。

標高2530メートルの蓼科山山頂

帰りの道のりがまた大変でした。
いつまでたっても砂利の急坂が続く道にげんなりし、皆の口数が少なく成った頃、待望の7合目の鳥居が目に入りました。
一番体に応えたのが70歳の山小舎おじさんでした。
記念撮影の際に体を反転させようとしてバランスを崩して、孫たちのパパに支えられてしまいました(下山途中で滑って、次男に支えられたことも)。

慎重に崖を下って下山

出発してから8時間!の山行きでした。
蓼科山を満喫、もうしばらくは来なくてもいい(山小舎おじさんは最後の登頂か)と皆が思うほどでした。

途中、心が折れそうになった3年生の孫は『今度は富士山に登りたい』と言ってるそうです。

令和8年の夏① 山小舎に孫来襲

今年の山小舎の夏は、8月初旬の孫たちの来襲から始まりました。

最初に孫二人とその母親、叔父がやってきました。
母親とは山小舎おじさんの娘、叔父とは次男です。

夏休みが始まっており、山小舎にも慣れた小学6年生と3年生の孫は、涼しい山小舎の気候に元気いっぱい、余裕たっぷりで乗り込んできました。

週末に父親と祖母がやって来るまで、孫たちは地元のプールへ行ったり、ジィジの畑へ行ったりして過ごしました。

初日は屋外のBBQをしました。

鶏モモ肉を串に刺したり、スペアリブを漬け込んだりして食材を用意します。
テーブルと椅子をセットします。
御向いさんには実施を事前通告しておきます。

山小舎の前の道路にBBQグッズをセッテイング

外でのBBQは気持ちがいいものです。
煙や炎を気にせず豪快に焼けます。
大型のグリルは通気性があり、炭の火力がよく、食材がからッと焼けます。
食べこぼしやテーブルの汚れなどを気にせず盛大に食べられます。

炭に着火する

反面、食材や調味料、食器などの補充には、母屋との往復を強いられるという欠点もあります。
食器は紙皿、紙コップを利用し、ゴミ箱を設置、飲み物用の保冷ボックスを用意するにしても、です。

それでも戸外のBBQは大成功でした。
気持ちの良さが違います。
夏ならではの楽しみです。

夜になると花火が孫たちの楽しみです。

花火も夏の楽しみ

夏の山小舎飯

季節の山小舎飯シリーズです。
夏の山小舎食卓には、畑で採れた野菜が並び始めます。

この日のメインは小アジの南蛮漬けです。小アジは安くて栄養豊富な食材です
豚のカシラのモヤシ炒め
買った炊き込みご飯にしそを散らします。イワシのソテーと食べます
親子丼は手軽にできるメニューです
インゲンの煮物、奥のトマトが畑の産物です。トマトは塩昆布と和えてシソを散らします

ゴーヤチャンプル。お馴染みのトマトサラダを添えます
朝食です。ミニトマトの手前は直売所にあったスモモです。野草茶とともに

盛夏の風物詩 梅の土用干し、夕顔の干瓢干し

盛夏真っ盛りです。
標高1400メートルの山小舎でも、夏の直射日光の威力は殺人級です!

6月に塩漬けし、赤しそが出回ってから塩もみしてアクを抜いた赤しそを埋酢に入れておいた梅漬けです。
土用干しの行程を経て、梅干しに仕上げます。

土用干しは、梅の実を取り出して真夏の直射日光のもとに3日ほど晒す作業です。
ただでさえ保存性の高い梅漬けを、さらに日干しにより殺菌し、半永久の保存性とするのです。

梅の実をザルに上げる
まだ梅酢につかったままの梅

梅と、梅酢に分け、シソはシソで軽く絞っておきます。
それらをザルに乗せて日に当てます。
塩の結晶ができるほどカラカラに干すのが理想です。

実とシソを干す。今年の実はうまく漬かった
小梅も干す

梅酢はガラス瓶に入れたまま日に当てます。

梅酢

土用干しの終わった梅の実を、改めて梅酢につけ込んで終了です。
もう食べられますが来年まで待ちます。
梅酢が蒸発しても、ここまでくると梅は大丈夫です。

畑で収穫した夕顔の実が転がっています。
このままでも料理にして食べられるのですが干瓢にしてみます。
干瓢は、ちらしずしや巻きずしの具になります。

収穫したままの夕顔

適当な長さに輪切りにします。
皮をむきます。

まず輪切りにして
外皮をむく

包丁で実を剥いてゆきます。
ピラーで剥いたこともありましたが、干した後の出来上がりがあまりに薄く、透き通っていました。
包丁で厚みを持って剥くのがよさそうです。

実を剥いてゆく

途中で皮が途切れても気にしないで剥いてゆきます。
種のある実の真ん中まで来たら剥くのをやめます。

芯は捨てる

物干しざおに剥いた皮をぶら下げて乾燥です。
切れた皮はザルで干します。

出来上がりが楽しみです。

物干しざおにぶら下げる
ザルも使う

令和8年畑 盛夏の中、出荷始まる

7月の畑は収穫が順調です。
東京の山小舎おばさんの元への出荷も始まりました。

出荷開始したころの収穫物

今年の畑の特色は、収穫物が多彩化したことでしょうか。

インゲンが山のように採れた
今年はセロリが育った。早くもほおずきが実った

畑は乾燥が進んでおり、乾燥に強いトマトなどが順調です。

トマトは大量に実を結んだ

反面、水を欲しがるキューリやナスなどの収量が少ないようです。
ズッキーニも受粉がうまくいったときには実を結びます。

待望のズッキーニ(右端)
ナスとピーマン
冬瓜の実がぶら下がっている

軽トラ流れ旅’26 群馬県下仁田へ行ってみた

今回の流れ旅は県外の旅です。
天然の要害、山々に囲まれた長野県は、他県との県境には峻険、深々とした山々が存在しています。

然しながら、山小舎から直線距離で測ると、山梨県へはもちろん、群馬県へも案外近いのです。
姫木で親しくしている友人は、自宅がある埼玉大宮地区への行き来に、下仁田経由のルートを使っているようでした(その方はなるべく高速道路を使わない派です)。

山小舎から佐久方面に下り、野沢地区を抜けて富岡街道と呼ばれる道を上ってゆきます。
思ったより緩やかな登りです、交通量もあまりありません。
前方に妙義山?の凸凹した山容が見え隠れします。

やがて群馬県に入ったのか、沿道に”こんにゃく”の文字が目立ってきます。
山奥の人里といった雰囲気がします。

富岡街道沿いの閉店した店。群馬に到着した!

やがて下仁田の町に到着しました。
まずは上信電鉄下仁田駅へ行きます。

上信電鉄下仁田駅全景
駅前の秩序が維持されるように書かれた看板

高崎から下仁田までの私鉄ローカル線です。
忘れられたような昭和の鉄道です。
JRならとっくに廃線にしているかもしれません。
戦前まで続いた生糸の興隆を、高崎から東京方面に繋げる物流手段だったようです。

駅舎内部。がらんとしていない、人手がかかっている
待機する車両。乗ってみたかった。
ホーム側から駅舎を撮ってみる

駅舎は有人で、整備されています。
停車していた車両も現役感があります。

駅前に出ると、昭和感丸出しながら現役の電気店、旅館などがそこそこ軒を連ねています。
味があります。思ったより寂れてはいません。
ここに来なければ味わえない、群馬県ローカルの歴史と匂いが染みついた景色です。

駅前の風景
駅前の風景

駅の近くのAコープに寄ってみます。
地元の物産を物色し、昼食用にから揚げ弁当ときんぴらサラダを購入します。
Aコープは町内唯一のスーパーに当たるのでしょうか、昼間から賑わっていました。

旅人にとってのマスト、道の駅を探します。
国道を富岡方面へ進むと道の駅下仁田があります。
県外の観光客やトラックドライバーが集まる場所です。

道の駅

観光案内所でマップをもらい、立ち寄り温泉の情報を聞きます。
そのあとは構内の直売所へ。
こんにゃくで町おこしをしている下仁田らしく、いろいろな派生商品があります。
野草茶コーナーまでありました。
並んでいる商品には勢いが感じられます。
この地区で意欲的に活動している人々がいることも。

道の駅には上信電鉄の各駅を素材にしたポスターも掲示されていた

食堂コーナーでソフトクリームを食べていると、三々五々集まってきた家族連れやドライバーたちで満席になってきました。
メニューの充実感を見ても、今時の道の駅が地域の外食産業の中核を担っている様子がわかります。
私もこの道の駅で昼食を摂ることにして、外のテーブルに弁当を広げました。

この日の昼食。下仁田スペシャル

町の中心部に戻って、歴史館という博物館に寄ってみます。
歴史館の中心的な展示は生糸についてです。
カイコを飼って、繭を富岡の製糸工場へ出荷するのが明治以降の下仁田の一大産業だったのです。
富岡の製糸場と合わせて、下仁田の風穴が世界遺産になっています。
風穴にはカイコの卵を低温保管し、適宜出荷する保管場所があったのです。

町立歴史館。館内は撮影禁止

下仁田から信州佐久に至る街道も、中山道の脇街道としてかつては関所などもあり、信州との交易なども盛んだったとのことです。
今の下仁田の町の大きさ、鉄道の存在などを見ても、街道がもたらした歴史の重さを感じます。

下仁田の旅の仕上げは立寄り温泉です。
観光案内所で推薦の、清流荘を探します。
道幅狭い山道に清流荘はありました。
受付で声をかけますが返事はありません。
無為な時間が流れています。

清流荘の看板

無人の露天風呂へ入ります。
取材に来たことがあったのでしょうか、テレビプロデユーサーの推薦の言葉が飾ってあります。
その言葉に従い、低温の源泉につかりますが、冷たすぎて効いたのかどうかわかりませんでした。
鶯の声が間近に聞こえる野趣豊かな露天風呂でした。

立寄り湯は露天ぶろで
これがその看板だ
無為に過ごす露天風呂の湯

カンカン照りの暑さが残る中、富岡街道を取って返して下仁田の旅を終えました。