クロード・シャブロル

『ヌーヴェルヴァーグは、伯母さんの遺産から始まった』という言葉は、シャブロルが当時の妻の祖母からの遺産を短編「王手飛車取り」(56年 ジャック・リヴェット監督)に出資した『事件』のことをいう。
シャブロルはヌーヴェルヴァーグの当事者であり、素人が映画を製作するという『掟破り』の首謀者であった。
ついでシャブロルは自身の長編デヴュー作「美しきセル(58年)を製作、ジャン・ヴィゴ賞を受賞した。
翌年製作した「いとこ同志」は、ベルリン映画祭で金熊賞を受賞し、興行的にもヒットした。
シャブロルは収益を仲間の映画製作に回し、また、ゴダールの長編デヴュー作「勝手にしやがれ」(59年)に監修として名を連ねるなど、仲間の映画製作への協力を惜しまなかった。


クロード・シャブロルは、1930年パリ生まれ。
大学時代からパリのシネマテークに通いつめ、ゴダール、リヴェット、トリュフォーなどと知り合い、「カイエ・デュ・シネマ」誌などに寄稿するようになった。
同時に探偵小説を書き発表してもいた。
心酔する映画監督は、フリッツ・ラングとアルフレッド・ヒッチコックだった。
売れっ子監督となった60年代には、007をフランス向けのパロデイとした「虎は新鮮な肉を好む」(64年)、「ジャガーの眼」(65年)、「スーパータイガー黄金作戦」(65年)など、タイトルからわかる通りの娯楽作品を連発。
周辺からは『商業映画の監督になった』といわれた。

今回の傑作選は、60年代後半のシャブロル全盛期といわれる頃の3本が集められた。
『時代』が終わり、ゴダール、トリュフォーはともかく、その後の『ヌーヴェルヴァーグ派作家』の映画は、日本では商業路線に乗らず、シャブロル作品を含めて輸入される本数が少なくなっていた中、作品を発表し続けていたシャブロルだったが、この間の未輸入作品は、日仏学院での特集上映などでしか観る機会はなかった。
ミステリーのテイストを生かしながら、サスペンスのみならず人間性の深淵をうかがうシャブロル映画の神髄をこの傑作選の3本に見ることができた。


「女鹿」 1968年 クロード・シャブロル監督 フランス 上田映劇(デジタル上映)
この日の上田映劇は9時開場。
ロビーで入場を待つ筆者に支配人が『おはようございます』と声をかけてくれた。
挨拶を返す。
予告編の後、場内が暗くなって開映。
ブザーこそ鳴らないが映画館で胸が高鳴る瞬間だ。

観客のワクワクする高揚感に待ったをかけるような、暗く、落ち着いた開巻のクレジットは、この作品に限らず傑作選の3本に共通していた。
『まあ高揚するのはまだ待て、これは私の映画だ』とでもいうようなシャブロル映画の始まりだ。
暇そうなブルジョワ女とその日暮らしの若い自己流芸術家の物語。
ブルジョワ女はレズビアンで、冬のサントロペの別荘に若い女を連れてゆく。
若い女は自称処女。
そんな風に見えないこともない、当時28歳になるジャクリーヌ・ササールが演じている。
ブルジョワ女は当時のシャブロル夫人、ステファーヌ・オードラン。
この時期のシャブロル映画の語り部にして狂言回しだ。
自称処女のササールのむせかえるような肉感性。
直截的な肉体表現もラブシーンもないのだが、オードランの前でバスタブに浸かっているシーンと、風呂上りの着衣越しに匂い立つ官能性は、その道を飽きるほど極めた設定のブルジョワ女をも惑わせる。
その完成された美貌と、カメラ映りがよく自信に満ちた表情。
ササールと初めてスクリーンで接する観客は思う、『ジャクリーヌ・ササールって何者?』。

サントロペではもう一人の主要キャスト、ジャン=ルイ・トランテイニャンが登場し、二人の間に割って入る。
最初は男がササールを誘惑し、ササールはそれに乗る。
オードランが嫉妬したのか、男を奪い取り(男に興味がなかったはずなのにメロメロとなる)、今度はササールが嫉妬し返す。
オードランのメイクや服装を真似したりして恍惚とするササール。
映画スターとしての輝きで、地味で実力本位なオードランを圧倒するササールの存在感!
傑作選の3本中、本作だけが日本で一般公開となったことも理解できる。
ササールの輝きは客を呼べるのだ。

ラストはシャブロル映画にお決まりともいえる殺人で終わる。
この作品での殺人は、犯罪を犯す側の愛の完遂であるのだろうか。
それとも様々な映画解説が、シャブロル映画の共通するテーマだと説く、『ブルジョワ的日常の崩壊』を描いたものなのだろうか。
殺す側に驚きもおののきもなく、殺される側に恐怖の叫びもないのは、傑作選の3本に共通している。
おそらく他のシャブロル作品でもそうなのだろう。
車やたばこにこだわりがあるのか、登場人物に銘柄を言わせたりするのもシャブロル流か。
また、別荘の管理人(「不貞の女」にも登場)に毛沢東語録を持たせて革命ごっこのセリフを叫ばせたのは、ゴダールの「中国女」(67年)への風刺か。
勘ぐってゆくと、冬のサントロペの舞台設定にトランテイヤンを登場させるのも、「素直な悪女」(56年 ロジェ・ヴァデイム)への揶揄にも見えないこともないが・・・。

ラスト2分間の映像が途切れた。
フィルム上映の時代にはままあったこと。
ドラマの結末は映った後だったので、そのまま出ようとしたら、支配人が慌てて『映像が途切れましたか?』と観客席に確認に来て、直後に途切れた後の2分間(ほとんどエンドマークの部分)を上映してくれた。
映画好きの魂と、プロ根性を見た。

ジャクリーヌ・ササールは1940年フランス生まれ。
57年の彼女の出世作「芽生え」(アルベルト・ラトアーダ監督)の記事を「映画の友」58年4月号で見つけたので紹介したい。
本ブログでもイタリアンレアリスモの流れをくむ作品として紹介した「明日では遅すぎる」(50年 レオニード・モギー監督)の流れをくむ、思春期世代の淡い感情を主題とした「芽生え」の出演時、ササールは17歳。
見た目が12年後の「女鹿」の時と変わっていない!のに驚く。

監督のラトアーダは「ポー河の水車小屋」(48年)、「アンナ}(51年)と、ネオレアリスモの流れをくむ作品を発表した監督。
「芽生え」でササールの両親を演じるのはラフ・バローネとシルバ・コシナという第一級のキャステイング.。
目論見通り「芽生え」は世界的にヒットし、ササールは一時、ヤング世代を代表する世界的アイドルの一人となった。


「お嬢さんお手柔らかに」(59年 ミシェル・ボワロン監督)、「激しい季節」(59年 ヴァレリオ・ズルニーニ監督)、「できごと」(67年 ジョセフ・ロージー監督)など、話題作、問題作に出演したササールの最後の映画出演が「女鹿」だった。

「不貞の女」 1969年 クロードシャブロル監督 仏・伊合作 上田映劇(デジタル上映
「女鹿」の後連続してモギリに立つと支配人が『2本連続ありがようございます』。
ありがたいのは貴重な傑作選の鑑賞機会をいただいたこちらの方です。
さて、本作は開巻から結末まで緊張感が途切れない、カチッとまとまった作品だった。
郊外の平和な中流家庭の様子から始まる。柔和と誠実を絵にかいたような夫シャルル(ミシェル・ブーケ)はパリの保険会社の重役。その妻エレーヌ(ステファーヌ・オードラン)は夫思いの陽気で快活な妻。息子が一人いる。
映画が絵にかいたような幸福な家庭を描写するとき、観客は夫と妻にその闇の有無を確かめる。
特にシャブロル作品においては。

注意深く観察すると、シャルルの柔和な表情には、他人に対して疑い深い性格や、ひとたび疑ったらいつまでも執着する粘着気質の影を見てしまう。
妻エレーヌの振舞いには、自身の秘密と本音を隠すような明るい振舞いの不自然さが見え隠れしてしまう。

果たしてエレーヌは、パリに出かけるときには不倫相手と密会しているのであった。
探偵を雇い、確証を得たシャルルはなんと不倫相手の部屋に乗り込む。
『私たち夫婦はお互いに干渉しないのです』といいつつ、最大の妻に対する干渉行為を無自覚に行うシャルル。
彼の気質は粘着気質のほかに、衝動を抑えきれない性質もあった。
最初は親し気に見せていた両者が、ひょっとした瞬間にシャルルの本心(妻への嫉妬、執着)に触れ、衝動的に相手を殺害する。
偶然からエレーヌと知り合い、不倫相手となる男にモーリス・ロネ。
60年代当初のプレイボーイぶりも衰え、自覚もないまま有閑マダムの暇つぶしの相手となる、自らも離婚経験者の中年男として登場する。
しかもあっという間に殺された後、ご丁寧にシートで包まれ、池に沈められる。
これって「太陽がいっぱい」の揶揄であり、何より当時の二枚目俳優だったモーリス・ロネ自分自身のパロデイではないのか。
こういったさりげない、悪意と区別のつかない揶揄表現はシャブロル作品の特徴としてほかにもよく見られる。
殺人の後、白昼、事件処理を図るシャルルと、不倫相手が急にいなくなって文字通り意気消沈するエレーヌ。
急に寝たきり状態に陥ったように元気がなくなる妻というのもすごいが、不倫相手しかこの妻の生きがいというものはないのか(多分そうなのだろう)。

この作品の基底を流れる緊張感は、殺人事件とその処理のスリルだけではなく、生きがいを失ったエレーヌの喪失感と、妻に執着するシャルルの焦燥感によるものであることがわかる。
不倫相手の失踪で警察が動き出す。
モーリス・ロネの手帖からエレーヌの存在が割り出される。
シラを切り続ける夫婦のもとに刑事が通い続ける。
この二人組の刑事、セリフなしの方が「太陽がいっぱい」でアラン・ドロンを突け狙う眼光鋭い刑事役に似ている。ここもシャブロルは、かの作品をパロったのか(考えすぎか)。
何度目かの刑事のお出ましにシャルルが対応する。
シャルルは遠くから心配そうに様子を見るエレーヌ親子に振り返る。
それは『とうとうバレたよ』という仕草なのか、『大丈夫だよ』ということなのか。
エンデイング。
シャブロルがご執心?の「太陽がいっぱい」でも我が世を謳歌していたドロンが、ロネのシートにくるまった死体がヨットとともに流れ着き、刑事がやって来る場面で終わったのだった(違っていたらゴメンナサイ)。

ステファーヌ・オードランは、ブルジョワ女として前面に立つより、夫の影に隠れて不倫に生きがいを見出すような傍役の方があっている。
本作の主役は仮面の下の粘着気質と焦燥感を絶妙に表現したミシェル・ブーケだった。

「肉屋」 1970年 クロード・シャブロル監督 仏・伊合作 上田トライムライゼ(デジタル上映)
インドシナなどで極限の戦場を経験し、刺殺行為が自らの性癖となった男が故郷の肉屋を継ぐ。
その村の小学校には、児童や村民に慕われるオールドミスの教師がいた。
村の結婚式で知り合った肉屋は彼女を慕い、好意を抱く。
フランスの農村にロケし、『村の住民に捧げる』の字幕で始まるこの作品。
観客は『シャブロルの映画だから、いつ平凡な住民が日常の落とし穴に落ち込み、殺人事件が起こるのか』と先を予測することになるが、作品は観客の予測をもてあそぶかのような、陽気な村の結婚式の場面で始まる。

肉屋を演じるジャン・ヤンヌは一見おとなしく腕利きの職人風に見えるが、常に戦場での極限体験を話し、鬱屈した粘着気質を滲ませる。
その肉屋のぎこちないアプローチを受け入れて、部屋に招き、授業中の教室に招き入れたりする女教師は、周りからエレーヌ先生(マドモワゼル・エレーヌ)と呼ばれ、すっかり村に溶け込んでいる。
ステファーヌ・オードランが演じるエレーヌ先生は、肉屋を受け入れ個人的に付き合っているかのようにふるまうが、それ以上の交渉はない。
彼女のセリフで『10年以上前、相思相愛の男性がいたが、別れた傷を忘れるために村に赴任した』と過去が明かされるが、果たしてそれ以外にどんな秘密や心の闇があるのかは明かされない。

連続殺人の犯人が肉屋だとわかったエレーヌは、屋外からいつものように『マドモワゼル・エレーヌ』と許しを請うように呼び掛ける肉屋の入室を断る。
地下室経由で入ってくる肉屋に恐怖を感じるが叫びはしない。
どんな危機的な場面でも、ヒロインが決して叫ばないのがシャブロル流だ。
シャブロル映画で危機に陥るヒロインは、被害者ではなく共犯者なのだから。
侵入した肉屋の『先生とキスをしたかった』という告白と、ナイフで自らの腹を刺す行為を黙って見聞きした後、エレーヌは、周りに助けるを求めるでもなく、自分の車で彼を病院に運ぶ。
病院でストレッチャーに乗せられた瀕死の肉屋を見送るエレーヌの表情にはかすかな笑みがあった。

戦場で人間としての精神的醸成を絶たれた肉屋と、過去を捨てて逃避した女教師との関係は、平時には補完的なものであり、非常時には共犯的なものとなった。
人間として永遠な未完成な存在(肉屋)は、心の中に巨大な喪失感を抱える教師的立場にとっては、永遠の生徒のようなものだったのかもしれない。
いつも付きまとい、夜になると窓の外から甘えたような声をかける肉屋と、性愛抜きでそれを受け入れるエレーヌ(しかも彼女は学校の2階に住んでいる)は、まさに先生と出来の悪い生徒の永遠の悪夢そのものだった。
事件の発生とともに村にやって来る警察。
刑事は『全く手掛かりがない』といいながら、エレーヌと肉屋にぴったり貼りつく。
シャブロル映画の刑事たちは「不貞の女」と同様に野生の獣のような嗅覚を持っている。

作品のヒロインを演じた、ステファーヌ・オードランは、この時のシャブロル夫人。
「女鹿」や「不貞の女」でのブルジョワ女性役から一転、過去に闇がありそうだが現実社会に適応し、周りに慕われる教師といういわば庶民の役。
この教師のようなミニ丈のワンピース姿で、くわえたばこで村を闊歩するような、ざっくばらんな仕草の訳あり庶民役が彼女に似合うと思うのは筆者だけでしょうか。
ブルジョワ役の「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(72年 ルイス・ブニュエル)もよかったが・・・。
