早春の多摩川散歩

冬の間の山小舎おじさんの今年のバイトは、テニスコートの管理人とガイドヘルパー。
2月下旬の晴れた土曜日、多摩川の土手沿いに散歩する利用者さんのガイドヘルパーをしました。

利用者さんの自宅を出て、多摩川の土手に上ります。
このあたりは狛江と調布の境目です。
晴れた休日には散歩やランニング、自転車の人たちで賑わいます。

土手の道が整備されたころは、スポーツ自転車の集団が高速で行き来し、自転車同士のあるいは対人の事故をちょくちょく見かけたものでした。

今ではスポーツ自転車のブームが去ったのか、あるいはマナーがよくなったのかは知りませんが、その姿が少なくなりました。

土手の主な通行者は、ウオーキング、ランニングの人たち。
次いでスポーツ自転車とママチャリ。
スポーツ自転車も集団走行はほとんど見かけなくなりました。

多摩川土手の道
利用者さんとは土手下の砂利の道を歩くことが多い

河原は国有地です。
が、多摩川の河原で畑を作っている人がいます。
ビニールハウスを建てたり、鉄パイプで畑を囲ったり、自家菜園にしては本格的です。

昔は橋の下に「サムライ部落」などと呼ばれるバラックの集落があったりしました。
今でも、河原など住協表示のない「番外地」に家を建てて住んでいる人がいます。
私有地の不法占拠は困りますが、国有地である河原の畑は、人に迷惑をかけない範囲であれば、のどかなもの?だと思うのは・・・山小舎おじさんだけでしょうね。

河川敷の自自家農園

一方で、河川敷のあちこちに立っている「調布市占有」の杭。
知らぬ間に河川敷が耕されてしまっては困る行政側の対抗措置でしょうか。

今どきの河川敷、市民サービスのためのグラウンド用地のみならず、花火大会の場所などとしても、調布市としては確保しておきたいところなのでしょう。

もう少し行くと、「多摩川漁業組合」の幟がはためく養魚池がありました。
写真では見えませんが、釣りをしている人が数人います。

釣り堀も兼ねているのか?勝手に釣っているのか?
そして多摩川漁業組合の仕事は何?

漁業権は設定されていてるのでしょうが、釣り人から入漁料を徴収しているという話は聞かないし、漁師の姿も見たことがないし。
渡し船はとっくにないし。

狛江の多摩川岸の貸しボート業のことか?
あるいは残っている土手沿いの食堂みたいなところの営業権のことか?

多摩川の歴史を感じさせる「漁業組合」の幟でした。

漁業組合運営の養魚場

京王相模原線の鉄橋に近づくと、河川敷にグラウンドが現れてきます。
バスケットボール、サッカー、ラグビー、ソフトボール、野球などが行われています。
少年野球の女子チームと思しき子供たちが練習していました。
時代の流れを感じます。

京王相模原線の鉄橋が見えるあたりからはグラウンドが続く
少年野球の試合が行われていた

おととしの台風は、ここら辺の河川敷にも被害を及ぼしたようで、河川の改修工事が延々と行われています。

河原では重機が入って改修工事が行われている

鶴川街道が渡る、多摩川原橋を越えて少し行くと道路に4キロの表示があります。
ここで折り返します。

往復8キロ。
2時間の散歩を終えました。
山小舎おじさんには厳しめの運動です。

利用者さんの保護者から感謝され、雇用先から時給までいただけるのですから、こちらからも感謝したいくらいです。

「マル農の人」

「マル農の人」という本を読んで、「垂直仕立て栽培」という農法を知った。

きっかけは本屋に行ってこの本を手に取ったから。
金井真紀という著者の本が2冊新刊コーナーに並んでおり、となりの「パリのすてきなおじさん」という本のほうが売れていた。

この本のテーマは、道法正徳という1953年生まれのおじさんが伝道する、「垂直仕立て栽培」農法とそれにまつわる物語。

金井著者は、伝道師・道法の個性的キャラクターとその経歴にひかれて取材を始め、道法の農法に影響を受けた人々にまで取材の範囲を広げて本にしている。

瀬戸内海のミカン農家に生まれ、農協の技術指導員を経て、独自の農法の伝道師となった道法。
金井著者の本では、農協組織の一員として決して伝統農法には逆らえない宿命を背負う立場の道法が、独自に編み出した「垂直仕立て栽培」農法を世に問い、その個性を花開かせてゆく過程に力点が置かれている。

ミカン栽培で研究を重ね、従来の指導方法とは異なる「垂直仕立て栽培」で指導結果を上げ、評判になるが、農協の指導方針と合わなかったため不遇を強いられる時代の話は、金井著者の一つのテーマである組織論につながる。

「余計なことをしたら評価が下がる」
「何かを変えることは前任者の否定につながってしまう」
「皆の足並みを乱すことが最大の罪」
伝道師・道法による組織論を、金井著者は聞き逃さない。

山小舎おじさん的には、この本、金井著者の女性らしい柔らかで自由な人間味あふれる切り口に惹かれ入手した。
が、一番気になったのが、「垂直仕立て栽培」農法事態に関する興味で、その農法が、金もかからず、専門的な技術もいらないものである点だった。

「垂直仕立て栽培」のマニュアル本も出ていた

金と手間をかけ、農協が指導する通りに営農すれば、結果が得られるのが、職業としての農業だろう。
高額な耕運機などをそろえ、ビニールハウスなどに設備投資し、肥料・農薬を大量に購入し、たっぷり時間をかけて営農する、のがプロの農家の姿。

ただしそれらは、素人にはいちいち程遠い世界。

その点、「垂直仕立て栽培」では、植物の成長を決定する「植物ホルモン」を活性化させるので、肥料、農薬がいらなくなる!
また、ビニールマルチなどの軽資材は適宜使用するも、基本は不耕起(耕運機等は不要)で石ころもそのままにしておく(過度の手間不要)の農法!

これはまるで全国の素人農家、畑愛好家への福音ではないか。

マニュアル本の1ページ

「わら1本の革命」こと自然農法の福岡正信、「奇跡のリンゴ」こと無農薬リンゴの木村秋則。
エコロジー派が信奉する、これら偉大な先達の境地は彼らが天才だからこそのもの。
「木村さんのやり方は普及できない、一代限りの名人芸みたいなもの」(「マル農の人」117ページ)なのだ。

その点、伝道師・道法の「垂直仕立て栽培」農法や、三浦伸章の「ガッテン農法」は、誰にでも安価でできそうな方法を具体的に提示してくれている。
二つの農法に共通するのは、無理なく最大限の収穫に至る道を具体的に指示しており、主義としての自然農法、エコロジーとは違う実用的なものだという点。

といってもこれまでの常識からすると多分に「スピリチュアル」な傾向もある。
特に「ガッテン農法」での、ネジネジ藁など・・・。

これについては、「常識」と「非常識」の境がなくなってきて自由な発想が許されてきたものと解釈し、結果を持たらすものは大いに取り入れようと思う。

畑の石ころについても素人にはありがたい解説が

こういう時代を迎え、わくわくする気持ちを抑えきれない。
道は開けつつある。

今年は、例年の「えひめAI」散布にプラスして、「ガッテン」と「垂直栽培」でがっちりいきたいものだ。

1978年の「キネマ旬報」

ある日、古本屋の店先にあった古い「キネマ旬報」を手に取った。
100円だった。
当時の映画事情が懐しかったので買っておいた。

表紙は「ダイナマイトどんどん」より。菅原文太は岡本タッチのやくざを演じた

表紙は当時封切りの「ダイナマイトどんどん」。
岡本喜八監督の晩年の快作である。

折込の目次の裏が広告になっている。
名作洋画の題名が並んでいる。(その中には1971年公開の「ジョニーは戦場へ行った」などの最近作も含まれる)
それはレンタル用の16ミリフィルムの広告だった。

折込の目次には多彩な記事が並ぶ
目次の裏は16ミリレンタルフィルムの宣伝広告

いつの間にか時代は変わってしまっているが、この当時、ハード素材としてのビデオも一般には普及しておらず、DVDは開発されていなかった。
映画はデータを変換するデジタル処理によってではなく、フィルムを映写機にかけて、光学的に見るものだった。

映画館では35ミリフィルムをかけていたが、職場のレクレーションや、学生の上映会の素材として、16ミリ版の映画フィルムは需要があったのである。
16ミリ用映写機を扱う技術講習会のようなものも当時あった。

また、当時の16ミリフィルムの流通は、テレビ上映用に16ミリにダビングしていたことと関係があるのかもしれない。

さて、「キネマ旬報」という雑誌。
日本最古の映画雑誌で、日本で上映される邦画・洋画の全情報、業界の動向、作品批評、映画史研究の連載、などで編集されている。
同誌が毎年発表するその年の映画ベストテンは、国内で最も権威あるものとされ、新聞記事にもなる。
ファン雑誌を卒業した、ちょっとヒネた高校生や大学生の映画マニアが手に取る雑誌で、山小舎おじさんが高校生になるころ住んでいた函館の本屋には、1971年のその当時、置いていなかったりもした。

1978年10月号の編集長は黒井和男。

前任(正確には2代前)の白井和夫編集長時代には、無頼のルポライター竹中労が「日本映画縦断」と称して、伊藤太輔監督など先人へのインタビューを中心にした膨大な連載を始めていた。
その前には「映画紅衛兵運動」と題する、映画館などでの上映状況改善を目的とした読者による問題提起の連続掲載もあった。
映画人の間での論争もよく紙面を飾っており、いわば「尖った」ことを厭わない紙面づくりだった。

白井編集長の更迭?により、「日本映画縦断」などの連載は途中打ち切りとなり、「キネマ旬報」は穏便な路線にかじを切っていた。

1978年の「キネマ旬報」。
改めて、上映作品や業界の動向などの情報を広く網羅していることに気づく。
興行成績や、各地のトピックなどをフォローし、文化映画やTVアニメ、映画館やテレビなどの上映情報も欠かしてはいない。
業界誌であり、記録、資料としての役割も備えた媒体であることを再認識できる。

メインの映画評論に関しては、飯島正「ヌーベルバーグの映画体系」、渡辺武信「日活アクションの華麗な世界」など、後に単行本化された連載陣を有し、
品田雄吉、飯田心美、金坂健二、斎藤正治、今野雄二などが作品批評を執筆。
当時の代表的な映画評論家たちで、またキネマ旬報映画ベストテン選出メンバーたちの名前が並ぶ。

連載「ヌーベルバーグの映画体系」。映画史の王道
これはちょっとマニアな映画史か「日活アクションの華麗な世界」

読者の映画評というコーナーがあった。
20歳前後の若い読者が気鋭の文章をつづっている。
若さと観念が隙間なくぎっしり組み合わされたかのような文章に、時代が強く感じられる。
当時の文化的知性の先鋭に憧れ、模倣し、食らいつくかのような気負った若さが、同時代の山小舎おじさんには懐かしい。

読者のフルネーム、年齢、住所が掲載されている点には、トンデモないと感じるより、失われた「いい時代」を思ってしまうのは、おじさんが古い人間のせいか。

「読者の映画評」は力作が並ぶ

当時の映画評論家の文章、読者の投稿文、を見るにつけ、この時代の「キネマ旬報」がいかに文字を信じ、文字で表現しようとしていたかが伝わってくる。

文字が表現の王道だった時代。
選ばれた人に許された文字表現を世に問う世界。
活字による自己表現を許されたエリートたちの誇りと矜持。

活字が詰まった、批評欄を見るにつけ、時代の変遷を感じざるを得ない。

1978年の「キネマ旬報」はまた、小林信彦、赤瀬川原平、小林亜星らによる連載によって商業化、一般化も図っている。
イラスト付きなのは、来るべき「文字表現絶対時代の崩壊」を先取りしているからなのか。

漫画家・赤瀬川原平の連載「妄想映画館」

また、別の観点から時代の隔絶を感じさせるのが「番組予定表」。
この時代の映画文化の学びの場であった、各地の名画座の上映情報を掲載したページである。

番組表の名画座のページ。おじさんには映画文化の墓標に見える・・・

東京だけでも、文芸座、並木座、昭和館、佳作座、大塚名画座、上板東映、パール座、などの名前が見られる。
繁華街と主要駅周辺に、2本立て3本立ての映画館があった時代。
名画座と呼ばれたそれらの映画館は、復活した文芸座を除き現在全滅。(上記番組表の中では、文芸座と早稲田松竹が残存している)

山小舎おじさんの若き日も、上京の折には、情報誌「ぴあ」を片手に名画座巡りをしました。

池袋文芸座の満員でたばこの煙が漂う館内。
上映されていたルキノ・ヴィスコンティ監督の「ベニスに死す」(1971年)は、巻頭から場面が飛び飛び、画面は雨降り、カラーは退色、の三重苦のプリントでしたが、この作品が観られることだけで満足でした。

銀座並木座で観た「雪国」(1957年 豊田四郎監督)。
狭くフラットな館内は、後方席からの鑑賞には不向きな造りで、画面の三分の一程が前の人の頭で見えませんでした。

文芸座「日の当たらない名画祭」の広告。今ではテレビにもかからない名作が並ぶ
オールナイトの番組表。「東宝映画史研究」、今では実現しないであろう番組

「西の京一会館、東の文芸座」と当時うたわれた、名画座の聖地、京都市左京区の京一会館へも行ったことがありました。

京福電車、一乗寺駅を降りた商店街のはずれ。
寂れた建付けと便所臭ただよう館内。
その日は、当時であっても上映機会は稀だった、マキノ雅弘監督の東宝版「次郎長三国志」(1952年~)が4本立てくらいでかかっておりました。
興行価値はともかく、日本娯楽映画の原点ともいえる作品を敢然と上映する姿勢に、さすがは名画座西の雄、と感じたものでした。

京一会館では「酔いどれ天使」をやっている

さて、この号の訃報情報に、中平康監督、大蔵貢社長の名前がありました。

日活の一時代の立役者でもあった中平監督についてはそのチーフ助監督を務めた西村昭五郎監督が巻頭の「フロントページ」欄に追悼の小文を載せています。

一方、新東宝社長としてエログロ路線を導き、今でも新東宝カルトムービーの「発起人」として賛否両論ある大蔵貢については、巻末の「映画界の動き・短信」欄に10行ほどの経歴記載があるだけでした。

新東宝、カルトムービー、ピンク映画など、ニッチな世界に日が当たるのは、その後10年、20年と待たなければならないようでした。

「狂った果実」「紅の翼」で日活を支えた中平監督への追悼文
カルト王・大蔵貢の死に関しては(この号では)これだけの扱い

孫からのバレンタイン

令和3年2月14日。

もうすぐ東日本震災から丸10年の令和3年2月13日深夜に地震がありました。
東京でも突然の揺れに驚きましたが、震源地の福島は震度6であった由。
お見舞い申し上げます。

これも地震が多い日本列島に生まれついた定めなのでしょうか?
ゆめゆめ油断怠らずに暮らしていかなければならないと思う次第です。

明けて14日はバレンタインデー。
もうすぐ6歳になる孫が、じいさん(山小舎おじさん)にチョコレートを持ってきてくれました。
手作りとのこと。

お孫ちゃん手作りのチョコ。まず仏壇に供えました。
チョコを裏側から見たところです

バレンタインといえば、サラリーマン時代に職場で毎年もらいましたっけ。

山小舎おじさんのサラリーマン晩年時代。
職場によっては「義理チョコ」などとよばれた「文化」はすでに廃れていました。
が、たまたまおじさんのいた部署の女性は昭和の文化の継承者なのか、毎年、部署の男性に配ってくれました。
それを持って帰ると子供たちに喜ばれたものでした。

今や季節の風物詩と化したバレンタイン。
こういった文化も続いて行ってほしいと思う、昭和のおじさん。

今年は「逆バレンタイン」としゃれこみ、働いているかみさんに感謝のしるしとして、下の息子とお金を出し合い、チョコをプレゼントしました。
「逆ホワイトデー」が楽しみです。

1983年のシネマテーク

ここに1983年の1月第2週?のシネマテークフランセーズのプログラムがある。
プログラムといってもA4サイズほどの色紙で、上映日時と上映作品の題名、国籍、作製年、監督、出演者程度の情報しか載っていない。

「シネマテーク」という言葉、は現在の日本ではほぼ一般名詞化しているが、もともとは、パリにあるある映画の収集・保存機関の名称。
パリ市内のシャイヨー宮の地下、とポンピドー文化センターの上層階、にそれぞれ上映施設を持ち、様々なプログラムを組んで毎日3本程度を上映する。

1983年当時26歳の山小舎おじさんは、偶然にもパリにたどり着き、根っからの映画好きに火がついて、市内の映画館やシネマテークで観まくったのでした。

山田宏一という映画評論家が、パリに着くとまずは「パリマッチ」を買って上映情報を収集する・・・という話を覚えていた。
実際に「パリマッチ」という情報誌は街角のキオスクで売られており、それを買った。

「パリマッチ」の上映情報は、映画の題名が原語表記されており、わかりやすかった。
当時、もぐりで(正式な労働許可証を持たずに)バイトをしていおじさんは、休みの日に映画館を駆け回り、毎回3~4本を観た。

常時、ハワード・ホークスやヒッチコック、ジョン・ヒューストン、ルイス・ブニュエルなど世界的監督の作品が、街角の名画座で、単品や特集で上映されているパリは、映画ファンにとっては夢のような環境だった。

さらに感心したのが、上映されるフィルムが、傷や欠損のないプリントばかりだったこと。
場末の名画座ではボロボロのプリントがかけられ、外国映画の場合、契約期限が来ると観られなくなる日本とはなんと異なることか、と思ったものだった。

名画座では、「三つ数えろ」(1946年 ハワード・ホークス監督)、「脱出」(1944年 同)、「キーラーゴ」(1948年 ジョン・ヒューストン監督)などを夢中になって追いかけた。

ブニュエル特集でメキシコ時代の諸作品に接した。

テレビでは観ていたヒッチコックの「サイコ」(1960年)、「鳥」(1963年)に改めて感心した。

「アスファルトジャングル」(1950年 ヒューストン監督)、「ハスラー」(1961年 ロバート・ロッセン監督)では明るいだけではないアメリカを知ることができた。

70年代の傑作「ハロルドとモード」(1971年 ハル・アシュビー監督)、「ロンググッドバイ」(1973年 ロバート・アルトマン監督)を観たのも収穫だった。

パリの住所は〇〇通りの何番地、という表示なので、付近の地下鉄駅から街角の住宅案内図をたどってゆけば、目指す映画館にたどり着けた。

フランスでは原語で上映されるので、アメリカ映画はまだしも(といっても英語をよく理解していたわけではないが)、フランスやイタリアなどの映画はちんぷんかんぷん。
アメリカ映画でもセリフで展開するスクリューボールコメディのようなものは理解不能。
細かな内容はあきらめ、映像と雰囲気を追っていた。

封切館は、案内のおばさんにチップを渡さなければならず、敷居が高かった。
それでも、フランシス・コッポラ監督の新作「ワンフロムザハート」やジャック・ドミー監督、ドミニク・サンダ主演の新作「都会の一部屋」は、封切館で観た。

名画座で古今の名作を追いかけつつ、シネマテークにも通った。
シャイヨー宮、ポンピドーセンターともに、会場は毎回ほぼ満員、の印象だった。

どちらも大スクリーンを持つ大人数収容の映画館だった。
建物や調度に古さを感じるシャイヨー宮地下のシネマテーク館内に入ると、「ここの最前列でフランソワ・トリュフォーが観ていたのか」と感慨も新ただった。

シネマテークでは「美女と野獣」(1946年 ジャン・コクトー監督)、「メイドインUSA」(1966年 ジャン₌リュック・ゴダール監督)、「ミュリエル」(1963年 アラン・レネ監督)、などを観た。

ミケランジェロ・アントニオーニ監督の7年ぶりの新作(「ある女の存在証明」)の試写会?がシネマテークで行われる、と聞いて駆け付けたところ、時間前にシャイヨー宮の外まで人があふれていたこともあった。

名作のみならず、バングラデシュやフィリピン映画の特集などもやっていた。
アジアなど第三世界の映画ブームが来る前のことだ。

シネマテーク、手元のプログラムに戻ってみる。
表面?がシャイヨー宮会場の上映予定、裏面?がポンピドーセンター、となっている。

「日本映画における家族」という特集で、「あにとそのいもうと」(1939年 島津保次郎監督)、「一人息子」(1936年 小津安二郎監督)、「西陣の姉妹」(1952年 吉村公三郎監督)、「異母兄弟」(1957年 家城巳代治監督)、などが上映されている。
日本国内でもそうそう行われない、魅力的なラインナップだ。

1982年に亡くなったイブ・シャンピ監督の特集もあり、岸恵子が出た日仏合作の「忘れえぬ慕情」(1957年)が上映されている。

ほかにもフレッド・ジンネマン、ヘンリー・キング、衣笠貞之助などの監督作品が特集上映されており、その古今東西に及ぶ守備範囲に驚くばかりである。

その技術的な発生はもとよりとしても、文化的な成熟度においても、こと映画に関してはフランスに一日の長あり、と思わざるを得ない。
26歳当時の山小舎おじさんはパリで映画の渦に溺れておりました。

「散歩の達人 三鷹・武蔵境・小金井」を歩く

「散歩の達人」という雑誌があります。
主に東京周辺の街歩きをテーマにしています。

自宅の本を整理していたら、2017年3月号の同雑誌が出てきました。
三鷹、武蔵境、小金井特集号。
山小舎おじさんの出没地域と重なっています。
4年前の情報誌を手に自転車で街に出てみました。

三鷹駅南口からまっすぐに南下する商店街の左側にそびえる建物。
1階に入っている東急ストアが目につきます。

この建物は、道幅を広げるため、当時の路面店を吸収した建物だったことを、「散歩の達人」の記事で知りました。
上層部は住宅公団によるアパートになっています。

同号では三鷹駅前市街化住宅をイラストで紹介している

駅前の区画整理や再開発いうと、戦後直後の闇市をビルや地下に統合すること(新橋、渋谷など)や、現在行われている駅ビル、駅直結のタワーマンションの建設(武蔵小金井、国分寺など)などが思い出されます。
こういった区画整理は、「戦後」が落ち着いた昭和40年前後にもあったのですね。

散歩当日の「市街化住宅」。1階には路面店が入居している

2017年の同誌に紹介されていた店がコロナ下で元気に営業していました。

駅北口の旧特飲街に近い小路が賑わっているとの記事
現在の小路。紹介の店も残っています
武蔵境の住宅地にあるイタリア料理店の紹介
総菜でも買おうかと寄ってみたが店は閉まっていた
宅配はしている様子だ

コロナ下(禍)のせいかどうか、4年の間に廃業(休業?)となった店もありました。

武蔵境篇のトップを飾る、団子・ふるさとの紹介
店は閉店して居ました
シャッターに貼られた閉店の挨拶文
小金井のおこわ屋さん
こちらもシャッターが下りています
閉店であることがうかがえます

小金井市前原にある、丸田ストアー。
このストアーは2021年版の「散歩の達人・三鷹・武蔵境・小金井」号にも紹介されている同誌のお気に入り先です。

かつては町々にあった、八百屋、魚屋、肉屋などが集まるストアーだったのですが時流に押され、古い店で残るのは肉屋のみ。
抜けた店舗の跡には花屋、カフェなどが入ってにぎやかに続いていました。

ストアーに入ってゆくと「いらっしゃい」と次々に女性の店主・店員から声がかかり、驚くやら嬉しいやら。
かつてのストアーからちょっとコンセプトを変えて、新しい女性たちの発信の場になっているかのようでした。

東八道路から入った住宅街にあるストアーです
入っている店は代りましたがストアーは元気に営業中でした

たった4年でもこの変貌。
コロナ下(禍)のグレートリセットが起こっているのでしょうか。
それでも山小舎おじさんは、このエリアの散歩が好きです。

八王子を歩く

令和3年の1月。
八王子の街を歩いてきた。

八王子は調布から京王線で30分ほど。
東京との西端に位置する市で独自の文化圏を有する町。

山小舎おじさんが30代前半の時に、八王子にあった職業訓練校に何か月か通ったことがあった。

当時の訓練校は国家直営?
専用の校舎を有し、専任職員が配置されていた。
教室は机・椅子・黒板など、小中高学校と全く同じ造り。

訓練生はクラス委員を選出しホームルームを運営、放課後の掃除当番もあった。
また、クラスメイトは、場所柄か八王子在住の人が多く、言葉の端端から彼らの地元意識を感じたものでした。

駅から続く歩行者専用通路

この日、京王線八王子駅に着いたおじさんは、JR八王子駅方面へ向かい、駅前の商店街を目指します。

まずは古本の佐藤書店。
蔵書は多く、見て回るだけで楽しめます。

ここで古い角川文庫などを買ったことがありました。
1970年代ごろの角川文庫は、公開された洋画をさっそく文庫化し、カバーを映画の場面写真でデザインしていました。
今ではその時代の角川文庫を古書店で見かけることも少なくなっています。

古書・佐藤書房は八王子訪問時に必ず寄る店

昼食は佐藤書店の並びのトンカツ屋で。
600円でかつ定食が食べられます。
子供入場お断りの張り紙があったり、お愛想がほとんどないサービスぶりが特徴の食堂ですが、安く一食食べられてこれで充分です。
少し前まではかつ定食が500円でした。

角のトンカツ屋で昼食

八王子に来たらもう一か所寄るところがあります。
国道20号線沿いの団子屋・伊勢屋です。

団子、もち、海苔巻き、稲荷ずしなどを扱って、地元客で引きも切らない店です。
ここでお土産の団子とどら焼きでも、と思いましたが、今日は定休日でした。
残念。

伊勢谷は定休日だった・・・

国道20号沿いには、ユーミンこと松任谷由実の実家、荒井呉服店もあります。
かつて、職業訓練校仲間だった地元の女性は、単に「アライ」と、この店のことを呼んでいました。
地元と荒井呉服店の密着度をその時感じました。

荒井呉服店もこの日は休み

八王子はかつて繊維産業で栄えた町。
旦那衆が遊ぶ、三業地が栄えたことでも有名で、今でも芸者がいるとのこと。
お茶屋、置屋、料理屋が並んだ三業地の名残りも残っています。

赤線と呼ばれた特飲街はまた別の場所にあります。
今回は訪ねていません。

八王子の花街
粋な黒塀には芸者さんのポスターが
花街には三業組合がありました

これまでのコースは八王子歩きの際の定番コース。
おじさん的にはマンネリ感もぬぐえません。

そこで改めて八王子の全体像を眺めるべく、郷土博物館を探してみることにしました。
初めて訪れる町でそうするように、地元の博物館、資料館を訪ねることのしたのです。

八王子の郷土資料館はJR駅から徒歩20分ほど。

立地といい、建物といい、内容といい、現在の大都市・八王子にはもはやふさわしくないレベルでした。
時代ごとに地域の発展の様子を簡潔にまとめて展示してあるのですが、ありがちな歴史の展示の印象が強い。

特有の繊維産業とそれに伴う町の興隆に焦点を置くようにしてはどうでしょう?
そのためには、周辺地域との原料・物資の交流ルートの変遷を大きく図形化して展示し、また最盛期の八王子の中心街を大パノラマ化するなど、ドラマチックに再構築してはどうでしょう?
などと勝手に想像してしまう山小舎おじさんでした。

郷土資料館の入口

時々訪れたくなる街、八王子。
今度来るときにはどういう姿を見せてくれるのか楽しみです。

JR駅南口にある「ロマン地下」。心躍るネーミング!

冬期間のバイト

山小舎おじさんは冬期間、東京の自宅住まいです。
家族の炊事や、送り迎えなどを手伝っていますが、それだけではもったいないのでバイトをしています。
今年のバイトはテニスコートの受付です。

退職後、調布市のシルバー人材センターに登録していますが、毎年12月から3月までの期間限定で登録しているため、ほとんど仕事の紹介がありません。
今年も期待はしていなかったところ、その期間中の仕事を紹介されました。
市内のテニスコートの受付です。

市のサービス公社が運営するテニスコートの開業時間は8時から20時30分まで。
その間、2時間交代で、5コマ、3組のコート貸し出しをします。
最大15組の利用があります。

受付業務は60代以上の5人で受け持っていて、朝7時前から、20時30分の間を3交代で回します。
山小舎おじさん以外の人は、直接雇われた長期就労者です。

ログハウス風のクラブハウス

今どきの施設運営は、利用者の個人情報管理から、利用者のクレーム対応、建物のセキュリティー運用まで、と幅広く、想像するのんびりした仕事とは違っていました。

クラブハウスの内部。今どきなので喚気に注意している

とはいえ、常連の利用者が多く、金銭出納も頻繁ではないため、先輩諸氏の助けを借りてどうにかこうにかやっております。

月14、5回の勤務で、1日4時間半、というのは我々シルバーにとって丁度よい「社会との接点」になっています。
施設内外の清掃業務も程よい運動となります。

事務室内部からの景色。掃除、見回り以外はここで4時間半を過ごす

夜の8時半になって、一人でクラブハウスの戸締りして帰るのはまだまだ慣れませんが、コートで躍動する中高年のスリムな姿を見るにつけ、「まだまだ頑張らなければ」と思う山小舎おじさんです。

令和3年1月の山小舎

本ブログ的にはあけましておめでとうございます。
もう2月になっていますが。

昨年12月中旬に令和2年の山小舎仕舞いを行い、東京の自宅に帰ってきた山小舎おじさんです。

令和3年になって1月に家族と山小舎の様子を見に行ってきました。

到着日当日の様子です。

到着日の山小舎全景
玄関へのアプローチの積雪量もそれほどではなかった

翌日は大雪でした。

朝から雪かきです
庭の軽トラに積もった雪の量!
温かめの雪が庭木にびっしり積もりました

大雪をついて上田市内までお出かけしました。

玄関前の積雪量を見ると前夜に大雪がふったことがわかります
別荘地内の道路は真っ白です
国道152号線は路面が見えていました

別荘地内でも大雪の日は深夜から除雪作業が入っていました。
気温が高いせいか、国道に出ると路面が融けているのでそれほど危険ではありませんでした。

ということで今年もよろしくお願いいたします。
皆さんのご健康をお祈りいたします。