「小説東映・映画三国志」と「東映京都撮影所血風録・あかんやつら」で読む東映時代劇

2025年新春、折からラピュタ阿佐ヶ谷で「新春初蔵出し・東映時代劇まつり」なる特集上映が始まった。

東映が時代劇映画で一時代を築いた1950年代終盤から60年代にかけての諸作品がラインアップされている。
市川右太衛門、片岡千恵蔵の両御大をはじめ、大友柳太朗、東千代之介、大川橋蔵、そして中村錦之助。

彼らの主演になる、「旗本退屈男」、「丹下左膳」などのシリーズものからチョイスされた上映作品。
これまで上映機会が多かった、千恵蔵の「いれずみ判官」や錦之助の「一心太助」、橋蔵の「新吾十番勝負」などはなく、レアもの中心のラインナップのようだ。

千恵蔵、右太衛門らを主役に据えての時代劇が大衆に受け、1954年には興行収入のトップに躍り出る東映は、60年代に入り旧来の時代劇が飽きられ、やがて任侠映画主流の製作方針へと舵を切ることになる。

戦後一時時代を築いた東映時代劇。
一般的映画本を読むと、黒沢明の「用心棒」、小林正樹の「切腹」などの名作時代劇についてのうんちくは語られていることが多いものの、東映の両御大や当時の若手剣劇スターについて映画評論家が語っている文献が少ない!
各ファンクラブ編の錦之助や大川橋蔵、丘さとみの写真アルバムが発刊されているのは目につくが。
千恵蔵や右太衛門による「正調時代劇」の評価、検証はどうなった?

うんちく派の映画本に刺激を受けてきた地方の映画少年だった山小舎おじさんにとっては、鑑賞の動機もなく、また機会も少ない東映時代劇は、日本映画史上の抜け落ちた分野だった。
それはひょっとしたら忘れられた宝の山なのかもしれない

今回のラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映を機会を前に、まずは手元の映画本2冊をひもとき、東映の歴史と、時代劇スターの変遷について学んでみる。

「小説東映・映画三国志」と「東映京都撮影所血風録・あかんやつら」

「三国志」の著者は大下英治。
週刊誌の記者として、電通、三越事件などに取材したルポで売出す。
題材は政治から芸能まで幅広い。

「映画三国志」(1990年 徳間書店刊)は東映の歴史を小説化し、スポーツニッポン紙に連載したものの単行本。
人物の劇的なエピソードを中心にまとめている。
登場する人物は、映画人に限定せず、親会社の東急電鉄の五島慶太の豪快な振る舞いなどにも大いに及び、一般読者の興味を惹く。

記述内容は参考文献からの孫引きが多いようにも感じるが、読者を飽きさせない劇的な表現に富んでいる。
入門書として最適で、第三者的な視点からの東映史としても貴重な文献だと思う。
東映発足時の戦後直後から、実録映画が登場する70年代までをフォローしている。

「映画三国志」表紙
同、、奥付き

「あかんやつら」は、映画史研究家の春日太一による一連の著作の1冊。
春日は、1977年生まれの若手だが、少年時代から時代劇ファンで大学卒業時には東映の入社試験を受け、研究者となった今でも映画・テレビ・時代劇関連以外の執筆依頼は受けないというファン気質が徹底した人物。
新書で「天才勝新太郎」や「時代劇は死なず!」などを執筆している。

映画評論家の大御所にありがちな、高踏的、芸術志向的、権威主義的な雰囲気とは一線を画した、著者特有の視点から、東映の、特に京都撮影所のエピソードを活写した本作は、記述に当たっての関係者からの聞き取りも多く含まれ、単なる参考文献の孫引きにとどまらない。
東映への親近感とファン気質に満ちた1冊となっている。
50年代の時代劇全盛時代から80年代の五社英雄らによる時代までをフォローしている。

東映の歴史(任侠映画全盛まで)

「映画三国志」と「あかんやつら」をもとに、戦後直後から1960年代までの東映史をひも解く。

東映の前身東横映画は1938年に、東急電鉄の子会社の映画配給会社としてスタートした。
戦後の1946年に映画製作に乗り出すにあたり、マキノ映画や満州映画協会出身の根岸寛一やマキノ光男らの製作陣、スタッフには松田定夫、稲垣浩らを招集し、配給は大映にゆだねる形でスタート。
1947年には第一作「こころ月の如く」を製作した。

1948年には大映との提携を解消、独自の配給を行うようになったが、都市部の繁華街の劇場は東宝、松竹にほぼ抑えられており、地方の劇場との作品別、映画館別の契約に活路を見出すしかなく、業績は低迷を極めた。
同年、マキノ映画時代にマキノ省三(光男の実父)のもとでスターとなり、戦後は大映などに出演していた、片岡千恵蔵と市川右太衛門が重役待遇で移籍してきて観客動員の起爆剤となる。

東映の御大、片岡千恵蔵
御大2、市川右太衛門

まだまだ製作費の工面にも事欠く中、1951年親会社東急の五島慶太は、東横映画、大泉スタジオ、東映配の3社を合併し、製作から配給までを1社で行うことを決定し、新生東映の社長に東急本社の経理担当重役だった大川博を送り込む。
新会社設立にあたって銀行は五島慶太の個人保証を融資の条件とし五島は己の判断でこれを了承した。
大川の仕事は、積み重なった支払手形の期日延長を、手形交換所にお願いすることから始まった。
現場では、マキノ映画、満州映画協会からの現場スタッフらが、徹夜と給料遅配、製作費枯渇をいとわず、番組の穴を1回も空けることなく撮影をつづけ、作品を送り出していた。

1954年、千恵蔵、右太衛門の時代劇本編に子供向けの娯楽版と称する中編を加えた2本立て番組が爆発的ヒットとなり、中村錦之助、東千代之介ら若手スターが主に地方の劇場で人気を博す。
東映は累積負債10億を一気に返済、興行収入で5社のトップとなるまでの業績回復を遂げる。

東映の錦兄ぃこと中村錦之助

1957年、アメリカを視察して帰国した岡田茂の提案により、京都撮影所を拡充し、新たなステージを建てる。
こうして日本初のシネマスコープ「鳳城の花嫁」を製作。

1958年は国内の映画入場者11億人、映画館数7000館という日本映画史上もっとも景気が良かった歳となった。
1960年の東映の国内シェアは1/3ほどにもなり、独走態勢を固める。
スター主義の東映では、千恵蔵、右太衛門の両御大のほか、大友柳太朗、月形龍之介がそれぞれの十八番シリーズで、また錦之助、千代之介のほか大川橋蔵が若手時代劇スターとして人気を博した。

1960年には調子に乗った大川社長が第二東映なる配給網をぶち上げ、製作本数を倍増させたが、収益倍増にはつながらず、かえって映画館主側の不評、製作現場の疲弊を招き、足掛け8か月ほどで解消となった。

1963年、さしもの隆盛を誇った東映時代劇も飽きられ、明らかな興行収入の減少をみた。
東映は余剰人員の配置転換、両御大と旧来のスタッフとの契約解消、若手スタッフを登用しリアルな殺陣による「集団時代劇」に活路を求めたが、観客動員の決定打にならず。
やくざ者の生態を描いた「人生劇場・飛車角」のヒットにより時代劇からやくざ映画へとシフトしてゆくことになる。

1964年、親会社の東急が東映を切り離す。
五島慶太を引き継いだ息子の昇が、何かとうるさい東映の大川社長を切りたかったからだとされる。
これを受け、大川社長は京都撮影所の社員数を1/3の500名体制とする合理化を決め、岡田茂に実施を命ずる。
岡田はテレビ部などを作って配置転換により撮影所の合理化を実現する。

次いでこの時代の個性極まる東映のキーマンたちを点描する。

マキノ光男の映画人生

戦前に日本映画の父と呼ばれたマキノ省三の実子で、兄はマキノ雅弘。
戦前にマキノ映画でプロデユーサーとしての経験を積み、マキノ映画の解散とともに海を渡り満州映画協会に参画するが、理事長の軍隊官僚・甘粕正彦と、典型的カツドウ屋のマキノでは、まったくそりがあわず、ぶらぶらする。

帰国して東横映画の製作立ち上げに尽力したマキノは、満映時代の仲間を引き込んで映画製作することにも注力した。

「困っている奴はどんどん使ってやれ」と各社をレッドパージされた人材を東映に引き入れ、監督の関川秀雄、俳優の佐野浅夫、信欣二などをどしどし使った。
戦前の無頼な映画界で修業し、大陸にわたって軍人官僚のもと現地人と渡り合ってきたマキノにとって、同じ日本人同士、映画製作という目的を一にすれば後は何とでもなる、の心境だったのだろう。

1950年、撮影所の進行主任だった26歳の岡田茂(のちの東映社長)の企画、関川秀雄の監督で「きけわだつみの声」を製作。
戦没学生の遺稿集「はるかなる山河へ」の原作の購入から、内容に干渉する東大全学連との折衝などに、脚本の八木保太郎とともに最前線であたった岡田を駆り立てたのは「こういった映画を残しておかにや、戦友が浮かばれんじゃないか」の心境だった。
岡田も学徒動員で出兵し、空襲を受けた生き残りだった。

1952年、占領軍からの干渉により大映で制作中止となった「ひめゆりの塔」を監督の今井正ごと引き受けたマキノは、今井に対し「周りからごいちゃごちゃいわれても全部はねたる。俺の目的はいい映画を撮ることなんや。右も左もないのや。大日本映画党や!」と啖呵を切った。

女学生役には当時の若手女優陣がキャステイングされた。
今井は撮影前、彼女らに、自分が扮する登場人物の履歴を作文にして提出することをを求めた。
渡辺美佐子、楠侑子ら若手女優陣は口に氷を含んで息の白さを隠しながらずぶ濡れで演技をつづけた。
彼女らは後々、今井を囲んで集ったという。

1600万の予算は4000万円にオーバーし、公開予定は遅れに遅れて正月第二週にずれ込んだ。
マキノは呼び付けられた大川社長宅で社長の前でわんわん泣いて大芝居を打ち、製作続行の了承を取りつけた。
1億8000万円の興行収益を上げたこの作品は東映起死回生のヒットとなった。

「ひめゆりの塔」
「ひめゆりの塔」

1955年、満映に渡った後、長く中国に抑留されていたマキノの盟友・内田吐夢監督の復帰第一作「血槍富士」を製作。
槍持ちの下郎に扮した千恵蔵が主君の仇と、槍を振り回し、泥にのたうっての7分間の立ち回りが圧倒的で、3週間続映のヒット作となった。

「血槍富士」

1956年、マキノは再び今井正と組んで「米」を製作。
農村の四季を取り入れた脚本は、戦前に「土」を書いた八木保太郎を想定した。
マキノと八木はこの時絶交状態だったが、心配する今井に対し「冗談やない。いいシャシンをつくるのに、喧嘩もへったくれもあらへんで」と答え、八木に脚本を依頼した。

例によって遅れに遅れて完成した今井正監督の「米」は、その年のキネマ旬報ベストワンをはじめ各賞を総ナメ。
東映現代劇の起爆剤となり、その後の「爆音と大地」(1957年 関川秀夫監督)、「どたんば」(1957年 内田吐夢監督)、「純愛物語」(1957年 今井正監督)など現代劇の秀作が生まれるきっかけとなった。

「米」を演出中の今井監督

満映帰りの映画人の面倒を見、レッドパージ組の受入れるなどはマキノ光男の懐の深さを物語るが、根本は「映画は当たってナンボ」の精神が徹底していた。
「客のことを忘れたらアカンで。暇があったら小屋(映画館)に行って客の顔を見てこい。」「松竹、東宝は山の手志向や。それなら東映は浅草の客を目標にする!」と、ジャリ掬い、薄っぺらな紙芝居と一部の文化人に蔑まれていた大衆娯楽主義を徹底した。

1957年、脳しゅようと診断されたが、手術をはじめ一切の治療を拒絶。
薬も見舞いに来た錦之助が渡した時だけ飲んだ。
同年9月の東映本社での企画連絡会議には白装束の羽織はかま姿で現れ今までの礼を述べた。
まことに古きカツドウ屋そのもののマキノ光男の生涯だった。

東映時代劇を支えた現場の「天皇」たち

マキノ光男が破天荒な映画人生を送っているとき、京都撮影所には「天皇」と呼ばれる、アンタッチャブルな3人がいた。
監督の松田定次、脚本の比佐芳武、編集の宮本信太郎だった。
3人は、東横映画の製作開始に際し、マキノ光男が京都から連れてきた腹心のメンバーであり、マキノの大衆娯楽主義を作品として具現化するときの要となった腕利きたちだった。

松田定次はマキノ光男とは異母兄弟で、父の省三が愛人に産ませた子であった。
監督としての松田は「どうすれば大衆が喜ぶか」を第一に考え、時代劇の約束事として「ヒーローはストイックであり、無敵で不死身でなければならない」に徹した。
信頼するカメラマン、川崎新太郎を専ら起用し、被写体(ヒーロー)を中心に据えるオーソドックスな構図を徹底させた。
松田組は京都撮影所で「お召列車」と呼ばれ、最優先でスターやスタジオを確保でき、正月やお盆用の作品を任された。
日本初のシネマスコープ作品を任されたのも松田だった。

松田定次監督(右は片岡千恵蔵)

脚本家の比佐芳武は、スピード感を脚本に求めた。
伏線設定や状況説明の書き込み、また時代劇特有の儀礼や作法などの描写をやめ、テンポよくストーリーを追った。主人公の登場シーンでは、何の前触れもなく窮地にあるヒロインを救いに現れたりさせるなど、説明のための書き込みをやめ、観客が求めるヒーローの都合のよさに徹した。
「ヤマ場からヤマ場へ」マキノ省三以来の京都映画の鉄則を守ったのが、比佐だった。

「東映時代劇の独特のテンポは宮本新太郎の鋏によって生み出される」と評されたのが、編集の宮本だった。
編集作業の一切を、監督でさえ立ち会わせずに自分一人で行い、目まぐるしいスピードで展開する東映時代劇のを作り出した。
その手法は、説明的だったり凡長なシーンは容赦なく切り捨てたり、長回しのアクションシーンを細かく切りつなげてスピード感を作り出すものだった。
年間100本近い時代劇をほぼ自分一人で編集したという。

3人の「天皇」の存在、その影響力と圧倒的技量は、東映時代劇のまさに心臓部となった。
そのパワーは東映躍進の原動力となったが、反面、新たな価値観や創造性の出現を妨げてもいた。
松竹のデレクターシステムによる監督の権限尊重や、ジャン・ルノワールやのちのヌーベルバーグ派による「作家主義」とは正反対の製作方針が東映の考え方だった。

中公文庫「されど魔窟の映画館・浅草最後の映写」荒島晃宏著

珍しく新刊書店で手に取ってそのまま購入した中公文庫です。
最近は文庫本も高くて、買うのはもっぱら古本屋ですが、この本は面白そうでした。

本書表紙

かつて浅草六区と呼ばれた場所にあった邦画3本立てとピンク映画。
その映画館の最後の日々で映写技師を務めた著者の著書です。

著者は、自由が丘武蔵野館という名画座の映写技師でしたが、同館の閉館とともに無職となり、ハローワークでの職探しと失業保険の給付ののちに、浅草六区に4つの劇場を有する中映株式会社という興行会社に就職することになりました。

著者紹介

もともとは映画専門学校を卒業し、アニメの脚本家として1本立ちしていましたが、投資の失敗の借金返済のため、定期収入のある職を探していたのでした。

「文化的教養と興味を持つ若者が、生活力はないものの、何とか興味の対象との妥協をしつつ、実社会の片隅で生きる場所を見つけてゆく」的な展開に惹かれて頁を繰ってゆきます。

浅草六区の映画館配置図

浅草の3本立て映画館での映写技師の仕事の様子がつづられます。

その時代、映写機の進歩もあり、1作品通しての上映ができるようになっていた。
それまでは約20分の1巻のフィルムの映写が終わると、間髪を入れず隣の映写機にセットしていた2巻目のフィルムを映写しなければならず、映写が終わった巻の巻き取りもあった。
またフィルム切れやピンボケ、フレーム調整などのため技師は上映中は映写室にいなければならなかった。
が、浅草では1作品のフィルムを全巻つないで1台の映写機にセットすると技師は映写室を離れ、映画館の入り口に立って自動販売機への補充や、モギリ、館内のクレーム対応などに従事するのだった。

当時の35ミリ映写機の雄姿

2週間後に仕事ぶりを認められた著者は、邦画3本立ての浅草名画座から、ピンク映画専門館の浅草新劇への配置転換の辞令を受ける。
新劇開館は海外にも名の知れたハッテン場でもあった。
当然それなりの方々が入場してきて、いろいろなことを行う。
発見次第、注意したり清掃したりするのが新劇場スタッフの主な役目でもあった。
ハッテン場の映画館は興行収入もよく、中映株式会社の屋台骨を支えてもいた。

職員仲間のフィルムのつなぎ風景のイラスト

山小舎おじさんも50代くらいの会社員時代に浅草名画座へ通ったことがあります。
競馬の場外馬券売り場の向いにあった邦画3本立ての劇場で、最初は入りずらく、入ってもまたギャンブル場のような無愛想な虚無感が漂っており、三々五々席を埋めていた来場者は、場外馬券の帰りのようなおじさんばかりで、時々叫び声などが響いてもいました。

浅草名画座正面

慣れてくると、館内の音声も織り込み済みで画面に集中できるようになり、「江戸川乱歩全集・恐怖奇形人間」(1969年 石井輝男監督 東映)、「日本暗殺秘録」(1969年 中島貞夫監督 東映)、「激動の昭和史・沖縄決戦」(1971年 岡本喜八監督 東宝)など、ここならではの作品を見ることができた。

また、併映作品には東映任侠ものや実録ものが多く、「仁義なき戦い・代理戦争」(1973年 深作欣二監督 東映)の後半を見て、忘れていた本作での鉄砲玉、小倉一郎のエピソードに触れることもできた。
広島にあった原爆スラムで後遺症に苦しむクズ屋の母親と、寝たきりの妹を抱える小倉一郎がやくざの鉄砲玉として利用され自滅してゆく過程を、気弱な若者像の苦悩として描いており、原爆スラムのあばら家の中で、叩いてもブラウン管のザーザーが直らないテレビの描写など、差別された貧困の表現が印象的だった。

なお、各作品とも上映プリントがきれいで鑑賞時に何の苦痛も感じなかったのも印象的でした。

浅草名画座のチラシ

実は山小舎おじさん、浅草名画座のホームページで支配人とメールのやり取りも行いました。
詳しくは忘れましたが、此方の問いかけに「最近の上映プリントの状態は良いことが多い、特に東映は新しいプリントを自主的に焼いてくれる」とか「プリントを借りたくてもできない作品がある。時期によっては松竹が寅さんものの旧作を貸出停止にしたりする」などと支配人が返事をくれたことを覚えています。
この支配人は、本書の著者の荒島さんではありませんが、気さくで好意的な人でした。

浅草新劇場の上映案内

さて、本書に戻りましょう。
劇場のホームページを立ち上げたり、作品解説を載せたチラシを作ったり、また地域の無料ペーパーにコラムを書いたり、と著者は劇場とかかわってゆきます。

2012年、中映株式会社が映画興行から撤退し、全4館が閉鎖されます。
著者は最後の上映に立ち会います。

それに合わせて短編劇映画の製作を行い、デジタル機材(一部8ミリフィルムを使用)で撮影します。
主役2人のほか、ネットなどで募集したエキストラを使っての最終上映会の様子が著書のクライマックスとなっています。

著者制作作品のエキストラが最終上映に集まる

35ミリフィルム映写の実際の記録でもあり、絶滅した浅草での映画興行の実態の最後の記録でもある本書です。
著者の荒島さんは、現在は澁谷シネマヴェーラで映写技師をしているそうです。

裏表紙

小さすぎる旅 小田急線で江の島詣で

「みんなの居場所」彩ステーションを、地元調布柴崎で主宰する山小舎おばさんから、小田急線の株主優待券をもらいました。
山小舎おばさんは、彩ステーションの利用者からもらったとのこと。
小田急線全線有効(下車した時点で無効)の切符が2枚です。
今回は狛江駅から片瀬江ノ島まで使い、江ノ島観光をすることにします。

株主優待券を手にいざ出発

朝9時に自宅を出発。
狛江駅を目指して自転車で走ります。
いつものルートを端折っていったところ、着いたのは一つ新宿寄りの喜多見駅。
初めての駅でした。

朝9時、小田急線喜多見駅に着く

このまま喜多見から、本厚木行きの普通列車に乗車します。
小田急線の駅は京王線と違い、駅舎も大きく、ホームも広い印象です。
踏切はほとんどなく線路は高架上を走り、またホームにはたいがい乗車扉が設置されています。

本厚木行き各駅電車に乗車

喜多見から狛江。
多摩川を渡って登戸、向ヶ丘遊園。
このあたりは駅前が再開発されており、周辺には高層マンションが建っています。
かつての街はずれの風情はありません。
向ヶ丘遊園というと、20年前はロケット型の回転遊具があたりを睥睨して吊り下がっているのが付近の道路から見えましたが、今ではその片鱗もありません。

小田急線は、鶴川街道に沿って走り、新百合ヶ丘、町田、相模大野を過ぎます。
車窓には丘陵地に点在する住宅や高層マンション群、駅周辺の商業施設群が広がります。
相模大野で小田急江ノ島線に乗り換えます。

相模大野から藤沢まで、江ノ島線で海に向かって南下します。
大和を過ぎると沿線に工場や緑地が目立ってきます。
東京へのベッドタウンの景色から神奈川県ローカルの景色への様変わりです。

藤沢で列車の向きが変わります。
スイッチバックというか、電車が反対方向へ進むため乗り換えて片瀬江ノ島に向かいます。
海が近い雰囲気が漂います。
車中には急に中国系の観光客の姿が増えました。

片瀬江ノ島駅の竜宮城のような造りは昔のままでした。
20年以上前に家族と海水浴に来たことがありますが、江の島へ渡るのは初めてです。

片瀬江ノ島駅に着く

弁天橋という江の島と本土?を結ぶ橋を渡ります。
その昔、江ノ島へ渡るには干潮時には歩いて、満潮時には小舟か担がれて渡ったそうです。
現代の弁天橋を歩くのは半分以上が中国人です。

弁天橋から江の島を望む

島に渡り、最初の鳥居をくぐると仲見世が続いています。
サザエやハマグリの磯焼きの香りをイメージしていたのですが、今時の仲見世はソフトクリームや女性向けの小物など、様々な店が並んでいます。

仲見世への入り口に立つ鳥居

江の島はそれ自体が信仰の島であり、辺津宮、中津宮、奥津宮という三社にそれぞれ海の女神さまが祀れれており、島中を上ったり下りたりしながらお参りする場所です。
それぞれの参道には、団子屋、土産物屋、食堂などが点在しており、休憩や食事には困りません。
また、急な登りの場所ではエスカレーターが整備されて100円ほどで利用もできます。

まずは辺津宮へお参り
次いで中津宮へ
中津宮横の弁財天

お上りさんの山小舎おじさんは、1時間半の鈍行電車の旅と江の島での登りに疲れて、早めの昼食を摂ることに。
慌てて入った食堂のアジ・シラス丼は美味しかったです。

茶店でアジ・シラス定食

中津宮に参拝し、奥津宮へ向かうべく島の奥へ進みます。
石段の上り下りの両側に古い茶店が並び、相模湾が見え隠れします。
これが古い江の島の風情なのか、と思いながら奥津宮に参拝します。

奥津宮へ至る道中の景色
相模湾が見える参道に並ぶ茶店
奥津宮でも御参り

さらに下ると眼前に稚児浜という岩場が出現し、江ノ島神社の元となった洞窟へと続きます。

稚児の浜遠景

洞窟へ入場すると、背の低いトンネルの両サイドに、石仏が並び、最深部には修験者による信仰の跡が残っています。

岩屋の入り口
洞窟内の石仏
洞窟の最深部は江ノ島神社の発祥の地

帰りは島を周遊するルートで、辺津宮の鳥居までショートカット。仲見世を歩いて片瀬江ノ島駅まで帰りました。

時間があったので藤沢駅で途中下車(片瀬から藤沢まではスイカを利用)。
湘南の雰囲気を探しつつ、駅前を歩きました。

湘南の都・藤沢駅前の賑わい

駅正面の小田急デパートには「湘南GATE」の文字があり、江ノ電藤沢駅の改札口まで続いています。
デパート建物は江ノ電の所有のようです。
「江ノ電」の存在に湘南を感じることができました。

デパート内のカフェで地元のマダムたちに交じってしばしの休憩。
地下の食品売り場をのぞき、お土産の鳩サブレーを買って帰りました。
鳩サブレーも湘南そのものでした。

江ノ電が所有するビルには「湘南GATE」の表示
ご存じ湘南の銘菓・鳩サブレー

ママチャリ迷走記2025 野川を下って合流地点へ

国分寺市から世田谷区までの間を走る国分寺崖線と呼ばれる崖。
多摩川に並行して走っており、多摩川の河岸段丘なのか、はたまた本州の中央構造線を形作るホッサマグナのようなものなのか。
後者だとすれば、何百年に何センチかの地殻変動の真っ最中でもありましょう。

この国分寺崖線のがけ下に沿って流れる野川は、国分寺駅前の殿ヶ谷戸公園内の池を出発点に、世田谷の二子多摩川で多摩川に合流するまで、小金井、調布、世田谷区などを流域として流れる。

この日は、愛車のママチャリを駆って、調布の神代団地付近から二子多摩川の合流地点まで、野川沿線を走ってみることにしました。

調布大町付近の野川
神代団地を過ぎる

川の両サイドには散歩やサイクリングにちょうどいい舗道が整備されている野川。
この日は好天に恵まれ、歩道には望遠レンズ付きのカメラを持った高齢者の姿が何人か見られました。

舗道の脇には住宅が立ち並ぶ野川ですが、空き地にはベンチが置かれ日向ぼっこにちょうどいい公園になっている場所もあります。

住宅地の風景が続く野川沿いですが、世田谷区の成城に入るとビジターセンターがありました。
入場してみると、野川そのものや国分寺崖線の紹介のほかに、世田谷区が力を入れている空き家の活用に関する情報提供と呼びかけの掲示が目に入りました。

世田谷区成城にあるビジターセンター

昨今の国レベルでの課題にもなっている空き家の活用を具体例の紹介を通して情報共有し、また新たな参加を呼び掛けているのです。
さすが世田谷区だと思いました。
テーマの設定が最先端です。

ビジターセンターではあ木遣り用の実例報告
地域共生の呼びかけも

世田谷区の取り組みに感心しながら先を進みます。
そこに現われたのが次太夫掘公園というところ。
江戸時代に野川の水を用水として利用すべく掘割を作った場所とのことです。

次太夫堀公園入り口の案内図

広い敷地が公園として保存されており、水田や畑が作られています。
昔の農家が数軒保存されており、かまどや機織り機、いろり、農機具などが現役で使用されながら保存されています。

田圃として使われている土地
小学生が遠足に来ていた

ここを舞台にして、木挽き会、藍染め会、機織り会、稲作会などが活動しており、ボランテイアの区民がリーダーとなっているとのこと。
現役感に満ちた空間となっています。

公園内に保存されている古民家の一つ
木挽き会が行っている玉切り

古民家の入り口に貼られたオオカミの魔除けは、青梅の御岳山からもらってくるとのこと。
軒先には鏡開きで割った餅が干してあります。
いずれにせよ本格的な古民家の活用です。
ボランテイアのプロフェッショナルな活動実績はもちろん、区の財政的にも十分な援助がなければできません。
感心しました。

農家の入り口の魔除け
軒先の鏡開き
畑の葉物

野川に戻り走っていると工場のような建物が川の両サイドにありました。
外環道の東名高速との合流工事現場のようでした。
外環道が練馬の大泉でストップして早何十年。
中央道、東名道とつながるのはいつなのか、地上が無理なら地下でつなぐのか。
この先どう完成するのかはわかりませんが、工事は行われているようです。

外環道工事

そうこうするうちに前方に二子多摩川の高層ビル群が見えてきました。
やがて多摩川の土手に到着。
対岸は川崎の溝の口です。

工事のため実際の合流地点を見ることはできませんでしたが、二子多摩川を目的地として今日のママチャリ迷走を終えました。

二子多摩川の高層ビル
野川の合流点近く

小さすぎる旅 西武多摩川線

調布の自宅からゆく「小さすぎる旅」の第一回です。
西武多摩川線に乗って沿線を見てみようと思います。

ママチャリ迷走記で訪れた、新小金井西口商店街のある新小金井駅は西武多摩川線の駅です。
始発のJR中央線武蔵境から終点の是政まで8キロの路線です。
他の西武線につながってはいません。
大正時代に多摩川の砂利を運ぶために作られた線路が前身とのことです。
今は、府中市是政にある競艇場へ客を運ぶための路線でもあります。

多摩川の砂利採取は昭和の時代に禁止されました。
往時を誇った砂利業者も、知っている限りでは調布の鶴川街道わきに工場が1つ残るのみ。
そこも仕入れ先は北朝鮮だと聞いたことがあります。

かつては川魚業、渡し船、観光などで栄えた清流多摩川。
そこでの砂利採取は、映画「あにいもうと」(1953年 成瀬巳喜男監督 大映)に描かれていました。
「あに」役の森雅之が気性の荒い昔気質の砂利人夫を演じていて、撮影当時の多摩川周辺の風景が見られました。
川の土手沿いにラムネや氷などを売るよしず張りの茶店が建っていて、気の荒い川筋衆の縄張りが息づいている風景が画面から窺えました。

いまの多摩川は、清流とアユ料理に遊ぶ人を運んだ京王閣は、占領軍のダンスホールを経て競輪場となり、砂利を運んだ西武多摩川線は競艇場へ人を運ぶ路線となって生きながらえています。

山小舎おじさんの40年ほど前の実体験でも、当時の踏切を残していた中央線武蔵境駅には、ジャンバー姿の一見してわかるギャンブル客が、多摩川線に乗り換えるためにたむろしているような雰囲気がありました。

今の武蔵境駅は駅前にイトーヨーカドーと高層マンションが屹立し、立体交差となった駅ビルにはこぎれいな飲食店が並ぶ駅です。
西武多摩川線への乗り換え通路を見ても、ジャンパー姿のギャンブラーは見当たりません。

武蔵堺駅南口の風景
駅構内
西部多摩川線への案内

是政行きへの電車に乗ります。

西武多摩川線の車両

武蔵境駅出発後、しばし中央本線と並行して走った多摩川線は、左へカーブを切ります。
やがて国分寺崖線を断ち切って下り、多摩川の河岸段丘を何段か下ってゆきます。
沿線の風景は、住宅地から、旧陸軍調布飛行場であった現関東村、陸軍施設から米軍のゴルフ場に接収された歴史を持つ現野川公園、そして国道20号線、中央自動車道へと過ぎてゆきます。

8キロの旅程を終え、終点の是政に着きました。
下車して周辺を散策。
往時の砂利採取現場の名残を漁ってみます。
是政橋が対岸の稲城市とを結ぶ多摩川の土手にも上がってみましたが、当然ながら砂利採取の名残はありません。
ついでに渡し船も、遊覧ボートも、茶店も何もありません、当然ですが。

是政駅ホーム
是政駅付近の風景
多摩川にかかる是政橋の袂にて
是政駅終点の風景

殺伐というか、無聊というか、寂寥というか。
かつて栄えた産業がすっぽりと抜け去った後の廃墟感が漂う空間に、新しいマンションが場違いな雰囲気に包まれつつも建ち並んでいます。

競馬場前駅へ歩く。物流会社の背後に高層住宅

もう一つの多摩川線のハイライト、競艇場へは一駅歩いて向かうことにします。

レースを開催していない競艇場では場外舟券売り場として開場しており、無料で入場できました。
レース開催時の入場料は100円とのことです。

競艇場の入り口

競艇場が見渡せる2階席はサンルームのような温かさ。
そこそこの入場者がいます。
居心地がいいので小一時間過ごしました。

2階の観覧席
観覧席には三々五々の人出が

当たればデカいが、なかなか当たらない。
ついついはまり込んで身上崩してしまうといわれる競艇。
もともと伝統あるスポーツでも何でもない競艇を公営ギャンブルとして、元A級戦犯の笹川良一に胴元を独占させた経緯や如何。
何十年か前にテレビで盛んに流された「戸締り用心火の用心。お父さんお母さんを大切にしよう」のCMには船舶協会会長の笹川が自ら出演していたっけ。

「投票所」ってなんなんだ

テレビに映る笹川の悪党面がすべてを物語るような競艇というギャンブル。
笹川の顔を見てしまった世代には一生の間忘れられない負のイメージをもたらしてくれた、笹川と彼が胴元を務める競艇。

そして彼の「犠牲者」たるギャンブラーたち。
しかし、この日競艇場の2階に鎮座ましますギャンブラーたちは案外堂々としています。
金銭的見返りが極小なので、そこに経済的に満ち足りた奢りと余裕はみじんもありませんが、だれが何を言おうと俺は自分の好きなことをやっている、という自負がその存在からにじみ出ています。
暗く寒い競艇場も片隅に立つ警備員の、誰かの助けを待っているかのようなおどおどした表情はありません。

ギャンブル依存は金銭的リターンを求めてのことではない、という話を聞いたことがあります。
競艇場に集まる方々は別の意味での生きがいを味わいにここに集まっているのでしょうか。
そうだとしたらこの時代、やりたいことを見つけた方々はそれでいいんじゃないでしょうか。
人生の勝ち組として。

笹川良一には全くその気はなかったでしょうが、ある種の方々に生きがいを場を提供できたのであれば、案外その生涯の悪行の何億分の一かは帳消しにできて死んでいったのかもしれません。

競艇場前駅のプラットホームにて

うすら寒い武蔵境に着いて多摩川線の小さすぎる旅を終えました。

ママチャリ迷走記2025 新小金井西口商店街

年末年始のあわただしさが過ぎた1月中旬、調布の自宅で過ごす山小舎おじさんは、ママチャリに乗るのが日課です。
好きなコースは、国分寺から小平を通って武蔵境へ戻るルート。
その途中で新小金井を通ることがあります。

スバルとICUがある一帯へ出ます。
ICU(国際キリスト教大学)はコロナ前はよく構内を通りました。
今は通りずらい雰囲気です。

通称・緑のトンネルを抜けて
中島飛行機の流れをくむスバル
ICU正門

ルーテル学院の前を通ります。
近い将来、社会福祉学部の学生募集を停止するそうです。
牧師さん養成の学科は残るとのこと。

ルーテル大学生門

中近東文化センターという建物があります。
ネーミングに興味を惹かれるのですが入ったことはありません。
この日は開館だというので見学しました。

昭和天皇の弟である三笠宮が、戦後中近東の研究をしていたとのことで、その収集品や、中近東における日本の調査隊の報告、収集品などを展示する博物館です。

中近東文化センターは開館していた

生前の三笠宮のインタヴュー映像が放映されており、西洋文化への関心が旧約聖書を原語で読むことへつながり、旧約聖書のエピソードの原典が中近東にあることを知った、とのこと。

幕末から現在にかけて、中近東との交流、シリア、トルコなどでの発掘調査などでの日本と現地の交流が続いていることを知りました。

文化センターを出てママチャリで北上。
やがて連雀通りという、三鷹から小金井にいたる東西の主要道路を越えると西武多摩川線の新小金井駅周辺です。

連雀通り

小金井市には、JR武蔵小金井、JR東小金井、西武多摩川線新小金井の3駅があります。
一番ローカルで、忘れられたような駅が新小金井です。
駅横の童話チックな踏切を渡ると新小金井ワールドです。

思わずわたりたくなる、新小金井駅脇の踏切

ますます童話チックな駅舎の前には西口商店街が広がっています。

かわいらしい駅舎
西口商店街のアーチ。時計は止まっている

ママチャリで懐かしくも、さびれて人懐っこい商店街を流します。
チェーン店も大型店舗もない、オール個人経営の商店街には、団子屋、魚屋、肉屋、パン屋、電気屋、中華屋、古本屋などが揃っています。
すべて路面店で対面販売の安心のラインナップです。

西口商店街入り口。車止めの向こうに個性的な電気店

この日はまず古本屋の店先を物色。
1枚300円のDVDボックスから2枚をゲット。
高千穂ひづるの凛々しい女剣士姿が見られる「新諸国物語・笛吹童子/紅孔雀」です。
最近経営者が変わり、品ぞろえと店の雰囲気がよくなった期待の古書店です。

古書店尾花屋
店頭にはDVDボックスが。思わずチェックしたくなります
この日のお買い上げ、計600円

昼食は隣の中華食堂へ。
手書きメニューに惹かれて、タンメンと肉まんを注文。
味は日本人の作った中華っぽいもので期待とは違いましたが、居心地の良い店でした。

古書店隣の中華屋へ
野菜たっぷりタンメンと
天然酵母で作った肉まんを注文。写真撮影了解済み

角の団子屋で、看板娘?のおばあさんから、今川焼を買い食いしようと思っていましたが、満腹なので取りやめ。
残念です。

ここも商店街名物の団子屋
奥には看板娘?が控える
こういった店も

最近開発ラッシュで、チェーン店やファストフード店で賑やかな東小金井駅前を通って帰路に着きました。
これからも立寄りたい新小金井西口商店街でした。

孫たちと登る1月の高尾山

1月のある休日、孫一家の誘いで高尾山に行ってきました。

孫一家は初めての山歩き。
孫の母親である娘は幼少時に山小舎おじさんや弟らと高尾山や小仏城山、陣馬山などに行ってます。

風は冷たいものの良く晴れた日。
京王線高尾山口駅に集合。
電車が着くたびにどっとハイカーが吐き出される改札口です。

この日の高尾山口駅

上の孫はともかく、小学1年生の孫は果たして山歩きに耐えられるのか。
心配をよそに登る気満々の様子で登場です。

到着した孫がダッシュ!

高尾山の登山ルートは、ケーブルカーやリフトのほかに、全面舗装のメインルートを多くの人が使いますが、ほぼ天然の登山道が2本ほど伸びています。
それらはケーブルカーの山頂駅や、その上の薬王院などで合流、分散しており様々なルートで山頂を目指すことができます。

6号路という天然ルートで、ケーブルカー駅を目指すことにします。
植林とはいえ、さっそく山のフレッシュな冷気に触れた一行は早くも生き生きと嬉しそうです。

6号路で山頂を目指す
琵琶滝で御参り

ひと汗かいてケーブルカー駅周辺の賑やかな場所に着きました。
ハイカーの数が断然増えます。
茶店や土産物屋が顔を見せ、サル園などもある場所です。

一休みした後は薬王院を目指します。
天狗を祀る高尾山の信仰の場所は、観光スポットでもあります。
線香の煙もうもうとする本堂前は薬王院の名物です。

薬師堂の参道を行く
薬師堂本堂へお参り

さあ、山頂はもうすぐです。

水洗トイレが無料で使える高尾山の山頂。
行楽客で座る場所を探すのも大変です。
ペット連れ、外国人の姿も多く見かけます。
混んでいる割にギスギスしていないのは、環境がいいせいでしょうか。
富士山の姿がよく見えます。

山頂に到着
おにぎりとカップラーメンの昼食
冬の富士山の姿にパワーをもらう

帰りは4号路という天然の道をとおり、リフトを使って下りました。
リフレッシュできた1日でした。
孫たちも山歩きを好きになってくれそうです。

帰りはリフトで

あけましておめでとうございます。

2025年あけましておめでとうございます。

12月中旬に山小屋仕舞いをし、春までの冬ごもりに東京の自宅に戻っています。

家族らとのクリスマス会、年越しをバタバタと過ごしました。

2025年1月の山小舎の夜明け

年々、季節感が薄らぐ日本の年の瀬、正月を感じています。
正月などの年中行事に限らず、クリスマスなどの外来行事(商業的行事)でも、季節感というか高揚感が薄れたように感じられます。

これも社会の経済的盛り上がりの喪失の結果なのでしょうか?
それとも社会の成熟のなせる業なのでしょうか?
それとも当方の感性の減退のせいなのでしょうか?

新年の山小舎

正月3日からは、孫一家と雪遊びのため山小舎で2泊します。
寒そうです。