3月の山小舎

山小舎を開ける冬の4か月間にあっても、毎月山小舎を訪問している山小舎夫婦です。
3月の訪問は春分の日の三連休に行ってきました。

2月のころとは異なり、雪もすっかり消えた姫木別荘地。
そこまでの国道沿いも大門峠も、雪どころか、土埃が待っている状態。
もちろん白樺湖の湖面もすっかり溶けて春モードでした。

山小舎周辺は雪解け

八ケ岳や蓼科山の上の方には雪が残っています。
遠方に見えるアルプスの山々はもちろんです。

北アルプスを望む安曇野へ

今回の山小舎訪問は、温泉と信州のうまいものを味わうことを目的とし、中日の遠出の目的地は安曇野としました。

安曇野の蕎麦屋。天ぷらの塔にびっくり。このほかに煮物がつく

北アルプスの雪を頂いた山頂を望みながら、安曇野でそばを食べ、おやきや和菓子のお土産を買いました。

山小舎は水道の凍結やトラブルもなく快適でした。
次回は4月の山小舎開きに訪問です。

神保町シアター『俳優・渥美清』特集より 「拝啓天皇陛下様」

「拝啓天皇陛下様」  1963年  野村芳太郎監督  松竹  神保町シアター・35ミリフィルム上映

開巻、メインキャストとスタッフのみのクレジットが流れる。
一芝居あってから、その他スタッフとキャストが紹介される。

同じく野村監督の「張り込み」(58年)では、開巻から30分ほどに渡り、宮口精二と大木実の刑事たちが、夜行列車に乗り込み(宮口精二は座席に座るや否やズボンを脱いでステテコ姿になり)、名古屋、大阪と一晩二晩をかけて、各地の警察署に挨拶をし、佐賀に到着するまでを描写した後に、ようやくメインタイトルとキャスト、スタッフの紹介画面となったものだった。
本作のタイトル場面でも野村監督らしさが出ている。

神保町シアターロビーのレイアウトより。オリジナルポスター

主人公・ヤマショウ(渥美清)が入隊する軍隊の営舎での消灯ラッパ、起床ラッパ、野戦訓練での突撃ラッパのシーンでは、それらの歌詞(変え歌なのか、当て字のようなものか)が画面いっぱいに文字で表される。
消灯ラッパの替え歌?は、軍隊経験のある筆者の父親も時々口ずさんでいたから一般的なものだったのだろうし、軍隊経験者には忘れられないものなのだろう。
戦友と呼ばれる人との関係とともに。

読み書きが不自由で、まともな家庭環境や職場環境を経ていなかったヤマショウは軍隊に入り、三食付きの環境に感謝、感動する。
同日入隊のムネさん(長門裕之)を何かと頼りにし、手助けを惜しまない。
何かとビンタをくれた二年兵(西村晃)が除隊の時に、仕返しをしようと計画するが、ヤマショウの心ねの優しさが邪魔をして果たせず、相撲を取ってしまう。

ヤマショウの人間性に、中隊長(加藤嘉)は何かと目にかけ、規則違反の営倉入りをした際には、その独房で正座してさむさに鼻をすすりながら相対する。
また、中隊長はヤマショウが二年兵になった時に、代用教員上がりの初年兵(藤山寛美)に字の読み書きを教えることを命じる。

二年兵となると威張りくさり、外出許可持にはムネさんとともに兵隊さん半額の遊郭に入り浸り、女郎さんに一丁前の文句を言うヤマショウだが、天皇陛下への忠誠は断固揺るがない。

中支戦線では、戦死した兵隊が『天皇陛下万歳』といわずに死んだことに憤慨し、戦争が終わりそうになると自分の居場所である軍隊がなくなることを心配して天皇陛下あてにかな釘流の手紙を書こうとしてムネさんに止められる。

戦後もヤマショウは逞しく生き続ける。
開拓団や工事現場で働き、自力で食材を調達して生きてゆく。
たまにムネさんに出会えば、生き別れの兄弟の如く喜び合う。
ムネさんは作家として戦中・戦後を生き、結婚してバラックのアパートに妻(左幸子)と住んでいる。

ヤマショウはムネさんと同じアパートの子連れの未亡人(高千穂ひづる)と結婚したがるが、闇買出しを率いる三国人の妾になっている未亡人は歯牙にもかけない。

やがて縁あって別の未亡人(中村メイコ)と結婚が決まったヤマショウだが、泥酔した挙句トラックにひかれて死ぬ。
字幕には『拝啓天皇陛下様 最後の赤子が戦死しました』と映し出される。

戦後の引揚者住宅で、憧れの未亡人(高千穂ひづる)と

この作品を見ていて思い出す映画がある。
一つは「兵隊やくざ」シリーズ。
無鉄砲で軍隊が天国の主人公・大宮貴三郎と、彼が唯一いうことを聞く上等兵の関係が、ヤマショウとムネさんと同じである。
また、どちらも光文社文庫から原作(「貴三郎一代」:「兵隊やくざ」の原作、「拝啓天皇陛下様」:原作と映画化は同名)が出版されていることも共通点の一つだ。

もう一つ思い出すのは「裸の大将」(58年 堀川弘通監督)。
知的障碍者の人間性と彼を通して見える社会、という共通点がある。
「拝啓天皇陛下様」には実際の山下清がワンカットだけ登場している。
セリフもある。

陣暴行シアターロビーのレイアウトより

神保町シアターで終映後、前列の杖を持ったご高齢がこちらに向き直って『続編の方がよかった』とつぶやくように語りかけてきた。
続編は渥美清が軍馬の厩舎員となる別ストーリーの話で、久我美子、宮城まり子などが出るらしい。
『宮城まり子が知恵遅れのこの役で、渥美清と似通ってっますよね』とのこと。
『兵隊やくざとも似てますよね。田村マサカズの言うところだけは聞くような』と合づちを打つと、『田村タカヒロね。(主人公との関係性は)似てますね。』との返答。
ロビーへ出るまで話が途切れなかった。

同好の士が集いながらお互いに『話しかけるなオーラ』でバリアを掛け合っていることが多い映画館ロビー。
10年以上も前に渋谷シネマヴェーラのロビーで、ファンと思しきご同輩に話しかけて怪訝な顔をされたことを思い出す。
その時の特集は「東宝青春映画の輝き」(だったっけ?)。
恩地日出夫監督の「あこがれ」(66年)、「めぐりあい」(68年)が見られることに勝手に舞い上がってしまった自分がいた。

別の日のラピュタ阿佐ヶ谷の上映前のロビーでは、中村錦之助のファンクラブだという中年男子と雑談となり、自費で錦之助作品のニュープリントして上映した話などをうかがったこともあった。

この日、終映後に振り向きざまに話しかけてきた『先輩』は、かつての自分のように映画作品に触発され、どうしても発したかったパッションがあったのだろう。
『先輩』より同好の士と目されて光栄至極である。

特集パンフ
作品解説

自宅の網戸修復で DIY!

自宅の二階ベランダの網戸がベロンと剥がれています。
夏前に修繕します。

破れた網戸

まずはホームセンターで資材と道具を購入します。
資材としては、網と端を押さえるゴム。
道具としては、ゴムを押さえるローラーと専用のカッターです。
専用の道具があると初めての作業でもうまくゆきます。

剥がれた網戸をゴムごと外します。
埃とともに外れてゆきます。
古いゴムは劣化しているので廃棄します。

網をあてがい、仮止めして長さで切ります。
テンションを取りながら、新しいゴムをあてがい、専用のローラーでゴムを押し込んでゆきます。
この時にたわみや、ゆがみができなければ張替え作業は成功です。

網を仮り止めする
ゴムで止めてゆく。専用のローラーが仕事をしてくれる
ゴムで押さえる際にはゆがみやたわみが出ないようにする

網の余計な部分をカッターで切り離します。
専用のカッターがあればうまくできます。

網の余分な部分をカッターでカット

網戸の張替えができました。

出来上がり

自宅の庭木剪定でDIY!

自宅に庭木を剪定しました。

ほったらかしのままだった庭。
モクレンやナンジャモンジャの木、梅の切り株などが雑然と植わっています。
冬枯れの今が剪定の時期です。

家人より伐採の指示があったモクレンとナンジャモンジャを切ります。
のこぎりで切るのは大変です。
木に刃がはさまります。
その上、切り株が長く残ってしまいます。
表の立木は幹が太すぎて剪定すらできません。

のこぎりで伐採した後のモクレンの切り株
玄関前の立木

バッテリー式ハンデイソーを買うことにしました。
近くの販売店で、本体とバッテリーを購入します。
バッテリーを充電し、チェーンソーオイルを充填して試運転します。
のこぎりとは比べものにならない性能が期待できます。

ハンデイソー本体
バッテリーと充電器
オイルの忘れずに用意する

まずは伐採したモクレンの切り株を地上すれすれの位置でカットします。
昔切った梅の切り株や、夏に伸びすぎる庭木を切ってゆきます。
手切りとは比べ物にならない仕事の早さです。

モクレンの切り株もこの通り
古い梅の切り株も根元からバッサリ
ついでにほかの場所も手入れする

ハンデイそーは、無理な使い方をすると、エンストしたり、チェーンが緩んだり外れたりします。
エンジン式チェーンソーと同じ原理の機械ですので慌てないで対応します。

1日置いて、玄関わきの太い庭木の選定です。
毎年、電線にかかりそうなくらい伸びた枝を枝切ばさみで剪定している木です。
ハンデイソーで幹ごとバッサリと対処できそうです。
脚立を持ってきて、隣家に声掛けし車を移動してもらいます。

玄関前の立木には脚立を用意

太い幹2か所をカットします。
体に当たるとダメージがありそうな太くて重い幹です。
切った後の処理も手間がかかります。
山小舎のようにそこらへんに放っておくわけにもいきません。

太い幹ごとバッサリ
散らばった葉っぱやおがくずを掃除
剪定後の立木

木が死なない程度に選定したつもりですが果たしてこの夏はどうなっているでしょう。

ママチャリ迷走記2026 鍋谷横丁から妙法寺まで

さて東京でママチャリで迷走している山小舎おじさん。
この日は路線バスで通った鍋谷横丁が忘れられずママチャリで再訪しました。

青梅街道沿いに展開する昭和っぽい商店街の鍋谷横丁。
環状7号線と青梅街道が交差する高円寺陸橋から、新宿方面に行ったところにあります。

調布の自宅を出発した山小屋おじさんは春の風に吹かれつつ、五日市街道に出てひたすらママチャリで東上しました。
吉祥寺から中野行きのバスルートの踏襲です。

環状8号線で五日市街道に出る
善福寺川を越えて五日市街道を東上する

やがて五日市街道は青梅街道に合流(交差か?)します。
あたりはすっかり賑やかな街です。

青梅街道に出る
青梅街道を走り環状7号線を越える

レトロなアーケードが見えてきました。
地下鉄駅を中心とした商店街が鍋谷横丁です。

飲食店が軒を連ねる一角があります。
下町にあるような昭和な飲食店が並んでいます。
昼間からやっている焼きトン屋、街に溶け込んでいるエスニックの人々。
混とんとした東京の近未来図です。

鍋谷横丁の一角
昼間から煙が立ち上る
エスニック濃度は濃い
お寺の仏舎利もエスニック!

交差点を渡ると鍋谷横丁の古くからの路面店が残っています。
町の歴史の案内板を見ると、横丁が江戸時代からあり、妙法寺というお寺の参道だったことがわかります。
長野の善光寺のおひざ元に、飲み屋街と赤線が広がっていたように、伊勢神宮の参道が”精進落とし”の場であったように、鍋谷横丁が”聖と賤”が交差する場であったことがうかがえます。

この際、妙法寺まで参道をたどってみましょう。
帰る方向でもあるし。

妙法寺参道方面

鍋谷横丁から環7方面へ向かいます。
参道は整備されているわけではなく、街に溶け込んでいるため正確なルートはわかりません。

神田川にぶち当たったので川沿いに西へ向かいます。
そのうち立正佼成会の大聖堂が見えてきました。

途中にそびえる立正佼成会大聖堂の威容

環状7号線に出たので妙法寺の場所を確認すると北方向に戻るとあります。
戻ってみると『和田帝釈天通り』というアーケードがありました。
東京にはいろいろなところがあるものです。
通りに入ってみるとささやかですが味のあるお寺がありました。
この商店街が妙法寺参道だったようです。

和田彫り帝釈天は参道沿いにある

妙法寺はすぐです。
閑散とした商店街を過ぎると、静寂に包まれた仏閣がありました。
広大な敷地を持つ妙法寺です。
人気の少ない境内で御参りします。
いい雰囲気のお寺なのに人気が少ないのは、単に観光地化されていないからだと思われます。

妙法寺に到着
山門をくぐり本堂にお参り
広い境内の妙法寺

45年前にインドの旧カルカッタを訪れたときに、持参した「地球の歩き方」の情報に、カルカッタで活動する『日本山妙法寺』の記載がありました。
行ってみると、インドのほかの公共機関と同様に、お寺は囲いと施錠で人払いされており、中に入ることはできませんでした。
日本人僧侶などの姿も見えませんでした。
『日本山妙法寺』が環7沿いの日蓮宗妙法寺の支所なのか、あるいは何か関係があるのかはわかりません。

帰り道は遠いのですがのんびりと自転車を漕いで春のママチャリ旅を終えました。

ひな祭りのちらし寿司

今年も3月3日になりました。
ひな祭りです。
孫娘にちらし寿司を作って持ってゆきました。

ちらしずしのキモは具の炊き上がり具合です。
シイタケ、干瓢のほか油揚げ、ニンジン、ゴボウなどの具材をちょうどよく味付けして炊き上げることです。

前夜に干しシイタケを水に漬けておきます。
翌日、その戻し汁で具材を炊いてゆきます、昆布を加えてもいいでしょう。
砂糖、酒、みりん、しょうゆで味付けします。
隠し味に、塩麴を加えます。
濃い目に仕上げるのがコツです。

長めに炊いて具材に味を染み込ませます。
その間に酢飯を作ります。

お米が炊き上がったら、寿司桶に移します

研いでから1時間ほど浸水させたお米に、コンブ一切れと酒を少々入れて炊き上げます。
炊きあがったら寿司桶にあけ、すし酢をかけながらほぐしてゆきます。
すし酢は甘めにします。
酢に砂糖を溶かし込んで作りますが、隠し味に塩麴とダシの素を加えてすし酢とします。
照りが出ておいしそうなすし飯になります。

すし酢を混ぜて冷まします

粗熱が取れたら具材を混ぜ込みます。
汁気を軽く絞りつつ、具材をすし飯の上にちらし、ヘラで切るように混ぜてゆきます。

軽く煮汁を絞った具材を混ぜ込みます
パックに詰めて

ちらし寿司本体の完成です。

錦糸卵をちらし、でんぶを散らします。
食べる寸前に海苔の細切りもちらします。

今回のちらしずしも孫たちに好評でした。

この日はお稲荷さんも作りました

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映より 任侠映画のヒロインたち ⑥ 松原智恵子

松原智恵子は1945年岐阜県池田町生まれ。
実家は名古屋で銭湯を経営するが1959年の伊勢湾台風で父親を失う。

高校時代に日活の『ミス16歳コンテスト』に中部代表で出場したのをきっかけに日活入社。
1961年に映画デヴュー。吉永小百合、和泉雅子とともに『日活3人娘』と呼ばれた。
舟木一夫や西郷輝彦の歌謡映画のヒロインを務め、日活がニューアクションと呼ばれる路線に企画変更すると、渡哲也主演の「無頼シリーズ」などで相手役を務めた。

日活時代の松原智恵子

1971年、日活の一般映画製作中止を機に退社。
主にテレビに活動の場を移す。
その後も、ヴァンプやおばさん役に崩れることなく正統派の熟年役として現役続行中。


「昭和残侠伝 吼ろ唐獅子」  1971年  佐伯清監督  東映東京作品  ラピュタ阿佐ヶ谷・35ミリフィルム上映

「昭和残侠伝」シリーズ全8作の7番目の作品。
全共闘世代に支持を受け、東映の任侠映画で最も収益を上げたシリーズだといわれる。

このシリーズのコンセプトは、ヤクザの仁義、筋、男のプライド、そういった精神に対する礼賛であり、企画を推進しているのは、東映に出入りしていた俊藤浩滋であった。

おそらく上映当時も、観客のほとんどはヤクザのプライドなど、絵に描いた餅であると信じてはいなかった。
ヤクザが、必要悪としての側面は持ちつつも、どんなに世事に汚く、道理に反した、世の中のクズであるかは万人にとって自明の理だった。

オリジナルポスターその1

東映の任侠映画が一時的とはいえ、日本映画史に残るエポックメーキング足りえたのは、高倉健というスターが存在したからだった。
時代劇映画全盛時代に東映が全国トップの興行収入を上げたのは、千恵蔵・右太衛門という歌舞伎出身の2大スターが豪華絢爛なチャンバラ絵巻を繰り広げ、全国津々浦々の日本人に夢を与えたからであり、任侠映画がつかの間の全盛を迎えたのは、1970年前後の大学紛争後の虚無感漂う大衆のルサンチマンをしばし解放せしめる象徴・高倉健(藤純子も?)がいたからだった。

ただし時代劇映画全盛時代の東映が、千恵蔵・右太衛門ありきだったのに対し、任侠映画の出発点は俊藤浩滋という企画者だった(彼をホイホイと持ち上げる、岡田茂という『不良性感度の高い』映画が好きな、製作責任者がいたこともある)。
俊藤(藤純子の実父)がヤクザの実物たちとともに東映撮影所に持ち込んだものは、仁義、義理、筋などの任侠道といわれる価値観だったが、それらは彼らの自己正当化には役に立っても、世間的には通じるものではなかった。
世間は、ヤクザが、強きになびき弱きをくじくゲスの感性の持ち主であること、勝手きわまる心持と即物的価値観の礼賛者であることは知りすぎるほど知っていた。

たまたま任侠映画の主役高倉健の10年に1人のスター性があったことから任侠映画は観客に迎え入れられた。
そして「昭和残侠伝」シリーズも8作目を迎えることとなった。
あと1作でシリーズ終焉となることを知ってか知らずか・・・。

プレスシート

ということで「昭和残侠伝 吼ろ唐獅子」を見る。
高倉健扮する渡世人が、ヤクザの正義感たる『仁義を通す』『筋を通す』『落とし前をつける』を連発して、腐った親分と、親分の妻と駆け落ちした子分の間を右往左往する、という筋立て。

さすがに無理筋だろう、健さん。
男女間の駆け落ちに人情をかけるためにやくざの価値観は使えないだろう、と思いつつ画面を追う。
ところが、というか、やはりというか、健さんは硬直的に『仁義』『筋』『落とし前』を繰り返すばかり。

シリーズの重要なわき役、池辺良が最後は健さんに同行して殴り込みというお馴染みの筋立て。
そこに鶴田浩二が出てきて訳知り顔で正義のヤクザを演じる。
正義のヤクザは健さん一人でいいのではないか。
池辺良だって堅気だったのをやむにやまれずドスを握った段階で、健さんの味方の戦力となったのだし・・・。

シリーズのコンセプト、任侠映画の精神的支柱の虚構が、硬直化したその姿を露わにしている。
わずかに残った映画的説得性が健さんの醸し出すスターのオーラとスポーツのような殺陣の爽快感だが、そこにも繰り返されたであろう疲れとマンネリがにじみ出ている。

プレスシート

ヒロインは松原智恵子。

日活時代の「東京流れ者」(66年 鈴木清順監督)では、『流れ者には女はいらねえんだ』『女と一緒じゃ歩けねえんだ』と、棒読みのセリフを繰り出す若き渡哲也の向こうを張って、まるで相手の心情には頓着しないかのようにアイドル的表情を崩さなかった松原智恵子の東映初出演(クレジットには(日活)とあったから日活在籍時代の最後の出演作であろうか)。
同じく日活の「無頼」シリーズでは、堅気のお嬢さん役ながら渡の殺陣の現場にウロチョロし、『大丈夫?』と傷の具合を勝手に心配するヒロイン役が妙に似合っていた。

日活時代はどんな状況下にあっても、清純派としての構えを崩さなかった松原智恵子の本作の役は、健さんのかつての思い人にして、その8年後に鶴田浩二の奥さんとなっていた姐さん。
着物姿には凛とした気風が漂っていたが、任侠映画末期の硬直した雰囲気の中では、持ち前の”天然なかわいらしさ”の出しようがなかった。

『親にもらった大事な肌を墨で汚して(中略)つもり重ねた不幸の数をなんと詫びよかお袋に、背中(せな)で哭いてる唐獅子牡丹』。
殴り込みの前の池辺良との道行のシーンにかぶさる主題歌を詠うのはもちろん健さん。
仁義でがんじがらめのはずのヤクザが、人情にほだされまくりの、自虐ネタ満載の、おまけにマザコン丸出しの歌詞(これが本音か?)。
ほかの役者が歌っていれば、”なに甘えてんじゃあワレ”と逆切れしたくなる内容だが、高倉健だから許された。

池袋文芸坐のマキノ雅弘特集でのこと。
「侠骨一代」(67年)のラストの殴り込みシーン。
背中を切り付けられた健さんの着流しから、汗にまみれた入れ墨が現れる。
殴り込みが終って、荒い呼吸の中、右手から離れないドスを自らの左手で振りほどく。
高倉健の凄絶な迫力と色気。
映画が終って場内が明るくなる中、椅子から立ち上がれない女性客がいた。
マキノ演出も見事だったが、高倉健の類まれなるスター性に観客は魅了された。

シリーズ第1作からの監督佐伯清は、伊丹万作に師事した戦前からの職人派。
ヤクザ礼賛などに同調するはずもないが、このシリーズでは、ココロ入らぬ様式だけの作画がかえって受けたのか。
その虚構の再現ぶりは監督とヤクザの距離感を表すとともに、高倉健という虚構の異様ぶりも際立たせ、映画という”仮初の刹那”を求める観客を引き付けたのだった。

オリジナルポスターその2

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映より 任侠映画のヒロインたち ⑤ 工藤明子

工藤明子

1944年生まれ。
劇団を経て71年に東映と専属契約。
72年まで、主に鶴田浩二主演の任侠映画の相手役として、東映作品14本に出演する。
本編「札付つき博徒」は、東映4本目の出演。
若き大型美人女優として重要なわき役を務める。

70年前後の東映映画の女優陣は、佐久間良子、三田佳子などかつてのホープはすでに去り、『不良性感度』の高い作品が製作された。
人気企画、任侠映画にあっては、緋牡丹博徒シリーズで主役を務める藤純子を別格として、時代劇全盛時代からのキャリアを誇る桜町弘子、宮園純子などのほか、浜木綿子、松尾嘉代などが、男優たちの相手役を務めていた。

やがて頼みの藤純子も映画界を去り、後に日活からやってきた梶芽衣子が「さそり」シリーズで狂い咲くまで、東映映画にヒロインらしいヒロインは不在だった(スケバンシリーズなどでの池玲子、杉本美樹を除く)。

工藤明子

この間、東映でも新人女優発掘の試みは続けられ、多岐川裕美や中村英子、中島ゆたか等有望株がデヴューはしていった。
工藤明子も東映が発掘した自前の女優の一人であり、その大型の美貌は、朝ドラ女優(74年 「鳩子の海」)の藤田美保子にも、後輩の中島ゆたかにも似た華のあるものだった。
70年代の「キネマ旬報」では、工藤明子の名前が散見され、一部のファンに支持されたもいたことがうかがえた。
東映らしい、水商売的なテイストの薄幸型美人女優で、東映を離れた後はテレビの時代劇やアクションもので活躍した。

今では忘れられたヒロインともいえる工藤明子の出演作に駆け付けた。


「札つき博徒」  1970年  小沢茂弘監督  東映京都  ラピュタ阿佐ヶ谷・35ミリ上映

鶴田浩二主演の東映京都作品、監督小沢茂弘。
このメンツを見て、どんな旧態依然とした任侠映画を見せられるのだろう?と、昔、浅草名画座で見た同じメンツの作品「三池監獄 凶悪犯」(73年)を思い出しながら、期待せずに開映を待った。
始まった映画は、意表を突く素早いカッテイングのテンポの速い展開と意外な登場人物のキャラクターとその配役だった。

意外な配役とは。
すでに御大的存在だった鶴田に謙虚なムショ帰り役を割り当てる。
それに絡むのが万年悪役の小池朝雄で、珍しく根が正直な曲者役、その連れに山本麟一。
戦前の北九州戸畑の祇園山笠前夜が舞台という時代設定も、現実感皆無な大時代的なものでいい。

オリジナルポスター。左に工藤明子の女賭博師

鶴田に合わせたかのように、セミ大御所の大木実に盲目の堅気を演じさせる。
その連れ合いの桜町弘子は終盤までセリフがない役で、持ち前の勝気な姐さんぶりが封印されている。
待田京介までが弱気な堅気役だ。

旧態依然とした配役と、ワンパターンな勧善懲悪劇を良くも悪くも期待していた、鶴田=小沢コンビが、見事に予定調和を外して始まったこの映画。
主役は祇園山笠の祭そのもので、祭りを運営する堅気衆が前面にフィーチャーされた構成なのだった。
ときどき東映で企画される、ハンデイキャップを背負った集団や個人が悪に対峙するという変則パターンのやくざものの一種なのだ(脚本:笠原和夫)。

いつもは、墨を背負ってドスを利かせる連中(大木、待田、小池、山本ら)が、一歩引いて悪役やくざの恫喝のを前に、右往左往する堅気衆を演じるという新鮮味ある筋立て。
待望の工藤明子は身寄りのない女壺振り師として登場する。

一場面。後姿が工藤明子

素人離れしたクールな美貌にキレのある啖呵。
殺陣のシーンでの動きもいい。
工藤明子の魅力が炸裂する。

藤純子の緋牡丹博徒と異なり、凄惨な殺陣演出の後、傷を負い、やられてゆくのもいい。
耐え忍ぶ設定から、正義感に駆られての殴り込み、そしてやられるまで、鶴田のお株を奪う出来だったのではないか。
惜しむらくは、藤純子や江波京子らの二番煎じ、メインストーリーである主人公らのうっぷん晴らしに花を添えるための補助的役柄だが、魅力は十分発揮した。

堅気衆側の唯一の暴力装置であるムショ帰りの鶴田浩二も死んでゆく。

ヤクザは死に絶え、堅気衆が残って祇園山座差は無事挙行される。
ヤクザ礼賛に堕ちてはいないストーリー。
半端者で調子はいいが、良心は失わなかった小池朝雄も生き残った、珍しく。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映より 任侠映画のヒロインたち ④ 野川由美子

野川由美子

1944年京都生まれ。
高校生の時に、ミス着物コンクール準ミスに選ばれて念願の女優デヴュー。
代表作は「肉体の門」(64年)、「春婦伝」(65年)、「河内カルメン」(66年)といずれも日活での鈴木清順演出作品。
筆者が未見なのは不徳の致す限り。

野川由美子

その後は、達者な演技力と親しみやすい関西弁で、テレビ・映画を問わず幅広く活躍。
「仁義なき戦い・完結編」(74年)、「北陸代理戦争」(77年)、「沖縄10年戦争」(78年)など東映実録路線にも、重要な役で登場した。
東映のやくざ映画では、若手女優ががむしゃらに主人公たちにむしゃぶりつく演技が印象に残るが、野川由美子の場合はその個性が突出しており、実録映画の混濁に、良くも悪くも飲み込まれることはなかった。

彼女が日活時代に、清順映画のヒロインを務めていた頃の作品では、東映の「四畳半物語・娼婦しの」(66年 成沢昌成監督)を見たことがある。
東映の若手女優のホープ(の一人)だった三田佳子が娼婦役に取り組んだ作品で、時代背景の再現的にも演技的にも情感のこもったものだったが、コケテイッシュな”泥棒猫のような”野川の演技が印象的だった(この作品は、小林千登勢の性悪演技も忘れられない)。

本作は、野川が東映任侠映画のヒロインとして出演したものである。


「現代やくざ 盃返します」  1971年  佐伯清監督  東映東京  ラピュタ阿佐ヶ谷・35ミリ上映

東映東京撮影所で製作された、69年に始まる「現代やくざ」と銘打たれたシリーズの3作目。
シリーズ作品につながりはないが、菅原文太が主演を務めている。

いわゆる任侠映画の衰退を受け、時代設定をリアルタイムとし、登場人物を高倉健や鶴田浩二、藤純子といった完全無欠のヒーローとはせず、やくざ者の悲しみや不条理を背景としている。

新東宝で『ハンサムタワー』なる美男スター3人組の一人として売り出され、松竹を経て東映に移った菅原文太。
松竹では、半端なやくざ者が役どころで、「夜の片鱗」(64年 中村登監督)では喧嘩で股間を蹴られて寝込んだ末に死んでゆくチンピラを演じており、そのしみったれぶりが印象的だったが、俳優として開花するまでのことはなかった。

東映が任侠映画の非人間的なヒーロー像を描き続けた末に観客に飽きられ、やくざ者の哀れさ、人間味を描き始めたことは文太にとってチャンスだった。
70年前後の世相の中、人間の弱みを見せながら親分子分の軋轢に悩む主人公を描いた「現代やくざ」シリーズは、最終作「人斬り与太」(72年 深作欣二監督)で、最初から組織内のしがらみに頓着せず、無茶苦茶に暴れまくって孤立・自滅してゆくやくざ者を描き、続いての「人斬り与太・狂犬三兄弟」(72年 深作欣二監督)とともに、「仁義なき戦い」で爆発する実録やくざ映画への序章となった。

オリジナルポスター

本作「盃返します」は戦前に伊丹万作監督に弟子入りした正統派・佐伯清監督の手になる作品で、大阪万博の利権を争う”現代やくざ”の渡世を、その最底辺で体を張らざるを得ない人間の悲しみをきっちり描いている。
監督の主題は、鉄砲玉となり都合よく使い潰されてゆくやくざ者(菅原文太)の弱さ、哀れさであり、彼の幼馴染(野川由美子)との淡いつながりとその自滅である。

幼いころから文太を見守り、堅気になることを願ってきて、場末で小料理屋を営む野川由美子。
若さが一段落し、芸達者とともに落ち着いた情感が出てきた野川の持ち味を十分生かした演出。
精神的に未熟で、さんざん野川の金銭的、精神的援助を受けながらうじうじ悩む文太は、松竹時代からの持ち味。
観客の同情は誘っても憧憬とはならない主人公像だ。

プレスシート

ラストの殴り込み。
同行を願い出る助っ人をパンチで倒し、単身殴りこんでゆく文太の姿がのちの実録やくざへとつながってゆく。

野川との約束を果たせず、堅気とならぬまま死んだ文太の骨箱を抱えた野川が故郷のバス停に降り立つ。
野川のような女性ならこの後も逞しく生きてゆくだろうという余韻を残しつつ。

東京ローカル路線バスの旅・リターンズ 調布~新宿の巻

数年前の本ブログで紹介した路線バスの旅・調布→新宿コース。
京王線に沿ってのルートが、桜上水でストップしたのが前回でした。
今回は、三鷹周りの中央線沿いのルートでのリベンジです。
さて首尾はいかに。

調布市内の自宅付近の停留所から三鷹駅行きの小田急バスに乗ります。
午後の出発ですが、事態をナメたわけではありません。
うまくいくのなら、短時間で勝負がつくはずです。

最寄りのバス停から旅の開始
三鷹駅行きに乗車

三鷹について早くも壁にぶち当たりました。
南口からは主に調布、府中方面にバスが出ています。
ならばと北口に行くと、そこからは西武新宿線の柳沢、東伏見など、また中央線の武蔵境周辺へのルートばかりなのです。
早くも脱落か?
そこで見つけたのがコミュニテイバスによる吉祥寺へのルート。
これしかありません。
発車までの20分で腹ごしらえです。

三鷹には総武線も止まる
駅の立そばをかっ込む
三鷹駅北口からコミュニテイバスに乗車

コミュニテイバスはアットホームなムードの中、井之頭公園に沿って東上し、吉祥寺駅北口に着きます。
さあここからは?
偶然、中野行きの関東バスが目に入りました。
距離を稼げそうです、発車間際に駆け込みます。

吉祥寺駅前

満員の関東バスは五日市街道をひたすら東上します。
環状8号線を横切り、徐々に住宅街から商店街の雰囲気に代わってゆく街並みを進んでゆきます。
五日市街道は青梅街道に合流しました。
40分ほども走り、環状7号線を横切ります。

広い青梅街道の停留所を眺めていると、都営バスの新宿行の表示が目に入りました。
慌てて下車です。
青梅街道で新宿行きに乗り継げそうです。

青梅街道の都営バス停留所
都営バス新宿行きに乗車

やってきた都営バス新宿西口行は、広い青梅街道をビュンビュン飛ばします。
鍋屋横丁、中野坂上、山手通りと過ぎ、やがて都心の高層ビル街が目に入ってきます。
生活圏から通勤圏への転換です。

新宿に到着
新宿駅西口

夕方前には新宿に到着、本日の目標を達成です。