DVD名画劇場 MGMアメリカ映画黄金時代  女性ドラマの世界

児玉数夫著 講談社文庫 「MGMアメリカ映画黄金時代」

著者の児玉数夫は戦後直後にセントラル映画という外国映画輸入会社に入り、以降数々の映画を輸入会社の立場から見てきた人。
映画に関する多数の著作があるが、いわゆる映画評論家的な価値観から作品を論するのではなく、今では忘れられた輸入映画の数々を、当時のポスターや宣伝文句とともに紹介できる稀有な映画人だった。

1968年文庫書き下ろしの本作は、世界一の映画会社であるMGMの1920年代から60年代までの作品を選択して紹介したもの。
著者がリアルタイムで接してきた、MGMの作品、シリーズが網羅されている。

グレタ・ガルボ、クラーク・ゲーブルを売り出したMGM。
キートンや極楽コンビによる喜劇、ターザンシリーズ、海洋冒険もの、おしどり夫婦探偵の「影なき男」シリーズ、子役による「ラッシー」もの、女性もの、ミュージカルなど、その作品ジャンルは多岐にわたる。

MGM映画のカラーは、「非常に広い範囲の観客を目標におく、世界のあらゆる人々に理解と共感をもって受け入れられる映画であることを念願」に(本著作まえがきより)したものだった。
日本の映画会社であれば東宝のカラーに近いのかもしれない。
美男美女のスターを配し、社会の多数派を意識した家族向けのテーマを、製作費を潤沢にかけて、明るい画面の映画に作り上げた。

今回はMGM黄金時代の作品から、女性が主人公の3本を選んで見た。

「風と共に去りぬ」 1939年 ビクター・フレミング監督 MGM

ハリウッドのラストタイクーンの一人、デビッド・セルズニックによる製作。

原作はマーガレット・ミッチェルによるベストセラー。
南部人のミッチェルは、南北戦争を経験したその祖母のエピソードを交え、ヒロイン・スカーレットの半生を描いた。

セルズニックは映画化に当たりスカーレット役の女優を探し、イギリス人の無名女優ビビアン・リーに決まったのは撮影が開始された後だった。

ビビアン・リー

3時間を超える作品の前半は南北戦争開始前から始まる。
タラと呼ばれるジョージア州のスカーレットが育った農場一帯が舞台だ。

奴隷制度が維持され、スカーレットの父ら農場主は貴族のような生活を送っていた。
南部人にとって北部は「ヤンキー」と呼び、敵対し軽蔑する対象だった。
原作では登場人物の南部男性はKKK団に所属していた。

映画では農場主の妻(スカーレットの尊敬する母)が、素行不良の管理人に対し「あなたの子を私が取り上げた。幸いに死産だった」と告げる場面がある。
はっきり描かれないが、白人が黒人奴隷に手を付ける慣例があったことの暗示ではないかと思われる。
妻は農場主の夫に対し、管理人を翌朝一番で解雇するよう強く意見していたが。
良くも悪くも南北戦争前の南部の風景だ。

南北戦争前のタラの自然。
夕日に染まる広大な農園、月明かりに浮かぶ広大な屋敷に集まる馬車。
ロケに大掛かりなライテイングを施した撮影だったであろう、忘れがたい場面が続く。

タラの屋敷での舞踏会シーン

南部人にとって古き良き時代を描きつつも、単なる郷愁や北軍に対する大義とプライドは滅びゆくものとして描かれる。

戦争が始まると、戦費協力のバザーでは宝石の供出が求められる。
夫人は野戦病院に駆り出される。
広場を埋め尽くす戦傷者の群れ、アトランタ陥落を前に燃え落ちる弾薬倉庫。

戦乱のアトランタからタラに逃れる

主人公のスカーレットは農園のわがまま娘で、言いたいことやりたいことを我慢しない。
何をやりだすか予測がつかない。
ハリウッド映画が描いてきた主人公像、常識的で貞淑で分別があり控えめ、とは正反対。
母親代わりの黒人メイドに反発し、寄ってくる男を振り回し、自分の好きな男を例え婚約者がいても追い回し、いやなことからは逃げたがる。

見ているこちらもその行動にはらはらし、振り回される。
抜擢されたビビアン・リーが、まさに適役。

レットとスカーレット。運命のパートナー

スカーレットを男にしたようなのがレット・バトラー。
素行不良の退役軍人で、戦乱の南部をさ迷いながらスカーレットにモーションをかけ続ける。
ピンチで役に立つし、最後の最後で南軍の大義に準ずるヒロイズムを持つこの人物はクラーク・ゲーブルのイメージ通り。

スカーレットとは対極の性格で、一見ひ弱そうだがいざとなると一番責任感が強い女性にオリビア・デ・ハビラント。
最後まで不肖のスカーレットを助け、レットにも絶賛される稀有な女性。
スカーレットが思いっきり奔放で未熟だから、対極のキャラとして描かれたのだろうが、主人公たちの、性格的にも時代背景的にもブレブレで流動的なこの映画に1本の精神的支柱となる存在だった。

レットも信頼する女性にオリビア・デ・ハビラント

スカーレットの、女性にしては激しく、自律的な性格(喪服のままダンスに興じるシーンは当時の常識に反逆?)だったり、タラの屋敷に押し入った北軍の脱走兵が強盗そのものの描写だったり、冒頭の管理人が奴隷?に子を産ませた場面を含め、30年代の映画としてはアメリカのタブーに触れ、また多数派の常識に逆らうかのような場面が盛り込まれていたのが興味を引いた。
この作品が古びない一つの要因なのかもしれない。

本作のフィルムは、三原色それぞれのネガで保存されるが、それらのネガは大戦中万が一の場合に備えハリウッドから東部に移されたという。

占領下のシンガポールで本作を見た小津安二郎が大いに感心したとも伝えられる。

監督が、ジョージ・キューカーからフレミングに交代し、サム・ウッドが第二班の演出にあたるなど長期にわたる撮影を指揮したセルズニックの功績は特筆される。

「哀愁」 1940年 マービン・ルロイ監督 MGM

「風と共に去りぬ」でアカデミー主演女優賞を獲得したビビアン・リーを主演に持ってきた作品。
第一次大戦下のロンドンを舞台に、バレエダンサーと将校の悲恋を描く。

ビビアンの相手役はMGMの二枚目スター、ロバート・テーラー。
ビビアンに一目ぼれして追いかけるが、突然の出征で心ならずも別れ、その後偶然に再開し、改めて婚約するが、別れた間に戦争中の困窮に苦しんでいたビビアンが自責の念に耐え切れず・・・・。

ビビアン・リーとロバート・テーラー

薄幸の美人ダンサーと、地方の農園主の御曹司の悲恋。
少女小説のように実感のないストーリー。

主人公らを取り巻く人々も、悪意の片鱗すらなく彼らを支え応援する。
悪いのは戦争という時代背景。

映画は物語を斜に構えず正面から捕らえ、オーソドックスに悲恋を語る。
空襲の描写もおとなしい。
貧困に苦しむビビアンと親友の部屋も暗さや悲惨さはおとなしめに表され、娼婦に身をやつした彼女らの姿に独特の凄味は少ない。

中年になった男の在りし日の悲恋の追憶の映画として観れば、一抹の共感もできる。

身をやつしたビビアンに、暗さや荒みを演出すれば凄味が出たとも思う。
彼女の女優としての資質からはその凄味を十分表現できた。
が、そういう作品ではなかった。

「心の旅路」 1942年 マービン・ルロイ監督 MGM

踊り子と御曹司の恋、という設定は「哀愁」同様。
グリア・ガースンの魅力が印象に残る作品。

「MGMアメリカ映画黄金時代」より

戦争で記憶をなくした主人公(ロナルド・コールマン)が、踊り子ポーラ(ガースン)に拾われ、結婚し子供まで設けるが、交通事故で記憶が戻り、それまでの記憶を失う。
やがてポーラと再会し記憶を取り戻すまでの物語。

イギリス出身のグリア・ガースンのキャラクターがいい。
きっぷがよく包容力のある明るい女性を演じ、舞台で踊り歌う姿まで見せる。

「哀愁」のビビアン・リーのバレエダンスシーンは上半身だけの描写だったが、この作品でのガースンはバッキンガムの衛兵をモチーフにしたミニスカート姿で形のいい足を見せ、舞台中を歌い踊る。
戦争終結に酔う観客が舞台に押し寄せるとそれを相手にダンスさえする。
何とも明るくていい。

「アメリカ映画黄金時代」より

ポーラは、記憶喪失中のコールマンを終始リードし、コールマンに文筆活動をさせて結婚生活を送る。
記憶が復活し、財閥の御曹司となったコールマンのもとにいつの間にか秘書でくっついているのには驚いたが。
その強引さもガースンに免じてならOKだ。

この作品は「哀愁」と同様に取り巻く人々が模範的。
コールマンを少女時代から思慕し、結婚寸前までいった娘キテイは「あなたが一番好きな人は別にいる」と言って身を引く。(「哀愁」で最後までビビアンを助けた親友もキテイ名だった)。

ありえないくらい模範的な人々。
人間臭い感情を描くのが映画だが、MGMの大作は人々を模範的、道徳的に啓蒙するのも使命の一つなのだろうか。
それもグリア・ガースンに免じて許す!

「MGMアメリカ映画黄金時代」の「心の旅路」紹介欄には、「荒れ果てた敗戦の汚れた街に住む私たちには恍惚の二時間を与えてくれた」とある。
「戦後アメリカ映画に初めて接して映画ファンになった人の中には、この「心の旅路」を、生涯の心に残る想い出の名画としている人が多くいるときいた」とも。

水木しげるが見た光景

調布の文化会館たづくりで、水木しげるの展覧会があったので見てきました。
生誕100周年を記念しての展覧会です。

水木しげるさんは生前、調布市名誉市民でした。
現在でも市内に水木プロダクションが現存し、出版物などの管理を行っています。

ゲゲゲの鬼太郎ほかのキャラクターが有名ですが、出征したニューギニアでの体験を描いた戦記物が忘れられません。

今回の展示内容は、地元調布を描いた絵、鬼太郎や悪魔くんなどのキャラを描いた絵、戦記物の絵、などを中心にレイアウトされていました。

作者が描いた、戦時中ニューギニアでの戦時体験には何度見ても粛然とさせられます。
ビンタに始まり、命令絶対の非人間的な軍隊。
自らの左手を失った戦傷体験。
現住民との交流経験、などは作者ならではの貴重なものです。

これらの作品は、生き残って帰国した作者に死んだ戦友たちが描かせたものでしょう。
作品には作者ならではのユーモア、人間性も感じさせます。

作者が描いたアマビエの大きな絵が展示されていました。
水木さんにより描かれたアマビエならたいがいの災いは撃退されるような気がしました。

DVD名画劇場 ジェームス・ギャグニー ギャングスター!

ジェームス・ギャグニーは1930年代にギャング役で売り出したスター。

DVDで、出世作「民衆の敵」と、自伝のタイトルにもなった「汚れた顔の天使」を見ることができた。
いずれもギャグニー全盛期の作品。
どちらの作品にも、ギャグニーの切れ切れの動きと愛嬌ある表情が炸裂していた。

「民衆の敵」 1931年 ウイリアム・A・ウエルマン監督  ワーナーブラザーズ

1909年のタイトルで始まる。
貧民街の二人組。
すばしこい悪ガキコンビだ。

やがて腕を見込まれ、悪の組織の下請けとして「活躍」しはじめ、暗黒街に名を売る。

悪ガキ時代のギャグニーと幼馴染

ギャグニーには移民の母親とまじめな兄がいる。
兄は非行に走る弟を容赦なく叱る、母親は嘆く。
弟は叱られ、嘆かれるたびに、より反発し悪事に走る。

金を手にし、女をとっかえひっかえ。
豪華な部屋に住み、イカす車を乗り回す。

ギャグニーの演技というかキャラクターが見どころ。
売り出し中のギャングぶりがいい。
気に入らない相手にはビールを吹きかけ、口うるさい情婦にはグレープフルーツを押し付ける。

情婦の顔にグレープフルーツを押し付ける!

小柄な体をきびきび動かし、ウインクしたり睨んだり忙しく変化する表情。
精悍でかつ愛嬌もあり、ギャグニーがスターになるべくしてなったことがよくわかる。

ウエルマン監督の演出は、余計な要素は盛り込まず、貧民街出身の非行少年がギャングスターとなり、必然的に破滅するまでをテンポよく描く。
観客や、自主規制に対するエクスキューズを気にするより、ギャグニー扮するギャングを冷徹に淡々と見つめる。

ギャング映画の見せ場は、銃撃シーン。
この作品の銃撃シーンは暗く救いがない。
ひたすらスピーデイでショッキングで乾いている。
ラストシーン、板に括り付けられたギャグニーの死体が、立ちあがるように送り届けられる衝撃。

30年代のセックスシンボルといわれたジーン・ハーローが出ている。
一種独特の存在感があり、彼女が出ているシーンは映画のトーンが変わって見える。
さすがのギャグニーもハーローの存在感にはかなわなかった。

「汚れた顔の天使」 1938年 マイケル・カーテイス監督  ワーナーブラザーズ

「民衆の敵」でギャングスターとして売り出したギャグニーは、その後、西部劇やコメデイなど多彩な役に挑戦。
ギャング役は1950年を最後に遠ざかることになる。
本作ではギャング役を演じる。

貧民街出身で、相棒とともに非行を重ねる少年時代。
ここまでは「民衆の敵」と同じだが、そのあとがかなり違う。
ギャグニーは非行少年のまま、ギャングとして悪の道を進むが、相棒は改心して何と神父となる。

ギャグニーと神父役のパット・オブライエン

ギャングと神父となった二人だが友情は変わらず。
ギャグニーは神父が非行少年の更生のために行っているバスケットボールを手伝ったりする。
神父は神父で、非行少年更生のもとを発つため、ギャングと権力の結びつきを糾弾しようとマスコミに訴える。

ギャング映画としてのキレもありながら、同時に進行する非行少年更生の話が、映画全体のテンポとテンポとムードを阻害し、中途半端な印象をぬぐえない。
世論と自主規制を大いに意識し手の作りなのだろうが、神父の単純な勧善懲悪に簡単に乗ってしまうマスコミの描写が薄っぺらい。

ただしラストはいい。

死刑を宣告されたギャグニーに神父が最後の頼みをする。
英雄的に死ぬのではなく、命乞いしてみじめに死んでほしいと。
鼻で笑うギャグニーだが、演技か真実か、泣きながらみじめに死んでゆく。

ここが映画のテーマなのだが、そこに至るまでの、神父や非行少年たちの描写がいかにも観客受け(世論受け)を狙ったようでしらけてしまう。
そうなると、ギャング場面のギャグニーのきびきびとした演技も、観客受けを狙ったマイルドなものに見えてしまうは気のせいだろうか。

中山道シリーズ第八弾 追分宿

軽井沢へ行ったときに追分宿に寄ってみた。

追分宿は中山道六十九次の第二十次。
江戸方面からでは沓掛宿の次にあたり、この後、北国街道と別れ小田井宿へと向かう。
上野国(現群馬県)から碓井峠の関所を越え、軽井沢宿で信濃国(現長野県)に入り、2つ目の宿場が追分宿。

渓斎英泉画「木曽街道六十九次」より追分宿。背景はデフォルメされた浅間山

現住所は軽井沢町追分になる。

国道18号線を西に向かい、しなの鉄道中軽井沢駅を過ぎ、信濃追分駅のあたりに、国道から右に分かれる道がある。旧中山道だ。

入ってすぐ左手にある広い無料駐車場に軽トラを止め、中山道を散策してみる。

駐車場からすぐのところにある堀辰雄記念館。本陣の裏門を移築したという
常夜灯と流れる小川

軽井沢歴史民俗資料館で聞いた通り、古民家が並んだ風ではない。
現代風の民家がぽつぽつと建ち、中には今風の飲食店も見られる。
神社や仏閣は当時のままなのだろう。
観光客の姿はほとんどない。

宿場の歴史的景観はとうに失われ、そこに住んでいたであろう住民の民家もまばらになった通りを歩いていると、右手に校舎のような公民館のような木造建物が見えた。
寄ってみると、脇本陣を旅館に転用した油屋という建物だった。
旅館は廃業しているが、地元の若い人がカフェなどで活用しているようだった。
既に冬季休業中だったが、面白そうな場所だった。

脇本陣の後に旅館だったという油屋の建物
油屋の側面

泉洞寺というお寺の入り口に、「歯痛地蔵はこちら」という看板があった。
当地ゆかりの文学者堀辰雄が愛でたお地蔵さんだという。
珍しいので境内に入ってみることにした。

泉洞寺山門

山門をくぐる。
両側に菊が生けられ、垂れ下がるもみじも見事なお寺。

境内の鐘突き堂歯痛地蔵

墓地の片隅にある歯痛地蔵にたどりつく。
なんということはない石像だが、地蔵さんとしては珍しいフォルム。
墓地には三々五々、お墓参りの人の姿があった。
表通りより人出が多かった。

歯痛地蔵

北国街道と分岐する「分去れ」まで、駐車場からゆっくる歩いて15分から20分の距離。
いろいろ道草をして小一時間の行程だった。

分去れに近いラーメン屋の上に物見やぐら風の造作物があった

宿場時代の建物はほぼなく、ここまで時代の洗礼を受け、景観も人の営みも変遷してきたことがうかがえる。

残った古民家風の建物はリノベーションされてカフェとして再生されたものもあったが、追分宿そのものは、休館日だった「追分宿郷土館」の中にしか残っていないのだろうと想像できた。

古民家風カフェ
古民家が残っていた

菊芋収穫

11月の畑作業です。
残っている作物は菊芋と大豆。
里芋はほぼ収穫なし、ヤーコンもわずかな収穫で終わりました。

取り残しの芋からの発芽分も含めて、菊芋は今年も大いに生育しました。
地表部分が枯れ始めた11月、菊芋堀りをしました。

土が締まっているのでスコップを使います。
スコップを差し入れて少し起こし、あとは茎をつかんで起こすと倒れて、根っこが掘り起こされます。
芋は細い地茎で根っことつながって出てきます。

掘った菊芋の樹はひとまずその場に倒しておき、あとで樹から芋を外してゆきます。
ショウガのように入り組んだ形の芋もあります。
小さめの球形の芋もあります。

今日の収穫だけで、ほぼコンテナ1杯分ありました。
豊作です。

芋の堀残しもあるでしょうから、この場所は来年の自然発芽も多いことでしょう。

新しく種芋を買うにしても、食用に売っている菊芋を買ってくればいいので安上がりです。

この畑はしばらく菊芋専用にしようと思います。

立岩和紙の里新そば祭り

長和町の立岩和紙の里で、新そば祭りが開かれました。

畑で菊芋堀りの作業を終え、丸子のスーパーに買い物に下りた山小舎おじさんが、いつもの通り和紙の里を通り過ぎようとしたとき、敷地内に屋台のテントを見かけました。
リンゴ詰め放題などもやっています。
新そば祭りの幟もたっています。

どこかで昼食でもと考えていた山小舎おじさん、和紙の里に立ち寄ることにしました。
新そばも気になります。

今川焼の屋台が一張り、何張りかのテントの下には新米、お茶、クルミ団子などを売る出店が2、3軒、軽トラでリンゴ詰め放題をやっているのはリンゴ農家でしょうか。
出店の間を歩いている人の数がかわいそうなほど少ないのが、地元長和町らしい憎めない田舎の風情を醸す。
やはり目玉は新そばのみか。

和紙の里の食堂へ入ると、順番待ちのお客さんの列。
今日のメニューは新そばのもりと辛味の二種類のみ。
おじさんも名前を書いて順番を待ちます。
待つ間に気になるリンゴ詰め放題へ向かいます。.

町内の山すそにブドウ園と隣接するリンゴ園があり、そこの出店とのことです。
リンゴはシナノゴールドとシナノスイートの二種類。
500円払ってビニールの袋をもらい詰め込みます。
20個近くも詰め込んだでしょうか、最後は出店者のおばさんに手伝ってもらってあふれんばかりに詰め込みました。軽トラに運ぶ間に1個落としてしまうほどでした。

リンゴを軽トラに運んで食堂に戻ると間もなく名前を呼ばれて席に着きました。
もりそばを頼みます。

運ばれてきた蕎麦。
ツユがたっぷりあって、蕎麦湯がセットされているのがいいですね。
じゃぶじゃぶツユに漬けてそばをすすり、蕎麦湯も全部飲み干します。

新そばは噛み応えがあり、新鮮な感じがしました。

高遠、青木村など各地で新そばのニュースが届きます。
あと2、3か所で新そばにトライしてみようと思いました。

軽トラ流れ旅 軽井沢歴史民俗資料館

晩秋の軽井沢へ軽トラを走らせた。

軽井沢。
夏は細い道々を人と車が埋め尽くし、その雑踏に、ここは信州か?と思わせる場所。
人のいない冬は・・・、「軽井沢に冬行っても何もないよ」(山小舎おばさん談)といわれる場所。
では冬の前の晩秋ならどうか?

ある日、つけっぱなしのテレビにローカルニュースが流れていた。
軽井沢の博物館でゆかりの人物の版画展をやっているとの内容。
ポール・ジャクレーという軽井沢に住んでいたフランス人版画家の回顧展とのこで、映し出される個性的な版画が印象に残った。

ジャクレー展の会場、軽井沢歴史民俗資料館は11月中旬から冬季休館に入るらしい。
その前に訪れてみた。

長野県東部を千曲川に沿って北上する主要国道は18号線。
これに沿って南下し、佐久を柵を過ぎてからは東方向に行けば県の最東端・軽井沢に至る。
古くは中山道の宿場町で、近年は避暑地、別荘地として栄えた軽井沢。

群馬県と上田、長野方面をつなげる国道18号線は常に交通量が多い。
山小舎からは2時間かからない行程だが、軽井沢が近づくにつれて車の量が多くなる。

軽井沢に近づくにつれ、初冬の平日とはいえ、ますます交通量が増える。
車だけではなく、人の姿も多い。
山小舎周辺の景色との差を感じる。

目指す歴史民俗資料館に到着。
庭の紅葉に迎えられる。

歴史民俗資料館玄関へのアプローチと紅葉

窓口のお姉さんに、他の施設(追分宿郷土館、堀辰雄文学記念館など)との共通券購入を勧められ、600円で購入。

急ぎの予定があるわけでもなし、お姉さんと世間話。
中山道軽井沢宿は本陣跡に標識があるだけとのこと。
一つ先の追分宿には多少の景観が残っているとのこと。

歴史民俗資料館の入り口

館内へ向かう。
常設展示を見る。
中世の東山道から近世の中山道に至る歴史、明治以降の外人宣教師による軽井沢開発の歴史、信州の寒村としての軽井沢の風俗・歴史、浅間山噴火の歴史とジオラマなどが見られた。

米が採れず、度重なる浅間山の噴火の逆境の中で、中山道の物流に助けられてきた軽井沢の歴史がそこにはあった。

特別展示企画のポール・ジャクレー展は思ったよりも狭い一室で行われていた。
じゃクレーは、幼くしてフランスから両親とともに来日し、戦時中を経て生涯を終えるまで軽井沢で暮らした人物。

日本画と版画を学び、戦前の朝鮮、満州、南洋を旅行し版画の題材とし、版画用の和紙を特別に作らせ、専属の摺師を雇い軽井沢にアトリエを開いたとのこと。

館内で配布していたパンフより

作品を見ると、南洋の人物を描いた作品には、独特の明るい色使いと、ゴーギャンがタヒチに魅せられたかのような感覚が見られた。

展示会のハイライトは満州の王女たちを描いた版画。
絶妙な発色を子細に組み合わせ、考えられないくらい手の込んだ版画。
解説によると、一つの色を再現するために7色の絵の具を調合したり、一作に200枚以上の版木を作ったとのこと。
画家としての感性もさることながら、作者の根気と執念に圧倒される。

館内撮影禁止のためチラシから撮影。満州の王女を題材とした版画

たっぷり時間を使って館内を一周。
ほかに入場者もなく心行くまで博物館を楽しむ。

挨拶をして出ようとすると、くだんのお姉さんが飛び出してきた。
何事かと思ったが、火曜日はほかの施設が休館、近々それらに訪問の予定がないなら共通券から単館券に変更する、とのこと。
年内に軽井沢を再訪問する予定もないので、差額を払い戻してもらう。
愛想のいいお姉さんには、かえってお手数をかけてしまいました。

1時を過ぎ昼食の場所を探します。
信州のローカルルールで地元の食堂は2時に閉まってしまいます。
国道18号線を追分方面へ走りつつ、目に留まった1軒の食堂に入りました。

1時過ぎても続々来客が入店していた食堂

想像された野郎系の威勢のいい食堂ではなく、地元のヤングミセスたちが待ち受ける定食屋さんでした。
数少ない外食では、チャンスとばかり大食いしがちな山小舎おじさん。
今回も唐揚げに大盛ご飯を頼みました。満腹でした。

みそ汁と漬物はサービスだった

DVD名画劇場 続・アメリカ時代のジャン・ルノワール

畑の作業もほぼ終わり、寒くなってくると時間ができ映画を観る時間が増えてくる山小舎おじさん。

先回ご紹介した「アメリカ時代のジャン・ルノワール」で、ルノワールの渡米第一回作品「沼地」に触れましたが、この度同作品「スワンプ・ウオーター」(1941年。DVD題名は原題どおり)と、渡米後5作目にあたる「浜辺の女」(1946年)を見る機会があったので、それえぞれ感想を書きます。

「スワンプ・ウオーター」 1941年 ジャン・ルノワール監督 20世紀FOX

欧州を逃れ渡米したルノワールは、20世紀FOXと契約した。
年2本の監督作品が条件の高給待遇だった。

その後、第一回作品を撮るまでの間に、ハリウッド及びハリウッドが彼に対して何を望んでいるかを痛感したルノワールは、こう述べている。

ハリウッドは営利主義という理由でだめなのではない、「完璧さ」に対するめくらめっぽうな執着にこそ真の危険性がある。(自伝より)。

完璧さを求めてあらゆる才能(監督、脚本、撮影、出演者・・・)が集められるが、工業製品を作る産業ならともかく、映画に於いて才能あるスタッフを集めて完璧性を求め、それでうまくいくとは限らないのだ、と。

産業としての映画製作を旨とするハリウッドが、ルノワールに求めていたのは、高品質の製品(映画)製作の現場責任者。
流れ作業のスタッフの一つのコマとしてふるまうこと、であり、ルノワールにとっての映画作りとは相いれないものだった。

20世紀FOXとの契約後、アメリカ的な題材を希望するルノワールと、フランス的な題材を期待する製作責任者ダリル・F・ザナックの交わらないベクトルは、しかしザナックが「スワンプ・ウオーター」の企画を持ってきたことで、たった一度の交わりを見た。

「スワンプ・ウオーター」がルノワールが敬愛するジョン・フォードの1935年作品「男の敵」を書いたダッドリー・ニコルズの脚本であったことも幸いした。
この出会いからニコルズとルノワールは終生の友となる。

「スワンプウオーター」演出中のルノワール。左からアン・バクスター、ダナ・アンドリュース。

さて、「スワンプ・ウオーター」。
ジョージア州に広がる沼地を舞台にしたドラマ。
ワニと豹が住む広大な沼地に逃げ込んだ冤罪の殺人犯(ウオルター・ブレナン)と、偶然彼と出会い、友となり、冤罪を晴らそうとする若者(ダナ・アンドリュース)を主軸に、それぞれの家族や沼地のほとりの町の人々が絡む。

若者の、頑固だが実は息子思いの父親にウオルター・ヒューストン。
ブレナンの娘で、雑貨屋の下働きをしていて、若者と仲良くなるのが新人アン・バクスター。

ミステリー調にも、ホームドラマ調にもなろう題材は、しかし、しっかりとルノワール調に彩られていた。

女優たちがいい。
ルノワールは、アン・バクスターに汚いドレスを着せて裸足で歩き回らせる、時として顔までを汚して。
若さを輝かせて動き回るバクスターは、ハリウッド女優というよりはルノワール映画の活発な若い女性だ。

ウオルター・ヒューストンの後妻役の女優もいい。
いかにもピューリタン風の良妻賢母なアメリカ女性を装いつつも、年が離れた夫への甘えや、義理の息子への家族としての愛情を隠さない。

ダナ・アンドリュースの恋人で、のちにケンカ別れをすることになる金髪の若い女優もいい。
いかにもミーハーでわがまま。
甘えるかツンツンするかのどちらか。
嫉妬深く鼻持ちならない女の子ながら、どこか憎めなく、かわいらしくさえルノワールは演出する。

この女の子が、アンドリュースに振られた腹いせに、ウオルター・ブレナンの居場所を町の人に漏らす。
唖然とするアンドリュースの背後で慌ててかけ逃げるその女の子の姿の「かわいらしさ」をルノワールのカメラは逃さないでとらえる。
この緊張感とかわいらしさが混然一体となる画面の演出ぶり!

シークエンスごとに話が途切れるのではなく、次のシークエンスと被るように話が続いてゆくのもルノワール流か。

ダナ・アンドリュース(左)とアン・バクスター

アンドリュースが前半で出会う、沼地に逃げたブレナンは、まるで秘密基地を得た大人が秘かな愉しみを得ているようにさえ見える。
現実から切り離された世界で世捨て人ブレナンは哲人のように生きている。
毒蛇に噛まれても死なない。
訳を聞くと「絶対に死なないと強く念じることだ」と答える。
肉体が死んでも魂は別のところに行く、とも。

現実の世界と、哲人の住む世界との橋渡し役・アンドリュースは冤罪が晴れるラストまで、最初は親父に叱られ、ついでは町の人に忌避され恋人とも別れる。
代わりに、沼地に住む珍しい動物の毛皮と、ウオルター・ブレナンという啓発を受ける先人、それにアン・バクスターという素晴らしい女性を得る。

クレジットトップのブレナンは演技派の本領発揮。
西部劇での好々爺役だけが持ちネタではない。

ジョージア州へのロケをルノワールは希望したがほとんど実現できなかった。
しかしながら、映画というもの、セットやスクリーンプロセスも重要なその要素のひとつ。
そう思って見れば、セット撮影やスクリーンプロセスによる沼地もその効果は結果として同じような気もする。
もっとも、ロケを忌避し、スタジオ撮影を無条件に押し付ける当時のハリウッドシステムは、それはそれで大いに問題はあるが。

この作品、むしろ女性の描き方に見てとれる映画監督ジャン・ルノワールの陽性の特質をたのしむべきか。

町の公民館で開かれるダンスパーテイの描写。
アン・バクスターにドレスを買ってやり、連れだってドアを開けた瞬間、画面から溢れ出るうきうきした楽しさ。
いつものルノワール演出なら、この後しつこいくらいに楽しい盛り上がりが続くであろう場面のきらめき。

ザナックは撮影途中で予算超過を理由にルノワールの解雇を決めた(のちに撤回)。
ラストシーンを、別のスタッフに撮りなおさせた。
撮影後にルノワールと20世紀FOXとの契約を解除した。

こうしてルノワールとザナックの歴史上唯一の交わりは永遠に解消した。

「浜辺の女」 1946年 ジャン・ルノワール監督  RKO

不思議な作品だった。

沿岸警備隊に勤務するバーネット中尉(ロバート・ライアン)の悪夢からドラマが始まる。
戦争中、乗り組んだ艦艇が機雷に触れて沈没する体験。
骸骨を踏みながら海底?を歩いてゆくと女神?が現れる。
女神は中尉の婚約者そっくりだ。

悪夢から目覚め、馬で海岸を散歩(パトロール?)する中尉の前に、難破船の廃材を拾う女に出会う。
ひと眼でお互いに何かを感じ取る。

2度目の出会い(中尉が女に会いに難破船に出かける)の時、女は中尉に似た者同士であること、そして「幽霊」なる言葉を繰り返す。

このペギーという女(ジョーン・ベネット)は失明した画家(チャールズ・ビックフォード)と、難破船に近い別荘に住んでいる。
画家は目の見えないふりをしている、と中尉が思い込むほどすべてを見通している。
失明の原因を作ったペギーにつけこみ、ペギーを拘束している。
ペギーはそんな画家を憎みながらも関係に甘んじている。

後半に、ペギー自身もこの海岸の小さな町で、ほかの男と何かあったことが示唆される。
中尉は仕事熱心で美人の婚約者がいながらペギーのことで頭がいっぱいになり、婚約者は離れてゆく。

ルノワールは、ジョーン・ベネット(中)が出演すると聞いて、嬉しくなったという

表面的なストーリーは、夫に不満を募らせる悪女が、婚約者のいる若者をたぶらかすというもの。
結末は、画家が妻と別れることを認め、若者は婚約者と別れ、悪女を待つ、というもの。

ただ、映画は3者の納得性のある動機を示さないし、3者のそれぞれの行動に道徳的な判断を行わない。

この町で何人目かの男をひっかけたであろうペギーは最後までその動機と目的らしきものを示さない。
典型的な悪女なら夫の財産が目的だったりもするが。

画家は、観客にとってみても盲目のフリをしているように見えるし、妻に惹かれている中尉に対する不自然に親和的な行動の説明もない。

中尉は、戦争中の体験が深層心理に影響しているだろうことが示唆されるがその後の行動に結びつかない。
また、一目でペギーに惹かれたのはいいとして、婚約者がいながらその動機と行動に説明がほぼない。
まるで不条理劇の主人公のような行動ぶりだ。

ペギーと接触後、急に離れていった中尉を婚約者は追わない。
もし婚約者が物分かりの良いタイプでなければ映画としてどう始末をつけるのだろう?(そこがテーマではないから、婚約者を物分かりよくしてあっさりフェードアウトさせたのだが)。

この作品のテーマについてルノワールは「ぽっかりと空いた孤独の穴にはやがて亡霊が住みつくことになる」(「自伝」)と述べている。
ペギーが難破船で中尉に言った「幽霊」がここに出てくる。

とすると、作品のモチーフは、中尉、ペギー、画家の孤独であり、そこに住み着いた幽霊が中尉をしてペギーに惹かれさせ、ペギーをして夫以外の男を誘惑させ、画家をしてペギーを束縛させたのか。
そこに合理的説明を付与せず、ありのままに描いたのがルノワールの「浜辺の女」か。

スターを起用したRKOの準大作であるこの映画は、プレビュー公開での評判が悪く、再編集と撮りなおしに1年以上かかった。
そのためもあり、作品は前衛的な心理劇としても中途半端で、合理的説明を旨とする商業大作としても中途半端なものとなった。

主人公の悪夢に出てくる海(水)の幻想的(悪夢的)なイメージや、登場する子どもがとにかく騒いでわんぱくだったり、中尉の送別会のパーテイシーンの賑やかさ、などルノワールならではの演出も随所にみられるものの、「孤独の悲劇というこの映画のテーマは、それまで私が映画を通して探し求めてきたところとは、まさに正反対だった」(「自伝」)ところにこの映画の悲劇(悲劇=失敗作ではないとしても)があろう。

ロバート・ライアンは謎めいたキャラで魅力を発する俳優だが、この作品の役はさらに謎めいていて、演じる彼自身が戸惑っているようにも見えた。

ジョーン・ベネットはさすがに堂に入った「悪女」ぶりだったが、この女優さんは、悪女であること以前に正調ハリウッド女優であり、素に戻った時の表情の美人ぶりにそれを強く感じた。

チャールズ・ビックフォードは並々ならぬ存在感で、この映画が求めるとおりの謎の画家を演じた。

この作品の後、RKOスタジオはルノワールとの契約を解除した。
あと1本の契約が残っていたがRKO側が違約金を払ってクビにしたのだった。

ルノワールがハリウッドから契約を解除されるのは20世紀FOXに次いで2度目だった。
「浜辺の女」はルノワールにとって最後にハリウッドで撮った映画となった。

独立プロ的にインドロケで撮った「河」を挟み、ルノワールはフランスにもどることになる。

DVD名画劇場 ジョン・フォード 俺も男だ!

ジョン・フォードといえば西部劇を中心に、戦前のサイレント時代から1960年代まで140本を超える映画を撮った名監督。
今回はその代表作といえる3作品を見た。

そこには同時代に活躍した名監督ハワード・ホークスと同様に、男の世界が描かれていた。

ホークスのタッチと異なるのは、男同士の友情がウエットに描かれていること、男を受け止める女性達が控えめで芯が強く描かれていること。
無理やり東映映画に例えれば、ホークスが乾いたタッチの実録映画だとしたら、フォードはウエットな任侠映画なのではないだろうか。

「駅馬車」 1939年 ジョン・フォード監督  ユナイト

プロデユーサーはウオルター・ウエンジャー。
ハリウッドきってのインテリプロデューサーといわれ、「暗黒街の弾痕」(1937年フリッツ・ラング監督)、「海外特派員」(1940年アルフレッド・ヒッチコック監督)などを製作した。

ウエンジャーの制作と聞けば、なるほど「駅馬車」は時代を先取りした実験的な作品に見えてくる。

映画の作りは大まかな舞台を、駅馬車内部と、宿泊地に限定。
駅馬車自体が移動しているのでスピード感も出てくる。

登場人物はほぼ駅場車の乗客に限られ、キャラクターを掘り下げやすくなる。
余計な舞台設定と人物はカットされ、観客は物語に集中できる。

実験的というのは、駅馬車が進むにせよ取って返すにせよ、乗客全員に意見を諮る、という民主的な姿勢が貫かれていること。
アメリカの支配層であるワスプ系の価値観の押し付けがない。(ユダヤ系インテリプロデユーサー・ウエンジャーの意向か?)

そして登場人物の平等で、下から目線的な描き方にもこの映画の特徴がみられる。

別の町へ流れる酒場女(クレア・トレバー)や、いかさま賭博師(ジョン・キャラダイン)、酔いどれ医者(トーマス・ミッチェル)、あげくに脱獄囚・リンゴキッド(ジョン・ウエイン)など見かけは最悪のメンバー。
ところが前途の危機に際し、またインデイアン襲撃の緊急時に際し、彼らの真価が発揮される。

すなわち、人情味にあふれ、責任感と勇気にあふれ、差別しない人たちが登場人物ということがわかる。
映画の隠れたテーマが民主主義とその前提としての人々の健全な常識と責任感をたたえることだということがわかる。

ジョン・ウエインが若く、のちにその存在イコール正義、といったものになっておらず、彼の存在が映画の邪魔をしていないところもいい。

ジョン・ウエイン

アパッチの襲撃シーンがハイライト。
全力疾走の6頭立ての駅馬車。
アパッチは疾走する馬上からライフルで射撃する。
全力疾走する馬から駅馬車を引く馬に飛び乗る。
撃たれたら前のめりに馬ごとぶっ倒れる。
リンゴキッドは外れそうな馬車馬を御するため、駅馬車の運転台から馬を伝って先頭の馬まで飛び移る。

コマ落としによるスピード感アップがあるとはいえ、「ベンハー」の戦車競走シーンに並ぶ名シーンだと思う。
撮影技術の向上があるとはいえ、今では到底実写で再現はできないだろう。

馬車から馬に飛び移るリンゴ!(ジョン・ウエインのスタントマンが演じる)

酒場女役のクレア・トレバーもいい。
リンゴキッドの直截的で武骨なプロポーズを一度は受け入れ、我に返って逡巡し、別れを告げる。
このあたりの、数度夢破れた生活感のある、内実はしっかりした女性像をこれ以上なく表現している。

クレアのクレジットの順番はトップ(ジョン・ウエインは2番目)。
当時の女優としての評価がうかがえる。

クレア・トレバー(左)

「荒野の決闘」 1946年 ジョン・フォード監督 20世紀FOX

ワイアット・アープ、ドク・ホリデイ、OK牧場の悪漢一味といった西部劇の18番がそろった名作。

悪漢一味への復讐のために町の保安官になったアープが、ドク・ホリデイと出会い、ホリデイを追って東部からやってきたクレメンタインに淡い恋をし、決闘で悪漢一味を退治し、もとの牛追いに戻ってゆくまでの物語。

アープとドクの緊張感あふれる出会い。
かつての優秀な医者から身を持ち崩し、結核に身を冒されるドクホリデイの苦渋。
ぶきっちょなアープがクレメンタインと教会のミサへ向かい踊る淡い恋、と名場面が続く。

山小舎おじさん的には、ヘンリー・フォンダのワイアット・アープの描き方が作られすぎに見えた。
ゆっくり歩き、長い脚を机や柱にもたれかけて座るのもいいが、弟の仇のクラントン一家が同じ町にいるのに緊張感がなさすぎ。
クレメンタインとの関係もプラトニックなのはいいが、フォンダが盛んにおめかしするのは見苦しい。

また、アープとドクが出合う酒場のシーン。
打ち解けて仲間になるのはいいのだが、そのきっかけがわかりずらかった。
先に拳銃抜いたドクが、お前も抜けというとアープが丸腰のベルトを見せる。
そのユーモアというか人間性で分かり合えたということか?

ワイアット・アープとクレメンタイン

女性陣はクレメンタイン(キャシー・ダウンズ)とドクの情婦のインデイアン女(リンダ・ダーネル)。
どちらも生活感なく、定型的なキャラクターに見える。
リンダ・ダーネルのエキゾチックで鉄火な魅力は見ごたえあったが。

20世紀FOXのラストタイクーン、ダリル・F・ザナックの総指揮。
例によって総ラッシュ版の後に、ザナック指示によるシーンの削除、追加、撮りなおしがあり、ラストシーンのクレメンタインへのキスも、フォードではない監督による追加撮影だという。

この作品が名場面の連続ながら、人物描写が定型的に見えたのは、「感受性のない」(ジャン・ルノワールによるザナック評)総指揮者の干渉のせいなのか。

「幌馬車」 1950年 ジョン・フォード監督  RKO

騎兵隊三部作を撮り終えたジョン・フォードが自身の原作を自身でプロデユース。
RKOでのびのびと撮った作品。

ベン・ジョンソンとハリー・ケリー・ジュニアにワード・ボンドが主演。
ヒロインはジョーン・ドルー。
彼らは「黄色いリボン」にも出演しており、そのままフォード組に残留したか?
ほぼロケーション撮影。

右下の女優がジョーン・ドルー

モルモン教徒の一団60人が幌馬車隊を作り、西部の移住地を目指して進む。
馬を売りに来た若者二人を道案内に雇う。

インチキ薬売りと芸人の一団を拾い、威嚇してきたインデアンとは和解。
乾きに堪え、山を削って道を作って進む。

ケガをしたお尋ね者一味をも拾ってやるが案の定裏切られる。
力を合わせて窮地を脱し、若者二人は拳銃を投げ捨て、思う娘らとカップリングしてエンド。

のどかな牛追いの歌で幕を開け、ピリピリとしたムードは一切なく映画は進む。

若い主演二人はガンマンではなく平和主義者。
途中で拾う、インチキ医者と踊り子2人への温かい目線は「荒野の決闘」でも見られたフォード一流のもの。
丘を駆け降りてきたナバホ族に、「白人は大泥棒だが、モルモンは違う」と言わせ平和裏に解決。
夜はナバホのキャンプに招待さえされる。
これがフォードの望む理想の西部か。

ジョンソンは踊り子(ジョーン・ドルー)に武骨にプロポーズ(「駅馬車」のジョン・ウエインと全く同じ)。
素直に受けない踊り子は一度別れる。
この二人の関係も「駅馬車」と同様のフォードスタイル。

宗教的少数者、芸人などの底辺者、先住民インディアン、への偏見のなさ、暴力否定。
これらもジョン・フォードの本来のスタイルか。

ベン・ジョンソンとハリー・ケリー・ジュニア、そして一団を率いるワード・ボンド。
この三人、西部の男として、リンゴキッドやワイアット・アープより、より男らしい。
彼らが主人公の「幌馬車」は映画としてより優れていると思う。

若者二人が一度は断った道案内を受けて幌馬車隊に同行を決めるシーンがよくわからなかった。
「荒野の決闘」でアープとドクが意気投合するシーン同様、フォード映画での行動の転換は、理屈ではなく、西部の男同士の阿吽の呼吸によるものということなのか。

DVD名画劇場 丸根賛太郎の2作品

丸根賛太郎という映画監督がいた。

1914年生まれ、旧制富山高校時代に映画研究会で活躍、京都大学入学後から日活京都撮影所に出入りし、そのまま助監督に。
自作のシナリオが片岡千恵蔵御大に気に入られ、1939年25歳で監督昇進。
以来、大映、東映と渡り歩き46本ほどを演出した。
丸根賛太郎は、マレーネ・デートリッヒからとった監督名とのこと。

丸根賛太郎監督

丸根監督の「狐の呉れた赤ん坊」という1945年の作品が、ワイズ出版の「日本カルト映画全集」の9巻目として取り上げられている。

内容は、本作のシナリオ採録をメインに、丸根の奥さん(元大映女優)などへのインタビュー、丸根監督が生前に雑誌などに書いたエッセイの採録など。

丸根監督のエッセイはウイットに富みかつ読みやすい。
文面からは、本人のプロレタリアートとしての信条、ルネ・クレールなど戦前のフランス映画への造詣がうかがえる。

当方、このムックを入手していたところ、中古DVDで本作が出ていたので合わせて入手。
同じく丸根監督の「天狗飛脚」(1949年)と併せてみるチャンスを得た。

「狐の呉れた赤ん坊」 1945年 丸根賛太郎監督 大映

カルト映画なのかどうかはわからなかったが、坂東妻三郎の魅力と人情味があふれる作品で、丸根監督の信条でもあるプロレタリア性も随所に見られた。

むかしむかし、東海道大井川の渡し場に人足の寅八(坂妻)がいた。
酒とばくちと喧嘩が飯より好きな暴れ者。
人足仲間には兄貴と呼ばれ、飯屋の看板娘(橘公子)には慕われてもいる。

この寅八がひょんなことから赤ん坊を拾う。
寅八は酒もばくちも喧嘩も断って、父親になったつもりで赤ん坊を育てるが、赤ん坊は去る殿様の落し胤ということがわかり、涙の分かれを迎える。
丸根監督が企画からタッチし、脚色している。

主役はご存じ坂東妻三郎
ヒロインは橘公子

何といっても阪妻。
この人が出ているだけで映画全体が阪妻調に染め上げられる。
この人のチャンバラは素晴らしく、「血煙高田馬場」(1937年 マキノ雅弘監督)では度肝を抜かれ見ほれたものだ。

今回はコミカルな演技。
貧乏人で暴れん坊だが、1本筋が通っており周りには好かれるというキャラはお約束。

作品中、大事に育てた赤ん坊を取り戻しに来た家老一行に対し、庶民の人情を訴え、啖呵を切る場面が2,3あり、プロレタリアート・丸根の主張がうかがえる。

細かなところでは、渡し場のご意見番として、寅八らが何かと頼る質屋の屋号が「質々始終苦」だったり、サイレントの字幕をうまく使ったり、丸根監督の遊びこころが見られる。
赤ん坊の病気に、寅八が宿場を疾走して医者を抱えてくる場面のスピード感もいい。

阪妻の演技と、人情噺を骨格としながらも、全体を貫くコミカルで明るい調子、またきちんと整理された、わかりやすくテンポの良い演出は丸根監督の持ち味であり、実力だと感じられた。

「天狗飛脚」 1949年 丸根賛太郎監督 大映

市川右太衛門が飛脚に扮し東海道を駆け抜ける。

右太衛門は片岡千恵蔵とともに、戦後の東映時代劇を支え、御大と呼ばれたスター。
この作品では、粗末な格好でとにかく動き、走り回る。

この作品の右太衛門は画面とストーリーに溶け込み、コミカルでスピーデイーな展開の邪魔をしない。
この点はどんな映画に出ても画面を阪妻色に染め上げる板東妻三郎とは異なり、好印象だ。

右太衛門が飛脚屋の仲間(加東大介ら)に兄貴と慕われ、飛脚屋の娘(相馬千恵子)に好ましからず思われながら、子供たちのためにオランダ製の解熱剤を求めて大阪まで走り、江戸の町を荒らす怪盗からの冤罪を晴らすために駆け回わる。
なんと大阪まで東海道を3日で走り抜ける。

怪盗の正体の下手人を捕らえ、解熱剤を適正価格で入手し、家業のためにいやいや大阪に嫁ぐ途中のヒロインを救って大団円を迎えるまで、スピーデイーでテンポよく映画は進む。

昼行燈ぽいが正義感が強い役人に志村喬。

後味がよくすっきりすること請け合いの作品。

スターを使いこなし、会社が求める商業映画としての枠は超えず、わかりやすい作品に仕上げ、自分のカラーや主張も盛り込む。
職人監督としての模範のような2作品だった。