軽トラ流れ旅 軽井沢歴史民俗資料館

晩秋の軽井沢へ軽トラを走らせた。

軽井沢。
夏は細い道々を人と車が埋め尽くし、その雑踏に、ここは信州か?と思わせる場所。
人のいない冬は・・・、「軽井沢に冬行っても何もないよ」(山小舎おばさん談)といわれる場所。
では冬の前の晩秋ならどうか?

ある日、つけっぱなしのテレビにローカルニュースが流れていた。
軽井沢の博物館でゆかりの人物の版画展をやっているとの内容。
ポール・ジャクレーという軽井沢に住んでいたフランス人版画家の回顧展とのこで、映し出される個性的な版画が印象に残った。

ジャクレー展の会場、軽井沢歴史民俗資料館は11月中旬から冬季休館に入るらしい。
その前に訪れてみた。

長野県東部を千曲川に沿って北上する主要国道は18号線。
これに沿って南下し、佐久を柵を過ぎてからは東方向に行けば県の最東端・軽井沢に至る。
古くは中山道の宿場町で、近年は避暑地、別荘地として栄えた軽井沢。

群馬県と上田、長野方面をつなげる国道18号線は常に交通量が多い。
山小舎からは2時間かからない行程だが、軽井沢が近づくにつれて車の量が多くなる。

軽井沢に近づくにつれ、初冬の平日とはいえ、ますます交通量が増える。
車だけではなく、人の姿も多い。
山小舎周辺の景色との差を感じる。

目指す歴史民俗資料館に到着。
庭の紅葉に迎えられる。

歴史民俗資料館玄関へのアプローチと紅葉

窓口のお姉さんに、他の施設(追分宿郷土館、堀辰雄文学記念館など)との共通券購入を勧められ、600円で購入。

急ぎの予定があるわけでもなし、お姉さんと世間話。
中山道軽井沢宿は本陣跡に標識があるだけとのこと。
一つ先の追分宿には多少の景観が残っているとのこと。

歴史民俗資料館の入り口

館内へ向かう。
常設展示を見る。
中世の東山道から近世の中山道に至る歴史、明治以降の外人宣教師による軽井沢開発の歴史、信州の寒村としての軽井沢の風俗・歴史、浅間山噴火の歴史とジオラマなどが見られた。

米が採れず、度重なる浅間山の噴火の逆境の中で、中山道の物流に助けられてきた軽井沢の歴史がそこにはあった。

特別展示企画のポール・ジャクレー展は思ったよりも狭い一室で行われていた。
じゃクレーは、幼くしてフランスから両親とともに来日し、戦時中を経て生涯を終えるまで軽井沢で暮らした人物。

日本画と版画を学び、戦前の朝鮮、満州、南洋を旅行し版画の題材とし、版画用の和紙を特別に作らせ、専属の摺師を雇い軽井沢にアトリエを開いたとのこと。

館内で配布していたパンフより

作品を見ると、南洋の人物を描いた作品には、独特の明るい色使いと、ゴーギャンがタヒチに魅せられたかのような感覚が見られた。

展示会のハイライトは満州の王女たちを描いた版画。
絶妙な発色を子細に組み合わせ、考えられないくらい手の込んだ版画。
解説によると、一つの色を再現するために7色の絵の具を調合したり、一作に200枚以上の版木を作ったとのこと。
画家としての感性もさることながら、作者の根気と執念に圧倒される。

館内撮影禁止のためチラシから撮影。満州の王女を題材とした版画

たっぷり時間を使って館内を一周。
ほかに入場者もなく心行くまで博物館を楽しむ。

挨拶をして出ようとすると、くだんのお姉さんが飛び出してきた。
何事かと思ったが、火曜日はほかの施設が休館、近々それらに訪問の予定がないなら共通券から単館券に変更する、とのこと。
年内に軽井沢を再訪問する予定もないので、差額を払い戻してもらう。
愛想のいいお姉さんには、かえってお手数をかけてしまいました。

1時を過ぎ昼食の場所を探します。
信州のローカルルールで地元の食堂は2時に閉まってしまいます。
国道18号線を追分方面へ走りつつ、目に留まった1軒の食堂に入りました。

1時過ぎても続々来客が入店していた食堂

想像された野郎系の威勢のいい食堂ではなく、地元のヤングミセスたちが待ち受ける定食屋さんでした。
数少ない外食では、チャンスとばかり大食いしがちな山小舎おじさん。
今回も唐揚げに大盛ご飯を頼みました。満腹でした。

みそ汁と漬物はサービスだった

投稿者: 定年おじさん

1956年北海道生まれ。2017年に会社を退職。縁あって、長野の山小屋で単身暮らしを開始。畑作り、薪割り、保存食づくり、山小屋のメンテナンスが日課。田舎暮らしの中で、60歳代の生きがい、生計、家族関係などの問題について考える。60歳代になって人生に新しい地平は広がるのか?ご同輩世代、若い世代の参加(ご意見、ご考察のコメント)を待つ。

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