令和8年畑 初収穫

6月中旬、キューリが初収穫です。
花が咲き、ツルが伸びてきたキューリ。
今年は思いのほか調子がいいです。

ネット動画を見てキューリの剪定を思いつき、やってみたところ、脇芽ではなく主軸を切ってしまったりしましたが、花が咲いた後のキューリは育ちが早いです。

初収穫したキューリ

初収穫の実を塩もみで食べてみました。
青臭く、野性味のあるいつもの畑の味がしました。

ピーマンの実も初収穫。
ピーマンの初めての実は早めにとったほうがいいようです。

ピーマンの実も採って帰る

トウが立ってしばらくたち、種も実ってきたルバーブの茎を刈り取ります。
持って帰ってジャムにします。

ルバーブの茎を刈る

追加で植えたハックルベリーと食用ホウズキが逞しく伸びています。

ハックルベリー
食用ホウズキ

今年は今のところ、カンカン照りの日が少なく、かえって低温の雨の日がたまにあるなど、夏野菜にとっては日照り不足気味ですが、キャベツやセロリなど高原野菜には格好の気候なのでしょう。
葉物の野菜が元気なようです。

キャベツ
ブロッコリー
セロリ

トウモロコシに糠を蒔きます。
追肥です。

根元に糠を蒔いたトウモロコシ

山小舎に水洗トイレがやってきた!(その2)

工事3日目あたりから水洗トイレ関係の施工が始まりました。

現行の汲み取りトイレはそのままに、新たなトイレからの配管を浄化槽と結びます。
ウオシュレット付の便器がメーカーから送られてきました。

汲み取り便槽の工事
送られてきたウオシュレット

4日目の朝には、従来の便器を取り外して、ウオシュレット便器の設置が行われました。
その間、トイレ使用はできません。
また、汲み取り式便槽からは業者の手配により、後日、最終汲み取りが行われます。
空いた便槽は壊して撤去の予定でしたが、山小舎の便槽は大きく、頑丈に作られていたため、撤去が困難とのことで、汲み取り後は埋めることになります。

便所の施工
ウオシュレットを設置
便槽の外の施工

2、3時間でウオシュレット便器の設置が終わりました。
もう水洗トイレの使用ができるようになりました。

トイレ設置と同時に、トイレの床にクロスを貼るようにと、山小舎おばさんからの指示があり、クロス実物も送られてきましたが、業者社長が忘れていたためこの日はクロス貼りはなし。
後日、クロス業者と日程調整のうえ、トイレをいったん外してから床貼りをすることとなりました。

ウオシュレット稼働

浄化槽が土中に設置され、雑排水とトイレからの配管がなされた、山小舎の裏側には配管から地表に出された栓が各所に頭を出しています。
工事によって残された膨大な土砂は重機で均され、平面と法面に整えられました。
深くえぐられたキャタピラーの跡も整えられています。
従来の雑排水の浸透桝だったコンクリートの残骸はすでに撤去されています。

整えられたアプローチ
整えられた法面
最終的な現場の様子

浄化槽設置と水洗トイレ設置の工事がほぼ終わりました。
4日間の工事でした。

カンパをいただいた皆さん、どうもありがとうございます。

山小舎に水洗トイレがやってきた!(その1)

去年から業者に依頼していて、補助金の枠が空くのを待っていた水洗トイレ工事が始まりました。

水洗トイレを設置するには下水が来ていることが前提です。
山小舎周辺には上水道はあっても下水道の設置はありません。
ならばどうするのか?

姫木別荘地には1本の下水道が走っていますが、その周辺以外の地区では下水はありません。
そのためにトイレは汲み取り、雑排水は浸透桝に集めて自然環境へ流すことが行われています。
その状態でトイレを水洗にするのであれば、雑排水とトイレの排水を浄化槽に集め、微生物の作用で無害化して浸透させる方法を取ることになります。

その方法は行政によってオーソライズされており、浄化槽への微生物の定期的投下と排水の環境確認が義務付けられています。
山小舎おじさんのバイト仲間の2軒がこの浄化槽方式のトイレを自宅に設置しており、その使い勝手の良さについてはしばしば聞いておりました。

山小舎でもこの便利な水洗トイレを、浄化槽方式で導入しようと思いました。
快適になります、冬の水抜きも便利になるようです。
ランニングコストは計算上は、年3回の水質検査費用と、年1回程度の浄化層の汚泥汲み取り費用の合計と大差ないようですし。

6月上旬、工事のスタートです。
初日は雨模様のため、機材の運搬が行われました。
大小の重機(ユンボ)が搬送されました。
大きな浄化槽タンクも。
そして仮設トイレ。

運び込まれた重機と浄化槽
作業現場、ここに浄化槽が埋められる
仮設トイレ

3人の人員で始まった工事は、浄化槽を埋めるための穴掘りから始まりました。
ユンボで大まかに掘り、人手で細かく修正して進められます。
山小舎の裏手は斜面なので、浄化槽が埋められる平らな場所はぎりぎりしかありません。
しかもそこには雑排水の排水管の出口も埋まっています。

浄化槽用の穴が掘られる
浄化槽が埋められる

そこはさすがにプロの職人さん、絶妙なサイズで穴を掘り、大きな浄化槽を埋め、掘った土をならしていきます。

掘った土を埋め立てる重機

浄化槽から出た排水管を土中に伸ばして浸透のための装置とし、栓を地表に出します。

浄化槽から伸びた配管

浄化槽と雑排水の配管をつなげ、地表をコンクリートで固めて浄化槽を固定します。

コンクリートで固められた浄化槽
トイレから浄化槽に伸びる配管

この間、山小舎のトイレは常時使用可能でした。
台所、ふろ、洗面所からの排水は排水管接続の工事のための2、3時間の間を除き、使用可能でした。
住人の便利を最優先にした工事の段取りでした。

重機のキャタピラの後が現場に伸びる

ここまでで2日間の稼働。
浄化槽関係の工事が終わりました。
トイレ関係の工事はこの後に続きます。

「ちくま未来新聞」

千曲市屋代の駅でこの新聞を入手した。
駅の無人スタンドに観光パンフとともに無料で刺さっていた。

6月1日号表紙

てっきり店の広告の間に地域情報が挟まっただけの無料ペーパーかと思って開いてみた。
ところが12面からなる、周辺情報満載の明るさに満ちたミニコミ新聞だった。

千曲市内の郵便局、金融機関、JA、駅などが主な設置先の月刊新聞で、年間3000円で全国に配送サービスも行っている。
何より紙面がにぎやかで明るいのがいい。
編集者はまだ若く、地域情報の発信に意欲的なのだろう。

1面のニュースは、千曲市と(株)アクテイオの連携による防災訓練実施の記事だ。
千曲とアクテイオは防災時に向けて協定しているとのこと。
レンタル自動車の大手である同社を巻き込んでいるのがいい。
県内有数の産業地帯である千曲市の面目躍如だ。

同じく1面には市内の高校2校と、長野市の松代高校の計3校が合併して新たな高校が誕生するという地元の一大ニュースについて。
千曲といえども地方の過疎化が現れたニュースだ。

第一面

2面の市内小学校の新任校長先生の紹介記事が地元密着で嬉しい。
ケーブルネット千曲というローカル有線テレビの番組予定も小学校の運動会の模様で埋まっている。

2面の新任校長の紹介

8面、9面へ飛ぶと、市内の上山田温泉の二次元キャラ「温泉むすめ」が誕生し、その声優が決まったという明るいニュース。
初夏の千曲の風物詩・あんずの季節を前に小学生や屋代南高生の摘果体験のニュースなども続く。
忘れてはならないのが、漫談家で千曲の頭領と呼ばれる御仁の出し物の案内。
行きはしないが心惹かれる出し物の広告だ。

上山田温泉キャラと千曲の頭領

10、11面にゆくと定期コラムらしき特色溢れる記事が並ぶ。
「Z世代が行くちくま散歩」は若い世代らしい軽くておしゃれなグルメ情報。
「北国街道・歴史こぼれ話」はローカル紙定番の地域歴史コラム。
ありがちな専門性に特化したものではなく住民が日々接している千曲川を挟んだ奇岩・岩鼻を題材にした親しみやすさがいい。
千曲市と包括連携締結先の信州プロレスの記事もある。

コラムの数々

12面は千曲市民が誇るプロスポーツにしてローカルニュースのお約束でもある、ブレイブウオリアーズとパルセイロレデイースが堂々の全面を占める。
プロバスケットのウオリアーズは成績もよかったようだ。
パルセイロ©レデイースは最下位だったとのこと。

ちくま未来新聞、毎月が楽しみだ。

県立歴史館「長野県民の戦後再出発」展

千曲市にある県立歴史館で「長野県民の戦後再出発」展があり、展示の一環として「おらうちの嫁」という映画が上映されているというので見てきました。

「おらうちの嫁」  1959年  荒井栄郎監督  長野県連合青年団製作 16ミリ・モノクロ・34分(デジタル上映)

この映画の上映を知ったのは、6月5日付の信濃毎日新聞の文化欄に載った記事から。
昭和30年代の長野県の風景だったり人物だったりを見たくて、歴史館に駆け付けました。

映画は館内の小会議室のようなところでエンドレスに上映されており、入室時には3人ほどがいました。
企画展そのものの入場者が、その時にはほぼ0人でしたから、映画そのものを見に来た人が多かったことがうかがえます。

出演者はのちに商業映画などで見る俳優も含まれており、プロのスタッフ、キャストによる劇映画として作れられ邸ます。
ロケ地は飯山、たばこ農家の親夫婦、嫁を迎えた長男、それに長女と次男がメインキャストです。
俳優たちの演技を、時にはクローズアップを用いて演出・撮影されています。

6月5日の信濃毎日新聞より

農家に嫁いだ嫁が出産までの間、古い習慣との軋轢に対し、夫婦間の平等な愛情で乗り越えてゆくのが映画の骨子です。
モチーフは県連合青年団によるものでしょうが、それを脚本家の大内田圭弥が劇映画に落とし込んでいます。
プロの俳優たちの演技は、いってみればパターン化されたものではありますが、そのレベルは商業映画同様に低くありません。

時間の制限もあることから、今では貴重な30年代の空気感に記録を最優先した、いわゆる記録映画的な匂いはありません。

身重となった妻を労う夫が、他者にその様子を見られまいとする様子とか、当時は里帰り出産が当たり前だったが妻の願いで嫁ぎ先で出産することになり、夫が親の意向に反して受け入れることなどが脚本のツボとなっています。

このあたり、松竹映画「この広い空のどこかに」(1954年 小林正樹監督)を思い出します。
町の酒屋に嫁いだ久我美子の戸惑いとそれを見守る夫の佐田啓二が主人公で、最初は量り売りの醤油樽の栓を上手く開け閉めできない久我を佐田が指導するシーンが印象的でした。
夕食後、6畳一間の夫婦の部屋で不安にくれる久我と、それを慰める佐田のシーンも。

映画のワンシーン

「この広い空のどこかに」と本作に共通するのは、戦後になって夫婦として出発した二人が、古い家庭(農家や商家など)に嫁ぎ、古いやり方に戸惑いつつも二人の愛情を前途の希望として前を向く、というもの。
二つの作品とも、旧体制である儀実家が、決して無理解ではなく、いじめたりするわけではないという点が共通している。
生活の困難や壁は己の中にあり、その解決は夫婦の愛情によってなされる、という点でも共通している。

小会議室では1955年制作の岩波映画で、県南の遠山郷に伝わる霜月祭というお祭りの記録映画も同時上映されていました。
南アルプスに連なる山々に囲まれた村からの道を何キロも歩いて通学する小学生の姿で始まる、記録映画らしい記録映画で、貴重な「民俗学的」な映像が楽しめました。

小会議室内には収集した記録フィルムの実物も展示されていました。
「おらうちの嫁」の16ミリフィルムそのものや、このほかの35ミリネガやプリントの一部が展示され、デジタル化による保存の必要性を訴えてもいます。
全国には、地方の団体などが版権を持つフィルムがたくさんあるのでしょうから、それらを掘起し、保存することは大事なことです。
この点でもあいまいにせず、現状をオーオプンにして、きちんと対処しているのがは、長野県らしいことだと感心しました。

「おらうちの嫁」原版フィルム
収蔵品の16ミリフィルム
「長野県民の戦後再出発」展より、戦闘機疾風のタイヤ

歴史館常設展示

歴史館には常設展示コーナーもあります。
先史時代の展示コーナーには巨大なナウマンゾウの模型があり、それが動くのです。
また石器時代のコーナーには実物大の竪穴住居が再現されています。
さらに時代が進んで鎌倉時代になると善光寺に花開いた仏教文化の栄華が映像でレイアウトされています。

金がかかっています。
そしてこの展示、どこかで見たような?
そうです、長野市川中島にある長野市立博物館の展示に似ているのです。

常設展より、ナウマンゾウ
防人と馬

歴史館の展示内容が、長野や松本の博物館とダブっているのは当たり前ですが、ダブった部分の展示が似通った気がするのです。

東山道と古代信濃国

先史時代から石器時代、古墳時代、律令時代、武家時代、江戸時代、明治時代と時を追って県内の歴史を俯瞰した展示内容。
また、その時々に花開いた仏教文化や街道・河川による物資・文化の流通、生糸による近代産業の勃興までをかくコーナーで解説しています。
丁寧に詳しく、郷土への誇りと愛着が根底に窺える、見ごたえのある施設です。

カイコを飼う様子
近代製糸工場の女工

軽トラ流れ旅’26 姥捨棚田とスイッチバック

長野県は東信から北信にかけての千曲川沿いに人家と町が広がっています。
日本一の長流・千曲川は、小海、佐久といった東信地方の水田地帯を潤し、上田、千曲、長野といった人口集中の産業地帯を抜け、中野、飯山から新潟県に入ります。
千曲川流域全体が長野県の動脈となっています。

特に上田から千曲、長野と続くあたりは、千曲川と並行して走る国道18号線沿いに町が途切れず、商業、工業、物流の中心地となっています。

千曲市は、温泉のある戸倉、高校などがある屋代、長野市と接する更埴などの地区から成り立っており、かつての北国街道筋に面した歴史を持っています。
旧国鉄の信越線(現在のしなの鉄道)の沿線でもあります。

千曲市の屋代地区から国道18号線を横切り、千曲川を渡ると稲荷山地区があります。
古の日には生糸で栄え、蔵が立ち並ぶ街でもあったようです。
稲荷山を過ぎると18号線バイパスが走る農村地帯となります。
バイパスを折れて登ってゆくと昔話で有名な姥捨地区があります。

姥捨地区から望む善光寺平(長野市)
名勝「田毎の月」の看板

「楢山節考」のモチーフである姥捨伝説の舞台となった地名が残っているのです。
松本から長野まで山地を越えてやって来るJR篠ノ井線が、スイッチバックで急坂を上る駅が姥捨駅です。

篠ノ井線に乗って松本から来ると、長野市が広がる善光寺平を遠望する姥捨駅で停車した列車が、一度戻って再び上り直すスイッチバックを体験することができます。
駅はいわゆる無人駅のようですが、管理をするおばさんがおり、付近の集落からの通学生徒などが乗降客のようです。

駅構内のスイッチバック用の線路

姥捨駅から下ったところに姥捨棚田と呼ばれる千枚田があります。
浮世絵で「田毎の月」として描かれた場所です。
条件が整えば千枚ごとの田の水面に月が映ったこともあったのでしょうか、それとも浮世絵師の遊び心でしょうか。

「田毎の月」を題材にした浮世絵

駐車場に軽トラを止め棚田の間を歩きます。
田圃ごとに番号が付けられ、管理する法人や個人の名前が書かれた札が立っています。
本当に小さな田圃は耕作されていませんでしたが、それでもこれだけの棚田が残っているのは保存活動のたまものだろうと思います。
棚田のほかの土地も農地が多く、姥捨地区全体の景観保存がなされていることがわかりました。
県内にはこのほかにも上田市郊外などに、観光地化された棚田が残っています。

姥捨の棚田
姥捨の棚田

千曲市中心部から姥捨に至る途中の集落には佐野川温泉・竹林の湯という日帰り入浴施設がありました。
初めての温泉場でしたが、入浴料が400円と安く、シャンプー類は置いてなかったものの泉質は十分よく、効きました。
地元の人しか立寄らない穴場の温泉でした。

竹林の湯エントランス
温泉土産は山小舎ではく草履

奥多摩経由で山小舎へ、軽トラ帰行

東京での家族行事(娘夫婦の誕生会)に出た後、山小舎へとんぼ返りしました。
この旅、娘一家のキャンプに使う薪を4締め積んでの軽トラドライブでした。

山小舎から運んだ薪

行きは薪を積んで朝早く山小舎を出発。
お昼は大月から4キロ富士山側に入った、道の駅都留で。
道の駅都留の物資の豊富さが忘れられなかったのです。

11時を過ぎ、まだ客の少ない食堂でチョイスしたのは、湧水ポークのハンバーグをメインにしたランチプレート。
食券販売機もなく、すべてアナログの対面販売で行われる食堂は、活気に満ち、おいしさに期待が募ります。
野菜たっぷりで、地元の食材をこれでもかと盛り込んだプレートを爆食、満足ここに極まれり。

道の駅都留の食堂で。野菜がうまかった!

2泊過ごした自宅を後にして山小舎への帰途に着きます。
20号線沿いのメインルートはよく通っているので別のルートをチョイスします。
奥多摩経由の「北帰行」ならぬ「軽トラ帰行」です。

自宅から青梅街道を目指します。
日曜の朝乍ら通学するジャージ姿の高校生であふれる三多摩地区の住宅地を延々と抜けます。

青梅街道に出て国道16号線と交差する瑞穂町の交差点を抜けて、青梅地区に入ります。
工場や運送会社などが点在する圏央道沿いのエリアを抜け、青梅街道で奥多摩を目指します。
ここまで2時間以上かかりました。

古い街道の風情が残る奥多摩の道をたどります。
東京都下の街道風情です。

やがて奥多摩湖が見えてきます。
東京の水がめといわれるダム湖ですが今年の水位は低いようです。

この日の奥多摩湖

ダム湖の周囲を巡るように、更に奥までの道が続いています。
短いトンネルが続きます。
路線バスが走っています。
奥多摩駅から山梨県の丹波山村まで走る西東京バスです。

奥多摩駅から丹波山村へのバス路線

道の駅たばやまで小休止です。
直売所や食堂を物色します。
鹿肉バーガーのキッチンカーが出ています。
ここでマップを入手し、郷土資料館を見つけたので寄ってみます。

道の駅たばやま
鹿肉バーガーのキッチンチカー
直売所でのお買い物。鮎めしはと饅頭はうまかった

オオカミのはく製が出迎える郷土資料館。
丹波山村はオオカミというか山犬信仰の村でもあるのです。
武田信玄時代からの金山開発、その後の街道整備。
明治以降になってからは東京とつながり発展したが、過疎化の時代になって塩山からのバス路線も廃止となって現代に至った話。
受付の女性を除き、人っ子一人いない館内には、山村がたどった長い歴史と、それを後世に残そうとする地元の意志の確かさを感じました。

丹波山村郷土資料館
オオカミのはく製
猟に使われていた火縄銃

丹波山村で昼食をと思い、マップをもとに2軒ほど食堂を探しましたが、2軒とも休業とのこと。
国道沿いの古民家食堂で日替わり定食にありつきました。
道の駅以外では閑散として観光客の姿も少ない丹波山村でした。

街道沿いの食堂
日替わり定食。汁の味付けが独特

丹波山から山梨方面に、国道411号線(大菩薩ライン)を進むと、大菩薩山塊を迂回する柳沢峠を越えます。
左に大菩薩山塊を見ながら長いくだりを走ると塩山の町に出ます。
甲府はもうすぐです。

現在、山梨側のバスの路線は、塩山から大菩薩登山口まで営業している余です。
丹波山村から大菩薩登山口までは峠越の道を20キロ以上でしょうか。
とても「路線バスの旅」で使えるルートではありません。

柳沢峠の茶店で小休止

令和8年畑 トマトの支柱組立て、ジャガイモの土寄せ

6月になりました。
畑では今年2回目の草刈りをしました。

苗の活着の具合を見ます。
キューリが思いのほか調子いいようです。
ナスは例年通り、乾燥に耐えている状況です。
トマトは去年並みでしょうか、丈が伸びてきたので支柱を2段、3段と組みます。
脇芽も摘み取ります。

支柱を組んだトマトの畝

キューリが実をつけてきました。
下段の葉と芽をカットして主軸の成長を促します。

キューリ

ナスの一番花をカットして主軸の成長を促します。

ナス

前回、芽かきをして3本立てにしたジャガイモが芽を伸ばしています。
土寄せして芋の成長を促します。

ジャガイモの土寄せ

食用ホウズキが逞しく主軸を太くしています。
支柱を立てて保護するとともに、根元の脇芽と余分な枝をカットします。

食用ホウズキ

直播したトウモロコシ、インゲン、枝豆です。

トウモロコシ。成育がバラバラ
インゲンは調子よい
枝豆。無事実をつけるか

扶桑社新書「60歳のトリセツ」

題名が気になって手に取ってみました。
内容に接して気に入りました。

著者は1959年生まれの女性脳科学者。
学究の道だけでなく、コンピューターメーカー勤務の後、(株)感性リサーチなる法人の社長を務める。
男の子の母親でもあります。

本書は60歳を超えた我々にとって、目からうろこであり、前途に希望が持てるような内容なのです。
それも脳科学者が具体例に基づき説いているのですから、我々素人の読者にとっては、バッサリと、世事の禍事、悩み事を快刀乱麻を断つが如く一刀両断してくれるのです。

例えば老いについて、『脳は世界をうんと狭くして、外のことがわからなくなるのである』、『ボケたというけれど、見方を変えたら、脳が優しい魔法をかけてくれたのに他ならない』(p33)と、体の機能の低下にい伴う脳の活動低下は必然なことだと解明する。

反面、60代の頭脳の秀逸さについて、『56歳以上のベテランから見たら、35歳以下なんてみんな半人前に見える。気が利かない、勘が働かない、言ってもわからない、発想力が乏しい指示待ち人間』(p40)と、最高潮に達した60代の頭脳と、その域に達していない若い頭脳を比較する。
答えは『60になったら(気が付かない)周りを大目に見よう』(p41)のが著者が60代に伝える人生のコツなのだ。

著者は60歳になった読者に高らかに宣言する、『(より美しく、より強く、より賢くというより良い生殖のための闘いという)呪縛から解放されて、自分自身の人生を生きるターンがやってきた。闘いに駆り出される前の、14歳の脳に戻っていいのである』P104)と。
著者は14歳の時に心を震わせた、ビートルズとダンスとラジオの世界に60歳を過ぎて再会し、その当事者となってラジオのパーソナリテイとなったりする。

女性である著者はさらっと説く、『60歳といえども、女ごころは永遠なので、自分がお花畑でひらりひらりと飛んでいる女の子くらいにしか思っていないのである』。
わかった!自分の周りの婆さんや、奥さんや、いいトシした娘さんが勘違いしている理由が!
60代だけではなく、女ごころも解明してくれる著者なのである。

60代の物忘れについてのアドバイスもあります。
『脳が忘れるのは、人生に必要がない、と脳が判断したから。脳に従ってのんびり生きてゆこう』(p135)、と。

著者の著作は「妻のトリセツ」「夫のトリセツ」「息子のトリセツ」「母のトリセツ」と続きます。

ヤン・ハヴラサ著「アイヌの秋・日本の先住民族を訪ねて」

1988年未来社刊の本著を国分寺の古書店で見かけて購読した。
未来社はほかにもアイヌや蝦夷地関係の出版がある。

表紙

「アイヌの秋・日本の先住民族を訪ねて」は1930年にプラハで出版された「日本の秋・わが生涯の断片」から北海道紀行に関する部分を翻訳したもの。
著者は1912年に夫人とともに来日し1年間滞在。
その間に各地を旅行した。
その時の様子が本著にまとめられている。

奥付

何より著者によって撮影されたスナップが多数掲載されており、1912年(大正元年)当時の長万部、平取、登別で、暮らすアイヌ人の姿が残された。
彼等は伝統的なアッシ織りの着物に荷を包み、女性たちは口の周りに入れ墨をしている。

山小舎おじさんの生まれ故郷・旭川には、昭和30年代当時、すでに観光化され切った上川アイヌ部落があったが、当時は入れ墨を掘った老齢の女性がまだいた。
純粋なアイヌ人も多かった。

本著作に掲載された写真は、記憶に残るアイヌ人の古の姿が甦るようで貴重なものである。

平取のアイヌ婦人

文筆家として祖国で名を成した著者にとっては、日本およびアイヌ人の運命を予告しまた評価することは自明の理であるかのような表現が目につく。
曰く『ここでは暴力を用いない民族性喪失のプロセスが進行中なのである』(p72)と、長万部のアイヌ部落と日本人集落の本質的な差異のなさ(アイヌ人のアイデンテイテイの喪失)を見抜き、『アイヌをこれまで知りえたすべての民族の中で最良なものとみなす』(p77)というロシア提督の言葉を引用して、彼等の素朴で柔和な人格を評価している。

長万部にて

著者の慧眼は、サハリンと蝦夷のアイヌ人について、琉球人と同じく日本人と同化した存在と断じたうえで、『朝鮮人については固有の文化を持った大民族であり、白人に対する抵抗の覚醒と同時に日本の支配に対しても抵抗しており、日本としては、海外進出よりも北海道開拓へ集中した方が賢明だと思われる』(p91要旨)、とまで見抜いている。

長万部の貧しい婦人

この時代の日本滞在記として、慧眼に満ち、諧謔にも彩られた読み物であるが、アイヌに対する紀行文的な関心という意味で貴重な文献だと思われる。

平取にて