こうなりゃ神頼みだ! 諏訪大社上社と諏訪湖畔の人々

長野県内も緊急事態宣言。
県知事がローカルテレビでしきりと、不要不急の外出自粛と観光客の来県の自粛を呼び掛けています。
まじめで好感の持てる知事さんなのですが、上から言われたことをなぞるだけのようなコメントが、物足りません。
といっても某都知事のように、ここを先途と勇ましく、テレビにスポットで出まくって、リーダーシップの発揮?ならぬ、公費での選挙活動ばかりされてもどうかと思いますが。

ということで標高1300メートルの山小舎暮らしの定年おじさん、軽トラのガソリンも尽きかけていたので、大門峠を越え、60歳以上割引のガソリンスタンドのある、茅野市のザビック(安売りスーパー)へ向かいました。

折角茅野へ下りたので、諏訪大社へお参りしました。
山小舎を開いた後は、毎年、月遅れの初詣をしている諏訪大社。
上田側の生島足島神社といい、県内有数の神様に車で1時間圏内に位置する山小舎にいられるなんて、恵まれた身分です。

上社前宮へお札をもらいに行く

向かったのは茅野市に位置する、諏訪大社上社前宮。
ご存知の通り諏訪大社は、4つのお宮からなっており、中央に近い2社が上社。
遠い2社が下社と呼ばれます。
上社は、茅野市にある前宮と諏訪市にある本宮からなっており、下社はどちらも下諏訪町にある春宮と秋宮からなっています。

茅野市街を南に抜けた里山沿いに、上社前宮があります。
平時でも参拝客が少ない神社なのですが、この日も連休初日ながら三々五々の人出。静かでした。

参道に茶店もなければ、境内を柵や石垣で囲ってもいません。
おそらく原初の時代と変わらぬ姿を保っている?と思わせる素朴な雰囲気に包まれています。

素朴ではあっても漂う厳粛な雰囲気には襟を正されます。
すがすがしい空間です。
本殿の裏には、祀られている豪族の古墳があるとのことです。

かつては神社を守る有力者の屋敷が連なっていたという古参道は、今では民家の裏道になっています。

境内を流れる清水には、ワサビと思われる草が自生していました。

何年か前にお札をもらった社務所はご時世柄閉所していました。
お札は本宮でもらってくれと書いてありました。

前宮境内から望む、雪を頂いた八ヶ岳連峰です。
原初の時代から変わらぬ景色なのでしょう。

上社本宮へ今度こそお札をもらいに行く

軽トラで10分行けば諏訪市内の本宮へ着きます。

全国的には、諏訪大社といえばここのお宮をさすのでしょう。
広大な駐車場と、参道のみやげ物屋数軒が迎える大きな神社です。

素朴な前宮とは異なり、壮麗な社屋が連なり、お宮の前には地酒の樽が供えられ、社務所には巫女さんが常駐しています。

鳥居から参拝殿へと向かうメインルートは観光地特有の「公な」雰囲気に支配されていますが、境内の背後の原始の森の姿には、本来の諏訪大社の雰囲気を感じることができます。

ここで念願のお札をいただくことができました。
社務所で硝子戸の向こうにいる巫女さんはやはりマスクをしていました。

八重桜満開の法華寺へ

本宮の裏手に法華寺というお寺があります。
初めて寄ってみました。

山門脇の八重桜が咲き誇っています。
何とも言えない鮮やかな色です。

このお寺、忠臣蔵の悪役、吉良上野介の養子の墓があるのです。
山形の米沢から吉良の養子に入り、赤穂事件に連座して、諏訪に蟄居を命じられた養子が、ひっそりと寺の裏手の山すそに供養されています。

この法華寺、明治時代の廃仏毀釈騒動で、かなりのお堂が文字通り廃棄されたとのこと。
並行して、隣接する諏訪大社本宮が、国家神道の名のもと整備、統制されていき、今日に至ったことがうかがえます。

答えはあった、諏訪湖畔は繰り出す人々でにぎやか

ついでに諏訪湖を1周して帰りました。
諏訪湖畔、特にメインの下諏訪町から湖の反対側の岡谷市のエリア。
湖畔に公園が連なっており普段は住民の憩いの場になっていますが、ここが連休初日の今日は賑やかだった!

外出自粛ではなかったのか?
人があふれています。
茅野や岡谷にこんなに人がいたのか?!

それも中高生らしき若者が多い。
平時なら街に遊びに出てしまう若者が、自粛の名のもとに湖畔に繰り出しているのだ。

いいではないか。
平時は人気がなく、死んだようだった地方の町が、実はこれだけ老若男女のマンパワーを秘めていたなんて!

これも緊急事態がもたらした、天地返し、真実暴露、仕切り直しの一環なのだ。にぎやかでいいと思います!

怒涛の農作業3連勤!ジャガイモを植える

農作業3連勤です。
初めてかもしれません。
半月くらい遅れている今年の農作業。
老骨に鞭打って猛チャージ?です。

畝を立てた畑にジャガイモを定植しました。
同時に畑の隅の大量の枯葉と枯れ枝を野焼きしました。

野焼きの前には地元の消防署に電話で連絡します。
これは大家さんの指示でもあります。

都会では禁止の野焼き、焚火ですが、田舎では届け出すればできます。
畑のごみ(野菜の残滓、枯葉、枯れ枝など)は現場で燃やさなければどうにもならない、という田舎の事情を考慮してのものだと思われます。
畑から立ち上る煙という田舎の風物詩は健在です。

野焼きの間にジャガイモを定植します。
男爵10キロ、デストロイヤー、レッドムーン各1キロ、インカの目覚め0.6キロです。
全部で14キロと思っていましたが、12.6キロの間違いでした。
こういった記憶違いというか、思い込みにも、寄る年波を自覚せざるを得ない山小舎おじさんです。

デストロイヤーから植えます。
種芋を包丁で2分割します。
切り口に草木灰をまぶします。
一足幅の株間で種芋を畝に置いてゆきます。

元肥を調合します。
牛糞と糠、化成肥料を混ぜておきます。

株間に間に元肥を一握り置いてゆきます。
種芋と元肥に土をかぶせてゆきます。

男爵の種は小玉ですから、カットはしないで植えます。
種からは既にかなり芽が出ています。

使った畝は、全部で12列半でした。
ちょうど1キロで1列の見当通りでした。
気になるのは畝幅が狭かったのでは?と思ったこと。
これからは育つにつれ、芋が露出しないように土寄せしてゆかなければなりません。

耕耘、畝立て、種植えと怒涛の3連勤を乗り切りました。
ジャガイモの種植えが終わると春の作付けの山を越えた感じがします。
何とか4月中にできました。
腰がしびれて、体がガタガタですが充実感があります。

夏野菜の苗を植えるまではまだまだ作業があります。
キャベツ、長ネギの苗の定植があります。
枝豆、インゲン、トウモロコシの芽出しが待っています。

ジャガイモ用の畝立てをしました

今週は中盤からゴールデンウイーク。
別荘地の作業バイトも5月6日までお休みです。
遅れていた農作業を取り戻すチャンスです。

天気がいいので今シーズン初めて、シーツ、布団カバー、タオルケットの洗濯をしました。
布団も干しました。

牛糞をもらいに長門牧場へ行きました。
地元長和町の数少ない観光名所にして主要産業である長門牧場。
閉園中の張り紙を横目に場内に入ってゆきます。
牛糞の持ち出しはできるようです。
完熟牛糞はほとんど残っていませんでしたが、ジャガイモの元肥くらいは確保できました。

牧場から畑へ向かう道でサルを見ました。
道路の真ん中に出て何かを探しているようでした。
これまで野生動物は鹿のほかに、ウサギ、タヌキ、リスなどを見ましたがサルは初めてです。
写真は撮れませんでした。

段々畑の最下段をジャガイモ用の畑にしようと思います。
幅50センチで畝を立ててゆきます。
おじさんの場合、畝は人力で立てます。
去年やったときより格段に立てやすくなっていました。
土が畑らしくなってきたのと、排水が上手くいっているからだと思います。

途中で、畝の幅が50センチでは狭いのではないか?と思い出しました。
畝幅が狭いと、土中のジャガイモが露出しやすくなり、実が青くなってしまうのです。
去年もかなり青い実ができてしまいましたが、今年も同じミスを犯してしまうのか?
途中から幅60センチに訂正して15列の畝ができました。

男爵10キロ、そのほかの品種が4キロで計14キロの種芋があります。
1キロ1列として14列、予備に1列で計15列の畝を立てました。
これでも畑1枚の半分ほど。
実際はもう少し畝が必要になるかもしれません。

チェーンソーの修理でJAに寄ると、キャベツの苗が出ていました。
キャベツ100株、ブロッコリー、白菜、レタスを10株ほどずつ買いました。
1株20円です。

帰ってから、ポットにゴマの種をまきました。

山国信州も春本番。
夏以降の収穫に向けて畑が忙しくなります。

畑全部を耕し終えました

耕運機(管理機)で残りの畑を耕しました。
耕し残っていたのは、段々畑の上2枚とフェンスに囲まれた畑1枚の計3枚。

まずはいつもの段々畑に向かいます。
この間の晴天で、先日耕した下2枚の畑はいい具合に乾いています。
今日は残り2枚を耕します。
いつも通り、糠と石灰を撒いてから耕しました。

今日耕した2枚は、一番排水ができていなく、石垣寄りの部分は浸水で粘土になっています。
粘土部分は馬力の弱い管理機では、刃に粘土がくっついて耕し切れず、畑として使用できません。

何とか、段々畑4枚を耕し終わりました。
この後は、畝を立てて定植あるいは種まきです。
この畑は鹿が出ますから、作物によっては、ネットなどをかぶせなければなりません。
また、ジャガイモの株間の元肥用に牛糞を牧場から少々調達してこなければなりません。

玉ねぎの様子です。
思ったよりも順調に伸びているようです。
収穫は大丈夫かな?

お弁当の後、もう一か所の畑へ向かいます。
中山道沿いのフェンスに囲まれた畑です。
面積は40坪ほど。借りて4年目となる畑です。

フェンスをあけて管理機を中に入れます。
糠と石灰を撒いて耕します。
食害の心配のない畑なので、果菜、トウモロコシ、かぼちゃなどを作る予定です。
畑らしいホクホクとした土が柔らかく起こされてゆきます。
作土のいいにおいがします。
早速カラスが飛んできて畑を歩き虫をついばんでいました。

畑へ通う道、大門街道です。
昨年の台風19号で路肩が崩壊した現場は、補修ができて通行できるようになっていました。

大門街道を別荘地のほうへ上ってゆき、大門稲荷神社近くの畑で炭を焼いていました。
伏せ焼きというのでしょうか、比較的簡単な方法ではありますが、趣味以外で行う炭焼きの現場を実際見るのは初めてです!
なんだか感動しました。

今日この頃の上田市内

長野県でもマスコミは周到に「外出自粛」を謳っています。
そんな時に、そんな時だからこそ、今年初めての上田市内に行ってきました。

緊急事態宣言下の土曜日。
天気は晴れ、気温も暖かい。
桜は散っていますが、花々がほころび始め、遠く浅間山の残雪がまぶしい。
上田盆地は春真っ盛りを迎えています。

昼食を上田市郊外のとんかつ屋・味楽亭で済ませる。
いつもは地元客で行列のできる店。
時間を外したこともあるが、店内は奥に地元のヤングが10名近くで陣取る以外は、コロナなど気にしてもしょうがないおやじが、単独で三々五々現れるだけ。客席はやっと半分埋まったくらいか。
なによりも寂れかかったような店内のムードがヤバイ!
ロースかつ定食1400円。
こんなに高かったっけ?
ネット情報にあるように、豚肉をはじめとして食料が不足から高騰してゆくのか?
味はいつも通りでした。

上田市内に入る、幹線道路の交通量は平時の1/2くらいか?
中心部の交差点はいつもと変わった様子はない。
軽トラを駐車場に止めて、いつものルートで街を歩き始める。
今年初めての上田訪問だ

トンカツで満腹の腹を抱え、中心部の商店街・海野町商店街を歩く。
いつにもまして人の姿がない。土曜日なのに。

商店街の中ほど、富士アイスに寄る。
ここには人がいました。
といっても平時の半分くらいか。
今川焼を1個買って食べ歩き。

上田映劇へ向かう。
休映中なのは承知。
せめて映画館らしい匂いに触れてみたくて。
館を運営するNPO法人の決意の大文字デコレーションに少々安心したものの、映画館らしくない人気のなさ。
思うのは、いかに歴史ある建物でも、使われていてナンボだなあと。
頑張ってくれ!

海野町商店街に隣接する飲み屋街。
かつては織物景気で、人口比の飲み屋の件数が全国有数だったという上田。
飲み屋街は表面的には健在も、よく見ると自粛中の張り紙の嵐だった。

こうなりゃ、商店街の守り神・弁才天と、隣のお寺の日蓮上人にそれぞれ神頼みや!

同じく中心街にある、カレーのベンガルは扉を開けて営業中。
コーヒーの木の実もやっているようだった。

山小舎おじさんお気に入りの和菓子屋・やまざきやへ。
やってました。
店員さんに聞くと、個人客はそこそこも、学校や会社などの法人需要がなくなっていると。
団子と柏餅を買いました。
ここ名物の新作団子は「桜団子」。
桜の花をあしらった白あんがのった団子でした。

柳町通りへ行ってみます。
旧北国街道沿いの古い町並みです。
シーズンの土曜日には観光客がそぞろ歩く名所ですが、それらしき姿は一組だけでした。
蕎麦屋などの食堂は閉まっています。

おじさんお気に入りの岡崎酒造で、地元米使用の限定版・亀齢を1本。
特製の甘酒も気になったので1本求めました。
畑作業で疲れたときは甘酒がいいのです。
土間にひな人形が飾ってあったのでパチリ。
江戸時代の人形とのことです。

帰りに去年の台風19号で橋げたが落ちた、上田電鉄別所線の鉄橋現場を見てきました。
片方が千曲川に落ちていた鉄橋は撤去されていました。
新たな鉄橋を架設すべく、土台になる堤防を新たに作っているところです。

崩落してから5か月。
遅いような気がしますが、崩落したままの鉄橋が撤去されたのだから、工事は進捗しているのでしょう。

コロナ対策に金を渋るような国が、田舎の私鉄の鉄橋補修なんかに優先して金なんか出すわけない。
とはわかっていても、いまいちポジティブな気持ちになれない春の午後でした。字余り。

雪の降った朝に

4月25日です。
朝起きると雪が積もっていました。
昨日は外で1日バイト仕事をしましたが、確かに風が冷たかった。
夕方から雨か雪の予報。
まさか?

14日に山小舎到着後、2度目の積雪です。
昨年もキャベツを定植してから積雪がありましたが・・・。
あの時は畑がある標高600メートルでも積雪がありましたっけ。
山小舎内部及び周辺の気温は低いです。
冬のようです。

ということで、朝のうちは室内で仕事?2件を片付けました。
まずはトウガラシの保存処理。
昨年収穫したトウガラシをガス台の横に引っ掛けておいてましたが、最近、乾ききって種などが落ちてくるようになったので、実だけを外して瓶に保管することにしました。

カラカラに乾いたトウガラシ4枝を新聞紙の上に広げます。
畑で栽培し、1本の苗からとれたものです。
この4枝のほかに2,3枝を娘のところなどに送っています。
毎年トウガラシは豊作です。

枝から実を外してゆきます。
ハサミで切っていましたが、カラカラに乾いているので手で折ったほうが早かったです。

実だけをより分けて、乾燥剤を入れた瓶に移します。
2,3年分のトウガラシが保存できました。

次いで、2,3日前に直売所で買ってきたフキノトウを加工しました。
1パック100円。
花が開いており、若干のヒネモノですが充分食べられます。
天ぷらが美味いのですが、一人の時には揚げ物はしない山小舎おじさんは、フキノトウ味噌を作ってみることにしました。

フキノトウ味噌は初トライです。
みじん切りにすると苦い香りが広がります。
早春の香りです。
さっと炒めて味噌、酒、砂糖を加えます。

フキノトウ味噌の完成です。
早春の食事のパートナーができました。

畑2枚を耕しました

今日は別荘地の管理事務所バイトを休み畑仕事をする日です。

軽トラに道具と材料を積み込みます。

今日は耕耘をしようと思うので、その前に畑にまく糠と石灰を積みました。
肥料などを畑に蒔くときに使う箕も、耕運機を縛るロープも積みました。
耕運機用のガソリンもです。

弁当を持ってゆきます。今日はサンドイッチです。
ハムを炒めて卵でとじました。
味付けは粒マスタードとマヨネーズです。

畑に出発。
大家さんの納屋で耕運機(管理機)を借ります。
大家さんからは自由に使ってよいといわれています。

シーズンの使い始めの耕運機は、エンジン内のガソリンが使い切っていました。新たに持って行ったガソリンをタンクに入れ、チョークを引いてエンジンを始動しました。
耕運機を軽トラに積んでロープで縛ります。
運送屋さんや農家が荷物を固定する縛り方があるのですが、山小舎4年目のおじさん、まだマスターしていません。
恥ずかしい限りです。
早々にマスターします。
ちなみに管理事務所のバイト仲間のおじさんたちは、その縛り方をとっくに使いこなしています。

畑に着きました。
排水路を掘った4枚組の段々畑です。
このうち水はけのよい下2枚を耕耘します。
一番下の畑はジャガイモを植える予定です。
キジのつがいがオスを先頭に畑の端をかけてゆきました。

耕す前に、ぬかと石灰を撒きます。
ついでに去年、牧場から畑に運んできた牛糞の残りも蒔きます。

耕運機で耕してゆきます。
縦横耕して畑1枚に、ほぼ1時間かかります。
水気のあるところは土がほぐれません。
雑草の根は掘り起こされますが、このままにしておくと再び根付いてしまいます。

また、耕耘したからと言って即、種まきや苗の定植はできません。
鍬で1列ずつ、畝を立てなければなりません。
まだまだ作業は続きます。

さて一昨年、昨年と借りた、集落の裏の畑が去年の台風の鉄砲水で使えなくなっています。
状況はその時のままです。
上流から順次、修復しているのでいずれ修復されるものと思います。
今年中は無理かな?

昼食のサンドイッチは、いつものハムだけのものより数段うまかったです。

連休中には、ジャガイモ、里芋の定植、キャベツなど春野菜の定植、ハーブ類の定植、枝豆やトウモロコシの芽出し(ポットへの種まき)を行おうと思います。

夕食の一品には直売所で買ったアスパラ。
これが甘くて絶品!でした。

別荘地作業バイト開始!

今日から山小舎でバイトを開始しました。
別荘地の管理事務所の作業です。
毎年4月から5月は、側溝などの落ち葉除去。
6月から9月までは草刈りが主な仕事です。
おじさんは今年で3年目です。

今日のバイト数は8名。
ほぼ最大限の出勤数です。
うち6名が別荘地の住人。
2名が茅野市から通ってきています。
毎年メンバーがほぼ固定化している陣容ですが、今年は茅野からの2名が初参加となりました。

9時から17時まで、土日祝日と雨天以外が勤務日です。
昼休み1時間は山小屋へ帰って昼食を摂ります。
おじさんは、体力的にも畑仕事との兼ね合い的にも、最大で週3日ほどの勤務です。

今日の仕事は別荘地内の側溝の落ち葉除去です。
軽トラに道具を積んで出発し、時々休みながら仕事します。

道具は、熊手のほか、鍬、スコップなどです。
集めた落ち葉はダンプに積んで近くの山の捨て場に持っていきます。
捨て場には重機で掘った巨大な穴があり、そこに捨てるのです。

別所内は広大なため、仕事はいくらでもあります。
現在の落ち葉除去の仕事は特段の技術がなくてもできますが、6月頃からの除草は、刈払機を使うので若干の慣れが必要です。
特に斜面での刈払機の使用には体力を使う仕事です。

貴重な現金収入の手段でもあり、貴重な対外コミュニケーションの機会でもあり、体に気をつけながら続けてゆきたいと思います。

旅行記を読む ユーラシア篇

旅行記を読むのが好きな山小舎おじさんです。

ちょっと前に「ヒマラヤ自転車旅行記」という本を読んで、それまで読んだ旅行記を思い出しました。
ユーラシアを舞台にした旅行記で忘れられないものを挙げてみました。

「ヒマラヤ自転車旅行記」B・セルビー著 東京書籍

47歳、子供3人を育て上げたイギリス人女性が自転車でパキスタンのカラチから、ギルギットを経て、インドに入りカシミールに入り、戻ってインドからネパールを横断、シッキムまでの旅行記です。

1980年代の旅です。
1970年代の第一次バックパックブームの後の時代で、ヒッピーブームも終わっていました。
とはいえ、西ヨーロッパ人にとってはパキスタン、インドは遥か彼方の文化果つるところ。マイナー地帯もいいとこです。
そこへ挑むのは、西洋社会では変わり者と言っていいでしょう。
しかも47歳の女性というのがすごい。
思い込んだら突き進む馬力は白人らしいし、自転車の整備や部品の手配、飲み水の消毒剤の携帯や、宿泊場所を各国の事情に合わせてなるべく事前に手配してゆくという用意周到さも白人らしい。

パキスタンのラワルピンディーからギルギットへの道・カラコルムハイウエー(といっても絶壁を削った砂利道)は、1982年に、不肖山小舎おじさんもバスで通りました。
47歳の著者が自転車で通った1年後です。
もう1年早かったら47歳の白人女性の自転車を、26歳の山小舎おじさんが乗ったバスが追い越していたかもしれません。

「シルクロードを全速力」 D・マーフィ 現代教養文庫

1963年にヨーロッパからインドまでを自転車旅行したアイルランド女性の旅行記。
ヒッピーブームもバックパッカーブームもなかった60年代のユーラシア紀行として貴重でもある。

1983年の「ユーラシア自転車旅行記」と比べて共通点と異なる点があります。
共通点としてはどちらの女性も現地人からメンサヒブと呼ばれることです。
貴婦人とか女主人とかの意味で、植民地人が白人の女性に使った称号の名残でしょう。
また、女だてらの自転車冒険旅行に対する尊敬の念からのことかもしれません。

自転車の機材、宿泊場所に対する用意周到さも共通しています。
1963年の冒険者はピストルさえ携行し、あまつさえバルカン半島を走行中に使用さえしています。オオカミに対してですが。

1983年の白人女性冒険家は、ピストルは携行していません。
当時のユーラシアは(特にインド、パキスタン、ネパールは)旅行している限りでは命の危険はむしろ北米、中南米などよりは安全な場所であることが認知されていたことによるのでしょう。
むしろ、白人旅行者は現地人からは金だけを落としてもらう対象として見られていたきらいがあります。
そうでなければ麻薬を吸いに来たアウトサイダーのイメージでした。
現地人もかなりすれてきており、興味があるのは彼らが持っている金だけ、といった風情になっていました。

その点、1960年代の旅行記「シルクロードを全速力」は、主人公の白人も現地人もまだまだフレッシュで、読者も一緒に冒険しているかのような、ハラハラ感に満ちた旅行記になっています。
空路を嫌い、フランスのダンケルクからバルカン半島を通っての行程。
不潔だ、野蛮だいう前に異文化世界に飛び込む勇敢さには、ヒッピー出現以前の正統派冒険旅行者の潔さを感じます。

イランの行程では、おじさんにも懐かしい地名が出てきます。
おじさんがソ連の侵攻で行けなかったアフガニスタンのカブールやバーミアンの描写もあります。

現在、旅行記は巷にあふれています。
世界中で旅行記に著されていない場所はもうないくらいの勢いです。
よほど珍しい場所でなければ、また不自然なほどキャラの立った著者でなければ旅行記を出せないような状況です。
その点、「シルクロードを全速力」は正統派の旅行記として貴重です。
誰もが今となってはうらやむものの、同じ時代に生きていたとしても決して行わなかったであろう、冒険旅行を行った著者の淡々とした事実の記録です。

「脱出記」S・ラウッツ著 ソニーマガジンズ刊

これは貴重な記録です。
旅行記ではありません。
第二次大戦でソ連の捕虜となり収容所送りとなったポーランド将校が、収容所を脱走し、6500キロを踏破してインドまでたどり着いた記録です。

ポーランド将校がなぜソ連の捕虜になるのか?
ご存知のようにポーランドがソ連の衛生国になるのは戦後の話で、それまではドイツからもソ連からもいじめられるのがポーランドだったからです。
特にソ連にとって戦後の衛生国化を見越したポーランド政策は、国力の弱小化が戦前からテーマでした。
国のエリート層である将校クラスの粛清はその一環だったのです。

シベリアの収容所を6人の仲間と一緒に脱走した主人公は、バイカル湖を越え、モンゴルに入り、ゴビ砂漠、チベットからヒマラヤ山脈を越えて、インド領シッキムへと到達します。
その間仲間を3人失います。
バイカル湖付近では17歳ほどのポーランド人少女が一向に加わりますが、その少女は、ゴビ砂漠で疲労と栄養失調から行き倒れとなります。

本筋は脱走記なのですが、旅行記として読んでみてもこれ以上の冒険旅行は聞いたことがないくらいです。

ソ連領を越え、モンゴルに入ってからは放牧民から施しを得つつ、ゴビ砂漠では食べるものがたまにいる蛇しかなく仲間を失い、チベットでは再び住民に施しを得つつの旅。
雪のヒマラヤ越えでは、登山家でもしないと思われる雪渓や崖を越えます。
こんなところには誰もいないだろうという崖の中腹に、放牧民の越冬場所がある記録などは紀行文としても貴重なのではないでしょうか。

モンゴルに入った時点で投降するという選択肢もあったでしょうが、最後まで頑固に初志貫徹するところに白人のメンタリティを感じます。

最後のヒマラヤ越えの時に、雪男?とみられる2匹の動物を3時間にわたり数百メートル離れた場所から観察する描写があります。
わざわざこの脱出記に書き加えたのですから事実だったのでしょう。

いずれにしても稀有な記録です。

「カシュガルの道」S・ジョインソン著 西村書店刊

題名にひかれて購入しました。小説です。
1923年に伝道のためにカシュガルに赴いたイギリス人姉妹の物語。

その子孫が現代のロンドンで、自らの先祖の1920年代のシルクロード最深部での伝道を通しての人間性の秘密に向き合う、といったストーリー。
どうせ100円で買ったゾッキ本、面白くなかったらやめようと思って読み始めて、2ページ目、1923年のカシュガルの道端での現地人少女の出産の描写で度肝を抜かれ、そのままこの小説に引き込まれました。

本書のテーマは、先祖の秘密を暴く行程ですが、自我と妄執が絡み合った白人ならではの業の深さを感じる秘密自体はともかく、舞台となるカシュガルの描写は、紗がかかったセピアの写真のようでもあり、現地の埃を感じるようでもあり(カシュガルに行ったことはありませんが)、なんともいえないものがありました。

「チベット旅行記」河口慧海著 講談社学術文庫

シルクロード、チベット関連の旅行記というと本著にとどめを刺すのではないでしょうか。
日本人僧侶が外国人入国禁止の当時のチベットに入るため、羊をおともにヒマラヤを越えてゆく話です。
携帯食料は麦焦がし、現代の防寒着もなく雪山を越えてゆきます。
襲い来るチベット犬を杖で払い、放牧民の庇護に助けられます。

現在のネパールからチベットに入りますが、カイラス湖を通ってラサに至る詳細の行程は現在でも明らかになっていないそうです。

チベット語を学び、僧侶として道中で修業し、情報を集めたうえでの入国です。滞在中はチベット人で通し、日本人であることが見破られそうになった時点で再度秘密裏に出国しています。

この本のハイライトは雪のヒマラヤ山中で道に迷い、羊とともに死を覚悟する場面でしょうか。
まさに冒険旅行記の神髄にして白眉です。
1901年のことでした。

信州ソウルフード放浪記VOL.9 中華といえばテンホウ

長野県も緊急事態宣言。
そんなときにソウルフードもないのだが、腹は減る。
茅野へ買い物に行ったときに地元長野の中華チェーン・テンホウへ行きました。

県民には常識以前の中華チェーン・テンホウ。
茅野市内だけでも3店舗の存在を、長野県4年目の山小屋おじさんでさえ知っています。

別荘管理事務所のバイト仲間(東京出身)いわく「長野県民はテンホウを中華料理と思っている」。

そんなこともないと思いますが、ある意味真実をついている言葉です。

そんなこともない、と思うのは、全国チェーンのバーミアン(茅野市内に1店舗ある)にもそこそこ客が入っていることからもうかがえます。

ある意味真実、と思うのは、このテンホウチェーン店、コンセプトが昔懐かしい「デパート食堂」のようで、地元に愛されているからです。

「デパート食堂」のコンセプトとは、一つの食堂で洋食、和食、中華、すしを出し、デザートまで用意していることなどです。

山小舎おじさんが育った北海道旭川には丸井さんと呼ばれるデパートがあり、そこの食堂のコンセプトがまさにその通りでした。
メニューが多いだけでなく、そこそこ本格的な味でした。
今でも丸井さんの食堂で食べたハヤシライス以上のハヤシライスを食べたことがありません。
ハッシュドビーフが乗っているライスではなく、焦げ臭い(小麦粉をちゃんと焦がしている)ルーが適度のとろみで乗っているハヤシライスでした。

話がそれたついでに、岩手の花巻にマルカンデパートというデパートがあります。
出張ついでにそこの食堂に行ったことがありますが、街中に人気のない花巻にあってそこの食堂だけは地元民でいっぱいで、来てよかったと思いました。
メニューは昔ながらのデパート食堂そのもの。
トルコライスというものを頼みました。
専用の台にセットされたソフトクリームも現役でした。

話を戻します。

テンホウは失われたデパート食堂のコンセプトを一部受け継いだ中華食堂です。主力メニューは中華定食ですが、デザートメニューにラインナップされている、ソフトクリームが泣かせます。

そういえばお隣の上田市内でそこだけ地元の人が並んでいる、富士アイスという店があります。
今川焼が主力商品なのですが、ソフトクリームも出しています。
小さなサイズですが今どき150円でソフトが食べられます。

テンホウといい、富士アイスといい、地元民の心をつかんでいるのは、昔ながらのデパート食堂のコンセプトを受け継いでいるからなのかもしれません。

さんざん前置きが長くなりました。

緊急事態宣言下のテンホウ。
土曜日なのに客はおじさん一人でした!
時刻が13時を過ぎてはいましたが。
かつては茅野市役所近くの店舗など、昼時はいつ行ってもほぼ満員だったのに。

そのうちもう一人お客が入ってきました。
それからテイクアウトのおばさんも。

食べたのはラーメン野菜炒めセット。
ラーメンの麺がいい縮れ具合で結構でした。
野菜炒めはおとなしすぎる味付けでしたが、もともと本格中華をコンセプトとした店ではありません。
そんなことより温泉卵がセットされていたことが新鮮でした。
値段は810円。
県内にしては強気の値段設定だと思います。

決して満足感が足りない味と量ではありませんが、過剰なプレゼンは一切行わない質実剛健な県民性を表したかのような内容のメニューでした。
おじさんは嫌いではないけれどね。

茅野市内での外食シーンとしてはついつい選んでしまうテンホウ。

ちなみにうちの家族と一緒に昨年夏に山小舎へ来たとき、到着が遅れ、テンホウで夕食を摂ったことがあります。
おじさんとしてはあまり勧めなかったのですが、家族が「どこでもいい」とのことで寄りました。
結果、家族がその味に怒っていたことを思い出しました。

あなたが、ある中華メニューにこだわりがあり、そのメニューをテンホウで注文したとして、必ずしもご期待に沿えないのが残念なテンホウではあります。

というわけで県内限定の味!中華チェーン・テンホウでした。