青春18きっぷ  飯山線の旅

今年の夏の青春18きっぷ、2回目を使っての旅です。
茅野→松本→長野→飯山のルートで往復の小旅行です。

07:33~08:23 茅野→松本 中央線

朝の茅野駅から出発です。
2学期が始まった高校生たちでホームがいっぱいです。
たくさんの高校生たちが乗車しましたが、彼らはなぜか座ろうとしないのでベンチシートの座席はところどころ空いています。

座って松本まで行けました。
高校生たちは上諏訪、岡谷と順繰りに下車してゆきます。
岡谷を過ぎると時間的にも車内は勤め人、学生風の乗客ばかりとなりました。
早くも予報通りの夏の日差しが照り付けます。

朝の茅野駅ホーム。この後人が増え続けホームは満員状態に

08:40~09:58 松本→長野 篠ノ井線

松本からは篠ノ井線普通列車のみすず号で長野を目指します。
普通列車ながら愛称付きの列車です。

しばらくは犀川に沿って低地を北上します。
安曇野市の明科という駅でかなり人が下りました。
篠ノ井線は松本と安曇野を結ぶ路線でもあるのです。

運転手は女性です。
運転見習い中の男性を指導しながら運転しています。

松本駅で普通列車みすず号の出発を待つ。左は特急あずさ
この日の運転は女性が。見習いさんを乗せている

明科を過ぎるといよいよ長野方面に向け線路は山越えに入ります。
しばらくは山間の田園風景の中を進みます。

聖高原を過ぎ、姨捨にかかるあたりが峠です。
姨捨の駅をスイッチバックで越えた列車は、善光寺平に広がる長野市を眼下に見ながら山を巻くように下ってゆきます。

峠に向かわんとして小休止の篠ノ井線。冠着駅で
姨捨から眼下に善光寺平を望む

県内最大の都市長野に到着。
飯山線の発車までの間、改札を出て近代的な駅ビルの中を散策します。
いつもながら長野駅の駅ビルの県内土産の取り揃えはぴかイチです。
地酒、ワインや発酵食品など県内の名産品を見ると欲しくなります。
帰りに寄ることにします。

近代的な長野駅で途中下車

10:29~11:14  長野→飯山  飯山線

2両編成の飯山線、越後川口行きの列車に乗ります。
長野から信越線の新潟県・越後川口までを結ぶ路線が飯山線です。
初めての乗車です。
今日は新潟県境の町でもある飯山で下車することにします。

長野駅での再入場時に間違って今日2度目のスタンプが押されてしまった!
ホームでは越後川口行きの2両編成が待つ
車内風景。さあこれからが旅の始まりだ!

飯山は古くから越後と結ぶ物資の流通ルート上に位置し、信州の北の玄関口と呼ばれていました。
現在ではウインタースポーツで有名な野沢温泉村、木島平村、斑尾高原などの玄関口としても有名です。

途中から千曲川に沿って飯山線は進みます。
長野を出ると県内には大都市もなく、乗客数は少ない車内ですが、沿線の集落は家々の数も多く、なんとなく昔からの富の集積を感じさせます。

千曲川に沿って飯山線は進む
旺盛な夏草の茂りが車窓を打ち叩かんばかりの一瞬!

飯山をさ迷う

飯山駅に到着しました。
北陸新幹線が止まるようになって新築されたのでしょう、立派な駅舎です。
さっそく観光案内所で市内のマップを入手します。
ついでレンタサイクルを調達します。

新幹線開通で威容を誇る飯山駅

駅ビル内のレンタサイクルショップ。
自転車に限らず広くアウトドア関連のグッズが展開するショップになっています。

ここのお姉さんが親しみやすい人で、市内の見どころから雑談に至るまで、おじさんのお話相手をしていただきました。
初めての土地でのざっくばらんな人との出会いに不安も解け、親しみがいや増す山小舎おじさんです。

お姉さんありがとう!
(レンタサイクルの返却時に、地元で人気のパテスリーヒラノで買った洋菓子2つを、貴重な情報のお礼にお渡ししました。)

駅ビル内のアウトドアショップで自転車をレンタル
マップを片手にお姉さんから情報収集

昼飯はレンタサイクルショップのお姉さんも御用達のイナリ食堂へ。
限定のかつ丼を頼んでみました・・・。

結論を言うと後悔するほどの大盛でした。
道理で体育会系の若者がどんどん入ってくるわけだ・・・。
それでも飯を完食、食べきれなかったカツ3切れをテイクアウトしてもらって這う這うの体で店から出ました。

(レンタサイクルショップのお姉さんに「食べきれなかった…」と報告すると「やっぱり…」と言ってました。)

地元で有名なイナリ食堂へ
見よこのボリューム

カンカン照りの陽気に苦しい腹。
自転車でマップを頼りに、ふるさと館、雁木通り、飯山城址、商店街と市内を回ります。
合間に神社仏閣にもチョイスして寄ってみます。

ふるさと館の近くに神社があったので寄ってみました。
稲荷神社です。

片山稲荷神社
階段を上ってお参りした

雪国独特の雁木という昔のアーケードが残る商店街がありました。
レンタサイクルショップのおねえさんの情報で知った雁木通りです。
情報は地元で仕入れるに限ります。

通りの両側に仏壇屋が並んでいます。
通りの山側にはお寺がずらりと並んでいます。
まるで仏壇屋がお寺の出店として並んでいるような塩梅です。
案外そういうことだったりして。

雁木通りのはずれからはジャンプ台が見えます、さすが雪国です。

雁木通の標識
雪国ならではの雁木が続く
雁木通りの山手にはお寺が続く。大聖寺のお地蔵さん

飯山城址公園にもゆきました。
上杉謙信が信州侵攻の出城として築いたという飯山城。
千曲川と街道を見下ろす地勢上の要衝にありました。

天守付近に立つ城跡の標識
城址公園内の風景

商店街は地方都市の例にもれず閑散としています。
その中にガイドブックに載るような店がポツンぽつんと営業しています。
目抜き通りの土地は廃業したものの旧オーナーたちの支配が続き、それ以外の場所で若い事業者たちが商売を始めている・・・ということなのでしょうか。

洋菓子、ウナギ、笹寿司など元気そうな店が点在してはいました。
本屋も残っていました。
飲み屋は点在していましたが、いわゆる飲み屋街らしきものは見当たりませんでした。

市内本町付近の商店街
駅近くの公園に置かれたC56蒸気機関車が雑草に覆われていた。かつては飯山線で活躍していたことであろう

かつては越後とのルート上の町として数多くの料亭が軒を連ねたといわれる飯山。
その時代を知る名残は、たくさんのお寺と雁木通の仏壇屋だけになっているようです。

現在の飯山は、新幹線の開通と、アウトドアレジャーで巻き返しを図っていますが、頼みは野沢温泉村に定着し、斑尾高原などに進出しつつあるという(レンタサイクルショップのお姉さん情報)外国人、ということになるのでしょうか。

自転車の返却時、情報のお礼に洋菓子を渡すと、お姉さんはとても喜んでくれました。
アンケートに答えると「信州IIYAMA」のネーム入りペンをくれました。

15:58分の長野行列車で飯山を離れ、長野駅でお土産を仕入れて帰りました。

お土産。甘酒(飯田)、日本酒(佐久)、みそ(岡谷)、ラーメン(長野)

ビリー・ワイルダーと「失われた週末」

アメリカで活躍した映画監督にビリー・ワイルダーがいる。
1906年旧オーストリア=ハンガリー帝国生まれのユダヤ人で、戦前にアメリカに亡命。
脚本家、監督としてハリウッドで活躍し、2002年没。

「ハリウッド帝国の興亡」にみるワイルダー

手元にある「ハリウッド帝国の興亡・夢工場の1940年代」には当時のワイルダーについての記述があるが、それは以下の通りとても印象的なものであり、ワイルダーの人となりと遍歴が浮かび上がる。

黄金の40年代ハリウッドを考察した著作

(共同脚本家として一時代を築いた)チャールズ・ブラケットは、ワイルダーの本質の多くを嫌っていた。
つまり人間嫌い、死を連想させるような不気味な感覚、冷酷さ、根っからの粗暴さ、などを。(同書ページ567)

サンタバーバラでの「失われた週末」の試写会は笑い声に迎えられた。
大声の笑いとくすくす笑い、嫌悪感を抱かせる映画だというアンケート用紙の回答に迎えられた。(ページ565)

1945年の秋、「失われた週末」は公開された。
批評は素晴らしかった。
そしてワイルダーは、監督として初めてのアカデミー賞を受賞、脚本の共同執筆者としてもオスカーを授かった。(ページ565)

「サンセット大通り」(50年)を自伝的作品とみるには幾通りかの解釈がある。
ワイルダーはかつてベルリンのホテルで雇われダンサー兼エスコートをしていたので、ジゴロの困惑といったようなものは身に染みていた。(ページ567)

ワイルダーは「サンセット大通り」の冒頭シーンに、死体保管所で死体同士がここに来ることになったいきさつを語り合う、という、おぞましくも不気味なシーンを撮影した。
ロングアイランドでの試写会でも「サンセット大通り」は嫌われた。笑われたばかりではなくブーイングされ、シーシー野次られ、嘲られた。
ワイルダーは、死体同士の会話という設定から、主人公(売れない脚本家:ジゴロ)の死体単体によるモノローグへと冒頭シーンを撮りなおした。(ページ569)

1950年の夏に公開された「サンセット大通り」は批評家から受けて当然の絶賛を受け、興行成績も上々だった。(ページ571)

テレビ洋画劇場でのワイルダー

テレビの洋画劇場で40年代、50年代、60年代の洋画がせっせと放送されていた時代。
山小舎おじさんは中学生から高校生だった。

テレビで「お熱いのがお好き」(59年)や「アパートの鍵貸します」(60年)を見た。
大学生になっての上京時、大塚名画座という今は亡き映画館(大塚駅近くの八百屋の二階にあった)で「あなただけ今晩は」(62年)を見たこともあった。

いずれもワイルダーの代表作だ。
展開の速さ、オチ、ペーソス、伏線、演技、どれをとっても良くできた作品で、引き込まれるように見た。

3作品とも主演はジャック・レモンで、すっかりファンになった。
テレビ放映では吹替の愛川欣也の名調子に、レモンの演技と愛川の吹替が一心同体に見えた。

日本におけるワイルダーの評価も、上手にコメデイを作る巨匠というようなことで落ち着いていたような気がする。「麗しのサブリナ」(54年)、「七年目の浮気」(55年)、「昼下がりの情事」(57年)などもワイルダー作品である。
ヘップバーン、モンローなど旬の有名どころを使い、だれもが満足するストーリー展開と、たっぷり予算を使った舞台装置。
たっぷりの予算を十分回収しうる興行成績。
押しも押されぬハリウッドの巨匠である。
しかも批評家受けがいい。
それだけの才能を持った作家がワイルダーだった。

ワイルダーと「失われた週末」

この夏、渋谷シネマヴェーラで「恐ろしい映画」特集をやっていた。
お盆の帰宅の際、その中の1本「失われた週末」を見る機会があった。

脚本はワイルダーとチャールズ・ブラケットの共同。
主演はレイ・ミランドとジェーン・ワイマン。
1945年のパラマウント作品である。

ワイルダーの出世作にして代表作の1本。
それまで大根役者といわれてた主演のミランドがアカデミー男優賞を受賞して演技派開眼、というオマケまでついた非の打ちどころのない会心作、といわれている。

シネマヴェーラの怖い映画特集に出かける

「ハリウッド帝国の興亡」による影響か、「失われた週末」にはワイルダーの持つ、影の部分、おぞましさを好む陰湿さが濃厚に反映しているのではないか?と思った。
だからこそぜひ見たかった。

内容はアル中に苦しむ作家が恋人の無償の支援を受けて更生に向かうまでの姿。
ワイルダーらしく冒頭のシーンからエンディングに至るまで、人物配置、伏線などに怠りはない。

取ってつけたようなハピーエンドも、それまでの無償の愛を貫く恋人の人物描写が伏線として生きており、何よりスピーデイーに展開する結末のシークエンスが観客を納得させる。

アルコールを求めて街をさ迷う場面

しかしながら決して脇のエピソードとは言えない二つのシークエンスの緊張感はハピーエンドを旨とする当時のアメリカ映画とは思えないものがあった。

一つ目は酒代を求め、質草のタイプライターを抱えて、安息日のニューヨークを質屋を求めてさまよう主人公の描写。
二つ目は酒屋で強盗を働いた挙句、放り込まれるアル中専用の病院内の描写。

アル中病院の奇妙な看護師にあしらわれる主人公

先のシークエンスではドキュメンタルな手法を駆使し、ロケーションによる臨場感を強調し、後者では表現主義的とでもいおうか、デフォルメされた収容病院内の恐怖を強調している。
これら予定調和を無視した緊張感あふれる画面作りは、単にアル中患者の不安定な心理描写ということにとどまらず、カフカの小説の主人公のように不条理にもてあそばれる恐怖を連想させる、劇中でも特異な雰囲気に満ち満ちたシークエンスになっている。

アメリカに亡命を余儀なくされたユダヤ人であるワイルダーが経験したであろう、戦前のドイツ時代からそれ以降の「不条理への恐怖」が色濃くも反映してはいないだろうか。

おまけにというか、さりげなくユダヤ教への絶望、キリスト教へのあきらめも表現されている。
主人公が質屋巡りをする日がユダヤ教の安息日で、ユダヤ人が経営する質屋が全部閉まっており、彼ら(ユダヤ教)からは見放されたという設定と、主人公が前途に絶望し、十字を切るポーズで自殺を暗示する描写である。
一方で主人公を憐れみ、5ドルを恵んでくれた、バーを根城にする娼婦のアパートの目印がインデアンの塑像であることは何の暗示だろうか。

おぞましさ、不条理の描写というと、ルイス・ブニュエルという映画監督を思い出す。
女性の足、靴、ストッキングへのフェチを隠そうともせず、またキリスト教会の権威への明快なオチョクリなど、この御仁の作品はトンデモナイ描写の連続だが、スペイン人でメキシコで映画のキャリアを積んだブニュエルが、どこかすっとぼけた、憎めない、乾いたカラーを持っていたのに比して、オーストリア=ハンガリー帝国出身のワイルダーの描写はひたすら深刻で、暗く、イジワルで痛々しく映る。
その点については、長年の共同脚本家を務めた、ブラケットのワイルダー評は的を得ている。

後年、ワイルダー作品からはこのような直截的な恐怖心の描写は見られなくなったものと思われる。
が、よく見れば「お熱いのがお好き」はギャングから逃れ、女装して楽団に潜り込む追い込まれた二人組の話だし、「アパートの鍵貸します」は、がんじがらめの会社組織で理不尽な上司の要求に逆らえない、出口のない部下たちの話であった。

いずれも巧妙に隠されてはいるが、不条理に苦しむ人物が主人公ではあるのだ。

ワイルダーは生涯、理不尽で不条理な恐怖を己のテーマとして描き続けたのではあるまいか。
その主題を、笑なり、ペーソスなどに落とし込み、起承転末の効いた作劇にまとめあげることができるのがワイルダーの才能であり、ワイルダーのワイルダーたるゆえんであると思う。

ワイルダーのダークの部分が色濃く反映されている作品と思われる、「深夜の告白」(44年)と「サンセット大通り」はぜひとも見たいものだ。
できれば「情婦」(58年)なども。

シネマヴェーラ「恐ろしい映画特集」のパンフレットより

除草!除草!除草!

助走、ではありません。
夏は除草の季節でもあります。

2週間放置した畑は、その間の十分な雨のせいもあり、思い切り草草が夏を謳歌しています。

場所により、ヒメジオン系、クローバー系、イネ科雑草系、ツル雑草系、と自主的に勢力範囲を分け合い、合間にアカザなど独立系の雑草が天に向かって突き上げています。

雑草に負けず生育する作物(菊芋、落花生、大豆、小豆、ハックルベリー、夏野菜たち)もあれば、雑草に埋没しきった作物(サツマイモ、キャベツ、ルバーブ、ハーブ類)もあります。
いずれにせよ、景観上も放っておけません。

路面の3分の2も例年通り刈る(今年2回目)
法面に沿うように刈り込む

まずは草刈り機(刈払い機)で、畔から法面から畝間から路面までを刈りまくります。
丸刃の切れが悪いので、新しいものに変えます。切れ味が断然よくなります。
刃はどうしても石やコンクリートに当たりますし、使っているうちに欠けて切れ味が悪くなります。

畝間の除草には管理機を使って土ごと掘り返してもいいのですが、管理機を運ぶ手間がかかるのと、管理機の重さによって土が固まるのを防ぎたいことから、管理機は使わないことにします。

刃がかけた丸刃(先端の左上部がかけている)
新しい刃に付け替える

株間など微妙な場所は手で雑草を抜きます。

フェンスに囲まれた圃場は、ガッテン農法による土の改良の影響?なのか、例年より雑草の生育が激しいような気がします。
フェンスに絡まるツタだけではなく、法面ににょきにょきと屹立するイタドリに似た植物がそれぞれ壁のようになり、日当たりだけでなく圃場の空気の流通をも阻害しています。
これらも草刈り機、鎌、ハサミなどで撤去しなければなりません。

フェンスにはツタが絡まる
フェンスと反対側の法面にはイタドリ?が生い茂る

畑らしい景観の復活まで除草を続けます。

草刈りをしていて巨大な夕顔を発見するが・・・
かぼちゃを収穫。右の細長いのは甘龍という品種

トマト豊作!

トマトが豊作です。
家族や出荷先の彩ステーションのお年寄りの方々に喜ばれています。
東京にはこのトマトのファンもいるとのことです。

約2週間の放置ののちの畑のトマトです。
収穫時期を逃したトマトが一山採れました。

2週間ぶりのトマトの畝
この日の収穫。自宅へ発送用に
出荷はできないものの加工には使えるトマトが一山

このトマトは傷んだところを除き、煮て冷凍しました。
水煮缶とは比べ物にならないほどおいしいトマトソースになります。
このトマトソースを使ったミートソースは、うちの曾おばあさんも、孫たちも大好物で、のどを鳴らして食べてくれます。

完熟トマトを煮る

翌々日も一山収穫がありました。

翌々日も一山収穫

トマトの豊作、ガッテン農法の教科書通りに畝づくりをした成果でしょうか。
苗は1本100円程度の自根の苗です。
無肥料で、えひめAIの希釈液を1,2度根元に散布しました。

反省点としては最盛期の管理をもう少し丁寧に行うことと、支柱をもっと密に立てておくべきだったことでしょうか。

ピーマンも採れました
収穫機を逃し種をたっぷり含んだキューリも
セロリ初収穫です
小豆が鞘をつけています

裏の小川が流れている

令和3年の夏は西日本で豪雨があり、水害が発生しました。
その前には熱海で盛り土の決壊による土石流災害が発生しました。

長野県では令和元年秋の台風19号による水害の記憶が新しいところです。
当時の被害の復旧は現在でも行われており、上田電鉄別所線の千曲川鉄橋の復旧は今年の春までかかりました。

山小舎おじさんの畑付近の川の護岸の復旧工事はただいま現在行われているところです。

本日、山小舎の裏では、小川が音を立ててが流れていました。

8月上旬の長めの「休暇」を家族と共に過ごし、山小舎へ戻ってみると、標高1400メートル近い場所のお盆過ぎという季節とて、初秋のころのを思わせる空気感は致し方ないとしても、この間の長雨による小川の水流の音には、自然相手に暮らす山小舎の厳しさを痛感させられました。

音を立てて流れる裏の小川

この小川、台風など大雨があった後にしか流れが起きません。
普段は枯れています。
山が大水を処理しきれなかったときにだけ排水を行う安全弁のような存在と思われます。
また、上流のほうに属するため、水流が発生しても周りに害をもたらすほどの水量には至っていません。

ただしそれもこれも、今まではそうだったというだけのこと。
「体験したことのない」災害が定期的に発生するようになった日本のこと、今後もそうだとの保証はありません。

小川の岸には様々な漂流物が。近年にない流れの激しさを物語る

幸い今回の水流にしても、護岸設備を崩すほどの害はありませんでした。
組んだ丸太は崩れていません。
ただ、丸太の隙間や土台を埋めるために配置しておいた石やブロックが崩れていました。
流れは護岸丸太のすそを洗っていたのです。

護岸の丸太は崩れていないが、固めておいたブロックなどが散乱している

今後、どんな流れが発生しないとも限りません。
その際、丸太で守られている護岸を崩し、ひいては山小舎の土台に影響しないとの保証はどこにもありません。
引き続き護岸工事の継続の必要性を痛感する今日この頃です。

青春18きっぷ

青春18きっぷというJRの企画乗車券がある。
全JR線の普通列車が乗り降り自由で、春、夏、冬の3シーズン発券され、現在の価格は当日限り有効の券が5枚ついて12,050円。
使い方によってはかなりお得な切符となる。

8月上旬から中旬にかけてを家族と過ごした山小舎おじさん。
東京の自宅から山小舎への帰還用に、思い立って18きっぷを購入した。

2021年版青春18きっぷ

東京・三鷹から長野・茅野まではJRの乗車券が3,080円(営業キロ数171,1キロ)。
高速バス料金が、高速深大寺・高速茅野間で3,300円(予約なし当日現金料金)。
比べると18きっぷの1日乗り放題約2,400円は、金額的には、かなり割安となる。
しかも乗り降り自由の特典付き(ちなみに、高尾から茅野までの乗車券を買うとすると途中下車できない)である。

独身時代、東京から札幌への帰省に18きっぷを使ったことがある。
当時は上野から青森まで、普通列車を乗り継いで1日で行けた。

第一日目は青森駅の連絡船待合室で仮眠をとり、翌早朝の青函連絡船で函館へ。
朝発の札幌行きで計二日がかりで帰省したものだった。

途中の東北線は長い時間だったが、上野発の普通列車を黒磯、郡山、仙台、小牛田、盛岡、野辺地などで乗り継ぐ旅も若者にはいい経験だった。
暑い季節とて、持って行った手製の握り飯が、昼食時、栃木の黒磯あたりで包みを解いてみると、はや、すえて(痛んで)いた、という残念な思い出もある。

帰りも18きっぷの残りを使い、当時の発売価格約10,000円で東京・札幌を、計4日(4枚使用)がかりで往復した。

さて2021年の青春18きっぷ。
三鷹駅のみどりの窓口で購入し、そのまま高尾経由甲府行きに乗り込んだ。

昼前の甲府行き普通列車は思いのほかガラガラ。
コロナのせいか、夏休みのせいか。

高尾発甲府行き普通列車社内。最後尾に事業用荷物が積まれている

高尾の次の駅は早くも相模湖駅。
小仏峠を越えればそこは脱東京の風景が広がっていた。
夏の日差しが降り注ぐ。

笹子峠を越えて、甲府盆地へ入れば富士山の姿を里山越しに仰ぎ見つつ、暑く湿った盆地の夏を行く・・・のはずが曇が出始めたせいか、夏の靄のせいか富士山は見えず、普通列車の旅は続く。

笹子峠を越えた勝沼あたりの風景
この日の甲府盆地は富士山が望めず

甲府で下車し、昼食がてらの市内漫歩。
列車の旅では途中下車することの多い甲府の街。
今日の散策は駅から南の街の中心街方面へ。

コロナなのか夏休みのせいか、人出も少ない甲府の街。
飲食店には「県の要請により休業」との張り紙が目立つ。

15時過ぎの長野行きをホームで待つ間、空は一転雨模様。
乗車後、韮崎のあたりでは車窓を雨粒がたたく。

長野へ入り雨が上がる。
茅野駅到着。

反対側の上り線ホームには制服姿の高校生の群れが降り立つ。
長野県は8月20日前に2学期開始か。

長野行きを待つ甲府駅ホーム
茅野駅に到着

長門牧場

8月上旬。
家族と娘一家が山小舎にやってきました。
5泊してゆきました。

孫たちが滞在中に必ず訪れるのが長門牧場。
地元長和町の株式会社組織の観光牧場です。

標高1400メートルの高原に、東京ドーム45個分の敷地を持っています。
観光用には牛、馬、羊、アルパカなどの餌やりや乗馬体験などができ、レストハウスや売店があります。
ソフトクリームのおいしさが地元では有名です。

牧場の名称は旧町名である長門町から来ているものと思われます。
合併して長和町になった現在も地元の有力企業の筆頭格です。

この日は青天。
容赦ない紫外線が降り注ぎます。
まさに高原の牧場日和、ソフトクリーム日和です。

ホルスタイン種の牛も手から草を食べる

ただただ芝生が広がるだけで子供たちはご機嫌です。
餌を求める動物がいればさらに興味が広がります。

サフォーク種の羊に餌(そこら辺の草をむしって)やり

山小舎からは車で20分ほど。
白樺湖の傍らを過ぎ、女神湖を越え、雨境峠を越えたあたりに長門牧場はあります。
かつては山小舎おじさんも、ここで春に畑の肥料用に牛糞をもらっていました。

旧制松本高等学校

戦前から戦後直後にかけて、日本の学校制は今と違っていた。
旧制中学を卒業すると、次の進学先は旧制高校だった。
旧制高校は現在の新制高校と違い学校の数も少なく、文字通りエリートが通うところだった。
現在の学校制下では大学の教養課程に相当した。

松本に旧制高校ができたのは、大正8年。
9番目に設立された官制高等学校で、地名スクールとしては初の設立だった。
地名スクールとは、設立地名を冠する学校のことで、一高(東京)から八高(名古屋)までのいわゆるナンバースクールの後に設立された学校であることを表していた。

松本のあがたの森公園に旧制松本高等学校の校舎が残されていると聞いて行ってみた。
松本駅からは2キロほど。
住宅地の中に公園がある。
その中に旧制高校の本館の一部と講堂が残っている。

本館の建物正面
本館内部の廊下

歴史を感じさせる建物。
正門から続くメインルートにはヒマラヤスギの巨木が、往時を記憶するかのように並んでいる。

本館と講堂の間のメインルート

この日、講堂では信州大学のオーケストラが練習していた。
また本館には公園事務所のほか、図書館などが入っている。
往時を偲ばせるものとしては、本館の中に校長室などが復元されている。

講堂ではオーケストラが練習中
本館にある復元された校長室

本館に隣接して旧制高等学校記念館という建物がある。
これが実にユニークな施設だった。

展示内容は広く旧制高校の歴史から、松本高校に関する様々な資料まで。
特に松本高校に関しての展示は実に念入りで、思誠寮という学生寮の部屋の再現から、山岳部の穂高岳登頂ルート再現のパノラマ模型、名物教授たちのプロフィールなどなど、これでもかと並んでいる。

寮の部屋が再現されていた(実物に比べるとずいぶんきれいであると思われる)

 バンカラ、学生自治、などというすでに世の中から絶滅した言葉があるが、例えば40年前の大学の一部には、片鱗が残っていたそれらの概念は、旧制高校から生まれたのだという。
学帽に下駄のスタイルはともかく、寮の暮らしぶりや自治などは、山小舎おじさんの世代にとっても懐かしさに満ちたものだ。

往時の松本市内の映画館前にたたずむ松高生
花街で遊ぶことも忘れなかった

「どくとるマンボウ青春記」という書物がある。
旧制松本高校OBの北杜夫による独特のユーモアに満ちた青春時代の自伝だ。

この作品では何といっても思誠寮に暮らしたバンカラ時代の描写が印象的で、ストームなど当時の寮生たちの生態のほか、名物教授たちの生態までが遠慮なく活写されている。

展示室にはビデオコーナーがあって、北杜夫のほかに映画監督の熊井啓などのOBの対談を視聴することができた。
旧校舎の庭で機嫌よく対談するOB達の映像の合間に、名物教授や世話になった食堂のおかみさんたちの話が挟まる。

談話するOB達の視聴資料。左から熊井啓、北杜夫

「どくとるマンボウ青春記」に数学の名物教授を描いた一節がある。

終戦後の春、2年生となった主人公が学徒動員と戦直後の混乱から解放されて学校へ向かうと、グラウンドでは荒縄を着物の帯代わりにした格好の人間が砲丸を投げたり走ったりしている。
なんで乞食があんな真似をしているのか、さすがに高等学校とは変わったところだ、と思った。云々

乞食に間違われたのが蛭川先生という名物教授で、生前の姿がビデオに登場する。
まさか「どくとるマンボウ青春記」に出てきた名物教授の実物を映像で眺められるとは!
一読者としても感無量であった。

これが伝説の蛭川先生の晩年の姿だった・・・

思誠寮の建物はすでに取り壊されて駐車場になっている。
本部と講堂以外のスペースは公園として市民の憩いの場となっている。

市民とOB達の旧制松本高校への思いは、資料館に簡潔に濃縮された形で強烈に残っていた。

寮があった場所は駐車場になっていった
公園の一角に立つ松高の記念碑
一帯はあがたの森公園として保存されている

松本スイカ村

松本周辺はスイカの産地。
松本市波田地区などが名産地として有名だ。

JA松本ハイランド和田支所では、毎年7月から8月にかけて、スイカ村が開かれる。
農協の集荷場に生産者がスイカを持ち寄り、農家ごとに運営する直売所に地元客などが並ぶ、松本地区の夏の風物詩だ。

山小舎おじさんはある年のラジオのローカル放送で、スイカ村のことを知り、その後は毎年のように通っている。

松本のスイカは美味しいらしく、娘がつわりの時に送ると、「これだけはのどを通る」と喜ばれた。

おととしだったか、山小舎に集まった家族を連れて訪れると、いつもずらりと並んでいるスイカの姿がなく、客の姿も閑散としていたっけ。
聞くと天候不順で収穫量が少ないとのことで、買えなかった。

今年はどうか?
8月に入った1日、毎年の風景に誘われるように、暑い暑い松本盆地へ向かった。

山小舎から上田エリアへ下り、鹿教湯温泉わきの三才山トンネルを通って松本エリアへ入る。
市街地を迂回して、上高地から流れる梓川に沿って南下し、目指す、JAハイランド松本和田支所へ向かう。

夏雲をバックに流れる梓川

日曜日とあって、広いJA構内は客が集まっている。
直売所のテントは数張りあるが、客が集まっているのは毎年同じテント。
期待通りの風景が展開している。

一番人気のテントに今年も並ぶ。
次から次へとスイカが売れてゆく。

L玉を2個買う。
かつては1600円ほどのL玉が今年は1900円だ。

スイカ村ならではの、集荷場にずらりと並んだスイカの列。
暑い中集まってはスイカをぶら下げて帰ってゆく人々。
今年もいつもの風景が見られて安心した。

スイカは今週山小舎にやってくる、家族と娘一家へのお土産としよう。

一番人気のテントに並ぶ
テント内ではおばさんたちが懸命の客あしらい
集荷場でも大忙し
直売所への出荷を待ち受けるスイカの列
今年もスイカ村は盛況だった
L玉を2個買ってきました