梅を漬ける その3

7月下旬となりました。
漬けておいた梅を土用干しします。

重しを乗せ、塩漬けし、赤しそを加えていた梅のたるを開きます。
小梅はうまく漬かり、きれいに発色しています。
中梅は完熟した実ではなかったためか、硬めに漬かっています。
色味もよくありません。

赤ジソを入れてしばらくたった梅漬けのたる

それぞれをざるにあけて日中の太陽の下に広げます。
シソも同様に干します。
赤く染まった梅酢も瓶に入れて日光消毒です。

程よく染まった小梅を天日干し。隣には梅酢を入れた瓶

小梅は外側が乾き、中がトロッとした梅干に仕上がりそうです。

中梅はどう仕上がるでしょうか。

ここ最近の中梅干は硬く仕上げってしまっています。
生の実の状態のせいでしょうか、塩漬けのやり方のせいなのでしょうか。

色味が薄く、、硬めに漬かった中梅

土用干しを終えると梅干しの作業は終了です。

キューリのピクルス

キューリのピクルスを作ってみました。

出来上がったピクルス

畑で規格外のキューリがどっさり採れました。
この間、山小舎を訪れた山小舎おばさんにも、帰りに持たせましたが、まだまだたくさん残っています。

東京の自宅では末息子がピクルスを作り、娘が食べておいしかったとのことです。
そこで親父も山小舎で作ってみることにしました。

保存瓶を煮沸します。

液を作る材料を集めます。
レシピでは穀物酢、砂糖、塩、ローリエ、とうがらし、ニンニク、黒コショウなどを使うとなっています。
手元には米酢、砂糖、とうがらし、ニンニク、黒コショウがあります。

水と米酢を同量鍋に入れ砂糖を大匙1杯、塩を小さじ1杯入れて沸騰させます。
その間、キューリを保存瓶の丈に合わせてカットし、塩をまぶしておきます。

規格外の畑のキューリをカット
塩をまぶす

保存性をよくするため、とうがらし、ニンニクを鍋に入れて液とともに加熱しておきます。

保存瓶に生のキューリを入れて、そこに熱い液を流し込みます。

材料のキューリは煮ていませんので常温保存には不向きです。
瓶ごと冷蔵保存し、1週間以内をめどに消費することにします。

保存瓶にキューリを詰める
調味液を流し込む

山小舎 真夏日

令和6年の夏は、東京では梅雨明け以前に真夏日が続いたりと酷暑の様相を呈しています。

標高1400メートル以上の山小舎でも、7月中旬になって、30度以上の真夏日に襲われています。

真夏の日差しにさらされる山小舎周辺

今月になって毎週1回以上を草苅バイトに出ている山小舎おじさん。
猛暑日に当たると、日陰はいいのですが、日向での作業は強烈です。
かsら30分から40分に1回の休憩があり、平均年齢70歳のバイト仲間たちは気を使ってもらえるのですが、それでも体力が消耗してくるとダメージを食らいます。

山小舎おじさんはある時、午後になってから、熱がこもって気分が悪くなりそうでした。
つなぎを着ての仕事なので、暑さが逃げないのです。
それでも体力があるうちはいいのですが、午後になると体がギブアップしそうになる時があるのです。
先日も別のバイト仲間が苦しさを訴え、休憩してました。

バイト休みのこの日も真夏日です。
客用の布団や、ダイニングの椅子のソファーを、ぎらぎらの日光に当て乾かします。
バイト用のつなぎ服も干します。

絶好の洗濯日和

30年以上住んでいる人によると、かつては「シーツが1日で乾かなかった」ほどの姫木も、温暖化の影響なのか真夏日に襲われるようにもなりました。

つなぎ作業服もたちまち乾く

洗濯ものや、布団干し、これからシーズンの梅の土用干し、薪の乾燥などには都合がよいのですが、山小舎がこれだけ暑いと、平地の畑などの暑さはとんでもないことになっているので行動が制限されます。
山小舎周辺でも直射日光下での作業は気が進みません。

午後2時を過ぎるとひんやりした風が吹き始め、日暮れから翌朝までは涼しいことが救いです。

令和6年畑 「収穫」ラッシュ

7月中旬の畑です。
1週間ほど自宅に帰り、戻ってみた畑は雑草とともに、収穫時期を逸したキューリなどが実をつけ、夏の盛りを迎えていました。

除草した跡もなくない程の雑草で覆われつつある畑では、巨大なキューリがぶら下がっていました。
集めるとやっと持てるほどの重量になりました。
巨大なものばかりで、キューリ好きのバイト仲間といえど、持ってゆくのは憚られます。

この日収穫した巨大キューリ

ズッキーニも巨大なものが3本ほど転がっていました。
去年は採れなかった巨大ズッキーニ。
豊作はうれしくもあり、もったいなくもありです。

巨大ズッキーニが成っている
ズッキーニ、この日の収穫

トマトはぽつぽつと赤い実が成っています。
雨が多かったのかどうなのか、肝心の枝ぶりに旺盛さが見られません。
実にも病気のものが若干あります。

味見したトマトは例年のようなコクと青臭さと滋味がなく、これまたお配りするほどのものではなく残念。
収穫するとザル一杯にはなりましたが、生食用にとっておくほかは料理用に煮て使うしかないようです。

寂しげに成っているトマト
収穫したトマトを集める

ハックルベリーの実が成っています。
重々しく黒々とした実が鈴なりです。
苗がよかったのか、その後の生育がうまくいったのか。

元気なのはハックルベリー

もう一か所の畑では、収穫前のジャガイモが全滅です。
防獣テープもものかわ、畝を掘り起こして芋を食べ尽くしています。
イノシシの仕業です。
ここがイノシシの餌場であったことを忘れていました。
イノシシと鹿のW攻撃は強力です。

イノシシが「収穫」した後のジャガイモの畝

調布上ノ原小学校夏祭り

令和6年7月13日と14日、自宅近所の上ノ原小学校で夏祭りがありました。

上ノ原小学校夏祭り本部席

例年6月中頃を過ぎると、体育館で練習する太鼓の音が聞こえてきます。
夏まつりに盆踊りの櫓の上で叩く太鼓の練習が小学校の体育館で行われるのです。

毎年7月の中旬、夏祭りは行われます。
山小舎おじさんも、子供が小さかった頃は屋台の手伝いをしたことがありました。
当時の屋台は、地区の青少年対策委員会や、地区のおじさんソフトボールチームなどが思い思いに出店して、焼きそば、トウモロコシ、ビールなどを売っていました。

近隣の柏野地区の夏祭りが、地域の婦人会や青年会の助力を得た地域色の残ったものだとしたら、上ノ原地区のそれは当時から、地主や自治会、婦人会などの参加がなく(それらの地域組織はすでに無力化していた)、PTAなど小学生の親たちが中心になって行われていました。

開始を待つ夏祭り屋台

それからかれこれ20年以上たちました。
孫たちがお祭りを見たいと調布までやって来るというので、久しぶりに夏祭りの下見に出かけました。

焼きそばの屋台ではすでに出来上がったおじさんがいた

午後4時過ぎの小学校グラウンドは、焼きそばの準備をしたり、櫓に太鼓を運び込んだりと大わらわでした。
既にビールで出来上がっている出店者などもいました。
20年前より規模が大きくなり、またカオス化している印象です。
また出店者たちは若返っているというか、小学生の親世代が中心メンバーであることがうかがえ、祭りの世代交代が進んできたことがうかがえました。

盆踊りの櫓

小学校周辺は浴衣姿で友達と待ち合わせる小中学生や、会場へ向かう家族連れなどが続々と集まっています。

孫たちは7時過ぎにやってきました。
会場では、主な食べ物は売切れており、かろうじてお好み焼きを食べられたとのことでした。
会場に流れる音響は20年前の「東京音頭」「炭坑節」ではなく、流行りの現代音楽だったとのことです。

浴衣姿で参加する子も

23区内ではこのようなお祭りがすでに行われていないことが多く、お祭りや盆踊りを知らない小学生がいるとのこと。
賑やかに行われている調布上野原地区の夏祭りは貴重なのかもしれません。

また、時代は変われどお祭りに象徴される、参加型レジャー、発散の場、人間同士の接触の場、といったお祭りの持つ機能がまだまだ現代人に渇望されているのだとも思いました。

軽トラ流れ旅 大河原峠~小海~稲子湯

初夏の流れ旅、今回は蓼科山のもう一つの登山口・大河原峠を通り、佐久へ下りた後、再び八ヶ岳山中に戻って、山腹の秘湯・稲子湯に浸かってきました。

まずは蓼科山のすそ野を巻いて、7合目登山口を過ぎ、林道を抜け大河原峠を目指します。
蓼科山の登山口は何か所かありますが、大河原峠もその一つです。

蓼科山の登山口、大河原峠

狭くグネグネとした林道をやっと抜けると,標高2090メートルの大河原峠です。
蓼科山へ登る時には、今度はここからもいいな、と思っての下調べの意味もありやってきました。

この日はあいにくの曇天。
峠は風もあり、肌寒いくらいです。
大河原峠の駐車場は満車。
装備を整えた登山客が三々五々登ってゆきます。

ここからのコースは、メインの登山口の7合目登山口より距離は長いものの平坦と聞きました。
ただ、峠に到着するまでの林道が長く、時間がかかります。
道幅も狭く、車両の走行も容易ではないので、どうでしょう、孫たちと蓼科山に登るとしたら、ここまで来るより多少登りがきつくても、7合目からの方がいいように思いました。

大河原峠より佐久方面を望む
登山客で満車の駐車場

大河原峠を後にして初めての道を佐久方面に下ります。
峠を越えると別荘などの建物が見え始めます。

やがてJAXA宇宙空間観測所のパラボラアンテナが見えてきました。
蓼科スカイラインと呼ばれる道は片側1車線の走りやすい道路です。

大河原峠から佐久へ下る途中のJAXAパラボラアンテナ

道を降りたところは佐久市の臼田地区。
国道141号線を右折して佐久穂、小海方面へ向かい直売所などで産品を見て回ります。
夏の収穫シーズンを目前にした佐久地方では、レタスやセロリなどの新物が出回っています。
他にも何か珍しいものがあるかもしれません。

昼食は小海駅に直結したアルルという商業施設にある食堂・月華に入ります。
ご夫婦二人でやっている食堂でカツ丼を注文するとソースカツ丼が出てきました。
食べやすい味でしたが量が多く、満腹になりました。

小海駅直結の商業施設アルル
食堂月華のソースカツ丼
カウンターにNHKデイレクター和田勉の色紙があった

ここまでくると、141号線沿いのスーパーナナーズと高原のパン屋さんに寄らずには帰れません。
2軒ともこの地方のローカル店で、それぞれ2,3店舗を近場に展開しています。
ナナーズは今でもレジ袋を無料サービスしてくれます。
店内で作る総菜が美味しいので感心します。
この日は夕食用にコロッケのほか、お米なども買い込みました。

高原のパン屋さんは、手作りのあんパンやカレーパンが美味しく、地元で人気のパン屋です。
家族へのお土産にあんパンを買い込みました。
自宅へは息子の誕生会のために近々帰ります。

さてここから山小舎への帰還ルートですが、野辺山を回って清里からエコーラインで八ヶ岳の山すそを回遊するのが一般的です。
この日は、最短で茅野へ抜けることができる八ヶ岳横断コースのメルヘン街道を通ることにしました。

小海から松原湖畔を通ってメルヘン街道を目指していると、稲子湯方面の看板があります。
時間があるので寄って行こうと思いました。

麓の集落の狭い道を抜け、高原野菜の広々とした畑を抜けると山道に入ります。
やがて本沢温泉への分岐点を越えます。
本沢温泉は最終駐車場から2時間歩かないとたどりつけないことで有名な温泉です。

やがて稲子湯の建物が見えました。

八ヶ岳中腹の秘湯・稲子湯

北八ヶ岳の登山基地としてひっそりとたたずんでいる稲子湯。
開湯して100年。
天狗岳、硫黄岳への出発地点の宿です。

この日は駐車している車は2台、そのうち1台は立寄り湯に来た高齢者のものでした。
そのおじさんが出てゆくのと入れ違いに建物の中へ。
中には管理人のおじさんが一人います。
入浴料は650円でした。
ちなみに一泊二日の料金は9,870円とのことです。

閉鎖されている売店と食堂。かつての賑わいを思わせる

自炊宿のような、昭和の香り漂う館内を通り温泉へ。
浴室の入り口を過ぎると硫黄臭がして温泉らしさが迫ってきます。
浴室は東北の温泉場のような年季の入った秘湯感にあふれたもので、最近のスーパー銭湯のような温泉に入りなれた身には懐かしくもあり新鮮でもありました。

ここまでコミュニテイバスが運行している

帰りのメルヘン街道は、標高2000メートルの麦草峠を越えたあたりから、霧雨に覆われ視界がふさがれるほど。
ワイパー全開で点灯し、慎重に走行します。

肌寒くもあり、初夏とはいえ山の気候の厳しさを思い知らされました。

天気一変のメルヘン街道

ビーツの甘酢漬け

初めてビーツの保存食にチャレンジしました。
ビーツの甘酢漬けです。

ビーツは赤いカブのような野菜。
ロシアのボルシチの色付けに使われています。
信州では秋から冬にかけて直売所などで見かけます。
山小舎おじさんの自宅では野菜のスムージーに使います。
独特の土臭さと、生命力の強さを感じる味です。

7月になったばかりの初夏に真田の直売所で見かけたビーツ。
夏に採れる品種なのでしょうか、3個買いました。
そのうち1個を甘酢漬けにしてみます。

レシピ通りサイコロにカットし水で煮ます。
ひたひたの水がなくなってくる頃、ビーツが柔らかくなります。

別の鍋で甘酢を作ります。
リンゴ酢と水を1対1。
砂糖と塩を分量入れて煮立たせます。
火が通ったビーツを甘酢に漬けて、煮沸した瓶で保存します。

スムージーの材料になるほか、様々な料理に利用できます。

ここでビーツに関する思い出です。
40年ちょっと前の放浪旅行の最後の方にポーランドを回った時、ワルシャワの旧市街のレストランに入りました。
当時のレートではドルとポーランドズロチでは、公定レートも闇のレートも比べものにならないくらいズロチは安く、街中やレストランではドルの闇両替の声が掛かったりしました。
入ったレストランでは民族衣装を着たウエイトレスがメニューを持ってきましたが、此方が指し示すメニューのことごとくが「できない」とのことでした。
できるメニューの一つが真っ赤なスープに浮かんだロシア餃子のスープでした。
その時の鮮烈なビーツの味を思い出します。

シラカバを伐採したが その2

山小舎の裏に長年そそり立っていたシラカバを伐採しました。
が、完全に倒木しないまま隣の国有林のカラマツによりかかかっています。

長々とカラマツに寄りかかっている我がシラカバ

シラカバを倒木させ、玉切りをしなければなりません。

倒木失敗の顛末を草刈りバイト仲間に話しました。
貰ったアドバイスとしては、ロープで倒したい方向に引っ張ってから切る、とか木は谷側に倒れる、2トン車で引っ張るなどでした。

今回の伐採の失敗は切り方の不始末なのですが、木の重心が谷側にあったことが大きかったと思われます。
そのうえで、切り方を工夫すればある程度は予定の方向に倒れたのではないかと思われます。

今となってはどうにかして倒木させるしかありません。
そこで、アドバイスをもとにロープを渡してある程度方向性を出しつつ、切ってみることにしました。

倉庫のトラロープが出動!

まずはトラロープをシラカバに縛り、国有林のカラマツにも縛ってテンションをかけます。

倒木させたい方向にトラロープを渡す

次いで倒したい方向(ロープと同じ方向)に、立木の伐採の要領で、受け口と追い口を切ってゆきました。

受け口を切る時はいつもびくびくして、木の倒れる方向に立ちたくないのですが、受け口を切っただけでは木は倒れないことを信じてチェーンソウで切り込みを入れます。
汗びっしょりの作業です。

シラカバに受け口を切る

かなり深く受け口が切れました。
ついで追い口を入れます。

ここでなぜか追い口に重心がかかるのです。
チェーンソウの刃が挟まって取れないほどです。
仕方なく、くさびを持ってきて追い口に差し込んで打ってみます。
メリメリと音がしてあっという間に木が倒れます。
ただし、ロープを渡した方向ではなく、重心方向にだるま落としのごとく切り口がドスンと移動しました。
木は寄りかかったままでした。

追い口を切り込む
在らな切り口が、「だるま落とし」のようにドスンと落ちる

シラカバの先端がカラマツにかかって、そこが支点になり、倒木に至らないのでしょう。
このまま、先端部分がカラマツから外れるまで「だるま落とし」をしなければならないのかもしれません。

上の方の枝がカラマツにかかったまま

ただしすでに数メートル以上を切り離しており、残りのシラカバの丈はかなり短くなってきました。

シラカバの倒木作業は続きます。

今まで切り落とした数メートルの玉の数々

DVD名画劇場 イタリアンネオ・レアリスモの作家たち その2 ロベルト・ロッセリーニ

イタリアンネオレアリスモと呼ばれる映画群の作家にロベルト・ロッセリーニがいる。
戦争直後に主に街頭ロケで製作した「無謀部都市」と「戦火のかなた」が世界的な評判を呼んだ。

どちらも戦時中の占領下のイタリアでのエピソードを映画化したもので、そのドキュメンタルな手法のみならず、実際に戦争を経験したばかりのイタリア人俳優らによる演技が劇映画を越えたリアリテイを持っていた。
彼等の存在は雄弁に歴史的事実を物語っていた。
そのタイミングを逃さず、劇映画に記録したのがイタリアンネオレアリスモと呼ばれる作品群を撮った映画監督たちだった。

ヴィットリオ・デ・シーカと並ぶネオレアリスモの巨匠、ロッセリーニの作品を見てみる。

「無防備都市」  1945年  ロベルト・ロッセリーニ監督  イタリア

1943年の連合軍のシチリア上陸とイタリア政権の降伏の後、9か月に及ぶドイツ軍のローマ占領の時期があった。
その時の抵抗のエピソードを素材にした作品。
戦争終了直後の45年に製作された。
巻頭にはフィクションであるとのコメントがあるが、実際をもとにしたフィクションである。

当時のイタリアは、ドイツ軍とイタリアファシスト政権とパルチザンが三つ巴で勢力を競っていた。
占領者のドイツとファシストが一緒になってパルチザン及びその協力者を追いつめていた。

映画に出てくる主な人物は、パルチザンの細胞とその婚約者(アンナ・マニヤーニ)、パルチザンに協力する神父(アルド・ファブリッツイ)、ゲシュタポの将校など。

パルチザン細胞には愛人がいるが、愛人はゲシュタポのスパイとなり、パルチザンを密告する。
連行されるパルチザンに追いすがる婚約者は路上で射殺される。
捕まったパルチザンは拷問の末殺され、神父は銃殺される。

占領者に抵抗するパルチザンの意志の強さ、助ける神父の気高さ、パルチザンに協力する庶民等の虐げられながらも志に殉ずる頑強さがストレートに描かれる。

アンナ・マニヤーニ(左)とアルド・ファブリッツイ

戦争に荒廃した風景と、実際に戦争を経験したばかりのイタリア人俳優の眼差し、ふるまいはその時代のその場所でなくては再現不能なリアリテイに満ちている。

パルチザンを追いつめるゲシュタポとファシストの緊迫感。
連行された婚約者を追い、ドイツ兵をぶったたき、振り切って路上に飛び出すアンナ・マニヤーニの、手を振りかざしてトラックに追いすがり、射殺されて路上に昏倒する姿。
俳優たちのストレートな動きによる切迫感とリアリテイーは、見る者に強烈に訴える。

劇映画としての説明不足、登場人物の整理不足が感じられるが、映画はそれよりも事実をもとにしたエピソードの記録に徹している。
セミドキュメンタリー方式でニューヨークを捉えたアメリカ映画「裸の町」(1948年 ジュールス・ダッシン監督)を思わせる迫力だ。

アンナ・マニヤーニ

パルチザンを密告させるべく、その愛人をスパイに仕立て上げるエピソードもすごい。
ゲシュタポが、レズビアンでモルヒネを駆使する女を使ってパルチザンの愛人を篭絡するのだが、のちにイタリア映画などで描かれるナチスドイツの退廃性、背徳性がもはやこの時期に喝破され、表現されていたていたことになる。

「戦争は嫌だ」という庶民のアンナ・マニヤーニの問いかけに、「来るべき理想の社会のために戦っている」と答えるパルチザンの婚約者の言葉が、この映画のストレートさを物語っている。

「戦火のかなた」  1946年  ロベルト・ロッセリーニ監督  イタリア(MGM配給)

「無防備都市」の翌年に作られたイタリアンネオレアリスモの決定版。

シチリアに連合軍が上陸した1943年7月から、終戦を翌年に控えた1944年の冬までのイタリアにおける戦下の陰の名もなき事実を描いている。
「無防備都市」に比べて手際よく各エピソードをまとめており、映画としてわかりやすく、またスピーデイに仕上がっている。

第一話は1944年7月のシチリアでの連合軍上陸直後のエピソード。
上陸した米軍の一小隊が避難民が集まる教会へ向かう。
任務はドイツ軍の動向を探ること。
どこへも逃げ場がなく教会に集まった避難民と米軍が全く成立しない意思疎通を試みる。

米軍は一人の少女を道案内に哨戒に出動する。
イタリア語は全く喋れない、牛乳配達から徴兵された若い米兵と少女が哨戒先で留守番をすることになる。
あくまで英語で意志を伝えようとする米兵と、イタリア語で応える少女のたどたどしくもかわいらしいすれ違いのコミュニケーション。
すっかり話に夢中になり、たばこの火をつけたばっかりにドイツ兵に狙撃される米兵。
残された少女はライフルを手にドイツ兵に向かうが・・・。
駆け付けた米軍小隊が発見したのは、殺された米兵と崖下に突き落とされた少女の死体だった。

第二話。
1943年9月のナポリ近郊。
連合軍に解放されたナポリでは戦災孤児が吸殻を拾って吸いながら「黒人狩り」を行っていた。

酔った黒人兵を連れまわしながら軍靴を盗む子供。
MPの黒人兵は英語のみをしゃべって、孤児らを従わせようとする。
一方、孤児らはわかったふりをしながら、関心があるのは米兵が持っている物資だけ。

ここでも米兵と現地人のコミュニケーションが成立しない現実がある。
黒人兵は孤児が暮らす廃墟の様子を目の当たりにして盗まれた軍靴を捨てて去ってゆく。

この挿話で、ロッセリーニは戦後の廃墟で暮らすイタリア庶民の実写カットを使っていた。
アパートの中庭なのかビルの廃墟なのか、20人くらいの女子供が集まってカメラの方を見ている、ひとりの女は鍋をドラム缶のようなコンロにかけてしゃもじを廻している。
ほんの数秒のワンカットだが、明らかに戦後のイタリア庶民の生活を捉えた実写のカットが、孤児が黒人兵を住処に案内する場面で挿入されていて効果をあげていた。

第二話。黒人兵と少年

第三話には、「無防備都市」でゲシュタポのスパイ役を演じたマリア・ミーキが登場し、イタリア女性の哀しさを演じて忘れられない余韻をもたらした。

1944年2月に連合軍がイタリア本土のアンツイオに上陸し、その後ローマに入城した。
連合軍を迎えるローマ市民の歓びを実写フィルムで伝える場面から第三話は始まる。

ローマ入城時に、歓迎する市民に水を所望した米兵のフレッドは、断水しているアパートに案内されてフランチェスカ(マリア・ミーキ)という娘から接待を受けた。
輝かしく明るいフランチェスカとのつかの間の邂逅はフレッドにとって忘れられない思い出となった。

9か月後、ローマにもどったフレッドは、街の女につかまり部屋に連れ込まれた。
酔ったフレッドは、街の女には全く関心をみせず、フランチェスカとの思い出を語った。
街の女はフランチェスカの6か月後の姿だった。

フランチェスカは彼女の住所を書いたメモを渡し、明日必ず会おうと部屋を出たのだが、翌日素面に戻ったフレッドはポケットのメモを「売春婦の住所だ」と丸めて捨てて任務地へ向かった。
部屋の前ではフレッドを待ち続けるフランチェスカの姿があった。

第四話は、イタリア留学時代の恋人でパルチザンのリーダーになっているルーポに再会せんと、友人とともにドイツ軍の占領地域に潜入する米従軍看護婦のハリエットを描く。

薄いワンピース姿で、壁をよじ登り、頭を下げて狙撃を避け、瓦礫の山を駆け抜けるハリエット役の若い女優が素晴らしい。
若い娘らしいほほ笑む場面もラブシーンもなく、戦火の緊張の中を厳しい顔をして走り回る姿にリアリテイがあった。

第四話。ハリエット役の女優(中央)

フィレンツエが舞台の第四話だが、ドイツ軍の占領地域を目の前にして敢えて手を出さないイギリス軍の様子が描かれる。
大戦末期のワルシャワで蜂起したポーランド軍に対し、川の対岸まで来ていたソビエト軍が静観していたことを思い出した。
連合軍にとって、ポーランド同様イタリアのパルチザンは所詮捨て駒だったということなのだろう。

第五話は、ドイツ軍の防衛ラインだったゴシックライン突破後のエピソード。
ゴシックライン周辺の修道院が舞台。

米軍の従軍宣教師が修道院を訪ねる。
物資が極度に不足し、また旧来のカソリックの価値観に愚直にとらわれる修道士たち。
訪問団の一人が、プロテスタント中最悪の異端ルター派であり、もう一人がユダヤ教徒だと知ってこの世の終わりのように驚き、忌避する修道士たちが可笑しいというか可愛いというか。

ロッセリーニは挿話のラストで訪問団長に規則(食事の時は無言)を破って夕食前の挨拶をさせる。
団長はイタリアの教会、修道院の敬虔さ素朴さを称賛する。
「神の道化師フランチェスコ」(1950年)、「火刑台のジャンヌ・ダルク」(1954年)など宗教をテーマにした作品も多いロッセリーニの姿勢が示される。

第六話は、終戦を翌年に控えた1944年冬。
ポー川の流域で戦い続けるパルチザンの姿。

ドイツ軍に包囲され補給もない。
夜間の投下で補給するからのろしを上げろとの米軍の指示により、かえってシンパの農家が襲撃され皆殺しにあう。

戦闘で降伏したパルチザンはポー川に投げ込まれて処刑される。
ここでも米軍の都合に振り回され消耗してゆく名もなき愛国者たちの姿が描かれる。

ロッセリーニの主題は「無防備都市」での占領者ドイツへの敵意から深化し、「解放者」連合軍との関係性へと向かっている。
英語しか話そうとしない米兵との間の表面的な意思疎通の困難さから、敗戦国女性のやむに已まれぬ哀しさへの無理解、愛国者たちの抵抗運動が連合国軍の都合に振り回される事実。
これらが「戦火のかなた」の主題になっている。
唯一、希望が持てるエピソードとして、新旧のキリスト教徒の融合の可能性を謳った第五話のエピソードがある。

「ドイツ零年」  1948年  ロベルト・ロッセリーニ監督  イタリア

戦後間もないベルリンが舞台。
ドイツ人俳優を起用しオールドイツ語ですすむ。
爆撃と市街戦で瓦礫の山となったベルリンの街でのオールロケーション。

主人公は12歳の少年エドモンド。
アパートに病弱の父、戦争犯罪者の追求を恐れて家に潜む兄カール、父の面倒を見ながらキャバレーで外国兵から煙草をもらって金に換えて生計を支える姉エヴァの4人で暮らす。

アパートの住人は、避難民や没落家族などの戦争弱者であり、さらに電力やガスの供給統制によって生活苦を強いられている。
インフレ、配給制度、闇市経済、タケノコ生活は日本の戦後同様。
また、カールのように「登録」していない国民は配給を受けられず、働くこともできない。

エヴァが毎晩外国兵にもらうたばこ数本が20マルクになり、ジャガイモが2キロほど買える。
全くわずかな稼ぎだが、エヴァは外国の捕虜収容所にいる恋人のためにもそれ以上のことはしない。

エドモンドは労働許可がないのに墓堀りの仕事に行って追い出される。
路上では行き倒れの馬に人が群がり、馬の肉を切り取ろうとする。
路面電車と地下鉄こそ走ってはいるが、街は壊れた建物と瓦礫だらけ。
親を失った子供は群れて生きるしかない。

ロッセリーニのカメラはベルリンの街頭で俳優たちを動かし、通行人たちは何事かとカメラに目を向ける。
「戦火のかなた」で実写カットを使い、現実の緊張感を表現した手法と同じ発想である。
また、一つの芝居をカットを切らずにカメラは追う。
俳優の動きを追い、時には行ったり来たりするカメラは、場の緊張感を途切れさせない。

エドモンドの周りにはかつての恩師なども現れる。
かつての国家社会主義者(ナチス)で今は失業者の恩師は、残党と思われる老人に忠誠を誓いつつ、子供たちを使って怪しげな商売をしている。
ヒトラーが自殺した総統官邸を見物にやって来る外国兵たちに、その場でヒトラーの演説のレコードをかけて金を得るというもので、エドモンドもそれで200マルクを稼ぎ、恩師から10マルク貰う。

恩師の周りの孤児たちは、地下鉄で夫人にインチキ石鹸を売りつけ、石鹸の香りを嗅がせるだけで金を奪って逃げる少年とか、その少年とくっついている大人びようとする少女などがいて、演技なのか実態なのか、少年少女たちの存在感が、痛々しくもま、生生ましい。

映画はエドモンドの苦悩を通して戦後ドイツの庶民レベルの生活苦の不条理さを告発するとともに、思春期の少年の自立へ向けての苦悩も描く。
非常時の逆風だらけの中での自立だから、まったく大人や世間の関心も理解もなく、少年の人生そのものが破滅してゆくのだが。

まずは戦後ドイツの壊滅的な状況の記録として貴重な作品だということ。
その時期に少年期を迎えることはまさに悲劇であったということ。

「靴みがき」「自転車泥棒」のイタリア人子役もそうだったが、本作のエドモンドを演じる少年の演技は特筆されていい。

令和6年畑 初収穫

いつの間にか畑が収穫期を迎えていました。

第二回目の除草に訪れた畑ではよく見るとキューリ、ズッキーニが実っています。
さっそく収穫しました。

キューリは、塩昆布と和えて、ぬか漬けにして、冷やし中華の具材にして食べました。
例年、とり遅れて太くなったキューリも喜んで食べてくれるバイト仲間の家にも配りました。

シシトウ、ピーマンは魚焼きグリルで鳥軟骨と一緒に焼きました。

ズッキーニは輪切りにして焼いて塩をかけました。

久しぶりに食べた畑の野菜。
まず土の香りがしました。
ついで甘味も。

これは大地の味ではないでしょうか!?