茅野市役所のEM菌

茅野市役所の玄関に、EM菌の培養液をもらいにゆきました。

市役所は茅野市の目抜き通りに在ります。

この目抜き通りは茅野出身の小平奈緒さんがオリンピックの500メートルスピードスケートで金メダルを取った時に凱旋パレードをしたところです。

県内最大の地銀八十二銀行の茅野支店や県民のソウルフードを提供し続ける中華チェーン・テンホウなどが、目抜き通り沿いにあります。
市役所は目抜き通りを歩いて駅までは10分ほどの距離です。

茅野市役所全景
正面玄関へ
玄関をくぐったところにEM菌無人スタンドがある

市役所に行けばEM菌がペットボトル1本100円でもらえる、と聞いてから定期的にもらいに行ってます。
市役所の玄関を入り、台に玄関を通る前の場所にEMの無人販売所があります。

EM菌はえひめAIなどと同じく発酵菌です。
腐敗臭、トイレ臭などを無力化します。
また掃除に使うと、重曹やクエン酸などと同じような効果があります。

山小舎では汲取りトイレの消臭のほか、残飯の消臭、床の拭き掃除、台所シンク・洗面所のヌメリ取りなどに使用しています。
使用直後にはEM臭が残りますがすぐ消えます。

EM活性液を購入、100円。この日は1本しかなかった

EMの培養液をもらってくるとポリタンクに入れてさらに培養して使うようにしています。

培養には黒蜜液を使います。
黒砂糖を煮て溶かし、水で希釈して培養液を作っています。

夏などは発酵が進み、ポリタンクが酸っぱいようなにおいになりますが、新しいEM液を加えると、ポリタンクから酸っぱいにおいが消えます。

EMはまた農業で使用されます。
希釈液を農薬代わりに使用したり、土壌改良に使います。
また堆肥や追肥を作る際に投入して発酵系の肥料にします。
EMボカシなどという名前で発酵した元肥料が売られてもいます。

市役所の向いの八十二銀行
市役所の向いのテンホウ

DVD名画劇場 ハリウッドカップルズ③ マーナ・ロイ&ウイリアム・パウエル

「ザッツ・エンターテインメント」というMGM映画の過去の名場面を集めたアンソロジィーがヒットしたのが1974年。
MGM映画50周年を記念しての作品で、当時の「キネマ旬報」(なぜか分厚い号だった)でも表紙を飾る話題でもあった。

山小舎おじさんなどの世代にとっては、同作品中の「雨に唄えば」や「世紀の女王」でのジーン・ケリーの踊りやエスター・ウイリアムズと美女スイマー達のプールを使ったレヴュー場面の、しつこい踊りだったり大掛かりなセットは初見参で大いに目を見張ったものだった。
何より場面場面が持つ、ぜいたくさ、明るさ、世界の不変を信じ込んだような楽天性が楽しかった。
同作に登場する作品のオリジナルを見ようとすればテレビ放送を待つしかなかった時代でもあった。

私は実は「ザッツ・エンターテインメント」を見てはいない。
見てはいなくても、テレビなどで紹介された名場面や「キネマ旬報」掲載のグラビアを見るだけで、今でも記憶に残るほどで、また未知の映画の世界が広がるようだった。

「ザッツ・エンターテインメント」はフレッド・アステア、ミッキー・ルーニーらをプレゼンターとして起用し、歴史上の数々のMGM作品を紹介したのだが、その中で誰が歌ったのか、MGMのスターたちを順に紹介する曲があった。
ラジオで聞いたのだろう、その一節が今でも耳に残っている。
『ローデイ・マクドォール、マーナ・ロイ&ウイリアム・パウエル・・・』という一節で、軽快なメロデイに乗って名前が紹介されていた。

歌に登場するロデイ・マクドウオールは「名犬ラッシー・家路」の子役だった人。
エリザベス・テイラー扮する令嬢に譲られたラッシーを心配する少年を演じていた。
彼は長じてからも役者を続けたが次第に役が付かなくなり、「クレオパトラ」撮影に当たり子役時代から親しかったエリザベス・テイラーが呼んでくれたという(エリザベス・テーラーの当時の権力や恐るべし)。

そしてマーナ・ロイとウイリアム・パウエルは、「影なき男」シリーズで名コンビの夫婦を演じて当たり役としたハリウッドカップルだった。
「ザッツ・エンターテインメント」できっちり紹介されているあたり、このコンビがMGMのドル箱だったことがわかる。

ここで、例によって1998年キネマ旬報社刊「ハリウッド・カップルズ」の一項「スクリーンのなかで暮らす夢の夫婦 マーナ・ロイ&ウイリアム・パウエル」を紐解いてみる。

同書によると、マーナとパウエルの共演作は14本あるという。
このうち「影なき男」シリーズは6本。
シリーズのヒットにより『パウエルはMGMと長期契約を結び、マーナはヴァンプ女優のイメージを拭い去り、ハリウッドきっての〈完全なる妻〉といわれるようになっていく。』(「ハリウッド・カップルズ」P128より)

1998年キネマ旬報社刊「ハリウッドカップルズ」
同著、マーナ・ロイ&ウイリアム・パウエルの項

またマーナ・ロイについては我が淀長さんが、芳賀書店刊の「シネアルバム71 ハリウッド黄金期の女優たち」で、『だけどはじめはエキゾチックな裸が売り物の女優だったんだからね。そういうわけで、おもしろい人ですね。いいよね、マーナ・ロイっていう女優。ほんとにいい女優さんです。天下一品の奥様女優。いかにもアメリカ的なね。』(同書P108)と評している。

マーナ・ロイ
中国娘を演じる若き日のマーナ

マーナ・ロイにとって(ウイリアム・パウエルにとっても)映画史上の評価は定まっている、そのきっかけとなったのが「影なき男」だった。

「影なき男」 1934年  W・S・ヴァンダイク監督  MGM

「影なき男」封切り時の日本版ポスター

記念すべきシリーズ第一作。

監督のヴァンダイクは当時のMGMのエース監督の一人。
原作は戦前から50年代にかけて、ハリウッドに集まって映画の原作や脚本を書いていた小説家たち(スコット・フィッツジェラルド、グレアム・グリーン、レイモンド・チャンドラーら)の一人ダシール・ハメット。

主役のウイリアム・パウエルはブロードウエイからハリウッド入りした芸達者。
20年代後半に演じた私立探偵役に定評があり、MGMのボス、ルイス・B・メイヤーは、本作での起用には賛成だった、がマーナ・ロイをパウエルの妻役に起用するのに反対だったという。

それまでの中国人役やヴァンプ役ばかりの彼女のキャリアからして、無理もなかったが、監督のヴァンダイクが強固にマーナの起用を主張し、三週間以内に撮影を終了するという条件でメイヤーのOKが出たという。
彼女は監督の起用に応え、名(迷)探偵ニックの妻ノラを好演、夫婦役の二人の息もぴったりで作品をヒットさせるとともに、自身の新たなキャラクターを開拓した。

名コンビ、ニックとノラ

この作品、ストーリーを引っ張る主役はあくまでニック探偵で、妻のノラはシルクのナイトガウンや大胆な柄のサマードレス、大きく背中の空いたイブニングドレスに身を包んで彩を添えながら、事件となるやニック探偵に付きまとい、首を突っ込みたがりつつ、ちょっと夫の邪魔をしながら結局は力になる程度の存在・・・

が当初の設定だったのだろう。
が、この作品が描き出したものは、謎解きだけではなく、探偵夫婦の生き生きとした愛情や、ちょっとした互いへのからかいなど、ほほえましくもくすぐったい関係が大きなウエイトを占めていた。
ニックの突っ込みにふくれっ面で返したり、夫の指示を無視して事件に首を突っ込みたがる妻をかわいらしく演じるノラの存在が重要だった。
ノラを演じたマーナ・ロイの魅力が作品を膨らませ、魅力を高めた。

ニックは退屈のあまり部屋で空気銃を撃つ。心配するノラ

常にアルコールをたしなみながら、妻をからかい、愛し、うっちゃりながら軽やかに身をこなす芸達者なウイリアム・パウエルは、詐欺師のようにも大道芸人のように見え、つまりは古典的芸人の顔とふるまいが身に着いた役者ぶりで、調子よく事件を解決してゆく。
事件の周りの人物は、作品の性格上マイルドに味付けされてはいるが、浮気妻やマザコン息子、牛乳メガネの精神科医など怪しい人物ばかり。
唯一まともな若い女を「ターザンシリーズ」のジェーン役のモーリン・オサリバンが演じている。

ニックが最愛のウイスキーをかける真似。夫婦の戯れのワンシーン

原題は「The Thin Man」。
直訳すると「薄い男」「軽い男」だが・・・。
日本映画で流行っている「シン(ゴジラななど)」とはなにか関係あるのだろうか?

「夕陽特急」  1936年  W・S・ヴァンダイク監督  MGM

シリーズ第二弾。
話も前作の「影なき男」から続いている。

「夕陽特急」オリジナルポスター

休暇先のニューヨーク(第一作の舞台)からサンセットエキスプレスでサンフランシスコに帰ってきた、ニックとノラ、愛犬アスタ(テリア種)も一緒。

地元に帰ったとたん人気者のニックは歓迎を受ける。
かつて事件を解決しニックが監獄に送ることになったっ元犯人は、逆恨みするどころか親し気に寄ってくる。
怪しい人たちや庶民により人気があるのがニック。
内心は感心しないと思いながらも悠然と構える妻ノラが控えているのがこの夫婦らしいところ。

怪しげな中華レストランにて、オーナーをおちょくるニック

留守中に愛犬アスタの連れ合いに子犬が産まれており、よその犬が夜這いに通っていたなどのエピソード。
自宅に帰ってくるなり、知らない人達が自宅でパーテイしているところに出くして台所に対比するニックとノラ。

事件の舞台になる怪しげな中華レストラン・ライチの怪しげなオーナーと蓮っ葉な歌姫のショー。
若き日のジェームス・スチュアートはすでにスターで、クレジットは主役二人に次ぐ三番目、重要なわき役を務める

愛犬アスタが先頭になって事件解決!

あらゆるユーモアと欲望渦巻く世の中を、常にアルコールを求めながらすいすいと泳いでゆくニック探偵。
妻ノラとの仲は常によく、ふいに顔が近づけばニックがノラにキス、好奇心旺盛なノラが事件解決の邪魔になれば叫ぶ妻を閉じ込め鍵をかけるニック(いつの間にか出てきて事件解決に協力しているのがノラのノラたる所以)。

1936年という戦前の微妙な時期にこういったある意味ノー天気な作品を作る所はアメリカの「大国」たるゆえんか。アメリカ風の雰囲気に疑いを持たずに自信たっぷりに描いている。

監督のヴァンダイクは、探偵映画でもスリラーでもなく、健全でちょっと色っぽくかわいい夫婦の機微の描写に重点を置いていてそれがこのシリーズの成功の要因。
良くも悪くも古き良きアメリカの時代がここにある。
主演二人にとっては代表作ともいえる適役ぶり。

DVD版の解説より

令和6年 畑は今・・・

4月下旬になって今年初めて畑を訪れました。

先ず玉ねぎを見に行きました。
幸いほとんどが活着して冬を越えていました。
まだまだ丈は短かったですが後2か月、6月の収穫まで元気に育ってほしいと思いました。

厳寒を乗り越え春を迎えた玉ねぎ
よく頑張った!玉ねぎ

ガッテン農法で作った畝を毎年使っています。
畝には不思議と雑草が生えていません。
マルチングしているからでしょうか。
このまま土寄せしてマルチを被せれば、無農薬、無肥料で今年も夏野菜を栽培できそうです。

ガッテン式畝(草がない列)と畝間(雑草だらけの列)

しかし畝間には早くも雑草が支配的です。
畝間に雑草を生やし、畝の保湿や土壌維持に役立てる農法もあるようですが、気になるので畝間の雑草は春の段階で一度起こしておきます。
起こした後は、日光で雑草を枯らし、残った土壌で畝に土寄せしてからマルチングしようと思います。

畝間の雑草を鍬で起こす
同上

続いて気になる畑へ向かいました。
ネットを張って鹿よけをしている畑です。
畑に着くとキジの雄が鳴きながら走り回っているのが見えました。
ここら辺に巣を作っているいつものキジが不意の闖入者に驚き警戒したようです。

さて2張りのネットは盛大に崩れていました。
支柱が倒れまくっています。
冬には強風が吹くこともある場所ですが、風上ではなく風下の支柱が倒れています。
冬の間にネット内に侵入した鹿が力任せにネットと支柱を踏み倒しながら脱出したためと思われます。

ネットが支柱毎倒され扉も開きっぱなし
もはやネットの体裁なし
畑には鹿の足跡

今年は畑仕事開始が遅れているので、まず管理機をかけ、鍬で畝を作ってジャガイモを植える作業を第一に行います。
5月以降は、ガッテン式畝にマルチングの上、夏野菜を定植したり、ポットにインゲンにゃビーツなどを撒き、芽出しすることを優先に作業したいと思います。

ネットと支柱の修繕はそのあとです。

この日はガッテン式畝の畝間の雑草を鍬で起こしました。
半袖でもいいくらいの温かさでしたが、数列起した後に雨が落ちてきたので作業を終了しました。

山小舎備蓄の野草茶の原料はヨモギ、ヤーコン葉、スギナですがヨモギが切れていたので畑の周辺で摘み取りました。
まだ短くて柔らかく弱々しいヨモギは集めるのに手間がかかりました。
畑はやっと春を迎えたころなのでした。

ヨモギを摘む。まだ春先でこの量がやっと
畑の角では水仙が満開

桜を求めて八ヶ岳半周 (後編) 臼田・稲荷山公園

桜を求めて八ヶ岳を半周、小海町まで来ました。
このまま国道141号線を北上して佐久市に入ります。
佐久市は南北に長く、臼田、野沢、中込、岩村田といった町が合併して成り立っています。

141号線を走り臼田地区に入ってゆくと右側の山頂に宇宙ロケットを模した構造物が見えてきます。
JAXAか何かと提携した天文関係の施設?あるいはスピリチュアルの何か?
県内には南牧村の野辺山に国立の天文台があったりするので、関連する施設が佐久にもあるのか?

佐久市臼田の稲荷山公園案内図

千曲川ほとりの稲荷神社の駐車場に軽トラを止めます。
鳥居わきには、葉桜となったソメイヨシノが最後の花をつけています。

朱色の鳥居のトンネルをくぐって登ってゆきます。
振り返ると千曲川の流れが、朱色の鳥居の列越しに眼下に広がります。
少々頑張って登った先に稲荷神社の本殿がありました。
まずは臼田のお稲荷様にご挨拶です。

稲荷神社
稲荷神社本殿
稲荷神社由緒書

神社の境内は公園の敷地につながっていました。
稲荷山公園です。
散策する人の姿が見えます。

眼前に141号線から見えた巨大なロケットが姿を現しました。
ロケットは公園の頂に立っており、近くで見ると遊園地の施設のように見えます。
JAXA関係の施設ではないようです。

ロケット型の展望台
コスモスタワー(展望台)案内

ロケットは展望台になっており、階段で3階まで登れるようです。
混みあうと行きかうのに困難が生じるほどの狭い階段を上ってみます。
行きかう家族連れは2,3組で閑散としています。

3階から展望すると眼下にパノラマが広がります。
公園の芝生で遊ぶ子供たちの姿が見えます。
目を転じると千曲川の流れや佐久盆地の景色が広がっています。

コスモスタワーから公園を展望
コスモスタワーから展望する千曲川

公園には、ロケットから広場への滑り台のほか、広場、階段、ベンチなどが配置され広々としています。
舗道に沿って満開の桜並木がありました。

公園でゆったりと過ごすファミリーやカップル、子供たちの姿を見て山小舎おじさんもまったりしました。

公園を後にし、稲荷神社の方に戻ります。
鳥居を逆戻りするのではなく、別の山道をゆったりと下って駐車場に戻り、軽トラで山小舎へと帰りました。

稲荷山公園内の桜並木

桜を求めて八ヶ岳半周(前編) 南牧村・海尻城跡

山小舎開きを終え、山小舎おばさんを諏訪南インターまで送った後、桜につられて軽トラで八ヶ岳周辺をドライブしました。

茅野や原村、富士見の平地では桜の満開が終わっていましたが、八ヶ岳周辺の標高が高い場所ではソメイヨシノなどの桜が満開です。

富士見町の畑の脇の桜。背後に八ヶ岳連峰

八ケ岳エコーラインを使い、山梨県に入り、八ヶ岳高原ラインを走り、美し森など清里高原を抜けて軽トラを走らせます。
このルート、富士見高原エリアには桜が見られますが、山梨県の八ヶ岳高原ライン沿線にはほとんど桜がありませんでした。

清里を過ぎ国道141号線に合流、野辺山高原を抜けて走ります。
坂を下って長野県南牧村の海ノ口地区に入るとぽつぽつ桜の木が見えてきました。

かつては湖が広がっていたというこのあたり、その名残は海ノ口、海尻、小海などの地名に残っています。
千曲川がその源流に端を発し、国道141号線やJR小海線と並行して流れています。

南牧村海ノ口地区の中学校校庭にて

国道141号線に沿った南牧村海尻地区に、海尻城跡という人知れぬ城跡があります。
小高い山の上にあり、そのふもとには天台宗の医王院という立派なお寺が、海尻城跡を守るように建っています。

海尻地区の天台宗医王院。鐘楼を兼ねた山門が見える

医王院には立派なたたずまいの仁王像と山門があり、思わず立ち止ってしまう程です。
近くの諏訪神社の道路わきに軽トラを止め、医王院の境内に桜を探してみました。

山門をくぐる手前に木で作った鳥居のようなものがあり、「史跡海尻城」と看板があります。
見上げれば15分ほどで登れそうな小山の頂が城跡のようなので登ってみました。
眼下に医王院の大きな本堂を見ながらの山登りです。

山門手前の参道を海尻城跡へと分け入る
城址へと山道を上りながら、医王院山門を桜越しに振り返る
山道から桜越しに医王院の本堂

戦国時代以前に地方豪族によって建てられ、武田氏から地元勢力へと主を替えたというお城の跡地です。
地方豪族の「館(タテ)」の大きなものだったのでしょうか、それでも三の丸まであったとのことです。
街道筋と千曲川を眼下にした絶好の立地です、かつてはさぞ栄えたのでしょう。

小山の頂の海尻城跡
山頂の奥には一族を祀る碑が結界を張って守られていた

訪れる日も少ない、昔日の海尻城跡と、それを守る医王院の訪問を終え、再び141号線に戻ります。

国道141号線は、佐久市に入る前に小海町を通ります。
小海町は南牧村の北隣にある、千曲川流域で小海線沿線の近隣では大きな町です。

走っていると児童公園の桜が目に留まりました。
色合いが微妙に違う桜が配置されています。
ちょうど散り始めた花びらが桜吹雪というか雪の花が降っているようです。
そのただなかにいると体が震えるような思いでした。

小海町の児童公園の見事な桜
無人の公園の散る桜に癒される

桜の旅前編終了です。
後編では141号線沿線の佐久市臼田地区の稲荷山公園で桜に出会いました。

令和6年山小舎開き

今年の山小舎開きは4月中旬です。

1月は孫たちが橇で滑った山小舎前の道も春模様

山小舎おばさんに送られて、荷物とともにやってきました。

2か月ぶりの山小舎は残雪などはすっかりなく、春の芽吹きを待つ木々の気配に満ちています。

山小舎は無事だった

暖房はまだまだ必要ですが、寒さは冬の厳しさはありません。
山小舎の地下に下りて上水道の水を上げ、凍結防止の電熱線への通電を切りました。
水道は夏モードでもう大丈夫でしょう。

冬使ったシーツを早速洗濯

来月早々にはやってくる娘孫一家が冬の間使ったシーツを洗濯して、干し、山小舎仕事の開始です。
これから天気のいい日には布団も干そうと思います。

山小舎おばさんは2泊して東京へ帰宅。
8シーズン目の、山小舎おじさん単独生活の開始です。

狭山境緑道全線走破

2月27日付の本ブログで狭山境緑道のことを書きました。

狭山境緑道は武蔵野市関町から東大和市の多摩湖まで、全長10.5キロメートルの緑道です。
大正時代に東京への上水道供給事業として掘削開始され、多摩川を水源とする人造湖の多摩湖(下村山貯水池)から、武蔵野市の境浄水場までをほぼ直線で結んだ取水路が完成しました。
取水路はのちに取水管が地下に埋められ、その上が遊歩道として開放され、現在に至っています。

春真っ盛りとなったこの日、武蔵野市関町から東大和市多摩湖までの緑道全行程を自転車で往復してきました。

自宅から関町5丁目の緑道出発点に向かいます。
途中、緑道が多摩湖の水を届けている境浄水場の脇を通ります。
境浄水場は井之頭通りに沿って広がる広大な施設です。

武蔵野市の境浄水場を井之頭通りから見る

浄水場が途切れてから少々ゆくと、井之頭通りが五日市街道に合流する関町5丁目交差点に着きます。
ここから狭山境緑道が出発します。

関町5丁目交差点。緑道の出発点

関町から花小金井まで

桜が散った4月中旬の緑道は、つつじ、ヤマブキ、ハナミズキなどの天国です。
ウオーキングの人々が、花々に囲まれながら気持ちよさそうに歩いています。

つつじ
ハナミズキ

関町から花小金井駅のあたりまでは、人通りも多く桜並木が整備された道です。
沿道の民家は、緑道に沿って花を植えたり、庭木を手入れするなどして緑道の維持管理に協力しています。
サイクリングロードのようにスポーツ自転車が高速で突っ走るようなシーンも少なく、とにかくのんびり散歩する人、駅などへの生活道路として使用する人の姿が見られます。

沿線の農家のプレゼンテーション
沿道には桜の巨木が残る
桜並木が続く花小金井近く

春を迎えた農地が耕されています。
都市農業がまだまだ元気です。

花小金井から小平まで

花小金井駅周辺を過ぎると緑道の人出が収まってきます。

沿線には、民家に交じって広々とした公園が多くみられるようになってきます。

桜吹雪の名残

小平の古民家などを集めたふるさと村という施設があります。
この日は休館日でしたが、空いている日は古民家の庭先で羽根つきなどで遊ぶファミリーの姿などが見られます。

小平ふるさと村は本日休館

西武新宿線の小平駅はこのあたりの中心の駅で南口にはロータリーが広がり、商店が集まっています。

小平から多摩湖まで

小金井市、小平市と通過してきた緑道が、東村山市、東大和市へと向かいます。

東村甘市内の緑緑道
八重桜

人通りはますます少なくなってきます。
西武線の踏切を渡ったり、線路と並んで進みます。

八坂という駅を過ぎてからは、西武多摩湖線と並行して進みます。

東村山市内の西武線踏切
八坂駅

線路の向こうに広々とした東村山中央公園の景色が広がります。

東村山中央公園方面を遠望

まもなく緑道の終点、東大和市の武蔵大和交差点です。
この先は丘陵となっており、多摩湖を抱える公園が広がっています。

多摩湖は大正時代に作られた人造湖で、下村山貯水池というのが正式名称のようです。
公園に入ってゆくと、広い湖面に建つ取水塔が見えます。
湖の反対側は埼玉県所沢市で、西武ドームの銀屋根が遠望されます。

多摩湖に建つ取水塔
湖面の向こう側は埼玉県

帰りに緑道わきのうどん屋へ寄ってみました。
元気のいいおばちゃんが仕切る繁盛店でした。
手打ちのゴツイうどんを汁につけてすする食べ方は、武蔵野地方から埼玉にかけての伝統的食文化です。
東村山のきくやといううどん屋はまた来たくなるうまさでした。

東村山のうどん店・きくや
3Lうどん、肉汁てんぷら付き

春の花々に囲まれ、湖の絶景に接し、思わぬ地元の美味に舌鼓。
感激の狭山境緑道の輪行でした。

東村山の小学校にて

玉川上水緑道の散りゆく桜

桜が散り始めました。
玉川上水沿いの緑道に、散りゆく桜を眺めてきました。

杉並区内の玉川上水緑道

玉川上水は江戸時代に開かれた上水道で、多摩川の羽村から四谷までの43キロほどを流れています。

現在でも都内を流れる川(水路?掘割?)として管理保存されており、上水道に沿って遊歩道が整備されています。また、小金井市内では沿道の桜並木が花見の名所となっています。
三鷹市内で太宰治が愛人と入水自殺をしたのも玉川上水です。

上水の流れは今も

玉川上水が三鷹市内で人見街道と交差し、東八道路に沿って流れるあたりに桜の並木があります。

桜吹雪も終わった沿道の桜

この日、すでに桜吹雪も終わりかけたころ、自転車で見に行ってきました。

桜の巨木が上水道の歴史を物語っています。
既に季節は桜からヤマブキなどに移っています。

桜の巨木が残る
ヤマブキが満開

三鷹から杉並区に入るこのあたり、平日は人通りも少なくのんびりしています。
来年は満開の時期に来ようと思った多摩川上水の桜でした。

緑道には桜吹雪の名残が

千鳥ヶ淵の葉桜

ソメイヨシノが満開となった数日後、千鳥ヶ淵に行ってみました。

九段坂下から靖国通りを上り、武道館のある北の丸公園を左手に見て進みます。
夏には蓮の葉で水面が隠されるお濠を桜越しに眺めます。

靖国通り沿いの昭和館から見た皇居のお濠
北の丸公園方面の人々

人波が多くなってきましたが想像以上ではありません。
自分のペースで歩けます。

千鳥ヶ淵公園
千鳥ヶ淵に浮かぶボート
千鳥ヶ淵の対岸の桜

千鳥ヶ淵に着くと桜並木に沿ってお祭りの時のように見物人の列が続いています。

近くで見るとソメイヨシノは葉が出ており、花はかなり散ってしまっています。

桜はかなり散っていた

外国人が多数います。
中国、韓国のほかラテン系、南アジア系と思しきグループの姿が目につきます。
白人は大体カップルで歩いています。

目の前に裸足で槍を持ち、民族衣装を着たカップルが歩いています。
付いて行ってみると、同じく民族衣装を着た女性の一群に合流していました。
この一団はリーダーと思しき男性が率いており、アマチュアが自然発生的に集まったものではないようでした。

目の前を歩く民族衣装のカップル。男性は裸足
集まった民族衣装の一団

歩いているうちに戦没者墓苑の入り口に着きました。
Uターンして靖国通りに戻り、市谷駅まで歩いて帰りました。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑は等しく戦没者が祀れた国立霊園
靖国神社の大鳥居が覗く

府中競馬場、競馬博物館

自転車での散歩の途中、府中競馬場(正式には東京競馬場)の前を通りました。
周辺には制服を着た交通整理のおじさんたちが多数出動しており、競馬場で何か開催されているようでした。

府中競馬場東門

東門の前を通ると、人々が三々五々門から入場してゆくのが見えました。
駐輪場に立っている係員さんに聞くと「今日は場外馬券売り場が営業しており無料で入場できる」とのこと。
開催日には200円で入場できるとのことでした。
時間があったので入ってみました。

広い広い競馬場に初めて入りました。
学生時代、札幌の競馬場の関係者駐車場でバイトしたことがありました。
制服、ヘルメットを着用し駐車場内を巡回するだけのバイトでした。
入ってくる車のほとんどが黒塗りのベンツだったような記憶があります。
サングラスをかけた人が運転しているような印象がありました。

この日の府中競馬場には幼い子供連れのファミリーがたくさんいました。
子供らは、簡単な遊具が設置してある公園で元気に走り回っています。
芝生にシートを広げるグループもいます。
ベンチで一人黙する男性は馬券を買いに来た人でしょうか。

この日は無料の入場ゲートをくぐる
城内の案内

中世より武蔵野の中心であった府中は現代にあっても三多摩地区の中心です。
刑務所、税務署、法務局、ハローワークなどの行政施設が置かれています。

ギャンブル施設においても、競馬場のほかなぜか競艇場まであるのは戦後政策のせいでしょうか。
ちなみに競輪場は戦前に京王線終点の遊興施設として作られ、戦後には米軍のダンスホールに接収された歴史を持つ京王閣がその会場となっています。
京王閣は府中の隣、調布市にあります。

府中競馬場の話に戻ります。
小高い丘に登ると馬場が遥かに見渡せます。
馬場は、芝生と土の二つのタイプがあります。
馬場が取り囲むフィールドも見渡せないほど広いのですが、開催日にはここに移動販売車などが集まるとのことです。

全部は探訪できないのでせめて競馬博物館に入ってみることにしました。
デパートのエレベーターガールのような制服姿のお姉さんが一方ならぬ丁寧さで迎えてくれます。
ここも金をかけた施設であることがわかります。

城内の競馬博物館入り口

場内は全国の公立博物館のような手狭さ、そっけなさとは対照的です。
吹き抜けの階上階へは広々としたエスカレーターが常時動いています。
白塗りの壁は明るく広がる空間を演出しています。
学芸的な香りの施設というよりは、場にそぐわない百科事典を陳列した金満経営者の社長室のような居心地の悪さも若干漂っています。

1階に展示されている馬の種類の模型
新人騎手紹介。女性騎手もいた

肝心の展示内容ですが、歴代の名馬や名騎手のモニュメントばかりではなく、競馬の歴史も丁寧にされていました。

競馬の歴史コーナー。競馬の始まりは戦車競走

馬を使った競争は紀元前の戦車競走から始まり、特にヨーロッパで発達したこと。
日本では中世に始まったことがわかります。
中世の日本では武者を乗せた馬の競争があったようです。
流鏑馬や野馬追のような文化遺産が現代でも残っており、馬を使った多分に儀式的、お祭り的な行事が競馬だったのでしょう。

19世紀のイギリスの競馬場のジオラマ模型

西洋式競馬の始まりは幕末の外国人居留地がその始まり。
日本でも賭け事としての競馬がたちまち広がったとあります。
戦前の日本では優秀な軍馬の生産が競馬の興隆の目的の一つだったともあります。

明治時代の日本の競馬馬券。この時代、既に不正はあったとのこと
全国各地に点在する競馬場

外国では、競馬のほかにドッグレース、闘牛などが発達し、日本では競輪、競艇がなぜか公営ギャンブルとなって今日にいたっています。
日本における公営ギャンブルの発生と内実は不透明そのものですが、国公認の各胴元には莫大な金員が集まることだけは確かです。
その周辺にはなけなしの金をはたいて賭けにいそしむ、よれよれのジャンパーを着た多数の浮かない顔の人々が群れていることも。

場外に立ち飲み屋が残っている。この日は4軒が営業していた