信州ソウルフード放浪記VOL.10 塩尻市役所食堂

2年ぶりのソウルフード放浪記です。
これからこの枠では、本来の地元ソウルフードに限らず、地元の名物食堂や、気になった食べ物などもネタとしてゆきたいと思います。

ということで、先日訪れた塩尻での昼食に、市役所食堂を訪れました。

なぜ、塩尻に行ったか?

塩尻は、山小舎暮らしの気分転換のドライブにちょうど良い距離にあること、季節の農産物に掘り出し物があること、信州3大シアター(おじさんが勝手に言っている)の東座という由緒ある映画館があること、かつて駅前の観光案内所で駅構内で収穫したブドウを1袋100円で買えたこと、ワインの産地出であること・・・。

つまりは、山小舎おじさん的見どころにあふれた街だからです。

この日も、まずは郊外にあるJAの直売所へ向かい、格安のイチヂク、ブドウ、ナシなどを購入しました。
「掘り出し物」とは、イチヂク1袋が150円で手に入るということでもあります。

ついで駅前へ。
30分無料の駅ロータリー内駐車場に軽トラを止めて、観光案内所へ。

駅構内のブドウの販売は先週終わっていた、とのことでしたが、地元産品コーナーに並んでいた地酒とワインの中から清酒・笑亀特別純米4合瓶とワインをセレクト。

観光案内所の女性職員さんは今日も気軽に雑談にも応じてくれました。

ちなみに塩尻市内には民間の路線バスは撤退し、岡谷や松本と結ぶバス路線はないとのこと。
市内と近郊を結ぶいわゆるコミュニテイーバスのみ運行中とのことでした。
諏訪から松本までバス旅をするのであれば、塩尻峠を歩いて超える必要がありそうですね。

塩尻・笑亀酒造謹製、笑亀特別純米原酒

塩尻での昼食。
気になっていた塩尻市役所の食堂へ行ってみることにしました。
一度トライしたことがあったのですが、2時のタイムリミットに引っ掛かり、食べられなかったことがあります。
長野県の食堂は2時で昼休みに入る、という厳しい不文律を痛感させる一コマでしたっけ。

市内で一番の威容を誇る塩尻市役所正面玄関。自衛官募集中の幟がはためく!
1階の入り口に立つ看板が食堂へ誘う!

さあ、市役所食堂の再トライです。
閑散とした1階ホールからエレベーターで5階へ。
そこにあったのはさらに閑散とした空間でした。

サンプルも券売機もないので食堂の中に入ってゆくと、おじさんが一人でキッチンで立ち働いていました。

ボードにメニューが書いてありましたが、注文する前に「焼き鮭がおすすめだよ」と言うのでそれを注文。
500円を手渡そうとすると「その箱に入れて、おつりが必要なら取って」とのこと。
紙の箱に500円玉を入れました。

閑散とした廊下からパーテーションで隔たれた空間が食堂だった

食堂内には三々五々、職員らしき人が食事しています。
食堂らしき活気はどこを探してもなく、昼休み時間外に数人が弁当を広げている会議室、のような風景です。

肝心のメニューですが、カツ定食など数種類のメニューがあるようでした。
食べた焼き鮭定食も見た目より満足感のある手作り風の味でした。

食堂に来た人が、主のおじさんと「ごはん半分ね」などともれなく会話を行うような、コミュニケーションにあふれる場でもありました。

この日のおすすめ焼き鮭定食。見た目より食べ応えあり!

市役所や公共機関の食堂はかつては、安く、まずいながらも活気にあふれた場でしたが、調布市役所が食堂を廃止したように、かつての直営食堂の姿は減少し、食堂があっても完全外注スタイルで、内部の造作もメニューや値段も各業者に応じたもの、になっています。
大学食堂も国公立ではCOOP食堂の経営に統一されています。

塩尻市役所の食堂。
主のおじさんが完全ワンオペの元、数少ない固定客を相手にコミュニケーションの貫徹を旨として孤軍奮闘しておりました。

主のおじさんが撤退したら市役所から食堂はなくなるのでしょうか。
主の元気の続く限り残ってほしいものです。

ネットが鹿に破られた

畑の1枚に張り巡らせたネット。
丈2メートルのネットを、50メートルほどの長さで囲んで、ジャガイモ、インゲン、枝豆、大豆を植えておりました。

何事もなく、夏にはジャガイモ、インゲン、枝豆を収穫。
秋になって大豆の枯れるのを待ちながら、空いたスペースに白菜とキャベツを植えておりました。

定植後、育ち始めていた白菜のかつての姿

10月にになって、畑に残るのは里芋、ヤーコン、菊芋など。
畑作業は一息ついておりました。

10月下旬、ヤーコンと菊芋の収穫に久しぶりに畑を訪れました。
まあまあの出来のヤーコンと菊芋を掘起し、ついでにネット内の白菜の様子を見に行きました。
そこで見たものは白菜の影も形もない畝と、倒れたネットの姿でした。

倒されたネットの全景。右側は強風によりかねてから支柱が折れたいたもの
白菜とキャベツが植わっていた畝の姿・・・

ネット内に入ると、奥の大豆も全滅していました。
ネットは内側から倒されています。

どう見ても鹿が親友して作物を食い尽くし、ネットを倒して脱出したようにしか見えません。
して、侵入路は?

大豆が旺盛に茂っていたあたり。風景が一変した…
鹿が脱出したあたりと思われる部分。ネットが内側から倒されている

よく見ると奥にネットが食い破られた穴が開いています。
ここから侵入し、食い尽くした後はネットをして支柱毎なぎ倒して出て行ったものとみられます。

鹿の侵入路

白菜、キャベツが跡形もないのはもちろん、硬い大豆の地表部も食べつくされています。

畑をあさる「野良鹿」たちとはいえ、野生のおきてに生きています。
彼らが「餌場」として認識している畑の、たとえネットに囲まれていたとしても、目の前の青々とした鉱物を何としても得んとしたのでしょう。

冬を前にし、食料をあさる野生動物の、宿命ともいえるどう猛さ、必死さが伝わってきました。

鹿が食べないといわれているヤーコンの葉も犠牲に。
この日の収穫。左がヤーコン、右が菊芋

【補遺】

山小舎の庭に植えたキセワタという草もネットをはぐって鹿が食べ尽くしていました。
夏までは見向きもしなかったのに。
これからはブルーベリーの枝なども狙われます。
人間と鹿の攻防が始まります。

山小舎の前庭。へこんだネットを見つけた。もしや・・・
ネットの中身(キセワタ)は食べ尽くされていました・・・

令和3年 衆議院総選挙 期日前投票

今年は10月31日に久しぶりの総選挙があります。
総選挙といえば昨今はAKB48の専売特許ですが、本来は、当たり前ですが国政選挙である衆議院議員選挙のことをいいます。

国民の権利である参政権を行使するためにも山小舎おじさんは期日前投票に行ってきました。

普段は長野の山小舎に暮らす身ですが、住民票は自宅のある調布市においている山小舎おじさん。
31日は自宅におりませんが、帰宅の折、期日前投票に初めて行ってきました。

選挙区は東京22区。
期日前投票所は調布市役所です。
事前に郵送されてきた投票券?さえ持ってゆけば期日前投票ができるので便利です。
この日は土曜日ということもあるのでしょうが、期日前投票所には20人ほどの人が集まっていました。

土曜日の調布市役所前。投票所までは看板が案内してくれる
1階の入り口を入れば投票所。三々五々有権者が訪れていた

過去の衆議院選挙では忘れられない光景がありました。
東日本震災の年(だったと思う)の総選挙。

基本、選挙権は行使していた山小舎おじさんは、いつものように投票所の小学校に向かいました。
出がけに軽く投票するつもりでした。

そこで見たのは校庭を突っ切って並ぶ選挙民の列。
「ああ、震災があったばかりだから、国の運営についても皆の関心はたかいわなあ」と思い「帰りに投票しよう」とそのまま出かけました。

夕方、帰りしなに見たのは、朝方よりは少ないものの、校庭へ延びる有権者の列でした。

こんなことはそれまでもそのあともありませんでした。

当時は国内の未曽有の災難を目の当たりにし、明日は我が身という謙虚な気持ちと、いざとなった場合に頼りのなるのは隣近所の人間だ、との「お互い様」のチームワークの気持ちが国内にあったような気がします。

その中で、国のかじ取りを担う政治家の選択は、国民にとってなおざりにはできないことでした。
選挙民の関心の高さが熱気となって投票所を取り囲んでも不思議ではありませんでした。

出口調査に駆り出された、まだ自民党に入っていなかったタレントの三原じゅん子が、テレビカメラに向かって「自民党大変です!まずいです!」と叫んでいたそうです。

後日、この選挙をマスコミは「史上最低の投票率。」と伝えました。
選挙結果は自民党の圧勝でした。

投票所の光景が目に焼き付いているおじさんはそれを聞いて「それは違う」と思いました。

「強烈な違和感」どころの話ではありません、自民党圧勝はともかく、史上最低の投票率とは何事か。
あの長い列、熱気は幻だったのか。

いくらお上から「白のものを黒」と言いくるめられ続けた歴史を持つ日本人の端くれであっても、我が身をもって体験したことを全否定されるのは決してうれしくはないものです。

調布市役所の建物にへんぽんと翻る選挙の幟

令和3年の東京22区は4人が立候補。

伊藤達也は地元の深大寺ペガサスという少年野球チーム出身で、かつては調布の少年野球大会の開会式に来賓であいさつしていました。
新進党から紆余曲折の末自民党入りしています。

山花郁夫は、社会党末期に委員長を務めた父・貞夫の2世で、実家は京王つつじヶ丘駅へのバス通り沿いにあります。

ほかに、れいわ新選組のくしぶちという女性が出ていますから、野党統一候補が成らなかった選挙区なのでしょう。

東京22区のポスター掲示板

投票し、国民の権利を行使し終わった山小舎おじさん。
気持ちも晴れ晴れと調布駅前広場を自転車で通ると、秋晴れの下、共産党とれいわ新選組が選挙活動を行っていました。

駅前では選挙活動。共産党
こちらはれいわ新選組

山本富士子と「夜の河」

神保町シアターの特集「恋する映画」でこの作品が上映された。
観たかった1本だった。

1956年の大映作品。製作:永田雅一、監督:吉村公三郎、主演:山本富士子、上原兼、撮影:宮川一夫、照明:岡本健一。
キネマ旬報ベストテン2位。

当時の映画界と大映

当時映画産業は炭鉱などと並ぶ花形産業で、映画人口の最大期を2年後に控える絶頂期だった。

同年のベストテン作品を見ても、第1位の「真昼の暗黒」(今井正監督、橋本忍脚本)をはじめ、4位「猫と庄造と二人のをんな」(豊田四郎監督)、5位「ビルマの竪琴」(市川崑監督)、6位「早春」(小津安二郎監督)、8位「流れる」(成瀬己喜男監督)と日本映画の歴史に残る名監督たちの作品が並ぶ。

松竹、東宝、大映、東映、日活、新東宝の6社が専属のスタッフ、俳優をもって製作を行い、独自の配給網を持つ(新東宝を除く)という2度とは来ない夢のような時代だった。

その中で大映は社長永田雅一のワンマン体制が敷かれていたが、専務として新劇の劇作家だった川口松太郎と監督の溝口健二が永田を補佐し、俳優では長谷川一夫を筆頭に、京マチ子などがいた。
京都と東京調布にそれぞれ撮影所を有していた。
業界的には松竹、東宝に次ぐ3番手のイメージ。

社長の永田の資質もあるのだろうが、政治家とのつながりやプロ野球球団保有など目立つ活動を志向していたが、松竹の歌舞伎、東宝の阪急電鉄のような基盤とする背景に乏しく、上映館数も少ないなど、経済的には脆弱だった。

また、永田は当初、新生日活によるスタッフ引き抜き防止を主目的とした、いわゆる5社協定を主導したが、長期的には人材の交流の疎外という点では映画界全体の利益に反した。

一方で、東宝で撮るチャンスを逸していた黒澤明を招き「羅生門」を製作するなどもしている。
日仏合作の「二十四時間の情事」(アラン・レネ監督)を作ったり、溝口健二監督に好きなように撮らせ、「近松物語」「雨月物語」「山椒大夫」などの名作を世に送り出したのも永田雅一だった。

山本富士子と大映

第一回ミス日本の栄誉を満場一致で受賞したという山本富士子が大映に入社したのは1953年。
当時絶頂の映画界は例えば宝塚スターの再就職先としても有力な先だった(乙羽信子、淡島千景、新珠三千代、有馬稲子など)。

しばらくはいわゆるプログラムピクチャーのヒロイン役ばかりだった山本が、有力監督の文芸作品のヒロインに抜擢されてブレイクしたのが「夜の河」だといわれる。

山本富士子という人、外見の美貌と物腰の柔らかさに反して自立心と自尊心に満ちていた。

当初の大映との契約は3年後にフリーとなる条件だったというが、大映は反故にし、その後も専属契約を押し付けた。
契約更新のたびにもめたらしい。

念願の第1回他社出演は松竹の「彼岸花」(1958年)。
小津安二郎初のカラー作品の準主役に抜擢された山本は、和服姿のあでやかな所作と滑らかな関西弁で画面をさらった。

大映プログラムピクチャーとして消費され、残されていなかった山本富士子の姿が映画の歴史に鮮明に刻印された瞬間だった。
後年の映画ファンにとっては隠されていた日本映画の宝がそこに燦然と輝いているのを発見したような気持だった。

他社出演では「墨東奇譚」(1960年)、「如何なる星の下で」(1962年)がある。
どちらも実力派・豊田四郎の監督作品。
女優に対しては意地悪なほど辛辣な演出を行いかねない豊田監督をして、気高く孤高の女性像を描かしめた。

山本富士子は永田雅一と他社出演をめぐって衝突し、大映を退社。
永田は怒って映画界からの永久追放を画策した。

1983年「細雪」の映画化に際し、監督の市川崑が長女役に山本を指名し交渉したが断られたという。
山本富士子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子の「細雪」だったら・・・それはさぞあでやかだったことだろう。
完成した作品を見た山本が、出演すればよかったと思ったとのこと。
映画ファンにとっても逃した魚は大きかった。

山本富士子と「夜の河」

山本富士子が大映入社3年目。
一流スタッフを集めたカラー作品である。
共演にも東宝の上原兼をもってきている。

この作品についてはまず色彩設計の見事さがいわれる。
舞台は京都のろうけつ染めの工場。
そこの独身の跡取り娘役が山本で、大阪大学の教授の上原と恋をして別れるまでを描く。

色彩設計でいえば、赤や緑の染め物が並ぶ工場の風景が思い出される。
発色もいい。
観たのはデジタル版だが、オリジナルのカラーが再現されているのだとしたらば、カラー撮影は成功している。

カメラは宮川一夫。
溝口作品でのパンフォーカスやクレーンを使ったワンショットワンシークエンスの撮影に力を発揮するカメラマン。

「雨月物語」では、戦乱の世、我が家に戻った森雅之が妻・田中絹代の歓待を受けるが、我が家はすでに廃墟だったというシークエンスを、カメラを360度パンする間の場面、時間転換で表現。

「祇園囃子」では路地を歩く若尾文子が、20メートルほど先の通りの舞妓たちを見て、けいこに通えない身を恥じて姿を隠す場面を、歩く若尾と20メートル先の舞妓たちの双方にピントを当てる鮮やかなパンフォーカスによるワンカットで表現。

照明の岡本健一。
熊井啓が胃潰瘍で血を吐きながら撮った「忍ぶ川」(1972年)。
大映は倒産し、撮影所システムは崩壊する中で、熊井が特に照明担当としてスタッフに招いた人材として記憶に残る。

「夜の河」では、夏の夜、歩く山本と上原が雨に打たれ軒下に休むあたりから、お茶屋内のシーンでのライテイング。
徹底したバックライトで人物の表情を消し、ただならぬ心理状況を表す。
長時間にわたり、影や暗さを微妙にライテイングするには相当の経験と自信がいるはず。

されど「夜の河」では必要以上の技法的主張はなかった。
撮影はカラーの再現と主人公の心情の移ろいを写し取ることに傾注し、手際よくまとめていた。
すべての技術的効果は吉村監督の演出プランの範疇に収まっていた。

心惹かれる相手とのただ一度の逢瀬の後、「子供ができたら、あんさんに似て・・・」と主人公が漏らす。
「子供?」と我に返り逡巡する妻子ある男。
そのわずかな反応に醒め「もしできてもうちの子として育てます」と端然と述べる主人公。

あふれる情念と自立した女性の自尊心を合わせて表現した、主人公と山本富士子のキャラクターが被って見える山場のシーンであった。

逢瀬の場は通りかかったお茶屋。
そこのおかみは主人公と女学校以来の親友で、軒先の二人を招き入れる。
男を紹介しようとする主人公には「ワテは戸籍係であらへん」と客先のプライバシーには踏み込まない。

演じたのは阿井美千子という女優。
てきぱきとした京都弁といい、動きのいい物腰といい、これがプロの京都女性というものなのか?と感心する傑出した演技だった。

SL! SL! SL!

県内に保存されているSL(蒸気機関車)の話です。

山小舎生活5年間。
長野県内の各所を訪れるにつれ、思いがけず、数々の保存されているSLと出くわしました。
一時のSLブームが偲ばれます。

駅前に大切に保存されているSL、人気のない公園の片隅に野ざらしでたたずんでいるSL、いろいろありました。

子供時代は、住んでいた旭川から例えば近隣の神居古潭(石狩川に白い吊り橋がかかる、旭川と深川の間の景勝地)まで行こうと思えば、当時の普通列車はSLでした。

札幌・函館間を走る急行ニセコはC62という高速型SLが二重連結で走っていました。

道内のちょっとした駅には、SL用の給水タワーが立っていました。
乗客はトンネルに入ると、煙を防ぐため窓を閉めました。
SLがけん引する客車の座席はすべて木製で、背もたれが直角だったような気がします。
SLには親近感を感じる山小舎おじさんです。

茅野駅東口のC12

まずは茅野駅東口のロータリーに大切に保存されているC12です。

戦前に茅野郊外の北山にあったという諏訪鉄山から茅野駅まで、鉄鉱石を運んだとのこと。
北山地区は茅野市内から白樺湖へ向かう道筋にありますが、今は鉱山も線路跡も痕跡を探すのが困難なくらい様変わりしています。

茅野駅前のC12

SLの保存状態はトップクラスです。
普段は訪れる人も少ないですが(駅に降り立つ人がそもそも少ない)、駅東口に大きく掲げられた「縄文のビーナス」の垂れ幕と合わせて目につく場所に置かれています。
それまでの苦労に十分報いるであろう待遇を受けているSLです。

茅野駅東口階段よりSLを見る

諏訪湖畔のD51

諏訪湖畔のメイン通り、大きな旅館や土産物屋が並び、花火大会の際はメイン会場となる場所にD51が保存されています。

戦後に上諏訪機関区に配属となり、中央本線や篠ノ井線で活躍した車両とのことです。
篠ノ井線を走ったということは、姨捨駅をスイッチバックで越えたということです。
頑張りました。

諏訪湖畔のD51

D51はSLの中で一番多く製造された車体です。
山小舎おじさんが乗ったSL列車のほとんどがD51が引っ張る列車だったことでしょう。

せっかくだから運転室に登ってみる
これがSLの運転室か・・・
運転席からの視界

屋外ですが屋根付きで展示されており、保存状態もまずまず良好です。
何より運転室に入れるのがいい。
安全面のこともあり、屋外のこういった展示車両で「乗車」できるケースはなかなかないものと思います。
展示場所が諏訪湖畔というロケーションもいいですね。

諏訪湖畔のロケーション
諏訪湖方面を見る

南牧村のC58

県外の人には「野辺山」といった方が通りがいいのが南牧村。
小海線野辺山駅を中心に広がる高原野菜の産地です。
かつてペンションブームの際に若者でごった返した清里(山梨県)の隣です。
近頃は高原野菜農家が労働力として頼りにする外国人研修生の関連で有名かもしれません。

南牧村の56

村の中心部、国道141号線脇の南牧村資料館の隣の公園内にC56が展示されています。
北海道から現佐久市中込の機関区に移り、小海線で貨客車両をけん引した活躍した車体とのことです。

小淵沢・清里間は急こう配、野辺山付近には鉄道最高標高地点があります。
冬期間の寒さもあります。
過酷な自然環境との戦いを乗り切った車体なのでしょう。

屋根付きで保存状態はすこぶる良好です。
のちにSLホテルとしても利用されたとのこと。
現在は、八ヶ岳をバックにしたロケーションも現役時代と変わらずに退役した車体を静かに休めています。

はるかに八ヶ岳を望むロケーション

飯山と飯田のD51

県北の飯山と県南の飯田にもSLが保存されています。

飯山では駅近くの児童公園の脇に野ざらしでポツンと置かれていました。
周りが草ぼうぼうです。
車体も傷み始めています。
このまま廃棄されてしまわないよう願うばかりです。

飯山の人気のない公園にたたずむSL
放置され朽ちてゆくのか孤高の姿

飯田では繁華街を過ぎたあたりの公民館の脇の空き地にありました。
野ざらしです。

「火の用心」の標語が飾られている程度には手をかけられてはいるようです。
それでも存在感を失わないのはさすがSLです。

飯田の公園内のD51

ブームが終わったいま、各地のSLをどう保存するのか。
動かすのは無理にしてもせめて傷まないように保存してほしい。
それが無理なら、部品別に保管してほかの保存車両の修繕などに使うとか。

全国の保存SLのデータベースのようなものは・・・ないのだろうな。

ベランダ塗装でDIY! 床編

ベランダの床を防水・防腐塗装しました。

デッキブラシを使って水洗いし、乾かしたベランダの床。
日頃通ることが多い箇所は塗装が剥がれたり、床板がへこみ気味になっています。
洗浄すると、床板の傷みなども浮き上がります。

水洗い完了後のベランダ。よく見ると経年劣化している

塗料はナフタデコール。
外壁、デッキなどの塗装は、ドイツ製のキシラテコールという塗料が使われることが多く、例えば役場の発注工事などでは、使用塗料として指定されることが多いそうです。
しみ込み型の油性塗料で高性能ですが高いのが難点。
一斗缶(16リットル)で2万円以上します。

ナフタデコールは山小舎おじさんのバイト仲間から教えてもらったもので、現在、通販でしか手に入らないようですが「キシラテコール同様性能品」をうたう日本製品です。
くだんのバイト仲間が使ってみて「問題ない」というので山小舎おじさんも取り寄せていたものです。

取り寄せたナフタデコール。一斗缶で1万4千円ほど。

当時は山小舎全体を焦げ茶色(材木の自然経過による古民家風の色)で塗ろうかと思っていたので、焦げ茶色のナフタデコールを注文しました。

実際、台所側の外壁を焦げ茶色で塗装していました。
ところが山小舎の外壁は洗えば洗うほど、ピカピカした材質が現れるのです。
そこで、台所側以外の外壁は本来の材質に寄せた色(ビニーと呼ばれる黄土色)に変更し、塗料を再発注しました。入手済みの焦げ茶色の缶はベランダ床や、柵、柱の上塗りに使うことにしました。

ということである晴れた日に塗装開始です。

ナフタデコールは適度に粘りがあり、伸びもよく、使い勝手が良い塗料でした。

ベランダ床は、20年前とはいえ塗装済みの場所ですので、さらさらとしみ込むだけの塗料でははじかれるだけとなりかねませんが、適度な粘り気により、はじかれることもありませんでした。
むしろたっぷりと色が乗ってしまって、乾くのが遅くなりはしないかと心配するほどでした。

塗り始める。塗料のノリとノビは良い
ベランダ半分ほどの塗装を完了。光っている部分は塗り方が下手だから・・・

重ね塗りするかどうかは乾いた後に様子を見て決めますが、オリジナルの塗装が剥がれた部分以外は必要なさそうです。
手元に余ったと料はベランダの柵や柱の重ね塗りに使いました。

ベランダ柵や柱はケミソールを何度も塗っていますがこの通り。今後、ナフタデコールで重ね塗りします

ベランダ側の外壁を洗う

山小舎を塗りなおしています。
雨に当たるベランダ部分、外壁など。
材木にしみ込んで防水、防腐に役立つ油性塗料を塗っています。

今回はベランダ側の外壁の塗装準備として、外壁の洗浄を行いました。

まず、ベランダに置いてあるものをどけます。
全部はどけきれないので、まず面積にして半分程度の片付けを行いました。

空いた部分の外壁とベランダ床を洗浄します。

片づけ終わった該当部分。新築以来の埃が付着しています

ホースを伸ばします。
どうにか届きました。

ホースから水を出して該当部分の外壁と床に水をかけます。
いったん水を止めてたわしでこすります。

雨水などが直接はかからない外壁ですが、築何十年の汚れはありました。
たわしでこすると埃などの汚れが浮いてきます。

外壁に水をかけます
たわしでこすり汚れを浮かします

汚れが浮いたところで、ホースの水で洗い流します。

新築時のような材質が浮かび上がりました。
くすんだ茶色ではなく、キシラテコール塗料の色柄でいえば「ビニー」と呼ばれる切りたての材木のような色です。

浮いた汚れを洗い流します。
ついでに床もホースで水洗いします。

2,3日乾かしてから塗装します。新築時の木材の色が再現できるでしょうか、楽しみです。

床はホースで水だけかけたのですが、翌日見ると汚れが縞になって残っていました。
翌日デッキブラシを使ってやり直しました。
ベランダ部分は、柵に合わせて床も焦げ茶色に塗ることにします。

玄関脇はと二度目の塗装をしました
台所側の外壁です。防水性の高いケミソールを塗ったので焦げ茶色になってしまいました。高いところもほぼ塗り終わりました。

また丸太が来た

業者さんが丸太を持ってきてくれました。
今年は、カラマツを中心に少々のナラなどを2,3回持ってきてくれました。

今年の丸太はもう終わりかな?と思っていた10月初旬。
畑から戻ってみると、シラカバの丸太が山のように放り出されていました。

久しぶりのシラカバです。
シラカバはカラマツよりは割りやすく、ナラなどの広葉樹よりは乾きやすいので山小舎おじさん的には大歓迎です。

森林業者的には、シラカバはカラマツと並んで利用価値のない木材のようです。
家具や建築材、土木用の丸太として一部利用されているカラマツの方が価値があるのかもしれません。
いずれにしても、捨てる場所に困り、廃棄するには金がかかる丸太だからこそ山小舎にやって来るのではありますが。

ある日山小舎に帰ってみるとシラカバがどっさり

とりあえず、道路のはみ出さんばかりの部分を切り落とします。
といっても丸太の数が多いので、1時間(チェーンソーのオイルと燃料を満タンにして2回分)かかってこれくらいの仕事量です。

玉切り仕事の効率にはチェーンソーの刃の切れ味がものをいいます。
切れなくなるとほんとに仕事が進みませんので、事前の棒やすりによる刃の研ぎや、チェーンのテンションの調整が大切です。
全部を玉切りし終わるにはどれくらい時間がかかるか?
冬までに終わるか?

一時間ほど、道路際に突き出た丸太を玉切り

さて、この冬の薪は十分にあるのですが、乾かすために積んである場所から利用しやすい場所への移動をしなければなりません。
新しく割った薪を積む場所を空けなければなりません。
また、今年はベランダやベランダ側の外壁の塗装を考えています。

というわけで、
①ベランダの塗装予定部分を片付けて塗装前の洗浄、塗装をの準備をする
②ベランダの片付けものを一時保管する場所を確保する
③乾いた薪を手元に移動するとともに、新しく割った薪の積み込み場所を確保する、
の3命題を関連して履行することになりました。

そのための片付けをスタートします。

ベランダのものを軒下に移動します。
そのために軒下の薪を撤去します。

軒下の薪を撤去。空いた場所にベランダのものを移動

焚き付けなどの置き場に使っていた木製のケースですが、取り去ってみるとベランダの床は埃まみれです。
このをきれいに洗浄して、防水・防腐塗装を施すことにします。

一度に全部のベランダを洗浄・塗装するのは難しいので、2,3回に分けて行うことにします。
同時に外壁を洗浄・塗装します。
この部分の塗装が終わったら、次の部分のものをどけて塗装しようと思います。

片付け後のベランダと外壁

ベランダには薪、焚き付けのほか、コメ袋に入ったもみ殻、ぬか、燻炭など。
刈払機、オーガなどの機械類。
塗料類。
収穫した芋類、などが置いてあります。

雨がかからず、日陰で、活動ヤードに近いこの場所は納屋代わりに使うのに便利な場所なのです。
が、とりちらっていますし、埃、落ち葉などが溜まりやすくなっています。
今後は、米袋類はベランダ下に置くなどし、ベランダの整頓と保全に努めたいと思います。

整理整頓を待つベランダ

シラカバの丸太がやってきたことに関連して、いろんなことが起こる山小舎でした。

グロリア・スワンソンと「舞姫ザザ」

ここのところ「失われた週末」「サンセット大通り」とビリー・ワイルダー監督作品づいていた山小舎おじさん、「サンセット大通り」でグロリア・スワンソンを「発見」し、大いに気になっていたところ、渋谷シネマヴェーラのサイレント映画特集で、スワンソン主演の作品をやっていたので、自宅帰還の折に観た。

シネマヴェーラのパンフレットより。ピンボケですみません

「サンセット大通り」(1950年)では、自身がモチーフともいわれる、サイレント時代の大女優を演じた当時50歳のスワンソン。
作品は監督ワイルダーの屈折した皮肉を絡めた、ある意味「ハリウッドの暴露もの」であったが、そこで自分自身をカリカチュアライズした人物を演じながらも、決して役柄に埋没せず、むしろ存在感を発揮したのがスワンソンだった。

50歳にしてかつての美貌と輝きを十分に残しつつ、軽やかな動きもこなし、華美な装飾を着こなす姿は、おそらくはワイルダーの演出意図を越えたものとなっていた。
そこにあったのは「没落した妄執の老女優」ではなく「かつての栄華の残り香をしっかり残したベテランスターの余裕と貫禄の姿」だった。
スワンソン全盛期のサイレント映画を観たいと思った。

「舞姫ザザ」は1923年の作品。
タイトルにはアドルフ・ズーカーの名前がクレジットされている。
のちのパラマウント映画の配給である。
パラマウントはスワンソンのキャリアの舞台となる。
制作はアラン・ドワン プロダクション。

パリの場末の舞台のスターだったザザ(スワンソン)が身分違いの外交官と道ならぬ恋に落ちるストーリー。
チャームポイントのあごのほくろに星のマークを付け、過剰な舞台衣装をまとったスワンソンが、鼻持ちならない売れっ子女優として、ライバルとキャットファイトし、止める男を蹴っ飛ばし、足を踏ん張り、万歳し、顎を上げてミエを切る!
23歳の颯爽としたスワンソン!

サービス精神旺盛で、アクションシーンをいとわず、プライド高く、派手好きだが、お茶目でかわいげのあるキャラクターがすでにそこにはあった。

クジャクの羽飾りの帽子を被った場面では「サンセット大通り」でセシル・B・デミルに会いにパラマウントのスタジオを訪問するシーンを思い出した。
「舞姫ザザ」ではたくさんの羽で帽子を飾っていたが、「サンセット大通り」では帽子の羽は1本だった。
クジャクの羽の数が、スワンソンに関しては「ザザ」の時代がオリジナルで、「サンセット」はそのパロデイであることを物語る。

ストリーは波乱万丈、金のかかったセット。

サイレント映画といえばグリフィスの「国民の創生」やヴァレンチノの「血と砂」、チャップリン、キートン、マルクス兄弟、くらいしか見たことはなかった。
そこにあったのは途方もなく金と人数をかけた場面だったり、スターのとびぬけた存在感だった。

だが、「舞姫ザザ」をみて、サイレント時代すでに映画は完成され、スターの個人的な才能のみに寄らない総合的な文化となっていることを確認できた。

サイレント時代のスワンソン
宝塚風とでもいうのでしょうか、ヴァンプ風を意識した孤高のメイクのスワンソン
デミル好みというのでしょうか、サロメ風メイクのスワンソン

淀川長治さん日曜洋画劇場25周年記念として出版した「MyBest37」という本があり、スワンソンについても1章が割かれている。

1952年にアカデミー協会の招きで渡米した淀長さんが、協会長のチャールズ・ブランケットと立ち話をした際、スワンソンの話となった。
ブランケットは当時ワイルダーと組んでおり。「サンセット大通り」の製作者でもあった。

「スワンソンの生き字引」を自任する淀長さんが話を盛り上げると、ブランケットが「スワンソンと会いたいか」と聞いた。
「会えたら死んでもいい」と淀長さんが答え、その場でブランケットはスワンソンに電話した。

後日、ハリウッドの豪邸で4時間会見し、ニューヨークのホテルでも会った。
豪邸での会見で財布を忘れてきた淀長さんにスワンソンから電話がかかり、ポーターがホテルまで届けてきたそうだ。
淀長さんを生涯魅了した女優の一人がグロリア・スワンソンだった。

トーキー世代のスワンソンファンにとってはこの写真になってしまう。「サンセット大通り」より

リンゴの季節

信州の果物の1年は、初夏のアンズに始まり、夏の桃(ネクタリン、ワッサーを含む)、プルーンと来て、秋のイチヂク、ブドウ、柿、リンゴで終わります。
リンゴのわせの品種は9月から出回り、11月のフジまで続きます。

今日は南箕輪村というところの直売所で仕入れてあった紅玉を加工してみました。
5玉入って400円でした。
例年ならもうちょっと安かったような・・・。

原料の紅玉を取り出します
四つ割りにして芯をとります。ここで再び水洗い
皮付きのまま鍋に移して砂糖をかけます。ザラメを加えました
ストーブに乗せて煮ます。焦げ付き防止に水を少し入れておきます。同時に瓶の煮沸もします
煮えてきました。好みでレモンを加えても
煮えたら舞台をガスレンジのある台所へ移します。煮沸した瓶と蓋を布巾に乗せておきます
瓶にジャムを入れ、蓋をした後減圧してから蓋をきつく締めます