早春の信州へVOL2 パワースポットを巡る旅

山小舎おじさんは、4月の山小舎暮らしシーズンインを前に、山小舎開きを行ってきました。
ついでに早春の信州パワースポットを訪ねてきました。

分杭峠で磁場ゼロ体験

長野の県南に位置する伊那市。
諏訪湖に端を発する天竜川に沿った町です。
その伊那市の南東端、大鹿村との境に、分杭峠があります。

分杭峠は中央構造体に位置し、地場がゼロの場所だそうです。
磁場がゼロとは、磁石が方角を示さない場所です。
パワースポットとして人気の場所と聞き、一度行ってみたいと思ってました。

山小舎から国道152号線を南下し、茅野から2か所ほど峠を越えたところに分杭峠がありました。
シーズン中にはふもとからシャトルバスが出ているという人気の場所だそうです。
訪れた3月中は、シャトルバスの運行もなく、パワーを浴びるために休憩所が設置されている場所は閉鎖されていました。

この時期、人っ子一人、通行車両1台もない峠でした。
パワースポットかどうかはともかく、自然の力が支配した清冽な気配は十分感じることのできる場所でした。
途中の自販機で買い求めたミネラルウオーターを、パワー充電の地場ゼロ水として東京の自宅へのお土産としました。

お昼ご飯は峠から伊那市に降りて、たけだという有名店でソースカツどんを食べました。
おじさんは2回目ですが相変わらずのうまさでした。

聖地・戸隠神社へ。帰りは小布施でモンブランケーキ

翌日は懲りずに県北のパワースポットを訪ねました。
戸隠神社です。

山小舎から長野市方面を目指します。
長野市内から急坂を上り、戸隠方面へ。
有名な観光地なのにアクセス道路の斜面のきつさと道の狭さに身を引き締めます。
長野らしいワイルドさが早くもあふれています。

訪れた戸隠神社は広い範囲に社が分置されています。
それ以上に、道端の残雪が隠しようもなく、夏装備の行く手を阻みます。

戸隠神社の奥社に狙いを絞り、駐車場に車を止めます。
冬期間は社が閉鎖されている奥社ですが、それにしては参拝客が引きも切りません。
登山靴にストック姿の完全装備の参拝客もいます。

鳥居から社まで2キロあります。
途中の杉並木が清冽な空気を醸し出しています。
いかんせん路面がアイスバーンになっています。
同行したカミさんは社寸前で参拝をあきらめました。
夏靴では雪の急坂に対処できなかったのでした。

おじさんは恐る恐るの参拝。
奥社の社自体はささやかな造りながら、背後の山全体に「ご神体」が感じられる神社でした。

昼食は、奥社から下がった中社近くの蕎麦・うずら屋にしました。
思った以上においしいそばで、活気ある店内と細やかなサービスに大いに満足したのでした。

そのあとは、長野市の北隣の小布施町に寄りました。
栗の産地で有名で、葛飾北斎が逗留して売品を残した町としても名を残しています。

古い町屋が並び、古美術、栗の菓子などを扱っています。名物の栗を洋風にアレンジしたモンブランケーキを食べました。

また、北斎が逗留中に描いた屋台の天井絵も見ました。
迫力がありました。

早春の信州へVOL1 山小舎と畑の様子

三月のお彼岸。
今年初めて山小屋へ行きました。
カミさんと同行の旅でした。
4月からの山小舎おじさん、3シーズン目の滞在を前に、冬を越した山小舎の様子を見てきました。

山小舎に春近し

三月下旬の山小舎の周りです。
今年は雪が少なかったそうです。
雪の少なかった去年よりさらに少なかったとのこと。
訪れた日は暖かく、地元の人は4月の陽気、といっていました。

山小舎の内部。
いつものたたずまいで我々を迎えてくれました。

例年より暖かいとはいえ、3月の山小舎に暖房は欠かせません。

今年は水回りの凍結がないのは幸いでした。

シーズンを待つ畑の様子

まず、去年から借り始めた畑へ行きました。
玉ねぎは冬を乗り越えていました。
近所の畑のものより若干たけが短いのは、冬の追肥がなかったせいでしょうか。

にんにくはたくましく伸びていました。

小松菜も少しながら生き残っています。

こちらは中山道沿いのフェンスに囲まれた、3年目の畑です。
土たちが作付けを待っているように感じました。

今年から新しい畑が1反歩増える!

息子が務めている先で藍染めをやる人がいて、原料のタデ藍を探していることを聞き、山小舎でのタデ藍の栽培を志願してみました。
ということで、今回の長野ツアーの目的の一つは、タデ藍栽培用の畑探しでした。

事前に畑の大家さんにラインを入れ、畑探しの相談がてら、新年度のあいさつに伺う旨を伝えておきます。
約束の時間に訪れると、ほぼ2年ぶりに会う大家さんが、その足で新しい畑に案内してくれました。

思わぬ新展開です。
大家さん所有の畑4枚(約1反歩=330坪)を使っていいとのこと。
あまりの展開の速さにびっくり。
いきなり畑の面積が300坪以上増えるのにもびっくり。

タデ藍どころか、ジャガイモ、サツマイモ、サトイモ、ヤーコン類が果てしなく作付けできそうです。
問題はおじさんの体力だけです。
大家さんにはただただ感謝です。頑張るゾウ。

早春の蓼科山に夕日が映えています。

白樺湖水は一部凍結が残っていました。

その日の夕食。湯豆腐です。
地元の鶏もも肉でだしを取り、思いのほかのうまさでした。

東京闇市紀行VOL2 下北沢駅前の激変

山小舎おじさんの東京闇市紀行第二弾です。

下北沢駅前の闇市は今

下北沢という駅があります。
小田急線と京王井の頭線が乗り入れている駅です。

少し前まで、この駅構内は迷路のように曲がりくねっており、線路際には典型的な闇市の風景が残っていました。

(かつて駅の入り口だった場所)

吉祥寺のハモニカ横丁をこじんまりとした、闇市には靴屋や八百屋が残っていたのを覚えています。
その後、闇市のオーナーたちは代替わりし、八百屋の代わりにカフェや飲み屋が増えていました。

今、すっかり闇市は撤去されています。


跡地は今のところ共有スペースとなり、のんびりとたばこを吸っている人の憩いの場所となっています。

小田急線は複々線化し、線路と駅は地下二階建てとなりました。

名物開かずの踏切はなくなりました。

線路跡は工事中ですがバス路線となるとのこと。

駅もすっかり近代化し、小田急線と京王線では入り口が別々になっていました。

闇市がまた一つ姿を消しました。

下北沢という町

若者に人気の街だそうでいつも人通りが絶えません。
道が狭い商店街に人があふれ、人波を縫うように仕事の車も通ってゆきます。

街は若者向けの古着屋、ファストフード店が並び、おじさんが覚えていた広島風のお好み焼き屋は今はありませんでした。

演劇の盛んな街だそうで、劇場や劇団があります。

地元に根付いた商店街ではなくて、一見さんが冷やかしで流す街という感じです。
浮ついた雰囲気は30年前から変わっていません。
「大学祭の模擬店」が常設で並んでいる感じの街です。

闇市跡もなくなり、ますます根無し草のように浮遊する町、下北沢。

目指すは「正体不明のアジア的混沌・東京味付け風」な街でしょうか。
それは「現代の闇市」ともいうべき、あさましさと軽薄さに彩られた東京の近未来図なのでしょうか。

おじさんの失敗 ブログの写真が消える

「山小舎おじさんの東京長野暮らし」のブログも100回を超えました。
読んでいただきありがとうございます。

さて、先日、過去のブログに一部訂正する必要があったので開いたところ、写真が消えている記事があることに気づきました。
写真が消えた記事は2018年12月1日付から2019年2月18日付の間のものです。

原因は、ブログ機能中の写真ホルダーのデータを、当該日付間において消したためだと思います。
写真データの一部を消したのは、新しく記事を作り写真データをブログ機能(ワードプレス)に移管する際、反応が遅かったので、てっきりデータ過剰だと素人判断の上、とりあえず、2018年12月以降の写真データを分を消したのです。
ブログ機能のレスポンスを早めるためでした。

ところがブログの写真データは、ホルダーのデータと紐づいていたため、元データが消去されたブログ掲載の写真が消えてしまったのでした。
全く素人判断は恐ろしいものです。

これから暇を見て写真の復活作業を行います。
パソコンのデスクトップに保存されている当該写真データをブログに移し、ブログの文間に写真を張ってゆきます。
できるだけ元通りに復元するつもりですが、記憶違いなどにより、若干の不手際があるかもしれません。

写真あってのブログですのでこのままにはできないと思います。
東京にいる間に作業完了を目指しています。

今後ともよろしくお願いいたします。

おじさんの東京徒歩散歩VOL.3 秋葉原から上野を歩いてみる

春めいてきた東京。
梅も散って、桜の開花待ちのころとなっています。
三寒四温の季節。
初夏のような陽気もあれば、冬のような冷たい雨が降る日もあります。
ということで、おじさんは東京らしい場所、秋葉原から上野へ出かけてきました。

出発はお茶の水。お濠と鉄橋の風景

秋葉原近くの万世橋から見たお濠の風景。
鉄橋をJR総武線が渡り、水面をモーターボートが走っています。
こういった水と鉄道の風景は、水利に恵まれ、鉄道網が発達した、東京らしい景色だと思うのです。

肉の万世の本店?というか発祥の地です。

お宅の街秋葉原にはアンテナショップが集う

土曜日の秋葉原です。
外国人も多くにぎわっています。
メイド喫茶の呼び込みが女性客と話しています。
AKB劇場。

高架線下には全国の名物を集めた物産館があります。
おじさんは石川県の特産の「いしり」(イワシなどの魚醤。汁物の味付け、和食の隠し味に絶品の効果!)と北海道産の富良野JA中濃ソースを買いました。

また、同じく高架下には、職人のショップが並んでいます。皮製品、帆布、木製品などのショップです。
今どき珍しいちゃぶ台が売ってました。

東上野のコリアンタウン(別名キムチ横丁)

秋葉原から昭和通りを東にわたり、台東区に入ります。
台東区内を北上して上野方面へ向かいます。

たい焼き屋さんによってお土産用に4匹買います。
ひとつづつ手焼きするたい焼きで、話好きなお兄さんが焼いています。
小ぶりなタイプですがあんこがうまい。一匹110円です。

東上野に残るコリアンタウンと呼ばれる場所です。
通称キムチ横丁です。
コリアンタウンと呼ばれる場所は、川崎の産業道路沿いにもあります。
今もっとも有名なコリアンタウンは大久保界隈です。

川崎は新装開店の焼き肉屋街、といった風情で、大久保はご存知韓流にはまった日本女性の御用達、といった感じですが、ここ上野のコリアンタウン、通称キムチ横丁は、戦後に「三国人」といわれた旧朝鮮人たちが作った闇市の名残をとどめているようにも見えます。

2,3区画にわたってキムチ屋、肉屋、焼き肉屋などが店を構えています。
そのうちの一角には飲み屋の路地があります。
同じく闇市由来の場所とはいえ、おしゃれに再開発されてゆく吉祥寺のハモニカ横丁などとは違い、廃れ、さびれた匂いがします。

これが旧朝鮮人街の性、業というものなのか、それとも単に時代に取り残されているだけなのか。
いずれは再開発され、周りの同化してゆく運命なのでしょうか?

上野アメ横は国際的にお祭り騒ぎ

闇市といえば上野です。
上野駅から御徒町駅の間に広がるアメ横と呼ばれる地域は、新橋や新宿、渋谷と並ぶ巨大闇市でした。

渋谷、新宿は再開発が進み、闇市の名残は一部の飲み屋横丁を除きなくなりました。
新橋は闇市がそっくりそのまま駅前のビルに収容されました。
上野は闇市由来の路面店が残ったまま今に至っています。

周辺部の商店街以外で対面販売オンリーのアナログな景色が広がる稀有な場所です。
それは、東京における東日本からの玄関口、上野の特殊性によるものなのか、それとも背後に構える浅草を中心とした下町の情念のなせる業なのでしょうか。

楽市楽座から始まったであろう、日本の小売商売の原風景のように広がるアメ横。
おじさんが歩いた日、歩く人は中国人、韓国人が3割、その他外国人が1割ほどのイメージ。
現在のアメ横は極めて観光地化されています。
中国人向けに鯉などを売っている魚屋、朝鮮語で客引きをする店員なども見られます。

国際化もインバウンドもいいのですが、日本がこれからどうなってゆくのか、近未来を予感させるような風景ではあります。
移民政策も始まります。

調布市内の谷戸(深大寺、佐須地区)の風景

春の一日。
おじさんは自転車に乗って自宅に近い谷戸の風景をたずねました。

国分寺崖線と調布(深大寺、佐須地域)の谷戸

多摩川の河岸段丘が調布市内に2段残っている。
2段目の段丘は、国分寺崖線と呼ばれる。
国分寺駅前の殿ヶ谷戸公園内の湧き水に端を発する野川が、崖線に沿って走っている。

調布の深大寺、佐須地域には、その国分寺崖線から、野川方面に谷戸の地形が形作られている場所がある。

扇央部分は、都立農業高校の農園となっており、湧き水を利用した実習わさび田が残る。

扇端へ向かう切通しの部分は公園、キャンプ場として自然が残り、扇端に至って田畑が広がっている。住宅が迫る中、23区外とはいえ、東京では貴重な風景だ。

おじさんが結婚した30年前から10年ほど、この深大寺、佐須谷戸地域のすぐわきに住んでいた。
谷戸の風景は、30年前から基本的に変わっていない。
初夏になると当時小さかった子供と、田んぼでギンヤンマを追いかけ、用水路に浸かってザリガニ、ドジョウをすくった。

その昔、中央自動車道が、国分寺崖線を斜めに切り裂いて、谷戸の一部を崩壊させる前は、子供が泳げる池ができるほどの湧き水の水量があったらしい。

谷戸の扇端には都立農業高校の農園。
内部は武蔵野の原生林に近い風景が残る。
実習わさび田。
流れ出る湧き水。

崖線の上にも畑が残る。
農家の敷地に残る欅の巨木。

途中の切通しは、公園、キャンプ場として整備されているが普段は人気に乏しい。

ホタル園ではホタルの幼虫を移植してきて6月にホタル観賞会が開かれる。

切通しを下る道は、「引きずり坂」と呼ばれる。
村の娘を蛇が引きずって行ったという伝説が残る。

扇端は、田んぼと畑がまとまって残っている。

用水路の取り入れ口。
清流を好むホトケドジョウが生息する。

地域住民が耕している田んぼがある

谷戸の先端に近い場所にあるこの田んぼは100坪ほど。
近くの農家の所有だが、ここ20年以上、市内の任意団体が、この田んぼを舞台に米作りをしている。
その団体とは、野川で遊ぶ街づくりの会だ。

会長のo氏は現在65歳。
実はおじさんも20年前から数年間、田んぼづくりに参加していた。

農家に耕運機を借り、苗代づくりの指導を受け、近くの農家から「くろつけ」の仕方をまねした。

田植えは子供らを動員し、稲穂が垂れると案山子を作り、稲刈り後はハザをかけ、農家の納屋から年代物の脱穀機を引っ張り出し、モーターを回して脱穀した。

11月23日の勤労感謝の日には、新嘗祭として餅つきした。

おじさんは数年後、やめてしまったが、会と田んぼづくりはo氏を中心に活動を続けている。

調布市の保全計画

野川で遊ぶ街づくりの会が活動する田んぼを含むこの谷戸地域が調布市による環境保全計画の対象となっている。

扇央の部分は農業高校の農園として、切通しの部分は、ホタル園や円、キャンプ場としてすでに保全されているので、主に扇端に向けて広がる農地が保全の対象となっている。

しかも、所有者が相続などで手放すことになった農地を調布市が購入するということになり、すでに1か所、1反歩ほどを購入済みといいうのだから画期的だ。

おじさんは何年ぶりかでo氏に田んぼでばったり会うまでそういった事情を知らなかった。

ただし、購入済みの農地及び今後購入してゆく農地についての、具体的保全方法については、その方策も、保全する主体も未定とのこと。

野川で遊ぶ街づくりの会のような団体が保全主体として、文化としての田んぼの保全に一役買ってゆけるのか?
それとも、よくある農業公園のように、一見、環境保全されているようで実は魂の入っていない「かつて農地、実は空き地」になってしまうのか?

各地に行政と市民が一体となった景観保全活動があるので参考とし、調布独自の観点も維持したスタイルで景観が保全されることを望みたいものだ。

おじさんとしてはかつてご縁があったよしみで、長野の農的生活と調布の田んぼづくりがささやかにコラボでもできたらなと思うのです。

 

「ヌーベルバーグ」の時代

ヌーベルバーグという言葉を聞いたことがあるだろうか?
フランス語で「新しい波」の意味。
1960年前後のフランス映画のムーブメントを表す言葉として有名だが、そもそもは映画のみならず、当時の新人小説家フランソワーズ・サガンなどと、映画を含む各分野の新人を特集したフランスの雑誌のコピーから派生した言葉だった。

今回、シネマヴェーラ渋谷で「ジャパニーズヌーベルバーグ」として、1960年代の「日本映画の新しい波」の特集上映があった。
何本か見に行ったが、改めて当時の作品群と時代背景に興味をひかれた。

本家ヌーベルバーグのこと

1960年前後のフランス映画の新しい波は、「カイエ・デュ・シネマ」という映画雑誌の若き批評家連中が、実際に映画を撮り始めたことによって起きた。
クロード・シャブロル、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールなどである。
作品では「いとこ同志」「大人は判ってくれない」「勝手にしやがれ」など。

本家ヌーベルバーグの発生である。
これらの作品はヒットし、作り手たちはこの後も映画監督として制作を続けてゆく。

1960年。
ベトナム戦争がはじまり、フランスが初めての核実験を行う。
5月革命といわれたフランスの文化運動を8年後に控えた時期でもあった。

トリュフォーやゴダールたちは、批評家時代「カイエ・デュ・シネマ」紙上で、アメリカB級ギャング映画や、ジャン・ルノワールを熱心に論じていた。

彼らは、撮影現場では、若い俳優を使った即興演出により、作者の身近な世界を描出する作風を示した。
それは、時代のニーズにマッチしたことから、フランス国内のみならず世界中の映画界の一大ムーブメントとなった。

ゴダールがその後、各分野の文化人にもてはやされる現象も起き、「ヌーベルバーグ」という言葉も「カイエ・デュ・シネマ」の名前も、独り歩きを始め、文化・現象としてファッション化し一部では権威化されるに至った。

1960年前後の日本映画界

産業としての日本映画は1958年に映画人口(観客動員数)11億人の最高を記録、以後減少している(1970年以降は1.5億人前後)。
興行収入は、単純比で、1958年の500億円から、2010年の2000億円に増大。
集客の減少を単価のアップでカバーし、映画産業そのものはしぶとく存続している格好だ。

1958年当時の映画制作会社は、大手6社(東宝、松竹、大映、日活、東映、新東宝)の時代で、各社は直営の撮影所(松竹、大映、東映は東京と京都の2か所)を持ち、各都市に直営もしくはフランチャイズの上映館を持っていた。
各社は制作部門の専属として、俳優、監督と契約し、また製作スタッフ(助監督、撮影、照明、大道具などの現場のスタッフ)を、社員として抱えていた。
1955年ころに、石炭産業と並ぶ花形産業としての映画は、いまだ絶頂期にあった。

その当時、1本の映画には、総勢数十人からのスタッフがついていた。
助監督だけでも1本に4人付くのが普通で、松竹大船撮影所だけで在籍する社員の助監督が数十人いたといわれる。
各撮影所では、月4本から8本の製作本数を抱え、多忙を極めた。
将来のための人材育成をと、1950年代中盤から60年にかけて、松竹だけでも毎年、助監督を公募していた時代である。

ちなみに現在は、東宝、松竹、東映の大手映画会社が自社作品を作るのは、年に何本あるかないか、である。
撮影所スタッフの数は激減し、そのスタッフも大手映画会社の社員ではないことが多い。

その背景には、娯楽の多様化などによる映画人口の減少=映画会社の売上の減少がある。売上が減った会社が生き残るためには、新商品の開発により売上を伸ばすか、あるいは経費を節減しなければならない。
そこで、映画会社は制作部門をリストラし、費用を節減したのだった。

こうして、撮影所が閉鎖され、(松竹、大映は京都の撮影所を閉鎖)、製作スタッフをリストラし、新規採用をストップした。
映画会社の撮影部門は、スタジオ(スタッフを含む)のレンタルや、不動産業、観光業で稼がざるを得なくなった。

もっとも、映画会社として最低限度の上映作品は必要なので、まず、制作部門そのものを別会社化し、映画製作にかかる経済的リスクを会社の決算の外とした。
次に、既存のプロダクション、独立監督などに作品を発注したり、あるいは、プロダクションが製作した作品を買付けた。

なお、大手映画会社から制作を請け負う側も、スタッフ数を、大手映画会社の撮影所時代の数十人から、10人以下にまでに減らし、また、デジタル化やCG化などの技術を取り入れて直接制作費を減らすなど、映画製作にかかる経済的なリスクを軽減しようとしているのが現状だ。

その点、配給事業というものは、契約した額で作品を制作サイドから購入し、興行後は、興行収入から映画上映にかかる諸経費(プリント作成費、宣伝費等)を差し引き、黒字が出れば制作サイドに分配すればいいので、作品が極端に不入りではない限り、経済的リスクは少なく、またヒットした場合の実入りは青天井となる。

こうしてみると産業としての映画製作は、1955年から1960年までのつかの間の全盛期の後、今に至るまで下落し続けているのがわかる。
この衰退は、映画会社本体に及び、1961年の新東宝の倒産、1970年代の大映倒産、1980年代の日活倒産が起こる。
制作、配給も含めた旧来の映画産業が、会社の数で行っても半減したのが半減したのである。

ヌーベルバーグがフランスで発生した、1960年は日本の映画産業の絶頂期の終末期に当たり、衰退の影におびえ始めた頃だったのである。
その時代はまた、戦後15年を経た、世相の転換期でもあった。

日本ヌーベルバーグ前史、松竹大船撮影所の場合

数年前に亡くなったが、大島渚という映画監督がいた。
1954年に京都大学から松竹大船撮影所に入社。
同じころ、吉田喜重、山田洋次(いずれも東大卒)が入社している。

大島は、晩年は海外のプロデューサーと組み、世界と商売をしたカリスマ性を持つ人材だったが、松竹の社員時代に4本の映画を残した。
「愛と希望の街」(59年)から「日本の夜と霧」(60年)に至る、アグレッシブで時代批評性に満ちた作品群。
特に、「青春残酷物語」「太陽の墓場」(いずれも60年)の2本はヒットし、折からのフランス映画の新しい波現象を受けて、マスコミ的にも「ヌーベルバーグ」と呼ばれた。

1959年当時27歳の大島が、チーフ助監督の経験もないのに監督に昇進できたのは、シナリオの執筆力もあったにせよ松竹首脳やマスコミに対するアピールを含む政治力に優れていた理由のほかに、映画界を取り巻く外的理由があった。
すなわち、1958年をピークとする映画人口の減少は、事業会社としての映画会社を直撃し、特に小市民的なホームドラマを路線としていた松竹において、新しい作風、路線、新しい作り手を模索せざるを得なかった。
それが時代の流れだった。

実際、この流れに沿って松竹で監督昇進した当時30歳前後の助監督には、大島のほか吉田喜重、田村孟、高橋治、斎藤正夫、森川栄太朗、篠田正浩などがいた。
全員、1955年前後に猛烈な倍率をかいくぐって入社した有名大卒者であったし、入社後はシナリオ執筆などで実力と意欲をアピールした連中だった。

この一群は、旗手・大島の2本のヒット作の影響もあり、会社の抜擢によって次々に作品を発表したが、大島が1960年に制作した「日本の夜と霧」が、上映4日間で打ち切られ、かつ大島がその件について松竹を批判し、挙句、同調者を引き連れて松竹を退社したことによって急激に退潮した。

「日本の夜と霧」は安保闘争現場を舞台とし、新左翼の視点から旧左翼を批判した学生演劇のような作品で、ヒットしなかったのは当然。
今では、若き大島の熱気が商業映画撮影所の中で実現した記念碑的な意味を持つ作品と評価が定まっているが、当時の(そして今も)映画会社松竹としては扱いに困る作品だったろう。
権力側をはじめ、右翼、旧左翼など各方面からいちゃもんをつけられる可能性が高い作品を、ヒットしないことを理由に打ち切ったのが実情だった。
大島にとっては確信犯的に自分の主張のみを前面に押し出したのだった。

結果として大島のみならず、ヌーベルバーグの旗のもとに売り出された少壮監督の全員が松竹を去ることになる。
大島、吉田、篠田はのちに独立プロを起こして映画省察を続け、田村は大島が起こした創造社の一員に、高橋は小説家に、斎藤と森川はテレビに移っていった。
彼ら全員が、大島のように自己プロデュース力にたけたアジテーターであるというわけではもちろんなかった。

総括、日本ヌーベルバーグの時代とは?

発生

(時代の要請)
映画人口の減少の中、映画会社の旧路線では集客がじり貧で、新しい路線を求めた。
新しい路線とは、時代を背景とした生々しく、刺激的で、若々しい感性に満ちたものでなくてはならなかった。
世の中は、安保闘争、ベトナム戦争に揺れ動いていた。

(人材の登用)
・1955年前後に一般募集で入社した優秀な人材が助監督経験を経て30歳前後となっていた。
彼らは監督昇進を目指し、シナリオ発表などで意欲と実力をアピールしていた。
何より、現代社会の問題性に肉薄し、また若者風俗や気分を取り入れた画面作りに意欲的だった。

・この現象は松竹のみならず、東宝、大映、日活でも同時代的に発生し、岡本喜八、須川栄三、恩地日出夫、増村保造、中平康、今村昌平らがデヴューした。

総括

・日本ヌーベルバーグとフランスヌーベルバーグは、時期と気分を同じくする(いわゆる同時代性を持つ)が、別の土壌(かたや映画撮影所、かたや映画批評)から発生。

・映画の技法的な面(カメラの移動、長回し、ロケ、同時録音の多用、若手俳優の抜擢)などは、日本のみならず、世界がフランスの影響を受けて、継承している。

・日本ヌーベルバーグの場合、映画撮影所が、有能な若手人材を抱え、育て、発表させることにより実現した。
彼らの残した稚拙であるが若く熱気ある作品を見るにつけ、意欲的な作り手と映画会社の歴史上の幸運な邂逅を再確認するという喜びを感じざるを得ない。

大島の全4作品、田村孟の「悪人志願」(60年)、恩地日出夫の「若い狼」(61年)、山際栄三の「狂熱の果て」(61年)。
映画会社が映画製作の現場を含有していた時代の奇跡のような一瞬の輝きだった。
この輝きは1960年だったから可能で、これ以前もしくは以降の日本映画界では実現不可能だった。

日本におけるヌーベルバーグの時代は1958年に始まり、1961年に終わった。

 

おじさんの東京徒歩散歩VOL.2 浅草から三ノ輪まで

東京は桜開花予報が3月20日だそうです。
小春日和の一日、おじさんは久しぶりに浅草まで遠出しました。

浅草界隈は外国人だらけでした

地下鉄浅草駅の出口です。
駅構内からすでに外国人だらけです。
中国人の家族連れが多い印象です。
白人の夫婦連れもいます。

雷門の下は外国の街角のような匂いがしました。
仲見世通りには着物を着た女性もちらほら。
よく見ると中国人の若い女性が着物を着て歩いていました。

仲見世通りの裏手です。

てんぷらの大黒屋。まだ客が並んでいません。

通称ホッピー通り。
アジア系の女性が客引きしています。

花やしきの入り口です。

六区興行街。左手が場外馬券売り場、右手がかつて浅草名画座など映画館3軒があった場所。

ひさご通り。
ここまでくると外国人、特に中国人はいなくなり人通りはがたっと減ります。

千束通りから山谷へ

浅草を北に抜けた千束通りです。
外国人も観光客もいません。
地元の人がたまに通ってゆきます。

おじさんはこの通りの団子屋で、お土産の桜餅を買い、団子1本をおやつに食べました。
団子は弾力がありうまかったです。

土手通りのてんぷらや伊勢屋です。
天丼を昼ごはんに食べました。
豪勢なてんぷらで、ごはんの盛りもよい。いつも混んでいます。

隣は桜肉(馬肉)の鍋屋さん。
土手通りの向かい側は、日本最大の遊郭・吉原がありました。

並びの肉屋には馬油が売っていました。

いろは商店街。通称、あしたのジョー商店街です。
アーケードが2017年3月に撤去されたそうですっきりしました。
店舗数も増えたような気がします。

あしたのジョーが出てきそうな、家々の間からスカイツリーが見えます。

商店街を過ぎると山谷です。
山谷は、大阪の釜ヶ崎(西成)、横浜の寿町と並ぶ日本三大ドヤ街と呼ばれていました。

おじさんは前職で野菜の配送をしていた30年前、毎週木曜日に山谷の消費者グループに野菜を配送していました。
ドヤの住人が路上で焚火をしていたり、昼間から屋台のようなところで飲んでいるのは当たり前でした。
その当時、労働者の立場で山谷の記録映画を作っていた人が、この辺りをシマとするやくざ組員に刺殺されたことがあり、現場には花が供えられていました。

当時の通称山谷交番は鉄柵に守られた要塞のようでした。
記録映画製作者を刺したやくざは、まっすぐ交番に駆け込んだそうです。
やくざも交番が労働者の味方ではなく、むしろ自分たちの味方であることをわかっていました。

今は山谷の人口が減り、また高齢化しています。
歩いていて怖さを感じることも少なくなりました。
住宅や商店とドヤが共存する町、山谷。
祖国日本の将来を身をもって表すがごとく、静かに衰退していっています。

泪橋ホールというスペースがありました。
映画を見ながら食事ができるようです。

ドヤが並んでします。

公立の労働センターです。

キリスト教が運営する支援施設もありました。

三ノ輪、南千住の商店街と歴史

山谷を抜けて三ノ輪へ向かいます。
目黄不動尊。五色不動尊の一つ。目黒が地名になり有名です。

都電荒川線の終点駅への通路。
少し前までは新聞屋がありおばあさんが座っていました。

ジョイフル三ノ輪商店街。

漬物屋。名物の店主が自分で漬けています。

総菜屋。品目が多くて安い。

床屋。カット950円。下町プライスです。

都電の駅。いつの間にかモダンな車両になっています。

南千住駅へ向かうと、小塚原回向院というお寺があります。江戸時代の刑場があった場所です。

江戸周辺の刑場は東海道の鈴ヶ森、甲州街道の大和田などがありますが、日光街道筋のここ小塚原が一番有名なのでは。

杉田玄白が、ここで刑死者を腑分けを見学し、解体新書の翻訳に着手したきっかけとした、とあります。

鼠小僧や高橋お伝の墓もあります。

驚いたのはカール・ゴッチの真新しい墓があったこと。
それも一般のエリアではなく、歴史遺産エリアに建っていました。
伝説のプロレスラー・ゴッチは最大の理解者・日本において死んで直ちに歴史遺産となったようです。

回向院の隣にある、首切り地蔵。
東日本震災の際に左腕が脱落したそうです。
我が身を犠牲に自然の怒りを多少でも鎮めてくれたのかもしれません。

三ノ輪に戻り、浄閑寺を見学しました。
吉原の遊女の投げ込み寺といわれたお寺です。
おきてを破った遊女が投げ込まれたほか、関東大震災や東京大空襲で横死した遊女を弔ったとのと。

遊女を祀る新吉原総霊塔。

東京の下町は歴史があり、その蓄積が濃い場所でした。
食べ物もおいしかったです。