軽トラ流れ旅 初秋の青木村、保福寺峠

今回の軽トラ旅は、9月のお彼岸の頃の旅。
上田地区から峠を越えて青木村へ、そこから旧東山道を通り、保福寺峠を越えて松本方面へ流れました。

青木村は収穫シーズンだった

上田市内の鹿教湯から、小県郡青木村へ抜ける峠道・県道12号線は、2019年の台風19号の被害で長らく通行止めになっていました。
今年2022年の春にようやく開通となりました。

県道12号線

ほぼ一車線の道幅の山道で通行量は少なく、たまに対向車が来ると緊張します。
ここを通行したときに同乗していた家族は、もう通りたくない、と言っていました。
山小舎おじさんはなぜだか時々走りたくなる道です。

松本街道とも呼ばれた県道12号線。道沿いには道祖神も

狭い山道を抜け、峠を下りると、青木村の里の風景が広がります。
収穫期の田んぼの間に、蕎麦の花が咲いています。
江戸時代になって中山道が別ルートで整備される以前は、このあたりを通る東山道が西と東を結ぶ主要街道でした。

青木村の田んぼは収穫時期
これから収穫を迎えるそば畑

村の歴史文化資料館を訪れました。
村出身の東急グループ創始者の五島慶太の業績を展示する記念館と併設して歴史文化資料館がありました。

展示コーナーは4つに分かれています。
昭和の生活を記録した民俗資料館、遺跡土器の展示コーナー、郷土出身の俳人栗林一石路の展示室、義民資料展示室です。

まず、古墳から発掘された直刀に驚かされます。
また石棒も展示されています。
この地方が、諏訪の神様やミシャグジ神と関連することもうかがえます。

古墳出土物。直刀があった
石棒は信州に多い神様の象徴

昭和の暮らしの記録と展示物のコーナーを見ます。
様々な展示物を見ると、青木村が豊かな地域(だった)ことがうかがえます。
かつては多くの人口を抱え賑やかだった様子、高度成長時代以降は都会並みの生活水準を享受し、当時の最先端の電化製品を駆使していたことに、軽く驚かされました。

山小舎おじさんなどは青木村というと勝手に過疎地域をイメージしますが、おじさんが育った北海道などよりよほど物資、文化に恵まれた地方だったようです。
本州と北海道の違いなのでしょうか。

青木村のかつての生活がうかがえる
戦前の青い目の人形は破棄されずに保管されていた

義民資料室へ行くと江戸時代の青木村の存在感が伝わってきます。

青木村の歴史は一揆とともにあったようです。
展示資料を見るとやはり東北、信越地方に一揆が多く発生しています。
農産物(穀物)の生育にハンデがあった地域です。
いかに勤勉でおとなしい民度を持つ地域とはいえ、人間には最低限必要な生活水準があり、我慢の限度もある。
青木村に限らず、上田、松本などにも一揆の記録があり、主導者を義民としてたたえ伝える歴史があるのでしょう。

県別の一揆発生状況。

時の権力者の徳川家康を恐れさせ、大坂冬の陣では家康の本陣寸前にまで迫った真田幸村といい、信州人は怒らせると怖いのかもしれません。

道の駅あおきへ行くと、太鼓の演奏をやっていました。
義民太鼓の幟が立っています。
やはり義民の歴史は村の誇りなのです。

道の駅あおきでは義民太鼓の演奏が

満員の食堂で、義民太鼓の太鼓の音を聞きながら天丼を食べました。
量は十分。
ご飯は地元のお米なのでしょうが、ぜいたくを言えばもうちょっとご飯が美味しければ・・・と思いました。

道の駅の食堂。マツタケご飯は本物を使ってます
天丼。900円

直売所へ行くと、キノコ、リンゴ、ブドウ、新米と秋の実りであふれています。
この地域は全国的にもマツタケの名産地で、時期には松本方面からもマツタケを求めて人がやってくるのです。

直売所では新米も

保福寺峠を越える

青木村と松本を結ぶ峠道が保福寺峠を越える県道181号線。
東山道が通った道で、明治になってウエストンという外国人がここの峠から眺めた風景に感動し、飛騨山脈を(北)アルプスと名付けたという。

現在は青木村と松本を結ぶ主要道路は、青木峠をトンネルでくぐる国道142号線にその座を譲っている。

県道181号線も2019年の台風19号の被害で、保福寺峠越ができなくなっていた。
山小舎おじさんにとっては初の道です。

県道181号線。麓の集落

麓には集落が広がる。
まもなく道幅一車線となり、対向車ゼロの山道が続く。
止まっている車はキノコ採りの地元の車。

走っても走っても、深い山に分け入ってゆくだけで先が見えない。
ところどころに東山道遊歩道の標識が現れる。
遊歩道というにはふさわしくない寂しさ、山の気配が支配的です。

ところどころに案内の標識が

ようやく峠に到着。
松本方面からバイクが1台通って行った。
軽トラを下り、少し歩いてウエストンの碑を見る。

明治時代にここまで来たというウエストン。
村人の案内で、籠できたのか、馬を使ったのか。
当時のゆったりとした時間の中とはいえ、休む場所にも事欠き、途中で宿泊など思いもよらぬ道中だったろう。
青木村に前泊し、早朝出発して1日かけて往復したのだろうか。

保福寺峠にあるウエストンの碑

ウエストンの碑から眺める北アスプス

周りの景色を眺める余裕もなく、東山道の昔を思う暇もなく、とにかく遠いと思いながら走った峠越え。
かつて家族とともに美ヶ原から山道を松本に下った時もたいがい遠く感じましたが、信州の山塊の懐の深さに改めて畏れを感じた山小舎おじさんでした。

麓の化石館で驚く

峠を境に小県郡青木村から松本市へ。
まもなく集落が現れ、県道181号線が国道143号線とぶつかるところに化石館があった。
最近、孫娘が博物館好きだとわかった山小舎おじさん、情報収集も兼ね寄ってみる。

なんでも、松本市四賀というこの地区は化石の宝庫らしい。

館内に入ってみる。
子供が親しみやすいように、化石に触れたり図鑑が並べてあるロビー。
その奥の展示室には復元されたクジラの大化石が、青くライトアップされて宙に浮かんでいた。

シガマッコウクジラの化石標本

立派なアンモナイトなどの化石も多数展示されている。
化石好きな人にはたまらない空間だろう。

館内にはアンモナイトの化石なども

ロビーへ戻る。
付近の地形のパノラマがあった。
化石の出土ポイントがたくさんある。
この地区の見どころは、化石と虚空蔵山だと感じた山小舎おじさん。

事務室の学芸員のお姉さんに、化石出土ポイントと虚空蔵山について質問。
クジラの化石が出土した状態で保存されている場所があるとのことで、その場所の地図をいただく。
虚空蔵山のビューポイントも聞いたがそれについては明確な回答はなかった。
虚空蔵山までは遠いから、まあいいか。

とりあえず地図に沿って進む。
人知れぬ川のほとりに、ガラス張りで展示された一角が見えた。
中を覗くと小型クジラのほぼ全身状態の化石があった。
震災前の宮城県で見た、歌津魚竜館の.化石を思い出した。

化石館から車で5分ほどのところにあるクジラ化石の現地保存場所
出土状態で保存されているクジラの化石

帰りは松本市街を通り、直売所に寄ってリンゴや漬物を買って帰りました。
まだまだ暑さが残る初秋の流れ旅でした。

松本に来たら寄る直売所
紅玉、漬物などを買って帰る

ドライプルーン

9月下旬の信州。
出盛りの果物は、ナシ、リンゴ、ブドウだが、まだまだイチヂクだったり、プルーン、モモもあったりする。
夏の果物の最後は完熟でしかも安い。
直売所に一袋250円のプルーンがあったので即ゲット。

いつもはジャムにするプルーンだが、今年はプルーン、プラムは結構な量をジャムにした。
ジャム以外の加工方法はないものか?

そうだ、乾燥という方法がある。
干し柿、干芋は毎年作っている。
ドライプルーンにチャレンジしてみよう!

事前にネット情報をチェックする。
砂糖をまぶし、水気を引き出しつつ、グリルや炊飯器を使って乾燥(半乾燥)させる、という方法が主流のようだ。

確かに、天日乾燥など、時間もかかるし晴天が続くとは限らない。

干し柿作りには半月かかる。
切り干し大根には、夏の晴天日数で3,4日かかる。
水気たっぷりのプルーンを天日だけを頼りに、腐らせずに乾燥させるのは日本ではむづかしい。

とはいえ、砂糖を使っての即席乾燥はどうなのか?
せっかくだから標高1400メートルの強烈な紫外線を利用したい。

そこで日中は天日に干し、夜はストーブを使って乾燥させる作戦にした。

プルーンを半分に割り、種を出す。
完熟したプルーンは種も取りやすい。
小さな実は、完全に二つ割りにせず、開いた形にしておく。

35度の焼酎を殺菌で噴霧してからお日様のもとへ。

35度の焼酎を噴霧

早速、小型スズメバチが網の隙間から入り込みザルの上でプルーンにたかっている。
果物の熟れた、発酵した匂いは強烈に昆虫たちにアピールするようだ。
このスズメバチをどうしよう?

放っておくと夕方には元気なスズメバチも座り込んだりしている。
そこで、弱ったスズメバチを割りばしで挟んでつまみ出した。
熱射地獄から半日ぶりに外に出されたスズメバチはのろのろと歩くだけ。
難なく踏みつぶすことができた。
害虫2匹を捕獲の上、殺処分。

編み付きザルで天日干し

夜はストーブの熱を利用。

金属製のざるにプルーンを広げ、アルミ箔を敷いたストーブに乗せて一晩。
焦げないが乾燥も甘い。

翌日は天日乾燥の後、フライパンにアルミ箔を敷き、プルーンを乗せてみる。
水分とともに糖分が抜け、焦げる。
プルーン本体が焦げなかったのが幸い。

かなりドライになってきた。

2日目の天日干し
フライパンを使ってストーブで乾燥

繰り返すこと3日。
ほぼできた。
冷蔵庫保存では長期間保存の自信がないので、冷凍庫保存にしようと思う。

出来上がり

余談

ドライフルーツで思い出すのが、おじさん26歳の時に放浪した南アジアの国。
特にパキスタンからイラン、トルコにかけて、市場に行くと荷台に山盛りのドライフルーツが売られていた。

品目はナツメヤシやアンズ、ブドウなど。
時には藁や砂が混じったまま乾燥しているワイルドな果物は、旅の途中の栄養補給にぴったりだった。
あの辺の国々、スイカやメロンの甘さも絶品だが、携行性、保存性という点ではドライがダントツだった。

パキスタン北部のギルギット。
インダス川上流の轟々たる川音を聞きながら、宿の部屋で、大きめの一袋、乾燥アンズをひたすら食べ続けたことを思い出す。
思えばあのころからドライフルーツのファンになったのかもしれない。

DVD映画劇場 女優NO.2 ベティ・デイビス

1999年に全米映画協会が選定した、アメリカ映画スターベスト100の女優部門の1位はキャサリン・ヘプバーン。
2位がベティ・デイビスだった。

山小舎おじさん的には「イブの総て」を辛うじてテレビの映画劇場で見たことがあるくらい。
そのベティ・デイビスの3作品をDVDで見た。

1作目は30年代の作品でデイビス20歳代のもの。
2本目は50年代で40歳代、3本目は60年代で60歳代直前のものだった。

ベティ・デイビス

「痴人の愛」 1934年 ジョン・クロムウエル監督  RKO

原作はサマセット・モームの「人間の絆」。
モームの自伝的小説といわれている。

主人公(レスリー・ハワード)はパリでの画家の生活に夢破れて、イギリスに帰って医学生となる若者。
足に障害がある。
このイノセントな若者が一瞬で惹きつけられるのがカフェの女給(ベティ・デイビス)だった。

「痴人の愛」のデイビス

この女給、性格が悪いことこの上ない。
育ちも悪く、下品で悪趣味。
しかも主人公の純情をもてあそび、次々と裏切る。

だれがどう見てもイノセントで精神性の高い主人公とは釣り合わないのだが、半生に渡って(女給にとっては生涯にわたって)この二人はかかわりを持ち続ける。

まるで「忘れじの面影」(1948年 ジョーン・フォンティーン主演)の男版だが、かの作品でジョーン・フォンティーンが一途に追い求める男性像のダメ男ぶりがソフトに描かれていたのに対し、「痴人の愛」でレスリー・ハワードが追い求める女性像はベティ・デイビスによってすさまじく下品で欺瞞と憎悪に満ち、悲惨に演じられる。

主人公の脚の障害を責め、繰り返し嘘をつき、男を次々に変えては捨てられ、金に困ると主人公のところにやってくる。
主人公を裏切り続けるのは、精神性の高い主人公への女給のコンプレックスの裏返しなのか、それとも高潔に見える主人公も一皮むけば、女給と同じ人間なのだということを陰に表してのことなのか。
主人公たちの二人は、一つの人間性の裏と表なのか。

ほかの女優たちが出演を拒んだというこの女給役を、ベティ・デイビスは望んで引き受けたという。

クロムウエル監督の演出は彼女のチャームポイントであり個性である、その目を強調する演出で彼女の意欲にこたえる。
熱演するベティ・デイビスから目が離せない作品。

「イブの総て」 1950年 ジョセフ・L・マンキウイッツ監督  20世紀FOX

この作品はある意味で悪意に満ちた内幕もの、だ。

ブロードウエイで、有名女優の付け人に潜り込み、ひそかに恩人を裏切って主役の座を奪う、という女優志願者の出世ストーリーの裏側の物語。
ベティ・デイビスは裏切られることになる大女優を演じる。

「イブの総て」。アン・バクスター(左)との対決

この作品のデイビスは、楽屋でコールドクリームを塗ったくった姿で登場し、付け人が愛人をたぶらかす気配を察してパーティーで大荒れ、朝のベッドではすっぴんを思わせるメイクを披露する、など大スターのメンツを捨てたかのような体当たりの演技を見せる。

実年齢40歳を過ぎ開き直った感もするデイビスだが、これは彼女の役作り、サービス精神の発露とみる。
演ずること、映画に出ることが好きで好きでたまらないのだろう。
いずれにせよ、余裕たっぷり、貫禄十分の演技だ。

付け人役にアン・バクスター。
若く初々しい。

恩人を裏切り、自分に役立つ男を次々にたぶらかし、脅迫することにも躊躇ないキャラゥター。
前半の清楚でかわいらしい立ち居振る舞いから、正体を現した後半では、忘れられない悪役に変貌する。

同じく新人女優がブロードウエイでのし上がってゆく映画に、キャサリン・ヘプバーンの「朝の勝利」があるが、かの作品が現実的であり、正攻法で、すがすがしいのに対し、「イブの総て」は作り物めいて、ドロドロし、後味が悪い。

映画人の実名(ザナック、タイロン・パワーなど)をセリフに出しているのも、実録風というか内幕ものとしてのセンセーションを表そうとしたのだろうが、出てきた実名が、立場の弱いもの、全盛期を過ぎたもの、イジメやすいもの(ザナックはこの映画のプロデユーサーだから自虐ネタなのだろうが)をチョイスしたと思わせ、後味が悪い。「サンセット大通り」で、ワイルダーが、キートンなどかつてのスターたちをわざわざ実名で登場させ、はく製のようだと評したときと同じテイストだ。

ベティ・デイビスは新人女優によって世代交代させられるベテラン女優という、いわば損な役柄を堂々と演じ、わがままで尊大、時代錯誤なキャラながら愛嬌さえ感じさせた。
これも彼女の演技力のうちなのか。

「残酷な記念日」 1967年  ロイド・ウオード・ベイカー監督  イギリス(ハマープロ)

50歳を過ぎ、かつてのような花形はもちろん、映画出演そのものがなくなっていたベティ・デイビスが、突然カムバックしたのが「何がジェーンに起こったか」(1962年 ロバート・アルドリッチ監督)。
かつてのこちらも大スター、ジョーン・クロフォードと共演し、どちらも年齢を隠さず、否、強調さえして臨んだサイコホラー劇だったという。

これで開き直ったか、否、調子が出たか、ベティ・デイビスはその後もコンスタントに映画出演を続ける。
「残酷な記念日」はイギリス・ハマープロによる1本。
50年代に、クリストファー・リーの出演により、ドラキュラをリメークしたあのハマープロである。

映画の内容は、強烈なカリスマ性と支配欲で、家族に君臨する母親をデイビスが演じ、記念日に集まった3人の息子とその妻、フィアンセなどとの確執が繰り広げられるというもの。

カラー作品。
真っ赤なドレスと赤い愛パッチで登場するデイビスにまず度肝を抜かれ、彼女のチャームポイントの目が青かったことに気づかされる。

女性下着愛好者の独身の長男、妻と実母に頭が上がらない次男、フィアンセを実母にコケにされても当初はあいまいな態度をとるチャラい三男、と情けない家族を操り、君臨するデイビス。
3人の息子を操り、嫁とフィアンセをいたぶる怪物的な母親である。

いわば誇張され、怪物化した母性をデイビスが独演しているのだが、周りの役者が弱くて盛り上がりに欠ける。
ハリウッド全盛期だったら、わき役にも芸達者をそろえ、おどろおどろしいセットもわざとらしく、この家族の異常性を劇的に際立せたことだろうが、ハマープロにはできない相談だ。

映画の主題は、家族の異常性を描くのではなく、母性と独善の分かちがたき、だったり、家族かくあるべしの偽善性だったり、なのかもしれない。

デイビスは朗々たるセリフ回し、片眼だけとはいえ大きな目の演技、大げさなジェスチャーでこの母親の怪物性を表し、さすがである。
いついつまでも演技が好き、映画が好きなのがわかる。
だからこそのスター女優第2位なのだ。

最後に、三男の若くかわいいフィアンセが将来はベティ・デイビス扮する母親の後継者になる資質を持っている、と示唆することが、この映画の一番のホラーだった。
家族は人間は歴史を繰り返すのである。

ステップ組み立てで DIY!

春から作り直していたベランダに上がるステップ。
現在のステップの惨状と、使いにくさに音を上げ、最終組み立てを自力で行いました。

午前中はさわやかな秋晴れの山小舎周辺

娘の婿さんに促されて作り直しを開始したこのステップ。
材料の買い出しと、板の墨出しは彼がその娘(山小舎おじさんの孫)と行いました。

その後、防腐塗装と組み立て部分の削りだしは山小舎おじさんが行い、最終組み立てを待つばかりとなっていました。

その間にも、ステップはベランダとの行き来に毎日のように使い続け、壊れたステップは斯くのようなありさまになってしまいました。

ステップの惨状

毎日の作業にも不便をかこった山小舎おじさんは意を決して自力で組み立てることにしました。

道具をそろえます。
素材の板を取り出します。

ドリルでねじ穴をあけることから始めました。

電動ドリルとねじくぎ
切り出し、掘り出し、塗装を終えた材料

片方の側板に、一か所4つずつの穴をあけてゆきます。

まず側板にねじ穴をあける

次いで、踏み板を側板に取り付けます。

ステップの素材は厚く、重い板なので作業台がしっかりしていなければいけません。
また、側板への取り付けがずれたりすると全体の組み立てがうまくいかなくなります。

側板に踏み板をセットしてドリルで釘孔を通す

側板への取り付けは仮止めとし、4か所中2か所だけをねじ止めします。

片方の側板に踏み板を仮止めする

次いでもう一方の側板を取り付けます。
ここでうまくいかないとやり直しです。
案の定、側板と踏み板がうまく一致しません。

取り付けようとする側板の、削りだし部分を改めて削りなおします。

もう一方の側板を当ててみて、掘り出しの調整を行う
もう一方の側板を取り付ける

何とかうまく組み合わせることができました。

真新しいステップの出来上がりです。

全体の高さの調整が必要なようで、後日、側面の板をカットしましょう。
着地する部分に石を噛ませて腐りを防ぎましょう。

新しい自家製のステップが完成

婿さんの正確な隅出しのおかげで、素人作にしてはよくできたステップとなりました。

午後からは霧雨の山小舎でした

納豆に和える野沢菜

山小舎のお向かいさんは、スコットランド出身の65歳。
山小舎おじさんとほぼ同年齢ということもあり、付かず離れずの付き合いは、おじさんが先代のオーナーに導かれて山小舎に遊びに来始めてから、かれこれ7、8年。

この紳士、スコットランド出身がアイデンティティ。
車にユニオンジャックをシールしていたり、ここぞという日には伝統のスカート姿になったりする。
毎朝バグパイプの練習をしていたことも。

最近は故合って独身をかこつこの紳士。
働き先を上田の中学校の英語講師から、地元和田地区の漬物工場へ変えてしばらくたつ。

時々製品のアウトレットや試作品をいただくことがある。
野沢菜漬けが主力商品の工場らしいが、社長が意欲的で色んな新製品をトライアルしている。
スモーク野沢菜、という漬物もいただいた。
野沢菜にスモークの香りをつけたもので、酒のつまみに最高だった。

今般いただいたのが、納豆に和える野沢菜。
そのアイデアに驚くまでもなく、新アイデアね、と抵抗なく試食させてもらった。

今般いただいた新製品がこれだ!

山小舎でよく食べる地元大豆を使った大粒の納豆に混ぜてみる。

山小舎御用達の納豆がこれだ!

野沢菜の塩味を考慮し、しょうゆを使わずに食べてみた。
少々塩味が足りなく感じた。

まずは、しょうゆなしで混ぜてみる!

二度目はしょうゆを加えてみた。
野沢菜も多めに混ぜてみた。

納豆ご飯にしていざ試食!

薬味というより、野沢菜も一緒に食べる納豆ご飯になった。
これはこれでいい。

野沢菜漬けは信州のソウルフード、というかそれ以前に食卓の必需品なのだから。

薬味ということなら、からしやネギの方がアクセントがはっきりしている。
納豆に和える野沢菜、は薬味ではなく、納豆と一緒に食べる食卓のお供、なのだった。

DVD名画劇場 女優NO.1キャサリン・ヘプバーン

1999年にアメリカ映画協会が選定した歴代女優ランキングで1位に選ばれたのがキャサリン・ヘプバーン。

山小舎おじさん的には、テレビ洋画劇場での「アフリカの女王」(1951年 ジョン・ヒューストン監督)。
現地の教会で黒人相手に讃美歌をオルガンをかき鳴らすオールドミス宣教師を演じた姿を思い出す。

大柄で、ぎすぎすして、言いたいことをまくしたてる、肌のカサカサした中年女性、のイメージだったが。

この度、初期の代表作3本を見せてもらった。

キャサリン・ヘプバーン

「勝利の朝」 1933年 ローウエル・シャーマン監督 RKO

ブロードウエイ出身のヘプバーンがハリウッドに呼ばれて3本目の作品。
実年齢で26歳になる年の作品だが、若々しさ、初々しさに満ちているて、見ていてこちらも楽しくなる。

ブロードウエイのスターを夢見てニューヨークにやってきた演劇志望の若い娘が、夢かなうまでのストーリー。

腕利きのプロデユーサー(アドルフ・マンジュー)と座付きの脚本家が取り仕切る事務所。
すれっからしの女優たちが出入りするその場所に、田舎出のヘプバーンが迷い込む。
裏表あるプロデユーサーにあしらわれるが、人間味のある老俳優と仲良くなり、英語(正しい発音)を教えてもらいに通いだす。

しばらくは全く芽が出ず、飲まず食わずで、ボードビルのアシスタントなどをして凌ぐ。

このヒロイン、若く田舎者ではあるが、決して「私、何もわからないから・・・」というアイドル的イノセントではない。
自分が目指すものが明確で、好きなものを自覚しまた発し、たばこを吸い、目的のためなら食事も我慢してホットパンツ姿でボードビルの舞台にも立つ、バリバリの自立型女性なのである。

たまたま潜り込んだパーテイーで、酔って、シェークスピアのセリフを朗々と演じてアピールもする。
映画の観客もここらへんでヘプバーンその人の演技の実力を認識する。

舞台の初日に主演女優のわがままで主役が降りたとき、脚本家の推薦でヘプバーンの代役が決まる。
成功裏に終わった楽屋でヘプバーンが独白する。

この成功には終わりが来ること、それまでは希望敵ったこの道を第一に進むこと、そのためには好きな人とのこともあきらめなければいけないし、恋の申し込みにも応えられないこと・・・。

田舎出の少女が事務所前で自己紹介したときから、パーテイーでの独演、そして舞台で成功後の独白と、要所での長いセリフを嬉々として、また朗々とこなすヘプバーン。

うまさだけでなく、女の魅力に偏重もせず、人間として清々した感じが出ている。
この作品でアカデミー女優賞を受賞したヘプバーンは歴史上の大女優としてのキャリアをスタートさせる。

「赤ちゃん教育」 1938年 ハワード・ホークス監督 RKO

いわゆるスクリューボールコメデイの快作で、数々あるケーリー・グラントとのコンビの1作。
ハワード・ホークスの無駄のないスピーデイーな演出に応える主演2人の達者ぶりに時間がたつのも忘れる。

冴えない博物学者で終始眼鏡をかけたグラント。
根拠なく自信たっぷりで、はつらつとした若い女性役のヘプバーン。

ヘプバーンが一目で気に入ったグラントを追いかけまくる。
追いかけ方も、勝手に人の車に乗ってぶつけまくったり、と手段を選ばない。

優柔不断で人のいいグラントは婚約者がいながら、渋々じゃじゃ馬娘の要求に沿って動くかざるを得なくなる。
敢然と袂を分かっても、また会わざるを得ないシチュエーションが発生する。

この二人が一晩の珍道中ののち、互いの愛に気づくまでのドタバタ。

まだ若い主演の二人。
走り、転び、水に飛び込み、スカートを破いて下着を出し、と動きが過激でさえある。
豹とさえ絡む。

豹?そうなのだ豹まで出るのだ、それもヘプバーンのおばさんが注文したペットとして。
この豹の名前がベイビー、映画の原題が「BRIGING UP BABY」。
(世話の焼ける無垢な男性)を表しての赤ちゃんと、(愛のキューピットたる)豹の名前をかけているのだろう。
気に入ったグラントを徹底的に追い掛け回すヘプバーンは、息子にかまける世話焼きママさんのようだ。

惜しみなく芸達者ぶりを炸裂させる若き日のヘプバーンとそれを受けきるグラント。
思い切り二人に動いてもらうべく舞台を用意し、スピーデイでまったく無駄のないホークスの演出が最高の作品。

「フィラデルフィア物語」 1940年 ジョージ・キューカー監督 MGM

客を呼べず、映画館主泣かせのスターと呼ばれていたヘプバーンが、舞台のヒット作をMGMに売り込んで実現した作品。
ヘプバーンは監督にキューカーを指名、相手役にスペンサー・トレーシーとクラーク・ゲーブルを要求したという。

狙い通りのヒット作となり、ヘプバーンはマネーメイキングスターの座を獲得した。
まるで「勝利の朝」のキャラを地で行くようなエピソードだが、女優を志し、叶えるような女性とはそういうものなのだろう。
ヘプバーンもまたしかり、だった。

相手役のグラント、スチュアートとともに

フィラデルフィアの上流階級のわがままお嬢さんが愛に目覚めるまでの物語。
相手役に貫禄が出てきたケーリー・グラントとまだ若さの残るジェームス・スチュアート。

世界一の映画会社MGMによる豪華セットと衣装。
上流社会のパーテイーで優雅なドレスに身を包み、瀟洒なプールで水着姿さえ披露するヘプバーン。
キューカーの演出は悠々迫らず、MGMタイクーンの意を汲んでいるかのよう。
これがソフィスティケイテッドコメデイというものか。
特に前半、ヘプバーンのお嬢様キャラの嫌みが強烈すぎたきらいはあったが・・・。

この作品でもヘプバーンの独演というか長い独白が見られるが、豪華なセットやわき役の達者さ(子役も含め)に紛らわせて、いろんな楽しみ方ができる作品となっている。

実年齢33歳になるヘプバーンは貫禄も出てきて、「アフリカの女王」の時とほぼ変わりなく映る。

その芸達者ぶりは、日本女優では浪速千恵子だったり、黒柳徹子だったりを連想させる。
むろん活躍した舞台も、女優としてのスケールも違いすぎるが、観客に愛され、ある時代ある場所でのアイコンとなり得たという点では共通しているのかもしれない。

第25回蓼科高原映画祭

小津安二郎が懇意にした別荘が蓼科にあったことから、ふもとの茅野で開かれて25回目。
コロナで中止の年を2年挟んで3年ぶりの開催。
小津安二郎記念 蓼科高原映画祭が今年(令和4年)は開催された。

映画祭の幟がはためく茅野駅コンコース

毎年、茅野市民館と市内唯一の映画館・新星劇場を舞台に9月に催される映画祭。
今年のポスターは「お早よう」(1959年 小津安二郎監督)をモチーフにしたもの。

上映作品は「お早よう」のほか、第60回日本映画監督協会新人賞受賞作品「洗骨」(2018年 照屋年之監督)、「老後の資金がありません!」(2021年 前田哲監督)など、市民のリクエストや長野県で撮影された作品、などからチョイスされた22作品。
弁士付きでサイレント映画の上映や短編映画コンクールもプログラムに含まれる。

第25回の映画祭ポスター

ゲストには短編映画審査長として伊藤俊也監督のほか、現役の監督、俳優が予定されている。

3年ぶりに映画祭が開催されると聞いた山小舎おじさんは、パンフレットを手に入れて参加の機会をうかがいました。
上映作品に伊藤俊也監督の「日本独立」(2020年)があったので、新星劇場での上映に駆け付けました。

映画祭当日の新星劇場

映画祭の立て看板と茅野の町

劇場前に駆け付けると、テントがひと張りと、ボランテイアが数人います。
例年のレッドカーペットや、コーヒー、樽酒、寒天デザートなどの接待はありません。

接待が中止なのは致し方なく、レッドカーペットは台風接近のために撤去したとのことです。
映画祭最終日恒例の会費制オープン参加によるゲストとの交流会も、今年は中止とのことでした。
かつては司葉子さんが舞台でトークショーをしたりしましたが、今年は小津ゆかりの女優さんのゲストもいません。

劇場前のテントとボランテイアスタッフ。背後は中央本線

富士見町から来たというご応輩のお客さんと雑談しながら開場を待ちました。
フリーパスを買って毎日来ているというそのお客さん、今までの上映では「老後の資金がありません!」が満員だったとおっしゃってました。

「日本独立」の上映開始。
平日なので入場は40から50人くらいでしょうか。
者側の挨拶があって上映となりました。

作品は伊藤監督らしい、生真面目できっちりした作りで、終戦後の日本憲法施行までの舞台裏を再現するもの。

手の込んだ空襲後の焼け野原のセット、ワンカットで表現された空襲のシーン、浅野忠信、小林薫、宮沢理恵らメインキャストのほか、当時の閣僚らを演じる柄本明、石橋蓮司、松重豊らの熱演(野間口徹が昭和天皇!)。
撮影所育ちの伊藤監督のこだわりと、終結したスタッフの意気込みが感じれられます。

映画祭パンフレットより

が、なぜ今憲法なのか?この作品の狙いは何か?という素朴な疑問がわきました。

マッカーサーを頂点とするGHQの恣意的な占領政策が憲法にまつわる混乱の原因にあるのはいいとして、GHQの悪さが映画の主題なのか?寝技で対抗した吉田茂の政治力を肯定したいのか?それともGHQ主導の矛盾だらけの憲法をいただくことになった戦後日本は戦争で死んでいった若者たちの本望ではないだろう、といいたいのか?

おそらくそれら全部の要素を盛り込んだ作品なのでしょう。

テンポよくエピソードを取り上げ、GHQにも、当時の内閣政府にも遠慮しない姿勢を貫き、史実として広まっていないエピソードも交えて戦後の一断面を描いた作品でした。
伊藤監督としては、国の最高法規がこんないい加減に、短期間で、占領軍と日本の間に意思の一致もなく決められていったのだよ、という絶望に近い問題提起をしたかったのだろうと思います。

手法的というか体質的にいうなら、テーマを、スピーデイーでドラマチックに盛り上げるのではなく、ねちねちとした日本的風土に根ざし、公平な視点で描くのが伊藤監督の体質なのだろう。

映画祭パンフレットより

伊藤デビュー3作目の「女囚さそり701号けもの部屋」(1973年)。
巻頭、地下鉄で刑事(成田三樹夫)に手錠をかけられたさそり(梶芽衣子)が、刑事の腕をぶった切って手錠につながれた刑事の腕ごと街を逃亡するシーンがあった。

観客を一気に映画の世界へ引きずり込むテンポの良いアクションシーンだが、そういった映画的興奮をもたらす手法を伊藤が取るのはあくまでイントロダクションだから。
作品の主眼は、底辺に生きる姉弟とそれと共生するしかない異界のものとしてのさそり、その〈ドロドロ〉とした怨念と警察権力の対峙だった。
アクションによるカタルシスが最後にあるものの、伊藤の興味が〈ドロドロ〉にあることは明白だった。

「さそり」第4作目の演出を主演の梶芽衣子によって拒否され、降板した伊藤が4年後に撮った「犬神の悪霊」(1977年)。
期待して映画館に駆け付けた観客の目に映ったのは、スリラーとしても、伝奇ものとしても、アクションとしてもい中途半端な、つまりは映画的興奮を求める観客の期待には応えようとしない作品だった。
「さそり」のように、敢えて異形のものを登場させ、作り物めいた映画世界へ誘うような作風はなく、監督の冷静な視点を崩さなかった。

とすればこの作品で伊藤が訴えたかったのは、村社会の因習と近代文明(村でのウラン鉱の開発)の決して融合しえない断絶とその中で翻弄される個人の悲劇なのか。

いずれにしても、アクションにも怪奇にも敢えて偏重しようとしない伊藤作品の作りは、映画的快感に乏しく、また、だからこそ、かえってテーマ本質への観客の接近を妨げてしまったのではないか、という疑念をもたらす。

「日本独立」で久しぶりに伊藤作品を見て、変わらないものを感じた山小舎おじさんでした。

糸魚川カニ屋横丁

新潟へ行ってきました。
長野県に隣接し、日本海への出口に位置する新潟県ですが、案外遠くて、山小舎に来てからは行けていませんでした。

今回は家族と行きました。
自宅に帰り、合流して自動車で行きました。

関越道で群馬と新潟の県境を越え、六日町のインターでした道に下りました。
魚沼郡、十日町などを越え、上越市に入りました。

ここで一泊。
地元の居酒屋で海鮮中心の夕食。
上越市の旧直江津市街地の店でした。

家族で一泊し、翌朝は日本海沿いを糸魚川に向けて出発。
好天の日本海沿いの道は快適でした。

糸魚川に入り、道の駅能生という場所へ向かいます。
駐車場は、関東や中京、北陸方面のナンバーで満車に近い状態です。

構内にカニ屋横丁というカニ専門の店が並ぶ一角があります。
鮮魚店が3店ほどあります。
道の駅なので土産物屋、食堂などもあります。
付近には道の駅が管理するキャンプ場もあるようでした。

カニ専門店が並ぶカニ屋横丁

鮮魚店で自宅に送る鮮魚を買い求め、宅配便を手配しました。
ノドグロをはじめ、南蛮エビ、イカ、石鯛などの鮮魚、サバの干物なども売られています。
その場で食べられる生ガキ、焼きイカなども売られていました。

カニ屋横丁と直角に鮮魚店が並ぶ
鮮魚店内の鮮魚の数々

カニ屋横丁前のパラソル付きテーブルにはカニを食べるお客でにぎわっています。
茹でたカニを買うと、バケツとはさみと割りばしと手拭きがついて来て、その場で割ってほじって食べられるのです。

カニ屋横丁前のテラスでカニをむさぼる

何とも豪快です。
日本は狭いようで広く、現地に行かないとわからないことがまだまだたくさんあります。

かつて夏に秋田の日本海沿いを車で走った時に、真夏の道の駅で人々が生ガキをじゃんじゃん食べては、蛎殻で一斗缶を山にしていた光景を思い出しました。
夏に生ガキを食べたことがない山小舎おじさんはその光景に驚きましたが、今なら喜んで仲間に入ることでしょう。

夏の新潟では茹でカニをむさぼり食う光景が繰り広げられているのでした。

カニをチョイスした山小舎おばさんによると、1杯1600円ほどでカニを買うと、倍くらいのおまけをしてくれたとのことでした。

これで1600円(おまけ込み。唐揚げ、コロッケは別)

家族で無言でカニをむさぼり食べました。
外なので多少こぼしても、汁が垂れても大丈夫。

茹でカニは生臭いこともなく都会ではなかなか出会えない味でした。
合わせて、カニご飯とカニクリームコロッケも食べましたが美味。

9月中旬ながら夏の日差しの日本海で思わぬプレゼントでした。

軽トラ流れ旅 須坂デイープ旅

軽トラで須坂まで行ってきました。
上田から真田をとおり、菅平へあがって須坂へ下るコースで行きました。

須坂は、新潟方面へ北上する谷街道と、菅平をとおって現群馬方面へ抜ける大笹街道が交わる交通の要衝として中世より発展。
江戸時代になると須坂藩が置かれ、物資の流通により豪商が発生しました。
明治以降は生糸の生産の中心地として発展したところです。

当時の蔵が立ち並ぶ町が残っており、小布施と長野の中間地という立地から、観光客にも人気の町です。

山小舎おじさんは2度目の訪問。
前回は江戸時代の豪商田中家の屋敷を見、蔵の街並みを見、長野電鉄が走る須坂駅に行き、地元で人気の食堂で昼食しました。
この度、前回訪問時には改修中だった博物館を見たくて再訪問しました。

臥竜公園で博物館と動物園

臥竜公園は須坂市民の憩いの場です。
春は桜の名所となります。
一角に須坂市博物館があります。

須坂市博物館前景

常設展示室では、カモシカのつがいが、はく製姿でお出迎えしてくれます。

常設室最初の展示はカモシカ

石器時代から古墳時代のエリアへ行くと、この地域に古墳が多くあり、剣など重要な埋葬品が発掘されたことがわかります。
長野県は古墳の数では全国有数の、古代の文化圏だったのです。

古墳から出土した直刀

隣の展示室には須坂の観光名所の、米沢瀑布と米沢鉱山跡の展示がありました。
興味をひかれたので、学芸員の方に詳細を聞くと、米沢瀑布は紅葉の名所でシーズンにはシャトルバスが出るとのこと。
ただし現在は2019年の台風19号の被害で交通遮断となっていること。
駐車場から40分くらい歩くこと、などを聞きました。

また、硫黄鉱山跡の米沢鉱山は、瀑布からさらに徒歩で行かなければならないこと。
鉱山とその周りの町の跡はすっかり撤去され、廃墟的なものは残っていないこと、なども教えてくれました。
いつかは行って見たい米沢瀑布と鉱山跡です。

博物館の後、公園内の須坂動物園に向けて歩いてみました。
ローカル放送で須坂動物園のイヌワシの話題があったのを思い出したのです。
イヌワシは捕獲禁止なのはもちろん、飼っている動物園も限られているとのことです。

臥竜公園

桜並木を動物園まで歩くと、園内にSLの姿が見えました。
入り口の案内板を見ると入場料が大人200円とあります。
迷わず入場券を買いました。

須坂市動物園入り口

臥竜公園の端の丘陵というか、坂を利用した動物園です。
細長い敷地で上り下りもあります。
女性のスタッフが働いようで、鳥類、小動物が多く飼育され、猛獣はツキノワグマだけです。

天然記念物イヌワシ
ペンギンもいます

小動物と触れ合う施設があったり、昆虫などの展示館もありました。

園内の様々なコーナーの一つ

入り口近くに、中央本線の木曽福島機関区で勤めを終えたD51が展示されていました。
野外展示ですが、まずまずの保存状態で、運転席に上がることもできます。

笠鉾会館とまゆくら

須坂市博物館で、市内にある博物館分館の笠鉾会館との共通入場券200円を購入していました。

笠鉾会館へ行って見ました。
付近の市営駐車場の駐車券2時間分をくれました。

市立博物館が自然と古代の展示を分担しているとするなら、笠鉾会館は中世以降近世までの展示を行っていました。須坂の夏の風物詩である祇園祭の山車の展示も。

7月に行われる祇園祭の山車
往年の祇園祭の様子

祇園祭なるものは佐久地方の岩村田でも行われており、京都と信濃の歴史上の関係がどうなっているのか興味があります。

また、笠鉾会館では、交通の要衝としての須坂の歴史や、幕末の名君・堀直虎のことなどを知ることができました。

ここまで来たら市内の博物館は全制覇です。
続いてまゆくらという場所に行きました。

生糸生産全盛期に繭の蔵として使われていた建物を移築した博物館です。

まゆくら全景

入場して、届け出表に住所氏名を記入すると、係の70歳前後のおばさんが話しかけてきました。
古い蔵造りの建物のことから、当時の製糸工場の女工さんのこと、大笹街道のこと、などなど、話が途切れません。

須坂の女工さんは給料などの待遇がよかったとのことでした。
豪商田中家では屋敷の庭石を大笹街道を通らせ、菅平を越えて運ばせたこと。
製糸業衰退後は富士通の進出で精密工業が興ったこと、などなど。

まゆくら3階部分

話が尽きないので、須坂の町の花街のことも聞いてみました。
芸者さんがいたエリアを教えてくれました。
ほかに青木新道という場所と駅前もそういう場所だったことも。

後でわかりましたが、青木新道と駅前はいわゆる赤線、青線の地帯でした。
全盛期には長野からもお客が須坂駅前に来たとのことです。

須坂の闇、赤線地帯へ

博物館めぐりを終えた後は、地酒、どら焼きなどのお土産を買いがてら、まゆくらで得た情報の場所を巡ってみました。

芸者さんがいた花街の跡はすぐ見つかりました。
地図上で教えてもらった場所に料亭が1軒残っていました。

花街の現在

午後2時を過ぎ、昼食もまだでしたので急いで赤線地帯にも行ってみました。
昔のことを知っているとはいえ、女性の記憶なので、まゆくらのおばさんからの情報では、確かな場所がわかりません。
ネットで検索すると、劇場通り、青木屋小路などがその場所のようでした。

大体の方向へ歩いてみると、果たして劇場通りにぶつかりました。
かつては映画館(前身は芝居小屋)があり、にぎやかな商店街だったとのことです。
今はひっそりした劇場通りを歩いてゆくと、青木屋小路の看板がありました。

劇場通りの行灯
青木屋小路

青木屋小路に入り、ぶつかった道にはスナックなどがありました。
見ればそれらしき建物の名残も。
ここら辺がかつての遊興の巷だったのでしょう。

時代も変わったこともありますが、富士通も撤退し若い勤め人がいなくなったことが衰退の主な原因なのでしょう、かすかな残滓を残し住宅地に変貌してゆく地域となっていました。

青木新道に現存するスナック
かつての赤線と思われる建物
付近の道路標示。「現在地」に隠れたあたりが青木新道

歩き疲れ、腹も減り、須坂での今回の目的も果たしたので駐車場へ戻りました。
既に3時を回っており地元の飲食店はとっくに休業に入っている時間帯でした。

DVD名画劇場 溝口健二と田中絹代「西鶴一代女」

映画の教科書のような作品だった。
1950年代の映画撮影所の力量を思い知らされた。

監督の溝口健二は戦前のサイレント時代からのベテラン。
同棲中の女性に剃刀で背中を切られるなどの修羅場を体験し、女を描かせれば当代随一といわれた。
それも、玄人の女性だったり、運命に翻弄される逆境の女性を好んで描いた。

新東宝で撮影した「西鶴一代女」(1952年)は、ベネチア映画祭に出品され国際賞を受賞した。
溝口はその後、「雨月物語」(1953年)、「山椒大夫」(1954年)で、連続して同映画祭の銀獅子賞を受賞する。

国際的にも評価を受けた溝口健二は、ヌーベルバーグの若手監督らからも崇拝され、ジャン=リュック・ゴダールは来日時に、たっての希望で溝口の墓にお参りした。

主演の田中絹代はこの作品の撮影年に43歳となるベテラン女優で、松竹の大幹部女優として戦前から活躍していた。戦後の1949年に親善大使として渡米したが、約3か月の滞在後の帰国時に、投げキッスやアメリカナイズされた服装がバッシングを受けた。

スランプに陥った田中は、溝口から「西鶴一代女」の主人公お春役のオファーを受けた。
御所勤めの身分から、夜鷹、乞食にまで落ちぶれるが、気高さを失わない女性の一生を、鬼気迫る演技で応え、スランプを脱した。

その後も、わきに回りながらも映画、テレビで活躍した。
1974年「サンダカン八番娼館・望郷」で年老いた元からゆきさんを演じた田中に、ベルリン映画祭は最優秀女優賞をもってたたえた。

「西鶴一代女」  1952年  溝口健二監督  新東宝

御所のお女中?として権勢を誇っていた10代のお春。
欲張りなだけで、意気地なしの父親(菅井一郎)の自慢の種だった。

お春にほれ込んだ若侍(三船敏郎)の一途な愛に応えたのがお春の転落の始まり。
不義密通の罪に問われ、洛外追放。
若侍は死罪となり、三船は開始早々いなくなる。

御所からの見舞金を当てにして散在していた父親に泣きつかれて、島原に売られ太夫として売れっ子になるお春。
廓ではあさましく金に右顧左眄する主に嫌われて里へ帰る。

商家へ奉公するが、島原にいたことがわかると態度を変える主(進藤栄太郎)や、玄人女性に嫉妬する奥方(沢村貞子)に翻弄され、いられなくなる。
店では手代(大泉晃)に惚れこまれ、のちに商家をクビになった手代に言い寄られることになる。

腕のいい扇職人(宇野重吉)に是非にと乞われて嫁に入って幸せになるのもつかの間、夫が辻斬りに合って死体で帰ってくる。

出家しようと尼寺に身を寄せるが、言い寄られた男との現場を見られ、庵主から追放される。

お春は、どんな状況にあっても己に正直に、孤高の姿勢を崩さない。
ただ黙っているだけでなく自分の気持ちを主張し、権力に反発する。
そのために零落していっても、慌てず、嘆かず、人のせいにせずにその状況(というか己の運命)を受け入れる。

溝口とのコンビの脚本家・依田義賢は、お春のキャラを1本芯の通ったわかりやすいものとした。
お春を巡る人々のキャラも、一途な者、まじめな者、ずるいもの、小心者、などと分かりやすく色分けされている。結果、作品は外国人にわかりやすいものとなっている。

お春を巡る男性陣の描き方にも溝口らしさが出ている。
金に右顧左眄する島原の廓の主人や、お春が島原出だとわかった瞬間、これからはただでできるわいとスケベな顔になる商家の主。
小心で、娘の金ばかりあてにする実父の描き方も徹底している。
男の卑近さの強調は、ほかの溝口作品、「雨月物語」、「祇園囃子」(1953年)、「赤線地帯」(1955年)などとも共通している。

一方、誠実で男らしい男は登場後すぐに死んでゆく。

このブラックジョークのような状況を敢然と受け入れてゆくお春を演じる田中絹代がすごい。
夜鷹になったお春が、羅漢の顔に三船扮する若侍の顔をオーバーラップさせるときのすごみのある表情。
夜鷹の客に、化け猫とからかわれ、取って返して啖呵を切る時の鋭い体の動きにみなぎる怒りの表現。
ラストシーン、乞食となって巡礼するお春の笠の下の表情は、諦観した聖女のようだった。

撮影は平野好美。
新東宝のスタッフなのか、溝口とは名コンビの大映の宮川一夫カメラマンではない、が、溝口の手法は変らない。

奥に細長い商家のシーンでは縦の構図を生かして撮影。
深度の深いフォーカスで手前にも奥にもピントを合わせた撮影で、ワンカットワンシーン演出に応える。

お春の運命が転換(ほとんどの場合は暗転)する場面では、走るお春を俯瞰で追いかけるクレーン撮影で、状況の変化をカットを切らないで表現する。

多くのショットは、フルサイズ以上で突き放すように登場人物たちを捉える。

家屋のセットでの人物の動きを、横の動きは障子越しにワンショットの移動撮影でとらえ、また2階から1階へ駆け降りる縦の動きでは、セットの壁越しにクレーンを使ったワンショットでとらえる。
緊張感の持続と、状況の説明に的確な撮影である。

1950年代の日本の映画撮影所の技術の高さ、俳優の演技のうまさ、入魂ぶりがさりげなくかつ十分に確認できる作品である。