令和4年青春18きっぷの旅 大糸線で穂高、白馬へ

日曜日に穂高と白馬へ行ってきました、青春18きっぷの旅です。

穂高神社再訪

茅野から松本へ行き、大糸線のホームへ。
連絡するのは穂高行き普通列車。

通路片方にボックスシートが並び、反対側はベンチシートという作りの車両です。
白馬や南小谷まではゆかない、穂高止まりの下り列車なので乗る人もほとんどいません。

大糸線穂高行き普通列車
ボックスシートとベンチシートが混在する珍しい車両

松本郊外の宅地の風景を抜け、田んぼばかりの農村風景となった頃、穂高駅に着きました。

御船に飾られるような武者人形が迎える穂高駅

車窓からも見えたこんもりした森が穂高神社です。
朝9時の穂高神社は、鳥居へ向かう途中の木漏れ日の鮮やかさが新鮮です。
鳥居をくぐる際の空気感に襟を正します。

穂高神社の森の木漏れ日
鳥居。神楽殿の背後に拝殿

2,3年前に来た時同様、境内は掃き清められ、鳥居正面の神楽殿は真新しい姿をとどめています。
拝殿にお参りします。

神楽殿から鳥居を望む
拝殿

ふと見渡すと、穂高のお祭りで活躍する、御船が見えました。
桃太郎をテーマにした作りです。

毎年9月に行われる御船まつり。
船をかたどった山車がぶつかり合うというもので、安曇野に船でやってきたという遠い祖先の言い伝えを今に伝えるものといわれています。

境内には御船があった

船で当地にやってきたという安曇野の祖先の神様にして、北アルプス総鎮守でもある穂高神社を後にします。

穂高神社の鶏がいない

前回、穂高神社に来た時に印象的だったのが境内を走り回っていた放し飼いの鶏。
神様のお使いだとのことでした。
今回、その鶏の姿がないので聞いてみました。

先ず、お守りを売っている巫女さんに聞きました。
今はいなくなりました、野獣に捕られたのでしょうか?とのこと。

売店でコーヒーをテイクアウトした際に店主のおばさんにも聞いてみました。
最近まで2羽いたんですが、いなくなりましたね、とのこと。

皆さん鶏と神社の関係は認識しており、またいなくなったことは知っているようです。

駅に向かい下りの列車を待つ間に、駅前の観光案内所に行って見ました。
お土産の生わさびを買いつつ、係の人に鶏のことも聞いてみました。
あれっいなくなったんですか、知りませんでした。とのこと。

観光案内所でおろし生わさびを購入

穂高神社から神の使いがいなくなってしまいました。
鶏よ、よかったら戻ってきてください。

大糸線の車窓より

穂高から南小谷行きの列車に乗ります。
座席は8割がた埋っています。

信濃大町を過ぎて北上します。
車窓にはそろそろ北アルプスの姿が見えてもいいのですが、この日天気は良く気温も高いのですが、雲が里山の上あたりにかかっていて、背後に壁のようにそびえるアルプスの姿は見えません。

北アルプスは雲で望めず

標高が上がるにつれ、水田の間にそば畑が広がり収穫前の白い花を咲かせています。.

北アルプス方面の里山と田園風景

大町と白馬の間の山間に湖が3つ続きます。
木崎湖、中綱湖、青木湖です。

天気の良い休日とて湖面には釣舩やモーターボートが浮かんでいます。
諏訪湖と違い、藻なども発生していません。
遠目からでも、静けさと水質の良さがうかがえるようです。

このあたりの地形、安曇野が湖だったころの名残なのでしょうか。

車窓から見る木崎湖

白馬は外来者天国?

白馬で下車します。。

白馬駅。観光地特有の空気感

11時を過ぎていたのでまず腹ごしらえ、とネットで調べたとんかつ屋へ向かいます。

12時過ぎになってロースカツ定食にありつくことができました。
有名店らしく、県外ナンバーの車両が開店時間に詰めかけるのですが、店の玄関は締まっています。
11:30の開店時間も過ぎてから中から店の人が顔を出し、そこにいる人の予約を受け、ついでに開店時間を12:00に書き直しました。
CLOSEDの看板は出したままです。

ネットで評判のとんかつ屋へ行って見た
案内板(食事中に一部書き換えられていた)

コロナで、予約客のみの対応という方針もあるのかもしれませんが、開店前の看板からではよくわかりません。11:30にやってきた県外ナンバー車両は、あきらめて開店前にほとんど去ってゆきました。

店内のレイアウトも一人ずつアクリル板で区切られており、テーブルには瓶入りのソースとチューブ入りのからしが乗っています。
注文と同時に会計でした。

1100円のロースカツ定食は、肉が特段厚くもなく、また明らかにお米の質が悪く、ごはんが美味しくありません。
高遠で食べた1000円のソースカツ丼の方がずっとおいしかったでした。

ロースカツ定食。

近くには、キャンプサイト用品のショップがあり、庭ではマルシシェが開かれていました。
スタバのテラスで憩う人々は都会からの移住者なのか、避暑客なのか、観光客なのか?
マルシェの出店者も、来客も地元の人ではなく、”外来者”ばかりのようでした。
店内には外国人の姿や、関西弁をしゃべる人の姿も目に付きます。

サイクルショップの庭からスタバのテラスを望む
サイクルショップの庭ではマルシェが開かれていた

ここで駅に戻り貸自転車を借りて行動。
まずは白馬村歴史民俗資料館を目指しました。

自転車で15分もかかりましたでしょうか、白馬グリーンスポーツの森という場所の一角に資料館がありました。
係の女性が一人います。
入場無料です。
このあたり、外来者が集まるエリアとは異なる、のんびりした空気が流れています。

資料館はワンフロアだけのスペース。
石器時代からの歴史、林業、農業に関する歴代の道具のほか、塩の道という現在の大糸線にトレースする旧街道のパノラマが目を引きました。
白馬らしく登山やスキーの歴代の道具の展示もありました。

資料館の展示。。
塩の道パノラマ

続いてマップを頼りにジャンプ台まで。
長野オリンピックのジャンプ会場です。

ここに至るまでの道すがら、とにかくたくさんのペンションを見ました。
それも3,4階建ての大掛かりな建物をよく見ました。
現在はともかく、スキーや避暑に訪れる客でごった返した時代があったことをうかがわせます。

白馬ジャンプ競技場

ジャンプ台の下でしばし休憩。
ジャンプ団体で日本チームが優勝した時の競技の模様を思い出します。

この日はトレイルランの大会が開かれているようで、高低差のある地形の中をランナーたちが駆けてゆきます。空にはパラグライダーが浮かんでいます。
こういった地道な活動、観光は無理がなくていいものです。

ジャンプ台下でオリンピックの旗がひらめく

白馬村内には温泉もたくさんあるようです。
八方というエリアをとおると、温泉施設があり、足湯は満員でした。

トレイルランのゴールがあり、次々とランナーたちが帰ってきます。

八方温泉の足湯
トレイルランでゴールするランナーたち

古くから登山とスキーの基地として開発され人があふれていた白馬村。
ペンションブームを経て、国内・海外からの移住者が増え、観光客の人気も続いています。
一方、古くからこの地方の中心地として主に農業・林業で栄えてきた歴史があります。

地元の人にとって、外来者は生活の糧でもありましょうが、両者の接点は金だけで、生活圏から人的交流まで隔絶されているのかな?とも思いました。

先のとんかつ屋の客あしらいにしても、貸自転車屋の全く事務的な対応にしても、明らかに外来者に対する、飽き飽きした感情、人的な交流を拒否する感情、があるような気がしてならないのです。

もともと外部に対して閉鎖的な県民感情のベースが、観光基地として長年外来者に荒らされてきた白馬にあって強化された結果なのかもしれませんが。

廃材をもらう

山小舎のリフォームをお願いしている大工さんから電話がありました。

廃材が集まったので取りに来ないかとのこと。
二つ返事で伺いました。

大工さんの資材置き場があるのは、長和町の和田地区。
旧小県郡和田村です。

軽トラで姫木別荘地内をエコー平スキー場付近まで上がり、鷹山牧場付近まで続く道をとおり、県同55号線に合流して和田峠の麓の男女倉(お目倉)まで行きます。
そこで中山道に合流して和田まで下ります。

角材を含めてたくさんの板材、垂木の端材などをもらいました。

軽トラの荷台一杯の廃材をもらいました

さっそく持って帰って廃材を再利用します。

長めの角材は、薪を干す台に使います。
薪の乾燥台は地面から15センチ以上あることが望ましく、また当然ながら台が水平であることが必要です。
その点、柱や梁に使われていた角材は、乾燥台の土台に最適なのです。

さっそく角材を薪の乾燥台の荷台に使います

板材は適当な長さに切った後、手斧で割って焚付に使います。
既に乾燥している板材ですので火の付きがよく重宝します。

この大工さんからは数年前にも板材の廃材をたっぷりもらい、焚き付けとして使っていましたが、それももうそろそろ使い切るところなのでした。
まさにグッドタイミングでした。

DVD名画劇場 グレタ・ガルボ伝説 「グランドホテル」「椿姫」

手元に「銀幕のいけにえたち・ハリウッド不滅のボディ&ソウル」という古本がある。
アレクサンダー・ウオーカーというアイルランド生まれの映画評論家が1966年に発表したものが原著。
10人の不滅のハリウッドスターのスクリーン上の、また彼女ら自身を通して女性のセクシュアリテイの本質を極めること、がテーマの一つだとある。

グレタ・ガルボについての1章があるので、引用、要約してみる。

ガルボは1905年スエーデンに生まれた。
労働者階級の家庭に育ち、学校に行ったのは13歳まで。
引っ込み思案で、人前できちんと話すこともできない性格だったという。

14歳で父親を亡くし、15歳の時には裏通りの散髪屋で石鹸娘として働いた。
のちにデパートで販売員として働いていた時、宣伝用の短編映画に出演、これを契機に王立劇場付属の俳優学校に通い始める。

俳優学校長の推薦で、当時スエーデン映画界で第一人者の一人だったモーリッツ・スティルレル監督の新作の主演女優に抜擢された。
特に美人でも才能があるわけでもないガルボをスティルレル監督は熱弁をふるって擁護したという。

この点では、同僚たちの反対を押し切ってマレーネ・デートリッヒを「嘆きの天使」に抜擢した、スタンバーグ監督のケースも同様だった。
ステルレルはグレタ・ガルボ(本名グレタ・グスタフソン)の名付け親でもあった。

1925年にMGMのタイクーン、ルイス・B・メイヤーがスティルレルともどもガルボをハリウッドに呼び寄せる。
まもなくスティルレルは独裁的な態度がスタジオの総反発を食らいMGMを解雇され、ガルボだけが残る。

当時のハリウッド映画(の女性性)は、フラッパーたちの”フリーラブ”哲学”か、もしくはリリアン・ギッシュに代表される清純に二分され、ガルボが象徴する、性的なものと精神性の組み合わせをうかがわせるキャラクターは希少価値があり、斬新な存在だった。

同時に「彼女は台本やシュチュエーションをたちどころに理解してしまうんだ。ほとんどリハーサルの必要がない。(中略)自分の才能と実力でもってドラマを膨らますことができる」とスタッフが述べるくらいの完璧な仕事ぶりだった。

スエーデン時代のガルボ

ジョージ・キューカー、エドモンド・グールデイング、クラレンス・ブラウンといった”専属”監督と、何よりカメラマン、ウイリアム・ダニエルズらスタッフの貢献もあり、ガルボは銀幕の大スター、生ける神話となった。

ファンが自分と同一化するのをかたくなに拒み、記者会見やインタビューに応じず、パーテイーに出ず、最後は全盛期の36歳で引退して、ガルボは永久に神話の中に閉じこもった。

「グランドホテル」 1932年 エドモンド・グールデイング監督 MGM

ベルリンの豪華ホテルを舞台に繰り広げられる人間模様。

登場するのは舞台にナーバスのなっているロシア人バレリーナ(ガルボ)、紳士を装った泥棒(ジョン・バリモア)、工場の経理係を休職し全財産をもって滞在中の初老の男(ライオネル・。バリモア)、企業買収を策動中の経営者と雇われタイプライター(ジョーン・クロフォード)。

各キャラの描写と演技が的確で味わいがあり、自然とドラマに見入ってしまう作品。

「我が家の楽園」とも共通する、ライオネル・バリモアの名演技も見られる。
声だけでこの人(ライオネル・バリモア)と分かるようになった山小舎おじさんは彼のファンになった!

紳士を装ったホテル専門の泥棒ながら、最後は本物の紳士として死んでゆく、ジョン・バリモアもいい。

ガルボに言い寄るジョン・バリモア

若き日のジョーン・クロフォード。
当時も今もいる、軽薄で金次第で世の中を渡ろうとしている、即物的な若い女性を軽やかに演じて、魅力的。
最後は人間の尊厳の何たるか、に目覚めて観客を安心させるのもいい!

そして、ガルボ。
これが、決して飾り物ではない存在感を見せる。

バレリーナに見えるかどうかは置いておいて、自らの繊細さに苦しむ芸術家が、時にはしゃぎ、時に鬱々とする姿をまるでガルボ自身のことのように演じていて、うまさを感じさせる。

「グランドホテル」のグレタ・ガルボ

寝巻の下にホットパンツをのぞかせて色気を振りまき、ラブシーンも欠かさないが、それがいちいち魅力的だ。

この時代にしては肌を見せることもいとわない?ガルボ…

ラストの大団円に向けて、各キャラが、まるで豪華ホテルがシェアハウスか何かのように自由に各部屋を行き来するのがおかしく、またいいなと思う。

30年代のアメリカ映画。
フランク・キャプラの「我が家の楽園」「スミス都へ行く」に見るような正義感、人間性を詠うことに躊躇がなかった時代。
観客もそれを受け入れていた時代。
現実はともかく映画の中くらい正義が通用してもいいんじゃないか、と思った。

「椿姫」 1937年 ジョージ・キューカー監督 MGM

「グランドホテル」と異なり、ガルボが完全な主役で壮大なその独演、相手役との駆け引き、を楽しめる。

ガルボとロバート・テーラー

19世紀中盤のパリの社交界。
素性の知れぬ男女が虚々実々の駆け引きを繰り広げる濁った世界。

ガルボ扮する椿姫も極貧から身を起こし、金持ちの男を渡り歩いてきた身の上。
人間関係は気の向くまま、流されるまま、そこに信頼も尊厳もない、というキャラ。

椿姫に夢中になる青年に若き日のロバート・テーラー。
「哀愁」以降の中年になったテーラーしか知らなかったが、若いころはハンサムなうえに初々しく誠実な見かけで、スケベ一辺倒のゲーリー・クーパーより好印象。

実年齢32歳になるガルボは、画面を通しても年相応の貫禄はごまかせなく、(声も1932年の「グランドホテル」当時よりは低くなっている印象)また、口をつく「ハハッ」という相手を小ばかにしたような笑いも年齢を感じさせるのが実情。
しかしながら、だからこそ、若い燕の言い寄りをいなす演技は絶妙。

青年との真実の愛に目覚めたときの演技よりも、社交界を浮遊しながら、あることないこと思いつくままに口をつく”余裕”の演技が印象に残る。

青年の父として、椿姫に身を引くことをお願いする役をライオネル・バリモアが演じ、通り一遍の敵役に収まらぬ余韻を残す。
さすがだ!

瀕死のガルボがテーラーを迎えて真情を披露し、ある意味、幸福のもとに死んでゆくラストシーンでは、思わず眼がしらが熱くなる山小舎おじさん。
おじさんもすでにガルボ伝説に囚われた身となったのか?それとも単純なヤツだけということか?

ガルボの豪華な衣装も楽しめる作品。

(余談)

スエーデン出身の女優というと、イングリット・バーグマンはじめ、アニタ・エクバーグなど、大女のイメージがある。
我がガルボは身長が169センチというから、大女とはいいがたい。
体の厚みもなく、ただし肩幅は広くがっしりした印象でそこにスエーデンの血は生きている。

「ニノチカ」(1939年エルンスト・ルビッチ監督)に見る、ロシアの”人民服”姿と男っぽいふるまいも、そのがっしりとした体つきには似合うというものである。

ちなみにスエーデン系のアメリカ人女優にはグロリア・スワンソン、ジーン・セバーグらがいる。
スワンソンは背は低いが肩幅広くがっしり型。
セバーグは背は低く肩幅も広くない。

スエーデン系にも色々いるという次第である。

令和4年 青春18きっぷの旅 中央本線で木曽路へ

夏の青春18きっぷ発売の季節です。
今年も購入しました。

ある土曜日、中央本線の塩尻・中津川間の列車に乗ってみました。
木曽路を巡る各駅停車の旅です。

茅野~塩尻~十二兼

07:07茅野発松本行きの普通列車に乗りました。
土曜日ですが高校生たちでにぎわう茅野駅のホームでした。

土曜日朝7時の茅野駅下り線のホーム

塩尻駅で下車し、中央本線中津川行きを待ちます。
コーヒーを飲もうと駅構内のキヨスクを訪ねました。

しかしながらレジわきのコーヒーメーカーには故障中の貼り紙が。
レジのおばちゃんに確認すると、10分待ってくれれば、とのこと。

すぐ近くの待合室で座って新聞を読んでいると、すぐに直ったと声がかかりました。
レジのおばちゃんの人間味のある対応に心が温かくなりました。

塩尻駅で中央本線中津川行きに連絡

中津川行き列車に乗りました。
初めての木曽路です。

塩尻を出発してすぐ、盆地から、中央アルプスと北アルプス南端の間の山間を上ってゆきます。
山間を縫う木曽谷をたどる路線です。
かつて木曽谷には中山道が通っていました。

車窓は急峻な山々、というよりは、日本的な山の緑が続くという感じ。
思ったよりも開けた場所が多く、そういた場所には町が広がっています。

木曽谷を行く

木曽地方の中心地である木曽福島、大関御嶽海の出身地・上松を過ぎたあたりに十二兼という駅があります。
実は山小舎おばさんの実母の母親の出身地だそうです。

山小舎おばさんは全く記憶にないそうですが、親せきによると、川の音が聞こえるいい場所、とのこと。
せっかくなので下車してみました。

下車して駅の発着時刻表を見ると、次の列車まで2時間半もあります。
たまたま駅にいた青年に聞くと、中津川方面へは路線バスもないとのこと。
中津川方面に進むには駅に戻って2時間半後の列車に乗るしかありません。

駅前の観光案内標識

駅前には名所案内版が一つ立っているだけ。
現中山道(国道19号線)に面した駅ではないとはいえ、周りには店1軒、停留所一つありません。
集落といえるのかどうか、人家がぽつぽつと並んでいるだけです。
雑草が伸び放題の廃屋も目立ちます。

駅前の風景

仕方がないので、温泉施設や民宿があるという名所・柿其渓谷(かきぞれけいこく)へ向かって歩きました。
木曽川を渡り、重要文化財というコンクリート製の水路橋をくぐります。

木曽川を渡る

木工所などを過ぎます。
集落らしい集落にも乏しい地域です。
ここら辺、南木曽町のはずれの地域で、柿其渓谷付近の水力や林業の基地だったようです。
果たして山小舎おばさんの母方の実家はどのあたりで何をしていたのでしょうか?

コンクリート製の水路橋をくぐる
斜面に集落が点在する
渓谷に向かうにつれ民宿が現れる

汗だくになって歩いているうちに時間が過ぎ、折り返して駅に向かう時間が近づきました。
渓谷入り口の温泉宿を見た後、折り返して駅に戻りました。
山道の上り下りで計7~8キロも歩いたでしょうか、腰が痛くなりました。

傾向入り口にある温泉施設

岐阜県中津川

列車に乗り終点の中津川で下りました。
土曜日だからでしょうか座席はほぼ満席でした。

駅の立ち食い蕎麦で昼食です。
愛想のよい主人が袋から出したそばを湯がき、温めたダシをかけて出してくれます。
ダシは完全に関東風というか東日本風で、色が濃くしょうゆ味がしっかりしたもの。
美味しかったです。

かき揚げ蕎麦450円

折り返しの列車は1時間後。
駅前を散策します。
駅前に立つ観光センター・にぎわい特産館に入ってみました。

どら焼きなどの銘菓、産品が並んでいました。
菓子の種類が多いのと、温暖な地で産するお茶が並んでいるのが目を引きました。
今どきの各地方は、地元の農産品を魅力あるお土産に加工しているものです。
自宅用の土産に、煎茶、菊芋の粕漬、飛騨美濃伝統野菜を加工した七味唐辛子を買いました。

お土産を購入

岐阜県の中津川は長野県とは違う匂いがしました。

木曽福島で中山道散策

中津川から折り返しの松本行き列車に乗り、木曽福島で途中下車しました。
木曽路の風景に触れるためです。

木曽福島は長野県木曽郡の中心地で、木曽谷では大きな町となります。
町の中心部に中山道宿場の景観が残っています。

次の列車まで1時間しかないが、中山道の景観を見ておきたく、駅前の観光案内所に飛び込みました。
マップを所望するおじさんに係の女性はにこやかに応対してくれ、中山道に関心あるなら、と街道案内の冊子までくれました。

木曽福島駅前

マップを頼りに宿場の景観保存地区へ急ぐ。
残って入のはわずかな区間でしたが、建物の景観が保存され、水が昔ながらに流れていました。

宿場の景観保存地区

駅までは別の道、現在の商店街を歩きました。
地方の商店街とて、さびれてはいるが、江戸時代の景観保存地区よりも人々の匂いが感じられます。

街中の風景
御嶽海の出身地は隣町
街角の風景

こういった通りにこそ、その地方独特の風情というか歴史というか、が強く漂っているものだと思いました。

軽トラ流れ旅 杖突街道~高遠~伊那の旅

茅野に下りて床屋へ行ったついでに、軽トラを飛ばして杖突街道を伊那方面に走らせました。
目的は初秋の物産調達です。

杖突街道沿道の直売所にて

茅野より杖突街道(国道152号線)を走って、杖突峠に登り、高遠方面に下ると、谷あいに取り残されたような里の風景が点在します。
伊那谷と諏訪地方、甲州街道を結ぶ街道だった道で、山城国から勧進された貴船神社などが残る集落が続きます。

かなり下って道が平坦になったあたり、塩供という地区に一軒の直売所があります。
沿線の商店や食堂が閉店している現在では貴重な有人販売所です。

杖突街道マップより、高遠北小学校の向い側に直売所がある

コロナが始まってからはこの直売所も閉まっていることが多くなりました。
たまに空いていても、怖いから午前中だけ開ける、と一人で経営しているおばさんの話しでした。

空いているのを見かけたので寄ってみました。
おばさん自家製の野菜とリンゴ、高頭饅頭などが並んでいます。
声をかけると奥からおばさんが出てきました。

今年はプルーンの出来が悪かったこと。もうすぐ駒ヶ根からナシを仕入れること。キノコはまだなこと。今年のキノコの出来はわからないこと。山から鹿、イノシシ、サルが出ること。最近木材の伐採が進んでいること。そば粉を知り合いからもらって年越しそばは自分で打つこと。などなど・・・。

一山380円のトマトを買いました。
一人で直売所を守るおばさんへの応援です。
これからもコロナとサルに負けずに元気でいてほしいものです。

高遠の華蔵食堂でソースカツ丼

高遠の町へ入り無料の商店街駐車場へ。
みすず食堂をという2回ほど入ったことがある食堂を目指しますが、本日休業。
駐車場隣の真新しい観光案内所へ行って昼食の場所の情報を聞きました。
教えてくれた高遠郊外の食堂へ。

観光案内所に紹介された食堂・華蔵

店内は田舎によくある飲み屋を兼ねた食堂。
小上りには作業着の4人組と地元の夫婦。
応対したおばさんの年季からして味に期待が持てます。
おすすめはローメン、ソースカツ丼のようです。
1000円のロースソースカツ丼を注文しました。

メニューにはまずローメンが出てくる

これが当たりでした。
伊那でソースカツ専門店のたけだへ行けば、1500円するソースカツ丼が、肉の分厚さではやや劣るとはいえ、1000円です!
味も遜色ありません。
観光客が詰め掛け、混んでおり、ややもすると客扱いが雑になりかねないたけだよりいいかもしれません。
14時に昼の部終了、という県内のローカルルールはどちらも同じで、その点は十分注意しなければなりませんが。

ロースソースカツ丼。十分!

昼食の後、近くの直売所に寄ってみました。
果物ではネクタリンが多く出ていました。
大石早生というスモモがあったので加工用に仕入れました。

高遠の直売所でゲット

伊那市創造館で大昆蟲食博

伊那市では博物館に行ってみました。
高遠の博物館に行ったことはあるのですが、なるほど伊那市博物館という施設はなく、検索で見つからなかったのです。

駅からほど近く、長らく図書館として利用されていた由緒ある建物が、伊那市の博物館に当たる創造館でした。
出土した貴重な土偶、土器のほか、関連する文化人の資料などが企画展示されています。

その中に!大昆蟲食博という展示がありました。
何気なく入ってみると、ザザムシで有名な伊那ならではの力の入った、見ごたえのある展示でした。

イナゴ、ザザムシ、ハチの子のほか、信州と伊那谷に伝わる昆虫食の歴史と未来がパネリングされています。
ザザムシのふりかけを開発した、上伊那農業高校の取り組みがビデオ化されており、見ることができました。

ザザムシを飼う上伊那農業高校生(ビデオより)
高校生の取り組みが紹介されたパネル

この企画、地元でやるのはいいのですが東京などでやってみてはどうでしょう?
タイムリーだとも思います。

ザザムシが気になって創造館を後にした山小舎おじさん。
伊那の商店街の一角に、ザザムシ、ハチの子の貼り紙を張った店があるのを思い出しました。

行って見ると店は無人で鍵がかかっていました。
御用の方は電話ください、とあったので電話してみました。
出てきたおばあさんに聞くと、ザザムシは季節ではないこと、季節になっても今はあまり出回らないこと、との返事でした。
残念。

かつてザザムシの貼り紙があった信州名物店

この店の隣の酒屋に力強い看板がかかっていました。
秘酒・突こしとは何者?店へはいって聞いてみました。
よく聞いてくれたとばかりに店主が冷蔵庫から出してくれたのは、真空パックに入った真澄の特別酒でした。
諏訪にある真澄の蔵元ショップでもお目にかかったことがないものです。
どうして諏訪から遠く離れた伊那に?と聞くのももどかしく、得意げな店主から1本買い求めました。

歩けば色んなものと出会えるのだなあ。

力強い看板の酒屋
真澄突こしをゲット

帰り道、いつもの南箕輪村の直売所JA上伊那ファーマーズあじーなに寄りました。
リンゴの早生品種が出ていました。地物の桃も出盛りで、B品がひと箱700円でしたので加工用に買いました。

いつにもまして収穫の多い、高遠、伊那谷の初秋の旅でした。