DVD名画劇場 児玉数夫「やぶにらみ世界娯楽映画史」傑作選その2

児玉数夫という映画評論家は、戦後直後の外国映画輸入会社に在籍し、送られてくる洋画を、公開するかしないか、邦題はどうするか、宣伝方法は、を扱っていた。
ほかの日本人が先に見て評価が定まった作品を、あとで論じる意味での評論家ではなかった。
映画雑誌記者の淀川長治さんより、一段階前で海外作品に接していた。

そのせいかどうか、後年国内外で名高い作品ばかりではなく、輸入当時の世相や製作背景にリアルタイムで接し、また作品には偏見・先入観なく独自の評価を下している。
その記録は様々な著作に残されている。

現代教養文庫の1冊「やぶにらみ世界娯楽映画史戦後編」をめくってみる。
戦後の洋画輸入の最前線で児玉数夫が接した洋画の中から選んだ作品が網羅されている。
娯楽映画史と銘打ってはいるが、芸術派が評価するいわゆる名画も、児玉氏が好む作品ならば選定されているところが氏の映画に対する偏見のなさ。
裏表紙では、日本映画評論界のレジェンドになった淀長さんも推薦文を寄せている。

1年ぶの傑作選に、3本を選んでみた。

「私は殺される」   1948年   アナトール・リトヴァク監督  パラマウント

ハル・ウオリスという東欧系の本名を持ち、30年代から活躍していた製作者が興したプロダクション作品。
製作はウオリスと監督のアナトール・リトヴァクが共同。

リトヴァクはロシア(ウクライナ)生まれのユダヤ系。
ドイツで映画監督になった後、フランスを経て37年にアメリカに渡り、以降ハリウッドで活躍した。
代表作に「うたかたの恋」(36年)、「凡てこの世も天国も」(40年)、「追想」(56年)など。

戦前戦後のハリウッドが、ユダヤ系のタイクーンやプロデユーサーが支配し(本当の支配者はニューヨークの銀行だが)、ドイツ経由で逃れてきたユダヤ人作家たち(ラング、シオドマーク、カーテイス、オフュルス、プレミンジャー、ワイルダー、ジンネマン、そしてリトヴァク等々)に担われてきたかがわかるスタッフ陣だ。

主演はバーバラ・スタンウイックとバート・ランカスター。
スタンウイックは、ニューヨークのレヴュー劇団・ジーグフェルドの”ガールズ”としてこの世界に入り、ブロードウエイを経てハリウッド入り。
フランク・キャプラの作品に多数出演。
「ステラ・ダラス」(37年)、「大平原」(39年)、「レディ・イヴ」(41年)などの代表作が、この時すでにあった。
44年にはフィルムノワール「深夜の告白」でファムファタルを演じて役柄を広げてもいた。

バーバラ・スタンウイック

バート・ランカスターは大学を中退し、サーカスのブランコのりなどを経て、46年「殺人者」で映画デヴュー。
そのきっかけはハル・ウオリスと知り合ったからだった。
2作目の「真昼の暴動」(47年)が出世作だが、40年代は、タフな訳ありの前科者などを演じることが多かった。

「私は殺される」はスタンウイックとランカスターが同列でトップにクレジットされる。
映画出演5作目のランカスターが、ハリウッドトップ女優のスタンウイックと早くも同列の扱いだ(ウオリスの引きもあるか)。

ヒットしたラジオドラマの映画化。
主に室内を舞台に展開されるサスペンスドラマ。
主演を託されたスタンウイックが、一見複雑で実は純情な令嬢という役柄に期待通りの演技で応えた。
ランカスターは、逆境の好青年から自立に悩む婿養子という、売り物のタフさを発揮できない役柄。

殺人打ち合わせの混線電話を聞いてしまうレオナ

キャラクターは大手製薬会社の令嬢でわがまま放題のレオナにスタンウイック。
わがまま放題ではあるが、根は純情で夫に依存し、父親にコンプレックスがあって、それが心臓疾患の原因となっている。
貧民窟育ちで、大学のダンスパーテイでレオナに見染められ結婚、大会社の副社長に迎えられるが実権はなく、義父からの自立に焦り墓穴を掘るヘンリーにランカスター。
こちらも根は純情でレオナに憎しみはないものの、現状を打破しようと道を踏み外し破滅してゆく。

リトヴァクの演出(あるいはハリウッドスタジオの技量なのか)は、室内場面で暗さや影を生かし、カメラを自在に操ってサスペンスムードを高める。
導入部分のテンポ、場面転換のスピード感と盛り上げるBGM。
これぞハリウッド映画、これぞサスペンス。

話が若干複雑で、それをアメリカ映画らしくマシンガントークのセリフで説明しようとするのでついてゆけない部分もあった。
事件の解明に向けての筋立てに無理感もある。

心臓疾患を抱える主人公レオナが、夫の不在や混線電話に、恐れおののき、焦る。
警察やお抱え医師、会社の秘書、電話交換手に矢継ぎ早に電話するが、警察署に迷子がいたり、医者は不倫相手とデートしていたりと事態が解決せず。
こらえ性がなく、心臓疾患で歩けないレオナは焦りまくり、観客はスリリング。
前半の出来は完璧だった。

さりげなく、大会社社長の娘への過干渉と、娘の性格への影響、飼い殺し状態の娘婿の心理などが背景として描かれている。

ヘンリーの最初のガールフレンドで、8年後に夫(検察官)の動きから、ヘンリーの怪しい動きを知り、本人に面会を求める、地味で家庭的なサリー(アン・リチャーズ)がこの映画の良心であり、一服の清涼剤だった。



「ミズーリ横断」  1951年   ウイリアム・A・ウエルマン監督   MGM

クラーク・ゲーブル晩年の西部劇。監督には男性映画の第一人者・ウエルマンを起用。
ロケを多用、合衆国成立前の西部で暮らす山男たちを描く。

ゲーブル扮する主人公の山男、その息子の回想で語られる山男の半生は、前人未到の西部の山々に、ビーバーやヘラジカを獲物としながら旅団を組んで分け入っての冒険譚だった。
土地の先住民インデアンたちとは、やむを得ぬ戦い以外は、友好をベースとして共存しての暮らし。
共存というより、彼等の領土を通らせてもらい、土地の情報を教えてもらう関係だった。

遺児を抱き妻の墓前にたたずむ山男

各地の山男たちが年に一回、7月に集うベースには、インデアンたちも集まり、店が立つ。
山男にはフランス語を話す白人や、スコットランドのバグパイプを吹き鳴らす白人もいる。
インデアンと行動を共にする白人も。

このベースで山男たちは、飲み、踊り、射撃の腕を争い、喧嘩をし、女にうつつを抜かす。
といっても踊る相手は山男同士だし、射撃では的当てよりも火薬と弾丸をいかに早く詰めるか(当時は連発銃はなかった)だし、女はインデアンしかいなかった。

この作品の出だしには、年に一度の山男たちの集いの楽しさが描かれる。
そこからいろんなことがわかってくる。
ごく初期の西部の山男の目的、出身国が多様な山男の構成、先住民との関係、などなど。

カウボーイも定住入植者も、ならず者が仕切り酒場女がうろつくタウンなども、西部にはまだない時代。
西部は自然の中で生活する能力を持つ、雑多な山男たちの生きる場だった。
その”場末のユートピア”的雰囲気に早速画面に引き込まれる。

敵対するインデアンとの対決

テクニカラー、87分のこの作品には、劇的なヒロイズムも宗教的背景も国家主義的価値観もない。
圧倒的な自然と、そこに溶け込むような人間の営みが描かれている。

狩猟の場を目指し30人と78匹の旅団を率い、美しいインデアン娘を金目のもので買取り、利害関係があるインデアンの襲撃を自力でかわし、目的地では柵で砦を作り、インデアン妻との間に愛息を設けた山男(クラーク・ゲーブル)の自立した行動の一つ一つが、この映画のテーマだ。

本作には、フランス出身でインデアン語を喋るピエールというゲーブルの相棒が出てくるが、これが何と「巴里の女性」のきざ紳士アドルフ・マンジュー。
まるでウオルター・ブレナンのような役どころだが、その役柄の幅の広さとうまさに驚く。

最初は拒否されたインデアン妻との関係も、山男の飾らぬ真心で仲良く改善する。
雪だまりの道を率先して進み、祖父の部族が近くに来れば馬を飛ばして会いにゆくインデアン妻だったが、子をなした後、一行を突け狙うインデイアンの勢力に真っ先に撃たれあっけなく死んでゆく。
それが大自然の摂理の一部だといわんばかりに。

インデイアンの妻の前で、ゆったりと、アイヌのムックリのような楽器を、にやにやしながらかき鳴らすゲーブルの姿が山男そのものでよい。

この時代の、しかもウエルマン作品に、現代のようなエコ思想も、自然回帰思想も、何だったら人種平等思想もないだろうが、原作の持つ力なのか、圧倒的存在感のロケ先の自然の力なのか、人知を超えた世界観が感じられる作品。



「美女と闘牛士」  1951年   バッド・ベテイカー監督   リパブリック

製作は何とジョン・ウエインの独立プロ(第一作)。
配給は「勝手にしやがれ」でジャン=リュック・ゴダールがオマージュをささげた、ハリウッド非メジャースタジオ、リパブリック。
この”逆境”の中で堂々たる大作が生まれた。
ベテイカーは、「血と砂」(22年)で闘牛士に扮するヴァレンチノの演技指導もしたという。

大会場プラザメヒコに登場するジョー

欧米の映画作家が外国を舞台にした映画はたくさんあったろう。
自らが闘牛士だったというベテイカーが舞台に選んだのはメキシコ。
ベテイカーとしては”当然の選択”であり、また”メキシコを描かずして、映画人として先には進めない”心境だったのだろう。

ベテイカーのメキシコに対する視線には、彼のメキシコに対する興味と理解とリスペクトがある。
闘牛そのものにも、闘牛士にも、メキシコ人女性にも、文化にも。
映画の各エピソードに共通するのは、ベテイカーが体験したであろうリアルさだ。
それは、劇的な切れ味はなくとも、見るものの心に鉈のようにグサリと突き刺さる。

日本に対する戦後直後の占領軍よろしく、50年代のメキシコを旅行するもったいぶったアメリカ人一行に、若いジョー(ロバート・スタック)がいた。
メキシコの上流階級が集うレストランで、有名な闘牛士マノロ(ギルバート・ローランド:メキシコ人俳優)一行になれなれしく近づき、若い美人アニタ(ジョイ・ペイジ)に声をかける。
ジョーは闘牛を教えてくれとマノロのもとに通う。

アメリカ帰りのアニタは一見、おとなしく洗練されたレデイだが、彼女の田舎でシエンタと呼ばれる子牛相手の闘牛会にジョーを誘ったときにその本質を表す。
自信なさそうなドレス姿から、カウガールよろしくハットとポンチョで決めた仕事着に変貌、そのスタイルが決まる。
それは芯が強く、己の信じた道に命を懸ける、熱きメキシコ女の姿だった。

名闘牛士マノロの妻チェロ(ケテイ・フラッド:メキシコ人女優、リンダ・ダーネルに似ている)の強さも描かれる。
田舎の闘牛会場でジョーがデヴューした際に付き添いで同行したマノロの姿に観客が騒ぐ。
泥酔した観客の挑発に引っ込みがつかなくなったマノロが急遽出場して無事牛を裁く。
夫人の懐妊を知りその年での引退を決めていたマノロの気持ちを知りながら危険な闘牛への出場を認めたチェロ。
無事終わった時に剣を抜いたチェロは酔客に剣を突き付けながら「もしマノロに何かあったら、お前を殺すつもりだった」と告げる。
メキシコ女の命を張った情熱と覚悟がここでも描かれる。

男たちは、闘牛の何に惹かれるのか。
金か名誉か歓声か。
メキシコで闘牛の写真を撮りつつそれを探るアメリカ人写真家に語らせる「20年たってもまだわからない」と。
その部屋には、数々の名闘牛士たちの写真、特に事故の時の、が飾られる。

ジョーは田舎の大会でデヴューした後、見守るマノロに向かって「興奮して、怖さを忘れた」と語る。

そのマノロが、ジョーの危機に、我を忘れて飛び出し、人生で初めて牛につき上げられ命を落とす。
自分の行動に迷いはなく、後悔はなかったろう、闘牛士として。
これもメキシコの男。

マノロを死なせたと、全メキシコの非難がグリンゴ(白人に対する蔑称)のジョーに集中する中、最後の大舞台に現れたジョーに対し、チェロは亡き夫の肩掛けを託し、その幸運を祈る。
これもメキシコ女。

ケガをした闘牛士の見舞いの場面がある。
またマノロの事故と死、その妻の喪服姿など、闘牛にまつわる死の影が強調される。

死を賭けて牛に挑む闘牛士の姿と歓喜する群集。
闘牛士に与えられるこの上ない名誉。

闘牛向きの勇敢な牛を選ぶ目利きの文化も描かれる。

メキシコの闘牛を巡る男、女、そして牛までも、そのただなかにいたベテイカーの視点を堪能するドラマ。
全体のムードが悠々迫らない、メキシコの風土のように。

ハリウッド映画としてはとてつもない異色作にして、アメリカ以外を舞台にした作品の傑作でもある。

バッド・ベテイカー

軽トラ流れ旅 12月の松本で味噌、醤油

12月に入っての流れ旅は遠方の山間部は避けて、比較的近場の都市部を目指します。
なぜなら峠道の路面凍結が怖いからです。

姫木の山小舎前はこの通り

松本に出かけました。
少し前のローカルチャンネルで、松本市内の醤油・味噌などの醸造店、ワサビ店、乾物店を回って、老舗の食材を訪ねる番組をやっており、店の名前などをメモしておいたことがありました。
松本へ行くことがあったら、寄ってみようと思っていました。
味噌や醤油は自宅へのお土産にすると喜ばれます。
信州の醸造食品は美味しいのです。

松本への経路は、丸子へ下り三才山トンネルで峠を越えるルートをチョイス。
心配した路面状況は、乾いており心配なし。
冬のように寒い松本市内につきました。

インバウンド越しに見る国宝松本城天守
冬に備えて雪つりされた松

松本城の駐車場も空いています。
底冷えのするお堀端を、まばらなインバウンド客の様子を眺めながら歩きます。
お城から北アルプスの雪景色が見えないのが残念です。

お城から駅方面へ延びる通りで萬年屋へ、まずは味噌を探します。
萬年屋は創業天保3年の味噌屋です。
お城前の大名町店は味噌に限らない品ぞろえをしているようです。

店に入ってみると思った以上の品ぞろえ。
味噌のほかに醤油、漬物、菓子、乾物までそろえており、観光客向けのアンテナショップのようです。

萬年屋大名通店
店内に展示された味噌

次に向かった小口ワサビ店は角を曲がったところにありました。
表通りを曲がると、インバウンドのギラギラ?が消し去られた落ち着いた世界。
店のおばさんにも浮かれた雰囲気はなく、トークもスムーズ。
安曇野わさびを2本買い、保存方法も教えてもらいました。
冷凍保存はダメでそのまま冷蔵がいいとのことでした。

小口ワサビ店
店内の安曇野生わさび

市内の大久保醸造所の醤油が欲しかったので、観光案内所に行ってみました。
若めのお姉さんが二人いて、てきぱきと情報をくれました。
教えてもらった中町通りへ行きました。
セレクトショップのようなところに大久保醤油がありました。

大久保醤油が欲しいというとショップのお姉さんのスイッチが入ったのか、「どこで知った?」から「どういうタイプがいい?」などなど矢継ぎ早のトークが繰り広げられます。
最後には2種類の醤油の特徴と利用方法をメモに書いてくれました。
ついでにランチのおすすめを聞くと、蕎麦なら四柱神社隣のこばやし、洋食なら翁堂かもりよし、と答えてくれました。

大久保醸造所の醤油
ショップのお姉さんが書いてくれたメモ

観光案内所から中町通りへ行く途中に四柱神社にお参りしました。
中心部にある広めの神社の境内には、インバウンド客がチラホラしています。
10円を納めて本殿を下っていると、研修旅行なのか県内からの中学生の男女グループがお参りに上がってくるところでした。
その中の女子が「お賽銭ある?10円はダメだよ、遠縁というから」と友人に声をかけていました。
先におじさんにも教えてよ!あつおじいさんか。

四柱神社
参拝する中学生ら

ランチは中町通近くの翁堂で。
順番を待つ間に、近くの開運堂へ行ってどら焼きなど。
開運堂のどら焼きは県内では洗練された味がします。

翁堂は老舗の洋食屋。
旅行客はもちろん、地元の客で盛況です。
ボルガライスは、揚げたてのカツがサクッとしており、ソースも手抜きのない味です。
1550円は上がったなあ。

翁堂のショーウインド
ボルガライス
開運堂のどら焼き

松本の町の雰囲気は、空襲の経験もなく、細い道が残っていたり、街角に歴史の残滓が染みついています。
良い点でもあり、よそ者にとっては違和感を感じる点でもあります。
良くも悪くもプライドを感じる町です。
信州人の内に秘めた頑固さが県内では一番表層に近い人たちが住んでいるところです。
信州では一番、現代の日本標準にアップデイトした街でもあります。

閉店したパルコの建物

五輪久保のハブキフジ

摘み取りバイトをした立科町五輪久保のリンゴ農家で、フジのB品の箱売りがあったので行ってきました。
例年、12月になるとハブキと呼ばれるB品がコンテナ売りされるのです。

B品は、形がいびつだったり、小玉だったり、色づきが悪かったり・まだらだったり、軸の取れかたが悪かったりしたりんごです。
味は変わらないようです。

農家の玄関先につくと、りんごを入れたコンテナが積まれており、箱を入れ替える台が用意されていました。
予約しておいた二箱を受けとり、代金1万円なりを支払います。
領収証を発行してくれるのは、農家の個人事業主としての正しい出納処理でしょう。

コンテナ二箱分を購入
自前のコンテナに入れ替える

15日の打ち上げには参加できないからと、手製の干芋をほんの数枚お土産に渡すと、奥さんが五輪久保特製のりんごジュースを「2本しかないけど」と言って渡してくれました。
摘み取りが終ると、毎年、バイトの人とともに打ち上げを行っています。
かつては住み込みで青森からの出稼ぎを使っていた時の名残でしょうか。

干芋のお返しにもらったジュース

五輪久保からの帰りに一部のフジを自宅に送りました。
持って行ったもみ殻を詰めた段ボールが二箱でしたが、全体の量の半分にもなりません。
翌日、彩ステーションにもひと箱送りました。
東京でも大好評のようでした。

東京への宅配便。もみ殻を使う

柿酢、大変

柿酢を仕込みました。

材料は、熟した柿。
甘がき渋柿を問いません。
ぐじゅぐじゅの柿を潰して瓶か甕に入れて保存するだけです。
時々かき混ぜながら発酵させ、頃合いを見て漉して更に保存します。
マイルドな何ともいえない酢が出来上がります、うまくいけば。

熟した柿は案外手に入りずらいのです。
柿の樹でも持っていれば何のことはないのですが。
ということで地元系のスーパーで熟し柿の箱売りを見掛けて即ゲット。
柿酢作りに挑戦します。

望月のスーパー越後屋でひと箱799円

柿酢作りはこれまでに2、3度挑戦しました。
1度だけうまくできました。
まろやかな酢ができて、素人づくりとは思えないほど実用的でした。
その後のトライは材料の柿の熟し方が足りなく、発酵する前にカビが出て失敗しました。

保存瓶を消毒し、柿をざっと洗い、ヘタを取って四つに割ります。
そのままどんどん保存瓶に放り込み、麺棒で潰してゆきます。
瓶の口は新聞紙で覆い、通気を良くします。

後は柿自前の菌による発酵を待ちます。
潰した柿の量が瓶の半分くらいだったので、雑菌の繁殖を防ぐためにももうひと箱熟し柿を追加しました。
瓶の中の空気は少ない方がいいと思ったからです。

瓶の中で潰す
新聞紙で蓋

ある日、瓶を見てびっくり。
口にかけたの新聞紙が盛り上がり、液体が盛大にこぼれています。
慌てて瓶を取り出しました。

柿を追加したある日、蓋の新聞紙が盛り上がっているのを発見
新聞紙を取ってみるとこの通り
一部を捨てかき混ぜる。発酵の泡が沸き立つ。柿の天然の色合いが何とも言えない

無事発酵しているのはいいのですが、柿の分量が多く、発酵して新聞紙を盛り上げているのでした。
新聞紙を外し、盛り上がった柿を捨て、量を調節します。
水分が下にたまり、柿の固形物が浮き上がったところを攪拌します。

瓶の外側を拭いて新しい新聞紙で蓋をして再保存です。
吹きこぼれたのは失敗でしたが、発酵は順調に進んでいるようです。

松代大本営平和祈念館

長野市松代には戦時中に掘った大本営と天皇御座所があります。
松代の皆神山などの地下を掘り進め、地下壕を作ったのです(天皇御座所は地上にあります)。

今では戦争遺産として保存されており、一部の地下壕は一般公開されています。

なお、長野県は現在の佐久市望月地区に、陸軍士官学校の校舎が昭和20年6月に移転してもいます。

祈念館の玄関

旧大本営地下壕を抱える松代に、平和祈念館ができたということを新聞で知り、行ってみました。

真田家(幸村の実兄を初代当主として幕末まで続いた)を町の名士と仰ぐ松代は、古い町並みが残る町です。
その一角に目指す祈念館がありました。
古民家をすっかりリノベーションしたという建物です。

土曜日ということもあり、受付には数人の比較的高齢の方々の姿が見えます。
運営するNPO法人のメンバーなのでしょうか。

祈念館のパンフ

2階の展示スペースに上ると、当時の世界情勢や、日本の満州移民、戦時下の長野県内などの解説から始まって、大本営地下壕の全体像や労働者の実情、採掘方法までが細かく展示されていました。

時代背景から、県内の戦時体制まで、各々の解説文が通り一遍のものではなく、NPOメンバーが自力で取りまとめ、執筆していることがよくわかるもので、全文読みごたえがあります。

当時の長野県には、退役軍人をメンバーとする在郷軍人会のような組織があり、戦争遂行や満州移民の際に、国に先行して活躍したこと。
満州への移民数と少年義勇軍?の人数が県としては全国一だったこと。
米軍の本土上陸を想定した訓練に長野県が協力したこと、その際の武器は竹やりやスコップだったこと。
などが展示されています。
戦後に県内で発見された、訓練の計画書や貧弱なスコップの実物などもあります。

祈念館のパンフより

ついてきてくれたNPOメンバーさんが、長野県からの満州移民が全国一だった背景を説明してくれました。
当時は県の主力産業だった製糸産業が世界恐慌によって壊滅したこと。
在郷軍人会からの圧力があったこと。
農家の耕地面積が狭く、次男三男は地元にいてもしょうがなかったこと、などです。
映画「黒川の女たち」でもそのことは語られていました。

祈念館のパンフより

メンバーさんはご自身も相当知識が豊かで、当時の県内の背景、雰囲気なども伝わるように解説してくれました。

大本営地下壕の掘削については、労働者の多くが朝鮮人だったが当時の名簿は焼却されて正確なことはわかっていないこと。
大成建設だったかについてはアメリカの国文書館だったかに名簿が残っており、そのコピーが展示されていました。
いずれにせよタコ部屋並みの労働環境だったようです。
もちろん日本人労働者もいました。

松代の観光パンフより
祈念館でピンバッチを100円で購入

NPO法人の真面目な尽力が感じられる祈念館でした。
松代大本営に関する疑問がかなり解消できる資料と知識が詰まった施設でした。

祈念館を出て「ニュー街道一」へ向かいました。
地元で人気の食堂です。
ここ2回ばかりは満員で入れませんでしたが、この日はカウンターが空いていました。
念願のカツカレーをいただきました。

JA松代選果場
長芋一袋1500円

この日の目的はもう一つ。
松代が名産地の長芋です。
選果場はすでに買い物客で賑わっていました。
B品の袋詰めとごぼうなどを買いました。
6月のアンズに続いて、11月の松代は長芋が「買い」です。

この日の北アルプス

薪仕事2025 軒下に薪を補充

寒くなってきました。
夏でも薪ストーブを焚くことの多い山小舎ですが(湿気退治、煮炊きなど)、冬が近くなると暖房でストーブが活躍します。

ストーブを焚く際に考えなければいけないのが、燃料の補給です。
ストーブをガンガン焚く場合、30分に一度は燃料を補給しなければなりません、もっとか。

燃料は乾いた薪です、就寝前とかある程度部屋があったまった後は、湿った薪や切ったばかりの枝などを投入して、時間を稼ぐこともありますが。
この場合、熱量の低下とススや灰の多さを覚悟しなければなりません。

そこで乾いた薪の置き場所です。
ストーブの近く、いちいち外へ出なくても、少なくともスリッパ履きで出られる場所、に薪の最終保管場所を置きたいものです。
山小舎ではベランダとそれに続く軒下がその場所です。

軒下の薪が少なくなってきました
ベランダのコンテナも空です

1年以上、場所によっては2年間、積み上げておいた薪を、最終保管場所に移動します。

薪の移動には軽トラを使います。
乾燥台の脇に軽トラをつけ、荷台に薪をどんどん放り込みます。
斜面の下から、荷台に薪を山積みしていても、軽トラを四駆にすると問題なく上がってくれます。
雪面でも同様です。

薪を積んだ軽トラを軒下につけ、ベランダや軒下に積み上げます。
最終保管場所に薪が少なくなると不安ですので、冬までにこれを何度も行います。

斜面下の乾燥台から薪を移動しましょう
軽トラに積み込みます
軽トラを軒下に付けます
軒下に薪を積み込み・・・
ベランダのコンテナにも補充します。

令和7年畑 マルチはがし

畑に敷いていたビニールマルチを剥がしました。
11月下旬、たまたまポカポカ陽気の日が続きました。
「今だ!」。
気になっていた畑に出かけました。

夏野菜を植えた畝に黒いビニールマルチが十数列被せてあります。
雑草に覆われ、その雑草も枯れはて、また収穫の際ちぎれたままのマルチが並んでいます。

剥がす前の畑

鍬をもって端から剥がし始めます。
押さえの石をどけます。
鍬をふるって端っこの土を起こしマルチの端っこを掘り出します。
両端が土に埋まったマルチをちぎれないように注意しながら、丸めるようにして剥がしてゆきます。

マルチはがしスタート

この時に問題点が二つあります。
特に土をかぶせて押さえていた両端の部分がちぎれないようにする事、マルチと一緒に丸め込まれる枯れ草をどうするかです。

両端のマルチがちぎれて土の中に残らないように鍬を使って土ごと起こしてゆきます。
丸めてゆくうちに枯れ草がマルチとともに巻き取られてゆくので、時々草を取り除きます。

手を使って丸め取ってゆくと腰が痛くなるので、主に鍬で土ごと掘起し、ある程度マルチが丸まってくると丸まったマルチを転がすように巻き取ってゆきます。
ちぎれた部分はその都度回収します。

2,3本の畝をマルチを残して越冬しようかな?とも思いましたが、ビニールがボロボロになるのは嫌なので全部剥がしました。

全部剥がし終わりました

冬の日差しは、作業をしていると汗が流れるくらいですが、午後になると陽が陰ります。
日の当たらない冬の畑は寒々しいものです。

剥がしたマルチは山にして乾かします。
集めてゴミで出すのは来春でしょうか。

米麹、加工三態

信州は食の天国です。
季節の農産物が極楽の恵みです。
加工品も宝の山です。
特に発酵食品は。

味噌醤油、酒、最近では地ビール、ワイン、シードルなどの発酵系加工食品。
素材が豊富で上質なうえに、何百年もの間培われた製法の伝統があります。
時代遅れと冷遇されてきたこともあったでしょうが、その間も技術を保存してきたことが凄いと思います。

ということで、立科町と上田の醸造店、麹店から米麹を入手しました。
計1.5キロほど。
いつもならば娘に送って終わりなのですが、自分で活用しようと思いました。

塩麴

先ずは塩麴です。
既製品は山小舎の調味料として常備・常用していますが、自作してみます。

分量は麹200グラム、塩60グラム 水200グラムです。

麹と塩を用意

分量をボウルで混ぜ合わせて、煮沸消毒した瓶に詰めます。
詰めた後は抜気しません、むしろペーパータオルなどを挟んで蓋を軽く締めて通気します。

水と併せて混ぜる
瓶に入れて保存

常温保存して時々かき混ぜて、こなれてきたら冷蔵保存します。
煮もの一般の調味料としてコク出しに使います。

醤油麹

塩の代わりに醤油を使う方法もあります。

今回の麹は、立科町芦田宿の醤油屋さんから500グラム入手したので、使う醤油も、そこで売っているイマイ醤油としました。

瓶ぎりぎりまで詰めたので、時々のかき混ぜが不便です。
週一回くらいはボウルに中味を開けて存分に混ぜてから再収納します。
下の方からこなれてきます。

この後、追加したので、瓶一杯の量になった

使い道は塩麴と同様ですが、しょうゆ味の料理や肉料理の漬け込みなどが向いているように思います。

なお、麹調味料づくりに使用する瓶は広口瓶とし、分量は2/3に止めるのが肝要だと思いました。

トウガラシ麹

ネットで麹の加工方法を検索すると出てきました。
鷹の爪を粉にして麹と合わせて漬け込みます。

畑から収穫した鷹の爪だけでは足りないと思い、直売所で2袋も買ってきました。
生の鷹の爪の種を抜いて、細かく砕きます。
しかし生のものは山小舎のミキサーでは粉砕できず、やむなく包丁でみじん切りして、麹と塩と酒と混ぜ込みました。
時間ばかりかかるので、分量の半分は粉トウガラシを使いました。

買ってきた鷹の爪
種を抜くのが大変な手間
粉トウガラシが便利

たくさん出来上がったので、漬け込みには甕を使ってみました。
保存場所が季節柄、低温なこともあり、熟成まで時間がかかりそうです。

混ぜた後ミキサーにかけるが思ったように攪拌できず
何とか切り刻んで甕につけ込む
表面をペーパータオルで塞ぐ(外ふたを被せる)

肉を漬け込んでの辛味焼きや洋風煮込み料理のベースに使う予定です。

三つの加工に1.5キロの麹を使い切りました。

軽トラ流れ旅 羽黒下の仲好食堂

佐久穂町に行ってきました。
東信地方の小海町と佐久市の間の町です。

小海町は高原野菜の野辺山がある南牧村から北上したところの町。
佐久市は新幹線駅のある佐久平から岩村田、中込、臼田、野沢といった地域を含んだ東信地方の大都市。
その間にあるのが佐久穂町です。

群馬県境から八ヶ岳山麓の八千穂高原までが佐久穂町の区域です。
小海線が走っており、八千穂、羽黒下などの駅があります。

山小舎おばさんからのリクエストで、冷凍ブルーベリーが欲しいとのこと。
また、調布の彩ステーションのレギュラーメンバーに羽黒下出身のおばあさんがいて、小生と顔を合わすたびに『野菜が美味しい。楽しみにしている。私も長野出身です、羽黒下です。』と聞いていたのです。

羽黒下と聞いてもわからず、小海線の中込の近くだと聞いて場所がだいたいわかりました。
そして佐久穂町の直売所で地元産のブルーベリーやハスカップの冷凍品を何度か買ったことを思い出しました。
羽黒下とブルーベリーを求めて佐久穂町に出かけました。

山小舎から上田方面に下り、国道18号線を群馬方面へ。
途中で国道141号線(佐久甲州街道)へ折れ、南下して佐久穂町につきました。
直売所へ直行しますが冷凍庫にブルーベリーの姿はありません。
代わりに巨峰とシャインマスカットの粒が冷凍されています。
レジで聞くとブルーベリーは売切れて入荷がないとのことです。

佐久穂町の直売所で冷凍の葡萄をゲット

さっさとブルーベリーは諦めて羽黒下駅を目指します。
141号線から千曲川を渡るとひなびた商店街がありました。
小海線沿いの駅駅の商店街は、中込といい野沢といい岩村田といい、人気と活気がないのがお約束ですが(小海線沿いに限りませんが)、さらにいっそう寂れて、忘れ去られたような商店街でした。

羽黒下駅前の商店街

先ずは駅をチェック。
折から小淵沢方面から列車が到着し、高校生が10人ほど下車してきました。
有人駅ですが駅員さんの姿が見られません(たまたまだと思います)。
高校生たちは迎えの車に乗り込んだり、徒歩や自転車で散ってゆきます。

JR小海線の羽黒下駅
広い駅前広場

改めて駅から商店街に沿って歩いてみます。
郵便局、貯木場、酒屋があります。
閉まった旅館があります。
地元名産のヒスイ蕎麦を食べさせる、新しめの店がありましたが定休日でした。

駅前の酒屋
駅前の貯木場
廃業した旅館
駅近くにある常夜灯?

閉店してから10年以上たっていそうな商店の列の一角に、暖簾を下げた食堂がありました。
仲好食堂です。
恐る恐る玄関を引いてみると、3組の客がテーブル3脚を占めています。
それなりに活気があります、安心してテーブルに座ります。

仲好食堂外観

その店は70代後半から80代とおぼしき女性がワンオペでやっている食堂でした。
動きはとても遅いのですが、のぞけば見渡せるキッチンでは元気よく中華鍋が振られています。
仕事途中と思しき客層を見ても食堂としての機能は維持されているようです。

食堂内部。メニューが見える

向かいのテーブルにカツ丼が運ばれてきました。
東京風の卵でとじた出来立てのカツ丼は勢いがあって美味そうです。
別のテーブルのおじさんたちは五目のラーメンをすすり込んでいます。
小生がキッチンをのぞいた時に、おばさんが中華鍋を振って作っていたメニューでしょうか。

ようやく手が空いて水が運ばれてきたタイミングでカツ丼を注文。
新聞を取りにゆくと、コップ酒を飲んでいたおじさんが「それ昨日のだ」といって自分が読んでいた今日の信濃毎日をよこしました。

食堂内部。コップ酒のおじさん

瞬く間にカツ丼を完食です。
味噌汁と併せて一般的な食堂に望む最高レベルの味です。
作りなれた感と、活気ある食堂の勢いがありました。
いつの間にか2組が食べ終わって退場しています。
勘定に立ち上がると、コップ酒のおじさんが「早いね」と言ったので「お腹が空いてたもんですから」と答えました。

カツ丼を爆食

今日の新聞をおじさんの指示によりテーブルに置いたまま退場します。
動きは遅いのですが「いらっしゃい」と「ありがとうございました」の声がまだまだ張りのあるワンオペおばさんでした。
当然のように第二波の入店はなく、表の人通りは更にない羽黒下の仲好食堂です。

続く商店街。空いている店舗はほとんどない

折角佐久に来たので、佐久市野沢地区にあるピンコロ地蔵に久しぶりにお参りして帰りました。

ピンコロ地蔵
参道は閉まっていた
商店街のたい焼き

DVD名画劇場 チャールズ・チャップリンの”到達点”

「巴里の女性」  1923年  チャールズ・チャップリン監督  ユナイト

チャップリンが自作の配給会社として、D・W・グリフィス、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォードとともに設立したユナイテッドアーテイスツの第一回作品。
チャップリンが監督に専念した初めての作品。
また、1915年以来チャップリン映画のヒロインを務め、私的にもチャップリンと恋愛関係にあったこともあるエドナ・バーヴィアンスが初めて主演を務めた作品でもある。
チャップリンはすでに「キッド」(21年)などで人気の頂点を極めており、のちの代表作の「黄金狂時代」(25年)、「サーカス」(28年)、「街の灯」(31年)、「モダンタイムス」(36年)の製作を控える時代だった。

ユナイテッドアーテイスツを設立したグリフィスら

長年のパートナーであったエドナの女優としての1本立ちを製作の動機にしたというこの作品。
主題はチャップリンらしいヒューマニズム。

貧しい村の若い男女が、親の理解を得られず駆け落ちしようとするが、男の父親が急死し、女だけがパリに旅立つ。
1年後、女は金持ちの愛人(高級娼婦?)として贅沢に暮らしている。
男も老母とともに画家としてパリに移り住み、偶然に女と再会する。
女は男をまだ愛しつつも、金持ちの愛人の誘惑も断ちがたく、また純愛をささげる男との関係も間の悪さが連発して進まない。
そのうち事態は悲劇的に進み・・・。

チャールズ・チャップリン

チャップリンの劇作は、貧しい時代の男女の機微を表現する際にも冴えわたる。
女との結婚をかたくなに否定する父親が、出奔しようとする息子を心配して母親を介してお金を渡すシーンなど、日本映画のような細やかな描写で親の心のを描き切っている。

パリで金持ちの愛人(金持ちにとっては多数の女のうちの一人にすぎない)を捕まえ、虚構の栄華の中で暮らす女にまつわる描写もすごい。
ハリウッドスターのようないでたちの女のスタイル。
出入りするパーテイでは、包帯を巻いたストリッパーを男が巻き取る余興の描写。
愛人業界隈の女たちの嫉妬と足の引っ張り合いを聞かされる側の反応を、当人を写すのではなく、施術中のエステイシャンの反応を写すことで表現する。

人情をわかっているだけではなく、卓越した作劇術を操るチャップリンが凄い。

エドナとマンジュー

そして極め付きがパトロン役のアドルフ・マンジューの起用だろう。
好きなように女を扱い、特権階級を謳歌する1920年代の独身中年男の、悪気のない独善ぶり、自己中ぶり、無責任ぶりをこれ以上ない適役ぶりで演じきる。
その悪気のなさがすでに犯罪的なのだが、本人は無自覚なのか意識的なのか。
周りにするとナチュラルな育ちの良さに見えてしまう。

同じく鼻持ちならない精神の低俗性を体現したエリッヒ・フォン・シュトロハイムの演技に比して、低俗性が下品にならずかえって上品に映るのがマンジューの罪なところだ。
こののちハリウッドのよろめきものでマンジューの起用が続いたという。

20年代のマンジューの活躍を伝える「写真映画100年史第2巻」

上流社会の乱痴気ぶりや、独善紳士マンジューの洗練されたふるまいの描写に力が入りすぎたのか?
これまでチャップリン喜劇のヒロインだったエドナに主演としての力がなかったのか?
チャップリンが否定すべき虚構の乱痴気文化の描写が真に迫りすぎ、本来の、庶民のささやかな幸福追求という主題が途中まで霞んでしまったほどだ。

ラスト、田舎に戻り、亡き彼の母と4人の孤児と幸せそうに暮らす女の姿は、チャップリンのエドナ・バーヴァイアンスに対する祝福に見える。

「巴里の女性」のあとは、ほとんど映画女優としての足跡を残せなかった彼女に対し、チャップリンは生涯週給150ドルの給与を送り、また「巴里の女性」の権利も譲渡したという。

1952年「ライムライト」撮影中のチャップリンを訪ねて、淀川長治がハリウッドを訪問した際、リトルトーキョーでチャップリンの執事をしていた高野寅市に偶然会った淀長さんが、高野を介してエドナと会った。
「私はあの人(チャップリン)の映画以外は出ない、一生。あの人と出会ったことは私の一生の思い出として心に思っていたい。」(1999年 中央公論新社刊 淀川長治、山田宏一著「映画は語る」P261)と淀長さんに話したとのことである。



「独裁者」   1940年  チャールズ・チャップリン監督   ユナイト

有名なラストシーン。
ユダヤ人の床屋がひょんなことから国の独裁者 にすり替わって演説する。
最初はしゃべることないとおどおどしていたが、やがて己の信念を喋り始める。
独裁者に立ち向かえ、自分たちの自由と人権と民主主義を守るのだ。
自分の理想は誰もが幸せになれる社会だ。恋人のハンナよ顔を上げろ、と。

床屋が独裁者に入れ替わって演説に向かう。その表情に注目

全世界の民衆に向かって宣言したのは、チャップリンの信念。
これまでの監督・出演作品でも貫いてきた心情だ。
ただ、これまでの喜劇作品では、この心情を放浪者の主人公に自虐的に仮託してきたり、せいぜい権力者に対する風刺に止めたりしてきた。
正面から、ひょっとしたら一般民衆の嫌う言葉で己の心情を飾らず表明したのは、映画人チャップリンとして初めてだったのではないか。
製作当時.、チャップリンが一番心配したのもこの点だったといわれている。

ヒトラーをカリカチュアしたチャップリンのハナゲモラ語が炸裂する

第二次世界大戦がはじまったばかりの1940年の公開。
当時のドイツとヒトラーは飛ぶ鳥を落とす勢い。
第一次大戦の敗戦国とはいえ、ヨーロッパの大国ドイツの、選挙によって選出されたナチス党と党首ヒトラーを徹底的にオチョクリ、批判したのだから、チャップリンはもちろん周りもこの点をまず懸念した。
現在でいえば中国の習近平を大作映画で有名俳優が正面からカリカチュアライズし非難したようなものか。
こんな主題は、日本ではもちろん欧米でも企画にさえ上がらないだろう。

事実、企画段階の1939年当時、チャップリンは、ユナイトやイギリス当局からヒトラーを揶揄する映画製作について警告されたという。
ドイツのポーランド侵攻後はその心配はなくなったが、敵国とはいえ独裁者を描く喜劇に観客がどう反応するか心配したという。

風船の地球儀と踊る有名なシーン

いつもの喜劇よりじっくりした調子のこの作品で、チャップリンはヒトラーをモデルにした独裁者を徹底的にカリカチュアライズする。
ドイツ語を模した過激な言葉を吐きまくり、吐きまくりすぎて咳き込んだりする。
ジェスチャーも研究していて手の動きがそっくりだ。
過激なセリフでマイクに迫ると、マイクが独裁者を避けるように曲がるギャグもある。
ゲーリングを模した側近のケツに押されて階段を転げ落ち、ゲーリングの過剰な勲章をむしり取る。
タモリのハナゲモラ語や中川家礼二の中国人同士の喧嘩の物まねも真っ青だ。
これを当時イケイケのヨーロッパ大国の指導者に対して行ったのだから、その行動や命がけだ。
敵はヒトラーのみならず、背後から撃たれかねなかったろう。

独裁者の日ごろの多忙な日常を笑いのめす場面では、美人秘書に迫ったり、時間が1分でもあくと肖像画家と彫刻家の前でポーズを取ったりする。
ペンを取り出そうとしてペン立てからペンが抜けないギャグも。
これらのエピソード、ヒトラーというよりハリウッドのタイクーンたちの生態をヒントにしてはいないか?
特に秘書に迫る場面など。

作品中に現れるゲットーでのユダヤ人描写も直截的。
ユダヤ人商店にJEWとペンキで書いて歩く突撃隊員。
勇敢な娘ハンナ(ポーレット・ゴダード)は突撃隊に口答えし、フライパンで殴りつけたりするが、大人たちはひたすら耐え続ける。
ユダヤ人の床屋として突撃隊の迫害におびえるチャップリン。
これまで、貧困や飢餓など恐怖とスリルに対しても、ギャグでやり過ごしたり、権力者をおちょくったりしていたチャップリンが、政治体制の恐怖におびえる演技をしている。

ポーレット・ゴダート。デートを前に床屋に髪をセットしてもらう。うれしそうな床屋の表情

独裁者の圧政に対して庶民は何もできないのはチャップリンが一番良く知っている。
この作品でのチャップリンは、ピンチを自己流で超越するヒーロではなく、無力ぶりを晒して、数人の中に埋もれる凡人を演じて、現実の恐怖を表現している。

また、ヒトラーばかりではなく、その盟友ムソリーニへの風刺ぶりも強烈だ。
威張って歩くその姿や、独裁者同士のマウントの取り合いを持ち前のジャグで笑いのめす。
ムソリーニに扮したジャック・オーキーの演技も傑作で、持ち味のギャグを思いっきり表現している。

ムソリーニ?に扮するジャック・オーキー(左)の演技は傑作。対するヒトラー?の無表情

実在の独裁者たちへの風刺は、メジャーの映画作品としてギリギリの表現だったが、なんといってもラストの演説に込めた、チャップリン人生初の本音の呼びかけと、恋人ハンナへの庶民同士の幸福を祈る気持ちがこの作品の総てだ。

チャップリンはこの作品で”映画人として言うべきことを言った”あと、「殺人狂時代」を経てアメリカ当局からにらまれ、非米活動調査委員会(赤狩り)への召喚を前にヨーロッパへと脱出せざるを得なかった。
大戦当時、ソ連への支援を呼びかける集会で演説したことも原因だったが、ヒトラーへの批判がアメリカなどの現体制への批判に通じることを権力者が感じ取ったが故のチャップリン排除だったのではないか。

チャップリンの宣言は、それがヒトラーに対してのものならば、世の中から容認されたのかもしれないが、権力者一般に対してのものならそれを許せない勢力があったのだろう。
だからこその映画史に燦然と輝く有意義な一作となった。



「殺人狂時代」     1947年   チャールズ・チャップリン監督   ユナイト

「独裁者」の後にチャップリンが訴えたかったのは、大戦の後の無力感、大衆の痛みと疲弊、大衆の犠牲によって経済的な興隆を謳歌する存在への告発だった。

当初は『青髭』をモチーフとした殺人劇の主演にチャップリンをオファーした、オーソン・ウエルズの企画だったという。
出演を断ったチャップリンだったが、後に自分の企画として、200万ドルをかけ「殺人狂時代」の製作を決める。
映画の冒頭には、原案:オーソンウエルズとクレジットされている。

『いうまでもなく、ルイス・B・メイヤー、ダリル・F・ザナック、あるいは彼らの神経質な補佐役たちにアイデアを提出するよう依頼されていたとしたら、チャップリンの偉業はなかった』(「ハリウッド帝国の興亡」P393)。

タイクーンたちの帝国(ハリウッド映画工場)からは、当然ながらこの作品は生まれようがなかった。

舞台は世界恐慌前夜のフランス。
実直、凡庸な銀行出納係のヴェルドウ(チャップリン)が、30年間務めた銀行を不況で首になった後の、虚妄と狂乱の犯罪生活と破滅の物語。

ヴェルドウは、車いすの妻と彼を慕う息子がいながら、生活のために、一人暮らしのオールドミスばかりに取り入って小金をせしめて回る。
パリに置いたペーパーカンパニーを拠点とし、ある時は船長、ある時はインドシナ帰りのビジネスマンを装って、町々に住む一度はコマしたオールドミスたちの間を渡り歩いては、手練手管で株の投資資金を引き出してゆく。
金を引き出した後は、オールドミスたちを殺害し、自宅の焼却炉などで”処分”する。
庭の毛虫を踏まないように気を付け、野良猫に憐れみをかける小市民性がその本性なのだが。

凡庸な小市民のヴェルドウには、列車を乗り継いで町々を綱渡りで移動し、口八丁手八丁のコスプレと出まかせのマシンガントークの才能があるはずはないのだが、そこはチャップリンの演技を楽しむことにする。

対するオールドミス役の女優たち。
ガラッパチで水商売上がり風のガメツイ中年小金持ち女、を演じるマーシャ・レイという女優がすごい。
ワニ口で鳥ガラのような体つき、ガラガラ声という申し分のない下衆なスペックで、ヴェルドウの”偽善”に”オールドミスの世俗性”で対抗し、余りある。

チャップリン映画に恒例の”センチ”な要素としては、街角にたたずむ若い訳あり美人(マリリン・ナッシュ)のエピソードがある。
ヴェルドウは、毒薬を試す相手として彼女をひっかけるが、彼女の身の上話を聞いているうちに感心して、毒入りのワインをひっこめた上に、金を恵んでしまう。
彼女はのちに、成り上がって高級車に乗り、株の暴落で一文無しとなったヴェルデイを見掛け、拾ってごちそうし、名刺を渡すのだが、オールドミス連続殺人で逮捕寸前のヴェルドウはその名刺を破いて、彼女への類を避ける。

この若い女、映画ではベルギー難民で夫を戦病死で失った上に窃盗で刑務所から出てきたばかり、ということになっているが、どう見ても貧窮を背景とした”夜の女”であり、この時代に欧州やアジアではままあったこと。
チャップリンの脚本でもその設定だったが、当時の検閲がそれを許さず、”夜の女”を示唆する表現が避けられたという。
彼女が”成り上がった”あとのエピソードでも、彼女を軍需産業家の愛人と表現することに検閲が入ったという。
観客(筆者など)は成り上がった彼女を見てシンデレラストーリーを夢見てしまったが、オリジナルでは、”夜の女が、その若さと美貌を、気まぐれな財界のおっさんに、愛人の一人としてもてあそばれている”わけなのだ。
そこには”どこまで行っても、庶民は金持ちに踏みにじられる存在”というチャップリン映画の哲学があったのだ。

株も家族も(もちろんオールドミスたちも)失ったヴェルドウは、すべてを達観し、運命を受け入れる。
犯した罪を受け入れるのはもちろん。
銀行失職後の綱渡りの人生には結局何もなかったこと。
その経験から得られたことは、”庶民には届かない大きな世界の動きはすべてビジネス”だったという世のカラクリ。
戦争による被害もビジネスの結果であり、かつ損害(戦死者)の数は勲章の対象となる不条理。
反面、庶民のやむにやまれぬ殺人は犯罪とされ、処罰されること。

「モダンタイムス」で資本主義の非人間性を告発し、「独裁者」で全体主義を告発したチャップリンは、「殺人狂時代」で、資本主義と全体主義をつかさどる権力体制を告発するに至った。
チャップリンの映画人生での到達点であり、映画でここまで直接的に表現したメジャー作品を見たことがない。

「モダンタイムス」と「独裁者」は映画がヒットしたこともあり、アメリカ国内に潜む権力構造は静観していたが、「殺人狂時代」では、在郷軍人会などが上映妨害運動を起こし、国内での上映機会そのものが激減した。
戦時のチャップリンのソ連支援の活動などが、国内の反動勢力の気に食わなかったのだろう。
もっといえば、チャップリンの2度にわたる未成年女性に手を出した末の結婚と離婚、裁判での泥仕合が格好の非難材料を彼らに提供したこともある。

悪名高い(ヨーロッパでは悪い冗談と嘲笑された後、マジの事態だとわかってあきれ果てられた)、赤狩り(非米活動委員会)の召喚を受け、事態が最悪を迎えていることを知り、家族とともにアメリカを脱出することになる。

『チャップリンがいかに見栄っ張りで単純でおセンチで、その他さまざまな知的罪を担っていると批判されようと、それでも彼は、ハリウッドのどの映画作家にもまして、時代の核となる問題を把握し、自分の映画でそれに論評を加え、しかも正しい論評を行うということを、どうにかやってのけたのだ。』(「ハリウッド帝国の工房・夢工場の1940年代」1994年 文芸春秋社刊 P393)。

40年代のハリウッド映画を要覧し、各々の作品のみならず、スタッフ、俳優に正当な論評を加えた同書の著者:オットー・フリードリクの的確にして最上級の評価だろう。

チャップリン自身もまた「殺人狂時代」についてこう語る、『私がこれまで作ったなかで、最も才気あるすぐれた映画』(同書 P399)だと。