干し芋を作る

干し芋を作ってみました。
自宅にいる家内の発案というか、指示です。
なるほどと思い、初の試みとして、ネットで作り方を調べて作ってみました。

サツマイモは信州のこのあたりでもよく採れます。
直売所で折に触れ買い集めておきます。
山小舎おじさんの畑のサツマイモは2年連続の収穫ナシ。
ツルが伸びようとする段階で、苗が鹿の胃袋に収まってしまいました。

今回はお試しで大2本、小本ほどを加工しました

干し芋の作り方。
茹でた芋を切って干す、です。
山小屋おじさんでもすぐ頭に入る工程です。
「芋は蒸かさなければならない」、などというレシピはなかったので安心しました。

太い芋でも30分ほども茹でれば芯まで火が通ります。
こういったときに、本当にストーブは役に立ちます。
暖房と煮炊きを一緒にやってくれるのです。

ストーブは煮たり、茹でたりするのにとても便利です

茹で上がった芋の皮をむきます。
皮は表面の赤い薄皮と、その下の茶色の部分があります。
茶色の部分も取り去って、黄色の実をしっかりむき出しにしておくのがよいようです。
茶色の部分(内皮?)を残しておくと、干している間にその部分が変色し、改めて除去しなければならなくなるようです。

茹で上がった芋。皮がはじけています
熱さを我慢して皮をむきます。これは内皮が残っている悪い例です

茹で上がった芋をカットします。
干した後に縮むことを考えて、厚めに切りました。
実は包丁でよく切れます。

細い芋、小さな芋などはそのままで干すことにします。
丸干し芋です。
丸干しの芋は中心部がねっとりした食感になるようです。

茹で上がった芋を厚さ1センチ弱に切り分けます

湯気が立っているホカホカの切り芋をザルに乗せて干します。
3日ほどでできるとのネット情報です。
ちょうど山小舎に、虫よけの網付きザルがあったのでそれを使いました。
本当に全オーナーが集めた山小舎備品には助けられます。

日中は天日干しにします
網付きのザル!優れものです・・・
3日目の干し芋。色が濃くなっています。

切干大根作り

秋になると行う保存食づくりの作業です。

今回は大根2本を買いました。
山小舎おじさん自作の大根は今年は不作です。
残念。

直売所で太めの大根2本を購入

大根を短冊切りにします。
例年は、幅5ミリほどの輪切りにした後、短冊に切っていました。

今年、改めてネットで確認してみると、繊維に沿ったカットをしているサイトがありました。
見習うことにします。

長さ5センチほどの筒型に輪切りします。
繊維に沿って短冊切りします。
皮はつけたままです。

大根を長さ5センチほどの筒型に切り、繊維に沿って幅5ミリほどの板に切ります
繊維に沿って短冊に切ってゆきます

太い大根2本を短冊に切ると、水切りザルにたっぷり2杯できます。
乾燥用の竹ザル2つに広げます。
大根が重なっていますが気にしません。

大根1本でこれだけの短冊ができました
ザルに広げます。大根が重ならないのが理想ですが少々重なっても大丈夫です
天気が良い日は天日干しです。栄養がぐんぐん濃縮されてゆきます。

夜間と雨の時はストーブのそばに置きます。
晴天の時は天日干しです。

秋になり、山小舎の至近距離にも鹿が出没しています。
発見されたら食われますので、外に出すときはネットをかぶせておきます。
1週間ほどが完成のめどです。

3日ほどたった状態。2ザルだった分量が1ザル分になりました。

真田氏発祥の郷を歩く

上田地方は戦国時代にその名を謳われた真田氏の本拠地だ。

真田氏は、初代が現在の上田市真田町に居城を築き、二代目で上田城に本拠を移した。

初代で歴史に登場したとはいえ、地方のいち土豪として、武田、北条、織田、徳川と有力勢力とつながることで命脈を保ってきた真田氏だったが、上州の領土をめぐって徳川の不評を買い、大軍で上田城を攻められること2回。
そのたびに、謀略、戦略、実力を持って徳川軍を上田城から撃退し、有名を馳せた。

次に、関ケ原の合戦で豊臣方に付いたが、敗戦側の将として幸村らが島流しにあい、上田城も取り潰された。

豊臣と徳川の最終決戦となった、大阪の陣で、幸村は再び豊臣方に付き大阪城の出城・真田丸に布陣。
最終的に出城を撃って出て家康の本陣に突入せんとすること3度。
寸前にて本陣突入を果たせず、幸村は討ち死にした。

徳川方の島津氏が、本国への書簡に「真田、日本一の兵」と記したように、真田の有名は、その後軍記物などで語り継がれることとなった。

真田氏は現在でも上田地方の誇りだ。
初代の居城があったこのあたり、真田を地名を残して現在に至る。
今回は真田の郷と呼ばれるあたりを歩いてきた。

国道144号線沿いに広がる真田の郷。下方上田市街地、上方菅平高原

真田氏本城跡

上田市の北部。
真田町の東方向。
里山のふもとのリンゴ畑のわきの道をたどってゆき、集落を抜け頂へ上る。

本庄麓のリンゴ畑は収穫間近
頂から国道144号線方面を見る

真田の郷から上田方面が一望できる。
あいにくの雨模様だったが、霧が立ち込める山際が戦国時代を髣髴とさせるよう。
あたりに漂う雰囲気もなんとなく襟を正しめるようだった。

雨天のせいか山霧がものものしい
ここから山頂にかけて築城されていたとのこと
頂から上田市街方面を見る

真田氏館跡と歴史館

本城跡を下り、国道144号線へとつながるリンゴ畑に囲まれた集落。
その一角に、真田氏の館跡がある。
館とは土豪らの屋敷のことで、周りに土塁を築き、厩などを持った砦のようなものだったのだろう。

現在は石垣の一部や門の後、土塁後などが残っている。
敷地の中央部には神社が建っている。
館からお城へと居住を替えるにあたり、館跡が荒廃しないようにと建立したとのこと。

館跡に建つ神社

歴史館に入ってみる。
真田氏3代を中心にその歴史が周辺の勢力の遍歴とともにディスプレイされている。

当時の書簡、文書の実物が展示されているのはうれしいが、例えば真田氏の鎧はNHKドラマで使用したものの展示だった。
敗軍の将としてそれらの実物は破棄され、あるいは散逸したのだろうか?
それとも上田城内にある博物館には本物があるのか?
今度、確かめてみよう。

歴史館ロビーには芸能人の色紙が並ぶ

山家神社

真田氏が武運を祈願したというゆかりの神社が郷にある。

山家神社一の鳥居

地方に埋もれた神社の中に、とてつもない尊厳を感じることがある。

山家神社も、普段の人気は感じられないが、隅々まで人出がかけられた感じがする。

本殿を望む
本殿。きれいに整えられている印象

人家が栄えて、神社は埃だらけということもあるだろう。

人家は寂れているが、神社は大事にされていることもあろう。

パワーを感じる山家神社だった。

境内には招魂碑と社も建つ
最近ではこいういったブームもあるようだ

本城、館、山家神社とも、現在でも集落に囲まれて残っている。
真田氏と領民との関係をうかがわせるようだった。

郷から群馬方面へと続く角間渓谷の入口

今日のお土産

途中の直売所で買ったかりん。はちみつ漬けにします
畑で全滅したデストロイヤーが売っていました
家族に好評な真田産の新米を購入

物置を整理

山小舎の建物の外側の一角を利用した物置スペースがある。

バーベキュー台やダッチオーブン、囲炉裏に使う灰。
ロープ、縄、機械の燃料やオイル。
畑道具、資材、肥料などの置き場として使っている。

物置にはラックを置き、道具を保管している
車輪付きのバーベキュー台。先代の遺産の一つだ
苗ポットは使えないものは捨て、使えるものは残す
苗ポットや収穫物などを運ぶときに使うケースも溜まった

1年間の戸外活動を終える時期を迎えつつある10月下旬。

この物置を整理した。

まず、物を出して、中に舞い込んだ落ち葉などを取り除く。
次いで不要なものを捨て、使えるものを残す。
膨大な苗ポットや、農業資材の切れ端などをごみ袋へ。

山小舎の先代オーナーのコレクション?だった新品の水道蛇口などの資材・部品も廃棄。
ひびが入り崩れそうな七輪も。

一方、捨てられない機材も多い。
麻袋に収められたのこぎりたち。
使ったのは、伐採の時にチェーンソーが立木に挟まった時くらいだが、貴重な道具の数々だ。
これからも山小舎とともに歴史を刻んでもらおう。

立派なのこぎりの数々。永久保存の予定だ

物置の床は一部がコンクリートで、一部は地面。
地面の上にもバーベキュー台や鍬などを置いている。
石を集めてきて地面に敷いて、道具の錆びを防ぎ、水はけをよくする。

地面には砕石を敷いた。古民家由来の石臼が見える

夏の間は戸外に出しっぱなしだったポリタンクを中に収める。
冬の間落ち葉が少しでも舞い込まないように軒下を板でふさぐ。

軒下には板を配置して落ち葉を防ぐ

まだまだ物であふれている物置だが、今年の道具の使い納めとして整理整頓してみた、秋晴れの一日だった。

一応の整理は終了
温室代わりに使っていた外付けのラックも空にして、春までは薪用に使う

自宅→山小舎 中央線各駅停車の旅

10月中頃、子供たちと飲みたくて自宅に戻った。
5日ほどいて山小舎に戻ってきた。
帰りの足は中央線の普通列車を使ってみた。

高尾初の普通列車大月行きに乗る

中央線下りの普通列車は高尾発がほとんど。
自宅で自分の分の洗濯、掃除、布団干しを終え、京王線で高尾を目指す、行き当たりばったりの旅。
高尾に着くと、甲府行きが出たばかりで、次の大月行きまでは30分ほど時間があった。

JR高尾駅正面
JR高尾駅の駅前風景

窓口に聞くと茅野まで切符を買うと途中下車ができないとのこと。
大月までの切符を買ってあとは成り行き任せとする。
駅の売店でおにぎりを買い、列車待ちの間に腹ごしらえ。

駅構内の売店兼食堂
本日の昼食
高尾から大月行きに乗車

列車が高尾を出る。
いきなり車窓に緑一杯の山間が迫る。
平野部から山間部にいきなりチェンジする車窓風景。
どこかで見たような。
東北の奥羽山脈に分け入る北上線や仙山線と同じだ。
中央線も、日本特有の山岳路線の一つだった。
やがて小仏峠をトンネルで抜けて、列車は早や次の駅・相模湖駅へ。

大月の町歩き

相模湖と次の大峠・笹子峠との間の中心都市が大月。
甲州街道の宿場でもあった。
この列車の終点。
次の列車は、と見ると1時間後の松本行き。
ちょうどよい、大月の町歩きだ。

大月駅の駅前風景
大月は富士急線の連絡駅でもある

まずは駅前から、甲州街道こと国道20号線沿いの商店街を歩く。
山梨・長野方面の下道を行くときにはよく通る道だ。

国道20号線沿いの商店街

国道から1本はずれた住宅地を歩いてみる。
大月は谷あいの町。谷に向かって坂になっている。
坂の横丁もなんとなく風情がある。

国道から1本入った住宅街。街角に塚があった
昔ながらのラーメン店があった
坂のある横丁
大月は学生の町でもあるようだ

乗車前、駅前のこぎれいな菓子屋による。
信玄餅の本舗が出している店だろうか。
試しに買ってみたシャインマスカット大福。
思ったよりずっとおいしかった。

駅前のお菓子屋さん
シャインマスカット大福はうまかった
駅近くに飲み屋街があった
大月から松本行きに乗車。背景に岩殿山が見える

大月からは乗り換えなしで茅野まで

大月からは松本行きに乗る。
笹子峠をトンネルで抜けると甲府盆地。
眼下に広がる葡萄畑。
町々が続いている。
目をやると富士山の頂が盆地の西側の山並みの上に顔を出している。

笹子峠下の笹子駅から峠方面を望む
笹子トンネルを抜けたところにある甲斐大和駅
車窓から富士山頂が見える甲府盆地
甲府に到着。沿線第一の都会だ

甲府を過ぎると、再び線路は登ってゆき、八ヶ岳山麓の高原に入ってゆく。

小淵沢付近から雪を頂いた八ヶ岳が見えた

リゾート地、小淵沢を過ぎると、信濃境という駅で長野県に入る。
富士見、青柳といった駅に止まってゆく。

茅野着は16時過ぎ。
ホームには大勢の高校生が乗車を待っていた。
入れ替わるように下車する。

茅野駅に到着

自宅から山小舎に向かう交通手段は、自家用車、軽トラ、高速バス、特急あずさを利用してきたが、各駅停車の旅もよかった。
時間は調布から4時間ほど。
乗り継ぎ時間を含めると5時間か。
高速バスの倍だ。

列車のいいところは、座席からの目線が低いところ。
高速道路からは山の上半分しか見えないが、列車の車窓からは沿線風景が人本来の目の高さで見える。
町の雰囲気を感じることができる。
地域性の変化を感じることができる。

具体的に言うと。
高尾から相模湖に入ると、そこは東京にはありえない湖が広がる別世界が展開し。
甲府盆地では、武田信玄を神格化する濃厚な歴史の空気が、お出迎え。
そして八ヶ岳山ろくでは、冷涼な高原の開拓地に吹き渡る開放的だが寂しげな風に吹かれ、すっかり遠方に来たなあと思う、のだ。

駅駅で地元の人が乗り降りしてゆく風景に接することができるのもいい。
今どき、通学時間の中高生くらいしか乗り降りしないが、それでも沿線で風景のみならず、人間に接することができるのは、いい。

車両の造りは通勤車両と同じ、ベンチシート方式。
ボックスシートに埋没して味わう旅の風情には乏しいが、今どきしょうがない。それでも空いていることが多い普通列車は、バスより居住性はいい。

今度は路線バスで帰ってみようか。
でも、「ローカル路線バスの旅」では、笹子峠越えのバスがなくてタクシーを使っていたなア。
路線バスと列車の組み合わせでもいいか。
でも暖かい時期じゃないとだめだな。

「鉄茶」を仕込む

農家と畑愛好者のバイブル「現代農業」に、最近注目の記事が載った。

鉄と茶葉を水に入れて作った「鉄茶」を畑に散布すると、作物の生育がよくなり、果実の味がよくなるという。

この「鉄茶」は専門的には「タンニン鉄」と呼ばれるとのこと。
タンニン鉄とは鉄分とタンニンが結びついたもの。
そのままでは吸収されない鉄分が、タンニンと結びついてキレート化することによって植物に吸収されやすくなるという。

鉄分は、植物の葉緑素の合成に必要なミネラルとのこと。
また、鉄分が細胞内のミトコンドリアを活性化させ、エネルギー代謝が高まるため、植物が余った養分を果実の充実に回せる、とのこと。

早速、「鉄茶」を自作してみた。

20リットルのポリタンクを用意。
「現代農業」では鉄素材として、100均ショップで300円で売っている鋳物にフライパンを推薦していたので、買ってみたが、ポリタンクには入らない。
そこで山小舎を物色すると、あったあった、ドリルの先の錆びたやつなどなど。

茶葉は冷蔵庫にあった、水出し煎茶を数パック使った。

早速、ポリタンクに水を満たし、錆びドリルを入れ、煎茶パックを放り込んだ。

現代の畑の世界は、脈々と営まれてきた伝統的な畑づくりが、ひとつ前の世代で途切れるという稀有なタイミングを迎えています。

放棄された畑の土壌が、科学的・物理的に劣化していたり、排水・用水の構造が壊れていたりします。
野生動物との共存のバランスが崩れてしまっていることもあるでしょう。
農に関する職人的な知識・技能が途切れてしまっていることもあるでしょう。
放射性物質、化学物質などの汚染もあるでしょう。

その中で、素人でもできる、ささやかな一つの「対抗策」として「鉄茶」を使ってみようと思います。
最初は11月に定植する玉ねぎに使ってみます。

10月 畑の草刈り

令和2年も10月中盤になりました。

畑に残っている作物は、春からの里芋、ヤーコン、長ネギ、ホオズキ、えごま、唐辛子、ツルムラサキ。

ナス、トマト、ピーマン、シシトウが頑張って実をつけ続けてくれています。
だいぶんペースは落ちましたが。

それと夏に蒔いた、大根、レタス、白菜、キャベツが少しですが成長しています。
これが全部です。

ニンジンは発芽がわずかだったうえ、発芽しても鹿に食べられました。
サツマイモも全滅。
鹿よけテープの効果はありませんでした。
どさくさに紛れて、あしたば、ルバーブ、モロヘイヤも食べられました。

それはそうと、11月の畑じまいを前にして雑草が気になりました。
夏とは違う種類の雑草がしっかり畑を支配しています。
10月中に一度、もみ殻を入れて、えひめA1も投入して耕耘したいと思ったので、その前に草刈りすることにしました。

草刈りする前の畑

草刈り機で刈ってゆきます。
暑いときに生える、強力なイネ科の雑草はすでに刈ってあったので、生えているのは柔らかい雑草ばかりです。
草刈りははかどりました。

トンネルの間の部分から草苅開始!
草刈りをざっと敢行!

鹿よけのピンクテープで囲った、サツマイモが植わっていた畝も、囲いを撤去してきれいさっぱりと刈り払いました。

草刈り後の畑。写真のピンクテープもこの後撤去
草が替えた後、もみ殻を撒いて耕運機をかける予定

やはり畑は手を入れるときれいになります。
作物の管理にもやる気が出ます。

粘土質の土壌を少しでも野菜向けに改良しようと、10月中に一度耕耘したいと思います。
11月に入って最終収穫ののち、畑じまいにする予定です。

あっ、11月には玉ねぎの定植がありました。
玉ねぎ用の畝も用意しなければなりません。

秋の恵みを保存した

信州の秋は、これでもか!とばかりに秋の恵みが出回ります。
夏野菜の出盛りが終わったころから、プルーン、ナシ、ブドウ、リンゴ、栗、柿・・・と数々の果物。
10月にはいってもなお、桃、トマト、トウモロコシを見かけます。

冬から初夏にかけての半年以上、せいぜいリンゴくらいしか果物が出回らない地方の貴重なひと時です。

珍しいところでは、食用ほおずき、ガーデンハックルベリー、ナツメ、アケビ、ヤマブドウ、なども信州の恵みの果物です。

山小舎の貯蔵室には瓶詰の数々が・・・

今年も山小舎おじさんは、秋の恵みを入手して加工しています。
今回入手したのは、紅玉、洋ナシ,巨峰、加工用トマト。
直売所や八百屋で見かけたらこまめに購入するようにしています。

ちなみに今回の個別の購入費。
紅玉、洋ナシは各280円、巨峰は300円、トマトは2袋で120円です。
加工用にはこれで充分です。

紅玉と巨峰を仕入れる
洋ナシと訳あり加工用トマト。これで充分!

紅玉はジャムにしました。
生を味見すると酸味と香りが強烈です。
あまり時間をかけずに、風味を残して仕上げたいものです。
皮付きのままで煮ると鮮やかな紅色のジャムになります。
紅玉が出回っているうちに、チャツネにも加工する予定です。

紅玉を切って芯を撮り水で洗う
ザラメと白砂糖をブレンドして味付け
ストーブの火力で煮込む
瓶詰めして出来上がり。蓋はあけるのが困難なほど密閉される

洋ナシはコンポートにしました。
生でも食べころで、香りもよかったので、大きめにカットして、果実の缶詰を目指して作りました。
シロップを煮たてた中に、4分の1カットのナシを入れて煮ます。
シロップは、水と砂糖と白ワインとレモン汁で作りました。

洋ナシを4分の1にカット。皮も剥く
シロップ液に実を入れて加熱
大きめの瓶1本ができました。左はかぼちゃの種

種なし巨峰は皮ごとジャムに煮ました。
皮を入れると、色と香りがいいのですが、皮が完全に煮崩れないのが難点でした。
今回は皮ごとミキサーにかけてから煮てみました。
皮の感触が残ることはありませんでした。

今後は種ありブドウの加工が課題です。
どうやって種を除くか?
今までは、事前に種を取ってみたり、煮ながら種だけを拾ってみたりしましたが、手間がかかりすぎです。
ミキサーを使ったり、粗目のザルでこしてみたり・・・いろいろ工夫してみます。

ブドウジャムは家族にも好評です。

巨峰は1パックで小瓶が二つ

追加

少し前にはドライプルーンも作ってみました。
乾燥には天日のほか、ストーブの熱も利用しました。

プルーンを天日で干す。天気が悪いときはストーブの力を借りて乾燥させる
種を抜いて完成。保存は冷蔵庫で

ご近所立寄り湯めぐりVOL.10 下諏訪温泉の矢木温泉に入る

下諏訪町に噴出する下諏訪温泉。集めの源泉は、町内の何か所かの公衆浴場に引かれています。

公衆浴場には、新湯、菅野温泉、矢木温泉などが、町中に点在しています。
また、中山道・下諏訪宿付近には、より観光性の強い、旦過の湯があります。

今回は国道20号線に沿いに看板が出ており、その存在が普段から目についていた、矢木温泉を訪れてみました。

国道20号線の下諏訪町沿道を走っていると見える看板

駐車場は10台ほども止められます。
玄関の造りは、ほどほどに整えられており、地元限定に鄙びすぎてもいなく、観光性を追求した派手さもありません。

収容台数の多い駐車場を完備
つつましやかな入口から入場する

番台には地元の住民と思しき高齢者のおじさんが座っており、また県内のこういった公衆浴場と同様に、検温や氏名住所の提出、マスク着用・・・の手続きは一切ありません。

入浴料240円を払って入浴。
混んでもいない客層は、地元の高齢者が中心でした。
下諏訪温泉の湯の印象は高温、ですが、旦過の湯はもちろん、菅野温泉ほどに熱くはなく、適温でした。

松本、塩尻方面からの帰途、国道20号線を利用するときの立寄り湯として貴重な存在です。
ただし、気温が低くなるこれからの季節、ここから約1時間かかる山小屋までの間、軽トラの座席での湯冷めを心配する必要はありそうです。

塩尻の東座で「ひまわり」を観た

塩尻に東座という昔ながらの映画館があります。
シネコンではなく、フィルム上映も可能な、座席数168の映画館です。
1号館、2号館があり、それぞれ一般映画とピンク映画を上映してます。

「大蔵映画」の看板を掲げる映画館は他に現存しているだろうか

たまたま塩尻を訪れたときにこの映画館を見つけ、是非一度映画を見に来たいと思っていました。
調べてみると「ひまわり」(1970年、イタリア・ソ連合作)がリバイバル上映中とわかり、改めて駆けつけました。

一般映画の上映作品はいわゆるミニシアター系が多そう

「ひまわり」は、日本公開当時の1970年時点で10代以上の映画ファンなら、誰でも知っているであろう名作です。

ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニという、イタリアでは人間国宝級の二人の共演。
監督はヴィットリオ・デ・シーカ。
戦後直後に、イタリア社会の現実をドキュメンタルに描写した「ネオレアリスモ」と呼ばれた一連の作品群の代表作である、「靴みがき」(1946年)、「自転車泥棒」(1948年)を監督した人です。

デジタル上映でよみがえった名作を見て感じたことを表してみたいと思います。

館内は傾斜があり、とても見やすい。この回の入場者は6人ほど

その1、イタリア軍のロシア戦線の従軍

「ひまわり」は愛し合った男女の戦争による離別を骨格とした物語です。
イタリアの男は戦争当時、徴兵されることが当然でした。

主人公もそれは覚悟で、徴兵の猶予期間(12日の新婚期間、入営が猶予される)狙いで結婚し、あまつさえ狂言で精神病院へ入院までするのだが、狂言がばれて送られた先がロシア戦線だった。

第二次世界大戦で、イタリア軍も北アフリカでドイツ軍の補助に参加したのは知っていたが、ロシア戦線に従軍したのは知らなかった。

調べてみると計23万人ものイタリア軍がドイツ軍に呼応してロシア戦線に従軍したとのこと。

当初はルーマニア、ハンガリーもドイツ軍として従軍したロシア戦線。
スターリンの圧政に苦しむ当時のウクライナでは、ドイツ軍が「解放軍」として迎えられたとのエピソードが示す通り、複雑かつ混とんとした情勢の中、ソ連軍の反抗と冬将軍の到来に撤退を余儀なくされた時、イタリア軍は15万人になっていたという。

「11人以下の人数の戦い(サッカーのこと)だと強い」「マンマが見ているときだけ強い」などと揶揄されるイタリア男性。

イタリア軍についても、「エチオピアを植民地とすべく攻め込んだイタリア軍が、騎馬と槍で武装したエチオピア軍に何度も跳ね返された挙句、毒ガスを使ってやっと勝った」とか、「北アフリカ戦線で、水不足とSOSを発したイタリア軍部隊に、救援のドイツ軍部隊が駆けつけてみると、盛大にスパゲテイを茹でていた」など、うそか誠か、でも「いかにも」と思わせるエピソードに事欠かない。

ところが、第二次大戦のロシア戦線でのイタリア軍は奮戦したらしい。
ドン川周辺の占領地域の防御戦で再三ソ連軍の反抗を跳ね返し、ソ連軍に「白い悪魔」と呼ばれたスキー部隊もいた、とのこと。

本作での、ロシア戦線での戦闘描写、厳寒の雪原を敗走する場面、戦後になって妻がソ連に夫を探しに行ったときに目の当たりにする、丘一面の無数の白樺の墓標、は決して大袈裟な描写ではなかったのだ。

映画「ひまわり」の歴史的背景描写と史実は決して乖離してはいなかった。

上映予定表。予約割引、メンズデイなどの有益情報も記載されている

その2、イタリア映画の豊かな伝統

「ひまわり」は、イタリアの大プロデユーサー、カルロ・ポンテイの製作作品で、ソビエトロケやトップ女優・リュドミラ・サベリーエワの出演など、ソ連との合作によって実現した大作という側面が強い。
一方で、イタリア映画の細かな伝統を随所に感じさせる作品でもある。

【イタリア映画の伝統その1】

主人公二人が新婚時代を過ごす町の広場で三々五々過ごす人々の自然な描写。
駅で出征兵士を送る母親年代の女性達の味のある顔また顔。

イタリア映画のエキストラの存在感。
セリフもないエキストラ達は、アップになっても得も言われぬ存在感を醸し出す。

演技がうまいのか、もともと人々の個性が強いのか。
多分両方なのだろう。

画面を引いて、駅の建物一杯に人々が行きかう群衆シーンになっても画面のリアリテイは失われない。

【イタリア映画の伝統その2】

カメラを固定させ、アップもパンも多用しなかったネオレアリスモの時代の後、イタリア映画に於ける撮影はその技量を高めていったように思う。
質感あふれる引きの構図があるかと思えば、独創的な移動ロングショットがあったりする。

マストロヤンニとサベリーエワの夫婦が都市のアパートへ引っ越すときのトラックを、前面から回り込み助手席のサベリーエワ親子をアップでとらえるまでのワンショットの移動撮影。
カメラマンのよほどのやる気と技術と準備がなければできない撮影だ。

イタリア映画でのエキストラの活かし方と、熟練の撮影は、ベルナルド・ベルトルッチ監督にも引き継がれている。
同監督の「暗殺の森」(1970年)、「1900年」(1976年)では、迫真に迫るエキストラシーンと、見事な撮影を観ることができる。

ロビーに置いてあるマップ。塩尻の食堂、カフェなどの情報満載

その3、主題は戦争の悲劇にとどまらず

さて、本作の主題。
ここにもイタリア映画の伝統が強烈に顔を出す。

「ひまわり」という映画のこれまでの印象はというと、山小舎おじさんは「戦争が引き裂いた夫婦の別れ。二人とも運命を受容。悪いのは戦争だ」、というもの。
だからこそのキレイな悲劇の物語。

実はそれにとどまらないのがイタリア映画のしつこいところ。
戦争などで引き裂かれても、イタリア女性はそんなことではあきらめない。
死力を尽くして愛する夫を探し当てる。

女性は、戦争などでは夫への愛を「あきらめ」ないが、反面、夫が別な女性と愛し合っている事実を確認すると、「あきらめ」る。
後に、ソ連からやってきた元夫とイタリアで再会した時も、戦争のせいにする夫を許しはしない。

肉食的というか、頭ではなく体で生きるというか。
イタリア女性の面目躍如。
きれいごとで済まさないところがスゴイ。
それを扱うイタリア映画もスゴイ。

とはいえ、別れた時間は容赦がない。
それぞれに家庭と子供があり、元に戻ることは現実的にはできない、という「落としどころ」に落ち着く。

「ひまわり」撮影時、ソフィア・ローレン34歳、マストロヤンニ46歳。
名コンビとはいえ、新婚時代からを演じるにはギリギリの実年齢。
無理がある?とも思ったが、合作の大作としては必要なキャステイングだったのだろう。

結果としてはリバイバル上映にも十分耐えうる二人の存在感には何も言えない。ソフィアは、若い時と、夫を探すとき、夫を見切ってから、と3つの時代を演じる。
それぞれが素晴らしいが、特に夫をソ連に探しに行ってから見切るまでの時代の演技が素晴らしい。

ソ連で「戦争と平和」のヒロインを演じたこともある、モスフィルムの名花にして、当時のソ連を代表する美人女優のリュドミラ・サベリーエワ。
本役にはもったいないくらいの美貌だが、彼女とてただの悲劇のヒロインではない。

随所に現れる、サベリーエワの人間臭いセリフと動作。
さすがイタリア映画の演出である。
ただの悲劇のヒロインなど一人も出てこない。

随所に現れるマストロヤンニの母親。
息子の行方不明を嘆き、初めて嫁であるソフィアのところへやってきたとき、コーヒーを勧める嫁に、それを断るところ・・・。

人間の描写にいちいち真実をつかないと気が済まない?のがイタリア映画。
これが「人間復興」というものなのか?ルネッサンスの伝統なのか?

一筋縄では行かない大作の「ひまわり」でした。