令和6年畑 6月下旬の夏野菜

来週から7月という晴れた日、1週間ぶりの畑です。
梅雨に入っているので、作物の水不足は心配はありません。

雑草の繁茂ぶりに驚きました。
早々に2番草を刈らなければなりません。

キューリが育っています。
ツルをネットに誘導します。

キューリ

ズッキーニが収穫寸前です。

ズッキーニ

トマトが青い実をつけ始めています。
脇芽を掻き、伸びた枝を支柱に結わえます。

ミニトマト

トウモロコシ、枝豆も順調です。
トウモロコシはそろそろ糠を追肥します。
また、新たに芽出ししておいた苗を定植しました。
枝豆は、マルチの穴の空いた場所に直播しました。

トウモロコシ
枝豆

今年は雨のおかげか、セロリとハックルベリーが今のところ育っています。
ハックルベリーは収穫まで大丈夫でしょう。
セロリは引き続き水やりに注意します。

セロリ
ガーデンハックルベリー

別の畑へ行きます。
サツマイモは無事活着です。
このまま放っておけばツルがぐんぐん伸びるでしょう。

サツマイモ

ヤーコンも逞しく育っています。
丈が伸びたころネットを外しますが、シカの食害が心配です。

ヤーコン

今年はネギがうまく育っています。
後1,2回土寄せして白い部分を育てれば、今年は長ネギを自給できるかもしれません。
今のところ、ネギの食害はありません。

長ネギ

黒曜石体験ミュージアムと星くそ峠

長和町の鷹山にある黒曜石体験ミュージアムを見学し、黒曜石の産地の星くそ峠に登ってきました。

体験ミュージアム入り口

黒曜石は縄文時代に矢じりやナイフの刃として全国的に使われた石材です。
溶岩が固まってできたもので、産地は国内でも限られています。
山小舎がある長和町の鷹山にはその産地があります。

体験ミュージアムから見える蓼科山

星くそ峠と呼ばれる産地に登ってみました。
受付が麓の黒曜石体験ミュージアムとのことで、訪れてみます。
受付のおばさんから、写真で登攀ルートの解説を受け、クマよけの鈴を借ります。
必要の人にはストックの貸出もあります。

受付でクマよけの鈴を借りる

ミュージアムの裏庭から登山口に入ります。
すぐ階段状のルートになります。よく整備された登りやすい道です。
人の気配が支配的で怖くもありません。

星くそ峠に出発
登山道
階段が続く

林道へ出ると、東屋が見えます。
峠に建つ星くそ館はもうすぐです。

林道わきの東屋

登山道の沿道には、縄文人が黒曜石を掘った後が各所に保存されています。

星くそ館に入ってみます。
黒曜石が掘られた断面が保存されています。
先客の中年夫婦が訪れていました。

なぜ、星くそなのか?
縄文人は黒曜石を星のくそ(流れ星)だと思ったのかもしれません。

星くそ館付近の黒曜石採掘跡
星くそ館
星くそ館内部

登山口を下ってミュージアムにクマよけの鈴を返します。
ついでにミュージアムを見学します。

体験ミュージアムの展示内容
体験ミュージアムにて

黒曜石が火山帯で出土され、世界でも貴重なものだということがわかります。

赤いランプが黒曜石の産地

展示コーナーのほかに、家族向けのワークショップ教室があります。
そこではネックレスや勾玉などの縄文グッズが手造りできるようです。
孫との夏休みの活動の一環としていいのではないでしょうか。

令和6年畑 玉ねぎ収穫

玉ねぎを収穫しました。

葉が倒れた玉ねぎを引き抜く

レタスとサンチュも。

玉ねぎは根と葉を切って、翌日1日を日光消毒し、翌々日からは日陰で乾燥させています。
実がよく締まっているので保存性は良さそうです。

根と葉を切って保存

レタスとサンチュは、山小舎おばさんの来訪時に試食しました。
葉が薄く繊細で、味に苦みがなく仕上がりました。

サンチュとレタスを収穫

心配だったサツマイモの苗も活着しています。

活着したサツマイモ

東京都知事選挙

小池都知事の任期満了に伴う都知事選挙がスタートしています。

6月下旬に山小屋へやってきた家族とともに一時帰宅した山小屋おじさんは、東京でたくさんの都知事選ポスター掲示板を見ました。

史上最大の50人を超える候補者が乱立したという令和6年の都知事選。
投票日は7月7日です。

マスコミでは現職の小池百合子のほか、対立候補の蓮舫などを盛んに取り上げています。
また、ポスター掲示板が、無秩序に混とんとしていることもニュースネタになっていました。

ほとんどが正規に使用されていたポスター掲示板

都内、といっても調布の自宅から自転車で行ける範囲ですが、の掲示板を覗いてみました。
ほとんどが正しく、候補者のポスターを貼っていました。

2件ほど「これかあ」と思える掲示板がありました。
一つは同じ候補者、というか政党党首、のポスターが何枚も貼られているもの、もう一つは正規の候補者ポスターの下、掲示板の枠外、に何者かのポスターがぶら下がっているもの。

中にはこういった掲示板も。数多く顔出しした方が勝ちということか
「小林弘」には笑った。なんでもありか

かつては選挙というもの、国民の権利にして義務のような位置づけで、犯しがたい権威に満ちたものだと思っておりましたが、いよいよ令和ともなった日本国の首都では、ポスター掲示板の無秩序に象徴されるごとく、かつての常識の遥か斜め上を行く事態に見舞われているようでした。

この破廉恥さが、既成の権力構造だったり、欺瞞に満ちた利権構造へのアンチテーゼから発せられたものであったら、方法的には疑問があるものの一定の意味があるのでしょう。

また、今の若者が普通に選挙制度に無関心であることと、今回の掲示板の現象が、選挙制度の欺瞞を隠し切れなくなったという意味で共通しているとしたら、問題をはらんでいるのはアンチテーゼをする側ではなく、体制側(および体制に追従することによって利益にあずかっている側)にあるのかもしれません。

いろんな意味で転換期にあるのでしょう、社会が。

調布市役所で期日前投票を行って東京を後にした山小舎おじさんでした。

掲示板の裏側

DVD名画劇場 歴史スペクタクル一代 セシル・B・デミル

セシル・B・デミルはサイレント時代からハリウッドに君臨する大監督であった。
20年代には当時の風俗をキャッチアップしたセンセーショナルな現代劇で名を上げ、パラマウントスタジオの大御所となってからは、歴史ものをスペクタクル大作に撮り上げてヒット作を連発した。

代表作にサイレント時代の「スコオマン」(1914年)、「チート」(1915年)、「男性と女性」(1919年)、「十誡」(1923年)。
トーキーになってから「クレオパトラ」(1934年)、「平原児」(1937年)、「サムソンとでリラ」(1949年)、「史上最大のショウ」(1952年)、「十戒」(1956年)などがある。

「クレオパトラ」(1934年)のセットで指揮を執るデミル

手許の「世界の映画作家40大ヒット映画の巨匠たち」(1980年 キネマ旬報社刊)でデミルが取り上げられている。監督別の研究書などでまず取り上げられることのないデミルだけに、貴重な文献である。

この本のデミルに関する章で、映画評論家の筈見有弘、彼の来歴とともに、監督作品の系統別分析などを行っている。

キネマ旬報社「世界の映画作家40大ヒット映画の巨匠たち」目次

先ずデミルの来歴だが、17世紀のオランダ系移民を祖先とし、移住後は製粉業で栄えた。
祖父は南北戦争に南軍の少佐として従軍し、父は演劇を志向して女優と結婚した。
その影響もあってセシルと兄は演劇界に身を投じ、セシルは若手女優(ドイツ系ユダヤ人)と結婚、劇作を行いつつ役者として舞台にも立った。
1910年代、映画製作者のジェシー・ラスキーとサミュエル・ゴールドマンが、インデイアン娘と白人の恋をテーマとする舞台劇の「スコウマン」を、制作会社の第1回作品として映画化するにあたって、ブロードウエイから監督をスカウトしようと考え、デミルに白羽の矢が立った。
ロサンゼルスの地で「スコウマン」を完成させ、ヒットさせたデミルはそのまま映画界に生涯身を投じることとなった。
デミルが撮影場所として使用した馬小屋は、そのままのちのパラマウントのスタジオとなった。

以降、1950年代まで70本ほどのデミル作品を系統別に分けると、1)第一次大戦後から20年代にかけて『ローリングトゥエンティーズ』と呼ばれた時代を背景にした風俗劇。2)スペクタクル歴史劇。3)開拓時代を背景にした西部劇、の3系統にわかれるという。

本ブログでは、デミルをデミルたらしめたスペクタクル歴史劇から「十誡」「クレオパトラ」「十字軍」を選んで見た。
おまけにデミル処女作の三度目のセルフリメイク作1931年版「スコオマン」をみてみる。

デミルといえば思い出されるのは「サンセット大通り」(1950年 ビリー・ワイルダー監督)に本人役で出演した場面である。
かつての大女優ノーマ・デズモンド(グロリア・スワンソン)が自らのシナリオをもってパラマウント撮影所を訪れる。
正門を顔パスで通過し、デミルが撮影中のスタジオへ入ってゆく。
戸惑うデミルだが適当にかつて組んだ大女優、実際のデミルとスワンソンもサイレント時代の数々のヒット映画の名コンビだった、をいなして、やれやれという体で撮影を再開する。
その姿は、一般名詞化されたというべきハリウッドの映画監督そのままであった。
デミルの撮影風景は(それが演出とはいえ)マイクでスタジオ全体に『ジェントルマン、レデイ、アクション』と声掛けするというシステマテックなものだった。
デミルのマイクの後、ブザーで演技が始まる撮影風景は、ハリウッドという夢の『工場』の、良くも悪くもオートメーションのような流れ作業を連想させた。
その風景の中で、事務的にといおうか、淡々とといおうか、機械的に仕事を流す、ビジネスマン(工場の現場監督)に見えるデミルがいたのだった。

また、50年代初頭にハリウッドを襲ったいわゆる赤狩り騒動にあって、1950年10月、監督協会が集りを持った。
保守派のデミルが国家に忠誠を誓う署名を全員に課すという提案を行い、それに反対した理事長ジョセフ・L・マンキーウイッツが、デミル一派により解任動議されたことがあった。
深夜に及びそうな会議にジョン・フォードが立ち上がって、デミルに敬意を表するとともに『明日も撮影がある。帰って寝ようではないか』と場を収めたのだったが、赤狩りという政治運動を機に、監督協会が反共の姿勢をとるように、会議で長々と提案演説をしたのもデミルであった。

「十誡」  1923年  セシル・B・デミル監督   パラマウント

デミルにとって再映画化された1956年版「十戒」が有名であるが、本作はサイレント時代の映画化であり、記念すべきデミルスペクタクル歴史劇の第1作であった。

デミルとしてはそれまでスキャンダラスな風俗劇でヒットを稼いでいた。
日本人の金貸し(早川雪舟)が金を返せない白人女性の肩に焼き鏝を当てるなど、黄禍論を助長するような煽情的、差別的シーンで有名な「チート」(1915年)に見られるような作風がハリウッドのコードに引っかかるとみたデミルは、聖書や歴史ものを素材に伝統的宗教感、道徳感に帰依することに方針を改めたのだった。

「十誡」のデミル

「十誡」の舞台は中東、時は紀元前48年。
エジプトに捕囚されたユダヤの民が奴隷としての過酷な扱いに耐えかねて、モーゼをリーダーにエジプトを脱出してシナイの地に逃れ、そこでモーゼは神から十の戒めが刻まれた石板を授かり、民を導くという新約聖書の物語を映画化だ。

映画は二部構成となっており、後半は現代を舞台にしたドラマとなっている。
内容は、信心深い母親に育てられた兄弟が、一人は十戒を守って生き、もう一人は十戒に背いて自分の利益だけを追求した結果の物語である。

モーセがユダヤの民を導く

前半の新約聖書の場面。
エジプトのファラオが住む宮殿の巨大な城門の再現、ファラオの玉座の背後のアブシンベル宮殿の巨象のようなセット、スフィンクス仕様の像が列をなすセット。
史実はさておいて、米国の一般的な観客の想像の範囲で、もっともエジプトらしいエキゾチシズムの効果を得られるであろう映画装置が恥ずかしげもなく展開する。

2頭立て馬車に一人乗りのカーゴを付けた当時の戦車が数十台現れ、疾走するシーンは迫力がある。

ファラオの軍勢が城門を出る

新約聖書・出エジプト記の一節がそのまま字幕として使われているようだ。
だが、いわゆる宗教劇の持つ荘厳さは映画から感じられない。
深みを持たない画面は、宗教画ではなく俗っぽい説話画に見える。
デミルの解釈に本人の哲学がなく、単なる聖書の映像再現に終始しているからなのではないか。
カメラは全体を説明するときの引きの画面と、演技者のやり取りをとらえるときのバストショットの、どちらかだけである。

後半の現代劇は必要性を感じない。
勧善懲悪、保守的道徳感のためだけの挿話だから。

むしろ、十戒を信じず己の利益だけに生きる弟が愛人を射殺する場面。
殺された愛人がカーテンをつかんで倒れ、カーテンレールが一つずつ外れてゆく場面などに場違いなサスペンスがあり、その映画的効果に感心した。
主人公に射殺された中国とフランスの混血の謎の愛人が『あんたもすぐ来るって悪魔に言っとくわ』と言ってこと切れる場面なども、その魔女的キャラと相まって本筋とは関係のない独特のサスペンスにあふれていた。

デミルの「十誡」は、サイレント時代の「ベンハー」(1925年 フレッド・ニブロ監督)と比べても、ましてやD・W・グリフィスの『狂気』に全編が彩られた「イントレランス」とは比べものにならないほど印象が薄い歴史スペクタクルと言わざるを得ない。

「クレオパトラ」  1934年  セシル・B・デミル監督   パラマウント

デミルの哲学のない、歴史と民族の尊厳に関心のない姿勢は「十誡」から変わりないが、主演のクローデット・コルベールの魅力を生かすためのメロドラマとして見ればそれなりに意味のある作品。

クレオパトラに扮するクローデット・コルベール

ローマがエジプトに侵攻し、シーザー、アントニーとローマの将軍たちがエジプトにやって来る。
エジプトの女王クレオパトラは自らがファラオの代わりに、侵略者ローマの前面に立ち、自らの魅力を武器に、ある時はシーザーに従ってローマに赴き、またある時はエジプトでアントニーを迎えて酒池肉林の罠で敵を取り込む。

薄物をまとって小柄な体で武将たちに立ち向かうコルベール版クレオパトラは、当初は口だけ達者なヤンキー娘に見えるが、手段を選ばず強国に対して策略で対抗する姿に、華奢な体に祖国を背負って立つ健気な女王に見えてくる。

クレオパトラの魅力と策略を表現するためのデミル演出は、例のスフィンクス仕様のセットと、薄物をまとった多数のダンサー(時には豹の毛皮をまとい、鞭を振るわれ絡み合う)、孔雀や豹などの動物、などを取りそろえる。
何よりクレオパトラの衣装にマントを用い、階段一杯に広げて侍女たちにすそを持たせるなどの場面を繰り返して豪華さを演出する。

また、シーザーとクレオパトラがローマに凱旋する場面で、軍楽隊の後に踊る少女たちの一団を加えた場面には、古代の軍隊を表す演出として目新しかった。

しかし、それらデミル流ゼイタクさ、歴史に対する解釈、はあっても、何よりクローデット・コルベールのキュートで謎めきつつも明るい魅力がいい。
コルベールにとっては出世作「或る夜の出来事」(フランク・キャプラ監督)と同じ年に撮った作品で、全盛期を迎える彼女の魅力に触れることができる。

クレオパトラが秘かに毒殺を狙っていたアントニーが、ローマ軍の襲来に際して軍人として身構える。
『戦の神が降りてきた』ようなりりしさに、クレオパトラが目を輝かせ、自ら仕掛けた毒杯を払い落とすとともに、政敵アントニーに縋りつく。
強い女、クレオパトラが恋に落ちた瞬間を演じたコルベールの女性性が光る。

「ある夜の出来事」のクローデット・コルベール

作品全体としては、陰影も含みもなく、平板な説明的画面が続くという意味では残念。
繰り返すが要因はデミル本人の『哲学』のなさである。

「十字軍」  1935年   セシル・B・デミル監督   パラマウント

12世紀ヨーロッパでの第三回十字軍遠征を題材にした歴史スペクタクル。
イングランドの獅子王リチャードを主人公に、腹に一物を持つフランス王フィリップとその妹、マルセイユで困窮した十字軍に食糧援助と引き換えに、娘とリチャードの結婚を画策する地元領主の娘・ベレンガリア姫が主な登場人物。

山場はパレスチナに上陸してからのサラセン軍との砦の攻防戦、ベンガリア姫を交えてのリチャードとサラセンの駆け引き、そしてエルサレム入城である。

リチャード役には「クレオパトラ」でアントニーを演じた、ヘンリー・ウイルコクソンという俳優が扮している。
ほかにも何人か「クレオパトラ」に出演した、デミル組ともいうべき俳優が出ている。

ベレンガリア姫に扮したロレッタ・ヤングは、出てくるだけで場が明るくなるキャラクター。
気が強く、はつらつとしており、いったん惚れた相手には自分を犠牲にしてまでもとことん尽くす。
デミルにとっても理想の女性像なのだろう。

ロレッタ・ヤング

山場のスペクタクルシーンで武器として登場するのは、塔と呼ばれる砦攻略用の装置。
木製で三階建てくらいの櫓で車輪で移動し、攻撃用のトーチカ的役割を果たしつつ、敵の砦に兵を送り込むもの。
「イントレランス」(1616年 D・W・グリフィス監督)ではバビロンの砦を攻略するシーンで出てきたこの塔。
敵の砦を攻略するとともに、塔が自らも火を受けてゆっくり倒壊する場面の、狂気をまとった悪夢のようなシーンが忘れられない。

「十字軍」に登場する塔も実物大に再現されたセットだが、グリフィスとデミルの素質の違いか、演出力の差か、武器の持つ、非日常的な殺気のようなものが全く不足しており、セットとしての塔の巨大さのみが印象に残った。

ここまでデミル作品を3本見てきて、肝心のスペクタクルシーンにスピード感がなく、盛り上がらないことに気が付く。
あんなにたくさんのエキストラを動員しているのに。

半面、ヒーローとヒロインのやり取りは、わが意を得たかのように、ねっとり、じっくりと描かれる。
デミルがそれまで築いてきた風俗劇の巨匠としてのキャリアがここに出ているのか。

十字軍をパレスチナで待ち受ける、イスラム軍の将軍サラセン。
妙に物分かりのいいヒーローっぽく描かれる。
何せ、リチャードとベレンガリア姫の恋路を理解して身を引くのだから、設定はリチャードの恋敵といった役どころ。

これでは、近世にかけて世界の半分を制した勇猛果敢なイスラム軍の将軍の姿からは程遠かろう!と思うが、デミルの頭にあるのは1935年当時のアメリカの映画観客のこと。
歴史の事実や文化の多様さは、デミルにとってそれほど関心はなかったことだろう。

まるで西部劇のように(デミルは本作の後、1936年制作の「平原児」から西部劇に進出する)、各地の力自慢が集まりながらワイワイと悪者退治に出かけるかのような十字軍の描き方は、当時の白人の価値観と常識に基づいたものなのだろう。

その道中での、リチャードとベレンガリア姫の出会い、結婚式に出てこないリチャードの身代わりの剣と結婚式を挙げるベレンガリア姫のエピソードには、中世ヨーロッパの辺境性、精神性が表れてもいるようで面白い。

それにしても十字軍なる社会現象。
本当にヨーロッパ人がパレスチナに求めたものは聖書に基づく信仰だけだったのか、実利的な目的はなかったのか。

無信心だった獅子王リチャードは、十字軍遠征とベレンガリア姫との結婚などにより、エルサレムの手前で信心に目覚める。
宗教的テーマを追求したわけでもなく、十字軍の歴史的意義にも無関心の本作にとって、観客の保守性に迎合しただけのご都合的結末に見える。
それもこれもデミル自身に『哲学』がないからだと思う。

おまけ  「スコウマン」  1932年  セシル・B・デミル監督  MGM

ここで、デミルが歴史スペクタクルの巨匠となる前の風俗劇時代の作品を1本鑑賞します。
出典はブロードウエイ、デミルの処女作であり、自身3度目の映画化である。

MGM配給だが、経緯は不明。
サミュエル・ゴールドウインつながりかもしれない。

全体を通しての古色蒼然たるスタイル。
19世紀を舞台にしているのかと思いきや、制作当時の1930年が舞台の現代劇なのだが、その映画的説明がない。
また、アメリカに舞台を移した後の、まるで西部開拓期時代のような登場人物にも驚く。

主人公の牧場略奪を狙う悪漢がガンベルトを下げて西部の町を歩いてくる。
部屋に押し入って主人公を撃とうとする。
捜査に当たる保安官。

果たしてアリゾナの開拓地とはいえ、第一次大戦も終わった1930年代のアメリカで、駅馬車が走っていたワイアットアープ時代のような無法なふるまいが行われていたのか。

後に主人公の妻となるインデアン娘と酋長の親子は居留地に暮らす。
部族としての抵抗はとっくに終わっていたインデアンの現状については史実通りの描き方だと思われる。
酒を餌に不利な契約を白人から迫られたり、酒に酔いつぶれる酋長も史実に沿った描き方だ。

インデアンと白人のコミュニケーションの不成立も描かれる。
白人は英語でインデアンに何度も繰り返し説明し、インデアンは了解を示すがまるっきり伝わっていないというギャグ。
これはその後の映画でもおなじみのシーンだが、この作品で早々に見られるなど、西部劇の原典ともいえる面もある。

しかしながら作品の根底に流れるのは、時代背景にも異文化への尊重もない、デミルの、ハリウッド全体の無神経さと大雑把さ。
このことが、作品をアメリカの一般大衆には受けるのだろうが、全世界の映画ファンにはまるで訴えないものとしている。

作品そのものの説明が遅れた。
イギリスの愛する人のもとを離れ、アリゾナへやってきて悪漢にも屈せず牧場を経営する貴族出身の主人公がいる。ある日悪漢に絡まれていたインデアン親子を救い、その娘に惚れられる。
イギリスには愛する人がいる主人公は娘を諭すが、恩人への感謝なのか娘は雨にずぶぬれになっても離れない。
7年たち、イギリスの愛する人が主人公を探し当て、船と列車と自動車でアリゾナまで来てみると、主人公には息子とインデアンの妻がいた・・・。
ブロードウエイのヒット劇だったという。

インデアン娘を演じる女優は可愛い。
インデイアンというよりはメキシコ系か南洋系のタイプで、いずれにせよ白人男の被支配民族女性への憐れみに基づく愛着を具現化したような存在。
娘は、白人男へ憧れ、庇護を得、悲劇(息子がイギリスでの教育を受けるためアリゾナを去ってゆく)に際しては自ら身を引く。
異人に供された一時の日本人女性のようだ。

こういった作品を見ると、デミルのほかの史劇も適当に都合よく、観客受けを狙って史実を改ざんしたものなのではないか、との感慨も出てくる。
それも含めてデミル映画なのだろうが。
デミル作品が映画史的にも評価されない原因の一つである。

  

梅を漬ける その2

塩漬けしていた梅に赤シソを加えました。

シソが出回っています。
買ってきて葉っぱを軸から外します。
多少軸が残っていても気にしません。
葉っぱを洗って水けをきります。

赤シソの葉をとって洗う

葉っぱを軽く乾かした後、ボールにあけて塩を振って揉みます。

塩でもむ

ボールに押し付けるように力を入れて揉んでゆきます。
しばらく揉んでいると塩が回って、葉っぱがくたっとなってきます。
さらに力を入れて揉むと紫色の水気が出てきます。
アクです。

アクが出てくる

アクが出てきたら力を入れて絞ります。
絞りが甘いと梅干の出来上がりが黒ずむので、しっかり絞ります。

アクを絞る

水気がないほど絞り込んだシソを梅酢に入れます。
梅酢が赤く染まります。
丁寧に行う場合は、梅酢を絞ったシソに加えて赤い梅酢を作り、梅に戻し入れます。

赤しそを梅の塩漬けに投入

重しを戻して夏の土用干しまでそのまま保管します。

赤く染まった梅漬け

今年は中梅を4キロ、小梅を2キロ漬けました。
土用干しは1週間ほど行おうと思います。

シラカバを伐採したが

2年ぶりに立ち木の伐採をしました。

山小舎の裏に2本の大きなシラカバが生えています。

山小舎の裏、国有林を背後に立つシラカバ2本

ご存じのように、シラカバは腐りやすく、根っこも弱いので、例えば強風や、枝への着雪によって倒れます。
山小舎に向かって倒れてほしくはありません。

山小舎は斜面に建っており、裏の国有林との境には大雨の時だけ流れる小川が通っています。
斜面の保全に植林は大切なのですが、シラカバの木に地盤強化の期待はできません。
むしろ地盤強化にマイナスの効果となりかねません。

かねてより裏のシラカバは気になっていました。
今年思い切って伐採することにしました。

伐採の手順通り、倒したい方向に受け口を切ります。
国有林にはカラマツがびっしりと立ち、反対側にはミズナラがところどころ生えています。
倒木が立木に引っかかることは避けなければなりません。
引っかかった倒木を倒すにはかなりの労力がかかるからです。

受け口を切ったシラカバに追い口を切り入れます。
思わぬ方向に倒れることもあるので緊張します。
及び腰で追い口を入れましたが倒れません。
心配していた事態となりました。

伐採開始。倒したい方向に受け口を切る

どうしようかと思いましたが、とりあえず追い口にくさびをねじ込んでハンマーで叩くことにしました。
シラカバは突然倒れましたが、倒れた方向が国有林のカラマツに向かってでした。
枝ぶりなどシラカバの木の重さが、断然国有林の方向を向いていたからです。
また、受け口の角度が浅かったからのようです。

追い口を切るも倒れず、くさびを打ち込む
突然別方向に倒れる
切り株

またまた心配していた通りの事態となりました。
とりあえずはここまでの無事を感謝しつつ、斜めになった倒木の処理を開始です。
伐採に関わるエネルギーはほぼ使い切っていますが必死です。

斜めに倒れているシラカバを下から輪切りしてゆきますが、横方向よりも縦方向に重心がかかっている巨大な倒木は、先っぽが国有林のカラマツに食い込んでいることもあり、なかなか輪切りが進みません、切った後もバターンと倒れてはくれません。

国有林のカラマツに倒れ掛かったシラカバを輪切り

何とか3段ほど切りましたが、そのたびにシラカバはドーンドーンと新たな切り口が新たな地面に食い込んでゆくだけです。
これでは倒木の角度は浅くなるばかりで地面に倒れるのはいつになるやら。

輪切りをしても寄りかかったままのシラカバ

令和6年畑 サツマイモ定植

サツマイモの苗を定植しました。

6月に入っています。
サツマイモの苗は地物は出回りません、関西方面からの輸入になります。
和田地区や武石地区の標高の高い場所では気候的に栽培しずらいこともあります。
それ以外の場所では植え付けシーズンがそろそろ終わっています。

苗の入手に出遅れた山小舎おじさんは、ホームセンターで苗を買いました。
20本入って2000円近くの高値。やっと見つけた苗は、ビニール袋で長時間密封され、葉っぱの部分がほとんど溶けかかっていました。

案の定、乾燥気味の畑でホームセンターの苗は全滅していました。
今年のサツマイモはいったん諦めました。

獣害防止テープを買いに依田窪農協へ行ったときに、サツマイモ苗が売られているのに気が付きました。
売れ残ったとのことで、1本あたり31円と半値になっています。
バケツの水に漬けられ、根が出始めている苗でした。
乾燥した土壌に定植された後、果たして自力で活着できるのか心配でしたが、畑も空いているので買うことにしました。

農協で売れ残りの苗20本を購入

20本の苗を植えました。
畝1列に10本植えるとして、畝1列当たり18リットルのポリタンクの水をぶちまけました。
泥状になった畝に苗を置き、泥を被せました。
しばらくは畑に行くたびにたっぷりの潅水が必要です。

サツマイモの畝には1列にネットを張り、もう1列には獣害防止のピンクテープをひと廻し。
ついでに成長が旺盛になったジャガイモの畝にもテープを廻しました。

手前のネット、左奥のテープで囲んだ畝にサツマイモを定植
ついでに延び盛りのジャガイモにもテープを廻す

携帯で写真を送った先の家族からは「このテープではまた鹿にやられそう」との反応がありました。

鹿には夏の山の豊富な食べ物を漁ってもらって、暑い畑への訪問は遠慮してもらいたいな、と思うこの頃です。.

薪づくりシリーズ 細めの丸太を積み込む

山小舎に丸太がやって来るシーズンになりました。

別荘地内の業者に伐採や敷地整理の依頼が入る時期、伐採したカラマツ、シラカバ、細めのミズナラなどは業者にとって廃棄物扱いとなります。
金をかけて捨てるなら、と薪を作っている家に丸太を運んでくるのです。

どんな木材でも拒まない山小舎おじさんのところにはそういった丸太が集まります。

2トントラックで3台分も集まった頃、チェーンソーで玉切りした丸太、枝を、次の行程である薪割りのために整理して集めます。
割る必要のないほどの細さの枝はそのまま積んで乾かします。

チェーンソーで玉切りしたものをまとめておく

整理がついたころまた丸太がやってきます。
シーズン中は玉切りと薪割りと積込みの繰り返しです。

細めのものを一輪車に積む
一輪車で枝の乾燥場所に運ぶ

薪割りは「玉」が集まった時にエンジン式の薪割り機を借りて行う予定です。

枝を積み込む。前後には去年積んだ薪など
軒下に刃十分乾燥した枝や皮が

DVD名画劇場 フランス映画黄金時代③ ジュリアン・デュヴィヴィエ その4

フランス映画の黄金時代に君臨したジュリアン・デュヴィヴィエ監督。
その初期作品、代表作、戦時中の作品、と三回にわたって鑑賞したシリーズの、今回は第4弾(最終回の予定)です。

さて、戦後を亡命先のアメリカで無事迎えたデュヴィヴィエはフランスに帰ってきます。
1946年に帰国第1作の「パニック」を撮り、翌1947年にはロンドンフィルムに招かれて「アンナ・カレーニナ」を撮ります。
それ以降は1967年の遺作「悪魔のようなあなた」までフランスで撮り続けています。

ジュリアン・デュヴィヴィエ

デユヴィヴィエのDVDシリーズ最終回(予定)は、「パニック」、「アンナ・カレーニナ」、「巴里の空の下セーヌは流れる」(1951年)の3本です。

「パニック」  1946年  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督   フランス

フランスに帰ってきたデュヴィヴィエ。
ホームグランドに戻っての第一作です。

原作は1933年に撮った「モンパルナスの夜」から2回目のジョルジュ・シムノン。
俳優は「旅路の果て」(1938年)のミシェル・シモン、「我らの仲間」(1936年)のヴィヴィアンヌ・ロマンス。
この作品は、〈大作ではない〉ものの、フランス映画への復帰を記念した習作でもなく、そこにはしたたかなデユヴィヴィエのペースがありました。

〈大作でない〉、というのは予算をたっぷりとかけた作品ではないというだけでなく、例えばデュヴィヴィエが「望郷」(1936年)で見せた、あの手この手の舞台装置を駆使して観客に訴えた、けれんみたっぷりの空想劇でもなく、また「旅路の果て」のように、人間の極限のエゴを名優たちの熱演で再現した、デュヴィヴィエの譲れない信念を追求したものでもなく、さらに「ゴルゴダの丘」(1935年)や「幻の馬車」(1939年)のように、宗教性に満ち、善なる人間性を信じ切るかのような崇高さ、に彩られた作品ではないということです。

全盛期のデュヴィヴィエ作品は大上段に振りかぶり、力の入ったものでした。
そこでは、プロデユーサーとしてのデュヴィヴィエが、ファンに向けてあの手この手で映画的サービスにこれ務めたり、そうでなければ己の信条を最優先して人間というものを突き詰めていました。

戦争と亡命、己の流儀が通用しないハリウッドでの映画撮影という経験を経て、戦後を迎えたデュヴィヴィエが作ったこの第1作(「パニック」)は、戦後の開放感、フランスで映画を撮れる喜び、を通底としながらも、力が抜け、淡々と人間達を見つめるかのような作品となりました。
もちろん昨今の映画的流行や、ハリウッドで学んだ映画的刺激を、上手く取り入れるのを忘れたわけではないのがデュヴィヴィエ一流の映画作法ではありますが。

ミシェル・シモンとヴィヴィアンヌ・ロマンス

「パニック」は風変わりな中年男の、風変わりな振る舞いを淡々と描写して始まる。
中年男イール(ミシェル・シモン)は町のホテルに3年間も逗留している。
肉屋でいつものステーキ肉を買い、ホテルの廊下では近所の幼女にリンゴを与える。
このあたり、「ぼくの伯父さん」(1958年 ジャック・タチ監督主演)を連想させる淡々とした人間描写ぶりである。
ジャック・タチ扮するユロ氏が風変わりながら周りにも受け入れられるキャラであるのに対し、本作のイール氏は受け入れられないままである点が違うのだが。

イール氏が好意を寄せるギャングの情婦アリス(ヴィヴィアンヌ・ロマンス)の妖艶さもいい。
フランス映画としては悪女キャラに振り切った感もある、美貌のヴィヴィアンヌの登場は一気に画面を、アメリカ映画のギャング風に一変させる。

アリスの着替えをイールが窓越しに覗く場面も画期的だ。
ヴィヴィアンヌ・ロマンスの直接的で挑発的な色気と、そこに吸い寄せられる孤独の訳あり中年男。
設定がノワールだし、変態チックな描写にも戦後を感じる。

デュヴィヴィエは古き良きフランス映画のタッチをただ踏襲しているのではなく、アメリカ映画的なスリルとサスペンスを志向していることがわかる。
そして〈スリルとサスペンス〉が特に1940年代からの世界的流行であり、デユヴィヴィエがその流行をキャッチアップしていることも。

ヴィヴィアンヌ・ロマンス

1940年代の世相を反映し、様々な映画的記憶、記号に満ちた「パニック」の、結論は周りに受け入れられないイール氏を追いつめる社会のポピュリズムへの批判であった。

誤解をもとに追いつめられ死んでしまうイール氏だが、彼を色仕掛けではめて行ったアリスの後悔の表情も盛んに描写される。
アリスとて根っからの悪女ではなく、良心が残っていたとの演出は、人間性への信義を旨とするデユヴィヴィエ映画の根本であろう。

アリスの情人の小悪人に扮するポール・ベルナールは「ミモザ館」(1934年 ジャック・フェデー監督)でフランソワーズ・ロゼエのダメな義理息子を演じた人。
今回は出世作のダメ男ぶりがますます進化。
改心することなく最後まで悪に浸かり切り、情婦アリスを都合よく振り回す、フランス式クズ男を快調に演じている。

「アンナ・カレーニナ」  1948年  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督  イギリス、ロンドンフィルム

戦後の帰国第一作「パニック」を撮った後、デュヴィヴィエがイギリスのロンドンフィルムに招かれて撮った作品。

ここでロンドンフィルムに関して、ひとくさりお許し願おう。

ロンドンフィルムという映画製作会社は、戦前から戦後にかけてイギリス映画をけん引したスタジオです。
主宰者のアレクザンダー・コルダは、1893年にオーストリア=ハンガリー帝国に生まれたユダヤ人で、ハンガリーでジャーナリストとして活躍後、映画監督としてブダペスト、ウイーン、ベルリン、パリ、ハリウッドを遍歴。
ロンドンにたどりついて映画製作者として芽を出します。

ハリウッド資本・パラマウントのロンドン支社に身を置き、戦前のイギリス映画界保護の政策(1927年に制定された、外国映画の比率を最大95%、イギリス映画を最低5%とするいわゆるスクリーンクオーター制)を背景に、ハリウッド資本を利用してのイギリス映画製作に乗り出し、ロンドンフィルムを設立しました。

コルダが製作あるいは監督した戦前の代表作には、「ヘンリー八世の私生活」(1933年 アレクザンダー・コルダ監督)、「ドンファン」(1934年 ダグラス・フェアバンクス主演)があります。
またフランスから名監督を招き「幽霊西へ行く」(1935年 ルネ・クレール監督)、「鎧なき騎士」(1937年 ジャック・フェデー監督)を製作しました。
国際色豊かな監督、出演者を招聘しての話題作りと、ハリウッド資本の配給ルートによるマーケットの世界的拡大を行い、一躍ロンドンフィルムを世界的映画会社としました。

第二次大戦中にはハリウッドに亡命し、自らのプロダクションを興して「ジャングルブック」(1942年 ゾルダン・コルダ監督=アレクザンダーの末弟)などを製作。
この期間にジュリアン・デュヴィヴィエを起用して撮った「リディアと四人の恋人」(1941年)がコルダとデュヴィヴィエの出会いとなり、のちの「アンナ・カレーニナ」につながります。

アレクザンダー・コルダ

戦後ロンドンに戻ってロンドンフィルムを再興したコルダは、デヴィッド・リーン、キャロル・リード、ローレンス・オリビエら国内の才能を積極登用し、またハリウッドのデヴィッド・O・セルズニックらと提携し、「落ちた偶像」(1948年 キャロル・リード監督)、「第三の男」(1949年 同監督)、「ホフマン物語」(1951年マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー共同監督)などの名作を発表します。

国際人としてのコルダは、国内外に広く才能を求め、世界に通用する映画を製作し、ハリウッド資本の配給網を利用して世界配給を行うなど、戦前戦後のイギリス映画の興隆に貢献し、サーの称号を得ました。

オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ人にあっては、ビリー・ワイルダー、フレッド・ジンネマン、マイケル・カーテイズなどがハリウッドで活躍したが、コルダの映画界への貢献度も負けてはいないのでした。

延々とロンドンフォルムとアレクザンダー・コルダについて述べました。
コルダがハリウッドでデュヴィヴィエと出会い「リデイアと四人の恋人」を当時のコルダ夫人のマール・オベロン主演で撮りました。
戦後になり両者はそれぞれ本境地であるロンドンとパリに戻りました。
1948年にコルダがデユヴィヴィエをロンドンに呼んで撮ったのが「アンナ・カレーニナ」です。

ヴィヴィアン・リー

トルストイの原作は現在まで10回以上映画化されている。
ヴィヴィアン・リーを主役に迎え、2時間にまとめた本作は、フランス人の監督、脚本家、撮影監督、ロシア出身の美術監督など厳選されたスタッフをロンドンフィルムに迎えて制作された。

スタッフの選択にはデュヴィヴィエの意向のみならず、コルダの積極的な制作姿勢が表れている。
プロデユーサーとしてのコルダは、セルズニックに代表されるハリウッドの製作者にみられる、細部にわたる口出し、スタッフ・キャストから最終編集権に至る権限の専制的支配、とは異なり、スタッフ招集とキャステイングをサービス精神全開で行た後は現場にすべて任せるといった意向を感じさせる。
そんなコルダが、専制権者セルズニックと渡り合い、共同制作で傑作「第三の男」を作ったのも面白いが。

さて本作の物語は、アンナという帝政ロシア期の上流階級女性が、己の欲望に忠実に行動し、己の責任において結末を迎えることを描く。
どうも旧癖に囚われない強い女の人間性の尊重を主題にしているようだ。
といっても新大陸で女性として尊重されわがまま一杯にふるまった強い女性への賛歌でもある「風と共に去りぬ」のヒロインのようではない。
背景にロシア正教的倫理観、ロシアの大地の悠久、が厳然としてある。
それらを背景とした女性の人間性の尊重である。

己に忠実なゆえに現実との葛藤に苦しみ、徐々に壊れてゆくヒロインを演じるヴィヴィアン・リーは「欲望という名の電車」のブランチを予感させるような狂気をも時として匂わせる。

「アンナ・カレーニナ」の各場面

雪の中の列車。
ホームで車輪を叩きながら点検する老人。
アンナがおびえる死神。
上流婦人たちによる降霊会。

デュヴィヴィエ映画の神秘描写だ。
ヴィヴィアン・リーの存在がそれら神秘描写とよくマッチする。

デュヴィヴィエとしても決して手を抜かず、己の美学にも原作にも忠実に撮った作品。
であればあるほど原作以上の広がりがない作品になってしまったような気がする。

ロシア上流社会の夜会やダンスパーテイの描写は、予算の限度があったのか、フランス人のデュヴィヴィエにはその感性がなかったのか、室内のセットにしても俳優たちの動きにしても、カメラワークにしても、定型的でチープにさえ見えたのが気になった。

煎じ詰めれば、上流婦人の不倫騒ぎのドラマである本作に、膨らみを持たせる要素としては、ロシアの大地の悠久とキリスト教倫理観のほかに、目くるめく絢爛豪華なぜいたくさによる陶酔感、があってもよかった。

オペラ劇場の描写には醸し出ていた、過剰なぜいたく、耽美、腐臭といったものが、お屋敷で繰り広げられる肝心のダンス場面には見られ無かったのが惜しかった。

「巴里の空の下セーヌは流れる」  1951年  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督  フランス

戦争が終わった。
ハリウッドに亡命していたデュヴィヴィエはパリに戻って、ジョルジュ・シムノン原作の「パニック」を撮った。
デユヴィヴィエにとっても、パリにとっても相性のいいシムノンの世界だった。
その後、「アンナ・カレーニナ」「神々の王国」「ブラックジャック」と撮って50年代を迎えた。

折からパリ市2000年祭の年だった。
パリ市当局はデュヴィヴィエに記念映画の制作を委嘱した。
今に残るシャンソンの名曲「巴里の空の下」を主題歌とし、ある土曜日の夜明けから日曜日の夜明けまでの24時間の、セーヌ川のほとりで繰り広げられるパリ市民の物語をデユヴィヴィエは撮った。

ブリジット・オーベール(左)

田舎からパリに出てくる美人のドニーズ(ブリジット・オーベール)がいる。
工場のストライキに加わり自身の銀婚式パーテイに参加できそうもない工員がいる。
腕のいい医者ながら研修医試験に落ち続ける医者がいる。
モンマルトルの彫刻家で孤独にさいなまれ、発作が起こると女性を刺殺し続ける芸術家がいる。
猫だけが生きがいだがミルク代に事欠く老女がいる。
成績が悪いから親に怒られるからと、少年の誘いに乗ってセーヌ川をボートでさ迷う少女がいる。

一見無関係なパリ市民のエピソードが同時進行でつづられ、思わぬところで交差する。
デユヴィヴィエお得意のオムニバス方式の進化形ドラマであり、同時進行する各エピソードが交差してゆくのが新しい。

パリを主人公とするオムニバスは歴代のフランス人監督のお気に入りの素材で、ヌーベルバーグ系の監督による「パリところどころ」(1962年 ジャン=リュックゴダール、クロード・シャブロル、エリック・ロメール他監督)がある。

本作は、ロケを多用したパリの街頭風景がベースである。
パリとパリ市民が主人公である。

田舎から上京した若いドニーズ(ブリジット・オーベール)は、ペンフレンドの甘い言葉を頼りにパリへやって来る。幼馴染の求婚を断り、ペンフレンドに会ってみると車椅子の男だった。
ドニーズは甘い期待を都会に求めるが最後は孤独な芸術家の餌食となって夜のパリの裏町に散る。

工場のストライキで銀婚式の宴会に参加できそうもなかった工員は、工場前のセーヌ河岸にやってきた親戚一同と宴会を楽しむ。
工場前にピケを張っていた警官は「河岸でなら」と工員も参加しての宴会を認める。

電気も止められた年金暮らしの老女は、猫のミルク代65フランを得ようと方々乞うて歩くが恵んでくれる人もいない。
疲れ果てて部屋に帰ってくると、大家の八百屋のおかみさんがミルクをもってやって来る。
老女は成績が悪くプチ家出をしていた八百屋の娘を助たお礼だった。

街頭ロケと力の抜けたエピソードを淡々とつづるデユヴィヴィエのスタイルは、来るべきヌーベルバーグを予見したかのようなフリー感に満ちてさえもいた。

そこには説教じみた価値観の押し付け、過去への郷愁もない。
今現在の若者や子供の行動を黙って見つめる鷹揚さがある。
何より、背徳と暗黒に彩られながらも、のんびりと人間性に満ちたパリの市井の雰囲気への尊重がある。

主題歌の「パリの屋根の下」をへたなピアノで聞かせ、隣の部屋の芸術家の卵に「うるさい」といわせたり、河岸での宴会を警察に中止させられ、工場の鉄格子越しに一同を見送る工員の構図に「望郷」のパロデイを自ら演出したり、デユヴィヴィエもノッている。
エッフェル塔をバックにしたモデルの撮影風景にも、戦後数年たったパリの文化の復活が謳われている。

貧困、労働争議、孤独、子供の反抗、若者のまだ見ぬ夢など、社会の暗さを正面から取り上げるところは芸術至上主義のフランス映画らしいが、そこにささやかな幸せを感じさせるところはデユヴィヴィエ流か。
何より、各エピソードの主人公同士が良くも悪くもつながっているという連帯感がある。
それこそがパリだ、パリ市民だというデュヴィヴィエの肯定感がいい。