軽トラ流れ旅 須坂デイープ旅

軽トラで須坂まで行ってきました。
上田から真田をとおり、菅平へあがって須坂へ下るコースで行きました。

須坂は、新潟方面へ北上する谷街道と、菅平をとおって現群馬方面へ抜ける大笹街道が交わる交通の要衝として中世より発展。
江戸時代になると須坂藩が置かれ、物資の流通により豪商が発生しました。
明治以降は生糸の生産の中心地として発展したところです。

当時の蔵が立ち並ぶ町が残っており、小布施と長野の中間地という立地から、観光客にも人気の町です。

山小舎おじさんは2度目の訪問。
前回は江戸時代の豪商田中家の屋敷を見、蔵の街並みを見、長野電鉄が走る須坂駅に行き、地元で人気の食堂で昼食しました。
この度、前回訪問時には改修中だった博物館を見たくて再訪問しました。

臥竜公園で博物館と動物園

臥竜公園は須坂市民の憩いの場です。
春は桜の名所となります。
一角に須坂市博物館があります。

須坂市博物館前景

常設展示室では、カモシカのつがいが、はく製姿でお出迎えしてくれます。

常設室最初の展示はカモシカ

石器時代から古墳時代のエリアへ行くと、この地域に古墳が多くあり、剣など重要な埋葬品が発掘されたことがわかります。
長野県は古墳の数では全国有数の、古代の文化圏だったのです。

古墳から出土した直刀

隣の展示室には須坂の観光名所の、米沢瀑布と米沢鉱山跡の展示がありました。
興味をひかれたので、学芸員の方に詳細を聞くと、米沢瀑布は紅葉の名所でシーズンにはシャトルバスが出るとのこと。
ただし現在は2019年の台風19号の被害で交通遮断となっていること。
駐車場から40分くらい歩くこと、などを聞きました。

また、硫黄鉱山跡の米沢鉱山は、瀑布からさらに徒歩で行かなければならないこと。
鉱山とその周りの町の跡はすっかり撤去され、廃墟的なものは残っていないこと、なども教えてくれました。
いつかは行って見たい米沢瀑布と鉱山跡です。

博物館の後、公園内の須坂動物園に向けて歩いてみました。
ローカル放送で須坂動物園のイヌワシの話題があったのを思い出したのです。
イヌワシは捕獲禁止なのはもちろん、飼っている動物園も限られているとのことです。

臥竜公園

桜並木を動物園まで歩くと、園内にSLの姿が見えました。
入り口の案内板を見ると入場料が大人200円とあります。
迷わず入場券を買いました。

須坂市動物園入り口

臥竜公園の端の丘陵というか、坂を利用した動物園です。
細長い敷地で上り下りもあります。
女性のスタッフが働いようで、鳥類、小動物が多く飼育され、猛獣はツキノワグマだけです。

天然記念物イヌワシ
ペンギンもいます

小動物と触れ合う施設があったり、昆虫などの展示館もありました。

園内の様々なコーナーの一つ

入り口近くに、中央本線の木曽福島機関区で勤めを終えたD51が展示されていました。
野外展示ですが、まずまずの保存状態で、運転席に上がることもできます。

笠鉾会館とまゆくら

須坂市博物館で、市内にある博物館分館の笠鉾会館との共通入場券200円を購入していました。

笠鉾会館へ行って見ました。
付近の市営駐車場の駐車券2時間分をくれました。

市立博物館が自然と古代の展示を分担しているとするなら、笠鉾会館は中世以降近世までの展示を行っていました。須坂の夏の風物詩である祇園祭の山車の展示も。

7月に行われる祇園祭の山車
往年の祇園祭の様子

祇園祭なるものは佐久地方の岩村田でも行われており、京都と信濃の歴史上の関係がどうなっているのか興味があります。

また、笠鉾会館では、交通の要衝としての須坂の歴史や、幕末の名君・堀直虎のことなどを知ることができました。

ここまで来たら市内の博物館は全制覇です。
続いてまゆくらという場所に行きました。

生糸生産全盛期に繭の蔵として使われていた建物を移築した博物館です。

まゆくら全景

入場して、届け出表に住所氏名を記入すると、係の70歳前後のおばさんが話しかけてきました。
古い蔵造りの建物のことから、当時の製糸工場の女工さんのこと、大笹街道のこと、などなど、話が途切れません。

須坂の女工さんは給料などの待遇がよかったとのことでした。
豪商田中家では屋敷の庭石を大笹街道を通らせ、菅平を越えて運ばせたこと。
製糸業衰退後は富士通の進出で精密工業が興ったこと、などなど。

まゆくら3階部分

話が尽きないので、須坂の町の花街のことも聞いてみました。
芸者さんがいたエリアを教えてくれました。
ほかに青木新道という場所と駅前もそういう場所だったことも。

後でわかりましたが、青木新道と駅前はいわゆる赤線、青線の地帯でした。
全盛期には長野からもお客が須坂駅前に来たとのことです。

須坂の闇、赤線地帯へ

博物館めぐりを終えた後は、地酒、どら焼きなどのお土産を買いがてら、まゆくらで得た情報の場所を巡ってみました。

芸者さんがいた花街の跡はすぐ見つかりました。
地図上で教えてもらった場所に料亭が1軒残っていました。

花街の現在

午後2時を過ぎ、昼食もまだでしたので急いで赤線地帯にも行ってみました。
昔のことを知っているとはいえ、女性の記憶なので、まゆくらのおばさんからの情報では、確かな場所がわかりません。
ネットで検索すると、劇場通り、青木屋小路などがその場所のようでした。

大体の方向へ歩いてみると、果たして劇場通りにぶつかりました。
かつては映画館(前身は芝居小屋)があり、にぎやかな商店街だったとのことです。
今はひっそりした劇場通りを歩いてゆくと、青木屋小路の看板がありました。

劇場通りの行灯
青木屋小路

青木屋小路に入り、ぶつかった道にはスナックなどがありました。
見ればそれらしき建物の名残も。
ここら辺がかつての遊興の巷だったのでしょう。

時代も変わったこともありますが、富士通も撤退し若い勤め人がいなくなったことが衰退の主な原因なのでしょう、かすかな残滓を残し住宅地に変貌してゆく地域となっていました。

青木新道に現存するスナック
かつての赤線と思われる建物
付近の道路標示。「現在地」に隠れたあたりが青木新道

歩き疲れ、腹も減り、須坂での今回の目的も果たしたので駐車場へ戻りました。
既に3時を回っており地元の飲食店はとっくに休業に入っている時間帯でした。

投稿者: 定年おじさん

1956年北海道生まれ。2017年に会社を退職。縁あって、長野の山小屋で単身暮らしを開始。畑作り、薪割り、保存食づくり、山小屋のメンテナンスが日課。田舎暮らしの中で、60歳代の生きがい、生計、家族関係などの問題について考える。60歳代になって人生に新しい地平は広がるのか?ご同輩世代、若い世代の参加(ご意見、ご考察のコメント)を待つ。

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