恩地日出夫「砧撮影所とぼくの青春」

映画監督の恩地日出夫が2022年の1月に亡くなった。
山小舎おじさんは恩地監督の作品を追っかけるようにして観ていた。
監督の著作である「砧撮影所とぼくの青春」を引っ張り出して再読してみた。

著作表紙。「黒い画集・あるサラリマンの証言」現場にて。助監督時代

「砧撮影所とぼくの青春」

恩地監督は1955年に東宝に入社、砧にある撮影所に助監督として配属された。
助監督としての初仕事は「獣人雪男」(1955年 本多猪四郎監督 デビュー間もない根岸明美が脚線美を強調した衣装で登場する伝記ホラー)。
以降、主に堀川弘道監督の組に付き、先輩助監督の岡本喜八の指導を受ける。

本著は、東宝入社時から1984年までの30年間の、映像作家としての自身の変遷の記録であり、映画とは何か、映画会社東宝とは何か、の思索の書でもある。

戦争中に疎開を体験し、帰京してから東京大空襲を体験、終戦後になって世間の価値観の180度転換を体験した恩地は、「頼れるのは自分自身だけ」との原体験を持つ。

大学2年の時の「血のメーデー」で法政大学の学生が警官の水平射撃で殺されたのを見てデモに飛び込む。
学生時代は日本共産党の指導方針下で学生新聞の編集に没頭するが、共産党の方針転換に絶望する。
東宝入社後も助監督の協会活動を通して60年安保のデモに参加していた。

1959年、27歳の若さで監督昇進。
「若い狼」を撮る。以降、1964年の「女体」まで4本の作品がフィルモグラフィー前期。

「若い狼」は北関東の炭鉱の町からあてもなく都会に流れ着いた少年院上がりの若者とその幼馴染の少女の物語。
街頭ロケを多用し、若い主演(夏木陽介と星由里子)が都会の現実にぶつかる姿が初々しくも痛々しい佳作。

「女体」は「肉体の門」を原案に、戦後の混乱期にパンパンとして生き抜いた女が、戦後の平穏期の中で偶然にかつての仲間と再会し、命を燃焼させる物語。
団令子が、やけくそのように戦後混乱期を駆け抜けた若い日と、戦後の平穏な日々を抜け殻のような表情で演じるその対比に、恩地監督の狙いが反映されていた。

「若い狼」。左から夏木陽介、星由里子、恩地監督
「女体」。団令子(中央)

「女体」の撮影で牛を密殺するシーンを実際に演出したこともあって干された恩地が、「再起」したのは、アイドル候補内藤洋子を売り出すための企画「あこがれ」(1966年)から。

以降「伊豆の踊子」(1966年)、「めぐり逢い」(1967年)と東宝青春映画の旗手としてヒット作を連発するが、東宝の会社合理化により、「恋の夏」(1972年)を最後に東宝を離れる。

東京の山の手育ち、慶応ボーイでハンサムな恩地は、東宝入社の同期に石原慎太郎がいたことが象徴するように、新進の文化人の知り合いも多く、干された時期にテレビの司会者に抜擢されるなどした。
が、本人としてはテレビなどでの派手な活躍がその本意ではなかった。

70年代以降は「傷だらけの天使」など、テレビドラマを中心に活躍。
タイトルバック(ショーケンがアイマスクを取って目を覚まし、牛乳瓶のキャップを口で空け、トマトにかぶりつく)を演出したのも恩地である。

本著で恩地はそのアイデンティティーたる東宝という会社と、愛する砧撮影所について詳細に語っている。

戦前のPCLから戦後の東宝争議に至る会社の歴史の再検証から、恩地自身が撮影所で経験した細かなことまでの記述の中で、読み手に印象的なことは、著者が、森岩男という東宝役員の存在を東宝映画のキーマンとして挙げていること。
森は戦前から脚本家、批評家として活躍し、東宝役員に就任後は「プロデユーサーシステム」を東宝に導入した人物である。

プロデユーサーシステムは松竹のでデイレクターシステムと対比されるが、いずれにしても現場中心の発想という点では共通するシステムである。
映画の発想は現場が行う、ということである。
現場と対比する概念として本社があり、東宝にとっては親会社の阪急資本も本社の概念に含まれる。

恩地は、現場に育てられ、現場を愛する映画人として、森のアメリカ的なスマートな現場主義を評価するとともに、70年代以降の会社合理化により、映画企画などが現場から本社に吸い上げられたことを、映画産業そのものの衰退の一因とする。

活気のあった時代の撮影所育ちである恩地は、自身が独立後に組むことになったフリーのスタッフを「町場のもの」と呼ぶなど、撮影所育ちのプライドを持つ。
「町場」であっても熱意のあるスタッフと共同する柔軟性は持ちついつも、東宝撮影所という映画界のエリート育ちのプライドとともに歩んだ映画人生だった。

本書は、記憶の赴くままの随想ではなく、東宝の歴史を検証し、関係者の証言を取り入れつつ、自身の愛する撮影所システムの中の自分史であり、日本の映画史を紐解くうえで貴重な記録の一つとなっている。

「東宝青春映画のきらめき」

山小舎おじさんの手元にあるこの本。
2012年のキネマ旬報社刊。

1966年の「としごろ」から1973年の「20歳の原点」までの東宝青春映画をテーマにした編集で、数々の作品のスチル写真を中心に、内藤洋子、酒井和歌子のほか、恩地日出夫監督、出目昌伸監督へのインタビューで構成されている。
紹介される作品には恩地監督の「としごろ」「伊豆の踊子」「めぐり逢い」も含まれている。

「としごろ」(1966年 内藤洋子、田村亮主演)

干されていた恩地が木下恵介の脚本でカムバックのチャンスを得た。
恩地は松竹の重鎮・木下を訪ねた。

仰向けに寝ながら、傍らに正座で控える助監督に口述筆記させていた木下は、他社の新進監督が当該脚本に関して述べる意見を黙って聞いた。
やがて「その方向で直していいと思う。この子上手だから貸してあげる」といって木下組の助監督・山田太一を脚本改定に参加させた。

なるほど、東宝の、特にこれまでの恩地作品との共通性というより、「木下恵介アワー」的な色合いの濃い作品に仕上がっていた。
孤児院で育った者同士(内藤洋子、田村亮)の純愛と、彼らを取り巻くすべて善意の人々。

予定調和に満ち満ちたかのようなこの作品の中で、ヒロインだけが流れに逆らっていたのが印象的だった。
内藤洋子は、周りの善意の中で時に抗い、時に不器用に自己主張する不安定さを持つ少女を演じた。

内藤洋子の不安定さの中に、恩地監督の主張があったのか。
ひょっとしたらこの作品、かくれた東宝版「非行少女」(1963年 浦山桐郎監督 和泉雅子主演 日活)であって、内藤洋子躍進のきっかけになった存在なのかもしれない。

「伊豆の踊子」(1966年 内藤洋子、黒沢年男主演)

「としごろ」のヒットによって恩地にも会社企画のオファーがやってくるようになった。

主演は黒沢年男と内藤洋子。
旅芸人一座の座頭に「若大将シリーズ」の江口マネージャーこと江原達治、おかみに乙羽信子。

主人公の衣装を原作通り紺絣に袴姿にしたり、内藤洋子への演出にアイドルに対する忖度性が一切ないこと、などに恩地のこだわりが濃厚に映る作品。

劇中の踊り子(内藤洋子)に、すがすがしい笑顔などはなく、呼ばれた座敷で笑顔もなく黙々と踊るカットが続く。
一高生に「下田へ着いたら、活動(映画)に連れて行ってくださいましね」と繰り返し懇願する。

「物乞い、旅芸人村に入るべからず」の看板が村境に立てられていた時代の旅芸人の物語でもある「伊豆の踊子」。
恩地は原作にない、零落した売春婦のキャラクターを団令子に演じさせもする。

青春純愛物語を装った、ある意味、非常民階級(被差別階級)の内部のドラマでもある本作を、恩地は原作に忠実に再現したのかもしれない。

一高生と踊り子は当然ながら「下田で活動へ行く」という約束も果たせないまま永遠に分かれることになる。

「めぐりあい」(1967年 酒井和歌子、黒沢年男主演)

東宝青春映画の金字塔として今なおファンの多い作品。

川崎を舞台に、失業中の父親、受験の弟と団地に住み、自動車工場へ通う主人公(黒沢年男)と、母子家庭に育ち金物屋で働くヒロイン(酒井和歌子)の出会いとその後の話。

庶民的なヒロインと、一家の大黒柱ながら実は逆境に弱い主人公が出合い、親しくなり、励まされ、別れ、再会する。

勤めを休んで海へ行った時のヒロインの白い水着。
友達の修理工場からダンプカーを借りてのデートで、いさかいをおこし、荷台に座り込むヒロインにダンプをかけて脅かし、抱きついた時の雨の中のキスシーン。

バックもコネもなく、正真正銘自分だけの存在の若者が、健気に社会と格闘し、お互いにぶつかり合い、見つめ合う時のすがすがしさ。

金物屋を喧嘩してやめ、母親もなくしたヒロインが遊園地で働く場面がラストシーン。
一度は分かれた主人公が遊園地に向かい、黙ってヒロインの仕事を助ける。
微笑み合う二人。

ご都合主義のエンデイングとしてではなく、心から若い二人の前途にエールを送りたくなったのは私だけか。

酒井和歌子初期の代表作にして、恩地監督の代表作だと思う。

余談1

何年か前、ラピュタ阿佐ヶ谷で「若い狼」を見たとき、主演の星由里子さんがおつきの人と来ていた。
彼女らは最後列の端っこに座った。
私は偶然、そのひとつ前の列に座った。

と、前方から一人の女性が出てきて、星さんに礼をした。
「恩地の家内でございます」と挨拶したその女性は、暗がりでよくは見えなかったが、当時で40代ほどに見えた。
ジャンパーにジーパンのような服装の、落ち着いた声の女性だった。

星さんは自分の登場シーンに「ハアツ」と声を上げていた。
「若い狼」は当時16歳の星由里子が初めてのキスシーンに臨んだ作品だった。

余談2

「あこがれ」と「めぐりあい」は何年か前の渋谷シネマヴェーラでの特集で見た。
これらの作品のプリント状態が良くなかった。

「あこがれ」は全編、セピア調のモノクロ作品ではないかと思うくらいカラーが腿色していた。
「めぐりあい」は主人公とヒロインが海へいったときのカットがとびとびに切れており、酒井和歌子の水着のカットはほとんど残っていなかった。

フイルム作品のニュープリント代も1作で40万円ほどがかかる今節。
聞くところによると、東映は自社作品を割とニュープリントしてくれるらしい、映画館側で費用を出し配給会社にニュープリントしてもらうケースもある。

とはいえ、自社の代表作の貸し出しを、細切れ、腿色のプリントで行うとは、さすが東宝である。
のちにテレビで「めぐり逢い」を見たが、当然ながら完全なプリントを使っていた。
東宝が映画館よりテレビのほうを大事にしていることがわかって一層残念だった。

ミニシアターエイド基金

渋谷シネマヴェーラでは初回上映が始まる前に、「ミニシアターエイド基金」への賛助に感謝する5分ほどの映像が流れます。

このミニシアターエイド基金なるもの。
コロナ下で経営困難に陥ることが予想される全国の「ミニシアター」を経済的に援助するための有志による緊急支援策とのこと。

2020年5月に終了した基金募集は、目標の1億円に対し3億3千万円余りの実績。
29,926人の賛助を得たという。

初回上映前のシネマヴェーラの座席でこの映像により、同基金のことを知った山小舎おじさん。
半分暗くなった場内でこの映像が流れると毎回見入っていました。

全国のエイド参加のミニシアターの風景写真で始まるこの映像。
札幌のシアターキノ、仙台の仙台フォーラム、東京ではラピュタ阿佐ヶ谷、下高井戸シネマなどの写真が流れます。
長野県では、長野相生座、上田映劇、塩尻東座、飯田トキワ座と県内ミニシアター(「名画座」といいたいところです)のオールスターが登場します。

これまでに行ったことがある劇場、思い出や親近感のある劇場の数々。
現存するそれら劇場の背後には、今は亡き数々の名画座たちの幻影が浮かび上がるようで、オールドファンの思い入れは2倍増になります。

映像は、次に各地のミニシアターの館内の情景を映し出します。
このシーンになるころにはおじさんの視界はなぜかいつも曇ってしまいます。

それは現代にあって映画文化を担い続けようとする若い世代への感動なのか?
若き日、映画文化に育てられた(曲がりなりにも)古い世代の自己感傷なのか?
おそらくそのどっちも、でしょう。

現在の映画館は、シネコンとミニシアターに二分割されました。
大きなスクリーンと、高い天井(時には2階席も)を持ち、フィルム映写も可能な昔ながらの名画座も天然記念物的に残ってはいますが、この度の基金で明らかになったように、それらはミニシアターとして分類されました。
このほかに、建物と設備は残しているものの、休館中だったり、移動映写にほぼ特化しているような映画館もあります。

全国のミニシアターの前で笑顔で集合する若いスタッフ達。
映画文化の若き担い手達の笑顔に限りないエールを。

追記

ミニシアターエイド基金参加映画館・上田映劇がリニューアルしました。

アーケードの文字が「花やしき通り」から「上田映劇」になっている。隣のストリップ小屋のデコレーションも解消

劇団ひとりが2014年に監督した「晴天の霹靂」で、浅草雷門ホールのロケ地となり、その後もロケセットによる外観を残してきた上田映劇がついに、「雷門ホール」の看板を下ろした。

「雷門ホール」のデコレーションが撤去。元々の「UEDA MOVIE THEATER」が引き立つ劇場正面

いいことだと思う。
ぱっと見の意外性はともかく、信州上田の映画館で「雷門ホール」は似合わないから。

〈新生〉なったNPO法人上田映劇とその若き支配人、スタッフの活躍に期待です。

同館今後のラインナップには、パゾリーニ(「テオレマ」「王女メデイア」)、ロベール・ブレッソン(「湖のランスロ」)、ゴダール(「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」)などが含まれていて、オールドファンはにっこりです。

この日の上映ラインナップ

旧上田電気館に降臨!70年代の映画の女神ミムジー・ファーマー

旧上田電気館という映画館が上田映劇の近くにある。
大正10年に開館したという上田で3番目に古い映画館で、近年は東映の封切館として運営されていたが、平成23年に定期上映を終了。
平成29年に、トゥライム・ライゼという館名で、NPO法人上田映劇の傘下の元、定期上映を再開している。

旧上田電気館のエントランス

コンクリート打ちっぱなしの外観。
現在は座席数100のワンスクリーンにて運営し、フィルム映写機も残っているとのこと。

3月のこと、この映画館で、ミムジー・ファーマーという女優の代表作「モア」(1969年 バーベット・シュローダー監督)と「渚の果てにこの愛を」(1970年 ジョルジュ・ロートネル監督)が上映された。

ミムジー・ファーマーは1945年生まれのアメリカ人女優。
キャリアの中では何といっても「モア」が有名だが、日本ではそれほどブレイクしなかった。
が当時を知る世代にとっては忘れられない女優の一人だったようだ。

作品の輸入元はキングレコード。
ベルモンド傑作選の企画、輸入といいレトロ作品の発掘に気を吐いている同社。
映画を愛する担当者が相当に尽力しての企画だと思われる。

「モア」

この作品の時代背景は70年代のヒッピー世代。
医学生をドロップアウトしてヒッチハイクでパリを目指すドイツ人の若者が主人公。
パリで出会った正体不明の女・ミムジー・ファーマーにイカれて、スペインで麻薬三昧の生活を送った末に・・・というストーリー。

冒頭のシーンは雨の道端でヒッチハイクをする主人公。
パリに着いた後、若者のたまり場で、怪しい男を相手になんとなくカード賭博。
スッテンテンにされるが、その怪しい男は主人公に金を返してくれる。

男に連れていかれたパーテイーには大麻を吸う若者たちが所在なく集まっている。
部屋の端っこで焦点の合わない目をしている若者たち。

当時のヨーロッパのドロップアウトした若者の雰囲気が再現されている。
その空気感はまるで当時の記録映画のようだ。

パーテイーで出会う主人公と正体不明のヒロイン。
主人公はヒロインを追ってパーテイー会場の台所へ。
主人公に「カクテル飲む?」と聞いたミムジーは、コップを取り出し、端っこをぐるりと舌で舐めて塩を乗せる。
手に残った塩は吹き飛ばし、コップにカクテルを注ぐ。
ソルテイーカクテルが出来上がる。

電気館で来場者に配っていたカード

主人公は、ミムジーの滞在先の安ホテルまで追いかける。
生活感はないものの、たばこや大麻などの細かなものが雑然としたその部屋。

ミムジーとくっついた主人公はスペインに流れ、大麻のほかコカイン、LSDと麻薬三昧の生活を送る。

普段は〈手抜き〉でしか物事をしないのに(ソルティーカクテルを作るミムジーの場面に象徴的)、大麻を巻くときとコカインを炙って注射器を用意するときだけは集中して、手抜きせず、こまめに動く二人。

ミムジー・ファーマー

パリにたどり着いた主人公からカード賭博で金を巻き上げ、その金を返しに近いづいてきた冒頭の男。
怪しげで何をやっているのかわからないが、悪人ではない20代中盤から後半の男。
この男は、ミムジーに迷い始めた主人公に「彼女には近づくな」と警告し、警告が無視された後、麻薬中毒になった主人公の前に現れ、彼女からの逃げろとアドバイスまでする。

この人物は何?何を表すキャラクター?

アパートの一室や海岸などで開かれるパーテイ。
パーテイといっても参加者は集まって〈まったり〉とするだけ。
ボー然としている、といった方がいいかもしれないない。

周辺に漂う脱力感。
彼らはすでに〈あちらの世界〉へ行ってしまったのか?

ドロップアウトした当時の若者の気分が「ああこの通りだった」と思うほどよく描かれている。

映画が醸し出す雰囲気があまりに懐かしくて、麻薬に溺れてゆく主人公たちが悲惨に見えるというより、「ああこんな奴いた」とむしろ共感してしまった。

これは間違った見方だろうか。

でもいたんだよなあ、旅の途中で出会う若者にはこういったキャラが・・・。
ものすごくいい加減だが忘れられないほど魅惑的な女とか・・・。
汚くて怪しいけど、実は正しくて頼りになる男とか・・・。

ミムジー・ファーマーは何の違和感もなくこの時代のドロップアウトした若者の空気感を体現する。
70年代ヒッピー世代の女神として。

60年代を迎える時、当時の「カイエ・デュ・シネマ」誌でフランソワ・トリュフォーが新人女優ジーン・セバーグを「新しい映画の女神降臨」と絶賛した。

ミムジー・ファーマーは70年代の映画の女神として降臨していたのかもしれない。

本作は2015年のカンヌ映画祭で凱旋上映されたとのこと。

「渚の果てにこの愛を」

1970年のこの作品はおそらく「モア」とミムジー・ファーマーの出現によって企画されたものだろう。
監督はフランスの職人監督・ジョルジュ・ロートネル。
わき役(影の主役)に往年のハリウッド女優・リタ・ヘイワース。

ミムジーはこの作品でも謎めいた女性を演じ、その魅力を発散しまくる。
舞台はリゾート地・カナリア諸島。
流れものがヒッチハイクに疲れてたどり着いた一軒のドライブイン。
そこには息子の帰還を待つ母親(ヘイワース)と妹(ミムジー)がいた・・・。

サスペンスじみた設定と、一筋縄ではいかない登場人物像。
さすがはフランス映画、というべきか。

作り物じみた設定のせいか、ミムジーの演技が、無理をしているかのように痛々しく見えるのが難点。

認知症のふりをし、流れ着いた若者を「息子」として遇するヘイワース。
認知症のふりをしてまで、孤独から逃れようとした末のヘイワードの絶叫がラストシーン。

ハリウッド一の美人女優といわれたリタ・ヘイワースのおそらくキャリアの最終章を飾る叫びであった。

余談1

山小舎おじさんはヒッピー世代(団塊世代)に遅れること約10年。
1982年にアジアからヨーロッパを放浪していました。

当時、すでにヒッピーはいなかったが、インドでネパールでヨーロッパで、大麻はよく吸われていました。
気の合った連中がそろったインド、ネパールの安宿では車座になって吸われました。

大麻は「草」の時のあれば「ハシシ」と呼ばれる大麻樹脂を削って吸うときもありました。
ヨーロッパでも若者はよく吸っていたが、さすがに隠れるようにしてのことでした。
パリに滞在する日本人には安宿の部屋の外にまでハシシの匂いが染みついているような者もいました。

ドイツのユースホステルで白人に誘われ、ハシシを付き合ったときは、周りが気になったのか悪酔いして往生しました。
ああいうものは大勢でやるべきものかもしれません。.

余談2

パキスタンや特にイランなどイスラム圏で麻薬の保持が見つかると冗談では済みません。
イランは当時イスラム革命の後、イラクと戦争中の時でしたから国内が余計ピリピリしていました。

パキスタンからの入国時は、税関職員が家族連れの私服の文官で、荷物検査もなく、むしろ「ドル持ってるか?」と公定レートでの両替をせがみました。
当時のイラン国内の実勢レートは公定の10倍(10分の1とういうのか)でしたので、ドルの価値は絶大だったのです。

一方トルコへの出国時のイランの税関員は陰険な制服姿の男で、有無を言わさずリュックの中味を全部調べられました。
この時、万万が一、麻薬でも見つかったら…。
その後の人生が大きく違ったことだけは間違いなかったでしょう。

余談3

旅を開始した82年4月。
まだ日本の匂いそのものの姿の若き山小舎おじさんが、バンコクからカルカッタまで飛行機に乗りました。

ひげを生やし、髪を地後ろに束ねた30歳くらいの日本人が同乗しており、「地球の歩き方」に紹介されているカルカッタの安宿にたどり着くまで偶然一緒でした。

その日本人は宿に着くなり太い注射器を取り出し、腕をゴムで縛って静脈注射をし、ふーッと安どのため息を漏らしていました。
あれは何だったのか?

谷口千吉と「最後の脱走」

ラピュタ阿佐ヶ谷のモーニングショー・女優原節子特集で谷口千吉監督の「最後の脱走」という作品を観た。

1957年の東宝映画で、原節子と鶴田浩二が主演。
助演で、平田明彦、笠智衆、団令子が出ている。
シネマスコープのカラー作品で、配役からしても、A級作品であることがわかる。

上映は、「フィルムセンター所蔵作品」のタイトルから始まる。
東宝には貸出用のプリントが存在しないから、国立のフィルムライブラリーの所蔵フィルムを借りて上映した、ということ。
フィルムセンターは貸出料金も高く、また映写技術が確かな施設にしか貸し出さない、とのことなので、ラピュタ阿佐ヶ谷の映写技術(フィルムの扱いの丁寧さも含めて)の高さがうかがえる。

作品は、中国戦線の野戦病院に看護婦として動員されていた女学生の一団が、終戦後、引き揚げの最中に八路軍に捕らえられ、その野戦病院に徴用されたのち、脱出するまでを描く。

1957年といえば、戦後からまだ10年。
当時の日本の大人のほとんどが戦争を体験していた時代。
監督の谷口は軍隊経験者だし、原節子と鶴田浩二はともに戦中派の世代で、この作品、軍隊や戦闘のシーンには違和感がない。

特に印象に残っているのが、八路軍の野戦病院が駐屯する〈城内〉の描写。
大陸では、塀で囲まれた〈城内〉に前線の軍隊が駐屯することが多かった。
〈城内〉というのか、〈廟内〉というべきなのか・・・石造りの塀に囲まれて、中華街の入り口のような門から出入りする中国の郡部にあるアレである。

その内部では、軍隊のみならず、軍について歩く商売人やその家族の生活も営まれていた。
子供が右往左往し、飲み屋が開かれ、旧正月には爆竹を鳴らしてお祭りも行われていた。
軍隊経験者だった谷口監督は、こういった状況を描くことで、戦争の〈実態〉を映そうとしたのでだと思う。

ラピュタのパンフレットより

東映のやくざに落ち着くまで、東宝や松竹をうろうろしていた頃の鶴田浩二が主演。
終戦後、八路軍に接収されたヤサグレ軍医役。
腕はよく、八路軍に重宝されているが、日本の敗戦に屈折し、アルコールに溺れている。

話はわきにそれるが、軍医役といえば、思い出すのが「赤い天使」(1966年 増村保造監督)。
芦田伸介扮する軍医は、明日なき戦場の絶望から覚せい剤を自らに打ち、夜な夜な従軍看護婦役の若尾文子を自室に呼びつけては、軍服を着せるなどして相手させる。
この作品、若尾扮する従軍看護婦の無邪気で健康で逞しいふるまいと、その若尾の存在に、救済され、慰められる無力な男たちの姿を描いている。
権威ある軍医といえども戦場の恐怖に日々接していれば覚せい剤に溺れ、看護婦のコスプレに一時の慰めを求めざるを得ないのである。

ついでにもう一つ。
「沖縄決戦」(1971年 岡本喜八監督)の軍医役の岸田森。
玉砕間近の沖縄の野戦病院で、徴用した看護婦らとともにひたすら、明日なき手術に明け暮れている。
徴用された看護婦は当初は傷病兵の切断された足を見て気を失っていたが、だんだん逞しくなってゆく。
守備隊司令官が自決し、野戦病院の解散・撤収が決まった時に、軍医は毒薬の注射器をを自らの腕に当てる。
今は逞しくなった徴用従軍看護婦に「弱虫!」と言われ、寂しく薄笑いし乍ら。

いずれの作品でも、負け戦の中で辛うじて己の矜持を奮い立たせんとするエリートの、しかし消耗し自滅してゆく姿と、圧倒的な生命力でその彼を支え励ます、生命力あふれる女性の姿を描いていた。

シチュエーションは同様の本作はしかし、東宝のA級作品なので、鶴田扮する軍医は、屈折はしているもののヒーローとして描かれる。
また、彼をしたい励ますヒロイン(原節子)は、女学生らの教師としての立場を崩さない。
そういった意味では、明るく楽しい東宝映画ではある。
鶴田の演技が、例によって軟弱にヨタっており、結果として、戦場の軍医の屈折ぶり、衰弱ぶりは強調されてはいたものの。

映画は、トラックによる集団脱走のシーンをハイライトに、銃撃戦の描写や、大掛かりな木造橋の爆破描写なども盛り込まれている。
アクション描写も得意な谷口監督の本領発揮である。
また、女学生の集団を無名のキャステイングにすることで、戦争被害者の匿名性を追求しようという谷口監督の意図も感じる。

戦争を題材にした映画は多々あるが、引き揚げや従軍看護婦、慰安婦などを取り上げた作品に接する機会は多くない現在、貴重な作品でもあった。

助監督は岡本喜八。
後の「独立愚連隊」(1959年 岡本喜八監督)に共通する配役や舞台設定のテイストが濃厚で、岡本喜八監督がこの作品に影響され、引き継いだものが多いことがわかる。

「暁の脱走」(1950年)

谷口千吉監督の出世作の1本に「暁の脱走」がある。

原作の「春婦伝」は軍隊経験のある田村泰次郎の作。
映画は池部良と山口淑子のキャステイング。

谷口監督の軍隊経験が濃厚に漂う1作。

原作では慰安婦で映画では歌姫となっている山口淑子のまなざしが、ただ事ではない。

その、諦観したような、でも運命に逆らうかのような、またすべてを受け入れるかのようなまなざしは、その登場シーンから観るものをして画面にくぎ付けにする。

山口淑子こと李香蘭は、戦前は満州映画のスターとして活躍し、戦中は前線の日本軍を慰問した日々を送り、敗戦後は〈漢奸〉として国民党軍に捕らえられ、軍事裁判を受けた。
〈漢奸〉とは、中国人でありながら対日協力をした売国奴のこと。
裁判で日本人であることが証明され九死に一生を得た。

そういった経験下にあった山口淑子のまなざしは、大陸の悠久と世の無常を達観したような、決然としたもので、これでこの作品の値打も決まった。
併せて、駐屯地内の軍隊の描写も甘さの一切なく、主演池部良の終始こわばったような表情とともに印象に残る。

「暁の脱走」の山口淑子

〈芝居〉の匂いは、小沢栄太郎扮する、私利私欲がらみの上官の出演シーンくらいで、あとはセミドキュメンタリーを見ているような緊張感が画面を支配している映画だった。

「赤線基地」(1953年)

ジョセフ・フォン・スタンバークが日本で撮った「アナタハン」(1953年)でデビューした根岸明美がGIのオンリーを演じ、三国連太郎が帰還兵を演じる映画。

序盤から谷口監督の目に映る、容赦のない戦後日本の現実描写が炸裂する。

リアカーに乗せられて運ばれるパンパン。
絶え間なく震えるその体は麻薬中毒の末期症状だろう。
リヤカーを引いてきたのは、アロハを着た若者。
利用価値のなくなった商品を廃棄場に運んできたかのように、ガムを噛んで貧乏ゆすりをしている。
昨日まで、軍隊の予備学校か、学徒動員されていたであろう日本青年の今日の姿だ。

同胞婦人の肉体と精神を切り売りする行為に寄生して生きることを何とも思わない彼らは、帰還兵・三国の実家の仏壇の上に隠してある麻薬を取りに来る。
三国が出征している間に次男の金子信男がオンリーに離れを貸し、チンピラの言いなりに麻薬の隠し場所を提供していたのだった。
これもまた戦後の日本の姿。

やってきたチンピラたちは三国の制止を無視して仏壇に足をかけ、麻薬に手を伸ばす。
三国の我慢の緒が切れる。
大立ち回りの末、チンピラは撃退される。
一尾始終を見ていた根岸明美。

「赤線基地」の根岸明美と三国連太郎

映画のラストは、過去の自分と訣別し、実家を離れることにした三国がバスに乗り込む。
見ると座席に、オンリーから日本の若い娘の姿に戻り、髪をひっ詰めた初々しさのあふれる根岸明美が座っている。
未来に期待するエンデイングと、厚化粧を取り去った,若々しい根岸明美がまぶしかった。

取っ組み合いなどで遠慮のない三国廉太郎の演技やデビューし立ての根岸明美など見どころは多かったが、なにより、終戦直後の日本の描写に遠慮がない谷口千吉の演出が忘れられない作品だった。

「33号車応答なし」(1953年)

東宝のローテーション監督として活躍していたこのころの谷口監督作品。
志村喬と池部良の警官コンビが事件に巻き込まれるサスペンスの佳作。

事件の展開もスリリングで、よくできた脚本と演出。
配役も、池部の新妻役の司葉子が初々しく愛嬌があったり、ベテラン警官の志村と、新米の池部の描き分けもよい。

この作品で一番、谷口監督らしいと思ったのは、悪漢たちの描き方。
浮浪児を救済する慈善事業を隠れ蓑にしながら、子供たちを悪事に加担させている悪漢なのだが、画面に登場する浮浪児に驚く。
単なる孤児ではなく、明らかに巨人症だったり、奇形に近いような子供を使っている。

谷口監督としては、悪漢たちのいかがわしさを強調するための配役なのだろうが、当然現在では描写できない場面。
この作品が虚構のサスペンスから、敗戦日本のざらざらした現実感を伴った世界へとワープした瞬間だった。
そう仕向けた谷口監督の感性は尋常とはいえまい。

悪漢一味のマドンナ役で根岸明美を配役。
キャリアも浅い新人に、サデイステックな悪女役に挑ませるのも谷口監督の感性か。
少なくともこの女優を大切に育てよう、と思っていないことは確かだったろう。

この後の女優・根岸明美のキャリアの決定打のなさよ。

足を出し、体を強調した路線(「獣人雪男」「魔子恐るべし」)から、巨匠に呼ばれての文芸路線(「驟雨」「妻の心」)を経て、性格俳優路線(「赤ひげ」「どですかでん」)へ。

その迷走ぶりを考えると、根岸明美にとっては、本作で谷口監督に与えられた悪女路線を突っ走るのも、逆にありだったのかな、と思ったりもするくらいである。

川津祐介さん

俳優の川津祐介さんが、先月26日に亡くなった。

なぜ〈さん〉付けなのかというと、筆者の近所に住んでいたからだ。
それこそ20年程前くらいは、自転車で近所を散歩する川津さんを、時々見かけた。

スポーツタイプの自転車を、ショートパンツ姿で乗りこなす景色は、やはり一般人とは違っていた。

ある日曜の夕方、近所のグラウンドの隅で、子供の親仲間と缶チューハイを飲みながらだべっていると、自転車に乗った川津さんがニコニコしながら寄ってきた。

「あつ、川津祐介だ」と思ったが、軽く会釈しただけで、おやじ同士と話を続けてしまい、川津さんとはそれっきりだったが、今思えばもったいないことをした。
「けんかえれじい」(1966年 鈴木清順監督)出演時の話でも聞いてみたかった。

川津さんの自宅前は、通勤時に毎日通った。
娘さんらしき美人がたまに道路を掃いたりしていた。
亡くなる前は自宅で過ごしていたとの報道だった。

川津さんは木下恵介監督に勧められて1958年に松竹入り。
木下作品のほか、大島渚、吉田喜重など若手の〈ヌーベルバーグ〉作品にも出演。
1960年代には大映、日活の作品にも出演し、テレビにも活躍の場を広げた。

「惜春鳥」(1959年 木下恵介監督)。当時の松竹青春スターたちとともに

代表作は「青春残酷物語」(1960年)、「けんかえれじい」、とテレビの「ザ・ガードマン」(1965年~)になろうか。

「三味線とオートバイ」(1961年 篠田正浩監督)。岩下志麻に猛ダッシュ

木下監督好みのさわやかで透明感のある好青年役でスタートし、60年代の若者の屈折を演じ、そのうちにコミカルなアクションものにまで芸域を広げた。
主役を張るというより、器用で、色のついていない共演者としてのポジションで存在感を発揮した。

「けんかえれじい」では、喧嘩の先輩「スッポン」として「南部麒六」に教えを授ける

筆者の印象に残っているのは、上記代表作のほかでは、「赤い天使」(1966年 増村保造監督)の両手をなくす傷病兵役、テレビで飄々と主人公を演じるスパイアクションもの(「ワイルドセブン」?)だろうか。

何気なく見たテレビのスパイアクションでの、川津さんのセリフを今でも覚えている。
その回のドラマのキーワードは『カトレアは蘭の一種』だった。
プールサイドのテラスで、カクテルを前に独特のハスキーな声でそのキーワードをしゃべっていた。
それは、おしゃれでスッとぼけた感じの、川津さんの個性にあったドラマのワンシーンだった。

さんいちぶっくす「スターと日本映画界」

文芸プロダクション にんじんくらぶ

古書店の映画本コーナーで、で「スターと日本映画界」という古めの本を見つけた。
若槻繁という著者名が引っ掛かった。
にんじんくらぶの代表者だった人物が、設立から解散までの13年間を回想した本だった。
1968年三一書房刊の新書版のこの本を500円で購入し、むさぼり読んだ。

表表紙

にんじんくらぶは、1954年に岸恵子が中心になって、有馬稲子、久我美子と3人で結成した芸能プロダクション。
岸恵子の従姉の夫である筆者は、日ごろから彼女の相談に乗っていたことから、俳優のマネージャーとして映画界にかかわることを志し、久我美子、有馬稲子の賛同を得て、マネジメントと映画製作を目的とする会社を設立するに至った。

裏表紙

背景には、岸恵子が松竹に、有馬稲子が東宝に対して抱える〈希望する映画に出られない〉不満があった。

岸恵子は当時恋仲だった鶴田浩二との共演作「ハワイの夜」(1953年 マキノ雅弘監督 新東宝配給)に松竹に無断で出演強行するなど、当時の映画女優としても無茶なことをした。
松竹は契約違反を不問に付し、かえってギャラを2倍にして待遇した。
岸は黙って、気が進まぬ「君の名は」(1953年 大庭秀雄監督)への出演を承諾せざるを得なかった。

有馬稲子も、東宝時代に出演が決まり、役作りに入っていた「夫婦善哉」が制作中止(のちに淡島千景に代わって制作された)となったことなどにより、松竹へ移籍した。
移籍時も松竹との契約内容に、小津作品への出演を盛り込むなど、〈自己主張する〉女優だった。

以後、にんじんくらぶは彼女たちの代理人(マネージャー)として、交渉の窓口となる。
交渉の相手は、産業としての全盛期を迎え、製作から配給、興行までを独占しつつ、専属俳優の他社出演をパージする内容の秘密協定を相互に結んでいた映画会社5社(のちに6社)そのものであった。
5社協定(のちに6社協定)と呼ばれるそれは、独占禁止法に触れるため表には出せないものの、公然の秘密として映画俳優を縛っていた。

にんじんくらぶ創立当時の3人。左から有馬稲子、岸恵子、久我美子

「人間の条件」

にんじんくらぶの歴史の中で、燦然と輝く歴史がある。
「人間の条件」と「怪談」の製作だ。

いずれの作品も、東宝、松竹などのメジャーでは実現不可能な内容、規模であり、その完成度の高さから、海外映画祭での評価も高く、封切り以降も、名画座上映にとどまらず、「リバイバル上映」として封切館で上映された。

ただし、製作面、金策面では困難を極め、「怪談」での損失は、にんじんくらぶの会社消滅の原因ともなった。

「人間の条件」は全6部作、全9時間39分の上映時間。
製作期間4年、原作・五味川順平、監督・小林正樹、松竹配給の大作だった。

軍隊の非人間性に怒りを抱きながら己の正義を貫く主人公に仲代達矢を抜擢。
妻役には新珠三千代。

軍隊経験者の小林監督は、出演者を松竹大船撮影所に集め合宿。
起床ラッパとともに第一軍装に3分以内で着替え、軍隊式の整列、号令を1か月間訓練してから、満州に見立てたロケ地、北海道サロベツ原野に乗り込んだという。

この作品の撮影は、宮島義勇。
戦後の東宝争議では組合の最高幹部として戦い抜いたゴリゴリの闘士。
ロケ地では、体調を崩しながらも粥をすすって撮影を続行したという。

「人間の条件」新珠三千代と仲代達矢

1・2部がベネチア映画祭の予選を通過しながらも、邦画メジャー5社の妨害(勝手に出品辞退を表明)にあう(無事出品し、サンジョルジュ賞銀賞を受賞)などの混乱の中、1959年の公開時、松竹配給収入の1位、2位を「人間の条件」の1・2部と、3・4部が占めた。
全6部作で配給収入9億円の大ヒットとなった。

なお、本作の製作費は3億2千万円余。
松竹の3億円による買取契約だったため、にんじんくらぶは2千万円余の赤字、松竹は6億円の黒字(経費込みの粗利として)となった。

「人間の条件」という作品。
戦争を経験していた当時の日本人にとっては特別のものであった。
筆者の軍隊経験者である父親(大正10年生まれ)は、テレビ版の「人間の条件」を欠かさず見ていた。

「怪談」

先の「人間の条件」が、苦しい製作条件の中完成し、国内でヒットし、海外で高評価で迎えられたた作品であるなら、同じく赤字、海外高評価ながら、語られるのが憚られるような不幸な作品が「怪談」だ。

1964年に製作開始。
監督・小林正樹、撮影・宮島義勇、原作・小泉八雲。

当初の予算は1億円で、7千万を配給予定の東宝が出資。
3千万をにんじんくらぶが金策してスタートした。

ところが最終的にかかった費用は約3億2千万。
東宝はその後3千万円を追加出資し、計1億円を負担したので、不足分の2億2千万はにんじんくらぶが調達することになった。

この作品は、製作当初からスタジオが決まらず(通常は配給する東宝が面倒を見るものだが)、戦時中に爆撃機を組み立てていたという日産車体の工場跡を改修して使用するなど、前途多難なスタート。
加えて、撮影済みネガの現像処理失敗、俳優陣のスケジュールのバッテイング、小林監督の粘り、などで、撮影は遅れに遅れた。

「怪談」雪女に扮する岸恵子

1964年12月に完成。
そこそこヒットはしたものの、興行収入は国内外合わせて2億4千円万ほど。
契約によるにんじんくらぶの取り分は1500万にしかならなかった。

配給会社の東宝は、自らの出資分、興行費用(プリント代、宣伝費等)を配給収入からトップオフし、残りの収益(あるいは損失)を分配(分担)するので、ほぼ赤字になることはない。
リスクは制作会社が負うのである。

こうしてにんじんくらぶは膨大な借金を背負うこととなった。

「怪談」の製作費内訳
「怪談」の配給収入内訳

筆者はリバイバル上映時に「怪談」を観た。
大画面に広がる、隅々まで映像化された幻想、怪異の世界に見入った。
日本映画としては稀有な大作だと思っている。

プロローグ

「怪談」の赤字によりにんじんくらぶは倒産(手形不渡りによる銀行取引停止)。

前後して、久我美子が別のプロダクションへ移り、有馬稲子はフリーとなった。

設立後ににんじんくらぶに加わっていた俳優のうち、渡辺美佐子、三田佳子、小林千登勢らが新会社・にんじんプロダクションに移った。

にんじんくらぶの功績は、その後の俳優グループの発足につながっている。

まどかグループ(佐野修二、佐多啓二)、三文クラブ(三国廉太郎、小林桂樹)などが相次いで発足した。
にんじんくらぶの参加メンバーも増えていった。

これらの動きは、映画産業の衰退とも相成って、非人道的な6社協定の事実上の撤廃へとつながる。

本書は、映画製作者の回想録としては、えてして美化されがちな経歴を赤裸々に吐露し、映画製作の実際と芸能界の不条理をぶちまけており、記録としても貴重なものだ。
内容が若槻社長の身の回りの出来事と、金策面や芸能界のドロドロに偏りすぎているとはいえ。

この後の岩槻繁は、「我が闘争」(1968年 中村登監督)、「愛の亡霊」(1978年 大島渚監督)などの制作にかかわっていることがわかっている。
それ以上のことは検索しても出てこず、生きているのかどうかも確かめようがない。

若槻のウイキペデイアはない。

同書最終ページの広告より、「わが闘争」「三文役者」が目を引く

「映画興行師」と「場末のシネマパラダイス」

映画は、少なくとも商業映画は、観客に観てもらい、興行収益を得てナンボの世界である。

劇場映画の製作には、ピンク映画の300万を最低限に、通常は数千万から億の金がかかる。
製作部門は、当該製作費の回収を皮算用に、予算管理の上、映画を製作し、配給部門、興行部門の人たちは、回ってきた作品の配給料金、興行収入から利益を得て食っている。

費用の面はともかく、趣味の8ミリ映画だって(今でいうなら、ビデオ、デジタル動画か)人に見てもらって完結する、というのが映画のもつ特性だ。

「映画興行師」1997年 徳間書店刊 前田幸恒著

「映画興行師」という本に出合った。
著者は1934年生まれ、1957年に東宝中国支社に入社以来、中四国の東宝直営館の支配人として、映画館運営の最前線にいた人。
映画全盛時代から、下降の時代、現在のシネコン全盛期に至るまで、映画館の運営に当たった。

当時の映画館のスタッフはというと、支配人以下、営業、宣伝、映写のメインスタッフのほか、モギリ、売店のほか、案内係という女子スタッフもいた。
外注の看板製作係もあった。
著者は、最初は営業担当として、のちに支配人として当時の映画館を転勤して歩いた。

昭和30年代初頭は、映画の最大の宣伝媒体は、新聞広告とポスターだった。
若き日の著者は、映画の終映後に、雪の降る山陰の街角へポスターを貼りに出た。

興行の世界は、もともとはヤクザの縄張り。
当時の東宝ではすたれていたが、東映などでは、新任支配人の就任は、やくざ映画の襲名披露もかくや、のスタイルで行われたという。

一方で、東宝直営館の支配人といえば、当時は町の名士。
赤穂に赴任の時は、「義士祭り」のパレード要員として声がかかった。
新任挨拶の訪問先は、役所、学校、公共機関が主だった。

映画が斜陽になり動員数が下がってくると、劇場でインスタントラーメンを売ったり、うどん屋を併設したり、の多角経営にアイデアをふるった。

周辺地域の保育園、学校への営業も欠かさずに、移動映画大会や団体鑑賞による動員につなげた。

映画館数が減少したころの地方の劇場勤務時には、他社作品や洋画も混ぜて上映した。
この時は、配給会社と、作品のセレクトや貸出料金の交渉も行い、映画興行のだいご味を体験した。

〈これをやれば絶対当たる〉というのがないのが映画というもの。
さらには原価と売値が全く連動しない商売が興行というもの。
著者はそれを、ちゃらんぽらんな世界、という。
商社という、世界を股に何でも売る商売人でも興行だけはやらない、という世界。

巻末の資料1

巡り巡って、時代はすでにシネコン全盛期。
世の中は、外資系業者のマニュアル通りに映画興行が行われるようになっている。

大資本を投下し、多スクリーンに同時上映して観客に選択肢を与えているかのように見せながら、実は、画一的な基準と設備を観客に押し付け、業績次第で簡単に撤退しそうなのが〈シネコン〉だと、著者は看破している。

巻末の資料2

生き抜いてきた〈興行〉の世界は、地域の特性に根差し、足で観客を掘起し、工夫して観客を呼び寄せる手作りのもの。

両者の違いは、スーパーマーケットやショッピングモールと、昭和の商店街のごとしである。
映画館でいえば、シネコンより、町の中心街や商店街にあった昔ながらの映画館が断然懐しい。
この本は昭和の映画館の背後の〈興行〉の世界を実体験をもとに描き出してくれた。

「ジブリ系」による口絵

映画興行の今後の推移については見守ってゆきたい。

「場末のシネマパラダイス・本宮映画劇場」2021年 筑摩書房刊 田村優子著

さて、次なるこちらの本。
古い映画ファンにとっては玉手箱のような稀有な本である。

表紙には2代目館主の雄姿が

舞台は福島県本宮市にある、1963年に休業した映画館。
国内唯一と思われるカーボン式映写機が現役で残り、映画上映に必要な機材一式と、これまでに上映した映画のポスター類に配給会社から購入したフィルムまでが残っているというタイムカプセルのような場所。

当館保存の貴重ポスター類

著者は、当館で今も映写機のメンテナンスを欠かさない現2代目経営者の三女として本宮に生まれた。
成長して上京後、広告などの仕事に就くうち、実家の本宮映画劇場の〈お宝〉に気づき、本にまとめて発信するとともに、3代目経営者を修行中の身となった。

著者の父(2代目)が、備品、フィルム、ポスター類を捨てずに残していたから、〈お宝〉たちが残った。
田舎の映画館なので、かつては浪曲、プロレス、ストリップなどの実演も行い、上映作品も、洋画、ピンクを含めた各社の配給作品だったため、残った宣材等の資料もも多種多様。
ピンク映画の上映にあたっては、無数にあった配給会社(製作会社)1軒1軒と直接契約したといい、今では歴史に埋もれた貴重な資料が残った。

ピンク映画のポスターも当館のお宝

倒産に瀕したピンク映画の制作会社から上映プリントを購入したこともあった。
さらに2代目は、手持ちのピンク映画フィルムの名場面を集めて編集した。
この「ピンク映画いい場面コレクション」は4巻にまとめられ、2代目のトークショー付きで、2012年のカナザワ映画祭の晴れ舞台で上映もされたという。

スプライサーによりフィルムを補修する2代目館主

東日本震災での被害はなかったが、2019年の台風によりフィルムが水浸しになった。
万事休すと思われたが、著者(3代目)の友人のフィルム技術者の尽力や日大芸術学部映画学科の機材提供により、フィルムの洗浄、乾燥、つなぎなおしを行い、かなりの程度が復元できたという。
この話、日本にも若い現役の〈フィルムを愛する人たち〉がいるのを知って、読者(山小舎おじさん)も心励まされ、うれしかった。

唯一無二の現役カーボン式映写機

本宮映画劇場は、主に松竹、新東宝と契約して配給を受けてきたが、契約料やその時々の人気によって大映などとも契約したり解除したりしてきた。

また、小さな町なので2本立てプログラムが1週間持たずに、2,3日で変えなければやっていけなかった。
ところがフィルムの貸出料金は1週間単位なので、残りの日数をさらに郡部の上映館にフィルムをまた貸ししたという。
大っぴらには民法上も契約上も法律違反の行為なのだろうが、当時の興行界では配給会社も黙認の行為だったという。

映画の宣伝にトラックにのぼりを立てて走らせたり、移動上映で出張したり、の話は、「映画興行師」の世界をさらに田舎版にした感じ。
この著作、まさに昭和の興行界の歴史を側面から裏付ける資料としての価値もある。

「ゴダール」も上映されていた!

今や映画はすっかりデジタルの世界。
若い人とフィルム映画の話をしていても「映写機のメーカーはなくなったので、今ある映写機は部品が壊れたらもうおしまい」と指摘され、しょぼんとするしかなかった今日この頃。
「場末のシネマパラダイス」は、ドキドキ、キラキラする昭和の映画の世界を眼前に展開してくれました。

フィルム映画と昭和の興行世界はまだ死なんぞ!

昭和の映画宣伝の記録として貴重なトラック街宣風景

「月曜日のユカ」と加賀まりこ、北林谷栄

観たかった「月曜日のユカ」(1964年 中平康監督 日活)の上映に駆け付けた。

神保町シアターの特集「小悪魔的女優論・かわいいだけじゃダメかしら」より。パンフレット表紙

期待通りのしゃれた演出。
期待通りの加賀まりこ。

中平演出は、望遠レンズで加賀まりこの自然な表情を捉えたり、ストップモーションで余計な抒情を廃したり、駒落としや工夫した構図でおしゃれな画面を作り出す。
何を考えているかわからないが魅力のある加賀まりこの存在に、とことん付きまとう〈距離感〉がいい。

神保町シアターのホールのレイアウト写真より

新聞にたばこの火が穴をあけ、空いた穴からカメラが抜け出て場面転換するような演出が続き、観客は目が離せない。

加賀まりこ演じるユカは、18歳で横浜のクラブの売れっ子。
外国船に物品を収めている社長のパパ(加藤武)がいて、半端者のボーイフレンド(中尾彬)もいる。
打算的で刹那的に見えるが、実は聖女と思えるくらい純粋で無垢な存在である。

〈ユカ〉は「道」(1954年 フェデリコ・フェリーニ監督)のジュリエッタ・マシーナ演じる〈ジェルソミーナ〉や、「㊙色情メス市場」(1974年 田中登監督)の芹明香演じる〈トメ〉の、加賀まりこ版である。

加賀まりこ

ユカの母親は、黒人兵のオンリー上がりで、横浜の下町の長屋に住んでいる。
ユカの良き相談相手だ。
母親を演じるのが北林谷栄。
これ以上ない配役。
これ以上ない演技が見られる。

オンリー上がりの母親と、愛人暮らしの娘。
悲惨な境遇だが、映画が描くのは彼女らの神性。

淡々とナレーションを読むような母親の口調。
パパと喧嘩した後の仲直りの仕方、を娘に相談された母親は、自分の経験を話す。
オンリーと喧嘩した後、ハウスへ一抱えもある花びらを持って行ってまき散らしたことを。

パパがユカを大事な話があると呼び出した時、ユカは母親を連れて待ち合わせのホテルへ向かう。
場違いな母の登場に、怒るパパ、冷ややかなホテルの視線。

その時の北林谷栄の困ったような、寂しげな、すべてを受け入れて淡々としたような表情。
その表情は常に社会の底辺にあって、自らも苦労しながらも社会の下支えを強いられ、事が済むと何事もなかったように忘れ去られる存在、の悲しみを物語っている。

こうした演技ができるのは北林谷栄のほかにはいないのかもしれない。
さすがは、「ビルマの竪琴」のリメーク(1985年)においても、第1作(1656年)同様にキャステイングされ、30年越しに、唯一無二のビルマ人のおばさん役を演じた人、だけのことはある。

左、北林谷栄

この作品、原案はミッキー安川だが、もともとは横浜に伝わってきた実話だという。
戦後の横浜をオンリーや愛人として生き抜いてきた親子が実在したのだ。

底辺に生きながらも聖なる無垢な存在。
加賀まりこは天性の輝きで、ユカを演じた。
生涯のベストの演技の一つだろう。

その母役の北林谷栄。
底辺の無垢な女性の、そのまたわき役として忘れられない存在だった。

神保町シアターの特集パンフより。写真の中尾彬(左)が若い

「抱かれた花嫁」と有馬稲子

ラピュタ阿佐ヶ谷で「松竹娯楽映画のマエストロ・番匠義彰」という特集上映があり、「抱かれた花嫁」が上映されたので行ってきた。

松竹3人娘(岩下志麻、鰐淵晴子、賠償千恵子)らの写真を配した、特集パンフレットの表紙

番匠監督は、昭和30年代の松竹プログラムピクチュアのエース監督として、有馬稲子、小山明子、倍賞千恵子、鰐淵晴子らをヒロインにした「花嫁シリーズ」全9作のうち8作品を撮るなどした。

「抱かれた花嫁」はシリーズ第1作で、1957年の作品。
ヒロインは当時25歳の年を迎えた有馬稲子。
松竹初のワイドスクリーンで撮影され、イーストマン松竹カラーなる天然色映画である。

「抱かれた花嫁」のポスター

「抱かれた花嫁」

浅草のすし屋を舞台に、女手一つですし屋を切り盛りしてきた母(望月優子)と看板娘(有馬稲子)の物語。
それに、看板娘と憎からず思い合う青年(高橋貞二)などがからむ。

女手一つで育てた子供たちがいずれも思う通りにならなかったり〈兄は〈文士〉と自称するストッリプ小屋の座付き作家、弟は踊り子と惚れ合っている〉、すし屋がヤクザに荒らされたり、火事で燃えてしまったり、ヒロインがはっきりとゴールインしなかった・・・、と変に〈社会派〉で、〈一筋縄ではいかない〉筋立ては、東宝の「若大将シリーズ」のようにスカッとはいかない。
というか、「若大将」の方が日本映画としては奇跡的に〈能天気〉なだけ、なのだろうけど。

母親の結ばれなかった恋人を登場させ、二人きりでダンスさせる場面など、ワイド画面を生かしたノスタルジックないいシーンがあったりする。

望月優子が恋人から相談があると呼び出され、いそいそと出かける。
恋人は「実は、そのことだが・・・」と口を開く、期待する望月のお母さん。
その相談とは、息子のことであったり、娘のことであった。

期待が失望に変わる瞬間。
喜劇俳優だったら大げさにリアクションするところ、渥美清の寅さんだったらその場はスッと受けて後で「どうせおいらは・・・」と愁嘆場。
ところがわれらが望月母さん、その場はグッと受けて、次のカットでコップ酒をあおるやけ酒のシーンに移った。

といって、ギャグに逃げたわけではなく、いつもの望月優子がそこにいた。
母さんの、〈やり場のない感情をぶちまける演技の絶妙さ〉。
微苦笑を誘うといおうか、ほろ苦さを誘うといおうか、あっと言わせるというか・・・。

二人きりのダンスからコップ酒までの演技は、望月優子の真骨頂であり、この映画のハイライトの一つであった。.

「花嫁」シリーズ第三弾も有馬稲子主演

一方で、映画を支えているのは有馬稲子の若さと美しさ。
特徴でもある、きびきびとした動きとはきはきとした口調、何より登場するだけで面前全体が輝くような明るさ。

小津作品に招かれた、「東京暮色」(1957年)や「彼岸花」(1958年)では、おとなしかったり暗かったりの役柄だったが、プログラムピクチャアでの彼女はひたすら、はつらつと元気に画面中央で輝いている。

貧乏文士の兄(大木実)の世話を焼いたり、踊り子の彼女との交際を母に反対され家出する弟に小遣いを渡したり、けがをした彼氏(高橋)の下宿に花と寿司折をもって見舞いに行ったり。
ポンポン会話しながら、チャキチャキッとひとの世話をして動き回る姿が似合っている。

暗い役柄だった「東京暮色」の有馬稲子

相手役の高橋貞二は当時の松竹三羽烏の一人。
三羽ガラスの相方、佐田啓二と前後して、自動車事故で死んでしまったが、この作品では飄々としてた若者を演じている。

高橋の下宿の隣のアパートに住んでいて、高橋に横恋慕する女優の卵に高千穂ひづる。
部屋の窓越しに手を振ったり、ずんずん部屋にやってきてモーションをかけたり、と積極的な若さ全開。
当時の日本人の住宅事情の開放感!

若者が元気だった時代の日本がひたすら懐かしい。
この作品は、日本映画が若く明るく、女優さんたちが輝いており、つまりは日本が元気だった時代の宝箱のようだった。

特集パンフレットの作品紹介より

有馬稲子

有馬稲子は自伝を2冊出している。

1995年刊の自伝「バラと痛恨の日々」
2012年刊の自伝「のど元過ぎれば」

外地で育ち、戦後、引き揚げてきて女学校在学中に宝塚に入団。
映画界に入ってからは、岸恵子、久我美子と組んでの「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立、以来3人の友情は50年以上の長きにわたる。
中村錦之助と結婚し、離婚。
後半生は舞台で活躍。

盟友・岸恵子を空港に見送る。この〈世話焼き感〉が彼女らしい

自伝では、20代の10年近い間、ある既婚の映画監督と不毛な愛人関係にあったことを告白。
映画監督は市川崑だといわれている。

映画出演は、「白い魔魚」(1956年)、「花嫁シリーズ」など松竹の番線作品に主役で出演したほか、「東京暮色」(1957年 小津安二郎監督)、「夜の鼓」(1958年 今井正監督)、「人間の条件」(1959年 小林正樹監督)、「浪速の恋の物語」(1959年 内田吐夢監督)など巨匠作品にも多く出演した。

有馬稲子の魅力は、主役を飾ったプログラムピクチュアに於いて、より発揮されたように思う。
今後、チャンスがあれば、松竹の番線作品で、はつらつと主役を張っていた彼女の姿を見続けたいものである。

有馬稲子、芳紀22歳


ルイス・ブニュエルと女優達

角川シネマ有楽町で3週間にわたり、「ルイス・ブニュエル監督特集上映・男と女」があったので行ってきました。
今回、デジタルリマスター版で、ブニュエル最晩年の6作品がセレクトされました。

角川シネマの本特集デイスプレイ

上映作品は、ジャンヌ・モローがストッキングを脱いだり履いたりする「小間使いの日記」(1964年)、カトリーヌ・ドヌーブの顔に泥をぶつけて世界的ヒットになった「昼顔」(1967年)、ドヌーブに義足の娘を演じさせた「哀しみのトリスターナ」(1970年)、ブニュエルが再び自由な境地へはばたいた「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(1972年)、支離滅裂なオムニバス「自由の幻想」(1974年)、遺作ながら一切枯れることなく二人の若い美人女優(キャロル・ブーケ、アンヘラ・モリーナの二人一役)を追いかけまわした「欲望のあいまいな対象」(1977年)。

「小間使いの日記」のジャンヌ・モロー

今回は未見の2作、「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」と「欲望のあいまいな対象」を観ました。

有楽町と角川シネマ

角川シネマ有楽町は、有楽町駅前のビックカメラが入っているビルの8階にあります。

角川シネマ有楽町が入っているビルの外観

普段はミニシアター的な封切館なのでしょうか。
シックなロビーとゆったりとした座席を持つ映画館です。
制服を着たモギリのお姉さんから切符を買い、座席指定をして入場します。
座席が配置と床の勾配がとても見やすい劇場です。

角川シネマ有楽町のロビー

有楽町駅周辺には、松竹や東宝の本社が入ったビルがあります。
また、駅前の交通会館というビルには北海道をはじめ各県の物産アンテナショップがひしめいており、帰りに寄るのが楽しみです。

ブニュエルとステファーヌ・オードラン、デルフィーヌ・セーリグ

ブニュエルは美人女優を使うのが好きです。
ドヌーブをはじめとする晩年作の出演女優には、ステファーヌ・オードラン、デルフィーヌ・セーリグ、ビユル・オジェ、モニカ・ヴィッティ、などがいます。

1961年の「ビリデイアナ」にはシルビア・ピナルという美人女優(「小間使いの日記」のジャンヌ・モローと同じく、屋敷に一人住み込んで主に付きまとわれる役で、ストッキングの脱着シーンはもちろんあり)が主演していました。

メキシコ時代のB級作品では「昇天峠」(1951年)のリリア・プラドという主演女優の美しさも特筆ものでした。
乗り合いバスの不条理な旅の物語でしたが、洪水にあってストップしたバスから降り立つときのきれいな足(もちろんブニュエルが演出)が忘れられません。

「忘れられた人々」(1950年)は社会の底辺の人々を描いた作品ですが、掃き溜めにツルの美少女が一人出てきます。
その少女が盲目の乞食に、足がきれいになると勧められて、牛乳で足を洗うシーンがありました。

「犯罪の試み」(1955年)では、生身の女性を脱却してマネキンに恋をした主人公が、ストッキングをはかせたマネキンを燃やしてその恋を成就させます。
これ、2000年代ではなく1950年代の映画です。

「ビリデイアナ」のシルビア・ピナル
「昇天峠」のリリア・プラド
「忘れられた人々」の少女と盲目の乞食
「犯罪の試み」の主人公とマネキン

こう書いてくるとブニュエル映画がいかにフェテイシズムにこだわった、ありていにいえば変態的であるかがわかります。
別な言い方をすると、変態なのは、ブニュエルが糾弾してやまない、聖職者やブルジョワジーをはじめ、その他一般大衆、ということになりますが。

また、ブニュエルは、乞食だったり、小人や不具者だったり、をよく登場させます。
彼らは聖職者やブルジョワジーとは別の意味で堕落しており、だらしなかったり、同じ境遇のものをいじめたりします。
「忘れられた人々」にはスラムの不良少年たちが街角の物乞いをいじめるシーンがあります。
コロ付きの台に乗ってる〈いざり〉の物乞いを、不良少年がからかって台を奪い去って放置するのです。

シュルレアリストであり、反骨の映画作家にして危険人物・ブニュエルの真骨頂です。
現在では描写禁止のシーンです。
聖職者であろうが、ブルジョワであろうが、スラムの不良少年であろうが、乞食であろうが、すべからく人間は、だらしなく、貪欲で、残酷である、とブニュエルは喝破しています。

「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」はブルジョワたちが食事にありつこうとして、なかなかありつけない姿を描いた作品です。
往年のよう〈尖った〉シーンは多くありません。
あらかじめ緊張感が緩んだような画面の中を、ヨーロッパの名優たちが右往左往しています。
その中で、ステファーヌ・オードランという女優さんが目立ってました。

オードランはヌーベルバーグのミューズの一人として「いとこ同志」(1959年)など、クロード・シャブロル作品の常連であり、シャブロルと結婚もして、その後別れてもいます。
ゴダールとアンナ・カリーナの関係に似ています。

シャブロル作品以外では「バペットの晩餐会」(1987年)に出ています。
この作品は出演時に55歳ですから息の長い女優さんです。

ステファーヌ・オードラン。
「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」の時はちょうど40歳になる勘定。
仲のいい上流階級人たちを招き、世話を焼くマダムを演じて、身のこなしがとてもいい感じ。
いっぺんでファンになりました。
親しみのある表情と気取りのないしぐさがいいですね。
さすがブニュエルはわかってます、単なる変態ではありません。

「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」、左:デルフィーヌ・セーリグ、中央:ステファーヌ・オードラン

「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」のもう一人の主役級女優はデルフィーヌ・セーリグ。
「去年マリエンバートで」(1963年 アラン・レネ監督)に出ていた謎の美人です。
このアラン・レネ作品がデビュー作なんですね。

その後、トリュフォーやジャック・ドミーの作品に出ていて、なんとドン・シーゲル監督のアメリカ映画「ドラブル」(1974年)にも出ているんですね
観ましたよ「ドラブル」、リルタイムで。
いかんせん、彼女が出ていたことは覚えていないのが無念ですが。

「去年マリエンバートで」のデルフィーヌ・セーリグ

セーリグは、ステファーヌ・オードランと同年齢とのことですが、セーリグの方が年上に見えますね。
クールで知的な美人のところもブニュエルさんの好みなんですが、品行方正のイメージが強い女優さんです。
本作ではもうちょっと暴れてもらって、上流階級のパロデイ化に貢献してもらってもよかったかもしれない、と思ったりして。

特集上映のパンフより

ブニュエルとキャロル・ブーケ、アンヘラ・モリーナ

ブニュエル遺作の「欲望のあいまいな対象」。
「007ユアアイズオンリー」(1981年)でボンドガールを務めたフランスの美人女優、キャロル・ブーケのデヴュー作です。
スペインの女優で本作出演後に国際的な名声を得ることになるアンヘラ・モニーナがダブル主演です。
ヒロイン役をこの二人で演ずるという映画です。

パンフより。写真はアンヘラ・モニーナ

二人一役ということは、シークエンスごとにヒロインが変わって登場することになります。
物語らしい流れを断ち切り、状況を「異化」したい、また「非日常化」したい、ブニュエルの意図を強烈に感じます。

本作も中年男の妄想と固執を主軸に、妄想の対象たる美女が絡み、物語が思うように進展しないまま、時々突拍子もない出来事が起こる、というブニュエルワールドが展開するのですが、いつもの強烈なフェテイズムだったり、聖職者やブルジョワへの罵倒がやや影を潜めていたような気がするのです。
ブニュエルの変態度数が若干マイルドだったような・・・。

「欲望のあいまいな対象」、キャロル・ブーケ(左)


いつもはブニュエルの、妄執、迷路、不条理、反権威、フェテイズムの描写にニンマリとするであろう観客たちも、この作品ではそんな辛気臭いことは置いといて、華やかな主演女優たちの登場シーンに酔いしれたのではないでしょうか。

おっさんの妄執にかかづり合うには、主演の二人はあまりに若く、魅力的過ぎました。
キャロル・ブーケとアンヘラ・モニーナの若さと美しさにに乾杯です。

ジャンヌ・モロー、カトリーヌ・ドヌーブといった既存の大女優を掌中の珠とし、自らの「ワールド」に取り込んだ実績を持つブニュエルですが、最晩年の本作においては、女優たちが己の魅力をブニュエルの「枠」を超えて発散し始めていたようです。
この傾向は、「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」のステファーヌ・オードランあたりからすでに始まっていたような気がします。

いずれにしても魅力的なブニュエル作品の女優たちです。

帰りには、有楽町駅前にある交通会館のアンテナショップで、北海道や秋田の名産品をお土産に買って帰りました。

ルイス・ブニュエル監督