「抱かれた花嫁」と有馬稲子

ラピュタ阿佐ヶ谷で「松竹娯楽映画のマエストロ・番匠義彰」という特集上映があり、「抱かれた花嫁」が上映されたので行ってきた。

松竹3人娘(岩下志麻、鰐淵晴子、賠償千恵子)らの写真を配した、特集パンフレットの表紙

番匠監督は、昭和30年代の松竹プログラムピクチュアのエース監督として、有馬稲子、小山明子、倍賞千恵子、鰐淵晴子らをヒロインにした「花嫁シリーズ」全9作のうち8作品を撮るなどした。

「抱かれた花嫁」はシリーズ第1作で、1957年の作品。
ヒロインは当時25歳の年を迎えた有馬稲子。
松竹初のワイドスクリーンで撮影され、イーストマン松竹カラーなる天然色映画である。

「抱かれた花嫁」のポスター

「抱かれた花嫁」

浅草のすし屋を舞台に、女手一つですし屋を切り盛りしてきた母(望月優子)と看板娘(有馬稲子)の物語。
それに、看板娘と憎からず思い合う青年(高橋貞二)などがからむ。

女手一つで育てた子供たちがいずれも思う通りにならなかったり〈兄は〈文士〉と自称するストッリプ小屋の座付き作家、弟は踊り子と惚れ合っている〉、すし屋がヤクザに荒らされたり、火事で燃えてしまったり、ヒロインがはっきりとゴールインしなかった・・・、と変に〈社会派〉で、〈一筋縄ではいかない〉筋立ては、東宝の「若大将シリーズ」のようにスカッとはいかない。
というか、「若大将」の方が日本映画としては奇跡的に〈能天気〉なだけ、なのだろうけど。

母親の結ばれなかった恋人を登場させ、二人きりでダンスさせる場面など、ワイド画面を生かしたノスタルジックないいシーンがあったりする。

望月優子が恋人から相談があると呼び出され、いそいそと出かける。
恋人は「実は、そのことだが・・・」と口を開く、期待する望月のお母さん。
その相談とは、息子のことであったり、娘のことであった。

期待が失望に変わる瞬間。
喜劇俳優だったら大げさにリアクションするところ、渥美清の寅さんだったらその場はスッと受けて後で「どうせおいらは・・・」と愁嘆場。
ところがわれらが望月母さん、その場はグッと受けて、次のカットでコップ酒をあおるやけ酒のシーンに移った。

といって、ギャグに逃げたわけではなく、いつもの望月優子がそこにいた。
母さんの、〈やり場のない感情をぶちまける演技の絶妙さ〉。
微苦笑を誘うといおうか、ほろ苦さを誘うといおうか、あっと言わせるというか・・・。

二人きりのダンスからコップ酒までの演技は、望月優子の真骨頂であり、この映画のハイライトの一つであった。.

「花嫁」シリーズ第三弾も有馬稲子主演

一方で、映画を支えているのは有馬稲子の若さと美しさ。
特徴でもある、きびきびとした動きとはきはきとした口調、何より登場するだけで面前全体が輝くような明るさ。

小津作品に招かれた、「東京暮色」(1957年)や「彼岸花」(1958年)では、おとなしかったり暗かったりの役柄だったが、プログラムピクチャアでの彼女はひたすら、はつらつと元気に画面中央で輝いている。

貧乏文士の兄(大木実)の世話を焼いたり、踊り子の彼女との交際を母に反対され家出する弟に小遣いを渡したり、けがをした彼氏(高橋)の下宿に花と寿司折をもって見舞いに行ったり。
ポンポン会話しながら、チャキチャキッとひとの世話をして動き回る姿が似合っている。

暗い役柄だった「東京暮色」の有馬稲子

相手役の高橋貞二は当時の松竹三羽烏の一人。
三羽ガラスの相方、佐田啓二と前後して、自動車事故で死んでしまったが、この作品では飄々としてた若者を演じている。

高橋の下宿の隣のアパートに住んでいて、高橋に横恋慕する女優の卵に高千穂ひづる。
部屋の窓越しに手を振ったり、ずんずん部屋にやってきてモーションをかけたり、と積極的な若さ全開。
当時の日本人の住宅事情の開放感!

若者が元気だった時代の日本がひたすら懐かしい。
この作品は、日本映画が若く明るく、女優さんたちが輝いており、つまりは日本が元気だった時代の宝箱のようだった。

特集パンフレットの作品紹介より

有馬稲子

有馬稲子は自伝を2冊出している。

1995年刊の自伝「バラと痛恨の日々」
2012年刊の自伝「のど元過ぎれば」

外地で育ち、戦後、引き揚げてきて女学校在学中に宝塚に入団。
映画界に入ってからは、岸恵子、久我美子と組んでの「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立、以来3人の友情は50年以上の長きにわたる。
中村錦之助と結婚し、離婚。
後半生は舞台で活躍。

盟友・岸恵子を空港に見送る。この〈世話焼き感〉が彼女らしい

自伝では、20代の10年近い間、ある既婚の映画監督と不毛な愛人関係にあったことを告白。
映画監督は市川崑だといわれている。

映画出演は、「白い魔魚」(1956年)、「花嫁シリーズ」など松竹の番線作品に主役で出演したほか、「東京暮色」(1957年 小津安二郎監督)、「夜の鼓」(1958年 今井正監督)、「人間の条件」(1959年 小林正樹監督)、「浪速の恋の物語」(1959年 内田吐夢監督)など巨匠作品にも多く出演した。

有馬稲子の魅力は、主役を飾ったプログラムピクチュアに於いて、より発揮されたように思う。
今後、チャンスがあれば、松竹の番線作品で、はつらつと主役を張っていた彼女の姿を見続けたいものである。

有馬稲子、芳紀22歳


ルイス・ブニュエルと女優達

角川シネマ有楽町で3週間にわたり、「ルイス・ブニュエル監督特集上映・男と女」があったので行ってきました。
今回、デジタルリマスター版で、ブニュエル最晩年の6作品がセレクトされました。

角川シネマの本特集デイスプレイ

上映作品は、ジャンヌ・モローがストッキングを脱いだり履いたりする「小間使いの日記」(1964年)、カトリーヌ・ドヌーブの顔に泥をぶつけて世界的ヒットになった「昼顔」(1967年)、ドヌーブに義足の娘を演じさせた「哀しみのトリスターナ」(1970年)、ブニュエルが再び自由な境地へはばたいた「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(1972年)、支離滅裂なオムニバス「自由の幻想」(1974年)、遺作ながら一切枯れることなく二人の若い美人女優(キャロル・ブーケ、アンヘラ・モリーナの二人一役)を追いかけまわした「欲望のあいまいな対象」(1977年)。

「小間使いの日記」のジャンヌ・モロー

今回は未見の2作、「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」と「欲望のあいまいな対象」を観ました。

有楽町と角川シネマ

角川シネマ有楽町は、有楽町駅前のビックカメラが入っているビルの8階にあります。

角川シネマ有楽町が入っているビルの外観

普段はミニシアター的な封切館なのでしょうか。
シックなロビーとゆったりとした座席を持つ映画館です。
制服を着たモギリのお姉さんから切符を買い、座席指定をして入場します。
座席が配置と床の勾配がとても見やすい劇場です。

角川シネマ有楽町のロビー

有楽町駅周辺には、松竹や東宝の本社が入ったビルがあります。
また、駅前の交通会館というビルには北海道をはじめ各県の物産アンテナショップがひしめいており、帰りに寄るのが楽しみです。

ブニュエルとステファーヌ・オードラン、デルフィーヌ・セーリグ

ブニュエルは美人女優を使うのが好きです。
ドヌーブをはじめとする晩年作の出演女優には、ステファーヌ・オードラン、デルフィーヌ・セーリグ、ビユル・オジェ、モニカ・ヴィッティ、などがいます。

1961年の「ビリデイアナ」にはシルビア・ピナルという美人女優(「小間使いの日記」のジャンヌ・モローと同じく、屋敷に一人住み込んで主に付きまとわれる役で、ストッキングの脱着シーンはもちろんあり)が主演していました。

メキシコ時代のB級作品では「昇天峠」(1951年)のリリア・プラドという主演女優の美しさも特筆ものでした。
乗り合いバスの不条理な旅の物語でしたが、洪水にあってストップしたバスから降り立つときのきれいな足(もちろんブニュエルが演出)が忘れられません。

「忘れられた人々」(1950年)は社会の底辺の人々を描いた作品ですが、掃き溜めにツルの美少女が一人出てきます。
その少女が盲目の乞食に、足がきれいになると勧められて、牛乳で足を洗うシーンがありました。

「犯罪の試み」(1955年)では、生身の女性を脱却してマネキンに恋をした主人公が、ストッキングをはかせたマネキンを燃やしてその恋を成就させます。
これ、2000年代ではなく1950年代の映画です。

「ビリデイアナ」のシルビア・ピナル
「昇天峠」のリリア・プラド
「忘れられた人々」の少女と盲目の乞食
「犯罪の試み」の主人公とマネキン

こう書いてくるとブニュエル映画がいかにフェテイシズムにこだわった、ありていにいえば変態的であるかがわかります。
別な言い方をすると、変態なのは、ブニュエルが糾弾してやまない、聖職者やブルジョワジーをはじめ、その他一般大衆、ということになりますが。

また、ブニュエルは、乞食だったり、小人や不具者だったり、をよく登場させます。
彼らは聖職者やブルジョワジーとは別の意味で堕落しており、だらしなかったり、同じ境遇のものをいじめたりします。
「忘れられた人々」にはスラムの不良少年たちが街角の物乞いをいじめるシーンがあります。
コロ付きの台に乗ってる〈いざり〉の物乞いを、不良少年がからかって台を奪い去って放置するのです。

シュルレアリストであり、反骨の映画作家にして危険人物・ブニュエルの真骨頂です。
現在では描写禁止のシーンです。
聖職者であろうが、ブルジョワであろうが、スラムの不良少年であろうが、乞食であろうが、すべからく人間は、だらしなく、貪欲で、残酷である、とブニュエルは喝破しています。

「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」はブルジョワたちが食事にありつこうとして、なかなかありつけない姿を描いた作品です。
往年のよう〈尖った〉シーンは多くありません。
あらかじめ緊張感が緩んだような画面の中を、ヨーロッパの名優たちが右往左往しています。
その中で、ステファーヌ・オードランという女優さんが目立ってました。

オードランはヌーベルバーグのミューズの一人として「いとこ同志」(1959年)など、クロード・シャブロル作品の常連であり、シャブロルと結婚もして、その後別れてもいます。
ゴダールとアンナ・カリーナの関係に似ています。

シャブロル作品以外では「バペットの晩餐会」(1987年)に出ています。
この作品は出演時に55歳ですから息の長い女優さんです。

ステファーヌ・オードラン。
「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」の時はちょうど40歳になる勘定。
仲のいい上流階級人たちを招き、世話を焼くマダムを演じて、身のこなしがとてもいい感じ。
いっぺんでファンになりました。
親しみのある表情と気取りのないしぐさがいいですね。
さすがブニュエルはわかってます、単なる変態ではありません。

「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」、左:デルフィーヌ・セーリグ、中央:ステファーヌ・オードラン

「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」のもう一人の主役級女優はデルフィーヌ・セーリグ。
「去年マリエンバートで」(1963年 アラン・レネ監督)に出ていた謎の美人です。
このアラン・レネ作品がデビュー作なんですね。

その後、トリュフォーやジャック・ドミーの作品に出ていて、なんとドン・シーゲル監督のアメリカ映画「ドラブル」(1974年)にも出ているんですね
観ましたよ「ドラブル」、リルタイムで。
いかんせん、彼女が出ていたことは覚えていないのが無念ですが。

「去年マリエンバートで」のデルフィーヌ・セーリグ

セーリグは、ステファーヌ・オードランと同年齢とのことですが、セーリグの方が年上に見えますね。
クールで知的な美人のところもブニュエルさんの好みなんですが、品行方正のイメージが強い女優さんです。
本作ではもうちょっと暴れてもらって、上流階級のパロデイ化に貢献してもらってもよかったかもしれない、と思ったりして。

特集上映のパンフより

ブニュエルとキャロル・ブーケ、アンヘラ・モリーナ

ブニュエル遺作の「欲望のあいまいな対象」。
「007ユアアイズオンリー」(1981年)でボンドガールを務めたフランスの美人女優、キャロル・ブーケのデヴュー作です。
スペインの女優で本作出演後に国際的な名声を得ることになるアンヘラ・モニーナがダブル主演です。
ヒロイン役をこの二人で演ずるという映画です。

パンフより。写真はアンヘラ・モニーナ

二人一役ということは、シークエンスごとにヒロインが変わって登場することになります。
物語らしい流れを断ち切り、状況を「異化」したい、また「非日常化」したい、ブニュエルの意図を強烈に感じます。

本作も中年男の妄想と固執を主軸に、妄想の対象たる美女が絡み、物語が思うように進展しないまま、時々突拍子もない出来事が起こる、というブニュエルワールドが展開するのですが、いつもの強烈なフェテイズムだったり、聖職者やブルジョワへの罵倒がやや影を潜めていたような気がするのです。
ブニュエルの変態度数が若干マイルドだったような・・・。

「欲望のあいまいな対象」、キャロル・ブーケ(左)


いつもはブニュエルの、妄執、迷路、不条理、反権威、フェテイズムの描写にニンマリとするであろう観客たちも、この作品ではそんな辛気臭いことは置いといて、華やかな主演女優たちの登場シーンに酔いしれたのではないでしょうか。

おっさんの妄執にかかづり合うには、主演の二人はあまりに若く、魅力的過ぎました。
キャロル・ブーケとアンヘラ・モニーナの若さと美しさにに乾杯です。

ジャンヌ・モロー、カトリーヌ・ドヌーブといった既存の大女優を掌中の珠とし、自らの「ワールド」に取り込んだ実績を持つブニュエルですが、最晩年の本作においては、女優たちが己の魅力をブニュエルの「枠」を超えて発散し始めていたようです。
この傾向は、「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」のステファーヌ・オードランあたりからすでに始まっていたような気がします。

いずれにしても魅力的なブニュエル作品の女優たちです。

帰りには、有楽町駅前にある交通会館のアンテナショップで、北海道や秋田の名産品をお土産に買って帰りました。

ルイス・ブニュエル監督

「野獣の青春」と「曽根中生自伝」

「野獣の青春」1963年 日活作品 鈴木清順監督 宍戸錠主演

渋谷シネマヴェーラの特集「役を生きる 女優・渡辺美佐子」で「野獣の青春」を観た。

特集ポスター。日活時代を中心に、渡辺美佐子作品が並んだ

独特の語り口が映画マニアに人気で、2017年に亡くなった鈴木清順監督の49作品中、清順美学と呼ばれるものが開花したきっかけの作品といわれる。
改めてとても面白い映画だった。

日活専属監督として数々の作品を演出してきた清順監督。
「美学開花」した以降の主な作品だけでも、任侠もの(「花と怒涛」「刺青一代」「東京流れ者」)、ギャングもの(「くたばれ悪党ども」「殺しの烙印」)、青春もの(「悪太郎」「けんかえれじい」、女もの(「肉体の門」「河内カルメン」)と様々なジャンルをこなしている。

主演は小林旭、高橋英樹、宍戸錠、山内賢、渡哲也、野川由美子と、会社の指定通りの配役で一貫性はない。
何より40本を超える日活作品を継続的に作り続けたという事実に、映画監督としての腕の確かさと会社の信用が示されている。

その後、1967年の「殺しの烙印」が、会社から「わけのわからない」映画といわれた挙句解雇され、10年間のブランクが生じることになる。

「殺しの烙印」、宍戸錠と真理アンヌ

で、「野獣の青春」。
一番の印象は、映画そのものの豊かさ、だった。

「野獣の青春」、キャバレー側から組事務所をみる

ストーリーの骨格はギャング組織に潜入した元警察官の復讐譚。
そのシンプルな骨格が、多彩なキャラクターや舞台装置、アクションのアイデアなどを加味した演出によって膨らむこと膨らむこと!

主人公(宍戸錠)の正体からして、最初はよくわからない。
組み立て式のライフルを持ち歩いていたり、それを組織の仲間にあっさりくれてやったりする。
真面目なのかふざけているのかわからない、宍戸錠のキャラクターを生かしている。
復讐に一直線の正義のヒーローには描いておらず、それが遊びと膨らみを生む。

組織で主人公が唯一気を許すチンピラ(江角英明)のキャラがまたいい。
対立組織の幹部(郷瑛治)のアジトで郷を待ち伏せる間、郷の情婦にホレたり、主人公と仲良くなったり裏切ったり。
まったくとらえどころがない人物像だ。

組織の幹部兄弟(小林昭二、川地民夫)のサイコパスぶりの描写も強烈で、正統派の悪役像の何倍怖いことか。

「野獣の青春」、錠に川地のカミソリが迫る

人物描写に幅があるだけでなく、アクションにもアイデアが満載だ。
錠のピンチに江角が意外なところからライフルを持って出て来たり。

だいたい、組織のアジトからキャバレーのホールがマジックミラーで見えるようになっていたり、対立組織(信治二組長)のアジトが映画館のスクリーンの裏にあって、「信欣二」のクレジットが映っていたり、普通するか?

最高だね。

サイコパス兄弟の兄(小林)が裏切った情婦をサディステックに鞭でいたぶるシーン。
ベランダから逃げる情婦を追って外へ出ると、そこは風吹きすさぶススキが原!
ススキが原で情婦を鞭打ちながら感極まる、のちのウルトラマン科学特捜隊隊長・小林昭二。

これって何?

シネマヴェーラ特集パンフレット、作品紹介より

清順後期の作品に「刺青一代」(1965年)がある。
作品ラストの高橋英樹の殴り込みシーン。

屋敷に乗り込み、敵の親分を追ってゆくと、まるで歌舞伎の舞台のように襖が次々に開いてゆく。
開け切った背景が赤く染まっている。
まるで殴り込むヒーローの燃え盛る心情を表すかのように。

ラスト、自首しにゆくのか、ゆっくりと歩を進める英樹の足元。
その足元に1枚1枚舞い落ちる花札。
まるで己の散り際をわきまえ切ったやくざ者の心境を表すように。
その英樹の後を追う和泉雅子。

これら「刺青一代」のけれんみあるシーンにも負けず劣らず。
すっとぼけシーンが炸裂しまくるのが、この「野獣の青春」だった。

シネマヴェーラのホールに飾られていたポスター

「曽根中生自伝」2014年 文游社刊

主に日活ロマンポルノで活躍した曽根中生監督は1962年の日活入社。
同期入社の助監督仲間は大和屋竺、山口清一郎などの面々。

助監督2年目に「野獣の青春」にフォース(4番目の助監督。カチンコ係)でついてから、共同脚本も含め清順組が多かった。

監督昇進後は「新宿乱れ街いくまで待って」(1977年 山口美也子主演)「天使のはらわた赤い教室」(1979年 水原ゆう紀主演)などの忘れられない作品を発表。
今でも根強いファンを持つ(それゆえの自伝出版)。

今回、その自伝を読むチャンスがあった。

「曽根中生自伝」表紙
同書奥付

「自伝」の中から、清順と「野獣の青春」に関する曽根のコメントを抜粋してみる。

 ・入社当時、助監督の間で鈴木清順の「8時間の恐怖」(1957年 金子信雄主演)が伝説の作品になっていた。

 ・鈴木さんの脚本は、既成の部分がバッテンで消えていて、余白に自分で書き直した文字が書かれていた。
  現場で、その脚本をスクリプターとフォース助監督で取り合って書き写す。
  助監督は書き足した内容に従って小道具などの手配に入るが、小道具係はわかっていてあらかじめ多くの種類 
  の小道具を仕込んで待っていた。

 ・(清順組についてみて)初めて乗り越えるべき人間が現れたと感じた。ああ私は映画をやってるんだという意
  識が生まれた。

 ・「野獣の青春」のラストで、川地民夫が渡辺美佐子の頭を抱えて、カミソリですだれ切りにしているシーンを
  撮影したが映倫と会社の指示でカットした、が、それをカットしたら作品の眼がなくなると思った。

 ・「野獣の青春」はラッシュの時までは、何をやっているのかわからなかったが、つながって初めて「えー」と
  いう感じになった。

 ・それまでついた監督はみんなスターシステムに寄りかかって生きていた。B級映画を創り続けてそこからA級
  映画を生み出してゆく人を初めて知った。

自伝中にあふれる、曽根監督の清順への忘れられぬ印象と関心。
鈴木清順が曽根中生に、映画監督として多大な影響を与えたことがうかがえる。

曽根中生監督(「嗚呼!花の応援団」のころ)

曽根はまた、同期の大和屋、山口に美術の木村威夫、脚本の田中陽造などを加えた脚本家グループ・具流八郎に参加し、清順作品を中心に脚本執筆に当たる。
「殺しの烙印」(1967年 宍戸錠、真理アンヌ主演)の脚本を執筆。

この作品は、鈴木清純順が日活を解雇される原因の一つととなる。
一方、曽根は清順グループの座付き脚本家の一員、いわば一座のエリートとして抜擢された経歴を得ることとなる。

鈴木清順問題共闘会議

鈴木清順が日活を解雇された後、川喜多和子主宰の「シネクラブ」が回顧上映のため、清順作品の貸し出しを日活に申し入れたが、日活に拒否されたことをきっかけに、映画人が共闘会議を設けた。

会議のメンバーは川喜多を中心に、曽根ら日活の助監督、若松プロ、足立正生などが合流。
松竹助監督の山根成之もいたという。

鈴木清順は不当解雇などで日活を訴えたが、のちに和解に応じる。
共闘会議、訴訟の時代の間の10年間、清順は映画撮影の現場から遠のくこととなった。

(余談1)

山根成之の7本目の監督作「続・愛と誠」(1975年 早乙女愛主演)を札幌駅地下の二番館で観たとき、誠(南条弘二)が黒い背景の前をスローモーションで走って横切り、それを追って〈講談調〉の文字が、縦書きで画面一杯に現れたシーンにびっくりしたことがある。
松竹映画でこんなことやっていいのか?まるで<鈴木清順>ではではないか?と。

山根が清順共闘会議にいたということを「曽根自伝」で知り、40年以上ぶりに合点がいった。
あのシーンは、山根成之が鈴木清順に捧げるオマージュだったのだ、と。

(余談2)

山根成之には「突然、嵐のように」(1977年)という作品もある。
「さらば夏の光よ」(1976年)で郷ひろみと秋吉久美子を主人公に、若い二人の青春をほろ苦く描き、郷ひろみを役者として一本立ちさせた山根の、その翌年の同じ主演コンビの作品だった。

山根がノッている、コワイモノナシの時期の作品だったが、この作品には妙に忘れられないカットがあった。

主人公たちが電車に乗るシーン。
手持ちカメラも後を追って乗り込む。
ライティングはなし。
カメラの絞りは固定したまま、車内と人物は暗くつぶれたままだ。

絞りを意識しないまま、小刻みに揺れる画面。
まるで若者たちの日々揺れ動く心情に共感するかのように。

日活ロマンポルノの、特に曽根中生作品でよく出てくる撮影手法だと思った。
この時期の自主映画にも多く見られた撮影方法でもあった。

松竹映画もこんな撮影をするようになったのか!と思った。
今にして思えば、これも、日活の曽根中生ら同世代の監督に対する山根からのエールだったのか?

鈴木清順と曽根中生と山根成之。
45年ぶりに3者のつながりに気づかされた山小舎おじさんでした。

「愛のきずな」と園まり

ラピュタ阿佐ヶ谷の今日の特集は「日本推理小説界の巨匠・松本清張をみる」でした。
特集の目玉はニュープリント上映の2本、「黒い画集・あるサラリーマンの証言」と「愛のきずな」でしょう。

「黒い画集」は小林桂樹がシリアスな役を演じており、小心なサラリーマンが身の程も知らずに若いOLを囲ったことから引き起こされる身の破滅を描いたもの。
1960年の作品です。

高度成長期とはいえ、中堅企業の中間管理職が郊外に庭付きの一戸建を持つのはいいとしても、返す刀?で、部下のOLを国電大久保駅近くのアパートに囲うなど、そんなことができた時代だったのか!?と感慨も新た。

愛人のアパートに仕事帰りに寄っては、窓を開け、ステテコ一丁になってビールを飲み、事後のんびり自宅まで帰ってゆく小林桂樹。
当時のアパートとてドアに鍵もかけていない。
小市民のサラリーマンが浮気をするのにこんなにわきが甘いなんて!これが「時代」というものなのか?

案の定、愛人アパートから出たところで、思いもよらず自宅の隣人と会い、そのことが身の破滅につながってゆく。

愛人を演ずるのは、新東宝スターレットでデビューし、東宝へ移籍した原知佐子。
当時24歳で若さがはじける演技派女優は、職場シーンでの事務服と、アパートで上司を迎える時の若さ溢れるショートパンツ姿の対比も鮮やかに、若い愛人役の裏と表を熱演していました。

ラピュタ阿佐ヶ谷のパンフレットより

そしてこの日観たのが「愛のきずな」。
主演の園まりが所属していた渡辺プロと東宝の1969年の提携作品。

当時、中尾ミエ、伊東ゆかりと3人娘で売り出していた園まりは独特の色気とねっとりとした歌唱力と、おじさん好みの丸顔で、すでに独自のキャラクターを築いていた。

2代目三人娘(左から伊東ゆかり、中尾ミエ、園まり)

「逢いたくて逢いたくて」など、当時10歳以上の日本人なら誰でも知っているヒット曲を連発し、アイドル歌手として不動の地位にあった。
余談ながら、当時はアイドルであっても歌手である以上、歌唱力があるのは当たり前で、歌のヘタなアイドルが出てきたのは後になって浅田美代子(山小舎おじさんと同い年)が現れるのが初めての時代でした。

園まりは当然ながら素人がまねのできないレベルのプロの歌手だった。

まだ若さの残る藤田まことが車を運転する夜のシーンから始まる「愛のきずな」。
テーマ曲の「一人にしないで」をバックにメインタイトル。

早くも鮮やかな歌謡映画のムードに支配される館内。
上映後の園まりのトークショーにも期待が高まる。

このポスター用の写真を撮影中に松本清張がサプライズ訪問したとのこと

藤田まこと演じる小心なサラリーマンが現実逃避の浮気の末に身を破滅させるストーリー。
藤田が迷う浮気相手が園まり扮する謎の女。

園まり扮する謎の女は、服役中の夫がいる身の上を隠して藤田と付き合い、小心者藤田に霧ヶ峰山中で絞殺(未遂)される。
ほとぼりが冷めたと思われる頃、岡谷の喫茶店の売れっ子ウエイトレスとして藤田の前に偶然現れる園まり。
ただし記憶喪失の別人格の人間として。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフレットより

もともとが犯罪サスペンスである上に、園まり自体のミステリアスな色合いが重なり、場面転換の度に流れる「一人にしないで」のメロデイーが効果を挙げ・・・。

美しさの絶頂期の園まりと、ニュープリントの色調も鮮やかなカラーで再現された〈夢か現か幻か〉の映画的世界の恍惚。

映画はこうでなくちゃ!

藤田まことがハマっている。
小林桂樹を少し若くした年代の小心者サラリーマンを無理なく好演。

表面上は社会(会社)に適応し、うまく世の中を渡っているかのように見えて、心の底にある不満がふと顔を出し、よしゃあいいのに・・・というやつ。

当時の管理職は出前を取って自分の机で昼飯を食べていたのですね。
課長より安めのうどんを取り、課長より後に配膳しろと出前持ち(左とん平)に文句を言う藤田の小物ぶりにうなされます。

かつて日本の男優は兵隊役が似合うといわれていた(女優は娼婦役)が、時代は変わり、「分不相応な浮気をし、身の破滅におののく小心者」が、その似合う役柄になっっていたのかもしれない。

藤田が会社の専務から押し付けられた、かつての不良娘(現在の女房)が、この時実年齢32歳の原知佐子。

髪にカーラーを巻き付けたネグリジェ姿で登場した彼女は、終盤近く浮気現場に乗り込んで「もともと愛してなんかいない。あなたの役割は会社へ行ってこれまで通りにすること。明日から平日ですから早く帰って寝ることね」と宣告し、藤田をさらに絶望させる。
実力派女優はこの作品でも絶好調でした。

上映後のトークショーに登場した園まりさんご本人。
遠目ながら独特の美しさは健在の様子。

映画についてはあまりいい記憶はないようで、「当時24歳でヒット曲が少なくなり、渡辺プロが企画したものなのでしょう」「この作品も私自身あまり見たくない」と言葉があまり出てこない。

それでも聞き手に話を振られ、(首に手をかけられる絵柄の)ポスター撮影中に原作者・松本清張がサプライズ訪問したというエピソードを披露。
当時は結婚寸前の大恋愛をしていたとのこと。

トークショーが終わり撮影タイムの園まりさん。皆に手を振る

歌の話になると段々に言葉が出てくるようになり、「中尾ミエにいじめられていて3人娘の復活にも気が進まなかったが、現在では仲良くなった」「伊東ゆかりとは今でもよく電話する仲」と。

司会者から、「逢いたくて逢いたくて」のレコーデイングでは作曲の宮川泰さんから、色気がありすぎるとツーテイク目を指示されたというエピソードを紹介され「色気も何も一生懸命歌っただけ」と回答。

自作「一人にしないで」は気に入った曲の一つとのこと

当時のプロの歌手の職業意識がうかがえるエピソードでした。

本人が意識しない当時の色気は、現在だったら「あざとい」といわれるレベル。
園まりのキャラクターは、唯一無二の個性であることをうかがわせる。

この日は、〈プロの芸能人〉の、その全盛期の姿を観た。
そこには切り売りされた芸能の見事さにとどまらない、芸能人の存在そのものが映し出されていた。

日本の文化は、映画は、芸能は、奥が深い。
ヘヴィローテーションで脳内を駆け巡る「一人にしないで」のメロデイーとともに、ただひたすら感じ入る定年おじさんでした。

「ハリウッドメモワール」

1914年生まれのバッド・シュルバーグが映画プロデユーサーの父とともにハリウッドで暮らした当時、1920年代の自伝,「ハリウッドメモワール」を読んだ。
1982に発表された「Movinng Pictures」が原作である。

同書の表紙にはB・Pの愛人、シルビア・シドニーがアップされている
著作の奥付き

著者は、ロシアやバルト三国出身のユダヤ人の両親の元、移住先のニューヨークのユダヤ人ゲットーで生まれた。

著者の父親、B・P・シュルバーグはニューヨークで映画広告文のライターを始めてから映画業界に入り、のちのパラマウントのタイクーン、アドルフ・ズーカーの下で売り出した。
ズーカーはオーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ人で、アメリカ移住後、毛皮商で身を起こし、劇場経営で財を成してから映画製作に乗り出していた。

B・Pのボスだったメイヤー達

B・Pはさらに、ルイス・B・メイヤー(のちのMGMのタイクーン)の下で働き、たもとを分かったのちも大物プロデューサーとして映画界に君臨した。

一家はこの間、ニューヨークからハリウッドに移住し、著者は映画スタジオのボスの御曹司として何不住なく育った。
一躍、超高給取りとなったB・Pは、趣味のボクシング観戦と高額掛け金のギャンブルをエンジン代わりに映画製作に邁進してゆく。
自分の地位の安泰には何の保証もないヤクザな世界で、権力者たちの裏切りに会い、配下の監督やスターたちのわがままに日々付き合い、日常的には夜中までの打ち合わせ、本読み、試写をこなす毎日。

この時代、ハリウッド黎明期のタイクーンたちは、例えばキエフ出身の装身具製造業者(ルイス・セルズニック)だったり、ワルシャワ生まれの手袋のセールマン(サミュエル・ゴールドウイン)だったり、ミンスクに生まれカナダ移住後はくず拾いをして少年時代を過ごし(ルイス・B・メイヤー)たユダヤ人たちだった。
ポーランドの靴屋の息子だったハリー・ワーナーはスタジオを見回りつつ落ちている釘を拾っては口にくわえて歩くのが習だったという。

著者の家族。愛人宅から無理やり連れてこられた父B・Pの表情が渋い(左が著者)

本作では、この時代(1920年代)に子供時代を過ごした著者が、スタジオ(父親のB・Pが支配しているパラマウントの)で、自宅で、見聞きした、映画人の素顔がつづられる。

そこに登場するのは、クララ・ボウ、エリッヒ・フォン・シュトロハイム、ジョセフ・フォン・スタンバーク、フレデリック・マーチ、フランク・キャプラといった面々。
なんとハリウッド訪問中のエイゼンシュテインとも交流している。

貴重な当時のエピソードがつづられる。

 シュトロハイムが映画史に残る2作品(「メリーウイドウ」と「グリード」)世に出しつつ、大幅な予算と撮影期間の超過によりMGMから放逐された後、B・Pが彼を迎えて「結婚行進曲」を撮らせたものの、嵐のような2年間の製作期間ののち、さすがのB・Pも制作ストップの命令を出さざるを得なかったこと。

メガフォンを取るシュトロハイムの雄姿

 愛嬌のある下町娘をクララ・ボウとしてスターに育てたB・P。
 彼女は売り出しイメージの「イットガール」そのものの私生活ぶりだったが、当時子供の著者バッドには優しかったこと。

少年時代の書写にやさしかったクララ・ボウ

 革命ソビエトからハリウッドを当時訪問していたエイゼンシュテインに対し、B・Pは2、3の企画を提案していたこと!
 当然実現しなかったその企画は、1本は西部劇で、もう1本は米ソ合作の「戦争と平和」!だったこと。

一方、著者が最も心痛めたのが、センシティブな自身の感性との折り合いと両親の不仲による傷つき。
吃音に悩み、学友にいじめられた学校時代。

父親は自身が売り出したハンガリー系のユダヤ人女優、シルビア・シドニーのもとに走り自宅へ帰ってこない。
フロイトを理解し、進歩的な思想家ながら、浮気する夫を見限り、映画界初の代理人業で打って出る母への複雑な思い、は本作の重要な背景をなす。

著者が生涯許せない父の愛人シルビア・シドニーが出演した「蝶々夫人」。右は若き日のケーリー・グラント

やがて大学入学を前に、著者は車で大陸横断し東部へ行く。
1930年初頭の自動車の旅は、モンタナ州の崖でトラックとすれ違いざまに脱輪したり、パンクとガス欠で何時間も通りかかる車を待ったり、同行することになった車がヒッチハイクの女の子を乗せたた挙句、横転し、同行者と女の子が入院することになったり。

ひとたび親もとを離れた筆者のこころに映る世間の風は厳しい。
「こいつらハリウッドの汚らしいユダ公めら、俺っちの娘っ子たちにいやらしい手を出しやがった」(本書388ページ)というのが、自分たちに向けて発信される世間一般の心情だということに気づく。

著者の感性はまた、東部のダートマス大学予備校にあって、ユダヤ人としての被差別意識を端々に痛感する。

1930年代となり、映画産業(製作、配給、興行を統合していた時代の)がユダヤ商人たちの独占から、銀行資本などの参入と支配が始まった時代のハリウッド。
著者が自らの成長に重ね合せ、その時代のハリウッドうを活写した貴重な記録である。

裏表紙は著者の顔写真

(余談1)

本書の子供時代や青春時代の描写に、ユダヤ人作家サリンジャーの「ライ麦畑で捕まえて」と共通するテイストを感じた。
センシテイブでどっちつかずの感情描写が似ていた。
どうしてもユダヤ人の感性の共通性(そんなものがあるとして)を感じてしまう。

(余談2)

本著者が学校時代に級友にいじめられ、毎日ハリウッドの豪邸に逃げるように帰っていたというところを読んで、ウッデイ・アレン自作自演の自伝的映画「泥棒野郎」(1969年)の一場面を思い出した。

それは子供時代のアレンが、いじめっ子に出会う度に眼鏡を引き落とされて踏みつけられる何度かのシーンの後、いじめっ子と出会ったアレンが、あわてて自分から眼鏡を落として自ら踏みつぶすというシーンだった。

自虐的までにセンシテイブなところが、ユダヤ人の精神性なのであろうか。

「STRANGERS in HOLLYWOOD」より ロバート・シオドマクの「モルナール船長」

ドイツ出身のユダヤ人監督で、アメリカ亡命後はB級サスペンス映画の巨匠といわれたロバート・シオドマクのフランス亡命時代の作品「モルナール船長」(1938年)を観た。

ストレンジャーズインハリウッド特集で見た15本(内シオドマク作品が10本)中の忘れられない作品だった。

パンフレットの作品紹介より、右がモルナール船長役のアリ・ボール

出演者は知らない俳優ばかり、設定はフランスの船乗りの話で、舞台は寄港先の上海と帰港後のフランスの港町。
主人公は初老を迎えようかという中年太りのおっさん。
「つかみ」はよくない。

前半に描かれる、戦前の上海の風景とフランス租界の暗黒街(飲み屋の女たちのやさぐれぶりや、植民地に巣食う小物ギャングたち)のエキゾチズムに目を引かれているうちに、だんだん映画の本筋にはまっていく。

肝臓が肥大しているような成人病体形のモルナール船長は、実は船長として卓抜した経験と技量を持ち、船員を見事に統率し、また己の信念に生きる男の中の男だった。
同時に自宅に残る妻との関係は冷え切り険悪で、船主の会社幹部からは腕利きながら要注意人物として嫌われ、また、寄港先では武器の密輸でポケットマネーを得ている人物でもあった。

密輸に手を染める人物だが、現地のギャングたちとわたりあい、もめごとは部下たちと力を合わせて実力で解決してゆく堂々たる男っぷり。
いざとなるとガンアクションも辞さない身のこなしは、体形にかかわらず粋にアクションをこなす中年フランス人俳優の真骨頂だ。
ジャン・ギャバンやイブ・モンタンを思い出す。

モルナールたちの上げ足を取ろうとする船主にも忖度一切なしで正面からの対決姿勢を貫き、結果、船長の任務から外される。
偽善に満ちた帰港地での歓迎行事は船員ともども完全に無視し、酒場へ直行する。
ここら辺は、シオドマク監督の社会派、正義派ぶりが表れていないか。

意地悪な妻にも妥協せず立ち向かうが、両親の喧嘩に心を痛めた娘が家を飛び出し海に身を投げると、すかさず後を追って飛び込み、ずぶ濡れの娘を海から救い上げる頼もしい父親でもある。
この娘は病に伏した父の最後の願いをかなえるため、それまで言いなりだった母に抵抗して、父が仲間のいる船で最期を迎える手助けをし、父親の愛情に応える。

余談だが、冷え切った関係の妻ということでは「容疑者」(1944年)での主人公チャールス・ロートンの妻役を思い出すし、健気な少女像ということでは「らせん階段」(1946年)のドロシー・マクガイアを思い出す。
どちらのキャラもシオドマクの好きなキャラなのかもしれない。

「ストレンジャーズインハリウッド」特集のパンフレットより

決して聖人君主ではなく、社会とうまくやれず、カミさんの操縦にも失敗しているが、己の生きる道にだけは精一杯取り組み、問題を解決してゆく実力を有し、何より全幅の信頼がおける仲間がいる。
そういった男の人生を、ギャグでごまかさず、反対意見を取り入れてボカさず、ストレートに描いている。

脚本はフランスの名脚本家、シャルル・スパーク。

人間性と正義感を肯定した正攻法のドラマが本来のシオドマクのスタイルなのだろうと感じる。
戦争がなければドイツで堂々たる人間ドラマを作ったことだろう。

「STRANGERS in HOLLYWOOD」の女神たち その2

ジュリー・ハリスと「結婚式のメンバー」

「エデンの東」(1955年)でジェームス・デイーンの兄の婚約者役を演じたジュリー・ハリスが12歳の少女役を熱演した「結婚式のメンバー」を観ました。
コロンビア配給、1952年のフレッド・ジンネマンの監督作品です。
ジンネマンとしては「真昼の決闘」(1952年)の後、「地上より永遠に」(1953年)の前の作品になります。

シネマヴェーラのパンフレットより

舞台は南部の片田舎の一家庭。
登場人物は主人公の少女(ハリス)と黒人のメイド(エセル・ウオーターズ)、少女のいとこの少年(「シェーン」のブランデン・デ・ワイルド少年)にほぼ限定された舞台劇のようなドラマです。

主人公の癇性な少女が、閉鎖的な土地柄と人間関係に強烈な違和感を抱きつつ暮らしている中で、いとこの結婚や自らの体の成熟を機会に、人格的な成長への足掛かりをつかんでゆくまでの物語。

「結婚式のメンバー」より、左からデ・ワイルド、ハリス、ウオータース

少女の抱える社会への違和感が一つのテーマでもありますが、それをほぼすべてセリフで表現しており、とにかく主人公が延々としゃべる、いらだつ、怒る。
演ずるのは当時27歳のジュリー・ハリス。
30歳で演じた「エデンの東」でのヒロイン役は違和感がなかったのですが、さすがに27歳での12歳の少女役はちょっと、と感じるのは草食民族のおじさんだからでしょうか。

「エデンの東」(1955年)のジュリー・ハリス

細い体つきは12歳でも通るのですが、マシンガンのごとく飛び出すセリフと切れ切れの演劇的アクション、はどう見ても達者な20代の俳優のそれ。
見どころは主人公の少女ぶりではなくて、セリフで説明されるところの若い人格の苛立ちと成長なのでしょうが、草食民族のおじさんとしては、理性に直撃する言語の連打だけではなく、映画ならではの12歳の少女の体温や柔らかさの表現も望んでしまいます。

とにもかくにも演技者としてのジュリー・ハリスをとことん堪能できる作品。
少女の苛立ちと成長を包み込むかのような黒人メイド役のエセル・ウオーターズの存在感が圧倒的で、それには、ハリスの演技力もかなわない、と思いました。

デ・ワイルド少年のとぼけたかのようなたたずまいも忘れられません。

パトリシア・ニールと「ステキなパパの作り方」

パトリシア・ニールは「摩天楼」(1949年 キング・ヴィダー監督)で共演した妻子あるゲーリー・クーパーと恋に落ち、同棲し、子まで宿したことのある女優さんで、この作品の撮影当時(1951年)もロケ先などにクーパーがしばしばやってきたといいます。

シネマヴェーラのパンフレットより

ブロードウエイの舞台俳優出身のニールはインテリでもあり、演技力もある。
若い時ばかりではなく、中年になってからも細やかな心情を演ずることができそうなタイプだ。

彼女の自伝がある。
「ゲーリー・クーパーこそが私が情熱をもって愛したただ一人の男性だった」という記述で結ばれる同書の中で、この「ステキなパパの作り方」については、「どうということのない映画だったが、ヴァン・ヘフリンと仕事をするのは楽しかった」(同書179ページ)とだけある。
たった2行の記述だ。
そのころ彼女の頭の中はクーパーのことでいっぱいだったのだろうか。

パトリシア・ニール自伝「真実」の表紙

戦後中産階級全盛の時代のテレビドラマよろしく、にぎやかでユーモアにあふれたホームドラマのこの作品では、若いシングルマザー役のニールと、シングルファザー役のヘフリンが、その子供たちによってお約束通りに、出会い、てんてこ舞いし、結ばれる。

展開もスピーデイーで、ギャグもふんだんにちりばめられ、適度に風刺も効いた(子供が預けられたキャンプ場のリーダー像は、金髪碧眼の健康オタクで、これはまさにナチス時代の自然主義への皮肉)小品は、亡命後にユニバーサルでエース級の監督に上り詰めていたダグラス・サークによるもの。

ニール扮するママの長男の名前が何と「ゲーリー」。
作り手のウイット(皮肉)なのか、ハリウッドの露悪趣味なのか。
主演女優の不倫真っ最中の相手の名前を劇中の長男の役名に持ってくるとは!

ニールはたくましい母の役柄に徹し、劇中で何度も「ゲーリー」!と息子に叫んでおりました。
そのたびに当時の観客は微苦笑を禁じえなかったことでしょう。
あるいは爆笑したのか?

70年後の観客は、その際の女優パトリシア・ニールの胸中を、ひたすらおもんばかるばかりでしたが。

「摩天楼」の一場面。パトリシアとゲーリー

ドロシー・マクガイアと「らせん階段」

ハンデキャップのある美女が悪漢に追いつめられるパターンを確立したサスペンスの古典。
ロバート・シオドマク監督の職人芸がスリルを盛り上げる「らせん階段」(1946年 RKO配給)。
主演は清純派のドロシー・マクガイアです。

シネマヴェーラのパンフレットより

サイレント映画が上映され、馬車が動いている時代のアメリカが舞台。
屋敷のメイドを務める主人公の周りには、彼女に接近する独身の医者、屋敷に出戻った主とは種違いの兄弟、頑固な下男夫婦など怪しげな人々が立ち現われます。
幼少時のショックで声を出せない主人公に迫る恐怖。
どうやら真実の味方は寝たきりの老女主人(主の母親)ただ一人。

ゴシック調のサスペンス演出をベースに、影と鏡を使った撮影でスリルを強調するドイツ出身の監督シオドマク。
最後にわかる意外な犯人。

気丈にふるまう主人公とハピーエンドは、この作品が単によくできたサスペンスとしてだけではなく、一人の人間の成長への賛歌となっていることがわかります。
最後に言葉を発し、自らの力で窮地を脱し、自立へと成長する女性の姿を描くことがこの作品の一方のテーマとなっています。

行動的で健気なヒロイン像は、他のシオドマク作品にもみられます。
「罠」(1939年)のマリー・デア、「幻の女」(1944年)のエラ・レインズなどです。
広く定義すれば「モルナール船長」(1938年)での船長の娘役の最後のふるまいとも共通します。

「らせん階段」のドロシー・マクガイアはサスペンス映画のヒロイン像として出色のキャラクターを確立していました。

「STRANGERS in HOLLYWOOD」の女神たち その1

渋谷シネマヴェーラで1か月にわたる上映を終えた「ストレンジャーズインハリウッド」特集。
全34本の上映作品中15本に駆け付けた山小舎おじさん。
その中から忘れえぬ女神たちをご紹介したい。

1930年ベルリンの自由な女性たち

「日曜日の人々」という作品を観た。
1930年のドイツ映画。
サイレントである。.

監督がロバート・シオドマクとエドガー・G・ウルマー、脚本がビリー・ワイルダー、ノンクレジットでフレッド・ジンネマンが協力、と戦前に活動を始めたユダヤ系映画人が故国ドイツで集合した作品。

冒頭、俯瞰するカメラはベルリンの街角:路面電車や通勤者が活発に行き来する活気ある風景、を映し出す。
主演を務める二人の断髪した若々しくもコケティッシュなベルリン娘たち。
一般市民を配役したという。

シネマヴェーラのパンフレットより

若者たちが、日曜日にデートする風景を追うストーリー。
デートの場所はベルリン郊外の湖。
ビールとソーセージと蓄音機を持参し、水着のすそのほつれを針で繕って、うきうきと水浴びする娘たち。

ナチス台頭以前の自由でのんびりした時代の雰囲気が漂う。
素人女優らの自然な振る舞いがいい。
90年前のベルリンと若者のふるまいが、懐古趣味とも、資料的価値とも違う興味と魅力を今に伝える。

ワイルダー脚本なので素直なハッピーエンドなどありようもなく、男女関係の影をイジワルで残酷に匂わせつつストーリーは展開するが、画面に支配的なのは若く、自由で、晴れ晴れとした雰囲気だ。

観終わって晴れ晴れとする作品。
シオドマクにもジンネマンにも、その心の中に暗闇はまだ到来してなかったのだろう。

ウーファの歌姫ツアラー・レアンダー

戦前のベルリンにはヨーロッパ一の設備を誇る映画撮影所があった。
ウーファと呼ばれ、ローマのチネチッタ撮影所と並び称された。

ウーファ売り出しのスター女優が、スエーデン出身のツアラー・レアンダーだった。

「南の誘惑」(1937年 ダグラス・サーク監督)に出ていた。
なるほど美人で歌も歌う。
平和な時代が続いていればドイツ映画の大女優として歴史に名を残していたかもしれない(すでに一部の「シネフィル」たちの間では伝説となっているが)。

シネマヴェーラ作品紹介パンフより

「南の誘惑」では、戦前のプエルトリコを舞台に繰り広げられる大メロドラマのヒロインを堂々と務めているレアンダー。
印象的だったのは子役といるとサマになっていること(母性的なのだろう?)と、北欧系のがっしりした体つき。

ツアラー・レアンダー

同じく北欧系の、グレタ・ガルボは背も高くなく、体も薄いが、肩が張り出したがっしり系だった。
イングリッド・バークマンは厚みも肩も、背丈もあるがっしり系。
父親がスエーデン系というグロリア・スワンソンも背は低いが肩だけはしっかりしていた。
皆さん体つきが似ていて、安心感があり、おじさん的には好ましい。

ツアラー・レアンダー

ともかく幻の大女優・レアンダーの作品を観られたのは収穫だった。

フランス亡命時代のマリー・デア

ユダヤ系のロバート・シオドマク監督がドイツで何本か映画を撮った後、ナチス政権下にフランスへ亡命している。
このフランス亡命時代に撮った作品に「罠」(1939年)がある。

主演のモーリス・シュバリエが調子よくしゃべり、歌う、この作品のヒロインがマリー・デアという女優。

まったく当時のシュバリエって、日本映画でいえば戦前のディック・ミネ(「鴛鴦歌合戦」(1939年 マキノ雅弘監督)でのニヤけた若殿様役)をさえ連想しかねない調子よさと、お気楽ぶりの(ミネよりははるかに芸はあるが)、いかにも憎めないキャラクター。
フランスの芸達者なおじさん・シュバリエを相手にして渡り合うのがマリー・デアだった。

役柄は、ひょんなことから警察の囮捜査に協力することになる若い踊り子。

「鴛鴦歌合戦」。左が役不足ながらお気楽若殿役のデイック・ミネ。右の顔半分、志村喬

マリーさんが囮となって、危機一髪の脱出劇を繰り広げる。
逃れる魔の手には、まだ精悍さの残るエリッヒ・フォン・シュトロハイム演じる変態紳士などなどが怪演で応える!?

フランスの女優らしく、ウイットに富んで、男あしらいもでき、愛嬌もあり、活発に動ける。
マリー・デアという女優が実に魅力的だった。

シネマヴェーラのパンフレットより。左マリー・デア、右シュバリエ

この、おきゃんでしっかり者で活発なキャラクターは、色を変えつつ「幻の女」(1944年)のエラ・レインズや「らせん階段」(1946年)のドロシー・マクガイアに引き継がれており、シオドマクの好むキャラクターなのだとわかる。

エラ・レインズ3部作「幻の女」「容疑者」「ハリーおじさんの悪夢」

山小舎おじさんが勝手に名付けたものだが、エラ・レインズ3部作。
いずれもハリウッドに移ってからのロバート・シオドマクの作品で、「幻の女」(1944年)がヒットしたからか、ヒロインのエラ・レインズが3作続けて出演している。

「幻の女」はウイリアム・アイリッシュ原作のサスペンスで、シオドマクのサスペンスを盛り上げる演出が冴えた。

写真左がエラ・レインズ

エラ・レインズが扮するのは上司の冤罪を晴らすため駆け回る活発な女性秘書役。
最初は特徴のない美人秘書、しかしてその正体は、冤罪の証拠を得るためなら例え商売女に扮してでも、窮地に飛び込む熱血女史!。
熱血女史が飛び込む先、証人のバンドマンたちがまくしたてるフリーセッションシーンの不気味な熱気と猥雑な雰囲気。
エラ女史は、バンドマンのキスに〈汚らわしい〉といわんばかりに口を拭いながら、冤罪の証拠収集のために立ちまわる。

サイコな殺人鬼をめぐるサスペンスの盛り上げとそのB級ムードに、エラ・レインズがよく似合う。
まさしくB級の女王としてその魅力を発散しはじめるエラ・レインズだった。

続いての「容疑者」(1944年)は、一見サスペンス風を装った人間劇で、チャールズ・ロートンを主人公にし、英国を舞台にした作品。
ほぼロートンの一人芝居でストーリーをつなぐ中、エラ・レインズは既婚者・ロートンと心を通わせる独身女性を演じる。

写真はエラ・レインズとチャールズ・ロートン

彼女のB級な冷たい美人顔からすると、この後、主人公を平気で裏切るキャラクター〈いわゆるファムファタル〉か?、と思いきや最後まで清純なまま。
この作品はロートンを通して人間を描くのがテーマで、彼女扮する女性は単に象徴として使われただけだった。
エラ・レインズはこの作品では清純な女性を輝くような笑顔で演じていた。
そこが物足りなくもあった。

シオドマクが彼女を気に入ったのか、会社の指示なのか、1945年の「ハリーおじさんの悪夢」の重要な役でエラ・レインズは三度、シオドマク作品に登場する。

スクリーンにも慣れたのか、「幻の女」の時のようにおどおど、せかせかしてはいなく、「容疑者」のようにひたすら微笑むだけでもなく、ニューヨークのバリバリのビジネスウーマン役として、余裕とこぼれんばかりの色気を携えてこの作品に登場するエラ・レインズ。

エラ・レインズとジョージ・サンダース

この作品は恐慌後のアメリカ郡部の没落地主一家の心理劇で、サイコパスっぽい独身の妹と、その彼女が兄に向ける近親的な愛憎をサイドストーリーに、兄主導の犯罪サスペンスが皮肉に展開する、といったもので、難しい妹の役はジェラルディン・フィッツジェラルドという、うまい女優が演じている。
エラ・レインズは旧態依然とした家庭に外の風を吹き込む、挑発的な都会女の役。

エラ・レインズ。
十分に美人な女優さんだが、B級的なシチュエーションにおいてこそ輝く女優ではある。
演技力があるわけでもないので、「ハリーおじさん」の妹役のようなサイコな役柄も向かず、かといってシチュエーションの周りでうろうろする狂言回しの役は「幻の女」でやったとすれば、サスペンス物の被害者役に落ち着くのが流れだったのかもしれない。
シオドマクの3作品においてはまだ、前途に希望を抱かせる配役だったが。

1940年代のシオドマク作品でキラッと輝いた女優である。

エラ・レインズは1920年アメリカ生まれ。
「幻の女」の前年の1943年ころから映画出演が始まり、1944年には年間数作品に出演(同年の「拳銃の町」ではジョン・ウエインと共演)していた。
40年代後半には問題作「真昼の暴動」(1947年 ジュールス・ダッシン監督)に出演。
50年代初頭には出演作もなくなっていたようです。

STRANGERS in HOLLYWOOD Ⅰ

名画座・渋谷シネマヴェーラで,2021年12月から、年をまたいで1か月以上にわたる特集上映があった。
その名も「ストレンジャーズ・イン・ハリウッド」。
戦前にドイツを逃れてハリウッドに渡った映画監督3人の、1930年代から50年代初頭にかけての作品の特集だ。

3人の監督は、ダグラス・サーク、ロバート・シオドマク、フレッド・ジンネマン。
いずれ劣らぬ映画史上の名監督にして、ユダヤ系の(サークは夫人がユダヤ人、ほかの二人は本人がユダヤ人)、いわばハリウッドにとってのストレンジャーズ。

日本のファンには「真昼の決闘」(1952年)「地上より永遠に」(1953年)で名をはせ、後年「ジャッカルの日」(1973年)「ジュリア」(1977年)など、大監督然としたジンネマンが有名だ。

コアなファンには、声が出ない少女が殺人鬼に追いつめられるサスペンスの古典「らせん階段」(1946年)とともに監督・シオドマクの名が記憶されるかもしれない。

映画ファンを卒業した「シネフィル」と呼ばれる意識の高い方々には、評論家・蓮見重彦氏あたりがもっぱら取り上げ始めた一人:ダグラス・サーク、がここ最近の気になる映画監督(映画作家と呼べばいいのか)なのかもしれない。

上映館のポスター掲示場より(右上がシネマヴェーラ現在上映分)

全34本の上映。
そのほぼ全作品は、シネマヴェーラ自体がデジタル素材を買い取って自前で字幕を付けて上映するという、営業努力によるもの。

サーク:12本、シオドマク:14本、ジンネマン:7本、ほかにエドガー・G・ウルマーの1本を加えてのラインナップ。
うち6本が、戦前戦中に故国ドイツもしくは第一次亡命先のフランスで撮られたものであるという貴重さ。

特集プログラムより

この特集に9回ほど日参し、15本を観た山小舎おじさん。
日々見上げたスクリーンには、70年から90年前の人々の顔だったり、美貌の女優だったり、今なお受け継がれる撮影技法だったりが文字通り横溢しておりました。

1930年当時のベルリンの風景、鏡と影を駆使してサスペンスを盛り上げる技法、レスリー・レアンダー、エラ・レインズ、イボンヌ・デ・カーロ、エヴァ・ガードナーら女優陣の輝き・・・まさしく「映画的世界」の興奮と喜びの連続でした。

特集プログラムの3人の監督紹介文より

個別の作品、女優さん、時代背景などについては次回ブログからおいおい書いてゆこうと思います。

特集プログラムの作品紹介より

その前に付記しておきたいのが、ストレンジャー(外国人:多くはユダヤ人)とハリウッドの切っても切れない関係。
というか、ハリウッドがユダヤ系の巣窟だった(今でもか)という事実。

ここに「カサブランカはなぜ名画なのか・1940年代ハリウッド全盛期の名画案内」という2010年発行の本があります。

奥付きより

戦争を挟んだ1940年代を中心にアメリカ映画を俯瞰的に見るこの本。
その時代のアメリカ映画こそ、〈政治と芸術と商売が絶妙なバランスで一体化した稀有な時代〉で、そういった作品が生まれた背景にはユダヤ系映画人がいたから、という一貫したテーマで書かれています。

ユダヤ系映画人が、政治性(反ナチ)を隠されたテーマとし、商業的にも成功させたこの時代の象徴的な作品が「カサブランカ」でした。
非ユダヤ人(ボガート、バーグマン)を表に立て、ユダヤ系のスタッフ、キャストが脇を固め、巧妙に織り交ぜられた反ナチのアピールは、見事に「ヤンキーをして、ヨーロッパの反ナチとワスプを救わなければならぬという気持ちにさせた」と同書にはあります。

目次より

ハリウッドのユダヤ人には、戦前から有名な監督だけでも、エルンスト・ルビッチ、ウイリアム・ワイラー、ジョージ・キューカー、ルイス・マイルストンなどがいます。
その後亡命してきたり、デビューしはじめたユダヤ人監督には、有名どころだけでもマックス・オフュルス、オットー・プレミンジャー、ビリー・ワイルダー、ジュールス・ダッシン、エリア・カザン、マーク・ロブスン(シオドマク、ジンネマンももちろん)などがいます。

彼らこそが通り一遍にスタジオのいう通りだけを聞いて、娯楽映画やミュージカルを撮るだけではなく、時には政治的な主題を、斬新な手法で描いてきた映画監督たちだったのです。

往々にしてその作品は、戦争という非常な時代背景をバックに浮かび上がるユダヤ人としての民族的思想に彩られていたのかもしれませんが、同時に優れた商業映画でもあったのです。

後にいわれるフィルムノワールと呼ばれるB級サスペンス群は、屈折した彼らの心情が反映したているからこそ魅力的なジャンルとなったようです。

監督たちのほかに、有力な製作者や俳優の中にもたくさんのユダヤ系がいてお互いに協力し合ってもいました。

一方、当時のハリウッドのスタジオにはタイクーンと呼ばれるオーナーたちが君臨しており、その誰もが東欧、ロシアからのユダヤ人移民か、その子孫でした。
移住後は都市部のゲットーから身をおこし、劇場経営で財を成して始めたのが映画製作と配給、興業でした。
ハリウッドを形作った人たちです。

彼ら:アドルフ・ズーカー(パラマウント)、サミュエル・ゴールドウイン(ユナイト)、ルイス・B・メイヤー(MGM)ら、はおおむね共和党支持で反共でしたが、決して反ナチではなく、むしろムッソリーニに心酔したハリー・コーン(コロンビア)のような人物もおり、政治的にも教養的にも製作現場のユダヤ人たちとは決して一枚岩ではなかったようです。

製作現場の「進歩的」なユダヤ人たちはのちの「赤狩り」により、共産主義とともにパージされてゆくことになります。
そういった歴史を見る限り、反ナチも政治的な主題も、決してアメリカ総体の意志ではないことがわかります。
むしろハリウッドのストレンジャー達が掲げた政治性が、象徴として「アメリカ総体」からつぶされていったことのようです。

シネマヴェーラのストレンジャーズインハリウッド特集で上映された作品は、その全部がバリバリの反ナチ映画でも、サスペンスでも、フィルムノワールでもありませんでした。
戦前の自由な空気が流れていたり、サスペンス風の味付けながら人間性の高貴さを謳うものも多く、何より当時の有名スターが出演しているバリバリのハリウッド映画でありました。

故国を追われた映画人がハリウッドにたどり着き、独立プロで映画を創り始め、スタジオと契約し、発表していった70年以上前の作品の数々。

メジャー配給会社のトレードマーク:雪山をバックにしたパラマウント、地球儀を取り巻くユニバーサル、ライオンが吠えるMGM、電波塔が発信するRKO・・・で始まる1940年代の夢の世界が連日スクリーンにデジタルで再現されました。

メジャーの配給により歴史に残ることになったこれらの作品。
その一つ一つについては後程。

パラマウントのロゴマーク
RKOのそれ

1956年の映画「火の鳥」

名画座・渋谷シネマヴェーラの特集で「火の鳥」という1956年の日活映画を観たが、よかったので感想を書きます。

同作品は「あなたは猪俣勝人を知っているか」という脚本家・猪俣勝人の特集の一本として上映されました。
この特集の目玉は猪俣自身が監督をやっている「殺されたスチュワーデス 白か黒か」(1959年)という作品です。

この作品は、同年発生したBOAC(英国航空)の日本人スチュワーデス殺人事件(重要参考人として警察に事情聴取中だった、カソリック修道院のベルギー人修道士が事情聴取期間中に突然帰国して迷宮入りとなった)を題材としており、16ミリで残っていたフィルムをデジタル修復したものとのこと。

題材ゆえに大映配給による封切り期間も短く、また名画座上映時にも短縮版がかけられていたとのこと。
今回の完全版の上映は貴重な機会だったようです。
作品は当時若々しかった田宮二郎が扮する事件を追う新聞記者の熱気が画面を支えていました。

今回の特集のパンフレット表紙
シネマヴェーラの特集パンフレットより
劇場ホールに展示されたポスター

さて、当日ついでにもう一本、と観たのが「火の鳥」。
伊藤整の原作で、劇団の主役として、座長の愛人として、映画スターとして輝く主人公の、過去現在の遍歴と未来への希望を描いた作品です。
映画史に残るような作品でもなく、監督井上梅次、主演月丘夢路の代表作でもなく。
若干話題性のあるプログラムピクチャアという扱いの作品です。

「火の鳥」のプレスシートがシネマヴェーラのホールに展示されていた

これが拾い物というか、映画的興奮に満ちているというか。

主演の月丘夢路の美しさに見とれました。

1922年生まれの月丘夢路は当時34歳の女ざかり。
宝塚トップスターだった美貌と勢いに加えて落ち着きも出てきて、彼女が映ると画面が華やかになります。

魅力的な女優さんの全盛期を追体験できたことに映画ファンとして感動せざるを得ない。
とにかくきれいで、アップが映えて、目力があって・・・。

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登場のファーストカットからただならぬ目力に圧倒された女優さんに「暁の脱走」(1950年 谷口千吉監督)の山口淑子がいました。
日中戦争時の日本軍の前線に同行する歌手(原作では慰安婦)の役。
山口淑子のファーストカットが忘れられません。

日中戦争のはざまを潜り抜け、茫漠たる大地の彼方と己が運命を見据えたかのようなその視線と決然としたその立ち姿。
その大きな目玉は、まるで諸星大二郎の漫画の主人公のまなざしを実写化したかのように、見るものをして一瞬のうちに、中国大陸の砂塵と歴史へと誘うかのようでした。

この日のおじさん。
山口淑子ならぬ「火の鳥」の月丘夢路のまなざしによって、宝塚の少女歌劇か、はたまた東洋のハリウッド・日活撮影所の夢舞台へか、魂がさ迷わんばかりでした。

月丘夢路。スタイルの良さが際立つ

こうなれば単純な映画ファンの心など一丁上がり!
手慣れた撮影所の職人技に身も心もゆだねるしかありません。

テンポよく場面が展開、俳優の演技にも無理無駄がありません。

月丘夢路の相手役には、映画初出演の仲代達矢をはじめ三橋達也、大坂志郎、女優陣では山岡久乃、中原早苗の布陣。
それぞれ、芸達者だったり、力が抜けて絶妙だったり、ベテランだったり、若さがはじけていたり。
役柄はステレオタイプなのですが、徹底した「定番」の魅力がありました。

また、月丘夢路の屋敷だったり、劇団の事務所、打ち上げの飲み屋、劇場裏などのセットが「定番」通りとはいえちゃんと作られているし、様になってもいました。
1950年代の映画撮影所の力量です。

シネマヴェーラのパンフレットより

劇中の映画撮影シーンでは、当時の真新しい日活撮影所の屋外の景色やセット撮影の様子が映し出されるのも心躍ります。
北原三枝、芦川いずみ、長門裕之らが実名で現れる場面では、浅丘ルリ子や岡田真澄の顔も見えます。
ラストシーンで劇中劇の階段を主役として堂々と下りる主人公がダンスの相手をするのは三国連太郎ではないか!

井上梅次監督のこういった演出は映画ファンの心を揺さぶるツボを心得ていて、ニクいばかり。
当時の日活撮影所自体の若さ、夢、希望を掬い取ってもいる。

映画デビューの仲代達矢は、「仲代達矢が語る 日本映画黄金時代」という新書で、「撮影初日から茅ケ崎の海岸でラブシーンでしたがやっぱり震えるんですよ。すると月丘さんに、なに男のくせにってお尻を叩かれました」(同書33ページ)と回想しています。
当時俳優座3年目の仲代の抜擢を羨んだ俳優は大勢いたことでしょう。

デジタル版の上映で鮮やかによみがえった1956年の日本映画の豊かさに満足して劇場を後にしました。