ジーン・セバーグと「勝手にしやがれ」

先日、塩尻東座で観た「勝手にしやがれ」。

改めて、俳優が輝いているし、作り手が自由に作っているし、古びていないし・・・〈ヌーベルバーグ〉という60年当初の〈フランス文化の新人台頭の現象〉の枠内にとらわれない画期的な映画だと思いました。

中でもヒロイン、ジーン・セバーグの魅力。
彼女の代表作であり、彼女と、監督:ゴダールと、相手役:ベルモンドとの化学反応が、この作品で歴史的輝きを発していたことを痛感しました。

有名なシャンゼリゼでの再会シーン

手元にあるセバーグの伝記、「ジーン・セバーグ」ギャリー・マッギー著、石崎一樹訳、2011年水声社刊。
彼女の女優生活の転機となった「勝手にしやがれ」出演時の前後で一章が割かれています。
そこには貴重な証言が記録されています。
映画の女神に祝福された奇跡的な1本であるこの作品を主演女優の観点から追ってみましょう。

伝記の目次

ゴダールが「勝手にしやがれ」が映画にできるかどうかを彼女に賭けている(P101)

ゴダールはプレミンジャー作品(「聖女ジャンヌダルク」「悲しみよこんにちわ」)のセバーグを気に入っており、自分の長編第一作への起用のために会いたがった。
ゴダールは自分の短編「シャルロットとジュール」をセバーグに見せた。
主演予定のベルモンドも彼女に会って出演を要請した。
セバーグは好意的に反応した。(伝記P101要旨)

セバーグはコロンビア映画の専属女優だった。
ゴダールはコロンビア映画にセバーグの出演を求め、出演権を12,000ドルで購入するか、興行収入の半分を渡すかの条件を提示した。
当時のセバーグの夫であったフランス人弁護士・フランソワ・モレイユがコロンビア映画と交渉し、セバーグの出演権を12,000ドルで買取った。(P103)

ゴダールとセバーグ

コロンビア映画の首脳陣はもちろん、セバーグ自身もゴダールの存在は認知していなかった当初。
ゴダールが(ベルモンドも)ジーン・セバーグの出演を映画の生命線と考えていたことがわかります。

「勝手にしやがれ」撮影中も脚本の決定稿は存在しなかった(P104)

撮影の初日は1959年8月17日。
ジーンにはまだ不安が残っていた。
その日の撮影が終わらないうちに帰りかけたほどだ。
「(前略)意見の相違をお互いに認め、握手をし私はその場を離れようとした。でも彼が私を追いかけてきたから仲直りしたってわけ」(P103)

「ジャン=リュックは毎朝、学生が持っているようなノートをちぎった束をポケット一杯に詰めて現場に来るのよ。そこに書かれているのは前の晩に彼が考えたことなの。
彼は恐れていたわ。
自分が作っている映画が、長編とい呼ばれている尺にはならないっじゃないかって」(P104)

「即興の演技ばかりだったわ。
ベルモンドも私も、私たちが思った以上のいい演技ができた、と思うことが何度もあった。
(でも)そこはゴダールよ。きっちりコントロールしていたわね。」(P104)

ハリウッドの制作環境とのあまりの違い、ゴダールの〈即興演出〉への戸惑い、反発。
一方でそのやり方を楽しんでいるセバーグ。
その輝きが完成作品の端々から窺えます。
セバーグにとって奇跡的に幸運な出会いがこの作品だったのではないでしょうか。

つまり、プロのアメリカ人女優なんだ(P105)

カメラマン、ラウル・クタールはジーン・セバーグに初めて間近で会ったとき、「いったいどうやって彼女を撮影すればいいんだ」と思った。
肌の状態が良くなかったのだ。
しかしひとたびメイクした彼女は豹変した。画面に映える。
照明が足りない時でもジーンのカメら映りは抜群だった」
クタールは語る「彼女の仕事ぶりはまじめだったよ。まわりにも協力的だった。つまり、プロのアメリカ人女優なんだ」(P105)

「撮影の時以外、部屋(セーヌ左岸にあるホテル・ド・スエード12号室)にはほとんどだれもいなかったわ。
照明を調節しに時々入ってくる技師と、セリフを思えようと必死になっている女の子(セバーグ自身)。
それだけね」(P106)

9万ドルという予算はあまりにも少なすぎた。
彼女の衣装はフランスのデイスカウントスーパー、プリズニックで調達された。
シャンゼリゼでの撮影時、カメラマンのクタールが歩行者から見えないようにするために、郵便配達用の箱をゴダールは自分で押して運んだ。
最後のシーンはゴダール自身が車椅子で押されながらの移動撮影となった。(P106)

撮影はくだけた雰囲気の中で行われた。
気分が乗らない日には、ジーンはそういった。
同じくゴダールも気分が乗らなければその日の撮影は休みになった。(P106)

映画のラストシーンで、パトリシア(セバーグの役名)が恋人を売った後、彼の財布を盗むことにしないかとゴダールがもちかける、とジーンは反対した。
彼女にしてみれば、自分が演じる役の女はそこまで徹底的にやらなくてもすでに充分みすぼらしかったのだ。
議論の末、パトリシアは財布を盗まないことに決まった。(P103)

画面をよく見ると、セバーグのメイクが濃いことに気が付きます。
シーンによってはつけまつげとアイシャドウがばっちり目立ってもいました。

同時にメイキングフィルムのように自然な彼女の笑顔が映るシーンも。

撮影は照明を気にしない移動撮影(レールを敷いた撮影所方式ではなく、車椅子にカメラマンが乗っかる方式)や、ベルモンドとセバーグが意味のないやり取りを延々と行う場面では、二人の間をカメラがさ迷うようにパンします。

技法的束縛から解放されたスタッフが発揮した技量と、自由な精神下で発揮された旬の俳優たちの演技が幸運な出会いを果たしています。
とはいってもベースにはプロの女優としてのセバーグの、セルフプロデースの技量、演技の技量があります。

ゴダールが心配した、尺の足りなさは、作家役でインタビューを受ける、映画監督ジャン=ピエール・メルビルの長時間のアップや、主人公や刑事たちの動きを俯瞰でとらえたつなぎうのカットの使用などで何とか埋めています。
ジャズ音楽の使用も良い感じです。

20歳のセバーグと26歳のベルモンド

60年代の新しい映画の女神(フランソワ・トリュフォー談)ジーン・セバーグの起用に成功し、相手役に将来のフランス人間国宝・ベルモンドを擁した、プロデユーサーとしてのゴダールの時代性。
結果として自由な撮影空間が生んだ、撮影技術と即興演技の化学反応。

かくして「勝手にしやがれ」は映画史にとってのターニングポイントとなり、ジーン・セバーグは「ヨーロッパ最高の女優」(トリュフォー談)となったのでした。

上田トラムライゼで「湖のランスロ」

トラムライゼ(旧上田電気館)へ行きました。
ロベール・ブレッソンンが1974年に製作した「湖のランスロ」という映画を観るためです。

モダンな外観のトラムライゼ(旧上田電気館)

トラムライゼは、上田映劇を復活させたNPO法人の運営で2館の距離は歩いて3、4分です。
上映プログラムは、ミニシアター系作品が中心です。
その中に、旧作をデジタルで再輸入した作品も含まれており、ブレッソンの「たぶん悪魔が」(1977年)と「湖のランスロ」(1974年)もその流れで輸入公開され、東京公開を経て上田にも来たものです。

この日は10時5分開映。
ロビーでモギリを済ませてトイレへ急ぐと、開いた入り口から場内が見えました。

スクリーンには次回上映の「勝手にしやがれ」(1960年 ジャン=リュック・ゴダール監督)の予告編がかかっており、思わず見入ってしまいました。

〈ジーン・セバーグ20歳!〉〈ジャン=ポール・ベルモンド26歳!〉〈ゴダール28歳!〉の文字が躍るスクリーン。
画面には、トリュフォーが絶賛した〈新しい映画の女神〉ジーン・セバーグの若さが輝いています。
「勝手にしやがれ」でのジーン・セバーグの登場は、映画史上で最も輝かしい瞬間の一つです。

これは何度でも見に来なければなりません。

「気狂いピエロ」予告編の一場面。(映画泥棒にならないよね)

さて「湖のランスロ」。
アーサー王と円卓の騎士伝説の英雄・ランスロが、キリストの血を受けたといわれる聖杯探しに失敗しての帰還後、王妃との不義密通、ライバル騎士との確執に揺れる挙句に死ぬまでを描いています。

例によって素人俳優、特に女優の静謐で理知的な美しさに心ひかれます。
ランスロとの不義密通を、単なる肉欲にまみれたものだけではなく、二人の宿命的なものとしての表現に説得力をもたらすこの素人女優さんは魅力的です。

パンフレットより、王妃役

西洋鎧の重さと剣の重さの表現、打撃を受けた人体の損傷の表現にはリアリテイが見られます。
騎士が乗る馬はサラブレッドではなく、農耕馬のような丈夫な馬。
騎士の野営地にはテントが張られ、黒い衣装と帽子を被った従者が騎士たちの世話をします。
ブレッソンは、ヒーローものとしてではなく、中世ヨーロッパの現実としての騎士団を描いています。

木と土壁で作られた当時のヨーロッパの家屋。
内部はクッションと防寒材を兼ねた藁のくずが散乱しています。
一歩、野営地を出ると、かつてヨーロッパ中を覆っていた暗く湿った森が広がっています。

馬に乗って槍でぶつかり合う騎士の試合に使う槍は、木を削って作り、壊れると従者が代わりの槍と交換する、という描写も、ブレッソンが史実に忠実に再現したものなのでしょう。

山小舎おじさんに、アーサー王伝説や、聖杯伝説、中世ヨーロッパの実情などの知識があればもっと楽しめたことでしょう。

パンフによると騎士道精神の崩壊過程を描いてもいるとのことでした。
ランスロは王妃と不義密通するなど、最大限の背信行為をしつつも、王への忠誠心、神への信仰心は厚く、その人間らしい矛盾と苦悩が主題の一つだったのかもしれません。

パンフより、左ランスロ、右王様

トラムライゼを出ると11時半。
上田の街で食事をと、中心部のはずれにある相生食堂へ。
850円のとんかつ定食を堪能。

熱いお茶を何度も注いで回ってくれるおかみさんのサービスにも感激し勘定へ。
1,050円出すとおつりを500円出してきました。
850円だよと言って200円のおつりをもらいなおしました。
大丈夫かなおかみさん。

相生食堂全景

今年最初の上田映劇

上田映劇は、大正6年開業の上田劇場をルーツとする映画館。
現在はNPO法人が運営するミニシアターとなっている。

映画好きの山小屋おじさんとしては、上映情報のチェックが欠かせない。
上映作品は、いわゆる内外のミニシアター系の新作が中心だが、時に「フィルム上映大会」として寺山修司の「田園に死す」などを取り上げたり、地元上田出身の映画監督・成沢昌茂の追悼上映として、「花札渡世」など4作品を上映するなどの企画にも取り組む。

今回はロベール・ブレッソンというフランスの映画監督の旧作「たぶん悪魔が」(1977年)が上映されたので駆け付けた。

この日、劇場に駆け付けると、支配人がラックにチラシなどをセットしていた

この日の上映開始は16時20分。
14時半ころまで畑で苗の植付作業などを行い上田を目指す。

上映開始までに近くの商店街で今川焼のあんことクリームを購入、上田映劇に併設しているカフェでコーヒーテイクアウトしてから場内へ。

いつものように広々とした場内。
観客は自分を入れて5人ほど。
まるで大スクリーンを個人で独占しているかのような鑑賞条件に感謝、満足。

ロベール・ブレッソンは映画史上で評価が定まった巨匠だが、山小舎おじさん的には、リアルタイムで見た「白夜」(1971年)という作品が唯一の鑑賞体験。

ここ最近になって、「少女ムシェット」(1967年)、「やさしい女」(1969年)などがデジタル素材で再輸入されてミニシアターなどで上映されており、本作「たぶん悪魔が」と「湖のランスロ」(1974年)も同様にデジタル素材での輸入公開(日本では初公開)となったもの。

作品チラシより、ブレッソン紹介の部分

今川焼を食べ、コーヒーを飲みながら(上田映劇は場内での飲食可能)ほぼ初めてのブレッソン作品を見た山小舎おじさん。
芸術作品にありがちな、観念的、象徴的、形而上的な映画なのかと思っていました。
もしそうだったら無理して理解しようとはせず、画面のあるがままを受け入れ、力を抜いて見ていようと思いました。
退屈しないか、だけが心配でした。

作品チラシより

心配は当たりませんでした。
登場人物は他のブレッソン作品同様、職業俳優ではないようでしたが、静謐で知的な美男美女でそれだけで画面が締まります。

素人俳優の演技は個性を排した動きで、まるで小津作品における俳優たちのセリフ回しのようですが、それが映画そのものをスポイルするということはありませんでした。

登場人物たち

ストーリーは、1970年代のパリの学生である青年が、あらゆる事象に救いを得ることができず、自殺するといいものです。
政治運動、宗教、ヒッピー、麻薬、恋愛、学問などの事象が出てきますがそれらは青年の救いにはなりません。
反対に当時の環境汚染などの映像が青年の絶望の象徴としてカットインされます。

映画を貫くテーマは、ブレッソン監督の感性〈そのもの〉です。
もっというと、ブレッソンの感性〈それだけ〉です。

俳優に自由な演技を許さず、むしろロボット的な動きを求めるなど、ブレッソンの感性を逸脱する動きを排した映像が続く作品です。
そういった作品が緊張感を維持し、退屈ではないのは、ブレッソンの感性の完成度が高く、また普遍性を持っているからだと思います。

映画作家には、〈この作品を撮らなければ前へ進めない〉と思って作った作品があるように思います。
それは大島渚の「日本の夜と霧」(1960年)だったり、ビリー・ワイルダーの「異国の出来事」(1946年)だったりします。
両作品に共通するのは興行的にヒットしなかったこと(「異国の出来事」は日本に輸入すらされなかった)。
作家の個人的感慨を唯一のテーマにしたり、濃厚に反映させた作品の宿命でもありましょう。

おそらくはブレッソンのフィルモグラフイーはほとんど全部が、ほかのだれかが企画したものではなく、ブレッソン自身が〈この作品を撮らなければ前へ進めない〉と思って撮った作品なのではないでしょうか。
その結果が、興行成績はともかく、各作品が映画祭等で受賞し、現在に至るまでファンを獲得しているところがロベール・ブレッソンのすごいところだと思います。

恩地日出夫「砧撮影所とぼくの青春」

映画監督の恩地日出夫が2022年の1月に亡くなった。
山小舎おじさんは恩地監督の作品を追っかけるようにして観ていた。
監督の著作である「砧撮影所とぼくの青春」を引っ張り出して再読してみた。

著作表紙。「黒い画集・あるサラリマンの証言」現場にて。助監督時代

「砧撮影所とぼくの青春」

恩地監督は1955年に東宝に入社、砧にある撮影所に助監督として配属された。
助監督としての初仕事は「獣人雪男」(1955年 本多猪四郎監督 デビュー間もない根岸明美が脚線美を強調した衣装で登場する伝記ホラー)。
以降、主に堀川弘道監督の組に付き、先輩助監督の岡本喜八の指導を受ける。

本著は、東宝入社時から1984年までの30年間の、映像作家としての自身の変遷の記録であり、映画とは何か、映画会社東宝とは何か、の思索の書でもある。

戦争中に疎開を体験し、帰京してから東京大空襲を体験、終戦後になって世間の価値観の180度転換を体験した恩地は、「頼れるのは自分自身だけ」との原体験を持つ。

大学2年の時の「血のメーデー」で法政大学の学生が警官の水平射撃で殺されたのを見てデモに飛び込む。
学生時代は日本共産党の指導方針下で学生新聞の編集に没頭するが、共産党の方針転換に絶望する。
東宝入社後も助監督の協会活動を通して60年安保のデモに参加していた。

1959年、27歳の若さで監督昇進。
「若い狼」を撮る。以降、1964年の「女体」まで4本の作品がフィルモグラフィー前期。

「若い狼」は北関東の炭鉱の町からあてもなく都会に流れ着いた少年院上がりの若者とその幼馴染の少女の物語。
街頭ロケを多用し、若い主演(夏木陽介と星由里子)が都会の現実にぶつかる姿が初々しくも痛々しい佳作。

「女体」は「肉体の門」を原案に、戦後の混乱期にパンパンとして生き抜いた女が、戦後の平穏期の中で偶然にかつての仲間と再会し、命を燃焼させる物語。
団令子が、やけくそのように戦後混乱期を駆け抜けた若い日と、戦後の平穏な日々を抜け殻のような表情で演じるその対比に、恩地監督の狙いが反映されていた。

「若い狼」。左から夏木陽介、星由里子、恩地監督
「女体」。団令子(中央)

「女体」の撮影で牛を密殺するシーンを実際に演出したこともあって干された恩地が、「再起」したのは、アイドル候補内藤洋子を売り出すための企画「あこがれ」(1966年)から。

以降「伊豆の踊子」(1966年)、「めぐり逢い」(1967年)と東宝青春映画の旗手としてヒット作を連発するが、東宝の会社合理化により、「恋の夏」(1972年)を最後に東宝を離れる。

東京の山の手育ち、慶応ボーイでハンサムな恩地は、東宝入社の同期に石原慎太郎がいたことが象徴するように、新進の文化人の知り合いも多く、干された時期にテレビの司会者に抜擢されるなどした。
が、本人としてはテレビなどでの派手な活躍がその本意ではなかった。

70年代以降は「傷だらけの天使」など、テレビドラマを中心に活躍。
タイトルバック(ショーケンがアイマスクを取って目を覚まし、牛乳瓶のキャップを口で空け、トマトにかぶりつく)を演出したのも恩地である。

本著で恩地はそのアイデンティティーたる東宝という会社と、愛する砧撮影所について詳細に語っている。

戦前のPCLから戦後の東宝争議に至る会社の歴史の再検証から、恩地自身が撮影所で経験した細かなことまでの記述の中で、読み手に印象的なことは、著者が、森岩男という東宝役員の存在を東宝映画のキーマンとして挙げていること。
森は戦前から脚本家、批評家として活躍し、東宝役員に就任後は「プロデユーサーシステム」を東宝に導入した人物である。

プロデユーサーシステムは松竹のでデイレクターシステムと対比されるが、いずれにしても現場中心の発想という点では共通するシステムである。
映画の発想は現場が行う、ということである。
現場と対比する概念として本社があり、東宝にとっては親会社の阪急資本も本社の概念に含まれる。

恩地は、現場に育てられ、現場を愛する映画人として、森のアメリカ的なスマートな現場主義を評価するとともに、70年代以降の会社合理化により、映画企画などが現場から本社に吸い上げられたことを、映画産業そのものの衰退の一因とする。

活気のあった時代の撮影所育ちである恩地は、自身が独立後に組むことになったフリーのスタッフを「町場のもの」と呼ぶなど、撮影所育ちのプライドを持つ。
「町場」であっても熱意のあるスタッフと共同する柔軟性は持ちついつも、東宝撮影所という映画界のエリート育ちのプライドとともに歩んだ映画人生だった。

本書は、記憶の赴くままの随想ではなく、東宝の歴史を検証し、関係者の証言を取り入れつつ、自身の愛する撮影所システムの中の自分史であり、日本の映画史を紐解くうえで貴重な記録の一つとなっている。

「東宝青春映画のきらめき」

山小舎おじさんの手元にあるこの本。
2012年のキネマ旬報社刊。

1966年の「としごろ」から1973年の「20歳の原点」までの東宝青春映画をテーマにした編集で、数々の作品のスチル写真を中心に、内藤洋子、酒井和歌子のほか、恩地日出夫監督、出目昌伸監督へのインタビューで構成されている。
紹介される作品には恩地監督の「としごろ」「伊豆の踊子」「めぐり逢い」も含まれている。

「としごろ」(1966年 内藤洋子、田村亮主演)

干されていた恩地が木下恵介の脚本でカムバックのチャンスを得た。
恩地は松竹の重鎮・木下を訪ねた。

仰向けに寝ながら、傍らに正座で控える助監督に口述筆記させていた木下は、他社の新進監督が当該脚本に関して述べる意見を黙って聞いた。
やがて「その方向で直していいと思う。この子上手だから貸してあげる」といって木下組の助監督・山田太一を脚本改定に参加させた。

なるほど、東宝の、特にこれまでの恩地作品との共通性というより、「木下恵介アワー」的な色合いの濃い作品に仕上がっていた。
孤児院で育った者同士(内藤洋子、田村亮)の純愛と、彼らを取り巻くすべて善意の人々。

予定調和に満ち満ちたかのようなこの作品の中で、ヒロインだけが流れに逆らっていたのが印象的だった。
内藤洋子は、周りの善意の中で時に抗い、時に不器用に自己主張する不安定さを持つ少女を演じた。

内藤洋子の不安定さの中に、恩地監督の主張があったのか。
ひょっとしたらこの作品、かくれた東宝版「非行少女」(1963年 浦山桐郎監督 和泉雅子主演 日活)であって、内藤洋子躍進のきっかけになった存在なのかもしれない。

「伊豆の踊子」(1966年 内藤洋子、黒沢年男主演)

「としごろ」のヒットによって恩地にも会社企画のオファーがやってくるようになった。

主演は黒沢年男と内藤洋子。
旅芸人一座の座頭に「若大将シリーズ」の江口マネージャーこと江原達治、おかみに乙羽信子。

主人公の衣装を原作通り紺絣に袴姿にしたり、内藤洋子への演出にアイドルに対する忖度性が一切ないこと、などに恩地のこだわりが濃厚に映る作品。

劇中の踊り子(内藤洋子)に、すがすがしい笑顔などはなく、呼ばれた座敷で笑顔もなく黙々と踊るカットが続く。
一高生に「下田へ着いたら、活動(映画)に連れて行ってくださいましね」と繰り返し懇願する。

「物乞い、旅芸人村に入るべからず」の看板が村境に立てられていた時代の旅芸人の物語でもある「伊豆の踊子」。
恩地は原作にない、零落した売春婦のキャラクターを団令子に演じさせもする。

青春純愛物語を装った、ある意味、非常民階級(被差別階級)の内部のドラマでもある本作を、恩地は原作に忠実に再現したのかもしれない。

一高生と踊り子は当然ながら「下田で活動へ行く」という約束も果たせないまま永遠に分かれることになる。

「めぐりあい」(1967年 酒井和歌子、黒沢年男主演)

東宝青春映画の金字塔として今なおファンの多い作品。

川崎を舞台に、失業中の父親、受験の弟と団地に住み、自動車工場へ通う主人公(黒沢年男)と、母子家庭に育ち金物屋で働くヒロイン(酒井和歌子)の出会いとその後の話。

庶民的なヒロインと、一家の大黒柱ながら実は逆境に弱い主人公が出合い、親しくなり、励まされ、別れ、再会する。

勤めを休んで海へ行った時のヒロインの白い水着。
友達の修理工場からダンプカーを借りてのデートで、いさかいをおこし、荷台に座り込むヒロインにダンプをかけて脅かし、抱きついた時の雨の中のキスシーン。

バックもコネもなく、正真正銘自分だけの存在の若者が、健気に社会と格闘し、お互いにぶつかり合い、見つめ合う時のすがすがしさ。

金物屋を喧嘩してやめ、母親もなくしたヒロインが遊園地で働く場面がラストシーン。
一度は分かれた主人公が遊園地に向かい、黙ってヒロインの仕事を助ける。
微笑み合う二人。

ご都合主義のエンデイングとしてではなく、心から若い二人の前途にエールを送りたくなったのは私だけか。

酒井和歌子初期の代表作にして、恩地監督の代表作だと思う。

余談1

何年か前、ラピュタ阿佐ヶ谷で「若い狼」を見たとき、主演の星由里子さんがおつきの人と来ていた。
彼女らは最後列の端っこに座った。
私は偶然、そのひとつ前の列に座った。

と、前方から一人の女性が出てきて、星さんに礼をした。
「恩地の家内でございます」と挨拶したその女性は、暗がりでよくは見えなかったが、当時で40代ほどに見えた。
ジャンパーにジーパンのような服装の、落ち着いた声の女性だった。

星さんは自分の登場シーンに「ハアツ」と声を上げていた。
「若い狼」は当時16歳の星由里子が初めてのキスシーンに臨んだ作品だった。

余談2

「あこがれ」と「めぐりあい」は何年か前の渋谷シネマヴェーラでの特集で見た。
これらの作品のプリント状態が良くなかった。

「あこがれ」は全編、セピア調のモノクロ作品ではないかと思うくらいカラーが腿色していた。
「めぐりあい」は主人公とヒロインが海へいったときのカットがとびとびに切れており、酒井和歌子の水着のカットはほとんど残っていなかった。

フイルム作品のニュープリント代も1作で40万円ほどがかかる今節。
聞くところによると、東映は自社作品を割とニュープリントしてくれるらしい、映画館側で費用を出し配給会社にニュープリントしてもらうケースもある。

とはいえ、自社の代表作の貸し出しを、細切れ、腿色のプリントで行うとは、さすが東宝である。
のちにテレビで「めぐり逢い」を見たが、当然ながら完全なプリントを使っていた。
東宝が映画館よりテレビのほうを大事にしていることがわかって一層残念だった。

ミニシアターエイド基金

渋谷シネマヴェーラでは初回上映が始まる前に、「ミニシアターエイド基金」への賛助に感謝する5分ほどの映像が流れます。

このミニシアターエイド基金なるもの。
コロナ下で経営困難に陥ることが予想される全国の「ミニシアター」を経済的に援助するための有志による緊急支援策とのこと。

2020年5月に終了した基金募集は、目標の1億円に対し3億3千万円余りの実績。
29,926人の賛助を得たという。

初回上映前のシネマヴェーラの座席でこの映像により、同基金のことを知った山小舎おじさん。
半分暗くなった場内でこの映像が流れると毎回見入っていました。

全国のエイド参加のミニシアターの風景写真で始まるこの映像。
札幌のシアターキノ、仙台の仙台フォーラム、東京ではラピュタ阿佐ヶ谷、下高井戸シネマなどの写真が流れます。
長野県では、長野相生座、上田映劇、塩尻東座、飯田トキワ座と県内ミニシアター(「名画座」といいたいところです)のオールスターが登場します。

これまでに行ったことがある劇場、思い出や親近感のある劇場の数々。
現存するそれら劇場の背後には、今は亡き数々の名画座たちの幻影が浮かび上がるようで、オールドファンの思い入れは2倍増になります。

映像は、次に各地のミニシアターの館内の情景を映し出します。
このシーンになるころにはおじさんの視界はなぜかいつも曇ってしまいます。

それは現代にあって映画文化を担い続けようとする若い世代への感動なのか?
若き日、映画文化に育てられた(曲がりなりにも)古い世代の自己感傷なのか?
おそらくそのどっちも、でしょう。

現在の映画館は、シネコンとミニシアターに二分割されました。
大きなスクリーンと、高い天井(時には2階席も)を持ち、フィルム映写も可能な昔ながらの名画座も天然記念物的に残ってはいますが、この度の基金で明らかになったように、それらはミニシアターとして分類されました。
このほかに、建物と設備は残しているものの、休館中だったり、移動映写にほぼ特化しているような映画館もあります。

全国のミニシアターの前で笑顔で集合する若いスタッフ達。
映画文化の若き担い手達の笑顔に限りないエールを。

追記

ミニシアターエイド基金参加映画館・上田映劇がリニューアルしました。

アーケードの文字が「花やしき通り」から「上田映劇」になっている。隣のストリップ小屋のデコレーションも解消

劇団ひとりが2014年に監督した「晴天の霹靂」で、浅草雷門ホールのロケ地となり、その後もロケセットによる外観を残してきた上田映劇がついに、「雷門ホール」の看板を下ろした。

「雷門ホール」のデコレーションが撤去。元々の「UEDA MOVIE THEATER」が引き立つ劇場正面

いいことだと思う。
ぱっと見の意外性はともかく、信州上田の映画館で「雷門ホール」は似合わないから。

〈新生〉なったNPO法人上田映劇とその若き支配人、スタッフの活躍に期待です。

同館今後のラインナップには、パゾリーニ(「テオレマ」「王女メデイア」)、ロベール・ブレッソン(「湖のランスロ」)、ゴダール(「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」)などが含まれていて、オールドファンはにっこりです。

この日の上映ラインナップ

旧上田電気館に降臨!70年代の映画の女神ミムジー・ファーマー

旧上田電気館という映画館が上田映劇の近くにある。
大正10年に開館したという上田で3番目に古い映画館で、近年は東映の封切館として運営されていたが、平成23年に定期上映を終了。
平成29年に、トゥライム・ライゼという館名で、NPO法人上田映劇の傘下の元、定期上映を再開している。

旧上田電気館のエントランス

コンクリート打ちっぱなしの外観。
現在は座席数100のワンスクリーンにて運営し、フィルム映写機も残っているとのこと。

3月のこと、この映画館で、ミムジー・ファーマーという女優の代表作「モア」(1969年 バーベット・シュローダー監督)と「渚の果てにこの愛を」(1970年 ジョルジュ・ロートネル監督)が上映された。

ミムジー・ファーマーは1945年生まれのアメリカ人女優。
キャリアの中では何といっても「モア」が有名だが、日本ではそれほどブレイクしなかった。
が当時を知る世代にとっては忘れられない女優の一人だったようだ。

作品の輸入元はキングレコード。
ベルモンド傑作選の企画、輸入といいレトロ作品の発掘に気を吐いている同社。
映画を愛する担当者が相当に尽力しての企画だと思われる。

「モア」

この作品の時代背景は70年代のヒッピー世代。
医学生をドロップアウトしてヒッチハイクでパリを目指すドイツ人の若者が主人公。
パリで出会った正体不明の女・ミムジー・ファーマーにイカれて、スペインで麻薬三昧の生活を送った末に・・・というストーリー。

冒頭のシーンは雨の道端でヒッチハイクをする主人公。
パリに着いた後、若者のたまり場で、怪しい男を相手になんとなくカード賭博。
スッテンテンにされるが、その怪しい男は主人公に金を返してくれる。

男に連れていかれたパーテイーには大麻を吸う若者たちが所在なく集まっている。
部屋の端っこで焦点の合わない目をしている若者たち。

当時のヨーロッパのドロップアウトした若者の雰囲気が再現されている。
その空気感はまるで当時の記録映画のようだ。

パーテイーで出会う主人公と正体不明のヒロイン。
主人公はヒロインを追ってパーテイー会場の台所へ。
主人公に「カクテル飲む?」と聞いたミムジーは、コップを取り出し、端っこをぐるりと舌で舐めて塩を乗せる。
手に残った塩は吹き飛ばし、コップにカクテルを注ぐ。
ソルテイーカクテルが出来上がる。

電気館で来場者に配っていたカード

主人公は、ミムジーの滞在先の安ホテルまで追いかける。
生活感はないものの、たばこや大麻などの細かなものが雑然としたその部屋。

ミムジーとくっついた主人公はスペインに流れ、大麻のほかコカイン、LSDと麻薬三昧の生活を送る。

普段は〈手抜き〉でしか物事をしないのに(ソルティーカクテルを作るミムジーの場面に象徴的)、大麻を巻くときとコカインを炙って注射器を用意するときだけは集中して、手抜きせず、こまめに動く二人。

ミムジー・ファーマー

パリにたどり着いた主人公からカード賭博で金を巻き上げ、その金を返しに近いづいてきた冒頭の男。
怪しげで何をやっているのかわからないが、悪人ではない20代中盤から後半の男。
この男は、ミムジーに迷い始めた主人公に「彼女には近づくな」と警告し、警告が無視された後、麻薬中毒になった主人公の前に現れ、彼女からの逃げろとアドバイスまでする。

この人物は何?何を表すキャラクター?

アパートの一室や海岸などで開かれるパーテイ。
パーテイといっても参加者は集まって〈まったり〉とするだけ。
ボー然としている、といった方がいいかもしれないない。

周辺に漂う脱力感。
彼らはすでに〈あちらの世界〉へ行ってしまったのか?

ドロップアウトした当時の若者の気分が「ああこの通りだった」と思うほどよく描かれている。

映画が醸し出す雰囲気があまりに懐かしくて、麻薬に溺れてゆく主人公たちが悲惨に見えるというより、「ああこんな奴いた」とむしろ共感してしまった。

これは間違った見方だろうか。

でもいたんだよなあ、旅の途中で出会う若者にはこういったキャラが・・・。
ものすごくいい加減だが忘れられないほど魅惑的な女とか・・・。
汚くて怪しいけど、実は正しくて頼りになる男とか・・・。

ミムジー・ファーマーは何の違和感もなくこの時代のドロップアウトした若者の空気感を体現する。
70年代ヒッピー世代の女神として。

60年代を迎える時、当時の「カイエ・デュ・シネマ」誌でフランソワ・トリュフォーが新人女優ジーン・セバーグを「新しい映画の女神降臨」と絶賛した。

ミムジー・ファーマーは70年代の映画の女神として降臨していたのかもしれない。

本作は2015年のカンヌ映画祭で凱旋上映されたとのこと。

「渚の果てにこの愛を」

1970年のこの作品はおそらく「モア」とミムジー・ファーマーの出現によって企画されたものだろう。
監督はフランスの職人監督・ジョルジュ・ロートネル。
わき役(影の主役)に往年のハリウッド女優・リタ・ヘイワース。

ミムジーはこの作品でも謎めいた女性を演じ、その魅力を発散しまくる。
舞台はリゾート地・カナリア諸島。
流れものがヒッチハイクに疲れてたどり着いた一軒のドライブイン。
そこには息子の帰還を待つ母親(ヘイワース)と妹(ミムジー)がいた・・・。

サスペンスじみた設定と、一筋縄ではいかない登場人物像。
さすがはフランス映画、というべきか。

作り物じみた設定のせいか、ミムジーの演技が、無理をしているかのように痛々しく見えるのが難点。

認知症のふりをし、流れ着いた若者を「息子」として遇するヘイワース。
認知症のふりをしてまで、孤独から逃れようとした末のヘイワードの絶叫がラストシーン。

ハリウッド一の美人女優といわれたリタ・ヘイワースのおそらくキャリアの最終章を飾る叫びであった。

余談1

山小舎おじさんはヒッピー世代(団塊世代)に遅れること約10年。
1982年にアジアからヨーロッパを放浪していました。

当時、すでにヒッピーはいなかったが、インドでネパールでヨーロッパで、大麻はよく吸われていました。
気の合った連中がそろったインド、ネパールの安宿では車座になって吸われました。

大麻は「草」の時のあれば「ハシシ」と呼ばれる大麻樹脂を削って吸うときもありました。
ヨーロッパでも若者はよく吸っていたが、さすがに隠れるようにしてのことでした。
パリに滞在する日本人には安宿の部屋の外にまでハシシの匂いが染みついているような者もいました。

ドイツのユースホステルで白人に誘われ、ハシシを付き合ったときは、周りが気になったのか悪酔いして往生しました。
ああいうものは大勢でやるべきものかもしれません。.

余談2

パキスタンや特にイランなどイスラム圏で麻薬の保持が見つかると冗談では済みません。
イランは当時イスラム革命の後、イラクと戦争中の時でしたから国内が余計ピリピリしていました。

パキスタンからの入国時は、税関職員が家族連れの私服の文官で、荷物検査もなく、むしろ「ドル持ってるか?」と公定レートでの両替をせがみました。
当時のイラン国内の実勢レートは公定の10倍(10分の1とういうのか)でしたので、ドルの価値は絶大だったのです。

一方トルコへの出国時のイランの税関員は陰険な制服姿の男で、有無を言わさずリュックの中味を全部調べられました。
この時、万万が一、麻薬でも見つかったら…。
その後の人生が大きく違ったことだけは間違いなかったでしょう。

余談3

旅を開始した82年4月。
まだ日本の匂いそのものの姿の若き山小舎おじさんが、バンコクからカルカッタまで飛行機に乗りました。

ひげを生やし、髪を地後ろに束ねた30歳くらいの日本人が同乗しており、「地球の歩き方」に紹介されているカルカッタの安宿にたどり着くまで偶然一緒でした。

その日本人は宿に着くなり太い注射器を取り出し、腕をゴムで縛って静脈注射をし、ふーッと安どのため息を漏らしていました。
あれは何だったのか?

谷口千吉と「最後の脱走」

ラピュタ阿佐ヶ谷のモーニングショー・女優原節子特集で谷口千吉監督の「最後の脱走」という作品を観た。

1957年の東宝映画で、原節子と鶴田浩二が主演。
助演で、平田明彦、笠智衆、団令子が出ている。
シネマスコープのカラー作品で、配役からしても、A級作品であることがわかる。

上映は、「フィルムセンター所蔵作品」のタイトルから始まる。
東宝には貸出用のプリントが存在しないから、国立のフィルムライブラリーの所蔵フィルムを借りて上映した、ということ。
フィルムセンターは貸出料金も高く、また映写技術が確かな施設にしか貸し出さない、とのことなので、ラピュタ阿佐ヶ谷の映写技術(フィルムの扱いの丁寧さも含めて)の高さがうかがえる。

作品は、中国戦線の野戦病院に看護婦として動員されていた女学生の一団が、終戦後、引き揚げの最中に八路軍に捕らえられ、その野戦病院に徴用されたのち、脱出するまでを描く。

1957年といえば、戦後からまだ10年。
当時の日本の大人のほとんどが戦争を体験していた時代。
監督の谷口は軍隊経験者だし、原節子と鶴田浩二はともに戦中派の世代で、この作品、軍隊や戦闘のシーンには違和感がない。

特に印象に残っているのが、八路軍の野戦病院が駐屯する〈城内〉の描写。
大陸では、塀で囲まれた〈城内〉に前線の軍隊が駐屯することが多かった。
〈城内〉というのか、〈廟内〉というべきなのか・・・石造りの塀に囲まれて、中華街の入り口のような門から出入りする中国の郡部にあるアレである。

その内部では、軍隊のみならず、軍について歩く商売人やその家族の生活も営まれていた。
子供が右往左往し、飲み屋が開かれ、旧正月には爆竹を鳴らしてお祭りも行われていた。
軍隊経験者だった谷口監督は、こういった状況を描くことで、戦争の〈実態〉を映そうとしたのでだと思う。

ラピュタのパンフレットより

東映のやくざに落ち着くまで、東宝や松竹をうろうろしていた頃の鶴田浩二が主演。
終戦後、八路軍に接収されたヤサグレ軍医役。
腕はよく、八路軍に重宝されているが、日本の敗戦に屈折し、アルコールに溺れている。

話はわきにそれるが、軍医役といえば、思い出すのが「赤い天使」(1966年 増村保造監督)。
芦田伸介扮する軍医は、明日なき戦場の絶望から覚せい剤を自らに打ち、夜な夜な従軍看護婦役の若尾文子を自室に呼びつけては、軍服を着せるなどして相手させる。
この作品、若尾扮する従軍看護婦の無邪気で健康で逞しいふるまいと、その若尾の存在に、救済され、慰められる無力な男たちの姿を描いている。
権威ある軍医といえども戦場の恐怖に日々接していれば覚せい剤に溺れ、看護婦のコスプレに一時の慰めを求めざるを得ないのである。

ついでにもう一つ。
「沖縄決戦」(1971年 岡本喜八監督)の軍医役の岸田森。
玉砕間近の沖縄の野戦病院で、徴用した看護婦らとともにひたすら、明日なき手術に明け暮れている。
徴用された看護婦は当初は傷病兵の切断された足を見て気を失っていたが、だんだん逞しくなってゆく。
守備隊司令官が自決し、野戦病院の解散・撤収が決まった時に、軍医は毒薬の注射器をを自らの腕に当てる。
今は逞しくなった徴用従軍看護婦に「弱虫!」と言われ、寂しく薄笑いし乍ら。

いずれの作品でも、負け戦の中で辛うじて己の矜持を奮い立たせんとするエリートの、しかし消耗し自滅してゆく姿と、圧倒的な生命力でその彼を支え励ます、生命力あふれる女性の姿を描いていた。

シチュエーションは同様の本作はしかし、東宝のA級作品なので、鶴田扮する軍医は、屈折はしているもののヒーローとして描かれる。
また、彼をしたい励ますヒロイン(原節子)は、女学生らの教師としての立場を崩さない。
そういった意味では、明るく楽しい東宝映画ではある。
鶴田の演技が、例によって軟弱にヨタっており、結果として、戦場の軍医の屈折ぶり、衰弱ぶりは強調されてはいたものの。

映画は、トラックによる集団脱走のシーンをハイライトに、銃撃戦の描写や、大掛かりな木造橋の爆破描写なども盛り込まれている。
アクション描写も得意な谷口監督の本領発揮である。
また、女学生の集団を無名のキャステイングにすることで、戦争被害者の匿名性を追求しようという谷口監督の意図も感じる。

戦争を題材にした映画は多々あるが、引き揚げや従軍看護婦、慰安婦などを取り上げた作品に接する機会は多くない現在、貴重な作品でもあった。

助監督は岡本喜八。
後の「独立愚連隊」(1959年 岡本喜八監督)に共通する配役や舞台設定のテイストが濃厚で、岡本喜八監督がこの作品に影響され、引き継いだものが多いことがわかる。

「暁の脱走」(1950年)

谷口千吉監督の出世作の1本に「暁の脱走」がある。

原作の「春婦伝」は軍隊経験のある田村泰次郎の作。
映画は池部良と山口淑子のキャステイング。

谷口監督の軍隊経験が濃厚に漂う1作。

原作では慰安婦で映画では歌姫となっている山口淑子のまなざしが、ただ事ではない。

その、諦観したような、でも運命に逆らうかのような、またすべてを受け入れるかのようなまなざしは、その登場シーンから観るものをして画面にくぎ付けにする。

山口淑子こと李香蘭は、戦前は満州映画のスターとして活躍し、戦中は前線の日本軍を慰問した日々を送り、敗戦後は〈漢奸〉として国民党軍に捕らえられ、軍事裁判を受けた。
〈漢奸〉とは、中国人でありながら対日協力をした売国奴のこと。
裁判で日本人であることが証明され九死に一生を得た。

そういった経験下にあった山口淑子のまなざしは、大陸の悠久と世の無常を達観したような、決然としたもので、これでこの作品の値打も決まった。
併せて、駐屯地内の軍隊の描写も甘さの一切なく、主演池部良の終始こわばったような表情とともに印象に残る。

「暁の脱走」の山口淑子

〈芝居〉の匂いは、小沢栄太郎扮する、私利私欲がらみの上官の出演シーンくらいで、あとはセミドキュメンタリーを見ているような緊張感が画面を支配している映画だった。

「赤線基地」(1953年)

ジョセフ・フォン・スタンバークが日本で撮った「アナタハン」(1953年)でデビューした根岸明美がGIのオンリーを演じ、三国連太郎が帰還兵を演じる映画。

序盤から谷口監督の目に映る、容赦のない戦後日本の現実描写が炸裂する。

リアカーに乗せられて運ばれるパンパン。
絶え間なく震えるその体は麻薬中毒の末期症状だろう。
リヤカーを引いてきたのは、アロハを着た若者。
利用価値のなくなった商品を廃棄場に運んできたかのように、ガムを噛んで貧乏ゆすりをしている。
昨日まで、軍隊の予備学校か、学徒動員されていたであろう日本青年の今日の姿だ。

同胞婦人の肉体と精神を切り売りする行為に寄生して生きることを何とも思わない彼らは、帰還兵・三国の実家の仏壇の上に隠してある麻薬を取りに来る。
三国が出征している間に次男の金子信男がオンリーに離れを貸し、チンピラの言いなりに麻薬の隠し場所を提供していたのだった。
これもまた戦後の日本の姿。

やってきたチンピラたちは三国の制止を無視して仏壇に足をかけ、麻薬に手を伸ばす。
三国の我慢の緒が切れる。
大立ち回りの末、チンピラは撃退される。
一尾始終を見ていた根岸明美。

「赤線基地」の根岸明美と三国連太郎

映画のラストは、過去の自分と訣別し、実家を離れることにした三国がバスに乗り込む。
見ると座席に、オンリーから日本の若い娘の姿に戻り、髪をひっ詰めた初々しさのあふれる根岸明美が座っている。
未来に期待するエンデイングと、厚化粧を取り去った,若々しい根岸明美がまぶしかった。

取っ組み合いなどで遠慮のない三国廉太郎の演技やデビューし立ての根岸明美など見どころは多かったが、なにより、終戦直後の日本の描写に遠慮がない谷口千吉の演出が忘れられない作品だった。

「33号車応答なし」(1953年)

東宝のローテーション監督として活躍していたこのころの谷口監督作品。
志村喬と池部良の警官コンビが事件に巻き込まれるサスペンスの佳作。

事件の展開もスリリングで、よくできた脚本と演出。
配役も、池部の新妻役の司葉子が初々しく愛嬌があったり、ベテラン警官の志村と、新米の池部の描き分けもよい。

この作品で一番、谷口監督らしいと思ったのは、悪漢たちの描き方。
浮浪児を救済する慈善事業を隠れ蓑にしながら、子供たちを悪事に加担させている悪漢なのだが、画面に登場する浮浪児に驚く。
単なる孤児ではなく、明らかに巨人症だったり、奇形に近いような子供を使っている。

谷口監督としては、悪漢たちのいかがわしさを強調するための配役なのだろうが、当然現在では描写できない場面。
この作品が虚構のサスペンスから、敗戦日本のざらざらした現実感を伴った世界へとワープした瞬間だった。
そう仕向けた谷口監督の感性は尋常とはいえまい。

悪漢一味のマドンナ役で根岸明美を配役。
キャリアも浅い新人に、サデイステックな悪女役に挑ませるのも谷口監督の感性か。
少なくともこの女優を大切に育てよう、と思っていないことは確かだったろう。

この後の女優・根岸明美のキャリアの決定打のなさよ。

足を出し、体を強調した路線(「獣人雪男」「魔子恐るべし」)から、巨匠に呼ばれての文芸路線(「驟雨」「妻の心」)を経て、性格俳優路線(「赤ひげ」「どですかでん」)へ。

その迷走ぶりを考えると、根岸明美にとっては、本作で谷口監督に与えられた悪女路線を突っ走るのも、逆にありだったのかな、と思ったりもするくらいである。

川津祐介さん

俳優の川津祐介さんが、先月26日に亡くなった。

なぜ〈さん〉付けなのかというと、筆者の近所に住んでいたからだ。
それこそ20年程前くらいは、自転車で近所を散歩する川津さんを、時々見かけた。

スポーツタイプの自転車を、ショートパンツ姿で乗りこなす景色は、やはり一般人とは違っていた。

ある日曜の夕方、近所のグラウンドの隅で、子供の親仲間と缶チューハイを飲みながらだべっていると、自転車に乗った川津さんがニコニコしながら寄ってきた。

「あつ、川津祐介だ」と思ったが、軽く会釈しただけで、おやじ同士と話を続けてしまい、川津さんとはそれっきりだったが、今思えばもったいないことをした。
「けんかえれじい」(1966年 鈴木清順監督)出演時の話でも聞いてみたかった。

川津さんの自宅前は、通勤時に毎日通った。
娘さんらしき美人がたまに道路を掃いたりしていた。
亡くなる前は自宅で過ごしていたとの報道だった。

川津さんは木下恵介監督に勧められて1958年に松竹入り。
木下作品のほか、大島渚、吉田喜重など若手の〈ヌーベルバーグ〉作品にも出演。
1960年代には大映、日活の作品にも出演し、テレビにも活躍の場を広げた。

「惜春鳥」(1959年 木下恵介監督)。当時の松竹青春スターたちとともに

代表作は「青春残酷物語」(1960年)、「けんかえれじい」、とテレビの「ザ・ガードマン」(1965年~)になろうか。

「三味線とオートバイ」(1961年 篠田正浩監督)。岩下志麻に猛ダッシュ

木下監督好みのさわやかで透明感のある好青年役でスタートし、60年代の若者の屈折を演じ、そのうちにコミカルなアクションものにまで芸域を広げた。
主役を張るというより、器用で、色のついていない共演者としてのポジションで存在感を発揮した。

「けんかえれじい」では、喧嘩の先輩「スッポン」として「南部麒六」に教えを授ける

筆者の印象に残っているのは、上記代表作のほかでは、「赤い天使」(1966年 増村保造監督)の両手をなくす傷病兵役、テレビで飄々と主人公を演じるスパイアクションもの(「ワイルドセブン」?)だろうか。

何気なく見たテレビのスパイアクションでの、川津さんのセリフを今でも覚えている。
その回のドラマのキーワードは『カトレアは蘭の一種』だった。
プールサイドのテラスで、カクテルを前に独特のハスキーな声でそのキーワードをしゃべっていた。
それは、おしゃれでスッとぼけた感じの、川津さんの個性にあったドラマのワンシーンだった。

さんいちぶっくす「スターと日本映画界」

文芸プロダクション にんじんくらぶ

古書店の映画本コーナーで、で「スターと日本映画界」という古めの本を見つけた。
若槻繁という著者名が引っ掛かった。
にんじんくらぶの代表者だった人物が、設立から解散までの13年間を回想した本だった。
1968年三一書房刊の新書版のこの本を500円で購入し、むさぼり読んだ。

表表紙

にんじんくらぶは、1954年に岸恵子が中心になって、有馬稲子、久我美子と3人で結成した芸能プロダクション。
岸恵子の従姉の夫である筆者は、日ごろから彼女の相談に乗っていたことから、俳優のマネージャーとして映画界にかかわることを志し、久我美子、有馬稲子の賛同を得て、マネジメントと映画製作を目的とする会社を設立するに至った。

裏表紙

背景には、岸恵子が松竹に、有馬稲子が東宝に対して抱える〈希望する映画に出られない〉不満があった。

岸恵子は当時恋仲だった鶴田浩二との共演作「ハワイの夜」(1953年 マキノ雅弘監督 新東宝配給)に松竹に無断で出演強行するなど、当時の映画女優としても無茶なことをした。
松竹は契約違反を不問に付し、かえってギャラを2倍にして待遇した。
岸は黙って、気が進まぬ「君の名は」(1953年 大庭秀雄監督)への出演を承諾せざるを得なかった。

有馬稲子も、東宝時代に出演が決まり、役作りに入っていた「夫婦善哉」が制作中止(のちに淡島千景に代わって制作された)となったことなどにより、松竹へ移籍した。
移籍時も松竹との契約内容に、小津作品への出演を盛り込むなど、〈自己主張する〉女優だった。

以後、にんじんくらぶは彼女たちの代理人(マネージャー)として、交渉の窓口となる。
交渉の相手は、産業としての全盛期を迎え、製作から配給、興行までを独占しつつ、専属俳優の他社出演をパージする内容の秘密協定を相互に結んでいた映画会社5社(のちに6社)そのものであった。
5社協定(のちに6社協定)と呼ばれるそれは、独占禁止法に触れるため表には出せないものの、公然の秘密として映画俳優を縛っていた。

にんじんくらぶ創立当時の3人。左から有馬稲子、岸恵子、久我美子

「人間の条件」

にんじんくらぶの歴史の中で、燦然と輝く歴史がある。
「人間の条件」と「怪談」の製作だ。

いずれの作品も、東宝、松竹などのメジャーでは実現不可能な内容、規模であり、その完成度の高さから、海外映画祭での評価も高く、封切り以降も、名画座上映にとどまらず、「リバイバル上映」として封切館で上映された。

ただし、製作面、金策面では困難を極め、「怪談」での損失は、にんじんくらぶの会社消滅の原因ともなった。

「人間の条件」は全6部作、全9時間39分の上映時間。
製作期間4年、原作・五味川順平、監督・小林正樹、松竹配給の大作だった。

軍隊の非人間性に怒りを抱きながら己の正義を貫く主人公に仲代達矢を抜擢。
妻役には新珠三千代。

軍隊経験者の小林監督は、出演者を松竹大船撮影所に集め合宿。
起床ラッパとともに第一軍装に3分以内で着替え、軍隊式の整列、号令を1か月間訓練してから、満州に見立てたロケ地、北海道サロベツ原野に乗り込んだという。

この作品の撮影は、宮島義勇。
戦後の東宝争議では組合の最高幹部として戦い抜いたゴリゴリの闘士。
ロケ地では、体調を崩しながらも粥をすすって撮影を続行したという。

「人間の条件」新珠三千代と仲代達矢

1・2部がベネチア映画祭の予選を通過しながらも、邦画メジャー5社の妨害(勝手に出品辞退を表明)にあう(無事出品し、サンジョルジュ賞銀賞を受賞)などの混乱の中、1959年の公開時、松竹配給収入の1位、2位を「人間の条件」の1・2部と、3・4部が占めた。
全6部作で配給収入9億円の大ヒットとなった。

なお、本作の製作費は3億2千万円余。
松竹の3億円による買取契約だったため、にんじんくらぶは2千万円余の赤字、松竹は6億円の黒字(経費込みの粗利として)となった。

「人間の条件」という作品。
戦争を経験していた当時の日本人にとっては特別のものであった。
筆者の軍隊経験者である父親(大正10年生まれ)は、テレビ版の「人間の条件」を欠かさず見ていた。

「怪談」

先の「人間の条件」が、苦しい製作条件の中完成し、国内でヒットし、海外で高評価で迎えられたた作品であるなら、同じく赤字、海外高評価ながら、語られるのが憚られるような不幸な作品が「怪談」だ。

1964年に製作開始。
監督・小林正樹、撮影・宮島義勇、原作・小泉八雲。

当初の予算は1億円で、7千万を配給予定の東宝が出資。
3千万をにんじんくらぶが金策してスタートした。

ところが最終的にかかった費用は約3億2千万。
東宝はその後3千万円を追加出資し、計1億円を負担したので、不足分の2億2千万はにんじんくらぶが調達することになった。

この作品は、製作当初からスタジオが決まらず(通常は配給する東宝が面倒を見るものだが)、戦時中に爆撃機を組み立てていたという日産車体の工場跡を改修して使用するなど、前途多難なスタート。
加えて、撮影済みネガの現像処理失敗、俳優陣のスケジュールのバッテイング、小林監督の粘り、などで、撮影は遅れに遅れた。

「怪談」雪女に扮する岸恵子

1964年12月に完成。
そこそこヒットはしたものの、興行収入は国内外合わせて2億4千円万ほど。
契約によるにんじんくらぶの取り分は1500万にしかならなかった。

配給会社の東宝は、自らの出資分、興行費用(プリント代、宣伝費等)を配給収入からトップオフし、残りの収益(あるいは損失)を分配(分担)するので、ほぼ赤字になることはない。
リスクは制作会社が負うのである。

こうしてにんじんくらぶは膨大な借金を背負うこととなった。

「怪談」の製作費内訳
「怪談」の配給収入内訳

筆者はリバイバル上映時に「怪談」を観た。
大画面に広がる、隅々まで映像化された幻想、怪異の世界に見入った。
日本映画としては稀有な大作だと思っている。

プロローグ

「怪談」の赤字によりにんじんくらぶは倒産(手形不渡りによる銀行取引停止)。

前後して、久我美子が別のプロダクションへ移り、有馬稲子はフリーとなった。

設立後ににんじんくらぶに加わっていた俳優のうち、渡辺美佐子、三田佳子、小林千登勢らが新会社・にんじんプロダクションに移った。

にんじんくらぶの功績は、その後の俳優グループの発足につながっている。

まどかグループ(佐野修二、佐多啓二)、三文クラブ(三国廉太郎、小林桂樹)などが相次いで発足した。
にんじんくらぶの参加メンバーも増えていった。

これらの動きは、映画産業の衰退とも相成って、非人道的な6社協定の事実上の撤廃へとつながる。

本書は、映画製作者の回想録としては、えてして美化されがちな経歴を赤裸々に吐露し、映画製作の実際と芸能界の不条理をぶちまけており、記録としても貴重なものだ。
内容が若槻社長の身の回りの出来事と、金策面や芸能界のドロドロに偏りすぎているとはいえ。

この後の岩槻繁は、「我が闘争」(1968年 中村登監督)、「愛の亡霊」(1978年 大島渚監督)などの制作にかかわっていることがわかっている。
それ以上のことは検索しても出てこず、生きているのかどうかも確かめようがない。

若槻のウイキペデイアはない。

同書最終ページの広告より、「わが闘争」「三文役者」が目を引く

「映画興行師」と「場末のシネマパラダイス」

映画は、少なくとも商業映画は、観客に観てもらい、興行収益を得てナンボの世界である。

劇場映画の製作には、ピンク映画の300万を最低限に、通常は数千万から億の金がかかる。
製作部門は、当該製作費の回収を皮算用に、予算管理の上、映画を製作し、配給部門、興行部門の人たちは、回ってきた作品の配給料金、興行収入から利益を得て食っている。

費用の面はともかく、趣味の8ミリ映画だって(今でいうなら、ビデオ、デジタル動画か)人に見てもらって完結する、というのが映画のもつ特性だ。

「映画興行師」1997年 徳間書店刊 前田幸恒著

「映画興行師」という本に出合った。
著者は1934年生まれ、1957年に東宝中国支社に入社以来、中四国の東宝直営館の支配人として、映画館運営の最前線にいた人。
映画全盛時代から、下降の時代、現在のシネコン全盛期に至るまで、映画館の運営に当たった。

当時の映画館のスタッフはというと、支配人以下、営業、宣伝、映写のメインスタッフのほか、モギリ、売店のほか、案内係という女子スタッフもいた。
外注の看板製作係もあった。
著者は、最初は営業担当として、のちに支配人として当時の映画館を転勤して歩いた。

昭和30年代初頭は、映画の最大の宣伝媒体は、新聞広告とポスターだった。
若き日の著者は、映画の終映後に、雪の降る山陰の街角へポスターを貼りに出た。

興行の世界は、もともとはヤクザの縄張り。
当時の東宝ではすたれていたが、東映などでは、新任支配人の就任は、やくざ映画の襲名披露もかくや、のスタイルで行われたという。

一方で、東宝直営館の支配人といえば、当時は町の名士。
赤穂に赴任の時は、「義士祭り」のパレード要員として声がかかった。
新任挨拶の訪問先は、役所、学校、公共機関が主だった。

映画が斜陽になり動員数が下がってくると、劇場でインスタントラーメンを売ったり、うどん屋を併設したり、の多角経営にアイデアをふるった。

周辺地域の保育園、学校への営業も欠かさずに、移動映画大会や団体鑑賞による動員につなげた。

映画館数が減少したころの地方の劇場勤務時には、他社作品や洋画も混ぜて上映した。
この時は、配給会社と、作品のセレクトや貸出料金の交渉も行い、映画興行のだいご味を体験した。

〈これをやれば絶対当たる〉というのがないのが映画というもの。
さらには原価と売値が全く連動しない商売が興行というもの。
著者はそれを、ちゃらんぽらんな世界、という。
商社という、世界を股に何でも売る商売人でも興行だけはやらない、という世界。

巻末の資料1

巡り巡って、時代はすでにシネコン全盛期。
世の中は、外資系業者のマニュアル通りに映画興行が行われるようになっている。

大資本を投下し、多スクリーンに同時上映して観客に選択肢を与えているかのように見せながら、実は、画一的な基準と設備を観客に押し付け、業績次第で簡単に撤退しそうなのが〈シネコン〉だと、著者は看破している。

巻末の資料2

生き抜いてきた〈興行〉の世界は、地域の特性に根差し、足で観客を掘起し、工夫して観客を呼び寄せる手作りのもの。

両者の違いは、スーパーマーケットやショッピングモールと、昭和の商店街のごとしである。
映画館でいえば、シネコンより、町の中心街や商店街にあった昔ながらの映画館が断然懐しい。
この本は昭和の映画館の背後の〈興行〉の世界を実体験をもとに描き出してくれた。

「ジブリ系」による口絵

映画興行の今後の推移については見守ってゆきたい。

「場末のシネマパラダイス・本宮映画劇場」2021年 筑摩書房刊 田村優子著

さて、次なるこちらの本。
古い映画ファンにとっては玉手箱のような稀有な本である。

表紙には2代目館主の雄姿が

舞台は福島県本宮市にある、1963年に休業した映画館。
国内唯一と思われるカーボン式映写機が現役で残り、映画上映に必要な機材一式と、これまでに上映した映画のポスター類に配給会社から購入したフィルムまでが残っているというタイムカプセルのような場所。

当館保存の貴重ポスター類

著者は、当館で今も映写機のメンテナンスを欠かさない現2代目経営者の三女として本宮に生まれた。
成長して上京後、広告などの仕事に就くうち、実家の本宮映画劇場の〈お宝〉に気づき、本にまとめて発信するとともに、3代目経営者を修行中の身となった。

著者の父(2代目)が、備品、フィルム、ポスター類を捨てずに残していたから、〈お宝〉たちが残った。
田舎の映画館なので、かつては浪曲、プロレス、ストリップなどの実演も行い、上映作品も、洋画、ピンクを含めた各社の配給作品だったため、残った宣材等の資料もも多種多様。
ピンク映画の上映にあたっては、無数にあった配給会社(製作会社)1軒1軒と直接契約したといい、今では歴史に埋もれた貴重な資料が残った。

ピンク映画のポスターも当館のお宝

倒産に瀕したピンク映画の制作会社から上映プリントを購入したこともあった。
さらに2代目は、手持ちのピンク映画フィルムの名場面を集めて編集した。
この「ピンク映画いい場面コレクション」は4巻にまとめられ、2代目のトークショー付きで、2012年のカナザワ映画祭の晴れ舞台で上映もされたという。

スプライサーによりフィルムを補修する2代目館主

東日本震災での被害はなかったが、2019年の台風によりフィルムが水浸しになった。
万事休すと思われたが、著者(3代目)の友人のフィルム技術者の尽力や日大芸術学部映画学科の機材提供により、フィルムの洗浄、乾燥、つなぎなおしを行い、かなりの程度が復元できたという。
この話、日本にも若い現役の〈フィルムを愛する人たち〉がいるのを知って、読者(山小舎おじさん)も心励まされ、うれしかった。

唯一無二の現役カーボン式映写機

本宮映画劇場は、主に松竹、新東宝と契約して配給を受けてきたが、契約料やその時々の人気によって大映などとも契約したり解除したりしてきた。

また、小さな町なので2本立てプログラムが1週間持たずに、2,3日で変えなければやっていけなかった。
ところがフィルムの貸出料金は1週間単位なので、残りの日数をさらに郡部の上映館にフィルムをまた貸ししたという。
大っぴらには民法上も契約上も法律違反の行為なのだろうが、当時の興行界では配給会社も黙認の行為だったという。

映画の宣伝にトラックにのぼりを立てて走らせたり、移動上映で出張したり、の話は、「映画興行師」の世界をさらに田舎版にした感じ。
この著作、まさに昭和の興行界の歴史を側面から裏付ける資料としての価値もある。

「ゴダール」も上映されていた!

今や映画はすっかりデジタルの世界。
若い人とフィルム映画の話をしていても「映写機のメーカーはなくなったので、今ある映写機は部品が壊れたらもうおしまい」と指摘され、しょぼんとするしかなかった今日この頃。
「場末のシネマパラダイス」は、ドキドキ、キラキラする昭和の映画の世界を眼前に展開してくれました。

フィルム映画と昭和の興行世界はまだ死なんぞ!

昭和の映画宣伝の記録として貴重なトラック街宣風景