シネマヴェーラでサッシャ・ギトリ特集

シネマヴェーラ3月の特集はサッシャ・ギトリ。
生涯30本ほどの映画を監督するが、リアルタイムでの日本輸入は2本ほどしかなかった。
ただ輸入されたうちの1本である「とらんぷ譚」(1936年)は30年代のフランス映画を語る際によく登場する作品であった。
今回はギトリの特集から2本を見た。

シネマヴェーラのパンフより

「あなたの目になりたい」 1943年  サッシャ・ギトリ監督主演  フランス

ギトリ映画初体験。

若々しいファッションに身をつつんだマドモアゼル2人が展覧会の会場へ入ってゆく。

ぴちぴちして魅力的なマドモアゼル(ジュヌビエーブ・ギトリ)。
そこに出てくるのが初老で恰幅のいい彫刻家(ギトリ)。
その姿、若い娘には釣り合わない。

初老のエロ爺の若い女への執着?
もしくは若い娘によるパトロン狙いのパパ活?

恋の都フランスだからその主題もありなのだが、当時60歳に近いギトリが主人公を演じる姿に驚く。

監督で演技者としても定評のあるギトリゆえに許されるのか。
同じく監督主演を務め、気に入った(多くは愛人の)女優を相手役に抜擢した、エリッヒ・フォン・シュトロハイム、チャーリー・チャップリン、そしてウッデイ・アレンの〈マイナス面〉を思い出す。

シュトロハイムには徹底した己を含めた現実への視線があった。
チャップリンには体を使った常人ならぬ表現があった。
それらは、仮に己の映画を公私混同の場としていたとしても一見の価値のあるものだった。
が、果たしてギトリ映画にそれはあるのか。

セリフ回しは滑らかだが、動かなくなった太めの体躯と隠せない年齢はすでに主演者のそれではなかった。

シネマヴェーラ特集パンフより

それでも映画の前半。
恋に落ちた娘を邪険にする彫刻家の姿に、人間の情の不可思議さ、深さを表現していいるのか?さすがフランス映画!と感心させる。

それが早とちりだったと判明するのが、彫刻家が失明を予期し、娘に結婚をあきらめさせる親心だとわかって迎えるハッピーエンド。
これではハリウッドメロドラマと同じではないか。

「とらんぷ譚」 1936年  サッシャ・ギトリ監督主演  フランス

1936年の作品。
主演は同じくギトリ本人だが、まだ50代前半で、また全編にわたっての出演ではなく、少年時代や青年時代の主人公をそれぞれ子役や若い役者が演じるので無理なく見られる。

特集パンフより

主人公のナレーションによる回想シーンがほとんどを占める。
この回想シーンの処理がテンポがあっていい。
短くカットがつながれ、演技もパントマイム的で無駄がない。
さりげないギャグにはペーソスや人生の苦さが加えられ、ギトリのセンスの良さを感じる。

当時の結婚相手ジャクリーヌ・ドゥリュバックが魅力的に撮られており、とっかえひっかえのファッションやコケテイッシュな笑い顔に「あなたの目になりたい」のジュヌビエーブ・ギトリを思わせる。
ギトリの好みはいくつになっても、こういった若い魅力的な女性なのだろう。
チャップリンも10代の少女が好きだったように。

右:サッシャ・ギトリー、左:伯爵夫人役の老女優

快調な作品なのだが、回想シーンでモナコ時代の話の時の主人公のナレーションで「ここにはあらゆる人種が集まる(中略)雰囲気がいいのは日本人がいないせいだろう」みたいなセリフがあった。
背景が白くてスーパーの日本語が判然とはしなかったものの。

1936年当時は戦前で、枢軸国は悪の対象。
ドイツには面と向かって言えないので、影響の少ない日本を悪者にしたのか?
あるいは人種差別か?

戦後にはすぐ壊れるおもちゃを裏返すとMADE IN  JAPANの文字が現れ、それをラストシーンとしたイギリス映画(「落ちた偶像」1948年)などもあり、直接的間接的に日本(日本人)を揶揄した外国映画が各時代に見られた。

自分の作品のギャグのために外国(人)を茶化すようなことは好きではないのでここで一気に醒めてしまった。

コメデイアンがその毒として事象を茶化すことはあるが、その選択には本人の立ち位置が表れる。
ロシア生まれで、フランスでは己の才能1本で演劇映画でのし上がってきたギトリの〈毒〉のこれは一つなのであろう、時代背景もあったろう、がしかし・・・。

そういうわけで、この日以降ほかのギトリ作品を見る気力をなくした山小舎おじさんでした。

ウッデイ・アレン作品のように、自虐ネタやオチョクリをしゃべりまくる主人公が、若く魅力的な女優を横に、苦いギャグを連発する映画が好きな人はどうぞ。

「レッドパージ・ハリウッド 赤狩り体制に挑んだブラックリスト映画人列伝」を読む

先日「ハリウッドとマッカーシズム」という本を読んだばかりの山小舎おじさん。
続いて「レッドパージ・ハリウッド」という本を読んでみた。

なぜに映画界が赤狩りの主なターゲットとされたのか?
そこにはユダヤ人などへの差別はあったのか?
それとも左翼勢力と「民主国家」アメリカの価値観との覇権争いが本質だったのか?否か。

「レッドパージ・ハリウッド」 2006年 上島春彦著  作品社刊

定価3800円、399ページの大著を吉祥寺の古本屋で2000円で思い切って購入。
帯に「映画ファン必読の労作ー蓮見重彦氏絶賛」の文字が踊る。
本のタイトル、ボリュームからして、ハリウッド赤狩りの歴史的経緯と評価が体系的、時系列的に網羅された内容を連想する。

目次

読んでみて、著者がハリウッド赤狩りの歴史的、時系列的解説に興味のないことがすぐ分かった。

本書は、チャップリンがドイツからの亡命人作曲家で左翼のハンス・アイスラーにかかわりがあった、という話から始まり、「ライムライト」撮影後に共産主義者としてアメリカを追われたチャップリンの話へと続く。

その後も赤狩りの時系列的、歴史的経過に著者の関心はなく、ジョン・ガーフィールド、ベン・マドウ、フィリップ・ヨーダンといった俳優、脚本、製作者の個別の話が続く。

これらの登場人物は、赤狩りの犠牲者だったり、赤狩りでブラックリストに載った脚本家の「フロント」(名義貸し)だったり、一連の「赤狩り事象」に深く関係した人たちだった。
が、日本ではあまりなじみのない人物でもある。

著者は彼らの経歴のみならず、演劇・映画の作品の背景(作品完成に至る、人物関係、業界関係など)に分け入り、また枝分かれした先の情報をたどってゆく。
そこに確証のない情報だったり、著者の推測が混じる。

第一次、非米活動委員会に召喚された19人

本書「はじめに」によれば、「著者の関心は普遍的部分にはなく」また「本書は基本的には年代記ではなく人物伝の形式をとる」とある。
本書はハリウッド赤狩りに関心のある初心者用に書かれたものではなく、ある程度の時系列的事実を押さえた者でかつ映画史の周辺に興味を持つマニア向けに書かれたものだ、ということがわかる。
なるほど蓮見重彦氏が推薦文を書くはずである(文体、文脈も蓮実氏と似ている)。

赤狩り時代を題材にした、ハリウッド人物伝として読めば、豊富な裏話(確証のないものも含めて)に溢れる本書は確かにマニアにとっては面白い。
本書が採り撃揚げた人物には以下のような映画人がいる。

  ジョン・ガーフィールド 俳優

1913年ロシア系ユダヤ人の移民の息子としてニューヨークに生まれ、ストリートキッズとして少年時代を過ごし、16歳の時にメソッド系の演劇レッスンの練習生となる。
左翼系の演劇集団グループシアターで売り出し、ハリウッドに進出。
自らの経歴を生かすようなストリートキッズ役で脚光を浴び、ジェームス・ギャグニーの後継者としての評価を得る。

独立プロを作ったガーフィールドは、エイブラハム・ポロンスキー脚本、ロバート・ロッセン監督で代表作「ボデイアンドソウル」を製作する。

1951年、共産主義シンパとして非米活動委員会の召喚を受けたガーフィールドは、自らを「共産主義者でもないし、その思想に共鳴もしない」と議会で証言。
ただし、仲間の名前を出すことは拒んだ。

第二次、非米活動委員会で証言するガーフィールド

1952年、ガーフィールドは知人女性の部屋で死亡。
自死ともいわれたが、最近では持病の心臓発作によるものと思われている。
赤狩りのストレスが間接的な死因であることは自明。

フィリップ・ヨーダン 脚本家、製作者

1914年シカゴ生まれのポーランド系ユダヤ人。
「犯罪王デリンジャー」(1945年)を製作しヒット。
「大砂塵」「折れた槍」「バルジ大作戦」などの脚本、製作を経て1990年代まで映画製作に関与した人物。

筆者が特に関心を寄せたのは、このヨーダンがブラックリストに載った脚本家を起用し、そのフロントとなったことが多々ある(のではないか)という点。
「最前線」の脚本でブラックリスト作家ベン・マドウのフロントを務めたとのこと。

このヨーダンなる人物、メジャースタジオの内部で働いてきたわけでもなく、脚本家としての実績もあいまいで、いかにも胡散臭い人間(独立系映画プロデューサーとはかような人物をさす)。
著者にとっても、どの作品がブラックリスト作家のフロントだったのか確証がない。

本書からは「いかがわしい映画人」以上のヨーダン像が伝わってこない。
ただし、日本人がほとんど論評してこなかったヨーダンなる映画人に、スポットライトを当てた点だけは意味があるのかもしれない(まったく意味のないマニアの自己満足なのかもしれないが)。

怪人フィリップ・ヨーダン

   エイブラハム・ポロンスキー  脚本家、演出家、映画監督

ユダヤ系の薬剤師の家庭に生まれ、社会主義の家風に育ちコロンビア大学を出て弁護士の資格を持っッテイタポロンスキーは、小説家志望から劇作家となり、ハリウッドでの活動に至った。
主に脚本家で活躍する。
監督処女作は「フォースオブイーグル」。

エイブラハム・ポロンスキー

1951年には盟友ジョン・ガーフィールドに次いで非米活動委員会の召喚を受けた。
ガーフィールドを除く仲間の密告によるものだった。

ポロンスキーは筋金入りの共産主義者で、人種差別と偏見に基づく非米活動委員会の召喚リスト中でも「唯一追放に値するハリウッドの共産主義者」といわれた。

ブラックリスト入りで早々にハリウッドを離れたポロンスキーはニューヨークの演劇界に戻り、50年代をテレビの台本執筆などで過ごした。

この時期1959年にはロバート・ワイズ監督、ハリー・ベラフォンテ主演の「拳銃の報酬」でノンクレジットながら脚本を書いている。
「拳銃の報酬」は、偏見に満ちた白人が、犯罪仲間の黒人と協同する中でお互いの理解に至るまでを描いた犯罪映画。
著者は「善意の黒人を白人が受け入れる、というそれまでのプロット(「手錠のままの脱獄」などでシドニー・ポワチエが演じる善良な黒人のイメージ)から一歩進んで、ありのままの黒人が白人の理解を得る、という、より進歩的なプロットを描いたもの」(山小舎おじさん要約)と評価している。

  エリア・カザン 演出家、映画監督

トルコ、コンスタンチノーブル(現イスタンブール)出身のギリシャ系。
移民とはいえ絨毯で財を成していたおじさんにより裕福な生活を送る。
学生時代から演劇に親しみ、左翼系演劇集団グループシアターでジョン・ガーフィールドなどと親交を結ぶ。
この時期に共産党に入党し、のちに脱退。

1952年非米活動委員会の召喚を受けたカザンは、委員会の活動を全面支援するとともに、共産党シンパの名前を10名近く挙げた。

この密告について著者は、「ハリウッドで監督として商売する以上は、非米活動委員会に協力するよりほかにない」(山小舎おじさん要約)状況だったと述べている。
事実、密告したエドワード・ドミトリクもエリア・カザンも、ロバート・ロッセンも、もともと監督としての実力があったにせよ、(密告をした)50年代以降の監督としてのキャリアはそうそうたるもので、非協力を貫いたポロンスキーとは見事な対比を見せている。

陸井三郎著「ハリウッドとマッカーシズム」中のアーサー・ミラーによっても、本書著者の上島春彦によっても、「救いようがない」と両断されたカザンの行動。
仲間を売るという行為が、ハリウッドで演出家が生き残るための当時唯一の手段だったとはいえ、その後も自分の裏切りに開き直り、売った仲間を誹謗し続けたカザンの人間性を非難している。

また、著者はカザンが自伝やのちのインタビューで盛んに強調したという、「自らの移民としてマイノリテー性」なる「被害者意識」にしても、恵まれた幼少時代からの生活ぶりなどを理由に切り捨てている。

  まとめ

時系列を無視し、著者の興味と知識(確証がない部分も含めて)の赴くまま、自在に時空を超えて展開するブラックリスト人の映画ワールド。
混乱する展開が多々あるとはいえ、「映画マニア」としての著者が思わず熱を込める筆致が、えもしれぬ魅力を発していたのも事実。
本書の切り口、端はしに顔を見せるマニアックな豆知識の数々。
例えば・・・。

ブラックリスト中では有名人のドルトン・トランボが、「ローマの休日」の原案者だった?とか、トランボの別名執筆といわれている「黒い牡牛」だが、背後はそんな単純なものではなさそうなこ話。

「ボデイアンドソウル」のユダヤ人母親役が「緑園の天使」でエリザベス・テーラーの母役を演じた個性的なアン・リヴェアという女優である話。
などなど。

ドルトン・トランボ

何やかんや言いながら、映画ファンの端くれ・山小舎おじさんもつかの間、映画の光と影にが作り出す渦に巻き込まれ、夢を見させてもらったような読後感でした。

筆者の関心は、ユダヤ人問題にも、左翼問題にもなく、ひたすら映画マニア的な人物関係にあったような気がします。
本書の値段が高いのは読者層が非常に限られているからでしょう。

 

藤純子「女渡世人おたの申します」

ラピュタ阿佐ヶ谷の、令和4年から5年にかけての年越し企画、2か月にわたる「血沸き肉躍る任侠映画」特集があった。
藤純子主演の「女渡世人おたの申します」を見てきた。

「女渡世人おたの申します」 1971年 山下耕作監督 東映

「おたの申します」とは「よろしくお頼み申し上げます」をやくざ風の言い回しにしたもので、藤純子は「女渡世人」「緋牡丹博徒」などの主演シリーズ中、仁義を切るシーンで使っている。

「女渡世人」シリーズは「緋牡丹博徒」シリーズをヒットさせた藤純子による新シリーズ。
「おたの申します」はその第二弾。

監督は東映京都撮影所で「将軍」と呼ばれた山下耕作。
脚本は「仁義なき戦い」シリーズでやくざ映画の新境地を切り開いた笠原和夫。

重要なわき役に島田正吾と三益愛子を配しており、東映プログラムピクチャア中では異色にして鉄壁の布陣。
映画は期待にたがわぬ完成度の高いものだった。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーに飾られた本作のポスター

「緋牡丹博徒」シリーズなど、藤純子主演の任侠映画のパターンは、仁義を通して渡世稼業(ばくち打ち)に生きる女渡世人の藤が、悪徳やくざの理不尽な所業に耐えかねて殴り込み、日ごろ藤の応援団を自任する親分(若山富三郎)が助っ人に駆け付けるなどして悪漢をやっつける、というもの(だと思う)。

「おたの申します」ではそのパターンを一ひねり。
藤は主なストーリーのむしろ脇に回り、理不尽な所業に苦しむ渡世人(ばくち打ちではなく、正業を営んでいる)を島田正吾が演じて、正統派の芝居をたっぷり見せる。
その妻役の三益愛子による、大時代的ではあるがそれでも抑えた演技も任侠映画に枠を超えて見ごたえがある。

当日のラピュタ阿佐ヶ谷のロビー風景

「男はつらいよ」シリーズでもパターンが煮詰まっていた時期に、浅丘ルリ子扮する場末の歌姫・リリーを創出し、道東を走る夜汽車の中で寅さんと邂逅させたり、東京の場末の街でリリーが実母に金をせがまれたりする場面によってリリーの「異色な」キャラ付けを行い、シリーズに新境地を開いたことが思い出される。

「緋牡丹博徒」シリーズで藤がバッタバッタと悪漢を斬り伏せるというファンタジィに疲れた東映が、ここは藤のスーパーウーマンぶりを抑えて、しっとりとした人情の世界を描き、シリーズの世界に厚みを持たせよう、としたのが本作ではなかったかと推察する。

ロビーに飾られたポスターより

悪漢の理不尽に耐える正義の人、の役柄は島田正吾がしっかり演じ、盲目の妻・三益愛子は藤を息子の婚約者と思って情けをかける。
不肖の息子はとっくに殺され、藤は婚約者でも何でもない渡世人だと知りながら。

その状況に悩む藤は、威勢のいい女渡世人ではなくて一人の若い女として描写される。
とはいっても堅気の女衆は決して、やくざの藤を受け入れない。

ラストシーン、堪忍袋の緒を切って悪漢に殴り込み、しょっ引かれる藤に、ただ一人三益愛子が思わず「お前は本当の(義理の)娘だと思っている」と声をかける。
思わず「おっかさん」と叫ぶ藤。

「義理と人情」の虚構の話が「真情」に変わった瞬間。
母親の愛を知らずに育った女渡世人が弱弱しい年相応の娘に戻り、母を慕う心情を吐露した瞬間だった。

「日本映画全作品の鑑賞が目標」といい、ラピュタ阿佐ヶ谷の客席でも時々見かける、落語家の快楽亭ブラックが生涯ベストテンで第二位にランクした作品。
いつどこのメデイアに、だったのかは覚えていないが。

特集パンフの作品解説

筑摩書房刊「ハリウッドとマッカーシズム」

陸井三郎著、1990年筑摩書房刊の「ハリウッドとマッカーシズム」という本を読んだ。

目次その1
目次その2

マッカーシズムとは、1940年代から60年代にかけて、アメリカ下院議会に設置された「非米活動委員会」の活動を指す。
上院議員のジョゼフ・マッカシー議員に由来するネーミング。

委員会のメンバーは、反共、反リベラル、白人至上主義、反ユダヤ、人種差別、親ナチの主義者。
その目的は共産党員とそのシンパの摘発。

非米活動委員会は1947年、その目標をハリウッドに定め、共産党員、元党員およびシンパと目された19人の、映画製作者、脚本家、監督を「非友好的」証言者として議会に召喚した。

19人は全員が戦争中、反ナチ、親ソの立場で仕事をし、また10人ないし13人がユダヤ系だった。
また、彼らのうち、脚本家ドルトン・トランボ、監督のルイス・マイルストン、脚本のレスター・コール、俳優のラリー・パークスなどは、すでにハリウッド最高クラスの高給取りだった。

召喚された11人。米印は実際に証言することになった11人

委員会は19人の召喚の前に、「友好的」証人として、ウオルト・デイズニー、ジャック・ワーナーなど保守的な映画界のボスたちを召喚し、証言させた。
ボスたちに、共産主義の影響を受けた「破壊活動分子」がハリウッドに存在していること、またボスたちが彼等をすでにリストアップし、かつ追放していることを証言させ、世論を委員会の味方つけることが目的だった。

1947年10月「非友好的」証人19人が召喚に応じ、うち11人が議会で証言した。
委員会が要求した証言内容は、煎じ詰めると「あなたは共産党員か、元党員か」であり、「ほかに共産党員だった人物を知っているか」だった。

それに対し「非友好的」証人らは、言論の自由を規定したアメリカ憲法の修正第一条を盾に、非米活動委員会の召喚そのものが憲法に違反している、という建付けで証言(を拒否)することで対抗した。

そもそもの始まりが、戦前の1938年に、反ファシストの立場から、仮想敵国のスパイ活動を取り締まる目的で設置されたのが非米活動委員会だった。
ところが、戦後、非米活動委員会は、反共に基づいた思想調査活動を、FBIとの連携のもとおこなうように変容しており、あまつさえマッカーシー、ニクソンなどの保守派議員の活動実績作りの場ともなっていた。

それに対し、左翼やニューディール派の知識人、マスコミなどは批判的で、「右翼」に乗っ取られた委員会による中傷、誹謗に対しては、軽蔑と嘲笑をもって応えていた。

11人の「非友好的」証人らは、証言席で、事前にまとめたステートメントを読み上げようとし、また、憲法が定める表現の自由を無視するかのような委員会自体の在り方に疑問を呈し、反論した。

自作のシナリオを持ち込み「どこに共産主義的要素があるのだ」と委員会に逆質問した。

「あなたは共産党員ですか」の問いには質問自体が憲法修正第一条に違反するからと答えず、再度の質問には「先ほどお答えした」と答えた。

「他の共産党員の名を述べよ」との質問に答えるわけがなかった。

委員会は証言者10人を議会侮辱罪で、下院本会議に上程した。
本会議は圧倒的多数でこれを可決し、10人の議会侮辱罪が裁判所に提訴されることになった。
これに応え、1948年ワシントン連邦地裁は、10人全員に禁固1年ないし6か月、罰金1000ドル前後の判決を下した。
10人は下獄した。

この時、「政治」に先導されたアメリカ世論は、すでに「反共」に変わっており、10人を擁護する流れが、非米活動委員会を容認する風潮に変わっていた。
下獄した10人はのちにハリウッドテンと呼ばれた。

反非米活動委員会の動きもあった。憲法第一条支持を表明した映画界を代表してキャサリン・ヘップバーン!
憲法第一条支持者の映画人リストより

以上が、非米活動委員会の第一次証人喚問時の、ハリウッドテンに関する概略である。
本著は、この部分を著作中の全9幕中の、第1幕と2幕に集約。
残りの7幕はハリウッドテンの周辺で非米活動委員会の召喚を受けた文筆家、アルヴァ・ベッシー、ベルナルド・ブレヒト、ダシール・ハメット、リリアン・ヘルマン、アーサー・ミラーなどの顛末に充てている。

アルヴァ・ベッシーは映画脚本家だったが、スペイン戦争に義勇軍として参加したという理由だけで召喚され、議会侮辱罪で下獄し、以降は職を転々として暮らした。

ベルナルド・ブレヒトは、最後までアメリカ国籍を持たなかったドイツ人劇作家。
ドイツ出国後は各地を転々と亡命しており、アメリカ亡命後は同じくドイツ亡命組のフリッツ・ラングやウィリアム・デイターレの支援の下にハリウッドに脚本家として活動しようとしていた。

ブレヒトは文化的にも芸術的にもアメリカおよびハリウッドに馴染もうとはしなかった。
非米活動委員会の証言では委員の質問を巧みにはぐらかした。
委員たちの敵う相手ではなかった。
ブレヒトは議会侮辱罪で上程されることもなく、旧東ドイツに向けて出国した。

著者は、戦後すぐの1945年に米軍によって日比谷に開設されたアメリカ文化センターに送られてきた新聞・雑誌・書籍により、マッカーシズムに接し、以降研究をつづけた。
本著では、アメリカ議会の議事録と残されている録音、画像を照合し、証言の再現を行うなどして、ハリウッドに関するマッカーシズムについて著している。

リアルな証言の再現などは臨場感をもって、当時の進歩的文化人たちの矜持に接することができる。
ダシール・ハメットやアーサー・ミラーたちハリウッド外の文化人たちの気骨に触れられたことも、読者にとっての有益だった。
エリア・カザンやリリアン・ヘルマンなどに対する決して高くはない「評価」に触れられたことも。

アーサー・ミラー、マリリン・モンロー夫妻

一点不満を申せば、晩年は不遇だったダシール・ハメットの葬儀に女優のパトリシア・ニール画参列した、など、映画関連では詳細な情報に触れ得る本著ではあるが、エリア・カザンの1962年作品「訪問者」がイングリッド・バークマン主演とあった(P249)のは事実と違う記述であり残念だった。
カザン、バーグマンとも映画史上のレジェンドであり、基本的事実関係は押さえておいてほしかった。

著者の左翼的史観から、多少のひいき目と固定観念があったきらいはあるが、ハリウッドにおけるマッカーシズムの歴史が整理された労作だった。

三鷹駅で盛岡さんさ踊り

東京の、それも三鷹駅で、盛岡さんさ踊りを見る機会がありました。

時どき寄る三鷹駅の立食い蕎麦。
店を出て何気なく見たポスターに北東北フェスの文字が。
よく見ると秋田の竿灯と、盛岡のさんさ踊りを、三鷹と武蔵境の駅でダイジェストでデモンストレーションする催しが開かれるとのこと。
3月のJR東日本の新幹線乗り放題切符発売前の宣伝も兼ねての企画なのでしょうか。

2月18日の三鷹駅

たまたま先月の八戸魚買い付け旅行で、盛岡にも寄ったばかりの山小舎おじさん。
さらにたまたま、盛岡城跡公園内の歴史文化館でさんさ踊りの展示を見たばかりでした。

歴史文化館の展示コーナーには、さんさ踊りの準備から本番までをビデオが上映されており、ミスさんさ踊りに選ばれた娘さんが踊りをマスターするまでの練習の様子も見ることができました。

1月に訪れた盛岡歴史文化館
歴史文化館のさんさ踊りの展示

山小舎おじさんは、毎年8月に開かれるさんさ踊りの本番を見たことはないのですが、初夏に訪れた盛岡の北上川河原で本番に向けて練習する集団を見かけたことがあります。
本番さながらの熱の入った練習風景に、北国の夏の到来を感じたものでした。

さて当日の三鷹駅構内。
いつものように乗客らでごった返しています。
さんさの演武は駅コンコースで行われるとのことですが、心配になります。
大丈夫でしょうか。

三鷹駅みどりの窓口前

駅員に詳しく聞くと、みどりの窓口前に特設会場を設置するとのこと。
14時開演の30分前から会場設営作業を開始するとのことでした。

待ちきれないおじさんは、設営開始時間前にみどりの窓口前に行ってみました。

時間になると駅員たちが、ポールとテープをもって場所を仕切り始めます。
三々五々、観客らしき中高年が集まり始めます。
さんさの演武を聞いて駆けつけた、岩手出身の方々なのでしょうか。

駅員らによる会場設定

駅員たちが盛岡、秋田の観光パンフレットの入った袋を配りはじめました。
その間にも、「14時から、ミスさんさ踊り、ミス太鼓、ミス横笛の参加による演武が始まる」とのアナウンスが繰り返されます。
観客は狭いコンコースを遮断するように二重、三重に演武舞台を囲み始めています。

さあいよいよミスさんさ踊りがやってきます。
会場が一気に華やぎます。

ミスさんさ踊りを先頭に演武団が入場

水色の着物と、青の着物を着たミスさんさ踊りが一人ずつ。
背後に赤い着物と、特徴的な飾りをつけた菅笠姿のミス太鼓が3人と、ミス横笛が1人。

いずれも若い娘さんたちです。
立ち姿、表情はすでに素人のそれではありません。
特にミスさんさ踊りの二人は。

初々しく、つつましやかな表情の娘さんたちですが、さんさのプロとしての自信と覚悟がかんじられます。

司会係の駅員が後で言ったことには、2021年と22年のミスさんさ踊りだったとのことです。

一礼して演武が始まりました。
独特の手の動き、跳ねたり中腰になったりダイナミックな足腰の動き。
歴史文化館のビデオで見たさんさ踊りそのままです。
太鼓のリードに横笛の調子が和して、テンポの速いリズムです。
2曲ほど舞うと、ミスたちは肩で息をしていました。

太鼓のリードで演武が始まる
特徴的な手の動きが鮮やか
足腰の動き、移動、太鼓らとの入れ替えなどのダイナミズムにもあふれている

曲の間にはミス達が自らマイクを持ち、盛岡やさんさ踊りの解説、宣伝を行いました。
ニューヨークタイムス選定の「2023年に行くべき世界の旅行先52か所」に盛岡が選ばれた(なんと第2位!)ことにも、さりげなく触れていました。

20分間の演武が終わりました。
夏のお祭りでダイナミックにはじける、岩手の伝統文化を感じることができました。

美人が踊る姿はいいものだ、と思いながら三鷹の駅を後にしました。

“女ごころ”とマックス・オフュルス

渋谷シネマヴェーラの「ヌーヴェル・ヴァーグ前夜」特集で、マックス・オフュルス監督作品6本が上映された。
イタリア時代の作品が1本、アメリカ時代のものが2本、フランス時代が3本の構成。
未見の4本の上映に駆け付けました。

「永遠のガビー」 1934年 マックス・オフュルス監督 イタリア

オーストリア生まれのユダヤ人で、戦前のドイツで活躍していたオフュルスがドイツ脱出後、イタリアで撮った唯一の作品。
ヒロインはイザ・ミランダ、相手役はメモ・ベナッシ。

ストーリーはヒロインの出世物語なのだが、単なるスターものでもなければメロドラマでもない。
開巻から素早いカッテイングと縦横無尽のカメラワークで己の世界に観客を引きずり込む手際の良さは、当代一流のオフュルス節全開。
「この映画は原作者のものでも、製作者のものでも、出演者のものでもない。俺の作品だ」とのオフュルスの主張が鮮やかだ。
流れるようで、鋭い映画手法に、山小舎おじさんはあっという間もなく画面に引きずり込まれる。

素早いカットつなぎ、クレーンで縦横無尽に動き回るカメラ。
古さを感じない映画手法が連続する。
例えが適切かどうかわからぬが、リチャード・レスター監督が1960年代後半に、ビートルズ主演のスター映画を、斬新なカッテイングやコマ落とし撮影などを駆使して思いっきり「自分の映画」としたことを思い出した。

独特なプロット、手法に晩年までこだわり続けたオフュルスワールドの原型が、この作品ですでに見られた。

シネマヴェーラのパンフより

「輪舞」 1950年 マックス・オフュルス監督 フランス

オフュルス監督は流麗なカメラワーク、〈既視感〉に溢れた忘れがたい背景設定などを駆使して、一瞬にして観客を己の世界に引きずり込むが、さらに音楽にも重要な役割を担わせているのがこの作品でわかる。

狂言回しの俳優が、一話ごとにシュチュエーションにふさわしいコスチュームで登場し案内する、愛と恋の小話が6話ほど。
タイトルバックに流れる主題歌を、時には狂言回しが口ずさみながら、時には場面のバックミュージックとしながら物語がつづられる。
音楽が、懐かしさに彩られた寓話的映画の世界の演出効果を高める。

映画は、シモーヌ・シニョレが演じる街の女と兵隊の物語で始まるが、その兵隊は次のシチュエーションでシモーヌ・シモンが演じる小間使いを追いかけまわし・・・と、役者を重複させながら別の話へと進んでゆく。
典型的なオムニバス映画にひと手間加え、一話ごとにストーリーが途切れない工夫がされている。

各小話に登場する俳優もいい。
ダニエル・ダリューのよろめき夫人はいかにも適役だし、若々しいシモーヌ・シモンの小悪魔ぶりも、ベテラン女優役のイザ・ミランダ(「永遠のガビー」のヒロイン)の余裕ある美しさも忘れがたい。

遊園地と回転木馬を用いた場面は、「忘れじの面影」(1948年)においてもそうだったように、懐かしさに彩られた、映画的記憶に満ち満ちている。
忘れがたき、オフュルスの映画的世界である。

シネマヴェーラのパンフより

「快楽」 1953年 マックス・オフュルス監督 フランス

モーパッサンの短編3話からなるオムニバス。
今回の特集で上映されたフランス時代の3作品では最も製作費がかかっているものと思われる。

第一話。
若き日の思い出を忘れられず、仮面をつけて若作りし、舞踏会にまぎれこむ老人の話。

オフュルスのカメラは、話の本題に入るまでの、舞踏会の館に次ぎ次ぎに乗り付ける馬車とドレスアップした客、迎える召使など、豪華なセットと、多数の俳優たちの動きを延々と描写する。
また、踊りまわる人々を館のガラス越しに移動撮影で追い、人々の間をクレーン撮影で動き回る。

見ている我々は、舞踏会の賑わいと猥雑な熱気の渦の中で翻弄される。

豪華なセットと馬車、群集に近い大人数を使ったぜいたく極まりない撮影に、思わず「そんなに金賭けて大丈夫か?」と、70年後の観客である我々も心配してしまう。
これでもかと繰り広げられるオフュルスワールドには圧倒される。

第二話。
ある港町の娼館のマダムとマドモアゼル(娼婦)一行が、マダムの実家の田舎へ、姪の神事に参加するために旅行する。

マダムにジャン・グレミヨン作品のマドンナ、マドレーヌ・ルノー。
マドモアゼルの一人にダニエル・ダリュー。
田舎で一行を迎えるマダムの兄にジャン・ギャバン。

全体を通すのびやかでのんびりとしたムード。

ダニエル・ダリューは草原で花を摘みながら主題歌を口ずさみ、マダムは終始口元に笑みを浮かべ、田舎のスケベ紳士ジャン・ギャバンは、いつもの深刻ぶった顔も忘れ、マドモアゼルの姿にひたすら鼻の下を伸ばす。
ルノワール映画のような開放感。

第二話「テリエ館」の一場面

あまりにいい感じだったので、原作「テリエ館」を読んでみた。
原作ではマダムとマドモアゼルの容姿、性格の描写がかなり辛辣だが、映画ではダニエル・ダリューをはじめキレイどころが演じている。
リアリズム映画ではないのでこれでいい。
鉄道で田舎へ向かう場面などでほぼ原作通りのセリフが使われてもいる。
ジャン・ギャバンふんする田舎紳士がマドモアゼルに執心して追いかけまわすところも映画ではソフトに描かれている。

第三話。
ムードががらりと変わる。
こわばった表情の登場人物が、閉ざされたアトリエ内で、あるいは寒々しい大西洋の海岸で交錯する様を表現主義的な手法も用いて描いている。

ダニエル・ジェラン扮する新進の芸術家が、シモーヌ・シモンに恋をし、モデルにして売り出す。
売り出し後、心変わりして女を捨てようとする。
女はマンションの窓を突き破って身投げをする。

第三話。芸術家のモデルとなるシモーヌ・シモン

何年か後、海岸を散歩する車椅子の女と、付き添う初老の男の姿が見られる。

救いようのない男と女の関係が、一瞬ののちに永遠の救いにつながる。
女ごころを一皮めくり、一見その救いようのなさの中に救いを見出す、オフュルス永遠のテーマに沿った挿話だった。

シネマヴェーラのパンフより

「たそがれの女心」 1953年 マックス・オフュルス監督 フランス

オフュルス永遠のテーマを徹底的に掘り下げ、その極北に至った作品。
女ごころの探求もいいが、その深さに翻弄されているうちに、どうにもならなくなる寸前までいった作品。

ダニエル・ダリューのよろめき夫人がダリュー自身の実像に見えるほどのビター感。
その浅知恵、いい加減さ、欲深さ、好色、大胆さ、自己中心なヒロイン像が。

将軍(シャルル・ボワイエ)の何不自由ない夫人(ダリュー)が、イタリアの外交官(ヴィットリオ・デ・シーカ)と恋に落ちる。
ダイヤを小道具にした出会うまでの筋回しが、しゃれているというか、闇が深いというか。

外交官が夫人を追いかけて恋がスタートするが、そこには何の必然性も合理性もない。
もっとも、登場人物の合理性には何の関心もないのがオフルス映画なのだから。

「たそがれの女心」のボワイエとダリュー

闇を持たず、裏のない人物など一人もいないだろう、ヨーロッパの上流社会がすでに救いがない。
その中で、ひたすら情人を求めて心ここにあらずの外交官と夫人。

ダニエル・ダリューとデ・シーカが、再会の念願かなってのダンスシーン。
クレーンショットでカメラは二人の周りを回り続ける・・・ように見える。
が、よく見ると、回っているのは踊る二人で、カメラはクレーンでついて行ってる。
二人の周りをカメラが回っているように見える効果が、目くるめく。
二人の喜びと、不安定さが象徴される。

リアリズムではなく、一見豪華な画面作りの中で浮かび上がる、女ごころ。
上流社会の闇と腐敗。
オフュルスの真骨頂。

ダリューとデ・シーカのたそがれのダンスシーン

「快楽」の第一話のような大掛かりな舞踏会のシーンはこの作品では見られず、必要以上のカメラワークのテクニックも少ない。
予算の関係もあるのだろうが、結果としてヒロインの女ごころによりフォーカスする結果となった。

終盤になるにつれて、イタリアの伊達男デ・シーカが哀れな浮気男に、将軍ボワイエは己の闇に対面せず逃げおおせたズルイ男に、見えてくる。
とすれば「たそがれの女心」ダニエル・ダリューは己に正直なだけのピュアな女、なのか?

オフュルスがハリウッドで撮った「忘れじの面影」(1948年)が、イギリス人女優ジョーン・フォンテイーンをフィーチャーした、不可解で非合理だが、まっすぐな女ごころを描いた作品だとしたら、本作はフランス人女優ダニエル・ダリューによる、裏も表もあり、闇も深く、非合理極まりない、最後の最後まで本心が見えない、女ごころを描いたものなのかもしれない。

パンフより

(余談)

ダニエル・ダリューは1917年、ボルドー生まれのフランス人女優。

ダニエル・ダリュー

主な出演作品は「うたかたの恋」(1936年)、「赤と黒」(1954年)、「チャタレイ夫人の恋人」(1955年)など。ジャック・ドミー監督のミュージカル「ロシュフォールの恋人たち」(1967年)にも出演している。

「うたかたの恋」

渋谷シネマヴェーラ「ヌーヴェル・ヴァーグ前夜」特集

令和4年から5年にかけての年末年始、ミニシアター・渋谷シネマヴェーラで「ヌーヴェル・ヴァーグ前夜」と銘打ったフランス映画特集があった。

フランスで、1960年前後に発生したヌーヴェル・ヴァーグは、映画を中心とした当時の新進作家の台頭であるが、それに「前夜」があったかどうかは知らない。
今回シネマヴェーラが集めたのは、ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち(もっというと映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」の同人たち)に評価され、また信奉された映画作家たちの、おもに1950年代(つまりヌーヴェル・ヴァーグ前夜)の作品であった。

特集された映画作家は、ジャン・ルノワール、ジャン・グレミヨン、マックス・オフュルス、ジャック・ベッケルを中心に、サッシャ・ギトリ、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー、マルセル・パニョルといった人々。

うち、ルノワール作品は8本が集められている。
内訳は戦前フランス時代の代表作というより、戦中戦後の作品が中心で、渡米後の4作品(「南部の人」(1945年)、「浜辺の女」(1947年)など)に加え、帰仏後の2作品(「黄金の馬車」(1952年)、「フレンチ・カンカン」(1954年))が含まれている。

注目すべきはジャン・グレミヨン、ジャック・ベッケルそしてマックス・オフュルスの諸作品が取り上げられたこと。

グレミヨンは、50年代のフランス映画の中心的人物の一人だったが、日本での評価を含め、忘れられた映画作家のひとりでもある。

シネマヴェーラの特集パンフより(以下の添付写真に同じ)

ベッケルは「現金に手を出すな」(1954年)、「モンパルナスの灯」(1958年)、「穴」(1960年)などで日本でも一般的な評価を受けた映画作家。
ルノワールの助手を務めた後1本立ち。

オフュルスはオーストリア生まれ。
戦前のドイツ、イタリアで、その後亡命してハリウッドで、また戦後はフランスで活躍した職人派の映画監督。
〈人間的なあまりに人間的な〉素材を、独特のタッチで画面に謳いあげ、女性映画の名手と呼ばれた。
その華麗だが、一皮めくると底知れぬ暗さに彩られた人間の〈さが〉を描く姿勢は、単に女性映画の名手のとどまらない。
長回し、移動撮影などを駆使する流れるような画面作りも含めてヌーヴェル・ヴァーグ一派に支持された。

この特集、山小舎おじさんにとってはこれ以上ない大好物。
ルノワールの未見作はDVDで見ることにして、鑑賞機会の少ないグレミヨン、ベッケル、オフュルスなどの諸作品に連日駆け付けました。

グレミヨンの「曳き舟」(1941年)は、港町を舞台にしたジャン・ギャバンとミシェル・モルガンのみちならぬ恋を描く作品。
家庭を持ち、腕利きの救助艇船長のギャバンが一瞬の出会いでモルガンと恋に落ちる。
その人間の〈さが〉を大西洋をバックにした冬の海岸を舞台に描く印象深い1作。
延々と、救命艇での活動シーン、家庭人としてのギャバンを描きつつ、それらすべてをひっくり返すようなモルガンとの強烈な出会いを持ってくる、グレミヨンの映画的センスに驚く。

「不思議なヴィクトル氏」(1938年)、「高原の情熱」(1943年)と他のグレミヨン作品にも、ヒロインか重要な脇役にマドレーヌ・ルノーという、小柄で演技派の女優が起用されており、その的確な演技がグレミヨン作品のグレードを維持している。

また、「曳き舟」「不思議なヴィクトル氏」「高原の情熱」は、舞台がパリ以外の場所に設定されている。
その舞台は、生活感のある港町だったり、隔絶された高原だったり。
作品の舞台が醸し出す雰囲気も、グレミヨンが重要視していることがわかる。

ベッケルの「エストラパート街」(1952年)はリアルタイムのパリが舞台。
若いカップルの暮らしぶりが軽快に描かれる。
アンヌ・ヴェルノンとルイ・ジュールダンのカップルは、ゴダールやトリュフォー映画の現代的ですっとぼけたカップル像を思い出させる。
そういった意味では「ヌーヴェル・ヴァーグ前夜」そのものの作品。
好感を持てる現代フランス美人のアンヌ・ヴェルノンの火遊びシーンがヒヤヒヤさせる。

「赤い手のグッピー」(1944年)はフランスの田舎を舞台にした異色作。
しゃれたフランス映画のテイストからは程遠く、むしろ閉鎖的・因習的な田舎の村を描く視点が新しい。

そして「肉体の冠」(1951年)。
シモーヌ・シニョレがそのキャリアの初期に良く演じた娼婦役で堂々の存在感。
運命の男と女の出会いと結末を淡々と描く。
底に流れるのはフランス映画永遠のテーマである人間の〈さが〉。
肯定でもなく否定でもなく、淡々とそれを描くベッケルの姿勢が一番怖い。

のちの大女優シモーヌ・シニョレ。
娼婦の仕草を演技力で再現している前半より、運命の相手を見つめるまなざしの鋭さ、ただならなさがみられる後半に、よりその存在感を発揮していた。

マックス・オフュルスの諸作品については別稿にて。

”若大将映画のマネージャー”江原達怡自伝「心ごころの思い出」

江原達怡という俳優がいた。
山小舎おじさんの年代には、加山雄三主演の「若大将シリーズ」で加山扮する若大将が所属する運動部のマネージャー役でお馴染みの人だ。

東宝カラーというか、都会的でスマート、お坊ちゃん的なキャラクターが似合った。

「独立愚連隊」(1959年 岡本喜八監督)や「あるサラリーマンの証言・黒い画集」(1960年 堀川弘通監督)にも出ていて、それぞれ中国大陸での日本兵や、若いOLと簡単に仲良くなる軟派な学生を演じたこともあるが、いまいち似合わないというか、「若大将のマネージャーがいろんな役で出ているんだなあ」と思ってしまうのだった。

「独立愚連隊」より

自伝のような本が出ており、ミニシアター・ラピュタ阿佐ヶ谷に置いてあったので買って読んでみた。

江原は、東京の三田の生まれで、中等部から大学まで慶応という、若大将のマネージャーを地で行く経歴の持ち主だった。
小学校時代の担任の指導の下、児童劇に出て、たまたまコンクールの全国大会に出演した。
それが松竹の目に留まり、初代水谷八重子の子供役で映画デビュー。

少年期に入ると、東宝から声がかかり岡田茉莉子主演の「思春期」(1952年 丸山誠司監督)でラブシーン。
大映の性典もので若尾文子の相手役を務めた。

その後、家から通うのに便利だという理由で東宝と専属契約を結んだ。

慶応での高校、大学時代は麻雀、ビリヤード、ダンス、スキーと遊びまわった。
若大将のマネージャーにふさわしいキャラクターはこの時期に形作られたのかもしれない。

映画界に入ってからの「忘れがたい人々」の章では、岡本喜八、恩地日出夫、黒澤明などの名監督らとともに、加山雄三、佐藤充、田中邦衛、夏木陽介ら東宝時代の盟友のエピソードがつづられる。

恩地日出夫監督の「伊豆の踊子」(1967年)では、旅芸人一座の唯一の男であり、踊り子の兄の役。
学校に行きたかったけど行けなかった人間、自分で勉強してきた人間、という役作りをした。
映画評論家の双葉十三郎に褒められ、それから東宝でのギャラが上がったという。

「伊豆の踊子」より

佐藤充との出会いは、谷口千吉監督の「不良少年」(1956年)。
セットで初めて佐藤を見たとき、本物の不良がいる、と思った。

そして加山雄三。
出会いは慶応の1年後輩の加山と大学のスキー授業で志賀高原へ行った時。
上原兼の息子ですと挨拶してきたとのこと。
当時の加山は船の設計士になることが夢だったという。

若大将シリーズでは江原は、当初、運動部の選手仲間としてキャステイングされたが、江原自身の提言によりマネージャー役が新設され、役が変更されたという。
まさに古き良き時代の、明るく楽しい東宝映画史上の名シリーズの名配役が決まった歴史的瞬間だった。

自伝の後半は、俳優をセミリタイアした後の話になる。
プロ級のドライブテクニックを駆使しての、モータードライブの世界。
好きなスキーを生かして、ウエアのデザイナーになったり。
ハリウッドで映画の買い付けをしたり。
スポーツドリンクを広めたり。
絵を描いたり。
穂高に美術館を開いたり。

都会的でスマートな活躍ぶりは、実生活でも「若大将のマネージャー」ぶりをほうふつとさせる。

映画全盛期に活躍したスマートな名わき役。
その姿をこれからも名画座のスクリーンで見るのが楽しみだ。

キャサリン・ヘップバーン自伝「Me」

全米映画協会が選ぶ歴代女優ベストテンで1位に輝いたのがキャサリン・ヘプバーン。

DVDで見た、「勝利の朝」(1933年)や「赤ちゃん教育」(1938年)がまずは面白く、主演のキャサリンが若々しく、エネルギッシュで可愛げもあり、いっぺんでファンになってしまった。

初期の傑作「赤ちゃん教育」より

古本屋巡りの際に、キャサリンの自伝が文庫本上下巻セットで売っていたので買って読んでみました。
口語体でつづられる自伝は、あけっぴろげで明るさに満ちており、何より読みやすく、たちまち読了しました。

文庫版の自伝、上下巻

生まれてから演劇に目覚めるまで

名門というほどではないが、東部の裕福な家に生まれた両親の記述からこの自伝は始まる。
教養があり開放的な家庭を築いた両親をキャサリンは生涯誇りに思う。

活発な少女だったキャサリンは、両親、特に父親の元、ますます活動的に育つ。
水泳、飛込、乗馬、のちに車のドライブなどはこの時期に身についたという。
「フィラデルフィア物語」(1940年)で、見事な水着姿で鮮やかにプールに飛び込むシーンを思い出す。

演劇に目覚めたころのキャサリン

高校時代に演じることの面白さに目覚め、カレッジ時代を通して演劇を続ける。
父親は眉をひそめたが干渉はしなかった。

駆け出し時代のキャサリンのエピソードが語られる。

ある演劇の端役をもらったときのこと。
衣装が配られる日に早めに駆け付けたが順番はびりだった。
残った似合わない衣装を持って呆然としていると、一番に並び、いい衣装を身に着けた女の子がキャサリンにこう言った。
「この衣装受け取ってくれないかしら。私、結婚するの。女優にはならない。でもあなたはなれると思う。大スターになるような気がするの。ね、受け取って」。

大スターになる星のもとに生まれてきた、キャサリンらしいエピソードではないか。
まるで映画のような話だが、どんなにドジでも、失敗しても、スターになる人はなるのだ。

映画デビュー作「愛の嗚咽」

こうして「勝利の朝」のストーリーそのままに、キャサリンの駆け出し時代が過ぎてゆく。

キャサリンはまたこの時代に生涯一度の結婚をする。
その相手とは離婚後も一生涯の友人の一人となる。

ハリウッドデビューと映画スターへの道

デビッド・O・セルズニック製作、ジョージ・キューカー監督の「愛の嗚咽」(1932年)でハリウッドデビュー。
出演に当たってはギャラと待遇をセルズニックと直接交渉しているのが、いかにもキャサリンらしい。
週給1500ドルの3週間契約だった。

「愛の嗚咽」。ジョン・バリモアとのシーン

ハリウッドといえば、業界の悪習渦巻く背徳の都、というのが山小舎おじさんの連想だが、キャサリンの自伝にもそれらしきエピソードが出てくる。

デビュー作「愛の嗚咽」の共演者がジョン・バリモアだった。
名優であり、キャサリンもリスペクトをもってバリモアを描写する。
撮影期間中バリモアの控室に呼ばれたキャサリンがドアを開けると、だらしない格好でソファに横たわっていたバリモアが毛布をはねのけた、キャサリンは部屋を飛び出した。
この事件の後もバリモアのキャサリンに対する態度は変わらなかった、云々。

こういったセクハラ?は被害者からの拒否にあうと加害者の態度が悪化するのが普通だが、そうならないところもキャサリンがスターの星のもとに生まれた証左の一つであろうか。

「若草物語」(1933年)

MGMではタイクーン、ルイス・B・メイヤーに可愛がられる。
本来は吝嗇で口うるさく高圧的でパワハラ満載なのがハリウッドのタイクーン像である。
「彼は私を自由に泳がせてくれた」(自伝上巻P367)とキャサリンは、メイヤーについて語る。

他人に言わせれば、キャサリンがタイクーンを上手く転がしているように見えるのだが、こういった大物とうまくやれるところもキャサリンの才能の一つである。

ルイス・B・メイヤーと

監督ジョージ・キューカーとの公私にわたる交友についてもページを割いている。
デビュー作、そして勝負作「フィラデルフィア物語」にはキャサリンのご指名で演出にあたった、演劇出身の名監督。
キューカーの豪邸にはキャサリンをはじめスターが集まった。
専用の部屋まで用意されていたキャサリンにとって、その豪邸はカルフォルニアでの定宿となっていたという。

盟友ジョージ・キューカーと

ハワード・ヒューズはキャサリンのハリウッド時代の愛人だった。
ヒューズがキャサリンの舞台で見染め、旅公演にまでついてきたのが始まりだという。
別れた後も交友関係は続いた。
離婚相手とも、別れた元愛人とも、その後も友人でいられるところもキャサリン。
大物である。

そして最もページ数を割いて語られるのが最愛の人、スペンサー・トレーシー。
二人が出会ったとき、スペンサーには妻子がいた。
27年間キャサリンはスペンサーと暮らし、生涯深い敬愛を抱いた。
死をみとったのもキャサリン。

人情を越えた広い心を持つのもキャサリンか。
スペンサーの未亡人、娘とはその後親交を結んだという。

パトリシア・ニールが、妻子あるゲーリー・クーパーと愛人関係となって、クーパーの死後、残された娘に会って打ち解け、友人となったというエピソードを思い出す。

生涯のパートナー、スペンサー・トレーシーと

(余談)

自伝ではほとんど触れられていないが、1947年から始まった非米活動委員会(いわゆるハリウッド赤狩り)に際し、ハリウッドに対する政治の非干渉を求めて立ち上がった映画人グループの象徴的存在がキャサリンであった。

自由と正義を愛し、自分で考え、正しいと思ったことは表明し、突き進む、まことに彼女らしいふるまいだ。

非米活動委員会に召喚された、製作者、監督、脚本家の10人が議会侮辱罪で投獄される中、キャサリンとともに立ち上がった映画人にも変化が起こる。
迫害を苦にしての自死(ジョン・ガーフィールド)、仕事を干される(マーナ・ロイ)、運動からの撤退(ハンフリー・ボガート、ローレン・バコール)などなど。

結果的にキャサリンには何の影響も、お咎めもなかったのだが、その背景にはMGMの大立者、メイヤーの庇護、愛人ハワード・ヒューズの存在があった。
なにより本人がアメリカ支配層のWASP出身、があったからではないかと思うのは山小舎おじさんだけであろうか。

城戸四郎著「日本映画傳・映画製作者の記録」を読む

城戸四郎は1894年(明治27年)、東京の築地の生まれ。
一高、当代法学部を出て一度は国際信託銀行(現みずほ銀行)に就職したものの、当時の松竹社長・大谷竹次郎に乞われて松竹キネマに入社。
以降、松竹鎌田撮影所長、松竹副社長、社長、会長を歴任した。

その城戸の1956年文芸春秋社刊「日本映画傳」を読む機会があった。
創立当初から現在に至るまで、日本映画のメジャーの地位にある松竹の戦前戦後を通しての、会社経営者であり映画製作者であり、日本版タイクーン(ハリウッドでいえば、セルズニックやザナックの位置づけか)でもあった城戸の自伝である。
全盛期の日本映画の記録としても貴重なものだった。

新聞記者志望で弁護士資格を持つ城戸が、戦前の興行会社である松竹に入社した経緯は、本著では「以前からぼくの家とはちょっと知り合いの松竹の大谷社長から、松竹へきて働かぬかという話をうけた」(同著P11)と簡単に表現している。
これは、城戸の生家が築地精養軒という日本における西洋料理の草分けであり、東京の拠点を築地に置いていた松竹の大谷社長との接点があったこと、大谷社長が長男を亡くし後継者を捜していたことが契機になってのことだと思われる。

城戸四郎

松竹は関西の芝居小屋の経営を母体にした興行会社であり、当時も今も関西の芝居、映画の興行、東京での歌舞伎、芝居、映画の興行がメインの会社である(映画製作については現在も行ってはいるが、唯一の直営撮影所であった大船撮影所を手放した現在では、メインの事業ではなくなっている)。
当時の興行界は、小屋に出入りするヤクザ、巡業先の地元のヤクザ、役者、小屋主との付き合いが、今よりも重要視される特殊な業界であり、城戸のようなエリートが就職先として選ぶことはまれであった。

サイレント映画の撮影風景。当時は楽隊の演奏をバックに撮影していた

本著では城戸が行った松竹キネマを舞台にした経営者としての業績が数々つづられる。
具体的には、
撮影所内で女優を妾とし、少し人気が出れば自分の実力のためと過信する俳優たちと対峙して撮影所内のシステムと風紀を是正した。
契約したフィルム貸出料金を滞納する映画館主たちから回収を行い松竹の財政を改善した。
戦前の対抗勢力であった日活との間で興行戦争を行いスターを引き抜き合った。
新興勢力東宝との間で日比谷の興行街の利権争いでは一敗地にまみれたものの、別件でまき返した、などなど。

一方、製作責任者として、自らの理念に沿った施策も行った。
具体的には、
撮影所内にシナリオ研究所を作って人材を育成し、
撮影所をスターシステムからデイレクターシステムへと変更し、
新人育成用に中編映画を製作する、など。

また、
映画批評家と松竹作品の内容を巡って論争したり、興行に向かない作品は遠慮なくオクラ入りして才能ある監督に更なる奮起を促す、などの出来事には、映画理論家としての城戸の妥協なき理念性が現れてもいる。

城戸が映画製作においてその理念としているのは、「人間社会に起こる身近な出来事を通して、その中に人間の真実というものを直視すること」(本著P39)であり、また「いわゆる社会の常識を考え、社会的の思想なり判断、社会の大衆の分析やその判断に沿い、そうしてそれにマッチしながら、なおかつその人たちに感動を与える」(同P241)である、と述べている。

これがいわゆる蒲田調、大船調の底流ととなった理念である。
同時に松竹映画の、良くも悪くもこれが限界となって今に至るのではあるが、1956年、映画産業全盛期に書かれた本著では、それら理念の成果や反省がご本人によって述べられる時期ではなかったのが残念でもあり、一方で安心もする。

松竹蒲田調の結実。島津保次郎監督「隣の八重ちゃん」

エリートで感受性に優れ、正義感もある城戸は、映画界の悪癖、因習を改革し、また戦中戦後にあっては映画界を代表して国家や権力側と交渉し、松竹のみならず、業界全体の利益と透明性のために尽力していることが本著から窺える。
監督や俳優に対する、愛情のこもった視線も本著の随所に表れている。

これらを見ると、映画製作者(日本版タイクーン)としての城戸の特性は、大映の永田雅一などに見られる、斬った貼ったの興行主としてのそれではなく、また東宝の経営者のように不動産をやりくりしながら財政をキープするスマートなものでもなく、映画青年の感受性を持ちつつ、新聞記者を目指した客観性を維持しながら、映画製作者という極めてヤクザな職務を全う(しようと)した点にあるのではないかと思う。

(余談)

本著には、1929年(昭和3年)、ソビエトからヨーロッパ、アメリカへと9か月にわたる洋行の著述がある(本著P57~71)。

ソビエトでエイゼンシュテインやプドフキンと面談し、モンタージュ論を議論し、城戸の持論を述べたこと。
また持参の「からくり娘」を見せたが、「長い」といわれたことに触れている。

城戸がその際思ったのは、日本人が出ていること自体、彼らの想像と理解から離れ、それをして彼らに「この映画は長い」と言わしめたのだ、彼らに興味を持たせるにはすでに彼らの日本に対する常識となっている、時代劇的なものでなければだめだ、ということだった。

さらに興味深いのはハリウッドで製作者、B・P・シュルバーグに会っていること。
B・Pは大著「ハリウッドメモワール」を書いたバッド・シュルバーグの父親。
城戸は試写室に招かれ、B・Pが監督とデスカッションをしている場面を見て、ハリウッドの生存競争がいかに激しいかと感じる。
晩さん会ではノーマ・シアラー、グレタ・ガルボ、駆け出しのゲーリー・クーパーらと会食をしており、VIP待遇だったことをうかがわせる(ガルボが出てきたということは、B・Pがルイス・B・メイヤーのもとで製作をしていた頃であったのか)。

城戸が接待されたB・Pシュルバーグ、愛人シルビア・シドニーと。(メイヤーと袂を分かちパラマウントと契約していたころか)

城戸はトーキーシステムの事前調査も行っており、彼なりにあたりをつけて帰ってきており、帰朝後はさっそく日本でのトーキー映画の研究をスタートさせる。

当時はサイレント時代の末期で映画界が下り坂だったらしく、ホテルに投宿する城戸らに、ハリウッド女優のあっせんがあったそうである。
値段を聞くと一晩10ドルといわれたとのこと。
映画界の実情を表す記録として貴重な記述でもある。