STRANGERS in HOLLYWOOD Ⅰ

名画座・渋谷シネマヴェーラで,2021年12月から、年をまたいで1か月以上にわたる特集上映があった。
その名も「ストレンジャーズ・イン・ハリウッド」。
戦前にドイツを逃れてハリウッドに渡った映画監督3人の、1930年代から50年代初頭にかけての作品の特集だ。

3人の監督は、ダグラス・サーク、ロバート・シオドマク、フレッド・ジンネマン。
いずれ劣らぬ映画史上の名監督にして、ユダヤ系の(サークは夫人がユダヤ人、ほかの二人は本人がユダヤ人)、いわばハリウッドにとってのストレンジャーズ。

日本のファンには「真昼の決闘」(1952年)「地上より永遠に」(1953年)で名をはせ、後年「ジャッカルの日」(1973年)「ジュリア」(1977年)など、大監督然としたジンネマンが有名だ。

コアなファンには、声が出ない少女が殺人鬼に追いつめられるサスペンスの古典「らせん階段」(1946年)とともに監督・シオドマクの名が記憶されるかもしれない。

映画ファンを卒業した「シネフィル」と呼ばれる意識の高い方々には、評論家・蓮見重彦氏あたりがもっぱら取り上げ始めた一人:ダグラス・サーク、がここ最近の気になる映画監督(映画作家と呼べばいいのか)なのかもしれない。

上映館のポスター掲示場より(右上がシネマヴェーラ現在上映分)

全34本の上映。
そのほぼ全作品は、シネマヴェーラ自体がデジタル素材を買い取って自前で字幕を付けて上映するという、営業努力によるもの。

サーク:12本、シオドマク:14本、ジンネマン:7本、ほかにエドガー・G・ウルマーの1本を加えてのラインナップ。
うち6本が、戦前戦中に故国ドイツもしくは第一次亡命先のフランスで撮られたものであるという貴重さ。

特集プログラムより

この特集に9回ほど日参し、15本を観た山小舎おじさん。
日々見上げたスクリーンには、70年から90年前の人々の顔だったり、美貌の女優だったり、今なお受け継がれる撮影技法だったりが文字通り横溢しておりました。

1930年当時のベルリンの風景、鏡と影を駆使してサスペンスを盛り上げる技法、レスリー・レアンダー、エラ・レインズ、イボンヌ・デ・カーロ、エヴァ・ガードナーら女優陣の輝き・・・まさしく「映画的世界」の興奮と喜びの連続でした。

特集プログラムの3人の監督紹介文より

個別の作品、女優さん、時代背景などについては次回ブログからおいおい書いてゆこうと思います。

特集プログラムの作品紹介より

その前に付記しておきたいのが、ストレンジャー(外国人:多くはユダヤ人)とハリウッドの切っても切れない関係。
というか、ハリウッドがユダヤ系の巣窟だった(今でもか)という事実。

ここに「カサブランカはなぜ名画なのか・1940年代ハリウッド全盛期の名画案内」という2010年発行の本があります。

奥付きより

戦争を挟んだ1940年代を中心にアメリカ映画を俯瞰的に見るこの本。
その時代のアメリカ映画こそ、〈政治と芸術と商売が絶妙なバランスで一体化した稀有な時代〉で、そういった作品が生まれた背景にはユダヤ系映画人がいたから、という一貫したテーマで書かれています。

ユダヤ系映画人が、政治性(反ナチ)を隠されたテーマとし、商業的にも成功させたこの時代の象徴的な作品が「カサブランカ」でした。
非ユダヤ人(ボガート、バーグマン)を表に立て、ユダヤ系のスタッフ、キャストが脇を固め、巧妙に織り交ぜられた反ナチのアピールは、見事に「ヤンキーをして、ヨーロッパの反ナチとワスプを救わなければならぬという気持ちにさせた」と同書にはあります。

目次より

ハリウッドのユダヤ人には、戦前から有名な監督だけでも、エルンスト・ルビッチ、ウイリアム・ワイラー、ジョージ・キューカー、ルイス・マイルストンなどがいます。
その後亡命してきたり、デビューしはじめたユダヤ人監督には、有名どころだけでもマックス・オフュルス、オットー・プレミンジャー、ビリー・ワイルダー、ジュールス・ダッシン、エリア・カザン、マーク・ロブスン(シオドマク、ジンネマンももちろん)などがいます。

彼らこそが通り一遍にスタジオのいう通りだけを聞いて、娯楽映画やミュージカルを撮るだけではなく、時には政治的な主題を、斬新な手法で描いてきた映画監督たちだったのです。

往々にしてその作品は、戦争という非常な時代背景をバックに浮かび上がるユダヤ人としての民族的思想に彩られていたのかもしれませんが、同時に優れた商業映画でもあったのです。

後にいわれるフィルムノワールと呼ばれるB級サスペンス群は、屈折した彼らの心情が反映したているからこそ魅力的なジャンルとなったようです。

監督たちのほかに、有力な製作者や俳優の中にもたくさんのユダヤ系がいてお互いに協力し合ってもいました。

一方、当時のハリウッドのスタジオにはタイクーンと呼ばれるオーナーたちが君臨しており、その誰もが東欧、ロシアからのユダヤ人移民か、その子孫でした。
移住後は都市部のゲットーから身をおこし、劇場経営で財を成して始めたのが映画製作と配給、興業でした。
ハリウッドを形作った人たちです。

彼ら:アドルフ・ズーカー(パラマウント)、サミュエル・ゴールドウイン(ユナイト)、ルイス・B・メイヤー(MGM)ら、はおおむね共和党支持で反共でしたが、決して反ナチではなく、むしろムッソリーニに心酔したハリー・コーン(コロンビア)のような人物もおり、政治的にも教養的にも製作現場のユダヤ人たちとは決して一枚岩ではなかったようです。

製作現場の「進歩的」なユダヤ人たちはのちの「赤狩り」により、共産主義とともにパージされてゆくことになります。
そういった歴史を見る限り、反ナチも政治的な主題も、決してアメリカ総体の意志ではないことがわかります。
むしろハリウッドのストレンジャー達が掲げた政治性が、象徴として「アメリカ総体」からつぶされていったことのようです。

シネマヴェーラのストレンジャーズインハリウッド特集で上映された作品は、その全部がバリバリの反ナチ映画でも、サスペンスでも、フィルムノワールでもありませんでした。
戦前の自由な空気が流れていたり、サスペンス風の味付けながら人間性の高貴さを謳うものも多く、何より当時の有名スターが出演しているバリバリのハリウッド映画でありました。

故国を追われた映画人がハリウッドにたどり着き、独立プロで映画を創り始め、スタジオと契約し、発表していった70年以上前の作品の数々。

メジャー配給会社のトレードマーク:雪山をバックにしたパラマウント、地球儀を取り巻くユニバーサル、ライオンが吠えるMGM、電波塔が発信するRKO・・・で始まる1940年代の夢の世界が連日スクリーンにデジタルで再現されました。

メジャーの配給により歴史に残ることになったこれらの作品。
その一つ一つについては後程。

パラマウントのロゴマーク
RKOのそれ

1956年の映画「火の鳥」

名画座・渋谷シネマヴェーラの特集で「火の鳥」という1956年の日活映画を観たが、よかったので感想を書きます。

同作品は「あなたは猪俣勝人を知っているか」という脚本家・猪俣勝人の特集の一本として上映されました。
この特集の目玉は猪俣自身が監督をやっている「殺されたスチュワーデス 白か黒か」(1959年)という作品です。

この作品は、同年発生したBOAC(英国航空)の日本人スチュワーデス殺人事件(重要参考人として警察に事情聴取中だった、カソリック修道院のベルギー人修道士が事情聴取期間中に突然帰国して迷宮入りとなった)を題材としており、16ミリで残っていたフィルムをデジタル修復したものとのこと。

題材ゆえに大映配給による封切り期間も短く、また名画座上映時にも短縮版がかけられていたとのこと。
今回の完全版の上映は貴重な機会だったようです。
作品は当時若々しかった田宮二郎が扮する事件を追う新聞記者の熱気が画面を支えていました。

今回の特集のパンフレット表紙
シネマヴェーラの特集パンフレットより
劇場ホールに展示されたポスター

さて、当日ついでにもう一本、と観たのが「火の鳥」。
伊藤整の原作で、劇団の主役として、座長の愛人として、映画スターとして輝く主人公の、過去現在の遍歴と未来への希望を描いた作品です。
映画史に残るような作品でもなく、監督井上梅次、主演月丘夢路の代表作でもなく。
若干話題性のあるプログラムピクチャアという扱いの作品です。

「火の鳥」のプレスシートがシネマヴェーラのホールに展示されていた

これが拾い物というか、映画的興奮に満ちているというか。

主演の月丘夢路の美しさに見とれました。

1922年生まれの月丘夢路は当時34歳の女ざかり。
宝塚トップスターだった美貌と勢いに加えて落ち着きも出てきて、彼女が映ると画面が華やかになります。

魅力的な女優さんの全盛期を追体験できたことに映画ファンとして感動せざるを得ない。
とにかくきれいで、アップが映えて、目力があって・・・。

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登場のファーストカットからただならぬ目力に圧倒された女優さんに「暁の脱走」(1950年 谷口千吉監督)の山口淑子がいました。
日中戦争時の日本軍の前線に同行する歌手(原作では慰安婦)の役。
山口淑子のファーストカットが忘れられません。

日中戦争のはざまを潜り抜け、茫漠たる大地の彼方と己が運命を見据えたかのようなその視線と決然としたその立ち姿。
その大きな目玉は、まるで諸星大二郎の漫画の主人公のまなざしを実写化したかのように、見るものをして一瞬のうちに、中国大陸の砂塵と歴史へと誘うかのようでした。

この日のおじさん。
山口淑子ならぬ「火の鳥」の月丘夢路のまなざしによって、宝塚の少女歌劇か、はたまた東洋のハリウッド・日活撮影所の夢舞台へか、魂がさ迷わんばかりでした。

月丘夢路。スタイルの良さが際立つ

こうなれば単純な映画ファンの心など一丁上がり!
手慣れた撮影所の職人技に身も心もゆだねるしかありません。

テンポよく場面が展開、俳優の演技にも無理無駄がありません。

月丘夢路の相手役には、映画初出演の仲代達矢をはじめ三橋達也、大坂志郎、女優陣では山岡久乃、中原早苗の布陣。
それぞれ、芸達者だったり、力が抜けて絶妙だったり、ベテランだったり、若さがはじけていたり。
役柄はステレオタイプなのですが、徹底した「定番」の魅力がありました。

また、月丘夢路の屋敷だったり、劇団の事務所、打ち上げの飲み屋、劇場裏などのセットが「定番」通りとはいえちゃんと作られているし、様になってもいました。
1950年代の映画撮影所の力量です。

シネマヴェーラのパンフレットより

劇中の映画撮影シーンでは、当時の真新しい日活撮影所の屋外の景色やセット撮影の様子が映し出されるのも心躍ります。
北原三枝、芦川いずみ、長門裕之らが実名で現れる場面では、浅丘ルリ子や岡田真澄の顔も見えます。
ラストシーンで劇中劇の階段を主役として堂々と下りる主人公がダンスの相手をするのは三国連太郎ではないか!

井上梅次監督のこういった演出は映画ファンの心を揺さぶるツボを心得ていて、ニクいばかり。
当時の日活撮影所自体の若さ、夢、希望を掬い取ってもいる。

映画デビューの仲代達矢は、「仲代達矢が語る 日本映画黄金時代」という新書で、「撮影初日から茅ケ崎の海岸でラブシーンでしたがやっぱり震えるんですよ。すると月丘さんに、なに男のくせにってお尻を叩かれました」(同書33ページ)と回想しています。
当時俳優座3年目の仲代の抜擢を羨んだ俳優は大勢いたことでしょう。

デジタル版の上映で鮮やかによみがえった1956年の日本映画の豊かさに満足して劇場を後にしました。

ビリー・ワイルダーと映画「異国の出来事」

渋谷シネマヴェーラの「神話的女優」特集で、ワイルダーの日本未公開作「異国の出来事」を観ることができた。1948年の作品で、マレーネ・デートリッヒとジーン・アーサーの競演。
終戦後のベルリンにロケして、瓦礫の山となった当時の風景を写し取っている。

ワイルダーの監督作品としては7本目。
「深夜の告白」「失われた週末」の後、「サンセット大通り」以前の作品である。

オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ系で、戦前のベルリンでダンサー兼ジゴロまでしたワイルダーが、アメリカに亡命したのは1934年。
ドイツ時代に脚本家としてデビューしていたワイルダーは渡米後、ハリウッドに脚本を売り込み、チャールズ・ブランケットと共同で「ニノチカ」(1939年 エルンスト・ルビッチ監督)などの脚本作品を発表。
1942年の「少佐と少女」で本格的監督デビューしている。

シネマヴェーラ「神話的女優特集」

1948年「異国の出来事」発表当時のワイルダー周辺の状況は、「失われた週末」がアカデミー作品賞を受賞しており、ハリウッド主流の監督として売り出し中であったこと。
また何より重要なのは、亡命を余儀なくされたとはいえ、故国ドイツ(旧オーストリア=ハンガリー帝国を含む)が戦争に敗れ、若き日を過ごしたベルリンが瓦礫と化したことであったはずだ。

自身は戦勝国の売り出し中の映画監督として安全な地位にはあるものの、自らのアイデンティティをなす場所や価値観の崩壊する時代を迎えたときに、たとえそれが反語的な意味であっても、個人的な感情、感慨は抑えきれないものがあるだろう。

シネマヴェーラのチラシより

ということで、何よりワイルダー自身の興味と郷愁と慚愧の念(ワイルダーがアメリカ亡命後、一度ウイーンに戻って母親をアメリカに連れてゆこうとするが母は断りその後行方不明となっている)を乗せて、アメリカの輸送機が戦後のベルリンに降り立ってゆくファーストシンから映画が始まる。

輸送機の乗っているのは、占領軍の軍紀を調査に来たアメリカ議員団。
唯一の女性議員がアイオワ州選出のジーン・アーサー。

山小舎おじさん的には「シェーン」(1953年)のお母さん役で忘れられない女優だが、全盛期は1930年代。
「異国の出来事」の時はすでに40歳台だが、いかにも親しみやすい顔つきと、ひっつめのヘアースタイルと動きやすいスーツに身を固めた、快活で単純なアメリカ女性像の典型を演じて全く違和感がない。

「平原児」(1936年)のジーン・アーサー
「シェーン」(1953年)のジーン・アーサー

ジーン・アーサーが単純明快なアメリカ民主主義の象徴を演じるならば、待ち受けるアメリカ進駐軍の大尉を演じるのがジョン・ランドというヤニさがった男優。

クラーク・ゲーブルを思わせるちょび髭と女性に関してはマメすぎる態度。
戦闘行為以外にはやる気たっぷりで、占領先ではいかにして現地女性を誑し込むかを最優先に考える典型的アメリカ軍人の役で、キャバレーの歌姫で過去にナチス高官との関係が疑われるドイツ女性(デートリッヒが演じる)を瓦礫の一室に囲って毎夜通ってもいる。
彼は議員団の案内役を務める。

堅物の女性議員が、アメリカ兵と元ナチスの愛人との関係をかぎつけ、その相手がジョン・ランド扮する大尉とは気づかないまま、大尉本人とともに調査を行うことから巻き起こるドタバタ劇。

デートリッヒとアーサーの邂逅は、瓦礫の中のキャバレーで行われる。
堂々とした登場ぶり、歌とふるまいで場をさらうデートリッヒのステージシーンが映画全体で2回見られる。
デートリッヒがアーサーに面と向かい、その田舎臭い(アメリカ臭い)髪型とファッションを独特の表現で揶揄するときの貫禄。

単純明快なジーン・アーサーは、ドイツ女性との関係を隠そうとして色仕掛けを仕掛ける大尉の手練手管にころりと参り、キャバレーで泥酔してアイオワ州の歌を歌う。
瓦礫のベルリンでは全く場違いなアメリカの田舎の歌にシラケる米軍ロシア軍混合の酔客たち。
さすがに困惑するアーサー。
挙句は酔客の兵隊たちに胴上げされたアーサーは、そのまま天井の梁にぶら下がってバタバタする。

ある意味「米国の良心」を具現したかのような女優にこういった演出を行う、ワイルダーの底意地の悪さが全開する場面だ。

映画は、女性議員とスケベ大尉の占領地の恋を感傷的に扱ったフィナーレを迎える。
ナチス協力者でアメリカ兵ともうまくやっていたデートリッヒもナチ協力者として捕まって終わる。
当時のアメリカ映画の価値観に沿った結論となる。

では、「異国の出来事」が単によくできたコメデイか?というとそれだけではない。
全体を通してのトーンは暗さ、である。
背景が瓦礫のベルリンとそこに暮らす困窮した人々、ということもある、が、ワイルダーが描くベルリンは、ネオレアリスモの監督たち(ロベルト・ロッセリーニ、ヴィットリオ・デ・シーカなど)が描くローマとは全く異なり、敗戦国の悲哀を全世界に訴えるといった視点は全くない。
闇市でごった返すドイツ国民に対するワイルダーの視線は冷ややかで諧謔的でさえある。

作品にあるのは、アメリカ軍のいい加減なスケベぶりであり、アメリカ民主主義の単純明快な押し付けぶりであり、デートリッヒの役柄に託された、敗れたとはいえ毅然と生きるドイツ人の矜持であった。

マレーネ・デートリッヒ

ベトナム戦争の後では、「マッシュ」(1970年 ロバート・アルトマン監督)や「キャッチ22」(1970年 マイク・ニコルズ監督)などで徹底的におちょくられまくることになったアメリカの軍隊を、「正義」の第二次世界大戦直後の1948年の時点で、コメディーの体裁をとってのこととはいえ、相当程度にここまで風刺を効かせて描いた作品があったろうか?

定型的アメリカ女性の髪形やファッションを、敵役のセリフに託してとはいえここまではっきりと揶揄したことはあったのか?

反面、デートリッヒのベルリンのキャバレーでのステージを演出するときのリスペクトぶりはどうだ?
まるで、敗れたりとはいえ故国に殉じて戦った同志を誇らしくも労わるかのような視線に満ち満ちているではないか。

そこにあったのは、自分自身の問題として、ワイルダーが素通りできなかった祖国への複雑な思いだ。

「異国の出来事」はワイルダーにとっては、「この作品を撮らなければ前に進めない」ものだったのだ。

その個人的なテーマ性から、ヒットもせず、日本に輸入もされなかったのかもしれないが。

長野相生座と「カトマンズの男」

権堂通商店街

長野市の中心部、善光寺表参道と交差して一筋のアーケード街がある。
権堂通商店街といい、その昔は善行寺参りの精進落としの場として、遊女を置くような店があった場所らしい。

今では洋品、雑貨、食堂などが並ぶ商店街で、1本裏にはいると風情を感じるバー、料亭なども見える。
中心部からそれるにつれ、アーケードの覆いがなくなり、居酒屋などが並ぶ飲み屋街へと姿を変える。

ここ権堂通商店街の一角に相生座がある。

当日朝の権堂通り商店街

相生座

明治25年に芝居小屋として開設し、国内最古級の歴史を誇る相生座。

県内には、上田映劇、伊那旭座、塩尻東座、茅野新星劇場などのが歴史を誇る映画館が現存する。
映画館らしい外観はもちろん、大スクリーンを擁し天井が高く2階席がある場内、現役のフィルム映写機もあったりする。

その中で、歴史、上映作品の質量で県内トップの映画館が相生座である。
長野市は遠いのだが、山小舎おじさんも相生座の、小津4K特集やルイス・ブニュエル特集には駆け付けた。

相生座前景。3スクリーンを持つ

支配人は女性で、時には入場者にほうじ茶をふるまうなどアットホームに対応してくれ、山小舎おじさんとの雑談にもよく応じてくれる。
支配人の心配りはホールの展示や、枕の貸し出しなどにもうかがえる。
何より上映作品のセレクトに映画への愛と営業への熱意がにじみ出ている。

商店街から映画館へのアプローチに掲示されるポスター

上映作品はいわゆるミニシアター系の新作が中心だが、時には地元テレビ局製作のドキュメンタリーを上映したり、関係者の舞台挨拶もよく行われる。

何よりオールドファンにうれしいのは、過去の名作特集。
最近では、小津、ブニュエルのほか、デジタル版の「天井桟敷の人々」が特別料金で上映されたりした。
こういった点にも、県内最高レベルの映画館の自負がうかがえる。

映画館前のポスターには独特のワクワク感がある

ベルモンド傑作選「カトマンズの男」

相生座でこの秋に上映されたのがベルモンド傑作選。
ジャン=ポール・ベルモンドの主要作品をデジタルで上映するもの。
この日は名コンビ、フィリップ・ド・ブロカ監督の1965年作品「カトマンズの男」。

10時の上映時間に合わせて、7時に山小舎を出発したおじさん。
交通量の多い朝方の道をかき分け、9時半過ぎに相生座に到着しました。

入場者受付で忙しそうな支配人の暇を見て雑談。
作品の輸入元のキングレコードの英断で実現した企画だが、版権先との交渉が大変で値段も高かった。
ベルモンドはフランスでは国宝級の人物ですからね。とのこと。

日本ではヌーベルバーグの主演者の一人として映画史に残っていますが、娯楽アクションスターの位置づけだったベルモンドは単独では回顧上映は組みづらかったことでしょう。
ベルモンド88歳での逝去をきっかけにしたとはいえ、企画してくれたキングレコードと、上映してくれた相生座には感謝です。

当日10人ほど駆け付けた観客。
年代的にも中高年。
リアルタイムではベルモンドもすっかり落ち着いていたころの世代となります(山小舎おじさん的には「ラ・スクムーン」(1972年 ジョゼ・ジョバンニ監督)、「薔薇のスタビスキー」(1974年 アラン・レネ監督)がリアルタイムのベルモンド)。
リオやカトマンズを駆け回る「男」シリーズはテレビ洋画劇場で見るイメージでしたね。

で、この「カトマンズの男」。
邦題ではカトマンズとは銘打ちながらも、ほとんどが香港を舞台とするアジア冒険活劇物で、カトマンズは王宮やボダナートと思われる巨大仏舎利でロケされており、インドから到着する空港は、マチャプチャレがバックに見えるポカラ空港である。

ロビーにはアメリカ公開時のポスターも展示

が、そんなことはどうでもいいほど画面に活力と魅力を漲らせるのが若いベルモンドのアクション。
スタントマンを使わないといわれるだけあって、ほとんど全部のシーンに体を張って、香港ではクレーンに追り上げられ、竹で組んだ足場を走り回り、市場の野菜や卵に飛び込む。

上映開始を待つ場内

ヒマラヤでは、気球から吊り下げられたロープをよじ登り、山脈の崖をよじ登り、雪山を転げ落ちる。

南国ランカウイ島では、ヒロイン(ウルスラ・アンドレス当時29歳)とのつかの間のロマンスに興じ、像に乗って悪漢を撃退したりする。

とにかくサービス精神旺盛で、アクション満載。
観たままを楽しめばいい造りながら思ったよりはるかに大作。
全編に近い場面がアジアの現地ロケであるところもいい。
ド・ブロカとベルモンドの若さと明るさを感じる。

相手役のアンドレスが、世界を放浪しながら社会学をフィールドワークしているという女子大生役で、かわいらしく演出されているのも貴重。

大富豪の2世として何不自由なく暮らしているものの、いったん命の危機に瀕すると途端に生き生きと冒険に邁進するというヒーローを演じるベルモンド。
彼が当時、フランス映画界においていかに大事に育てられているか!がわかる。

育ちよく、影のない、若いヒーローの冒険。
これこそがフランス映画の希望と未来だった!
「カトマンズの男」はそういった時代の快作だった。

これは「リオの男」も観ざるを得まい。

相生座の歴史の展示
近日上映のレトロスぺクテイブは、ジャン・コクトーとジム・ジャーウイッシュ

山本富士子と「夜の河」

神保町シアターの特集「恋する映画」でこの作品が上映された。
観たかった1本だった。

1956年の大映作品。
製作:永田雅一、監督:吉村公三郎、主演:山本富士子、上原兼、撮影:宮川一夫、照明:岡本健一。
キネマ旬報ベストテン2位。

当時の映画界と大映

当時映画産業は炭鉱などと並ぶ花形産業で、映画人口の最大期を2年後に控える絶頂期だった。

同年のベストテン作品を見ても、第1位の「真昼の暗黒」(今井正監督、橋本忍脚本)をはじめ、4位「猫と庄造と二人のをんな」(豊田四郎監督)、5位「ビルマの竪琴」(市川崑監督)、6位「早春」(小津安二郎監督)、8位「流れる」(成瀬己喜男監督)と日本映画の歴史に残る名監督たちの作品が並ぶ。

松竹、東宝、大映、東映、日活、新東宝の6社が専属のスタッフ、俳優をもって製作を行い、独自の配給網を持つ(新東宝を除く)という2度とは来ない夢のような時代だった。

その中で大映は社長永田雅一のワンマン体制が敷かれていたが、専務として新劇の劇作家だった川口松太郎と監督の溝口健二が永田を補佐し、俳優では長谷川一夫を筆頭に、京マチ子などがいた。
京都と東京調布にそれぞれ撮影所を有していた。
業界的には松竹、東宝に次ぐ3番手のイメージ。

社長の永田の資質もあるのだろうが、政治家とのつながりやプロ野球球団保有など目立つ活動を志向していたが、松竹の歌舞伎、東宝の阪急電鉄のような基盤とする背景に乏しく、上映館数も少ないなど、経済的には脆弱だった。

また、永田は当初、新生日活によるスタッフ引き抜き防止を主目的とした、いわゆる5社協定を主導したが、長期的には人材の交流の疎外という点では映画界全体の利益に反した。

一方で、東宝争議後のゴタゴタに嫌気がさしていた黒澤明を招き「羅生門」を製作するなどもしている。
日仏合作の「二十四時間の情事」(アラン・レネ監督)を作ったり、溝口健二監督に好きなように撮らせ、「近松物語」「雨月物語」「山椒大夫」などの名作を世に送り出したのも永田雅一だった。

山本富士子と大映

第一回ミス日本の栄誉を満場一致で受賞したという山本富士子が大映に入社したのは1953年。
当時絶頂の映画界は例えば宝塚スターの再就職先としても有力な先だった(乙羽信子、淡島千景、新珠三千代、有馬稲子など)。

しばらくはいわゆるプログラムピクチャーのヒロイン役ばかりだった山本が、有力監督の文芸作品のヒロインに抜擢されてブレイクしたのが「夜の河」だといわれる。

山本富士子という人、外見の美貌と物腰の柔らかさに反して自立心と自尊心に満ちていた。

当初の大映との契約は3年後にフリーとなる条件だったというが、大映は反故にし、その後も専属契約を押し付けた。
契約更新のたびにもめたらしい。

念願の第1回他社出演は松竹の「彼岸花」(1958年)。
小津安二郎初のカラー作品の準主役に抜擢された山本は、和服姿のあでやかな所作と滑らかな関西弁で画面をさらった。

大映プログラムピクチャーとして消費され、残されていなかった山本富士子の姿が映画の歴史に鮮明に刻印された瞬間だった。
後年の映画ファンにとっては隠されていた日本映画の宝がそこに燦然と輝いているのを発見したような気持だった。

他社出演では「墨東奇譚」(1960年)、「如何なる星の下で」(1962年)がある。
どちらも実力派・豊田四郎の監督作品。
女優に対しては意地悪なほど辛辣な演出を行いかねない豊田監督をして、気高く孤高の女性像を描かしめた。

山本富士子は永田雅一と他社出演をめぐって衝突し、大映を退社。
永田は怒って映画界からの永久追放を画策した。

1983年、「細雪」の映画化に際し、監督の市川崑が長女役に山本を指名し交渉したが断られたという。
山本富士子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子の「細雪」だったら・・・それはさぞあでやかだったことだろう。
完成した作品を見た山本が、出演すればよかったと思ったとのこと。
映画ファンにとっても逃した魚は大きかった。

山本富士子と「夜の河」

山本富士子が大映入社3年目。
一流スタッフを集めたカラー作品である。
共演にも東宝の上原兼をもってきている。

この作品についてはまず色彩設計の見事さがいわれる。
舞台は京都のろうけつ染めの工場。
そこの独身の跡取り娘役が山本で、大阪大学の教授の上原と恋をして別れるまでを描く。

色彩設計でいえば、赤や緑の染め物が並ぶ工場の風景が思い出される。
発色もいい。
観たのはデジタル版だが、オリジナルのカラーが再現されているのだとしたらば、カラー撮影は成功している。

カメラは宮川一夫。
溝口作品でのパンフォーカスやクレーンを使ったワンショットワンシークエンスの撮影に力を発揮するカメラマン。

「雨月物語」では、戦乱の世、我が家に戻った森雅之が妻・田中絹代の歓待を受けるが、我が家はすでに廃墟だったというシークエンスを、カメラを360度パンする間の場面、時間転換で表現。

「祇園囃子」では路地を歩く若尾文子が、20メートルほど先の通りの舞妓たちを見て、けいこに通えない身を恥じて姿を隠す場面を、歩く若尾と20メートル先の舞妓たちの双方にピントを当てる鮮やかなパンフォーカスによるワンカットで表現。

照明の岡本健一。
熊井啓が胃潰瘍で血を吐きながら撮った「忍ぶ川」(1972年)。
大映は倒産し、撮影所システムは崩壊する中で、熊井が特に照明担当としてスタッフに招いた人材として記憶に残る。

「夜の河」では、夏の夜、歩く山本と上原が雨に打たれ軒下に休むあたりから、お茶屋内のシーンでのライテイング。
徹底したバックライトで人物の表情を消し、ただならぬ心理状況を表す。
長時間にわたり、影や暗さを微妙にライテイングするには相当の経験と自信がいるはず。

されど「夜の河」では必要以上の技法的主張はなかった。
撮影はカラーの再現と主人公の心情の移ろいを写し取ることに傾注し、手際よくまとめていた。
すべての技術的効果は吉村監督の演出プランの範疇に収まっていた。

心惹かれる相手とのただ一度の逢瀬の後、「子供ができたら、あんさんに似て・・・」と主人公が漏らす。
「子供?」と我に返り逡巡する妻子ある男。
そのわずかな反応に醒め「もしできてもうちの子として育てます」と端然と述べる主人公。

あふれる情念と自立した女性の自尊心を合わせて表現した、主人公と山本富士子のキャラクターが被って見える山場のシーンであった。

「夜の河」の上原兼と山本富士子

逢瀬の場は通りかかったお茶屋。
そこのおかみは主人公と女学校以来の親友で、軒先の二人を招き入れる。
男を紹介しようとする主人公には「ワテは戸籍係であらへん」と客先のプライバシーには踏み込まない。

演じたのは阿井美千子という女優。
てきぱきとした京都弁といい、動きのいい物腰といい、これがプロの京都女性というものなのか?と感心する傑出した演技だった。

「月夜の阿呆烏」(1956年)の阿井美千子、右は堺俊二

グロリア・スワンソンと「舞姫ザザ」

ここのところ「失われた週末」「サンセット大通り」とビリー・ワイルダー監督作品づいていた山小舎おじさん、「サンセット大通り」でグロリア・スワンソンを「発見」し、大いに気になっていたところ、渋谷シネマヴェーラのサイレント映画特集で、スワンソン主演の作品をやっていたので、自宅帰還の折に観た。

シネマヴェーラのパンフレットより。ピンボケですみません

「サンセット大通り」(1950年)では、自身がモチーフともいわれる、サイレント時代の大女優を演じた当時50歳のスワンソン。
作品は監督ワイルダーの屈折した皮肉を絡めた、ある意味「ハリウッドの暴露もの」であったが、そこで自分自身をカリカチュアライズした人物を演じながらも、決して役柄に埋没せず、むしろ存在感を発揮したのがスワンソンだった。

50歳にしてかつての美貌と輝きを十分に残しつつ、軽やかな動きもこなし、華美な装飾を着こなす姿は、おそらくはワイルダーの演出意図を越えたものとなっていた。
そこにあったのは「没落した妄執の老女優」ではなく「かつての栄華の残り香をしっかり残したベテランスターの余裕と貫禄の姿」だった。
スワンソン全盛期のサイレント映画を観たいと思った。

「舞姫ザザ」は1923年の作品。
タイトルにはアドルフ・ズーカーの名前がクレジットされている。
のちのパラマウント映画の配給である。
パラマウントはスワンソンのキャリアの舞台となる。
制作はアラン・ドワン プロダクション。

パリの場末の舞台のスターだったザザ(スワンソン)が身分違いの外交官と道ならぬ恋に落ちるストーリー。
チャームポイントのあごのほくろに星のマークを付け、過剰な舞台衣装をまとったスワンソンが、鼻持ちならない売れっ子女優として、ライバルとキャットファイトし、止める男を蹴っ飛ばし、足を踏ん張り、万歳し、顎を上げてミエを切る!
23歳の颯爽としたスワンソンがスクリーンを駆け巡る!

サービス精神旺盛で、アクションシーンをいとわず、プライド高く、派手好きだが、お茶目でかわいげのあるキャラクターがすでにそこにはあった。

クジャクの羽飾りの帽子を被った場面では「サンセット大通り」でセシル・B・デミルに会いにパラマウントのスタジオを訪問するシーンを思い出した。
「舞姫ザザ」ではたくさんの羽で帽子を飾っていたが、「サンセット大通り」では帽子の羽は1本だった。
クジャクの羽の数が、スワンソンに関しては「ザザ」の時代がオリジナルで、「サンセット」はそのパロデイであることを物語る。

ストリーは波乱万丈、金のかかったセット。

サイレント映画といえばグリフィスの「国民の創生」やヴァレンチノの「血と砂」、チャップリン、キートン、マルクス兄弟、くらいしか見たことはなかった。
そこにあったのは途方もなく金と人数をかけた場面だったり、スターのとびぬけた存在感だった。

「舞姫ザザ」をみて、サイレント時代すでに映画は完成され、スターの個人的な才能のみに寄らない総合的な文化となっていることを確認できた。

サイレント時代のスワンソン
宝塚風とでもいうのでしょうか、ヴァンプ風を意識した孤高のメイクのスワンソン
デミル好みというのでしょうか、サロメ風メイクのスワンソン

淀川長治さん日曜洋画劇場25周年記念として出版した「MyBest37」という本があり、スワンソンについても1章が割かれている。

1952年にアカデミー協会の招きで渡米した淀長さんが、協会長のチャールズ・ブランケットと立ち話をした際、スワンソンの話となった。
ブランケットは当時ワイルダーと組んでおり。「サンセット大通り」の製作者でもあった。

「スワンソンの生き字引」を自任する淀長さんが話を盛り上げると、ブランケットが「スワンソンと会いたいか」と聞いた。
「会えたら死んでもいい」と淀長さんが答え、その場でブランケットはスワンソンに電話した。

後日、ハリウッドの豪邸で4時間会見し、ニューヨークのホテルでも会った。
豪邸での会見で財布を忘れてきた淀長さんにスワンソンから電話がかかり、ポーターがホテルまで届けてきたそうだ。
淀長さんを生涯魅了した女優の一人がグロリア・スワンソンだった。

トーキー世代のスワンソンファンにとってはこの写真になってしまう。「サンセット大通り」より

ビリー・ワイルダーと「サンセット大通り」

山小舎おじさん、9月初旬にも自宅に帰りました。
その際、渋谷シネマヴェーラで「サンセット大通り」をやっていたので見てきました。
ここのところ気になっているビリー・ワイルダー監督の1950年作品です。

シネマヴェーラの作品紹介文

アメリカ映画は暴露ものが好きなのか?

「サンセット大通り」は名監督ワイルダーの代表作の一つ。
40年代から活躍し始めたワイルダーが評価を不動のものした記念碑的な作品でもあります。

ストーリーはサイレント時代の大女優が、時代がかった執事(往時の名監督で最初の夫でもあった、という設定)とハリウッド近郊の古い邸宅の中で暮らしているところへ、ひょんなことから売れないシナリオライターが迷い込み、大女優の妄執に翻弄された挙句、悲劇の結末を迎えるというものです。

大女優役は実際にサイレント時代のスターだったグロリア・スワンソンが扮し、執事役には実際にサイレント時代の名監督だったエリッヒ・フォン・シュトロハイムが扮しています。

左から、ウイリアム・ホールデン、グロリア・スワンソン、エリッヒ・フォン・シュトロハイム

これって、いわゆる「暴露もの」ではないでしょうか。
そうじゃなかったら「あの人は今」的な「のぞき見」もの。

アメリカ映画には「市民ケーン」(1941年 オーソン・ウエルズ監督)で当時の新聞王ハーストを批判的に描き、「独裁者」(1940年 チャールズ・チャップリン監督)で当時の対立世界の覇者ヒトラーをカリカチュアライズした、という「実績」があります。

当時のハーストを扱うということは、現代でいえは、ステイーブ・ジョブスだったりビル・ゲイツといった億万長者兼実業界のカリスマの裏面を暴くようなものでしょう。
また当時、勃発中の第二次大戦の主役の一人だったヒトラーを馬鹿にすることは現在でいえば習近平やプーチンにケンカを売るようなものでしょう。

その点、ワイルダーの「サンセット大通り」はすでに名声時代が過ぎ去った主人公たちを扱っています。
本人たちが納得ずくで没落した人物を演じるのですから、名誉棄損の批判を受ける心配もありません。
ワイルダーの狡さというか意地悪さが見て取れるのは私だけでしょうか。

主人公二人のほかに、セシル・B・デミル、バスター・キートン、ヘッダ・ホッパーなどの映画人を実名で登場させ、ヴァレンチノ、グリフィスなどの実名をセリフで言わせていますが、そこでは抑えた演出をしています。

ワイルダーにとっての暴露すべき悪とは

ワイルダーの演出は、主人公二人(スワンソン、シュトロハイム)については、暴露もの的な意味で、デミル、キートンについてはあの人は今的ない意味で使っています。

スワンソンとシュトロハイムに関しては思いっきりイジワルな演出をしています。
が、ワイルダー自身にはほとんど危害が及ばないところがミソです。

後で述べますが、結果としてスワンソン、シュトロハイムに関しては悲惨さよりはアイコンとしての貫禄が画面から漂い、ワイルダーの毒というか本心は露骨に表れない、という結果になっています。

表面には現れませんが、ワイルダーがケンカを売りたかったのは、ハリウッドシステムの尊大な滑稽さで、大女優と執事はその犠牲者という位置づけだったのかもしれません。

ワイルダーにとって本当の敵とは何だったのか?
祖国からの亡命を余儀なくさせたナチスドイツか?ユダヤ人という宿痾か?尊大で欺瞞に満ちたハリウッドシステムか?
それぞれのテーマをある程度は匂わせながら決して肉薄しないのがワイルダーです、隠しきれない毒は画面のそこかしこに現れてはいますが・・・。

ワイルダーは正義派でも社会派でもありません。
良い作品ができる題材と、多少は自分の毒が満足できる演出ができればそれでいいのでしょう。
自分に危害が及ばないのなら、他人の尊厳、プライバシーを犯すことに良心の呵責はありません。

1950年制作の「サンセット大通り」まではそれでも際物的な要素のも取り入れながら作品を作っていましたが、名声を得た50年代以降は際物的な要素は少なくなってゆきます。
「サンセット大通り」は転換期に当たる作品なのではないでしょうか。

グロリア・スワンソン

なお、暴露ものというジャンルはアメリカ映画の専売特許ではありません。
日本映画には権力者を批判的に描く骨のある暴露ものの作品はあまり思い浮かびませんが、実録もの、事件の再現ものなどのジャンルがあります。

事件の再現ということでは、あの阿部定がのちに座長として巡業したとか、アナタハン事件の後で事件の女主人公が再現劇で巡業したなどの話を聞きます。
暴露ものがあらゆるメデイアにとって親和性のあるジャンルということがわかります。

「サンセット大通り」の表面上のモチーフの「年増女が若い燕に狂って破滅する」は、2時間サスペンスや、ワイドショーのネタ、ドリフのコントのネタ、などとして綿々と受け継がれてもいます。
事実この作品を見ていて、コントみたいだと思った瞬間がありました。

それを防いだのはグロリア・スワンソンの存在そのものでした。
老醜、妄執がコンセプトの大女優役に於いて、当時50歳のスワンソンが実に魅力的だったのです。
まだまだきれいで、いわゆる怪奇派としての老嬢役に収まりきらない魅力が垣間見れるのです。

自分が所属していたマック・セネットの水着ガールやチャップリンの物まねまで再現、披露します。
ワイルダー演出は老嬢の若作り、悲惨さを狙ったのかもしれませんが、さすが往年のスター。
演技がしっかりしており、ポーズも決まるので単なるカリカチュアにとどまらないスワンソンの演技に、山小舎おじさん、魅入ってしまいました。

ストーリーの間に挟まる、若い燕・ホールデンと若い女性の逢引のシーンの方が70年前のアメリカ映画の古臭さを隠しきれないのに対し、スワンソンが出てくるシーンは時間が超越されているようでした。
本物は、類似品がのちにテレビのコントになって消費される時代が来ても古典として残るのだなあと思いました。

スワンソンの演技は、暴露ものという映画の設定を突き破り、自身のキャリアの尊厳を逆説的に主張しているかのようでした。
その点が作品に深みと救いをもたらしてもいます。

それがワイルダーが最初から意図したものだったかどうかはわかりません。

まだまだ魅力十分なグロリア・スワンソン

ビリー・ワイルダーと「失われた週末」

アメリカで活躍した映画監督にビリー・ワイルダーがいる。
1906年旧オーストリア=ハンガリー帝国生まれのユダヤ人で、戦前にアメリカに亡命。
脚本家、監督としてハリウッドで活躍し、2002年没。

「ハリウッド帝国の興亡」にみるワイルダー

手元にある「ハリウッド帝国の興亡・夢工場の1940年代」には当時のワイルダーについての記述があるが、それは以下の通りとても印象的なものであり、ワイルダーの人となりと遍歴が浮かび上がる。

黄金の40年代ハリウッドを考察した著作

(共同脚本家として一時代を築いた)チャールズ・ブラケットは、ワイルダーの本質の多くを嫌っていた。
つまり人間嫌い、死を連想させるような不気味な感覚、冷酷さ、根っからの粗暴さ、などを。(同書ページ567)

サンタバーバラでの「失われた週末」の試写会は笑い声に迎えられた。
大声の笑いとくすくす笑い、嫌悪感を抱かせる映画だというアンケート用紙の回答に迎えられた。(ページ565)

1945年の秋、「失われた週末」は公開された。
批評は素晴らしかった。
そしてワイルダーは、監督として初めてのアカデミー賞を受賞、脚本の共同執筆者としてもオスカーを授かった。(ページ565)

「サンセット大通り」(50年)を自伝的作品とみるには幾通りかの解釈がある。
ワイルダーはかつてベルリンのホテルで雇われダンサー兼エスコートをしていたので、ジゴロの困惑といったようなものは身に染みていた。(ページ567)

ワイルダーは「サンセット大通り」の冒頭シーンに、死体保管所で死体同士がここに来ることになったいきさつを語り合う、という、おぞましくも不気味なシーンを撮影した。
ロングアイランドでの試写会でも「サンセット大通り」は嫌われた。笑われたばかりではなくブーイングされ、シーシー野次られ、嘲られた。
ワイルダーは、死体同士の会話という設定から、主人公(売れない脚本家:ジゴロ)の死体単体によるモノローグへと冒頭シーンを撮りなおした。(ページ569)

1950年の夏に公開された「サンセット大通り」は批評家から受けて当然の絶賛を受け、興行成績も上々だった。(ページ571)

テレビ洋画劇場でのワイルダー

テレビの洋画劇場で40年代、50年代、60年代の洋画がせっせと放送されていた時代。
山小舎おじさんは中学生から高校生だった。

テレビで「お熱いのがお好き」(59年)や「アパートの鍵貸します」(60年)を見た。
大学生になっての上京時、大塚名画座という今は亡き映画館(大塚駅近くの八百屋の二階にあった)で「あなただけ今晩は」(62年)を見たこともあった。

いずれもワイルダーの代表作だ。
展開の速さ、オチ、ペーソス、伏線、演技、どれをとっても良くできた作品で、引き込まれるように見た。

3作品とも主演はジャック・レモンで、すっかりファンになった。
テレビ放映では吹替の愛川欣也の名調子に、レモンの演技と愛川の吹替が一心同体に見えた。

日本におけるワイルダーの評価も、上手にコメデイを作る巨匠というようなことで落ち着いていたような気がする。「麗しのサブリナ」(54年)、「七年目の浮気」(55年)、「昼下がりの情事」(57年)などもワイルダー作品である。
ヘップバーン、モンローなど旬の有名どころを使い、だれもが満足するストーリー展開と、たっぷり予算を使った舞台装置。
たっぷりの予算を十分回収しうる興行成績。
押しも押されぬハリウッドの巨匠である。
しかも批評家受けがいい。
それだけの才能を持った作家がワイルダーだった。

ワイルダーと「失われた週末」

この夏、渋谷シネマヴェーラで「恐ろしい映画」特集をやっていた。
お盆の帰宅の際、その中の1本「失われた週末」を見る機会があった。

脚本はワイルダーとチャールズ・ブラケットの共同。
主演はレイ・ミランドとジェーン・ワイマン。
1945年のパラマウント作品である。

ワイルダーの出世作にして代表作の1本。
それまで大根役者といわれてた主演のミランドがアカデミー男優賞を受賞して演技派開眼、というオマケまでついた非の打ちどころのない会心作、といわれている。

シネマヴェーラの怖い映画特集に出かける

「ハリウッド帝国の興亡」による影響か、「失われた週末」にはワイルダーの持つ、影の部分、おぞましさを好む陰湿さが濃厚に反映しているのではないか?と思った。
だからこそぜひ見たかった。

内容はアル中に苦しむ作家が恋人の無償の支援を受けて更生に向かうまでの姿。
ワイルダーらしく冒頭のシーンからエンディングに至るまで、人物配置、伏線などに怠りはない。

取ってつけたようなハピーエンドも、それまでの無償の愛を貫く恋人の人物描写が伏線として生きており、何よりスピーデイーに展開する結末のシークエンスが観客を納得させる。

アルコールを求めて街をさ迷う場面

しかしながら決して脇のエピソードとは言えない二つのシークエンスの緊張感はハピーエンドを旨とする当時のアメリカ映画とは思えないものがあった。

一つ目は酒代を求め、質草のタイプライターを抱えて、安息日のニューヨークを質屋を求めてさまよう主人公の描写。
二つ目は酒屋で強盗を働いた挙句、放り込まれるアル中専用の病院内の描写。

アル中病院の奇妙な看護師にあしらわれる主人公

先のシークエンスではドキュメンタルな手法を駆使し、ロケーションによる臨場感を強調し、後者では表現主義的とでもいおうか、デフォルメされた収容病院内の恐怖を強調している。
これら予定調和を無視した緊張感あふれる画面作りは、単にアル中患者の不安定な心理描写ということにとどまらず、カフカの小説の主人公のように不条理にもてあそばれる恐怖を連想させる、劇中でも特異な雰囲気に満ち満ちたシークエンスになっている。

アメリカに亡命を余儀なくされたユダヤ人であるワイルダーが経験したであろう、戦前のドイツ時代からそれ以降の「不条理への恐怖」が色濃くも反映してはいないだろうか。

おまけにというか、さりげなくユダヤ教への絶望、キリスト教へのあきらめも表現されている。
主人公が質屋巡りをする日がユダヤ教の安息日で、ユダヤ人が経営する質屋が全部閉まっており、彼ら(ユダヤ教)からは見放されたという設定と、主人公が前途に絶望し、十字を切るポーズで自殺を暗示する描写である。
一方で主人公を憐れみ、5ドルを恵んでくれた、バーを根城にする娼婦のアパートの目印がインデアンの塑像であることは何の暗示だろうか。

おぞましさ、不条理の描写というと、ルイス・ブニュエルという映画監督を思い出す。
女性の足、靴、ストッキングへのフェチを隠そうともせず、またキリスト教会の権威への明快なオチョクリなど、この御仁の作品はトンデモナイ描写の連続だが、スペイン人でメキシコで映画のキャリアを積んだブニュエルが、どこかすっとぼけた、憎めない、乾いたカラーを持っていたのに比して、オーストリア=ハンガリー帝国出身のワイルダーの描写はひたすら深刻で、暗く、イジワルで痛々しく映る。
その点については、長年の共同脚本家を務めた、ブラケットのワイルダー評は的を得ている。

後年、ワイルダー作品からはこのような直截的な恐怖心の描写は見られなくなったものと思われる。
が、よく見れば「お熱いのがお好き」はギャングから逃れ、女装して楽団に潜り込む追い込まれた二人組の話だし、「アパートの鍵貸します」は、がんじがらめの会社組織で理不尽な上司の要求に逆らえない、出口のない部下たちの話であった。

いずれも巧妙に隠されてはいるが、不条理に苦しむ人物が主人公ではあるのだ。

ワイルダーは生涯、理不尽で不条理な恐怖を己のテーマとして描き続けたのではあるまいか。
その主題を、笑なり、ペーソスなどに落とし込み、起承転末の効いた作劇にまとめあげることができるのがワイルダーの才能であり、ワイルダーのワイルダーたるゆえんであると思う。

ワイルダーのダークの部分が色濃く反映されている作品と思われる、「深夜の告白」(44年)と「サンセット大通り」はぜひとも見たいものだ。
できれば「情婦」(58年)なども。

シネマヴェーラ「恐ろしい映画特集」のパンフレットより

「松竹大船大島組・プロデューサー奮戦記」

先日、松竹映画の最高責任者だった、城戸四郎の伝記を読んだ。
その中で最も印象に残ったのが、松竹映画退潮期のころの描写だった。

昭和30年代前半には映画人口が減少に転じ、松竹も例外ではなかった。
伝記における、その時代の城戸ら経営者のふるまいの描写は歯切れが悪かった。
彼らから従来の「大船調」を越える発想はなく、業績の悪化におろおろし、部下が上げてくる企画には辛辣に対応する姿が見えるだけのようだった。

「松竹大船大島組」という本がある。
まさに混乱期を迎えようとしていた昭和34年に本社人事部門から、大船撮影所にプロデユーサーとして転勤し、3年後に再び本社に戻っていった、若き松竹社員の自伝である。

そこには、会社の変革期を迎え、若き人材として畑違いの現場に放り込まれつつ、もがき、奮闘した濃縮した時間があった。

本作は、松竹映画「変革」の時代を、現場の視点から、それも城戸ら経営者と対立したディレクターたちの側からでなく、城戸の部下でもありかつデイレクターを補佐する制作者の側でもあるプロデユーサーからの記録として、第一級の歴史資料でもあった。

昭和34年、社内の他部門から2名の若手社員がプロデユーサーとして大船撮影所に転勤した。
著者ら当事者たちにとっても青天の霹靂の人事異動だった。

着任早々、守衛にいぶかしがられ、庶務のおばさんにあしらわれ、現場のスタッフからは帰れコールが起きた。
撮影所は映画製作に情熱を傾ける芸術家、職人たちがとぐろを巻く特殊な世界だった。

当時、城戸四郎ら松竹の経営陣は、会社はこのままではいけないと思っていた。
松竹映画の退潮は、他の娯楽の台頭や、太陽族映画や錦ちゃんブームなど他社映画の台頭などがその直接原因だとしても、「大船調」にどっぷりつかった松竹の体質によるところが大きい、と自らも分析したようだ。
そのための「ショック療法」として若い社員を撮影所に送り込み、体質改善を図ったのだ、と著者は撮影所長から説明を受ける。

著者はまた、所長から松竹映画の問題点について質問され、答える。
曰く、若さがない、眠れる獅子、ワンパターン、時代に乗り遅れ・・・。
それは恐らくは社員全員が(城戸四郎を除き)共通認識としていたところのものであったろう。

当時30歳の著者は、撮影所内の若手のリーダー格に目をつける。
ディレクターシステムをとる松竹では監督の権力は絶大だ。
大監督には決まったプロデユーサーがすでについている。

そこで目をつけたのが当時20代の助監督だった大島渚。
助監督部発行のシナリオ集で大島の作品を読んでおり、新人俳優紹介の「明日の太陽」という大島が演出した短編を見ていた著者は、大島に面会する。

著者のプロデュース作品の一つ

ここから自伝はめまぐるしく展開する。

大島と意気投合したかに見えてどっこい、コイツは何を考えているかわからない奴だった。
著者は大島に脚本執筆を依頼した企画を2本続けて、所長から没にされてしまう。

大島(と共同執筆の野村芳太郎監督)はあえて、実現しない内容の脚本を書き、著者をプロデユーサー失格者として本社に送り返そうとしていた!のだ。
まさに大船撮影所を挙げての新人プロデユーサーいびりである。

その試練を乗り越え、大島らと和解(著者の人柄の良さを大島らが理解して和解の席に誘った)した著者は、大島のデビュー作「愛と希望の街」から、「青春残酷物語」「太陽の墓場」「日本の夜と霧」と、大島の松竹時代全作品を制作することになる。

「愛と希望の街」では所内試写の後、城戸四郎が自ら出席して、木下恵介ら主要監督と、作品スタッフを招集。
面前で作品評価をイエスかノーかで表明させる事態となる。
城戸を忖度した全員が「ノー」の評価を下す中、作品助監督の水川淳三だけが面前で「これだけの作品は今までの松竹にはありません」と答える。

作品の制作者でありながら、御前で「ノー」と言わざるを得なかった著者は後で水川にイエスといった理由を尋ねる。
水川は「大島を松竹の監督としてみるか、世界の大島渚としてみるかの違いだよ」と答える。

「青春残酷物語」の制作が決まり撮影が開始される。
監督の大島をはじめ、撮影の川又昂などのスタッフ、出演の桑野みゆきなどが醸し出す熱気と勢い。
試写では大島、桑野、川津祐介が正装で現れ、試写後は場内に万雷の拍手。
興行は劇場のドアが閉まらないほどのヒットとなった。

自らのパワーと明るさを、時代の観客が欲する姿に具現化して提供できる力量とカリスマ性をキラキラと(ギラギラか?)発揮する大島はこの時点で松竹の希望の星になった。

松竹待望の若きヒットメーカー大島の長編第2作の2か月後の封切りが決まった。

「太陽の墓場」はオリジナル脚本による釜ヶ崎を舞台にした人間劇だった。
主演に炎加世子という浅草の踊り子出身の女優を抜擢。
釜ヶ崎ロケの空気感、わき役陣の存在感なども効果を上げこれもヒット。
さらに2か月先に「大島次回作品」の封切りがスケジューリングされた。

力道山と丸山明宏のツーショット。これも著者の制作作品

そして問題の「日本の夜と霧」。
さしもの大島でも2が月ごとの新作公開ではネタがなくなり、シナリオ集の「深海魚群」をとりあげることにした。

決定稿ができないままの段階で本社役員会議に呼ばれた著者は、どんな作品かと聞かれ、結婚式で二人の過去がばらされる話・・・と大島に言われた通りのことを話すと役員たちは納得し、期待したという。

決定稿を読んだ著者が制作に難を示すが、大島は「これをやらないと前へ進めない。やらしてくれたらまた会社が儲かる映画を作る。予算3億円を8千万で収める」と反論。

著者にとってこの作品は、内容が理解できないうえに、興行的には全く期待できず、社員を裏切る結果になることはわかっているものだった。
所長に相談するが、大島がやりたいならということでゴーサイン。

撮影が始まったがスタッフの顔が暗く躍動感がない。
当たる作品とそうでないときにはスタッフの活気や意気込みが違ってくるのを著者は目の当たりにする。

上映中の劇場に行って著者が見たものは、20名ほどの観客が三々五々途中で出てゆく姿と、旧知の劇場支配人が「大島さんがこんな映画作ると思わなかった、君この映画わかるんだったら教えてくれよ…」という言葉だった・・・。

著者は責任を取って辞職すら考える。
大島の信念に対する責任ではない、ヒットしない映画と分かりながら何もできなかった制作者としての自責の念からであった。

「日本の夜と霧」の上映打ち切り後、並行して進んでいた、著者制作、石堂淑朗第一回監督作品「チンコロ姐ちゃん」も制作中止となった。
大島と小山明子の結婚式が松竹首脳部への糾弾集会のようになり、経営陣に大島一派をかばう人間がいなくなった。
大島渚、田村孟、石堂淑朗らは松竹を退社した。

富永一郎の人気漫画の映画化も企画していた

松竹激動の時代をまさにピンポイントで駆け抜けた著者。
人柄がうかがえるような筆致で映画の現場を描写しています。
完全に映画人になり切れていないところが逆に描写の信ぴょう性を付与しています。
素人に近い常識人としての感性がうかがえます。

それにしても稀代の映画人にしてタレントである大島渚の松竹時代全作品に制作者としてついていたとは!
直木賞作家の高橋治が松竹の助監督だった時に「東京物語」にサードか何かでついていた、ただそれだけで、後年外国での小津関連の映画祭でビッグネームとして遇された、ことに匹敵する得難い経歴です。

著者のプロフィール

昭和34年当時。
松竹退潮の時代を迎え、経営者が、「松竹自体に問題がある」と分析し手を打ったことは評価できます。
変革のターゲットを、良くも悪くも松竹映画を象徴する撮影所部門としたことも。

ただ、撮影所が若手社員一人や二人の人事交流でどうにかなるほどのヤワなものではなかったことと、肝心の経営者そのものが「大船調」を越える発想を持たなかったことが、結果につながらなかった理由なのではないか、とも思います。
正確に言うと、「大船調」にこだわる城戸に逆らう経営者が出てこなかったということなのでしょうが。

大島が「日本の夜と霧」にこだわった理由が今一つ判然としませんが、案外、ネタ切れになり、また緊張感ある現場が続いた新人監督にとって、2か月ごとのローテーションを強いる会社への一つの回答だったのかもしれません。
そこには、大島が「これをやらないと前へ進めない」というほどの強いこだわりと信念がありました。

「日本の夜と霧」は、学生運動から続く左翼活動への大島の意思表明をのみ唯一のテーマとした稀有な作品として、大島渚の代表作の一つとして残りました。
しかしながら、時代を先取りし、大衆を扇動せんばかりにその嗜好を読み取ることのできる、「有能な映画監督」としての大島はそこにはいなかったのです。

人間性と常識性に恵まれた新人プロデユーサーであった著者は、大島という稀有の存在を世に出すにあたって、その全部を理解することはできなくとも、「有能な監督」としての大島への共感力に恵まれ、邪魔もせず、言わば大島にとって願ってもない相性の存在だったのかもしれません。

「日本映画を創った男・城戸四郎伝」

映画好きの山小舎おじさん。
その中でも最近興味あるジャンルは、映画興行史です。

城戸四郎の伝記を読む機会がありました。
大正11年、松竹に入社以降、松竹映画一筋に生き、昭和52年に死ぬまで同社の映画部門のトップに居続けた人物の伝記です。

著者は小林久三。
昭和9年生まれで、昭和36年に松竹に助監督として入社、その後脚本部を経て制作者になっている人で、有名になったのはミステリー小説で賞をもらってから。
本作「城戸四郎伝」はキネマ旬報に連載したものをまとめたものだそうです。

日本の映画産業は、松竹の白井信太郎、東宝の小林一三を中心に興きてきた。
京都太秦撮影所に至るマキノ一家という系統もある。
マキノに出入りするヤクザ一家のつかいっぱしり端を発し、大映社長に上り詰めた永田雅一がいる。
日活の堀久作もいる。
これらは、あるものは必然的に、あるものは偶然に映画というダイナミズムもしくは金の生る木に吸い寄せられた人物で、それぞれの会社・組織のオーナーもしくはそれに近い存在だった。

いずれの方々も、例えばサラリーマンなど務まりようもない個性の持ち主であり、一般常識とはかけ離れた行動力と発想力で周囲を巻き込んでゆく強烈な存在だったことが容易に想像できる個性の持ち主たちだった。

本の目次

城戸四郎はどんな存在か?
松竹映画の企画決定権を生涯にわたって持ち続けたという意味において、本来の意味でのプロデユーサーとしては、社内で唯一の人物だった。
その意味では、大映社長の永田雅一や、初期東映のマキノ光男の印象と重なる。

永田は、自分が社長時代の大映作品では、その巻頭で堂々と「製作 永田雅一」をクレジットさせ、自社製品にマーキングしていたが、その作品群の中からベネチア映画祭グランプリの「羅生門」が生まれた。

マキノは戦後間もない新生東映の東京撮影所長として、「右も左もあるかい!ワイらは大日本映画党や」と、東宝をレッドパージされていた今井正を東映に招き、「ひめゆりの塔」を製作、大ヒットを飛ばした。

その点、エリートの城戸は、泥臭さはなく、万事スマートである。
常識的、良識的なというよりは安全パイを外さない城戸のイメージはそのまま松竹のそれと重なる。

仕事のやり方も、例えば「女優を妾にする」(新東宝社長:大倉貢)のではなく、頭を使って撮影所の仕組みを変えてゆく方法に寄っていたようだ。

当初は俳優の力が強く、彼らのわがままに左右され、予算を浪費していた撮影所を、最初は脚本部門の育成に注力することにより、次には演出部門に力を持たせることにより、改善していったのが城戸だった。

これはディレクターシステムと呼ばれるもので、松竹の伝統となった。
ただしいずれのシステムであってもトップには城戸が君臨していることを前提としたものだったのだが。

松竹映画ただ一人のプロデューサー・城戸のポリシーは、一言でいえばヒューマニズムだった。
それは松竹映画にあって大船調と呼ばれた。

著者・小林は、松竹映画の一大功労者として評価ゆるぎない巨人を、大船撮影所の大部屋俳優だったり、後輩の制作者だったりの目を通して描く。
そこには、力のないもの、運のないもの、自分の好みに合わないもの、自分に逆らうものには冷徹で残酷でさえある城戸の姿が現れる。

昭和30年代後半。
松竹も例にもれず、否、他社に率先して、斜陽の道を転がり落ちる映画産業の時代。
城戸もトップとして対応を希求していたものの、企画は空回りする。

若手監督抜擢のいわゆるヌーベルバーグ、武智鉄二の「白日夢」「紅閨夢」「黒い雪」と、城戸らしくない企画が続いた。
しかしながら、ヒットした武智映画の「エロ」についてはスルーするが、ヌーベルバーグの「政治性」にははっきりと拒絶を示す城戸がいた。
大島渚の「日本の夜と霧」の上映打ち切りの決定者は城戸四郎だった、というのが著者の見立てである。

「日本の夜と霧」打ち切りの真相を著した部分

森崎東という監督がいた。
「喜劇・女は度胸」でデビュー。
「男はつらいよ」の脚本にも参加し、「フーテンの寅」では監督。
山田洋次作品とは一味違う、陰影、泥臭さを持つ作品で、松竹離脱後も作品を発表し続けた。

個性的な作風のこの監督を自由契約にした(松竹をクビにした)のも城戸だった。
城戸は当時の制作本部長に対し、自分の目の前で森崎への解雇の電話連絡を行うように命じたという。

森崎東解雇を著した部分

映画プロデユーサーとしての冷徹さはともかく、また小津、木下らをフィーチャーしていた黄金時代はよいとして、60年代に入ってから、時代性や新しい才能についていけなくなったあたりが城戸の映画人としての限界だったのだろう。

さて、城戸自身、脚本執筆や、企業としての撮影所経営には興味があっても、映画というダイナミズムには果たして興味があったのか?
あったとしても、そのダイナミズムに太刀打ちできない自分にどう折り合いをつければいいのか、最後まで分からなかったのではなかろうか?という疑問がわく。

1974年に封切られた、松竹映画の金字塔「砂の器」の企画に最後までゴーサインを出さ(せ)なかったのも城戸なのだった。

映画というものの成り立ちの難しさ、不思議さをその興行史の側面からも感じる山小舎おじさんでした。