ラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映より 任侠映画のヒロインたち ⑥ 松原智恵子

松原智恵子は1945年岐阜県池田町生まれ。
実家は名古屋で銭湯を経営するが1959年の伊勢湾台風で父親を失う。

高校時代に日活の『ミス16歳コンテスト』に中部代表で出場したのをきっかけに日活入社。
1961年に映画デヴュー。吉永小百合、和泉雅子とともに『日活3人娘』と呼ばれた。
舟木一夫や西郷輝彦の歌謡映画のヒロインを務め、日活がニューアクションと呼ばれる路線に企画変更すると、渡哲也主演の「無頼シリーズ」などで相手役を務めた。

日活時代の松原智恵子

1971年、日活の一般映画製作中止を機に退社。
主にテレビに活動の場を移す。
その後も、ヴァンプやおばさん役に崩れることなく正統派の熟年役として現役続行中。


「昭和残侠伝 吼ろ唐獅子」  1971年  佐伯清監督  東映東京作品  ラピュタ阿佐ヶ谷・35ミリフィルム上映

「昭和残侠伝」シリーズ全8作の7番目の作品。
全共闘世代に支持を受け、東映の任侠映画で最も収益を上げたシリーズだといわれる。

このシリーズのコンセプトは、ヤクザの仁義、筋、男のプライド、そういった精神に対する礼賛であり、企画を推進しているのは、東映に出入りしていた俊藤浩滋であった。

おそらく上映当時も、観客のほとんどはヤクザのプライドなど、絵に描いた餅であると信じてはいなかった。
ヤクザが、必要悪としての側面は持ちつつも、どんなに世事に汚く、道理に反した、世の中のクズであるかは万人にとって自明の理だった。

オリジナルポスターその1

東映の任侠映画が一時的とはいえ、日本映画史に残るエポックメーキング足りえたのは、高倉健というスターが存在したからだった。
時代劇映画全盛時代に東映が全国トップの興行収入を上げたのは、千恵蔵・右太衛門という歌舞伎出身の2大スターが豪華絢爛なチャンバラ絵巻を繰り広げ、全国津々浦々の日本人に夢を与えたからであり、任侠映画がつかの間の全盛を迎えたのは、1970年前後の大学紛争後の虚無感漂う大衆のルサンチマンをしばし解放せしめる象徴・高倉健(藤純子も?)がいたからだった。

ただし時代劇映画全盛時代の東映が、千恵蔵・右太衛門ありきだったのに対し、任侠映画の出発点は俊藤浩滋という企画者だった(彼をホイホイと持ち上げる、岡田茂という『不良性感度の高い』映画が好きな、製作責任者がいたこともある)。
俊藤(藤純子の実父)がヤクザの実物たちとともに東映撮影所に持ち込んだものは、仁義、義理、筋などの任侠道といわれる価値観だったが、それらは彼らの自己正当化には役に立っても、世間的には通じるものではなかった。
世間は、ヤクザが、強きになびき弱きをくじくゲスの感性の持ち主であること、勝手きわまる心持と即物的価値観の礼賛者であることは知りすぎるほど知っていた。

たまたま任侠映画の主役高倉健の10年に1人のスター性があったことから任侠映画は観客に迎え入れられた。
そして「昭和残侠伝」シリーズも8作目を迎えることとなった。
あと1作でシリーズ終焉となることを知ってか知らずか・・・。

プレスシート

ということで「昭和残侠伝 吼ろ唐獅子」を見る。
高倉健扮する渡世人が、ヤクザの正義感たる『仁義を通す』『筋を通す』『落とし前をつける』を連発して、腐った親分と、親分の妻と駆け落ちした子分の間を右往左往する、という筋立て。

さすがに無理筋だろう、健さん。
男女間の駆け落ちに人情をかけるためにやくざの価値観は使えないだろう、と思いつつ画面を追う。
ところが、というか、やはりというか、健さんは硬直的に『仁義』『筋』『落とし前』を繰り返すばかり。

シリーズの重要なわき役、池辺良が最後は健さんに同行して殴り込みというお馴染みの筋立て。
そこに鶴田浩二が出てきて訳知り顔で正義のヤクザを演じる。
正義のヤクザは健さん一人でいいのではないか。
池辺良だって堅気だったのをやむにやまれずドスを握った段階で、健さんの味方の戦力となったのだし・・・。

シリーズのコンセプト、任侠映画の精神的支柱の虚構が、硬直化したその姿を露わにしている。
わずかに残った映画的説得性が健さんの醸し出すスターのオーラとスポーツのような殺陣の爽快感だが、そこにも繰り返されたであろう疲れとマンネリがにじみ出ている。

プレスシート

ヒロインは松原智恵子。

日活時代の「東京流れ者」(66年 鈴木清順監督)では、『流れ者には女はいらねえんだ』『女と一緒じゃ歩けねえんだ』と、棒読みのセリフを繰り出す若き渡哲也の向こうを張って、まるで相手の心情には頓着しないかのようにアイドル的表情を崩さなかった松原智恵子の東映初出演(クレジットには(日活)とあったから日活在籍時代の最後の出演作であろうか)。
同じく日活の「無頼」シリーズでは、堅気のお嬢さん役ながら渡の殺陣の現場にウロチョロし、『大丈夫?』と傷の具合を勝手に心配するヒロイン役が妙に似合っていた。

日活時代はどんな状況下にあっても、清純派としての構えを崩さなかった松原智恵子の本作の役は、健さんのかつての思い人にして、その8年後に鶴田浩二の奥さんとなっていた姐さん。
着物姿には凛とした気風が漂っていたが、任侠映画末期の硬直した雰囲気の中では、持ち前の”天然なかわいらしさ”の出しようがなかった。

『親にもらった大事な肌を墨で汚して(中略)つもり重ねた不幸の数をなんと詫びよかお袋に、背中(せな)で哭いてる唐獅子牡丹』。
殴り込みの前の池辺良との道行のシーンにかぶさる主題歌を詠うのはもちろん健さん。
仁義でがんじがらめのはずのヤクザが、人情にほだされまくりの、自虐ネタ満載の、おまけにマザコン丸出しの歌詞(これが本音か?)。
ほかの役者が歌っていれば、”なに甘えてんじゃあワレ”と逆切れしたくなる内容だが、高倉健だから許された。

池袋文芸坐のマキノ雅弘特集でのこと。
「侠骨一代」(67年)のラストの殴り込みシーン。
背中を切り付けられた健さんの着流しから、汗にまみれた入れ墨が現れる。
殴り込みが終って、荒い呼吸の中、右手から離れないドスを自らの左手で振りほどく。
高倉健の凄絶な迫力と色気。
映画が終って場内が明るくなる中、椅子から立ち上がれない女性客がいた。
マキノ演出も見事だったが、高倉健の類まれなるスター性に観客は魅了された。

シリーズ第1作からの監督佐伯清は、伊丹万作に師事した戦前からの職人派。
ヤクザ礼賛などに同調するはずもないが、このシリーズでは、ココロ入らぬ様式だけの作画がかえって受けたのか。
その虚構の再現ぶりは監督とヤクザの距離感を表すとともに、高倉健という虚構の異様ぶりも際立たせ、映画という”仮初の刹那”を求める観客を引き付けたのだった。

オリジナルポスターその2

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映より 任侠映画のヒロインたち ⑤ 工藤明子

工藤明子

1944年生まれ。
劇団を経て71年に東映と専属契約。
72年まで、主に鶴田浩二主演の任侠映画の相手役として、東映作品14本に出演する。
本編「札付つき博徒」は、東映4本目の出演。
若き大型美人女優として重要なわき役を務める。

70年前後の東映映画の女優陣は、佐久間良子、三田佳子などかつてのホープはすでに去り、『不良性感度』の高い作品が製作された。
人気企画、任侠映画にあっては、緋牡丹博徒シリーズで主役を務める藤純子を別格として、時代劇全盛時代からのキャリアを誇る桜町弘子、宮園純子などのほか、浜木綿子、松尾嘉代などが、男優たちの相手役を務めていた。

やがて頼みの藤純子も映画界を去り、後に日活からやってきた梶芽衣子が「さそり」シリーズで狂い咲くまで、東映映画にヒロインらしいヒロインは不在だった(スケバンシリーズなどでの池玲子、杉本美樹を除く)。

工藤明子

この間、東映でも新人女優発掘の試みは続けられ、多岐川裕美や中村英子、中島ゆたか等有望株がデヴューはしていった。
工藤明子も東映が発掘した自前の女優の一人であり、その大型の美貌は、朝ドラ女優(74年 「鳩子の海」)の藤田美保子にも、後輩の中島ゆたかにも似た華のあるものだった。
70年代の「キネマ旬報」では、工藤明子の名前が散見され、一部のファンに支持されたもいたことがうかがえた。
東映らしい、水商売的なテイストの薄幸型美人女優で、東映を離れた後はテレビの時代劇やアクションもので活躍した。

今では忘れられたヒロインともいえる工藤明子の出演作に駆け付けた。


「札つき博徒」  1970年  小沢茂弘監督  東映京都  ラピュタ阿佐ヶ谷・35ミリ上映

鶴田浩二主演の東映京都作品、監督小沢茂弘。
このメンツを見て、どんな旧態依然とした任侠映画を見せられるのだろう?と、昔、浅草名画座で見た同じメンツの作品「三池監獄 凶悪犯」(73年)を思い出しながら、期待せずに開映を待った。
始まった映画は、意表を突く素早いカッテイングのテンポの速い展開と意外な登場人物のキャラクターとその配役だった。

意外な配役とは。
すでに御大的存在だった鶴田に謙虚なムショ帰り役を割り当てる。
それに絡むのが万年悪役の小池朝雄で、珍しく根が正直な曲者役、その連れに山本麟一。
戦前の北九州戸畑の祇園山笠前夜が舞台という時代設定も、現実感皆無な大時代的なものでいい。

オリジナルポスター。左に工藤明子の女賭博師

鶴田に合わせたかのように、セミ大御所の大木実に盲目の堅気を演じさせる。
その連れ合いの桜町弘子は終盤までセリフがない役で、持ち前の勝気な姐さんぶりが封印されている。
待田京介までが弱気な堅気役だ。

旧態依然とした配役と、ワンパターンな勧善懲悪劇を良くも悪くも期待していた、鶴田=小沢コンビが、見事に予定調和を外して始まったこの映画。
主役は祇園山笠の祭そのもので、祭りを運営する堅気衆が前面にフィーチャーされた構成なのだった。
ときどき東映で企画される、ハンデイキャップを背負った集団や個人が悪に対峙するという変則パターンのやくざものの一種なのだ(脚本:笠原和夫)。

いつもは、墨を背負ってドスを利かせる連中(大木、待田、小池、山本ら)が、一歩引いて悪役やくざの恫喝のを前に、右往左往する堅気衆を演じるという新鮮味ある筋立て。
待望の工藤明子は身寄りのない女壺振り師として登場する。

一場面。後姿が工藤明子

素人離れしたクールな美貌にキレのある啖呵。
殺陣のシーンでの動きもいい。
工藤明子の魅力が炸裂する。

藤純子の緋牡丹博徒と異なり、凄惨な殺陣演出の後、傷を負い、やられてゆくのもいい。
耐え忍ぶ設定から、正義感に駆られての殴り込み、そしてやられるまで、鶴田のお株を奪う出来だったのではないか。
惜しむらくは、藤純子や江波京子らの二番煎じ、メインストーリーである主人公らのうっぷん晴らしに花を添えるための補助的役柄だが、魅力は十分発揮した。

堅気衆側の唯一の暴力装置であるムショ帰りの鶴田浩二も死んでゆく。

ヤクザは死に絶え、堅気衆が残って祇園山座差は無事挙行される。
ヤクザ礼賛に堕ちてはいないストーリー。
半端者で調子はいいが、良心は失わなかった小池朝雄も生き残った、珍しく。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映より 任侠映画のヒロインたち ④ 野川由美子

野川由美子

1944年京都生まれ。
高校生の時に、ミス着物コンクール準ミスに選ばれて念願の女優デヴュー。
代表作は「肉体の門」(64年)、「春婦伝」(65年)、「河内カルメン」(66年)といずれも日活での鈴木清順演出作品。
筆者が未見なのは不徳の致す限り。

野川由美子

その後は、達者な演技力と親しみやすい関西弁で、テレビ・映画を問わず幅広く活躍。
「仁義なき戦い・完結編」(74年)、「北陸代理戦争」(77年)、「沖縄10年戦争」(78年)など東映実録路線にも、重要な役で登場した。
東映のやくざ映画では、若手女優ががむしゃらに主人公たちにむしゃぶりつく演技が印象に残るが、野川由美子の場合はその個性が突出しており、実録映画の混濁に、良くも悪くも飲み込まれることはなかった。

彼女が日活時代に、清順映画のヒロインを務めていた頃の作品では、東映の「四畳半物語・娼婦しの」(66年 成沢昌成監督)を見たことがある。
東映の若手女優のホープ(の一人)だった三田佳子が娼婦役に取り組んだ作品で、時代背景の再現的にも演技的にも情感のこもったものだったが、コケテイッシュな”泥棒猫のような”野川の演技が印象的だった(この作品は、小林千登勢の性悪演技も忘れられない)。

本作は、野川が東映任侠映画のヒロインとして出演したものである。


「現代やくざ 盃返します」  1971年  佐伯清監督  東映東京  ラピュタ阿佐ヶ谷・35ミリ上映

東映東京撮影所で製作された、69年に始まる「現代やくざ」と銘打たれたシリーズの3作目。
シリーズ作品につながりはないが、菅原文太が主演を務めている。

いわゆる任侠映画の衰退を受け、時代設定をリアルタイムとし、登場人物を高倉健や鶴田浩二、藤純子といった完全無欠のヒーローとはせず、やくざ者の悲しみや不条理を背景としている。

新東宝で『ハンサムタワー』なる美男スター3人組の一人として売り出され、松竹を経て東映に移った菅原文太。
松竹では、半端なやくざ者が役どころで、「夜の片鱗」(64年 中村登監督)では喧嘩で股間を蹴られて寝込んだ末に死んでゆくチンピラを演じており、そのしみったれぶりが印象的だったが、俳優として開花するまでのことはなかった。

東映が任侠映画の非人間的なヒーロー像を描き続けた末に観客に飽きられ、やくざ者の哀れさ、人間味を描き始めたことは文太にとってチャンスだった。
70年前後の世相の中、人間の弱みを見せながら親分子分の軋轢に悩む主人公を描いた「現代やくざ」シリーズは、最終作「人斬り与太」(72年 深作欣二監督)で、最初から組織内のしがらみに頓着せず、無茶苦茶に暴れまくって孤立・自滅してゆくやくざ者を描き、続いての「人斬り与太・狂犬三兄弟」(72年 深作欣二監督)とともに、「仁義なき戦い」で爆発する実録やくざ映画への序章となった。

オリジナルポスター

本作「盃返します」は戦前に伊丹万作監督に弟子入りした正統派・佐伯清監督の手になる作品で、大阪万博の利権を争う”現代やくざ”の渡世を、その最底辺で体を張らざるを得ない人間の悲しみをきっちり描いている。
監督の主題は、鉄砲玉となり都合よく使い潰されてゆくやくざ者(菅原文太)の弱さ、哀れさであり、彼の幼馴染(野川由美子)との淡いつながりとその自滅である。

幼いころから文太を見守り、堅気になることを願ってきて、場末で小料理屋を営む野川由美子。
若さが一段落し、芸達者とともに落ち着いた情感が出てきた野川の持ち味を十分生かした演出。
精神的に未熟で、さんざん野川の金銭的、精神的援助を受けながらうじうじ悩む文太は、松竹時代からの持ち味。
観客の同情は誘っても憧憬とはならない主人公像だ。

プレスシート

ラストの殴り込み。
同行を願い出る助っ人をパンチで倒し、単身殴りこんでゆく文太の姿がのちの実録やくざへとつながってゆく。

野川との約束を果たせず、堅気とならぬまま死んだ文太の骨箱を抱えた野川が故郷のバス停に降り立つ。
野川のような女性ならこの後も逞しく生きてゆくだろうという余韻を残しつつ。

東京ローカル路線バスの旅・リターンズ 調布~新宿の巻

数年前の本ブログで紹介した路線バスの旅・調布→新宿コース。
京王線に沿ってのルートが、桜上水でストップしたのが前回でした。
今回は、三鷹周りの中央線沿いのルートでのリベンジです。
さて首尾はいかに。

調布市内の自宅付近の停留所から三鷹駅行きの小田急バスに乗ります。
午後の出発ですが、事態をナメたわけではありません。
うまくいくのなら、短時間で勝負がつくはずです。

最寄りのバス停から旅の開始
三鷹駅行きに乗車

三鷹について早くも壁にぶち当たりました。
南口からは主に調布、府中方面にバスが出ています。
ならばと北口に行くと、そこからは西武新宿線の柳沢、東伏見など、また中央線の武蔵境周辺へのルートばかりなのです。
早くも脱落か?
そこで見つけたのがコミュニテイバスによる吉祥寺へのルート。
これしかありません。
発車までの20分で腹ごしらえです。

三鷹には総武線も止まる
駅の立そばをかっ込む
三鷹駅北口からコミュニテイバスに乗車

コミュニテイバスはアットホームなムードの中、井之頭公園に沿って東上し、吉祥寺駅北口に着きます。
さあここからは?
偶然、中野行きの関東バスが目に入りました。
距離を稼げそうです、発車間際に駆け込みます。

吉祥寺駅前

満員の関東バスは五日市街道をひたすら東上します。
環状8号線を横切り、徐々に住宅街から商店街の雰囲気に代わってゆく街並みを進んでゆきます。
五日市街道は青梅街道に合流しました。
40分ほども走り、環状7号線を横切ります。

広い青梅街道の停留所を眺めていると、都営バスの新宿行の表示が目に入りました。
慌てて下車です。
青梅街道で新宿行きに乗り継げそうです。

青梅街道の都営バス停留所
都営バス新宿行きに乗車

やってきた都営バス新宿西口行は、広い青梅街道をビュンビュン飛ばします。
鍋屋横丁、中野坂上、山手通りと過ぎ、やがて都心の高層ビル街が目に入ってきます。
生活圏から通勤圏への転換です。

新宿に到着
新宿駅西口

夕方前には新宿に到着、本日の目標を達成です。

2月の山小舎で雪遊び

2月下旬の三連休は山小舎に集合です。
ジジ・ババは前のリ、孫たちは1日遅れて山小舎に集合しました。

雪合戦

目的は孫たちの雪遊びです。
着いたその日は夕方から山小舎周辺で遊んで今した。

張り切って雪玉を投げる

翌日はブランシュ鷹山スキー場へ行っていました。
リフトに乗って一番上から降りてきたそうです。
子供の上達が早いのには驚かされます。

朝ごはんを食べる

今年の2月は雪が結構残っていました。
寒さは真冬のそれからはかなり薄まっていました。

2月の高幡不動

節分の後の高幡不動へ行ってきました。
京王線沿いにありながら行ったことがなく、多摩動物公園への乗り換えで駅を利用したことがあるだけでした。

駅舎内の立食い蕎麦

特急が停まる近代的な高幡不動駅に降り立ちます。
最近の例にもれず、駅ビル化した立派な駅舎です。

駅前に立つと高幡不動への参道を示す鳥居が目に入ります。

参道の入り口

短めの参道をたどります。
平日とはいえ、三々五々の参拝客がいます。
大規模な神社仏閣につきものの観光客のようです。
インバウンドは目立ちませんでした。

参道の店のシャッターには近藤勇のイラストが

山門を抜けると広い境内が待っています。
線香の煙を浴びて早速の御参りです。

見渡すと、宝物館のあるお堂や、由緒ある人物を祀った社が境内に点在しています。
五重塔もあります。
神仏分離と廃仏毀釈の時代を乗り切った、三多摩有数の仏閣ともいうべき施設のようです。

豆まきをしたタレントの名が記された鳥居
山門
山門を潜った先の境内風景

宝物館には、高幡不動と地域の歴史のほかに、近世の土方歳三に関する資料が展示されていて見ごたえがありました。

宝物館があるお堂
五重塔
境内の弘法大師を祀るお堂

地元日野市の英雄である土方については、銅像も建っておりました。

土方歳三像

天気に恵まれた高幡不動尊の御参りでした。

家内安全のお札をもらう

夏ミカンで作るマーマレード

山小舎おばさんが夏ミカンをもらってきました。
付き合いのある農家から数十個ももらったそうです。
その農家も処分に困ったのでしょう。

食べると、酸っぱいですがフレッシュな夏ミカン。
柑橘類が冬採れるのも関東ならではの恵みなのですが。

皮をむいてゆでる

そこで夏ミカンをマーマレードに加工してみました。
使ったのは5個です。

ネットで作り方を調べたり、経験者にコツを聞いてみると、『苦みを抑えるために、皮の内側の白いワタを丁寧に取るのがポイント』といわれました。
その前に皮のあく抜きを十分に行う必要もありそうです。

実の入った房を取り分ける

手間がかかりそうですが加工開始です。
先ずは夏ミカンの皮をむいてゆきます。
内側のワタはついたまま、皮を茹でて行きます。

30分くらい煮て柔らかくなった皮の内側をスプーンでこそげて、ワタを取り去ります。
ワタを取った皮は千切りにしてグラニュー糖をまぶします。

ゆであがった川の内側をこそげ取る

実は袋から出して、種を取り、皮とともに鍋に入れて火にかけます。
アクを取りながらしばらく煮込み、とろみが出てきたら完成です。

皮を千切りに
川にグラニュー糖をまぶす

若干の苦みと柑橘類の香り、何より採れたばかりのフレッシュさが香る手作りマーマレードができました。
ジャムの代わりに、また肉料理の味付けに使おうと思います。
スペアリブのつけダレにマーマレードを使うと絶品です。

実とともに煮詰める

まだまだ夏ミカンは残っています・・・。

煮沸した瓶に詰め、抜気して出来上がり

神保町シアター『俳優・佐田啓二』特集より「日本の悲劇」

久しぶりに神保町シアターに行った。
午前10時50分に着くと入場待ちの高齢者たちが並んでいた。
さすが東京、さすが都心の映画館である、文化度が高い!(暇な高齢者が多いのか?)。

この日の神保町シアター入口

この日は、「生誕100年 俳優・佐田啓二」特集の最終日。
木下恵介監督の「日本の悲劇」の上映日である。

木下恵介の映画は、見るたびに驚かされる。
その作品からは、先ずは技法の斬新さが目につくが、ついで、女性映画的な雰囲気の中に、人間の心、運命のいたずらを、残酷なまでに突き放す視点を感じるのだ。

特集チラシ

松竹大船調と呼ばれる作品群を作り上げてきた、邦画メジャーの撮影所にあって、その本流を担いながらも異色・独自の作品群を輩出した木下恵介の、辛口の異色作といわれる「日本の悲劇」を見ることができた。

「日本の悲劇」  1953年  木下恵介監督  松竹  神保町シアター(35ミリ上映)

暗い画面が続く。
年齢から目の解析度が落ちたのかと思っていたら、木下恵介の画面作りが、”レフをかけずにわざと汚くして撮る”方法をとったためだった。

暗い画面での長回し撮影が続く。
例えば、宿屋の厨房をフルサイズで、移動撮影を交えつつ、延々とワンショットで撮る場面があるが、そこには主要登場人物を紹介する狙いとともに、彼等を突き放し、彼等が行き来する空間を醒めた目で見ている、木下恵介の視点が感じられる。

特集チラシの解説より

望月優子扮する戦争未亡人が、子供二人を抱え、地べたをはいずり回るようにして戦後を生きてゆくストーリー。

闇米の買出し時の、警察による狩りこみの記憶がフラッシュバックする。
買出しの汽車で知り合った景気のいい闇屋の男に誘惑され、その囲い者となったこともあった。
旅館の仲居として住み込みで勤め始めてからは、酔客たちの宴席にはべり、彼等と湯河原・東京間の列車に同席しては機嫌を取る日々。
小金をためたころに調子よく近づいてくる株屋の口車に乗せられ有り金をはたく・・・。
逞しくも、はしたなく、目先のことに一喜一憂して、社会の底辺を金銭のみを唯一の価値判断材料として生きてゆく主人公。
すべては子供らのため、と自分に言い聞かせながら・・・。

そういう母親を見て育った肝心の子供たちはどうなったか。
客にしなだれかかる母親を見て子供たちは自らの尊厳を傷つけられる気持ちになる。
息子は、母からの離脱を決め、猛勉強のすえ東京の医学生となり、金持ちの医者の養子となることを決める。
娘は、下宿してミシンと英会話を習い、自活を目指すが、自分と同根の女としての母との心理的葛藤に悩み、また従兄に犯された故の男全般に対する復讐心から、近づいてきた好きでもない英語講師の中年男との関係をもてあそぶようになる。

宴席で親父の隣にはべる望月優子

田中絹代がオファーを断ったという母親役を、望月優子が持ち前のバイタリテイに満ちた演技力でこなしてゆく。
闇物資を抱え田舎道を逃げる回想シーンが度々、現実の場面にカットバックされる。
子供らの幼少時代の、子供心を傷つけられるような数々の場面も。

用事がある時だけ湯河原に帰ってくる、成績優秀な学生に育った息子にしなだれかかって甘えて、嫌がられる。
帰京する息子を駅に送りに行くが、逃げられて会えない。
戦死した夫が残した土地と酒屋の権利を義弟に貸して資産活用しようとするが、自分の子供たちはいじめられ(のちに娘は義弟の息子に犯され)、かつ居座られる。
母親の苦悩は続く。

戦後の混乱期に闇買いをしたり、焼け野原でバラック生活した日本人は、普通にいたでしょう。
が、一般的な日本女性なら、闇買い人や小金持ちの囲い者になったり、仕事とはいえ酔客にしなだれかかるような仲居にはまずならなかったでしょう。
そんなことができるのは、プロの素質を持つごく少数の女性であり、平時にあっても機会があればそうしていたでしょうし。

戦後の日本の混乱をを描くのであれば、主人公は望月優子が演じた母のような極端なキャラではなく、平凡なつつましい女性を通して描く方が、むしろ戦後の混乱の異様さがリアルに映ったことでしょう。
木下恵介がこの映画で描きたかったのは、戦後の混乱そのものでも、翻弄される人間の悲惨さそのものでもなく、逆境にあって露わになる人間の本質と、その末路であったものと思われます。

息子に甘えるが拒否される母親

この作品の母親の本質は、最後まで物質的な価値観に固執する近視眼的な人格であり、それに接し子供たちは自らの尊厳をも傷つけられ、社会をではなく母を憎んで見限る。
母を捨てた息子はまた、必要以上に女としての母を嫌悪する。
息子はその後、金持ちの養子になり、母の呪縛からは脱するが、さりとて彼の人生も、社会的・経済的地位と利益に呪縛されたもので(その意味で母親の価値観を踏襲しており)、その将来の明るい展望の予感はない。

娘は女としてさらに複雑な人生を歩むことになる。
下宿して母の元を離れ、ミシンで身をたてるといいながら英会話を習い(下宿代を含めて母親に頼りながら)、挙句に、英語講師の中年男(上原謙)とその家庭をもてあそび、好きでもないその男と衝動的に出奔してゆく。
相当な尺を取って娘(桂木洋子)の、この救いのないシチュエーションが語られる。
男全般に対する嫌悪があり、人生に悲観的な境遇とはいえ、どこに彼女に対する人生の祝福があるのだろう。

子供二人はしっかりと母親の本質的な不幸を継承しているのである。

姉(桂木洋子)は冷たく母と弟を見据える

こういった作品にあって、望月優子がたまさか宴席に呼ぶのが流しの演歌歌手(佐田啓二)であり、彼もまた望月には心を開き、復員した長男のいる農家の次男坊だという自分の境遇を打ち明ける。

もう一人、小学校の級長だったという旅館の板前(高橋貞二)は、父親の戦死で進学をあきらめ板前の道に入ったが、口うるさいうえに女に手を出し失敗する。
望月は何かとこの男にも気をかける。

望月の死後、この二人は『いい人だった』と彼女を悼む。
ここにだけ、人間としての尊厳を踏みにじられ、女としての性を酔客たちに弄ばれ、息子には嫌悪された、この作品の母親という人間に対する救いがある。

石原郁子の気鋭の評論

女流映画評論家石原郁子による「異才の人木下恵介 弱い男たちの美しさを中心に」(1999年 株式会社パンドラ刊)を読んでみる。
著者は、木下映画のおける男性とその母親の関係を、『〈母〉は限りなく甘美に優しく(中略)無垢の愛としてこの世ならぬ高みに達し、ほとんど信仰の対象だった』(同書P181)と定義する。

また「日本の悲劇」では、母親が過剰な女性性を発するとき、息子はすさまじい嫌悪を示し絶望に凝り固まるのであるが、同様の描写は木下作品に基調をなす母と息子の関係性でもある、と著者は論じている。

木下恵介の実母に対する思い入れが、生涯の傾向となったようである。

同書目次

また、同書では、娘の出奔についてはも述べる。
『母を捨てるという痛ましい形でしか、自立した大人になることができない』(P187)と。

著者は、彼女の行動に理解とエールを示すとともに、彼女と半端な中年男との”被害者同志”の結合という”ひ弱な優しさ”を描く木下恵介の、娘に対する同情的な視線を評価している。

「日本の悲劇」に限らず、木下恵介の映画全般には、マザコンで弱々しい男と、傷つきながらも自立を目指す女が描かれている、と石原郁子は論じている。

同奥付

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映より 任侠映画のヒロインたち ③ 本間千代子

筆者と本間千代子とのスクリーンでの出会いは、過年のラピュタ阿佐ヶ谷での「君たちがいて僕がいる」(64年 野田幸男監督)だった。
何の特集だったかは忘れたが、舟木一夫の同名歌謡曲の映画化で、本間千代子は相手役。
地方の町の高校生たちが、家庭の貧困や進学の悩みを友情で乗り越えるという内容だった。

この映画で本間は、舟木と同級生の役。
町の名士である父親の元、クラスのリーダー役として明るく振舞うその制服姿がまぶしかった。
このころは、岡崎友紀や岡田可愛など、ハイテーンの溌溂ぶりが炸裂するテレビドラマに出演する女優がいたが、本間千代子はその中でも日本的で清純な印象があった。

制服姿の本間千代子。舟木一夫とともに

本間千代子は童謡歌手の出身で、東映撮影所に出入りするうちにスカウトされて契約。
ギャング物などの助演をこなしつつ、歌手としても活躍し人気を博した。
東映は、いわゆる不良性感度の高い映画製作を方針としており、佐久間良子が数少ないチャンスを生かした例(「五番町夕霧楼」など)を除き女優が主演の映画は製作されなかった。
歌手としても人気を誇り、また本人の意向もあり、不良性感度の高い映画を好まない本間は、代表作がないまま、日本映画の時流に取り残されていった。

本間の映画出演最後となる本作「やくざ非情史 刑務所兄弟」では、果たして吹っ切れたその姿が見られるのか?
それとも殻を破らない昔の儘の姿なのか?
ラピュタに駆け付けた。

東映若手女優の水木撮影会より。本間の2人後ろは三田佳子

「やくざ非情史 刑務所兄弟」  1969年  松尾昭典監督  日活  ラピュタ阿佐ヶ谷(35ミリ上映)

安藤昇が日活で出演した3本のうちの1本。
相変わらず冷たい凄味のある風体。
人情味とユーモアを持ち合わせているところも、その持ち味だ。

傍役は、善玉が長門裕之、川地民夫、大坂志郎ら。
悪役陣が、ご存じ安部徹、玉川伊佐男らで、そのほかにフリーの美味しい役どころのに丹波哲郎。

対立組との抗争事件で下獄した安藤が出獄して、組の再興に駆けずり回るが、安部徹扮する対立組は全国制覇の組織の威光を着て利権掌握を図り、ことあるごとに妨害する。
孤立奮闘する安藤にはムショ仲間の川地が片腕として助力するが各個撃破されてゆく。
そこへ全国制覇の組織の代貸として丹波哲郎が現れる。
丹波もまた安藤とはムショ仲間だった・・・。

オリジナルポスター

リアルなやくざが撮影所に出入りする東映京都と異なり、日活が製作するやくざ映画は、それらしい俳優に乏しく、細部のリアリテイもない。
東映映画では得意げに描写される花札賭博のシーンは、この作品では最初から描かれないし、東映大部屋のピラニア軍団のような連中が関西弁ですごむシーンもない。
東映に比べて”堅気の役者で作ったやくざ映画”という趣である。
ただ一人、”ホンモノ”安藤昇を除いては。

安藤の妹役で、ムショ暮らしの間、スナック喫茶をやっていたまっとうな娘が本間千代子の役。
”怖い”兄貴の威光からか、その留守中も無事過ごしてきた。
すなわち、非情なやくざ社会の犠牲になり、酒やクスリに手を出すこともなく、ヒモに貢ぐこともなく、ましてや女を抱えたやり手婆的なポジションにいることもないまま過ごしていた。
その存在感は、かすかに現実社会の苦労がにじむ”幸薄い”感は匂ったものの、裏街道の人間特有の”玄人感”に染まることのない、まったくの堅気のものだった。

例えば、彼女を巡るシチュエーションが『まじめに店を守ろうとしたが、流れ者に犯され、女の悲しみからその男と切れずにいる。一方で、その男が敵対組に囲われ、出所してきた兄が、かわいい妹とその男の関係に苦悩する』といった、ありがちな筋立てならどうだろう。
”女の悲しみと、義理だての間で悩み、愛する兄に歯向かう”という、ノワール的な役柄ならば、この時期の本間千代子の演技に、色合いが感じられたかもしれない。
逆に彼女の良さが打ち消されたかもしれない。
そこで決して冒険しないのが本間千代子という女優なのだった。

愛する兄貴(安藤昇)と本間千代子

本間に好意を寄せていた川地が敵対組に殺された時の悲しみの表現が、本間のこの映画での数少ない見せ場だった。

本間千代子24歳、守屋博との結婚と離婚を経てなお、スマートな体躯から発する清新な色気は”スター”のものだったが。

2月の東京 雪が降る

寒い日が続いた2月の東京です。
朝起きて、ガスストーブをつけるときの室内の温度は、低い時で6度から8度です。
外には、霜が降り、氷さえ張っています。

節分の前後、東京に雪予報が出ました。
いつもの大げさな天気予報かとバカにしていました。
朝起きてみるとものの見事に雪景色でした。

毎年1度や2度は訪れる東京の雪です。
今回の降雪は割と本格的かもしれません。

路面は凍っていないので、自転車で外出もできるのが雪国との違いです。
が、そのぶん体にかかった雪は雨のようにジャンパーを濡らします。

孫に電話して、近くのグラウンドで雪だるまを作らないかといいましたが、用事があるといって断られました。