DVD名画劇場 ”赤狩り”20年後の復活 エイブラハム・ポロンスキー

50年代初頭の”ハリウッド赤狩り”で映画界から追放され、69年となった”20年後”にハリウッドに復活したエイブラハム・ポロンスキーの監督作品「夕陽に向かって走れ」を見た。
そこには20年たっても変わらぬポロンスキー生涯のテーマがあった。

脚本家でデヴューしたポロンスキーは、40年代に「ボデイ・アンド・ソウル」(47年 ロバート・ロッセン監督)で、ボクシング界の裏面を告発した後、自身の監督第一作「悪の力」(48年)を発表。
ニューヨークのユダヤ人社会にはびこる非合法ギャンブルの世界で、まかり通る不正義を描いた。

この2作品とも、底辺からの目線で社会の不合理を冷徹なタッチで暴いたものだった。
そこに通底するのは、ポロンスキー独特の『正義』への信奉(というか追及)だった。
それは『青臭い』ほど純粋なものだった。

ハリウッドに吹き荒れた赤狩りは、アメリカ共産党員もしくはシンパとして告発された19人を対象とした第一次の非米活動委員会での証人喚問を経て10人の有罪者を収監したが、51年に第二回の公聴会が開かれた。
ポロンスキーはこの第二次喚問に召喚され、非米活動委員会の非を証言し、ブラックリスト入りした。

左翼がかった知的なユダヤ人移民(の子弟)という典型的な”赤狩りの犠牲者”像がポロンスキーの持つ属性だった。
ポロンスキーはハリウッドを離れ、ニューヨークでラジオやテレビの脚本の仕事をして糊口をしのいだ。

20年後、ハリウッドで映画化された「刑事マデイガン」(69年 ドン・シーゲル監督)の脚色をしたのがきっかけで、 製作者のフィリップ・A・ワクスマンから「夕陽に向かって走れ」の監督オファーを受けた。
赤狩りでブラックリストに載ったり、ハリウッドを離れたりしていたドナルド・トランボなどの脚本家、監督が実名で仕事を始めるようになったころだった。
出来上がった作品は、20年前のポロンスキーそのままの、生々しく、初々しく、痛みを感じるタッチの”青春映画”だった。

「夕陽に向かって走れ」演出中のポロンスキー




「夕陽に向かって走れ」  1968年  エイブラハム・ポロンスキー監督   ユニバーサル

舞台は1909年の西部の町。
インデイアン居留地が近くにある。
『インデイアン狩り』の名人だった父を持つ保安官クーパー(ロバート・レッドフォード)と医者で人類学者のオールドミス、アーノルド博士(スーザン・クラーク)がいる。

インデイアン目当ての密造酒の潜り販売が出入りする20世紀初頭の西部。
そこでは、かつてのインデアンと武力で制圧する開拓時代を終え、合衆国の一員としての体制を整えつつあった。
その町へ、出獄したインデイアンの青年・ウイル(ロバート・ブレイク)が帰ってくる。
居留地の恋人ローラ(キャサリン・ロス)との結婚をその父親に許してもらうために。

黒髪で顔を半分隠し、粗末なワンピース姿で居留地を駆けるキャサリン・ロスが登場。
インデイアン娘というより、ジャン・ルノワールのハリウッド第一作「スワンプ・ウオーター」(41年)で、粗末なワンピースに裸足で画面を駆けていた新人時代のアン・バクスターの初々しい姿を思い出す。

ローラ役のキャサリン・ロス

インデイアン達とは生まれながらの知り合いで、地元の地理と自然は知り抜いている、腕利きだが、独断専行で町の権力者には全くおもねない保安官のクーパーは、オールドミス・アーノルドとは寝る関係。
インテリのアーノルド女史は、クーパーの野性味と男くささには体が参っており、その現実が自分ながらに許せない心理も働く。
そのココロは、自然児クーパーの実はやさしく、『正義』を貫く姿にホレているからなのだろう。
女史は、ウイルとローラの件で最後までクーパーの側で顛末を見届ける。

ウイルはローラを連れて逃げる。
結婚に反対するローラの親父を間違って撃ち殺したからだ。
地理を知り尽くしたインデイアンのウイルは、追手を巻くようにコースを避け、馬ではなく徒歩で逃げる。
ローラはヘトヘトになりながら、砂にまみれ、沼に飛び込みながらウイルについてゆく。
ロバート・ブレイク扮するウイルの運動神経は抜群だ。

追手のクーパーも地理とウイルの心理は知り抜いている。
じりじりと包囲網を狭める。
ウイルに追手を殺すつもりはなく、クーパーにもウイルを殺すつもりはない。

野卑なクーパーだが、インデイアンに対する公正な姿勢がたびたび描かれる。
ビリヤード場でウイルを侮辱した白人がウイリーに殴られてクーパーに訴えても白人に冷淡だったり、インデイアン相手の密造酒売りなど摘発しても拘留する価値はないと追放するし、ウイルと幼馴染の白人青年が示すウイルへの同情に町長が反対してもウイルの幼馴染の白人青年を守ったりする。
それは単なる正義感からというよりは、大自然と歴史の一部たる先住民にリスペクトをもって遇するのが、この場所では合理的だからだ、という哲学が体に染みついているからだ。

ウイルとローラ

誤射で追手を殺したウイルは、弾丸を込めていないライフルを持ったまま、クーパーに撃たれる。
その前にローラは死んでいる、廃墟となった別の居留地で手に入れたウエデイングドレスを着た姿で。
ウイルとの心中なのかどうかは説明されない。

クーパーは部下に、町に帰って棺おけを作って持ってくるように指示する。
ウエデイングドレス姿のローラを棺おけに納め、ウイルとともに火葬する。
死体のままで町に持ち帰ると『インデイアンの反乱の首謀者』としてさらされることがわかっているから。
クーパーにとっての『正義』はこうして執行される。
『この場所の歴史と自然と先住民は、現在そこに住む人間によって尊重されなければいけない』という正義が。

ポロンスキー映画のこの作品における『正義の執行者』はレッドフォード扮する保安官だった。
その補佐役がアーノルド女史だった。
芸達者のスーザン・クラークが演じたアーノルド女史はともかく、青春スターの残滓を引きずるロバート・レッドフォードのクーパー保安官の出来は50点。

赤狩り時代を経てヴァージョンアップしたポロンスキー映画の『正義執行者』は、「ボデイ・アンド・ソウル」や「悪の力」の時よりも、より屈折して、より現実的で、何より腕利きでなければならなく、それを体現した人物というのはとてつもなく渋く、汚れてはいるが、真の優しさを持った人物でなければならない。
青春スターの影を引きずるレッドフォードでは役不足(役足らず?)だ、がんばってはいたが。

クーパー保安官と追手

ドラマ作家としてのポロンスキーの腕は確か。
息もつかずにストーリーを引っ張ってゆく。
スリルもささやかなカタルシスもしっかりとある。

70年前後のニューシネマ風の味付けもある抒情的なカメラもいい。
一途な若いカップルが、一途故にまっしぐらに突っ込んでゆく、破滅的なエンデイングに、悲観的でもなく、突き放すでもなく、ヒロイズムに色づけするでもなく、とことん付き合っていた。