おじさんの自転車散歩VOL.4 練馬区大泉と東映撮影所

今日はおじさん通院の日。
高血圧の薬をもらいに西東京市の病院へ。
いつもはバスを乗り換えてゆくのだが、今日は自転車で行きました。

西東京市は九保谷市と旧田無市が合併した町。
おじさんは自宅から北上。三鷹を超え、武蔵野を抜けてゆきました。
帰りに練馬区大泉によって東映撮影所を見てきました。

東映撮影所は大泉の東映通り沿いにありました

夢の工場といわれた映画撮影所。
ハリウッドほどとは言わぬまでも、それなりの華やかさを期待して訪れたいものですが、斬新ににデコレーションされた外見を持つ東宝以外は見事に期待を外されます。
東映の撮影所も外見は工場か倉庫のようです。

ここは練馬区大泉。
東映映画の主力であった、時代劇ややくざ映画の多くは、太秦撮影所こと東映京都撮影所で作られました。
ここ東京撮影所では現代劇が多く作られました。
古くは警視庁シリーズに始まり、不良番長シリーズ、女囚さそりシリーズなどが作られました。
テレビの戦隊ヒーローものなどもここで撮影されたのです。

おじさんが訪れた際の大映や日活の撮影所の入り口同様、東映の撮影所入り口は、何の緊張感もなく活気も感じられませんでした。まあそんなもんでしょうけど。

撮影所敷地に建つショッピングセンターで昼食

撮影所の敷地を一部削り、ショッピングセンターが建っています。
昼食を兼ねて見学しました。シネコン方式の映画館や食べ物屋さんを有する棟がひとつ。
東映通りを挟んで、もう1棟。
こちらには西友ストアやユニクロ、書店、食堂などが入っています。

入ってびっくり。
平日の2時過ぎとはいえ、がらんとした店内。西友ストア独特の場末感を伴った人気のなさはここが都内とは思えないほど。
レストラン街は2店舗分が閉店して空きスペースとなっており、奥のゲーム機コーナーの退廃感と相まってとてつもない寂寥感を醸し出しています。
建物全体の作りも若干時代遅れな感じで、今どきは田舎にも、もっとしゃれたモールがあると思うのは、山小舎おじさんだけでしょうか?

映画撮影所の衰退に時代を感じていましたが、足元の商業施設にも陰りが及んでいるとは思いませんでした。

これは日本全体の衰退を意味するのか、それとも大泉と西武資本に限定したローカルな現象なのか?
やはり東映はやくざで退廃的な場末感を呼び込んでしまうのでしょうか?
疑問をかみしめながら京風ラーメンセットを食べました。
税込み755円。

品目を増やし体裁を整え、値段を相応に上げながら内実に乏しい、アベノミクスの味?がしました。

おじさんの自転車散歩VOL.3 武蔵溝ノ口で大山街道の歴史を学ぶ

おじさんの東京近郊自転車散歩シリーズです。
今日は、東京都と神奈川県の間を流れる多摩川の神奈川県側の土手を自転車で散歩しました。

狛江より多摩川を渡って川崎市多摩区へ

おじさんは自宅から自転車で多摩川を渡りました。
多摩水道橋という橋です。
世田谷通りを三軒茶屋方面から下り、狛江市に入って、多摩川を渡る橋です。

橋の上から見る風景。
渡し船の名残や観光ボートなどが見えます。
背後に見える鉄橋は小田急線の鉄橋です。
河原と渡し船と私鉄の鉄橋。東京らしい風景です。

川の真ん中は、東京から神奈川県の県境です。

冬なので晴れた日には富士山も見えます。

川崎側の土手をゆきます。

土曜日なので三々五々、ジョギングする人と行き交います。

河原では少年野球の練習をやっています。

河口まで20キロとの表示がありました。

溝ノ口に到着。大山街道資料館で歴史を学ぶ

二子橋に到着しました。
神奈川側の武蔵溝ノ口と、東京川の二子玉川を結ぶ幹線道路にかかる橋です。

この道はかつて大山街道と呼ばれました。
大山街道は、江戸城と箱根を結ぶ街道で、江戸時代に現在の東海道が整備される以前には、江戸と関西方面を結ぶ幹線道路だったとのことです。
江戸時代以降も、丹沢山系の大山へ詣でる人々の参拝の道として栄えた吉。
現在の二子橋から溝口の間は、街道沿いの宿場だったそうです。

道沿いにある大山街道ふるさと館で歴史を学びます。

ちなみにこの町で生まれた有名人には、岡本太郎の実母で小説家の岡本かの子がいるとのことです。

館内においてある地元の情報誌「溝の口ウオーカー」も渋かったです。
表紙はOL時代に地元溝口で働いていたという、女芸人の大久保佳代子さん。

ディープな溝ノ口界隈をゆく

溝ノ口は今では人気のスポットです。
都心への距離が近く、タワーマンションが立ち並ぶ新興住宅地になっています。
一昔前は、東京のどん詰まり、二子玉川を渡った先にある川崎のディープなエリアでした。

今でも往時を偲ばせる一角が、JR南武線の線路わきに残っています。この一角の古本屋も、団子屋も、八百屋も、飲み屋も、おじさんが知っている20年前から残っているのがすごいと思います。昼食はその一角にある食堂で食べました。
ランチタイムのかつ丼450円。客層はビールと一緒に食事するおやじたちが中心でした。

帰りは、二子橋を渡ったルートで帰りました。

おじさんの自転車散歩VOL.2 大映、日活、東宝撮影所へ

おじさんの自宅から自転車での行動範囲内に、映画撮影所が3か所あります。
一般人は内には入れませんが、入り口だけでも見学に回ってみました。

大映撮影所の守衛さんは話し好きでした

調布市多摩川にある大映撮影所。
現在の名称は角川大映スタジオといいます。かつての大映株式会社は破産手続きにより法的に整理され、スタジオ、映画フィルムなどの資産は、徳間書店に譲渡されたのち、角川書店に譲渡されて現在に至っています。

貸しスタジオ状態となって久しい現在の撮影所の存在は、地元住民にとっても「都立調布南高校の隣の場所」くらいの認識なのかもしれません。

守衛さんがいたので声をかけてみました。外注の警備員ではなくて、スタジオの関係者のようです。

おじさん「もう、映画は撮ってませんか?」
守衛「いやいや。大映の作品は少ないですが、製作委員会方式でいろんな作品を撮ってますよ。」
おじさん「大映株式会社はもうなくなったんですか?」
守衛「もうありません。徳間時代を経て今は角川大映となりました。1800本の作品も含めて角川に譲渡されました。大映作品の上映は新宿の角川シネマなどで定期的にやってます。」
おじさん「フィルムはここで保管している?ネガは?」
守衛「昔は門脇にフィルム保管倉庫があって、定期的にフィルムのクリーニングもやりましたが、いまではフィルムセンターの相模原倉庫に預けているはずです。ネガはどうなんでしょうねえ?現像はいろんな会社に頼んでましたが」とのこと。

愛想のいい守衛さんで話題も豊富そうですが、来訪者が多いのでゆっくり話すわけにもいきませんでした。
フィルムが国立のフィルムセンターに保管されている?というのは初耳でした。

注)大映作品のプリントの貸し出し元がフィルムセンターというのは守衛さんの勘違い。
2004年から2008年にかけて、角川文化振興財団が、1600本の大映作品のプリントをクリーニングし、フィルムセンターに寄贈したことを言ったものと思われる。フィルムセンターが商業映画館にプリントを貸し出すことはあるが、通常の場合、上映用プリントの貸出元は、映画会社各社がプリントの保管、貸出業務を委託した倉庫運営会社であることが多い。例えばおじさんが都内の映画館に送られてきたプリントの入っているバックに貼ってある、宅配伝票を実見したところ、大映作品は江戸川区内の住所の倉庫より送られてきていた。

門脇のショップを見学しました。
ガメラと大魔神が会社の遺産としてフィーチャーされていました。

昭和30年代に建てられたというステージ2棟です。隣の高校のグランド越しに撮影。

日活撮影所では敷地内侵入で追い返される

続いて日活撮影所に向かいます。
大映から自転車で10分もかかりません。
多摩川沿いの道に沿った場所にあります。門構えは大映より大きく、構内も広そうです。
門のあたりを撮影して、守衛のいる受付に歩いてゆきました。外注の制服姿の守衛さんが顔を出し「どちらへ行かれます?」とのこと。
おじさんが「一般です。もう帰ります。写真撮ったらだめですか?」と答えると。
「敷地内です」との返事。

一般人は勝手に敷地に入ってはダメとのことなので踵を返しました。
大映と違い、撮影所人の雰囲気さえ感じられない、日活撮影所の入り口でした。かつての日活の映像遺産に対するフィーチャーは外部には全くありませんでした。
内部の食堂にはかつてのスターなどの手形が飾られているようですが。

狛江市役所で昼食のかつライス

ついでに東宝撮影所に行きました。
日活から自転車では30分ほどでしょうか。

昼時なので経路の途中にある、狛江市の市役所で昼食をとることにしました。
直営方式の社員食堂ではなくて、完全外注スタイルの食堂でした。
一般客が半分以上でしょうか。
650円のかつ定食にしました。
プラス100円でドリンクバー付きです。満腹。

ゴジラと七人の侍がお出迎え!東宝撮影所

狛江市から世田谷区に入り、東宝撮影所を目指します。世田谷区成城。世田谷通りから少し上ったところに東宝撮影所があります。
ゴジラと七人の侍がフィーチャーされています。
交通整理の警備員が常駐し、受付には女性職員の姿も見えます。
大映、日活に比して一番大規模で金もかかっています。仙川という川を挟んで建つステージ群も大規模です。
ここで、ゴジラも黒沢作品も若大将シリーズも作られたのです。
敷地の一部にホームセンターが建っているのが今は昔の風情です。

映画産業自体が60年ほど前に最盛期を過ぎました。
撮影所が残っているのは、設備と技能が代替の利かぬ専門的なものだったからと、残された幾多の作品の文化的にも大きい資産価値の故でしょう。

終戦直後の組合運動全盛期、ストを行った東宝撮影所労働組合に対し、当時のGHQが戦車まで繰り出してスト破りを行ったという伝説の東宝撮影所です。
70年を経て設備は近代化しましたが、映画をほとんど自社制作することもなく、技術職社員を抱えることも少なく、映画製作は今の時代は、斜陽産業を経て、無形文化財のレベルに後退しています。
撮影所も映画産業も、権力に弾圧されるほどの興隆を迎えることは二度とないでしょう。

よそよそしいまでの近代的な東宝撮影所のゲートを後に家路につきました。

このほかの都内の映画撮影所には、東映大泉撮影所があります。
無理すれば自転車でも行ける距離なので今度、行こうと思っています。

 

 

 

おじさんの自転車散歩VOL.1 下高井戸までたい焼きを買いに行く

東京は最高気温が10度以下の日が続きます。
東京では冬本番の気温ですが、北国の人には申し訳ないくらいの温かさです。
雪も降りません。
弊害があるとすれば乾燥と空っ風で風邪がはやるくらいでしょうか。
というわけで、おじさん、本日は自転車で甲州街道沿いに下高井戸まで行ってきました。

千歳烏山を超え旧甲州街道をゆく

おじさんの自宅から、国道20号線(甲州街道)に出ます。
住宅地を抜け、京王線の仙川という駅のエリアで20号線に出ます。
かつては、榮太郎飴の工場がありましたが今はマンションが建っています。向かいにはかつてキューピーの工場があり、調布市内の小学生は見学に行って、マスコットサイズのマヨネーズをもらって帰ってきていました。今は、キューピーのPR施設になっています。

分岐点で、20号線の旧道に入ってゆきます。

千歳烏山は、京王線の新宿、調布間では有数の駅で、準特急も止まります。
駅周辺の商店街はにぎやかです。
小売りの路面店がひしめき合っています。

烏山区民センターにはオウム反対ののぼりが今でもはためいています。

オウムが衆議院選に立候補した時、彼らが歌った「(麻原)ショウコウマーチ」を当時の小学生たちが得意そうに歌っていたのを、忘れていたのに、思い出してしまいます。事件の傷の大きさがうかがえます。

千歳烏山の隣の芦花公園駅前の商店街です。ここは前からこんなさびれた感じです。

アメリカ人が経営するアイバンラーメンという店があったところ。
3年前に撤退して、別の店が入っていました。アーケード街はほぼシャッター街となっています。

20号線旧道の沿道にはこういった古い建物が残っています。

環状八号線を超え、下高井戸へ

旧道が新道に合流し、20号線が1本となったあたりにで、環状八号線とクロスします。
東京を環状に走る道路の一番端っこが環状八号線で、東京の大動脈の一つです。いつも車両で混んでいます。
20号線との交差点では、陸橋となっています。

下高井戸駅です。
路面電車の東急世田谷線が連絡しています。
世田谷線は、20年前は木製の床でできた電車が残っていましたが、今ではすっかり新しい車両に変わりました。

駅前の市場です。
おそらく闇市の流れを汲むマーケットなのでしょう。
今でも魚屋、八百屋、豆腐屋、肉屋などが現役で商売しています。
都内に闇市の名残の場所はありますが、店子はカフェなどに代替わりしていることが多く、今でも魚屋、八百屋がメインの場所は貴重です。

にぎやかな商店街は、千歳烏山と同様に、路面店ばかりです。
狭いエリアでショッピングモールなど進出のしようがない事情ではありますが、昔ながらの商店街はいいものです。

下高井戸には映画館もあります。
おじさんの子供が小さなときは、ここにドラえもんやセーラームーンを見に来ました。
今日は1000円均一デーとのことで、三々五々客が集まっていました。

肝心のたい焼き屋は閉まっていました。
10時開店のはずだったのに残念です。

昼食はここで食べました。
線路わきのラーメン屋です。
醤油味ベースの食べやすい味でした。

東京闇市紀行VOL1 吉祥寺ハモニカ横丁を歩く

吉祥寺駅前のハモニカ横丁を歩きました。
おじさんの家からは自転車で20分ほどの距離です。

闇市跡の風景

東京をはじめとする都市部の駅前には終戦後、闇市と呼ばれるマーケットがありました。
空襲で焼け野原となった跡地、それも駅前など人の流れのある場所に人々が品物を並べたのが始まりとされています。
やがてバラックの商店となり、地回りのやくざや第三国人と呼ばれる勢力が縄張りとする中で固定化されたマーケットとなりました。

「光は新宿より」。
新宿東口の闇市を取り仕切った尾津組組長の長女による当時の回想記。

東京には、当時の闇市の名残が今でも残っています。
新宿の通称しょんべん横丁は当時の景色を残す一角です。
また、今は雑居ビルとなっている新橋駅前のニュー新橋ビル、渋谷駅前のハチ公広場下の地下街、などは闇市マーケットの商権がそのまま組み込まれた建物と聞きます。
下北沢駅前にもつい最近までバラック建てのマーケットが残っていましたが、つい最近更地になって再開発されています。これらの土地は、終戦後のどさくさによって本来の地権者から、やくざや第三国人などが勝手に占拠し現在に至っているものが多いといわれます。

吉祥寺ハモニカ横丁

JR中央線沿線の闇市跡としては、吉祥寺駅前のハモニカ横丁が有名です。
おそらく当時の景色をとどめている場所として貴重な場所ではないのでしょうか?

おじさんが吉祥寺に来始めた30年前のハモニカ横丁は、八百屋、魚屋、肉屋、雑貨屋などがメインの文字通り地元のマーケットでした。
現在ではそれらの店はほとんど姿を消しました。
魚屋が2軒残っているでしょうか。

表通りには八百屋が残っています。

替りに多くなったのがカフェ風の飲食店など。
餃子屋やパスタ屋には人が並びます。
今やスノッブな飲食店街となりました。

代替わりするにせよハモニカ横丁の風景が残るのはいいことだと思います。
今や観光名所ともなりこのまま残ってゆくことでしょう。

昔から飲み屋が並ぶ一角もあります。
この寂れ方は立石などにある古くからの飲み屋の横丁に通じるものがあります。

パルコ地下に映画館ができた

吉祥寺パルコの地下2階には長いこと新刊書店があったが、いつの間にかなくなり、映画館がオープンしていました。
封切館はいくつか残っているが、いわゆる名画座がなかった吉祥寺。

今回オープンしたのは、アップリンク吉祥寺なる映画館。
スクリーンは5つほどのシネコンです。
ちょいとロビーを覗いてきました。
今どきのシネコンのロビーよろしく、自動券売機とカフェ風のカウンターがありました。

スノッブな客以外はお断りの風情を漂わせようとしているようですが、ここは三多摩の武蔵野市。
地元の雰囲気を色濃く漂わせた方々も三々五々歩いており、おじさんは安心しました。

肝心な上映プログラムはとみると、「見逃した映画特集」ということで比較的新しいミニシアター系の話題作を中心に組んでいました。
中にはルイス・ブニュエルの「皆殺しの天使」もありました。
フィルムではなくデータ化された作品であれば、ちょいと話題になったものは上映の機会がありそうです。
今は、様々な作品をやってみて客層を探っているのかもしれません。

ロビーを歩いてびっくりしたのがパンフレット置場の棚の広いこと!
ロビーが狭い映画館ならば、重なっておいてあるパンフが、まったく重ならず広々と置かれていました。また、パンフの種類よりも棚の面積のほうが広いのか、同じパンフが何か所にも置いてありました。
方向模索中の新しい映画館らしさを感じました。

吉祥寺の古本屋巡り

公園口のバス侵入道路沿いにある古書センター。駅から近いが自転車で行くには不向きかも。

井之頭通り沿いにある、よみた屋。
比較的新しくできた店。
八切止夫の「野史辞典」なども比較的安い値段で置いてある意欲的な店。東急デパート南隣の建物2階の、百年という古書店。
場所柄かおしゃれな品揃え。雰囲気がいい店。

五日市街道沿いには昔ながらの古書店、藤井書店もある。文庫などは品揃えもよく値段もお手頃です。

定年おじさん渋谷を行く

渋谷へ行ってきました。寒々しい師走の日でした。

シネマヴェーラ渋谷

という名画座があります。
2006年開館の新しい映画館です。
映画好きの弁護士さんが作って、今は奥さんが支配人とのこと。

巨匠からカルトまで、映画好きなら心が動くプログラムをやっています。
当初は2本立て入れ替えなしでしたが、現在は1本立ての入れ替え制となりました。

おじさんは、開館後初期の「内田吐夢特集」で「飢餓海峡」(64年)に駆け付け、再見。改めて感動しました。
また、毎年夏には「妄執、異形の人々」という、カルト作品、お蔵入り作品などの特集が行われ、「獣人雪男」(55年)「暗号名黒猫を追え」(87年)などを観たのが思い出です。

今回は、「滅びの美学・仁侠映画特集」ということで、その中の「花札渡世」という作品を観に行きました。1967年の東映映画。
監督は成澤昌成。
この人は東映たたき上げの監督ではなく、大監督の溝口健二に師事し、共同脚本などを書いたひと。

そこで思い出すのは、東映という会社のカラー。
チャンバラ、任侠やくざ、実録もの、と時々の路線で稼いできた会社ですが、一方でカラーに染まらぬ意外性も持つ会社なのです。

設立当初は、レッドパージにあっっていた今井正監督を迎えて「ひめゆりの塔」(53年)を制作。大ヒットさせました。

その後も、中国から引き揚げた内田吐夢を迎え入れ、巨匠待遇。「宮本武蔵五部作」(61年~65年)など映画史に残る名作を作らせました。

松竹を追われた大島渚に「天草四郎時貞」(62年)を作らせたり、前衛詩人の寺山修司に「ボクサー」(77年)という映画を撮らせたこともありました。

40年ほど前の実録路線最盛期のころは「実録共産党」という企画が実現寸前までいったというエピソードもあります。

東映の創始者のひとり、マキノ光男が「映画に右も左もあるかい、わしらは映画党や」といったそうですが、活動屋の面目躍如にして、東映カラーを一言で表した名言、といったところでしょうか。

さて、「花札渡世」。
主役の梅宮辰夫は、「ひも」「ダニ」(いずれも65年)などの軟派ものに主役を張り始めていたが、決定打の「不良番長シリーズ」は始まっていない時期。
この作品では正義派をやっています。

相手役の鰐淵春子は子役出身のハーフ美人。
松竹でアイドル路線をやった後の方向転換の時期でしょうか、いかさまばくち打ちの娘役です。

低予算の白黒撮影ですが、溝口監督への師事で鍛えたからでしょうか、成澤監督(脚本も)の女性の描き方が一筋縄ではありません。
きっちりと心の闇、腹黒さも描いて、年季が入ってました。

画面構成でも前景、背景に凝った撮影で、けれんみたっぷり。
テーマとしても花札とばくのシーンに凝ったように見せかけて、やくざ世界の価値観には一顧だにしないところが正統派やくざ映画とは正反対でした。

任侠路線が真っ盛りのころでもこういったアンチ任侠の映画が現れるところが東映という会社の面白いところでしょうか。
映画は本来こうありたいものですね。

東電OL殺人事件

渋谷駅から京王井の頭線でひとつとなりの神泉駅。

そのわきの古びたアパートが事件現場。
地下に居酒屋が入ってます。

隣の粕谷ビルなるアパートが冤罪ネパール人が住んでいたところ。
どちらもいつまでも残されている。
これは、世田谷一家殺人事件の現場建物が残されているのと同じ理由なのだろうか?

おじさんがシネマヴェーラに行くときは、神泉で降りて、このアパートの脇を通って行く。

渋谷でのおすすめ居酒屋

井の頭線ガード下のあたり。
30年前はひっそりとした街に居酒屋が並んでいた。
今はギラギラした渋谷の裏通りになっている。

ここは細雪という飲み屋。常連がとぐろを巻いていたが、入りやすくつまみもうまかった。今でもやってるのだろうか。

焼き鳥のうまい、鳥竹。いつも混んでいた。ホッピーとつまみ、2000円で満足する庶民の味方、山家。昼間でもやっている。

おじさんの青春の町、西荻窪

西荻はおじさん青春の町だった。
中央線沿線のこの町に住んでいたのは今から30年以上前の独身時代。
駅南口を出て徒歩5分のアパートは、大家さん宅の敷地内に建てられた別棟で、トイレ、炊事場共同の4畳半。大家さんは警察未亡人のおばさんで、電話があると呼んでくれた。
火器と女性連れ込みは禁止で家賃1万7千円。
おじさんは住み始めた当事は無職だったが、飛び込んだ駅前の不動産屋が紹介してくれた。
今は、マンションか何かが建っている。

西荻、かつての町のランドマークは今?

当時よく通った駅前の焼き鳥屋、戎。
居酒屋ブームで有名な店になり、昼間から客が飲んでいる。
おじさんが通っていた30年前、焼き鳥1本と焼酎で競馬新聞に見入るジャンパー姿の中年や、家に帰る前に1杯ひっかけるきちんとした身なりの定年前?のサラリーマンの姿に人間というものを学んだような気がする。
西荻のランドマークとして有名になった今の戎は、ファッションとしての居酒屋を楽しむ都会人の場にでもなってしまったようである。

30年前ははるばる亭という店だった。
若い美人のママがいて、ヒノキ製?の徳利で燗を出してくれた。

登亭という定食屋があった。
今は焼き鳥屋になっている。
登亭のマスターは、太い指を揚げ衣に突っ込みながら、いつも何か揚げていて、ついでにその太い指で、大鍋から汁がお椀からこぼれんばかりに味噌汁をよそってくれていた。

マスターお任せの「フライ盛り合わせ」を注文すると早く出たが、「とんかつ定食」などと特定のメニューを注文すると待たされた。
揚げたてのフライはうまくて量もたっぷり。いつも満員だった。

中央線カルチャーのかつての発信源、ホビット村は健在。
全共闘世代のカウンターカルチャーのタイムカプセルのような場所。

1階は無農薬八百屋の長本兄弟商会。2階はかつて満月胴という酒も飲ませる自然食屋だった。
今は別の店が入っている。

3階のプラサード書店は今も変わらず営業中。
精神世界の分野に強い本屋で、かつてはオウム神仙の会の会報なども置かれていた。

いまでもかつてのヒッピー文化の発信源となっているとは頼もしい。

西荻書店巡り

盛林堂という古書店。若い店主が始めた比較的新しい店。
サブカルチャー系と文庫の品揃えがいい。
店頭の廉価本にも掘り出し物あり。

中央線沿いで有数の品揃えを誇る古書店、音羽館。商品の回転がよく、新しい本の品揃えも良い。

旅の本の専門店、のまど。
国内外の旅行記、旅情報があふれている。
旅系、野宿系の自家出版の冊子や、タイで邦人向けに発行されている現地雑誌などがあるのは頼もしいが、「中央線カルチャー脱力系」の店番がやる気なさ過ぎて、残念。

三鷹という街

師走の一日。暖かい日があった。
暖かいどころか、もうちょっとで夏日になろうかという気温の日だった。
関東南部では冬でもこういう日が時々ある。

自転車で三鷹へ行った

三鷹という街がある。
東京の西部。かつては三多摩といわれた地区だ。
中央線を西へ下り、吉祥寺駅の次。
二十三区内はとっくに過ぎ、吉祥寺駅のある東京都武蔵野市の西隣の市だ。

おじさんの自宅のある調布市の北隣で、自転車で自宅から三鷹駅まで30分くらいであろうか。
天気のいい日はよい散歩コースとなる。
定年自転車おじさんの黄金コースのひとつである。

古本屋、上々堂で店主と雑談

三鷹駅のまっすぐ南。商店街のはずれのあたりに1軒の古本屋がある。
上々堂という。
ちなみに中央線沿いには若い店主の古本屋が今でも増えている。地方では考えられないことだ。

自転車を止め、表のゾッキ本棚から冷やかす。
今日は何か惹かれるものを感じ、中へはいる。
今時の古本屋さんは、昔のようにおじさんが番台よろしく座ってだけいるわけではない。
パソコンとにらめっこしているのが普通である。

新潮社の2001年刊「一条さゆりの真実」という本と、ちくま文庫の「聞書き・遊郭成駒屋」の2冊を買う。
レジの時に店主に聞いてみる。

本にビニールカバーをしている理由は?
「今や古本はネット販売が主流。出品時の保存状態を販売時まで維持するため」とのこと。
また、「ネット販売が主流だが、目的の本なく古本屋にきて探すのが好きな人もいる。」(おじさん同感だ)。「中央線沿いは古本の仕入れには好立地。」
「古本屋はもうかる商売ではない」と。

日中あまり人と話すこともないのか、店主は嬉しそうにおじさんとの雑談に応じてくれる。
おじさんは山小屋の一人暮らしで、買い物のとき店の人と話すのが習慣になったが、東京の店でも雑談に応じてくれる人がいるのはうれしいものだ。

ここは数年前まで貸本屋だった。
今では喫茶店、じゃなかった「カフェ」。

駅の北側にある古本屋・水中書店。
こちらも新しい店で、駅南の上々堂と同様に若い店主が切り盛りしている。
掘り出し物あり、値付けも良心的。
今日は定休日だったのが残念。がっつり食事をするなら、駅北の「男の晩御飯」。
揚げ物をおかずにどんぶり飯を食べると満足感が違う。
ホール担当のおばさんの愛想もいい。

三鷹という街

おじさんは三鷹という街の歴史を知らない。
主要街道筋に面しているわけではないから、中央線が開通してから発展した町であろう。
いやまて、中島製作所(現富士重工)があるから、近年は軍需工場を抱える町だったのか。

かつては東京に都電といわれる路面電車が走っていたそうだが、西の終点は荻窪だと聞いた。
そこから3駅西に下った三鷹はつまりはそういう場所だったということだ。

中央線沿線の車窓で畑が見えだすのも、三鷹あたりからだ。
駅の南側の道路がまっすぐで、碁盤の目になっている。近年まで農地で、その後住宅地に区画整理されたということなのだろう。

おじさんにとっては過ごしやすい街。
隣の吉祥寺と違い、駅前のショッピングビルのお客もほぼ全員が地元住民と思われ、店員さんも普段着モード。自転車の駐輪にも気を遣わずに済む。

吉祥寺駅前のハーモニカ横丁は戦後の闇市の名残といわれるが、三鷹には古いものは残っていない。
あるいは最初から闇市などはなかったのかもしれない。

かつては駅前に三鷹オスカーという名画座あったが今はない。一度行ってみたかった。

駅近くの玉川上水。
江戸時代に掘られた上水道の名残。
太宰治がここ三鷹で入水自殺した。

地元、調布駅前で遊ぶ

師走の一日、調布駅前で遊んだ。

調布に住んで30年以上たつ。
現在、駅前の再開発が進んでいる。
半分、山小屋の住民となったおじさん、変貌著しい調布駅前をさまよってみた。

調布の歴史、ざっと

調布の名の由来は、律令時代からとのこと。
当時の税金は、租・庸・調で納められていた。
租は米、庸は兵役や雑役、調は特産品のこと。
調布の地名は、税金を当時の特産品である布で納めた場所だからといわれる。

布を織ることのできたのは当時の渡来人だったとも。
市内の古刹・深大寺が西暦600年代にはあったとのことで、古い土地柄ではある。

江戸時代には当時の五街道のひとつ、甲州街道の宿場町でもあった。
新宿の次が高井戸宿。その次が布田宿(現調布駅前付近)だった。
宿場の名残であろう、赤線が昭和30年初頭まで、仲町という場所にあった。

昭和に入って、陸軍調布飛行場が作られ、帝都防衛の要衝となり、軍都と呼ばれた。
戦後、飛行場は米軍に接収され、調布基地、関東村などと呼ばれ、民間飛行場、サッカースタジアム、外語大学などの敷地になっている。

サッカースタジアムの前には、東京オリンピックのマラソン折り返し地点の標識がある。
アベベが先頭で折り返し、円谷が二番目でターンした場所だ。

都内との連絡は、甲州街道こと国道20号線のほか、私鉄の京王電車によって結ばれている。
電車が引かれた当時は、多摩川の清流べりの京王閣が東京市民の行楽場所で、水泳、アユ釣りなどで遊んだ由。
今、京王閣は競輪場にその名を留める。

市内には、日活と大映の撮影所が今でもある。
撮影所設立時は日本を代表する産業であった映画会社。今ではそれぞれの会社が法的倒産を経て、主にテレビ、CMの貸しスタジオとしての使命に生きている。

駅前の風景、ガラリ

おじさんが調布に住み始めた30年以上前の調布駅は、地上にあり、線路は踏切だった。
駅舎はこじんまりしていた。
今はやりの商業施設を内蔵する駅ビルなどではなかった。

そのうちに駅前にパルコができた。
京王線の支線の相模原線が調布で本線に合流することから、集客を当て込んでのことと思われた。

最近、調布駅が地下に潜った。
踏切がなくなった。駅舎もなくなった。
商業ビルが3本できた。
パルコの中に1館だけあったミニシアターはすでに閉館していたが、新しいビルにシネコンができた。
映画の町復活という触れ込みだが、新作以外の上映はないのが残念。

駅舎の消えた地上を人が覆った。
こんなに調布に買い物客がいたのかと思うほどの人出だ。
大口納税法人がアフラックくらいしかなかった調布もこれで潤うことになるのか?
この先を見守りたい。
既におじさんの手の届かないところに行ってしまっているが。

駅前百景、今昔

駅近辺の飲み屋街、調布百店。渋谷の百軒店にちなんだ命名だろうか。案外さびれていない。甲州街道布田宿以来の赤線街、仲町の現状。
道路拡張され、物理的にも往時の面影は払底された。
といってもおじさんが知っている30年前には、すでにそれらしい建物はほとんどなかったけど。

布田天神の参道、天神商店街。
名誉市民だった水木しげるさんのご縁により、鬼太郎のオブジェが建つ。かつては楽器屋、ペットショップなどが並ぶ「地元の商店街」だった。
今では食べ物屋が目立つ観光商店街に変貌。
古いおもちゃ屋は30年前から変わらない。

布田天神。式内神社。1500年代にこの地へ移転したとのこと。
地元民はここへお宮参りする。

隣のお寺の墓地へ向かう道。
ゲゲゲの鬼太郎の出生地はこの奥にある墓地とのこと。

神保町で過ごす一日

定年おじさんは山小屋を冬じまい、東京の自宅に戻りました。
3月まで自宅にいます。
その間、アルバイトしようと思っています。
アルバイトが始まる前のある日、おじさんの大好きな神田神保町で半日過ごしました。

神保町シアターで「女は夜化粧する」を観る

その昔全国にあった3本立ての名画座は今どこにもありません。
時間つぶしで映画館へ向かう人口がほぼいなくなったことと、古今東西の名画はDVDなどで部屋で見られるようになったこと、それに特に洋画では権利の問題で旧作の上映が困難になったこと、などが理由です。

おじさんが高校、大学時代を過ごした札幌には当時、オリオン座という3本立て名画座がありました。
また、テアトルポー、ニコー劇場などの1本立て名画座があり、封切り直後の邦画や洋画をやってました。

おじさんは、封切り直後の「仁義なき戦いシリーズ」や、最近死んだベルナド・ベルトルッチの「暗殺の森」などをここで観ました。
封切館へ行かなくとも、邦画、洋画の主要作品はここで観られたものでした。

当時は、全国的にも池袋文芸坐、銀座並木座、京都一条寺の京一会館などの有名な名画座がありました。
おじさんは大学入学後の春休みに、関西の親せきの家に投宿して、京一会館へ向かい「次郎長三国志シリーズ」(マキノ雅弘旧作版)などを観たものです。
また、池袋文芸坐の満員の中で、ビスコンティの「ベニスに死す」をたばこの煙越しに観たのも思い出です。
上映プリントがボロボロで、巻頭と巻末は画面が飛び飛びでした。

最近、といってもここ10年くらいですが、東京を中心に名画座が新たに勃興しています。
一時閉鎖していた文芸坐が池袋に復活し、渋谷にシネマヴェーラ、阿佐ヶ谷にラピュタ阿佐ヶ谷という名画座ができました。
特徴はいずれも古い邦画を中心にプログラミングし、フィルム上映がメインということ。

その中の1館に神保町シアターがあります。

本日の上映作品は1961年の大映作品「女は夜化粧する」。
山本富士子さんの主演です。

おじさん、山本富士子の出演作品は、小津監督の「彼岸花」、東宝作品の「如何なる星のもとに」「墨東奇譚」などしか観ておらず、山本さんのホームグラウンドである大映作品はほとんど観ていなかった。

で、いざ観てみると、これが良かった!
まず、山本富士子さん、その美貌と存在感だけで90分間、画面を持たせている。

山本さんの美貌といえば、「彼岸花」で小津安二郎が大輪の花のように扱っていて忘れられないが、ホームグランド大映の通俗の限りを尽くしたシチュエーションの中でもその存在感は変わりませんでした。

衣装、セットの豪華さ、カメラワーク(カメラがパンする中で時間経過を表現するなど)、照明などには、名にしおう大映撮影所の職人芸も堪能できました。

この時山本富士子は31歳。
彼女の20代のフィルモグラフを見ると、いわゆる番線作品への出演が多く、名画座での上映機会がある出演作品が少ないのが残念です。

なお、この日、神保町シアターのロビーには、入場を待つ太田和彦さんの姿がありました。
太田さんは吉田類と並ぶ、マスコミ系居酒屋文化人。
おじさんもかつての出張の折、太田さんが本に載せていた居酒屋に行ってはずれがなかった思い出があります。

農文協のブックセンターで2冊

神保町には、農文協の直営書店もあります。
さすが東京です。
農文協は農家の側に立った編集方針が徹底している月間「現代農業」の発行など、農協とは一線を画しながら得難い情報を現場に提供し続ける出版社。

おじさんも田舎暮らしを始めるにあたってここで、いろんな本を揃えました。
えひめAIという酵素の本とか、軽トラ、チェーンソウの使用マニュアルとか。

今日はここで、野菜の皮と種の利用に関する本と、発酵飲料に関する本を買いました。
来年以降の山小屋暮らしの参考にします。

神保町点描

いつも人が並ぶキッチン南海。カレーと揚げ物の店。

新刊本は東京堂書店。自費出版系や、少数部数の雑誌にも強い。映画関係に強い古書店・矢口書店のショーウインドウ。

古書店の店頭風景

神保町交差点。