上田映劇で、ロベール・ブレッソン傑作選

NPO法人上田映劇が経営する、大正年間より現存する木造映画館・上田映劇。
支配人は上田高校から日大芸術学部大学院を出てUターン。
営業停止していた上田映劇を再興して今に至る。
昨年には信濃毎日新聞の表彰を受けた当地の文化人。
何より映画館1館(姉妹館トラムライゼと併せて2館)の常時上映を継続しているのが凄い。

ミニシアターとして分類される上田映劇では、シネコンでは上映されない新作のほか、再輸入された旧作洋画が主な上映作品。
この再輸入洋画には、ベルモンド傑作選、ルノワール作品、ブニュエル作品、「黄金の七人」、ミムジー・ファーマーの70年代の代表作、などなどがある。
キングレコードなどが、旧作をデジタル素材で再輸入・配給したもので、映画ファンの琴線に触れるプログラムだ。

今回は、ユーロスペースなど二つの業者による配給により、ロベール・ブレッソン傑作選として5作品が公開された。
上田映劇でも上映され、そのうち2作品に接することができた。

「スリ」    1959年     ロベール・ブレッソン監督    フランス

「抵抗」(56年)とともにブレッソンの名を日本にも広めたのが本作。
生涯にわたるブレッソンのスタイルは、本作でも確立、踏襲されている。

現代のパリ。
インテリだが、不景気と自身の社会性のなさから無職の青年がいる。
実家には病弱の母親が一人。
いよいよ生活に困った青年は、調子が良いくらいに社会適応性のある友人にバイト先の紹介を頼む。
ところが青年は、友人の紹介するバイトではなく、スリの世界に入り込み、重大はピンチもないまま、器用なその手先を使ってスリで稼ぎ始める。
一方で、寝たきりの母親はアパートの隣室の娘の介護を受けつつ死んでゆく。
母の死に痛痒を感じないわけではない青年だが、母の面倒を見てくれた娘に愛着を感じる。
やがて警察に捕まり、投獄された青年は、面会に来た娘に愛を告白する・・・。

ブレッソンのスタイルは、後年の説明を極力省いたものと少し異なり、巻頭に「この映画は刑事ものではない(中略)自らの弱さによってスリという自らにふさわしくない冒険に駆り立てられた若者の悪夢である(攻略)」という字幕が入る程度に説明的だ

「刑事ものではない」、と断りは入るが、画面に映る50年代のパリの街頭風景は時代を映し出しているし、刑事らしくない刑事(素人俳優)の登場も、ねらってはいないのだろうが緊張感を画面にもたらす。
劇映画としてスリリングな作品でもあり、何より紛れもない50年代のフランス映画のテイストを感じさせる。

一方で、素人俳優の主人公は、象徴的なセリフと具体的な動作に徹したふるまいで、『行間の芝居』や『伏線』『心理的芝居』からは隔絶した存在である。
泣きの芝居も、怒鳴りも叫びも、アクションシーンもない。
ヘンリー・フォンダとモンゴメリー・クリフトを合わせたような風貌で、どっちつかずの戦後世代のモラトリアム的行動を淡々と行うだけだ。
その具体的な振る舞いが、青年の奥底にある虚無感成り、閉塞感を浮き上がらせる。

母親を介護する謎の女を演ずるマリカ・グリーン(のちに職業女優に転ずる)は、主人公以上にその人物についての背景説明はなく、クールな美貌を無表情に見せるだけで、セリフも更に少ない。
美貌のタイプがブレッソン映画のヒロイン(「白夜」(69年)、「湖のランスロ」(74年)の素人女優にも、「バルタザールどこへ行く」(66年)のアンヌ・ヴィエゼムスキー、「やさしい女」(69年)のドミニク・サンダ;どちらものちに職業女優、にも似ている)に共通しているところが興味深い。

感情表出を排し、動作にのみ専念した演出は、スリの手口の物理的な描写に象徴的にみられる。
スリという動作の非日常性を強調するためでもなく、またスリルを盛り上げるものでもないその機械的で、記録的な描写がブレッソン映画のスタイルなのだろう。

『この世には法律を超越してもいい人間がいる』と内心思っており、刑事にもそう主張する主人公。
西欧思想のエリート主義なのか、あるいはキリスト教思想を源流としたものなのか。
筆者から見ると単なる優柔不断で中途半端なモラトリアム思想にしか見えないが、そういった主人公の精神を人間性として取り上げるのもブレッソンのテーマなのだろう。

もう一つのテーマがキリスト教上の神の救い。
ラストで刑務所で面会する主人公と娘がお互いの愛情に気づき、荘厳なテーマ曲が二人を包む。
出口の見えない虚無に陥っていた主人公に射す一筋の光。
『神の救い』はブレッソン終生のテーマであったようだ。

「少女ムシェット」   1967年   ロベール・ブレッソン監督   フランス・ゴーモン社

製作はゴーモン社のアナトール・ドーマン。
「二十四時間の常時」(59年 アラン・レネ)、「男性・女性」(66年 ジャンリュックゴダール)、「愛のコリーダ」(76年 大島渚)の製作者だ。
ブレッソンとは「バルタザールどこへ行く」(66年)に次いでの仕事となる。

59年制作の「スリ」と比べると、ブレッソン映画の変わらないところと変わったところがあるのに気付く。

変わらないところは、素人俳優の起用(過剰な芝居の排除)、最小限の音楽、ロケの多用(本作はオールロケ?)、突き放した社会描写、キリスト教的背景など。

一方で、本作で見せたバリエーション的変化は、ブレッソン好みの神秘的なヒロインが不在なこと、高踏的・精神的な存在の不在(地方の寒村が舞台なので)といったところか。

本作の主人公ムシェットは村のつまはじき。
ぼろを着て学校には通っているが学友には相手にされていない。
悪ガキには性的嘲笑の対象にされる。
学友に対しては泥だんごをぶつけてうっぷんを晴らす。
頼みの母親は寝たきりで、家事と生まれたばかりの弟の世話は、ムシェットにかかっている。

健気な少女の奮闘物語という設定とは正反対に、ひねくれているムシェットは、学校では教師に逆らって目を付けられ、家では.朝のカフェオレの準備を、牛乳をこぼしながら雑に行い、弟のおむつ替えでは手を抜く。
家族を含めて誰にも一人前に扱ってもらえないムシェットは生活全般が投げやりだ。

村は現代フランスの農村なのだが、走っているトラックは古く、ひょっとして戦前なのかと思わせる。
休日に賑わう遊園地の遊具を見ると、60年代後半の時代設定のようだが。

村で唯一の社交場のカフェに集まり、店員の若い女性に言い寄る村の顔役。
ムシェットの父と兄は、密造酒をカフェに卸して日銭を稼ぎ、帰ってきてはそのままの姿でベッドにもぐりこむ。
ムシェットにとっては夢も希望もない、無知であさましい村の現実だ。

或る夜に家出したムシェットは、森の番小屋で一夜を過ごし、癲癇持ちの密猟者に襲われる。
ショックを受けるムシェットだが、人に聞かれると密猟者のことを「私の恋人」と答える。
初めてまともに相手をしてくれた人物だったのだ。

母親が死に、村のおばさんたちはムシェットに同情の言葉をかけ、朝食を出したり、いらなくなったドレスを恵んだりする。
ムシェットが、コーヒーカップを落としたり、しおらしい反応をしないと、「ふしだらな娘」「神に反した行い」だと手のひらを反す。

とっくに他人に期待することなどなくなっていたムシェットは、一人になってドレスを広げる。
ムシェットがドレスを体に当てて坂を何度も転がる。
そのまま池に落ちる。
画面には讃美歌のようなテーマ曲が流れる。
巻頭に続いて2回目の演奏だった。

原作があるとはいえ、貧しく夢のない背景描写が徹底している。
主人公はとても映画の主人公になるような美少女ではないし、周りの大人も誰一人彼女を導く人物ではない。
かといって作為的に悪意のある人物などもおらず、ひたすら現実的で救いのない描写が続く。

映画はムシェットに同情的な描き方はしない。
それどころか、これでもかとムシェットのダメなところ嫌なところを描く。
それでも神の救いはムシェットにあった。
彼女が死んでから。

投稿者: 定年おじさん

1956年北海道生まれ。2017年に会社を退職。縁あって、長野の山小屋で単身暮らしを開始。畑作り、薪割り、保存食づくり、山小屋のメンテナンスが日課。田舎暮らしの中で、60歳代の生きがい、生計、家族関係などの問題について考える。60歳代になって人生に新しい地平は広がるのか?ご同輩世代、若い世代の参加(ご意見、ご考察のコメント)を待つ。

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