地元パワースポット訪問記VOL.1 県宝仏岩へ登る

秋晴れです。明日は全国的に雨の予報。
久しぶりに仏岩へ登りました。

仏岩。
おじさんの住む山小屋から、国道152号線、通称大門街道に沿って上田方面へ5分ほどにあります。
1300年ころの鎌倉時代に建てられた仏塔が山頂の岩の上にあります。

大門街道沿いの低山です。
山頂には大きな岩がごろんと立っており、そこに仏塔が建てられています。
県宝です。

登山口には標識と由来が建っています。

しばらく里山の道を行きます。雑木林です。

登山道は、雨水で掘れておりわかりやすく、迷うことはありません。

標識もあります。

ところどころに巨石がごろんと転がっています。溶岩とのことです。

次第に登山道は山肌をまいてゆきます。
幅が狭く崖っぷちのところもあります。

鉄梯子が出てきました。

鎖場もあります。

この道をかつては仏塔を背負った修行僧が通ったのでしょうか。

山頂の岩へ登る梯子が見えます。

梯子の3連続。その上の頂に仏塔があります。

溶岩由来の巨石が山頂です。
今回も頂への登頂は断念。
岩の頂はむき出しで柵も何もありません。
おじさんは高所が苦手です。

最後の梯子にしがみついて仏塔を拝みます。
背景に蓼科山が見えます。

はるか下界の風景です。

おじさんは、仙台での現職時代に、単身赴任の気楽さから近場の低山へ結構登りました。
北泉ヶ岳、二口峠など。
都市近郊の低山とはいえ、東北の山の怖さは忘れられませんでした。
そこは、住み慣れた人界ではなく、山界ともいうべき別の世界でした。
ひとの気配がしなくて別のものの気配に満ちていました。

その点、長野の仏岩は安心そのものの人界です。
登り40分。往復60分ほどの道のりでした。
ただし、都市近郊のハイキングコースのような至れり尽くせりの配慮はありません。
幅40センチほどの道を踏み外せば、崖に堕ちますし、山頂の岩で貧血を起こせば、そのまま行方不明となります。

地方のハイキングコースは案外ワイルドで、おじさんが仙台郊外の名勝地へ行った時も、手すりなどのない、幅1メートルほどの崖の道を歩いていたら、向こうから小学生の一団が現れて、すれ違うのに怖かったことがありました。

長野のこのあたりの小学生は標高2500メートルの蓼科山に遠足で登ります。
山頂付近は急こう配の岩場が続く山です。

田舎はたくましいのです。

(追記)

仏岩を過ぎて大門街道を上田方面に下って行った道沿いに、てっぺんに石碑が乗った溶岩石がある。

登ってみると、稲荷神の字が読める碑だった。

街道のはす向かいにある、大門稲荷神社の関係するものかもしれない。
長野を歩いていると、岩の上に碑が乗っている風景に出くわす。

民間信仰の形態なのだろう。

血液サラサラ!ヤーコン茶を作ってみた

おじさんの朝は、一杯のお茶から始まります。
今は、スギナ茶を煎じて飲んでいます。
畑からむしってきた大量のスギナを乾かしただけです。スギナはケイ素という元素が豊富で、体内の活性酸素を減らす効果があると言われているものです。
寒い朝には、一杯の熱いスギナ茶が体を温めてくれます。

ヤーコンという作物があります。
南米原産のキク科の芋です。
寒冷地で作られ10月下旬から12月が収穫期。
日持ちはよくなくて、1,2か月しか保存できません。
おじさんの自宅(山小屋ではなく)では小松菜、リンゴに混ぜてスムージーにして飲んでいます。
オリゴ糖やポリフェノールの含有量が高く、いわゆる血液サラサラ食品のひとつです。

おじさんは直売所で、種イモを週個買ってきて植えました。
夏場はぐんぐん茎をのばし、葉を広げ、

10月下旬に近くなって花を咲かせました。

一度、試しに掘ったのですが、地下の芋は小さかったので、まだ収穫はしていません。

ヤーコン茶というのが直売所などで売っています。
効用は同じとのこと。
そこでヤーコン茶づくりに挑戦してみました。
手順は、葉を蒸す→天日干し→乾いた葉を揉んで細かくする→炒る、です。

茎を何本か折ってきました。

葉っぱだけをちぎります。

外にストーブを出してお湯を沸かしました。
別荘地のごみ捨て場から拾ってきた薪ストーブです。十分使えます。

蒸し器がないので、ざるを使って蒸しました。
蓋はします。
蒸す理由は、消毒のほか、繊維を柔らかくするためと思われます。葉の根元などは相当繊維が強いです。

蒸した葉をざるに広げて天日干し。
日が弱いのでパリパリに乾きません。
ストーブの上にざるを乗せて、火力で乾燥させました。

手で粉にします。

粉を炒って完成です。

繊維の強い部分は粉にならず、捨てましたが、細かく切れば使えたかもしれません。
おじさんのヤーコン茶は炒りがきつかったのか、やや苦み走ってます。

今日からおじさんの朝のお茶のメニューが一つ増えました。

ついでに今夜の夕食をストーブで作ります。
野菜たくさんの煮込、3日分。野戦料理です。

寒さ厳しき夕べ 別荘管理事務所の慰労会に参加

定年おじさんの住む、長野の1500メートルの高原は、秋が深まっております。
朝夕の寒さは深刻です。暖房なしでは一時もおられません。

ということで、ここ別荘地の管理事務所の慰労会に参加してきました。
おじさんは事務所の職員ではないのですが、この4月から6月にかけてアルバイト職員で登録していましたので、お誘いがあったのです。

アルバイトといっても、おじさんの場合は週3日の勤務。事務んで決めたローテーションです。
職種は落ち葉集めと草刈り。
アルバイト仲間は別荘住民。
定住していたり、長期滞在中の60歳台~70歳代がメインです。
丸1日の労働は、若いころならともかく、62歳のおじさんにはしんどかったのと、7月に入ると畑が忙しくなり、朝市に参加するなどしたので、行かなくなりました。
それでも、慰労会には誘ってくれたのでした。

別荘の管理事務所は有限会社組織です。スタッフ8名。管理事務のほか、別荘地の保全業務を担っています。
売り上げ9000万円ほどの有限会社で、主な収入源は、別荘住民の管理委託料。
管理委託料は、1区画で年間4万円ほどします。

ほかに別荘地の地主である財産区(町有だったり共有の土地を管理する組織)からの収入があります。

別荘住民は、管理料のほかに、建物の固定資産税、住民税(住民票の有無を問わず)を払っています。
つまり、別荘住民の費用負担を収入源として存在する会社となります。

40年前の別荘開発時には民間業者が管理していたものが、民間業者が撤退し、紆余曲折を経て、現在の形態となったようです。
地元色の強い、半官半民に近い組織です。
別荘管理にかかわるサービスは一所懸命やってくれます。
待ちの主要産業のひとつ、別荘運営を最前線で担っています。

さて、慰労会。
会場は町内の和田地区というところにある、湯游パークという温泉施設内の食堂です。
別荘住民は各戸まで送迎付き。
参加費の個人負担は少ない。というありがたいものでした。
何せ、田舎では飲み会の際の足が重要問題ですから。

地元を知るまたとないチャンス、とおじさんの胸は躍りました。
同時にアウエー感が暗雲のように広がりました。
果たしてどんな場所に連れていかれるのやら・・・。

山小屋までは職員が迎えに来てくれ、事務所からは会場施設のマイクロバスに乗りました。
暗闇を走り、集落で職員たちを拾ってゆきます。
寒い夜に、自宅からどんどん離れた田舎道を行くときの不安感!

町内とはいえ、たっぷり30分以上走り、湯游パークへ到着。
今はやりのスーパー銭湯的な施設内のふれあい食堂へ案内されます。
三々五々、入浴客などの自家用車が駐車しています。
当然ながら、都会のスーパー銭湯のような活気はまるでありません。周りは明かりも音もない田舎です。
施設内の人気を頼りに入所します。

入ってみると、よくある昭和な景色の食堂。
椅子やカウンターの配置は何の違和感もなく、アウエー感が雲散霧消。
おじさんの得意な環境です。
現金なもので、一人ででも飲んでゆきたくなりました。

参加者はアルバイトが6名。職員が8名。社長と監査役。来賓として、近場のスキー場管理会社の社長。
この社長は元副町長ということで、皆さん地元の仲間。町の観光事業を担う、半官半民会社の幹部集合、というような塩梅でした。

といっても堅苦しさはありません。
今時、いかに田舎の有力者とはいえ、絵に描いたようなパワハラ満々なボス面の人間がいるわけではないのです。
有力者が挨拶し、乾杯の音頭を取るのは会社の宴会と同じ。極めて淡々と会は進んでゆきました。

宴会の最中でも、権力者に忖度して、注いで回るような人は現れませんでした。
都会の会社の宴会より民主度は上かもしれません。
各自、飲みたいものを注文し、気づかいや強制もなし。酒自体を飲まない人も目につきました。
醒めているのか、もともとストレスがないから発散する必要がないのか。

食べ物は、刺身のカルパッチョを前菜に、松茸土瓶蒸し、から揚げなどが出て、メインはすき焼き。
すき焼きは、最初の一杯を向かいに座った女性職員がよそってくれました。

締めがラーメンでした。
1人前のラーメンが、全員に出ました。

食事がうまいのがいい意味で予想外でした。
単調な山小屋暮らしからすると、刺身など、多彩な居酒屋メニューには味だけでなく、心も満たされるようでした。

地元による、地元のための宴会。
貴重な経験をさせてもらいました。

今年最後の収穫 ハックルベリーでジャムを作りました

ハックルベリーという作物がある。
おじさんは長野に来て初めて見た。
直売所で買おうとして、レジのおばさんに、生食できないよ、と言われてびっくりした。
ジャムのレシピをもらって帰り、さっそく作った。

日本で食用にしているものは、ガーデンハックルベリーと呼ばれるナス科の植物とのこと。
本場の北米では、マーク・トゥエインの小説「トムソーヤの冒険」の続編的な「ハックルベリー・フィンの冒険」で主人公の通称となるくらいポピュラーな存在とのこと。

今年、定年おじさんが畑を作付けするとき、直売所の苗売り場で、これの苗を見つけた。
2本買い、植えた。
順調に育ち、8月には実を収穫し、朝市にも出した。
ジャムの作り方を説明すると、買ってくれるお客さんがいた。

畑のハックルベリーは、放っておいたところ、第二弾の花が咲き実がつきだして、生命力にびっくりした。

畑も10月下旬となり、最後の収穫をした。
根が強く張って引っこ抜くのが大変だった。

収穫量は小さいボールに一杯くらいも。
予定外の収穫だった。

ジャムを作る。

まず、あく抜き。湯でこぼした。
重曹などを使う方法もあるらしいが、おじさんは単なる湯でこぼしにした。

そのあと、砂糖を入れてストーブに掛けた。

色がいい。
ブルーベリーの5倍のアントシアニンの含有量だ。

煮ると同時に保存瓶の消毒も行う。

ジャムが煮詰まってきたら、熱々の瓶にジャムを入れ、軽く蓋をして再び煮沸。
こうやって瓶の中の空気圧を抜いておく。

蓋をきっちり締めて完成。

ちゃんと作れば、常温保存で夏場を超えても傷まない。蓋を開けるときに苦労するくらい密閉されている。

このジャムは、おじさんが来年、朝市にハックルベリーを出品する際の試食用にする予定だ。

今日の仕事は焚きつけ作り

定年おじさんが住む長野の高原は晩秋の気配がしてきた。
あの暑かった夏はどこへやら。
朝夕はもちろん、日中でも風の冷たさは、油断すると風邪をひきそうになるくらいだ。
定年おじさんも地域でいい気になって飲んでばかりいないで、寒さに備えなければならない。

で、燃料の準備。
主燃料の薪はかなり積んだので、今回は焚きつけの準備。
ストーブでの薪の着火には、新聞紙と焚きつけを使っている。
新聞紙は別荘地のごみ集荷場で、古新聞の束をもらってくる。地元の信濃毎日新聞の古新聞が多い。

信濃毎日新聞は、別荘の管理事務所で時々読む。
真面目で権力のチェックはしっかり行う印象がある。
権力に忖度せず、おのれの信じた道を進むところが長野らしくて好感が持てる。
焚き付けとしてよく燃えるところも好ましい。

焚きつけ材は大工さんからもらった廃材の板をカットし、割って使う。
この焚きつけ材、乾いていないとどうにもならない。
その点、廃材は完全に乾いているのでうってつけだ。

子供のころは、故郷の北海道で、ストーブで石炭を焚いていた。
高学年になると自分で火おこしもした。
焚きつけ材を使わず、固く絞った新聞紙で着火できるようになったものだった。

定年おじさんになって、新聞紙だけで着火する自信は失せているので、焚きつけ材を用意する。

軒下に廃材のストックがあるので持ってくる。

山小屋の周りに倒木した際の小枝がまとめてあるので、軽トラで回って集めておく。
これらを手ごろな長さにカットする。

テーブルソーを用意する。山小屋の先代からの備品。
これといい、チェーンソーといい、大工用品といい、先代がそろえたの備品の充実ぶりには感謝しかない。

おじさんは去年初めて、テーブルソーを使った。
まあ、チェーンソウだって、草刈り機だって、山小屋に来て初めて使ったのだけれど。

ドラムを伸ばしてコンセントをつなぎ、テーブルソー始動。
薄い板とはいえ、節などにあたるとキックバックを起こして跳ね返ることもあるので気を付ける。
コツは全部カットせず、少し切り残してあとはたたき折るようにすることかな。

手ごろな長さに切って保管。
都度、手斧で細く割って使っている。
暇を見て少し割っておいてもいいだろう。

枝のほうは手ごろなサイズにカットした後、乾燥させる。
生木は小枝といえども、夏を超えないと、乾燥した焚き付けとはならないからだ。

シシトウを煮て食べる

シシトウが採れている。
定年おじさんの畑の夏野菜は、ナス、キューリ、ゴーヤが終了。
オクラもほぼ終わり。
シシトウ、ピーマンが元気で、実の肥大は遅くなったが、いまだ鈴なり。
シシトウは1本だけ植えたのだが、一週間に一度、両手に一杯くらい採れている。

収穫するととりあえず、玄関のかごの中に入れておく。高原の冷涼な気温に守られて、一週間程度はしなびずに持つ。

そこで、この健気なシシトウを煮て食べることにした。煮びたしよりは濃いめの味付け。佃煮ほどは煮詰めないイメージ。

まず、水洗いして、へたをとる。
当然種はそのまま。

出汁しょうゆを水で割り、砂糖とみりんを少々入れる。

ガスを使うのあもったいないので、ストーブに掛ける。急がないときや、煮込み料理にストーブは便利で威力を発揮する。

しばらく煮て、しんなりし、煮詰まってくる。
出来上がり。

箸休めにちょうどいい。
おじさん一人の山小屋暮らし。貧しい食生活とはいえ、メインのおかずのほかに、箸休めが欲しいものである。

漬物などとともに箸休めに最適な一品。
出来立ては、ほのかに新鮮な野菜の息吹が香った。
畑と作物に感謝していただく。

朝市の会打上げで田舎と都会について考えた

朝市の会の打ち上げがあった。
参加したのは8名。場所はおじさんの住む別荘地内の食堂。
食堂の主のIさんも朝市の会のメンバー。

8名の内訳は、別荘住民で自作の作物を出品するYさん夫婦。
地元の農家で観光ブルーベリー園のほか、野菜全般を作付けするMさん夫婦。
地元にUターンしてドジョウなどの養魚で地域おこし中のKさん。
別荘族20年で80歳代のため今年は出品中止したMさん。
会場の食堂マスターのIさんと、定年おじさん。

おじさんは、山小屋にあふれる材料で、大根の煮物、里芋の煮物、焼き芋、ツルムラサキのお浸しを作り、上田の地酒・亀齢の一升瓶とともに持って行った。
ところが、1品持ち寄ってきたのはおじさんだけで、つまみはフルコースで出てきて、ビールから何から飲み放題で会費1000円だった。

会は、UターンしたKさんのチェロ演奏で始まった。
東京での学生時代からの趣味とのこと。
思わぬ文化的な香りに驚く。

おじさんが持参した亀齢を見て、Kさんらが早速反応。地元の人はわかっているのだなとうれしくなる。
先日の別荘族の集まりの時は、亀齢を知っている人がいなかった。

一事が万事。別荘族と地元の人の違いを感じ続けたひと時だった。
話題は、畑のことから、地元の人たちが考えている地域おこしのことまで。

知識をひけらかす感じがぬぐえない、別荘族の話に対して、地元の人の話はあくまで実体験に基づいた豊かなもの。
Mさんの、トマトの青い実を収穫して追熟させて冬に食べる話や、ヤギの乳をご飯にかけて食べる話。
今考えているのは、清流を利用してのクレソンづくり。都会へ出荷するのではなくて、都会人を呼び込むような地域おこしをしたいとのこと。
話をするMさんの表情は嬉しそうだったり、きっぱりしていたりと話題に負けず豊かだ。

亀齢にうれしい反応をしてくれた、UターンのKさんは、千葉で定年退職後、実家に戻り4年目。
奥さんがまだ都会で働いているのは、定年おじさんと同じ境遇。
地元でドジョウ、フナ、タニシなどの養殖を始めたとのこと。
Kさんが地元にいたころは、農耕用に牛を飼い、タニシなどは常食していたとのこと。
Kさんは非常に人懐っこく、同年代の定年おじさんに話しかけてきた。

Mさん、Kさんに共通するのは、身の丈に合った仕事をしているところ。
地域の特性を生かした素材による地域おこし。

鰻や、FI作物など、経済性に染め抜かれた素材を扱うとどうしても「相手」の土俵で相撲を取ることになる。「相手」は得体のしれぬ資本の世界だ。100%いいとこどりされて終わりである。

クレソンとドジョウの養殖。華々しい資本の世界とは無縁かもしれぬが、手ごたえを実感できる事業になるだろう。

ここで、おじさんが地域の住民Mさんに質問。
移住者が地域にやってくると最初は歓迎されるがじきにいなくなることについて。
和んだ空気が凍り付く。
すかさず、別荘族20年のMさんが、それはコーディネーターがいないからだ、と断言。
おじさんは、都会人は必ずしも、「お互い様」の価値観になじまず、「私は私」の人もいるから。と更にMさんに聞く。
Mさんから返事はなく、話題は自然消滅。

おじさんとしては、田舎の価値観の否定ではなく、都会の価値観とのすり合わせ、融合が図れないか、地域の有意の人に考えを聞きたい気持ちだった。
Mさんとしては、根の深い問題であることをわかっているから安易な返答ができなかったのだろう。

とにかく、先に口が動く別荘族とは対照的である。
別荘族は話し終わると自慢のどや顔をするが、地元の人は話し終わると心底うれしそうな顔になる。
過去の栄光に固執し、未来の話ができない別荘族に対し、地元の人の前向きで明るい話題に心が満たされたひと時だった。

地元・長和町の広報と、養殖事業を紹介されたKさん。

お隣から生みたての卵をもらいました。

もみ殻燻炭を自己流で焼く

もみ殻を入手したら、燻炭を焼こう。
燻炭の使い道は、苗床、マルチ替わり、土壌改良(成分的にも物理的にも)と幅広い。
リン酸やカリウムの含有率が高く、また炭の表面の孔に微生物が繁殖するとのこと。
草木灰が植物に良いのは経験的にわかっている。

もみ殻は木材などより圧倒的に炭にしやすい。
原料が入手しやすいし、扱いやすく、炭窯のような設備も必要ないからだ。

で、おじさん流にもみ殻燻炭を作ってみる。
まず、ごみの焼却炉を空っぽにしておく。
焼却炉の底を種火の焼却スペースにして、火を起こす。結構しっかり火を起こしておく。

スロットルを一段入れてから、もみを投入。

スロットルなど、種火ともみを遮るものがないと、空気が完全に遮断されて火が消える。
消えない程度に空気を遮断して蒸し焼きにするのがコツだ。

籾投入と同時に煙突を立てておく。

焼却炉にはもみ2袋分が入る。
焼却炉の空気取り入れ口は封鎖する。

煙突から煙が出ているのを確認しあとは放置。

火加減により、2、3時間後に籾の一部が黒く焦げてくる。
表面が焼け焦げ、くぼんでくるようだと燃えすぎ。
全然焦げてこないと燃えなさすぎ。

数時間から半日で完成。ごま塩状態になったら、上下をかき混ぜてまんべんなく焼く。
出来上がったら水をかけて消火する。消火しないといつまでも燃えている。
本来は表面に水をかけ、密閉して消火するようだ。
その方が出来上がりがさらさらして使いやすく、保存性もいい。
おじさんの焼却炉は密閉が難しいのでバケツで水をかけて消火した。
これだと、保存するためには乾かさなければならない。改良の余地ありだ。

今時のJAには野焼き専用の焼却炉付きの煙突が売っている。そういう時代になっているのだ。

今日のおやつはお向かいからいただいたスイートポテト。
原料はおじさんが差し入れた畑のサツマイモ。うまい。

もみ殻は畑の救世主。だ

世の中では、稲刈りが終わった。
おじさんが住む長野の片田舎では、一般家庭も米はもみで保存し、都度、白米に精米して食べるようだ。

精米所は町村ごとに1か所、どころか地域ごとに一か所もあり、住民は30キロ袋でもみを持ち込み精米する。
精米すると、白米とヌカ、もみ殻に選別され、通常は白米のみを持って帰る。
ヌカともみ殻は精米所に残され、自由に持って帰ることができる(とおじさんは思っている。今まで注意されたことはない)。

ヌカは漬物の時期には精米所によっては、なくなることもあるが、もみ殻は家庭菜園用に取りに来る人があるくらいで、普通は取り放題だ。

おじさんは、玉ねぎの苗の保温、人参の発芽までの保水、カボチャの雑草対策にもみ殻を使っている。
また、冬の間にとにかく畑に撒いておくと土壌が柔らかくなるようだ。
また、もみ殻を燻炭に焼いて使っている。
燻炭や炭、灰などはご存知の通り、土の大好物だ。

ということで、精米所に、もみ殻を取りに行く。
準備は30キロ入りの米の袋。
中古品なら1枚20円以下でJAなどに売っている。50枚ほど用意した。
紙袋なのでぬれると破れるし、口の留めひもも破れやすい。
消耗品だが、もみ殻のほかには落ち葉集めなどに使える。

米袋を20枚ほど軽トラに積んで出発する。
おじさんの畑の近くには3か所も精米所がある。
タンクにもみ殻が入っているので、出口に袋をあてがい、レバーを下げる。
無制限にもみ殻が出てくるので、下限がわからないと袋からあふれる。

今回は、稲刈り終了直後なので、精米する人も少なく数袋分しか取れなかったが、そのうちいくらでも集められるだろう。
ついでにヌカも取ってきた。
ヌカは、窒素、リン酸、カリがバランスよく含まれ、直接的な作物の栄養になる。
おじさんは、直接畑に撒いたが、固まってしまい、土の呼吸を阻害してしまった。
また、落ち葉を集め、鶏糞とともに山小屋わきに積んだが、1500メートルの高地では思うように発酵しなかった。
今後は、畑の冬じまいの時にもみ殻と一緒に撒こうと思っている。
たくあん漬けにも重宝している。

来年の収穫に向けて玉ねぎを定植

今年も玉ねぎ定植の時期となった。
昨年は、専用のビニールマルチを張って張り切って定植したものの、直後の豪雨でマルチがはがれ、苗がほとんど流れた。
流れて白い根を見せている苗を拾い、植え直したが、そのせいなのかどうか、翌年(今年)の実はピンポン玉くらいの大きさだった。
株数も半分くらいの歩留まりだった。

そこで今年は、少々時間と手間をかけた。
畝3本を玉ねぎ用とした。

縄を張って、スコップと鍬で畝を切りなおす。

人の畑を借りているので見かけも重要。畝の縦横が平行になるように気を付ける。

レーキで雑草などを除去する。

石灰を撒いておく。玉ねぎは酸性土壌を嫌うらしい。

JAで苗を買う。1本9円だった。
200本買うと10本くらいおまけしてくれた。

定植の時期は、ここら辺は10月下旬から11月とのこと。おじさんが定植したのは10月20日。
ご存知のように、おじさんの畑は初期成育が弱いので、年内にしっかり根を張らせておくために早めに植えたのだ。

今回はマルチはやめ、路地植えにした。冬季間は雑草が少ないからだ。
防寒と翌春からの雑草対策には、もみ殻を撒くことにした。
もみ殻は土壌がふかふかになるし、えひめAIなど有効成分の環境にも良いと思うからだ。

さて、植付の日。
まず、畝の表面にえひめAIを散布。

苗ポットにも同様に潅水する。苗にもAIに慣らしておくためだ。

苗の根の白い部分まで土をかぶるように植えてゆく。

植え付けてから、再度、AIを潅水し、もみ殻で覆う。

あとは無事な生育を祈るだけ。
長野の厳しい冬と雪を玉ねぎが乗り越えられるかは、半信半疑だったが、去年はちゃんと生き残っていた。
今年は、もうちょっと大きく結実してほしいものだ。