干しもの三題

秋は保存食を加工する季節です。

例年ながら、切り干し大根、干芋、芋がらを作ってみました。

切り干し大根は大根を短冊に切って干すだけです。
切ってザルに広げ、日中は日光に当て、夜間はストーブのそばで乾かします。

乾いてきたら材料を裏返しにするなどして乾燥を促進させます。

カラカラになり、ざるを滑るようになったら完成です。
戻してニンジンや油揚げと一緒に煮ると、大根の風味豊かな切り干し大根の煮物になります。

ほぼ完成した切り干し大根

サツマイモの干芋も作りました。

サツマイモを蒸かすかゆでるかして、皮をむきます。
傷や痛みは皮と一緒に除きます。

熱いうちにスライスしてザルに乗せて乾かします。
スライスの厚さは5ミリから1センチ程度。

少し乾いてくると、素材の糖化の状態がわかってきます。
半透明のあめ色になったら、素材がよく糖化している表れで、ねっとりしたよい干芋になります。
白く粉を吹いたようになれば素材の糖化が進んでいない状態で、売り物でいえばB品の状態となります。
B品でも十分食べれらます。

蒸かしたサツマイモ
皮をむきます
スライスして干します。ときどき裏返します

この干芋、自宅で大評判で「また作ってほしい」と催促されています。
直売所でも巡って地元産のサツマイモを集めて、また作ってみようと思います。

最後は芋がらです。
里芋の茎を干したものです。

里芋収穫後の茎が立派なので持って帰って干してみたところ、自宅で煮て好評とのことでした。
茎の太いところを選び、皮をむき干すだけです。

里芋を収穫し、茎も持って帰ります
皮をむいて干します

上高地

長野県と岐阜県の県境をなす穂高連峰。
そのふもとの上高地は穂高連峰へ、北アルプスへの登山口として、また風光明媚な観光地として有名だ。
11月中旬の山じまいを前に、長野在住5年目にして初めて上高地へ行った。

国道158号線を松本方面から西へ向かう。
谷沿いを縫って走る山道だ。
道路標識は岐阜県の飛騨高山までの距離を示し続ける。
峠を越えれば岐阜県につながる国道なのだ。

沢渡という場所が上高地への入り口に当たる。
上高地はマイカー乗り入れができないため、バスターミナルのある沢渡からバスまたはタクシーに乗り換えて向かうのだ。

沢渡大橋バスターミナルから上高地バスターミナル行きのバスに乗る

バスは上高地のバスターミナルまで運んでくれる。
河童橋が梓川にかかる、上高地の中心部だ。

われわれ(山小舎おじさん夫婦)は2つ前のバス停で下りて、大正池から河童橋まで約1時間のコースを歩くことにした。

大正池前で下りる

道路から大正池の湖畔に下りると、彼方に穂高連峰の威容が見え、さっそく上高地の世界に取り込まれるようだった。

しばらく梓川沿いに原生林と湿原が織りなす風景の中を進む。
このコース、この日は人出も少なく気持ちよい散策ができた。

時に木々の間から垣間見える穂高の山々がだんだん大きく迫ってくる。

絵葉書にあらず!大正池から望む穂高連峰を実写
湿地を流れる水がとことん透明だ
遊歩道は整備されている
原生林の間から穂高連峰の姿が迫ってくる

途中の上高地帝国ホテルで昼食を摂ることにした。
ホテルのランチなので、味、サービスともに満足でした。

上高地帝国ホテルでランチ
カレーはうまかった。サラダの野菜も絶品

少し歩いてバスターミナルに到着。

梓川沿いに出れば、観光客でごった返す河童橋があった。

東京が緊急事態を解除した後の時期とはいえ、思った以上の人出。
通常の年ならもっとすごいのだろうな、と思わざるを得なかった。

外国人、関西人の姿、声も目立った。
上高地は軽井沢と並ぶ県内有数の観光地だった。

上高地バスターミナルに到着
梓川に河童橋がかかる
河童橋からもと来た方を見る。逆光に焼岳のシルエット

かえりに白骨温泉に寄ってみた。

立ち寄りの露天風呂はややぬるめの湯ながら、山に囲まれた景色ともども旅の風来坊たちの心身を慰めてくれた。

帰りは白骨温泉の公共露天風呂でひとっ風呂

「美濃戸」へ行ってみた

「美濃戸」と聞いてわかる人は、山歩きの愛好家か八ヶ岳に詳しい人だろうと思います。

美濃戸は南八ヶ岳の主峰・赤岳の登山口の地名です。

八ヶ岳連峰では北端にある蓼科山にしか登ったことがない山小舎おじさん。
せっかく近くにいるのだから、年に一回くらい八ヶ岳の各ピークにでも登りたいな?と思いつつ腰が重く今に至っています。

11月のある日、偵察がてら美濃戸まで軽トラで行ってみました。

南八ヶ岳山麓には縦横に走る道路が続いています。
連峰と並行に、茅野から原村、富士見と走りぬける、八ヶ岳エコーライン。
原村の高原野菜畑を赤岳方面に駆け上る八ヶ岳ズームラインなど。

山麓の道路を駆け抜け、まずは美濃戸口へ向かう分岐点へと向かいます。
美濃戸口は美濃戸への入り口です。

美濃戸口への分岐点

分岐点を過ぎ、美濃戸口へ向かう道路わきには別荘が点在しています。

美濃戸口に着きました。
どんな山の中か?と想像していた眼前に、小ぎれいな山荘とこじゃれたカフェが現れました。
ここまでは路線バスも、毎日2~4本運行しています。

美濃戸口へ着いた、バスの転回場の向こうに山荘
路線バスの停留場
美濃戸口のしゃれたカフェ

美濃戸口から美濃戸まで、歩いて1時間の行程ですが、車道が続いてみるので行ってみることにします。

大変な悪路でした。
乗用車では行かない方がいいでしょう。
軽トラでも1速か2速でヒヤヒヤしながら行きました。
凸凹のガードレールのない砂利道で、対向車があれば行きかうのが大変な道です。

美濃戸へ向かう道

いつまで走ればいいのか?本当に美濃戸に着くのか?と思っていたころ、山小舎が見えました。

美濃戸へ着きました。迎えるのはやまのこ村山荘

とりあえず駐車場に軽トラを止め降り立ちます。
美濃戸口とは異なり本格的な山の気配が支配的です。

美濃戸には3軒の山小舎があり、それぞれ駐車場を持ています。
11月とはいえ休日のこの日、満車とはいえなくとも思ったより多くに車が駐車しています。
山から下ってくる登山者もちらほらいます。

美濃戸から望む赤岳山頂

赤岳山荘のおばさんと話をしました。

ここからだと往復8時間で赤岳山頂までいってこれるとのこと。
本来であれば朝7時までに駐車場に来てスタートするのが望ましいこと。
自信がないのであれば途中の行者小屋まで行ってみるのもいい。
この先にもう1軒山小舎があり、登山ルートの分岐点があるから行って見てみなさい。

おばさんが話してくれた赤岳山荘

おばさんの言う通り、.北沢コースと南沢コースの分岐点まで行ってみました。

カップルの登山者が下りてくるところでした。
山小舎前の湧水を汲みながら休んでいるところを話しかけました。

登山ルートの表示

赤岳に登ってきた。
山頂までは3時間だった。
雪があるので滑り止めをつけないと死にますよ、夏でも登山靴を履いた方がいいでしょう。
赤岳は何回か登ったが年配者も単独者も多いよ。
夏は前泊で乗り込む人が多いから駐車場も満杯になる。とのこと。

登山ルート分岐点に近い美濃戸山荘

すでに深山の気配が色濃い美濃戸。
三々五々下りてくる登山客と赤岳山荘のおばさんがいなければ、一刻も早く下界に退散したくなる、寂しくも厳しい「山の領域」です。

来年の夏。
混雑する休日を避けて、朝7時着で駐車場を目指し、登山靴を用意したうえで、とりあえず途中の行者小屋あたりを目指して登ってみましょうか。

まだ・諏訪の神様が気になるの 御射山、御柱、尖石

八ヶ岳山麓の南西エリアは諏訪の神様のゆかりの地です。
歴史に埋もれかかった神社、現代に生きる祭祀、遺跡などが、訪れる人を待つように息づいています。

御射山(富士見町)

中央道諏訪南インター近くに、御射山社があります。
諏訪大社は上社と下社がそれぞれ御射山を持っていますが、こは上社の御射山です。
御射山とは神事としての狩猟を行っってきた場所です。

丘陵を上ってみると案内板があります。
軽トラでも入ってゆけるので、案内板の通りに一巡してみます。

矢場だった場所を通り、鳥居と神殿を過ぎると、岩があります。
やはり諏訪の神様の依り代は岩なのです。

入ってすぐに矢場がある
鳥居が立って御射山社の領域となる
神殿が建つ
岩は諏訪系神社のマストアイテム

鳥居があって、くぐると祠がいくつか残っています。
その一つに「初代大祝有員(しょだいおおほうりありかず)」と標識が立っています。

有員は、「諏訪の神様が気になるの」でも印象的に取り扱われた上社の歴史上のキーマンの一人です。

上社の神職として、神長官と並ぶ「大祝」は、代々8歳の男子が即位し、神の化身といわれました。、
その初代の墓がここにあったのです。

初代大祝の墓を見ようとは・・・

上社御射山では、現在でも奉納弓道大会などが行われているとのこと。
目立たなくも、小ぎれいに整備されひっそりと時を刻む諏訪の神様の聖地のひとつです。

社を出て里山を望む

御柱(茅野市)

来年の令和4年は寅年で、御柱祭が行われる年です。
大社の氏子たちにとっては、そのために生きている、といっていいほどのお祭りです。

八ヶ岳農業実践大学近くの空き地に、上社用の御柱8本が切り出されて並んでいました。
本宮用、前宮用にそれぞれ4本です。

切り出された御柱が八ヶ岳を背景に並ぶ

三々五々、見学の人がやってきては写真を撮ってゆきます。

関係者らしき人がいたので聞いてみました。

それによると、八ヶ岳連峰の阿弥陀岳付近の山中から切り出したとのこと。
樹齢は150年から200年。
チェーンソーを使って切ったのもあるとのこと。
ここまでは重機で運び、もう少し下まで重機で運んでから、来年4月に氏子が曳いてゆくとここと。

この8本は、茅野駅裏手にある木落坂を下りて上社に向かいます。
全国的に有名なのは下社の木落坂で、急な坂を氏子たちを振り落としながら御柱が落ちてゆきますが、茅野駅裏手の木落坂はそれほど急ではありません。

「下社の御柱はクルクル回って落ちてゆくが、柱の枝を少し残しておけば回らないで落ちてゆくんだよ」と上社の御柱の特徴を説明してくれた関係者さんでした。

尖石(茅野市)

茅野市の郊外の八ヶ岳山麓に尖石という地名があります。

縄文時代に広く集落が分布した場所で、付近からは国宝に指定された土偶が2体発見されています。

その土偶が展示されている、尖石縄文考古館の近くに地名のもとになった「尖石」があります。

公園風に整地された芝生に標識が立つ

道路から、広い芝生を通り抜けて崖を下りると尖石はありました。

思ったよりは小さいですが、なんとなく存在感のある不思議な岩です。
むき出しの状態で今まで残ってきたのは、尖石が信仰の対象であるゆえんだと思います。

岩、ということからも諏訪信仰とのつながりがうかがえます。

諏訪の神様は諏訪湖畔にある日突然に現れたものではなく、縄文の文化をその揺籃として醸成せしめたものとすれば、ここ八ヶ岳西南麓こそがそのルーツの一つであるともいえるでしょう。

崖を下ると尖石があった
不思議は存在感を放つ尖石

戦前から民間による遺跡発掘のフィールドとしての歴史を持つこの一帯。

何より八ヶ岳の強力なパワーに満ち満ちた場所にみえます。
諏訪の神様と八ヶ岳の親和性、関係性は強いように思います。

雪を頂く11月初旬の八ヶ岳連峰

玉ねぎ定植

今年も玉ねぎの苗を定植しました。

まず100本。
後で50本ほど捕植しました。

品種はネオアース。
収穫後、翌年の3月まで保存可能という品種で、農協などで一般的に売っている苗です。

今年は植え方を工夫しました。

ガッテン農法の講習会で知り合った、富士見町に入植している60歳前後の人からの情報です。

まず畝は踏み固めて固くする。
ついで畝の表面に菜種油かすを蒔く。
マルチング。
苗は体重をかけて土を締めて植える。
です。

トウモロコシを作った畝のマルチを剥がして、天日に当てておきます
定植の当日、畝を踏み固めます
菜種かすを薄く蒔いた後、マルチングします
苗を植え、体重をかけて固めます

来春にはマルチの下が、油粕のおかげで白く菌糸に覆われるそうです。
そうなれば追肥も不要か?

玉ねぎは収穫まで8か月近くかかります。
その間、水やりはもちろん、追肥もなし、となれば苗自体の活力に頼むしかありません。

今回は、ナス、トマトで大成果を上げたガッテン式畝に植えたので、土のコンデイションは良いとして。
あとは植える苗に力を込めて土を固め、根っこの自力給水を促し、幸運を祈りました。

畑は根菜類の収穫を終えれば仕舞です。
マルチを剥がし、支柱を撤去して、作物と畑の労をねぎらいます。

カマキリの卵がありました

軽トラ流れ旅 ディープな松代めぐり

軽トラでのショートトリップのコーナーです。第一弾は、紅葉も始まった10月の下旬、長野市松代地区へ行ってきました。

現在は長野市と合併している旧松代町。
昭和時代の群発地震や戦時中の大本営移転先候補地として知られています。

武田氏が築城し、のちに真田氏の居城となった松代城の城下町です。
真田幸村が大坂冬の陣で討ち死にした後、幸村の弟・信之が上田城から松代城に移り、子孫が代々お殿さまとなりました。

真田家の長男だった信之は、父昌幸と次男幸村が関ケ原の合戦以降、一貫して豊臣方についたのに対し、父昌幸の命令で徳川についた人です。
上杉、武田など有力豪族の間を渡り歩いてきた地方豪族の真田氏にとって、長男信之を徳川方につけるのは御家存続のためのやむなき手段でした。
思惑通り、徳川の世になった後は信之の子孫が真田家を現在まで存続させています。

松代の秋の風景
松代の武武家屋敷
里山を望む松代の風景

上田市真田の直売所

松代へ行くには地蔵峠越えの県道35号線、通称長野真田線を使います。
このルートを選んだのは、真田地区の直売所に寄る目的もあります。
真田氏存続の地・長野市松代地区へ行く際に、真田家発祥の地・上田市真田地区を通る、というのも不思議なご縁です。

真田地区のゆきむら夢工房という施設には、直売所と観光案内所が建っています。
直売所には地区の新米のほか、リンゴ、キウイ、白菜、など季節の産物が並んでいます。
真田米はうちの家族にも好評です。
値段も手ごろで、新米が5キロ1500円くらい、紅玉が4つ400円くらい、小さめのキウイが1袋200円くらいです。
季節ごとにここに寄るのが楽しみな直売所です。

構内にある直売所
本日のお土産に新米、リンゴなどを購入

隣の観光案内所にも寄ってみました。
入り口に、角間渓谷の案内図が貼られているのが目を引きます。
角間渓谷は真田から群馬に抜ける間道で、真田氏にも由来のある歴史的な道です。
「森林浴の道100選」にも選ばれています。

観光案内所の女性に角間渓谷マップはもらえないか?と聞いてみたところ、「おととしの台風の影響で通行止めになっている。ハイキングコースも台風の影響で樹木が倒れるなど景観が変わってしまった」と、新たな情報を加えつつマップを出してくれました。
ここの道も、台風19号の影響で修復中のようですが、いつか行ってみたいルートです。

地蔵峠を越えて松代へ

真田地区から県道35号線で松代へ向かいます。
地蔵峠までは山すその農村風景が続きます。

右手に鳥居が見えたので寄ってみました。
この地区の氏神様のようですが、本殿の造りがお寺の本堂のようにも見えます。
明治維新後の廃仏毀釈の影響で、無理やり神社1本にさせられる前はお寺も兼ねていた?のかもしれません。

新しめの鳥居の奥に本堂風の本殿が見える
ご神木に神社の歴史を感じる

峠が近くなると、道路わきに一列の別荘群が現れます。
まあ、立地的には上田と長野の中間地ではありますが・・・標高も高く、冬は寒そうな場所ではあります。
人様のことは言えませんが。

長野真田線の峠付近

上田市真田地区と長野市松代地区の境の地蔵峠を越えます。
峠にはお地蔵さまが立ち、トイレもあります。
トイレは湧水が常に流れっぱなしの「常時水洗」式です。
もみじがいい具合に色づき始めていました。

地蔵峠の紅葉

松代まち歩きセンターにて

松代郊外に皆神山という民間信仰の歴史を持つ里山がある。
県道わきの標識には「日本ピラミッド」という案内板が掲げられるスピリチュアル系のスポットでもある。

山小舎おじさんが一昨年だったか、皆神山山頂の神社にお参りした後、ふもとの松代中心部にある、松代まち歩きセンターを訪れた。
センターにはフットワーク軽く弁舌鮮やかなスタッフの同年輩がいらっしゃった。
彼から皆神山や松代のガイダンスをいただき、また地元発行の皆神山に関する冊子を買って帰った。

松代へ行ったら街歩きセンターへ行こう!

今回もまた、センターを訪れた。
ご同輩はいらっしゃった。
センターに入るや否や、足取りも軽やかにやってきて「何かご用?」と、2年ぶりのお出迎えをいただいた。

うれしくなって半時間ほども雑談したろうか。
今回の目的の真田宝物館と真田氏のことから、かつて盛り場だった場所、町のランチどころ、天皇御座所予定地のこと、町にある温泉のことまで、ビジターとして欲する情報のすべてをいただいた。

ご同輩は、サラリーマンを60歳定年の後、再就職がたがわず、このセンターに活動の場を求めたとのこと。
NPO法人仲間とボランテイアでセンターを運営しながら町おこしをしている由。

NPO法人の理念を模造紙で展示している

思うようにいかない過疎の町での町おこし。
若い人を巻き込んでの経済的にも継続性のある活動を模索中とのこと。
課題は全国共通であることを山小舎おじさんも痛感。

同様のまちづくりNPO施設は県内の各所にありますが、どうしても活動が内向きになるというのでしょうか、例えば情報が欲しくてその町の施設を訪ねても、仲間との活動中をお邪魔したがごとく、あんた誰?何しに来たの?とでもいわんがごとき空気に触れた経験もないではありません。

こちらのセンターのようにホスピタリティにあふれたスタッフを抱え、地道な活動を続けつつ形に残しているところは旅の流れ者にとっては本当にありがたく、また感心するのです。
その旨はしっかりご同輩にお伝えしました。

ということで、レンタサイクル(半日400円!)を借りて、教わったディープな松代の街歩きにゴー!

センターが誇る地元研究成果の数々

旧商家、氏神、旧飲み屋街、ランチ・・・

まずはセンターで勧められた、町の中心部に近い寺町商家へ。
江戸末期から昭和初期まで質屋を営んでいたという商家の建物を保存し、開放している。
昔日の松代の風景をうかがうには最適な場所。

入り口の門も豪勢だが、中の庭もきれいに手入れされている。
この日は貸し切りで行事が行われていたが、普段はランチもやっているとのこと。

寺町商家の門構え
内部の庭はいい感じ

次いで、センターで教えてもらった旧飲み屋街へ。

その途中に神社があった。
延喜式内の祝神社という。
場所的にも町の氏神的的な神社のようだ。

本来の神様のほかに、八幡様やお稲荷様も祀っているのが特徴的な神社で、正面が拝殿で、左90度に八幡神社と稲荷神社などがある。

これは諏訪下社本宮の配置と同じで、後から祀るようになった神様を、合祀するのではなく、本殿と90度ずらした拝殿に祀ってある。

この神社は地元で「お諏訪さん」と呼ばれるとのこと。
とすれば、正面の本殿に祀る神様が諏訪系の古神ということになり、年代が下るにつれ、境内に他国の様々な神様を取り込むようになったものと思われる。

さて、かつて栄えた場所であるなら必ずあるのが、料亭、赤線などなどの水商売系の場所。
センター情報によると、三業地的な場所はなかったようだが、飲み屋街としては、神屋横丁がその場所だそうだが、10年ほど前に古い建物は一掃されたとのこと。

行ってみると飲み屋が数軒残っていた。
後は住居が並ぶ一角になっている。
神屋横丁はサイズ的にも料亭、置屋などが立地するには狭く、お座敷文化はなかったのかもしれない。

鍵屋横丁の現状風景

ランチタイムになった。
一昨年訪れた、ニュー街道という食堂に行きたかった。
そこで食べたあんかけ焼きそばは質量ともに満足の一皿だった。
写真をとっても良いかと聞くと、店の大将は「そんなもん撮ってどうするの?」と言っていたっけ。

楽しみに訪れると・・・貸切営業の貼り紙が。

ここがだめだと、あとはカフェ、パン屋のイートイン、竹風堂(県内の有名和菓子屋)のおこわ定食、くらいしか選択はなく、やむなくコンビニで弁当を購入。
訪問予定の真田宝物館のある真田公園のベンチでいただくが、ちょっと残念だった。

松代の食堂、ニュー街道。この日は予約営業

真田宝物館

松代の真田宝物館には、信之以降の武具、家康らからの書状、衣装、家具などが展示されている。
現在まで続く真田家が収蔵してきた歴史的な品々である。
これらが残ったのも信之が徳川方について、城主として生き残ってきたからこそのこと。

歴代の城主たちが所有したという甲冑や真田家に輿入れした方々の守り刀などの本物の展示が目を引く。
中には幸村所有の刀というものもあった、真贋は不明だという。

また、戊辰戦争に官軍として出兵した折の真田藩の旗もあった。
六文銭の旗印であった。

反徳川勢の斬込み隊長として大坂の陣などで奮戦した真田の旗印は、のちの幕末にあって再び反徳川勢力の元に翻ったということか、それとも反骨の旗印は幕末には体制側に落ち着いたということなのだろうか。

真田氏の遺物の展示内容の充実度としては、上田市真田地区の博物館はもちろん、上田市立博物館のそれと比しても一番なのではないかと思う。
内容が信之以降の時代のものに限定はされているとはしても。

真田公園内にある宝物館。展示内容の充実度と集客数を誇る

松代城跡から大本営天皇御座所跡へ

真田宝物館から松代城跡へ向かう。
広がる景色の中にたたずむ平城とお濠が姿を現す。
千曲川に向かう扇状地に立地する松代の水はこのお濠に集めれられたという。

明治維新後は石垣のみが残ったという城跡。
城壁のほか、二つの橋と、本丸へ向かう太鼓門が復元されている。
扇状地の端っこにあり、住宅地も途切れている場所にあるので、少々寂しそうに見えるお城である。

お城見物もそこそこに自転車を走らせ、大本営跡に向かう。
戦争末期、大本営と天皇御座所などを松代の地下壕に移転しようとした経緯がある。
地下壕の一部は一昨年に見物した。

センターからの情報として、現在地震観測所となっている場所に天皇御座所跡があって見学できるらしいとのこと。行かねばなるまい。

扇状地をひたすら上って地震観測所を目指す。
これ以上は山に突き当たる、という場所に御座所はあった。

トンネルになっているのかと思いきや、別棟の建物があり、内部が当時の御座所そのままだという。
窓越しに眺めることができる。

今も保存される御座所内部を窓越しに撮影

うーん、こんな長野の山の行き止まりの場所で、どうしようというのか?当時の日本政府よ?
76年後の御座所周辺もおそらく何も変わっていないよ、と当時の為政者たちにお伝えしたい。
それとも変わらないから選ばれたのか?ここが。

感慨無量(感ずるところが何もないという意味で)の景色だった。

御座所から見た風景。左手が扇状地の扇頂に当たる山々

加賀井温泉 一陽館

街歩きを終え、自転車をセンターに返し軽トラに乗る。
教えてもらった温泉にでも入って帰ろう。

松代郊外、田園風景のただなかに一軒宿がある。
行き止まりの道を入ると時間が止まったような光景があった。
加賀井温泉一陽館。

東北の湯治場にあるような、ひなびすぎて人気もないような一軒宿。
手入れもされていない木造の母屋、浴室、荒れ果てた休憩棟が並んでいる。
奥からつげ義春が歩いて来ても不思議ではない。

撮影禁止とのことで駐車場からの風景を1枚

日帰り入浴のみの営業のようだ。
受付で入浴の旨を伝えるとおばさんが「初めてですか?」と顔を出す。
「センターから紹介されて」と答えるとおばさんが少し和んだように見えた。
入浴料400円を箱に入れる(500円玉を入れて100円のおつりを自分で取る)。

おばさんが建物から出てきて、浴室の入口の場所から露天風呂の入り方、源泉の流れるルートとそれに合わせた入浴方法などを立て板に水のような鮮やかさで説明し、案内してくれる。

行き止まりの道の角に案内板が立つ

板と日よけシートで区切られただけの露天風呂には湯あみ服を着た女性が子供と入っている。
この露天風呂は女湯からは直接行けるが、男が入りたければ裸のままつっかけを履き、外を歩いてゆかなければならないとの説明。

浴室は脱衣場がなく、浴室の脇に脱衣かごが並んでいる。
これならロッカーがなくても常に浴槽から自分の荷物を眺めていられるが、足をぬらさずに着替える場所がないのが不便。

教えてもらった通り、浴槽の最後尾から湯に入り、段々と源泉が流れる上手に移ってゆく。
41度の源泉が心地よい。

東北では、鶯宿、夏油、鉛、横向、後生掛、乳頭、泥湯、などに入ったことがあり、寂れ切ったというかひなびた温泉は知っているつもりだったが、経験上今までで一番古いというか、さびれたというか・・・。
建物が更新(建て替え、修繕、補修、手入れ)されていない一軒宿としてはナンバーワン(オンリーワン?)だった!

戦後から全く更新されていないであろう建物の中を源泉が流れてゆく。
この源泉、空気に触れると茶色く変色するというシロモノで、無味無臭。
刺激は全くないが、あとで驚いた。

温まってのどが渇くだけでなく、気分がリフレッシュし、入ってよかった感が半端なかった。

入って眠気が飛ぶことを、かつて東北の玉川温泉で経験したが、入って気持ちが前向きになるというのは経験ないかも。
これはすごい温泉かも知れない。
センターさん、ありがとう!