ラピュタ阿佐ヶ谷で森崎東の「女生きてます」「女売り出します」


「喜劇 女生きてます」   1971年  森崎東監督   松竹(ラピュタ阿佐ヶ谷・35ミリフィルム上映) 

ラピュタでの「森繁力」という特集上映での1作。
この作品のトップクレジットは森繁久彌だが、抑えた演技。
すきあれば浮気を企む東宝「社長シリーズ」のようなねちっこさはなく、また女に頼る男の弱さを強調した「夫婦善哉」(55年 豊田四郎監督)や「如何なる星のもとに」(62年 同)のような、スネたりヒネたりした演技でもなく、その両者がほどほど発揮された、年齢相応な控えめな演技だ。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフ表紙

この作品の主演は森繁の妻で、新宿芸能社なるお座敷ストリッパー派遣会社を仕切る『かあさん』であり、そこへ流れつく女の子たちである。
タイトル通りに『女』が主役なのである。

ロビーに掲示されたプレスシート

今回(「女シリーズ」第二作)の『かあさん』は左幸子。
森繁との共演で思い出すのは「青べか物語」(62年 川島雄三監督)。
当時は漁村だった浦安に移り住んだ小説家(山本周五郎自身がモデル)に絡む地元の芸者を演じ、勝手に森繁の下宿に乗り込みどんちゃん騒ぎをする、無遠慮な破壊力を炸裂させた演技に圧倒されたものだ。
本作でも、その行動力、破壊力、人間力がますます発揮される。

プレスシートより

芸者の置屋を現代風にして、場末風にし、庶民的にしたのが映画の舞台・新宿芸能社。
常に2、3人の女の子が暮らし、雑用をこなしながら、父さん、母さんを含めた全員で食事をし(昼ごはんのソーメンは一つのザルに銘々が.箸を突っ込んでの食事風景)、お座敷がかかれば出かける。
父さんは暇さえあれば近所のトルコ風呂(スチームバスとマッサージの)に出かける。
女の子は、相思相愛(と思い込んだ)男と結婚しては破れて出戻ってきたり、訳アリの子が流れ着いてきたり。
女の子本人を家族のように面倒を見たり、ヤクザを前に体を張って女の子と家を守るのが、左幸子扮するかあさん。外出から帰ると、休む間もなく、カツラを取り、つけまつげをむしり取って着替えては、女の子に指示を出し、芸能社の収支を気にする。
こわもてにはからきし弱いが、女の子の人生を見越して、人生訓を垂れるのが森繁扮する父さん。
夫婦の役割が決まっている。

新宿芸能社に流れ着き、売れっ子として家を支えるのが、大映でデヴューした安田道代扮する好子。
安田はこの時20代中盤だが、日本映画の衰退の時代に汚れ役を厭わず大映を支え続け、実生活では若山富三郎の愛人だったこともある。
安田道代の全盛期が見られるのはうれしかった。

安田道代

他に、独立の資金稼ぎに応募してきた短大生(吉田日出子)や、母さんがバックレた女の子を追って大坂に向かった際に知り合い、母さんの名刺を頼って上京してきた頭の弱いポチと呼ばれる10代の子(久万里由香)が登場して、てんやわんやのエピソードを繰り広げる。

好子には訳アリの男・梅本(橋本功)がいる。
定職につかず、酒癖が悪く、暴力によってしか意思表示ができない社会不適合者なのだが、養護施設出身の二人には、お互いが唯一の社会での味方であり、離れられない。
好子は梅本をまっとうにしようと、母さんに借金して小料理屋を開いたり、男が反省して割烹の下働きに出たりするが、必ず梅本の短気と不器用さとこらえ性のなさでぶち壊すことになる。

この二人の存在は「男はつらいよ」の寅とさくらのハード版であり、森崎東によって現実的に解釈された、愚兄賢妹である。
橋本功扮する梅本は、寅さんから愛嬌と、訳知り顔の人生訓を取り去り、不器用そのものの一途さと暴力性を前面に押し出した姿である(寅さんも最初のころは森川信のおいちゃんと、言いがかりのようなド突きあいを繰り返していた)。

プレスシートより

梅本は好子のお座敷ストリップの現場に乱入しての一度目と、自分のもとを去った好子が母さんのもとに身を隠したと邪推して新宿芸能社に乗り込んでの二度目の大暴れをする。
特に二度目は、芸能社のセット全体を破壊する大暴れで、暴力でしか自分を表現できない人間の悲しさを全身で表していた。
暴れ終った梅本に対し『気が済んだか!。好子の前借と家の修理代はあとでお前に請求するからな!』と啖呵を切る左幸子が凄かった(この間、森繁は物陰に隠れている)。

どうなろうと、唯一お互いを信じられる存在の梅本と好子。
刑期明けの梅本を好子が迎える。
仰りの移動撮影の画面を二人がカメラに向かって歩く。
梅本からまさかの「インターナショナル」の一節が漏れる、『立て飢えたるものよ』と。
これは、森崎東の梅本と好子の究極の底辺カップルへのエールなのか。
あるいは、この次に出てくる、『ねんねこに赤ん坊を背負った妻が、服役中の夫に面接しようと刑務所の扉を潜ってゆく』ラストカットにこそ、森崎の弱者への思いが凝縮されているのか。

特集パンフより

映画に使われた「インターナショナル」には意標を突かれたが、「1900年」(76年 ベルナルド・ベルトルッチ監督)での一場面が印象的だった。
ファシスト党勃興前夜のイタリアの田舎の駅のプラットホームで、反対勢力の村民が赤旗を翻す中、初老の男がニコニコとアコーデイオンで奏でた牧歌的な「インターナショナル」だった。

「喜劇 女売り出します」   1972年   森崎東監督  松竹(ラピュタ阿佐ヶ谷・アーカイブ所蔵35ミリ上映)

シリーズ第三作。

今回上映されたプリント、第二作「女生きてます」が、昭和の名画座を思い出すほどの傷み具合で、開巻とラスト近くのポチのエピソードがすっぽり切れていた。
更に「女売り出します」はフィルムアーカイブ所蔵作品だった!
72年の、松竹のエース監督の一人だった森崎東作品の上映プリントも会社の倉庫にないのか、松竹。

シネマヴェーラで見た「あこがれ」(66年 恩地日出夫監督)と「めぐりあい」(68年 同)の、退色した、とぎれとぎれのプリントを思い出す。
東宝と松竹がこれでいいのか?
投資の甲斐があるシネコン事業など以外には渋ちんなのか、目が文化資産としての映画ソフトの保存と活用には向いていないのか。
この日の上映が満席だったのは、この作品の上映機会が少ないからだったからなのだろう。

藤原審爾の「わが国おんな三割安」が原作の森崎東の「女シリーズ」。シリーズを貫くのは、女の逞しさとかわいらしさ、男のだらしなさと純粋さ。弱者には決してやさしくはない社会の現実と、その社会が持つ人間味。それは監督の森崎の視線でもある。

本作の「母さん」は市原悦子。
左幸子と比べると破壊力の差は一目瞭然。
ただ第一作と四作目の「かあさん」が中村メイコであることを考えると、森崎の母さん像はかわいらしさに比重を持つもので、市原悦子に近いのかもしれない。

新宿芸能社に出入りするゲスト女優は、夏純子。
クレジットには(日活)と出る。
まだ5社体制だった最後の時代の映画だったことがわかる。

前作の安田道代と橋本功の底辺カップルよろしく、夏純子の相手役はスリ集団の半端者・米倉斉加年。
ヤクザには見えなくて、きれいごとに納めたがる松竹らしいキャステイイグ?と思ったが、この役は戦災孤児の過去を持ち、やむなく底辺で生き、夏純子には純情をささげる人物なので、演技力のある米倉で結果的にはよかったかと。

更に驚きのキャステイングは岡本茉莉。
寅さんシリースで旅先で寅さんが巡り合う旅芸人一座の若手女優役で、団長の吉田義男とともに『車先生!』と寅に声をかけ、巡業のトラックに乗せたりする。
あの昭和時代の田舎の純情娘を体現した岡本茉莉が、山形から出てきて売春宿に住まわされており、夏純子に財布をすられたことからストーリーに重要な役で絡んでくるのである。

この作品、ほかのシーンでバックに「男はつらいよ」のテーマ音楽が流れたり、この岡本茉莉を都会で騙される娘役でキャステイングすることといい、山田洋次の”きれいごと主義”を揶揄しているとしかいいようがない。
「男はつらいよ」のヒットで外野が何も言えなくなりつつあったこの時期の山田洋次に対し、同じ松竹の監督から、決してエールとはいえぬメッセージが発せられていたのである。

夏純子と米倉は、岡本茉莉を助けようと、売春宿から救い出す。
組織から落とし前のリンチを受ける米倉。
スリの命の右手を潰されるが、助けに来た夏純子に『俺は左利きなんだ』とうめきながら応える。
凄惨なムードを一変するこのオチには、森崎とその所属する松竹の伝統的なユーモア精神を感じる。

ラストシーンは東京の街頭を颯爽と歩く岡本茉莉のカット。
他人に騙されるフェーズは脱したが、これからは一人の判断で都会を生き抜く、たとえそれが女の価値を売ってゆく体一つの商売であっても。
といわんばかりの彼女の覚悟が現れたラストシーン。森崎の彼女に対するエールでもあり、突き放しでもある。
いつまでも旅芸人一座の町娘役でトラックの荷台で揺られながら田舎周りをやっているよりは、よほど現実的で建設的な姿ではないのか。

特集パンフより

投稿者: 定年おじさん

1956年北海道生まれ。2017年に会社を退職。縁あって、長野の山小屋で単身暮らしを開始。畑作り、薪割り、保存食づくり、山小屋のメンテナンスが日課。田舎暮らしの中で、60歳代の生きがい、生計、家族関係などの問題について考える。60歳代になって人生に新しい地平は広がるのか?ご同輩世代、若い世代の参加(ご意見、ご考察のコメント)を待つ。

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