DVD名画劇場 大都映画とハヤブサヒデト

大都映画という映画製作会社が戦前にあった。

集英社選書に「幻のB級!大都映画が行く」があって一読。
そこには、戦時体制で映画会社が3社に統合されるまで、松竹、東宝、日活、新興キネマと並んで邦画メジャー5社の一つに数えられた大都映画の発祥と解散までの貴重な経緯がつづられていた。

集英社選書 本庄慧一郎著 「幻のB級! 大都映画が行く」

作家、脚本家の著者はテレビ、広告業界でCM製作を手掛ける傍ら、「大都映画撮影所物語」という劇を執筆、好評を得た。
戦前のメジャー映画会社でありながら、現在では知られることの少ない大都映画に、親族が勤めていた縁を持つ著者が、その歴史を掘り起こし新書にまとめたのが本著である。

建築業界の風雲児としてのちに大都映画を創業した河合徳三郎の生涯から、大都映画のカラーである徹底した大衆路線と、戦前の企業統制により大都映画が解散するまで、仰天エピソードの数々がつづられる。

一代で名を成し、全身に入れ墨があり、関係者に慕われたという河合徳三郎。
映画会社の経営者としては、やくざ上がりの大映・永田雅一社長や、女優を妾にしたと公言して憚らなかった新東宝・大蔵貢社長、さらには京都に発祥し、やくざと切っても切れなかったマキノ映画から東映京都へとつながる人脈、に近いものがあろう。
東大新卒の城戸四郎を社長に据えた松竹や、実業家にして文化人の小林一三を元祖とする東宝とは毛色が異なる。

大都映画のモットーが「楽しく、安く、速く」であり、徹底した娯楽路線の作品を、粗製乱造と揶揄されるスピードで量産し、低価格で公開したのも、この「毛色」と深く関係していよう。

また、大都映画の本拠である巣鴨撮影所は、低賃金、過酷な労働環境ながら家族的雰囲気で、河合社長のもと一団結していたという。

大山デブ子、杉狂児、山本礼三郎、伴淳三郎、水島道太郎などのスターを生み、千葉泰樹、佐伯幸三などの監督を生んだ。

戦時統制により映画会社が統合された際、東宝、松竹と並ぶ第三社となるべく、大都は日活、新興キネマと合併し、大映映画が誕生した。
大映誕生の裏には永田雅一の「寝技」があったといわれるが、いずれにせよこの時点で大都映画は消滅した。

通算で1200本以上を製作した大都映画だが、現存するのはごくわずか。
ほとんどが戦災でネガごと灰塵に帰しているのは残念なことである。

最も、戦前の作品が現存しないのは大都に限ったことではない。
背景には、映画プリントを消耗品と考え、興行上映でボロボロになるまで使い切った後は、プリントを簡単に廃棄し、またネガを大切に管理していたとはいえない当時の日本映画界の慣習がある。
戦前の作品が海外(アメリカの日系映画館や、欧州のフィルム博物館など)で発見されることが多いのは、ことためもある。

大都映画のスター、ハヤブサヒデト

「怪傑ハヤブサ」  1948年  ハヤブサ・ヒデト監督

最初に断っておかなければならないのは、この作品が大都映画ではないことだ。
大都映画は戦前に消滅したのだから、1948年のこの作品が大都ではないことは自明だ。
ではなぜこの作品を見たのか。大都のスターだったハヤブサヒデトが出ているからだ。

1948年版「怪傑ハヤブサ」。中央の女優がヒロイン長谷川ひとみ

オートバイが疾走する。
燃える納屋に突っ込み、囚われのヒロインを曳きずり出す。
オートバイとその疾走は「月光仮面」に援用されているといわれる。
「少年ジェット」という番組もあり、オートバイで疾走する主人公の脇には並走するシェパード犬がいた。

ハヤブサというネーミング。
戦時中はビルマに展開した中島飛行機製の名機隼を擁した加藤隼戦闘隊があった。
山小舎おじさん幼いころのテレビ番組には「海底人8823(はやぶさ)」というのがあった。
最近では日本中が応援した気象探査衛星が愛称はやぶさだった。

オートバイとはやぶさ。
この二つのアイコンに彩られた主人公がハヤブサヒデトである。

ハヤブサの全盛期は大都時代の1930年代といわれる。
「怪傑ハヤブサ」は、戦後に、自らの演出で再現されたハヤブサアクションである。

そのアクションは、サーカスで鍛えた空中綱渡り・滑走と、オートバイ、格闘である。
モーターボートで疾走し、海に飛び込んでもいる。

実写で行われるそれらアクションは、どちらかというとジャン=ポール・ベルモンドの体を張った動きを連想させる。
アナログだからこそハラハラするアクションである。

ヒロインは長谷川ひとみという女優で美しい。
派手なパーマはともかく、当時の若い日本女性ならではのふるまいが好ましい。

DVD版は上映時間49分。
オリジナルは89分だそうで、約40分分がブツブツに切れておりストーリーがよくわからなくなっている。

が、いずれにせよ伝説のハヤブサヒデトを見られる貴重な記録である。

投稿者: 定年おじさん

1956年北海道生まれ。2017年に会社を退職。縁あって、長野の山小屋で単身暮らしを開始。畑作り、薪割り、保存食づくり、山小屋のメンテナンスが日課。田舎暮らしの中で、60歳代の生きがい、生計、家族関係などの問題について考える。60歳代になって人生に新しい地平は広がるのか?ご同輩世代、若い世代の参加(ご意見、ご考察のコメント)を待つ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です