まだ・諏訪の神様が気になるの 御射山、御柱、尖石

八ヶ岳山麓の南西エリアは諏訪の神様のゆかりの地です。
歴史に埋もれかかった神社、現代に生きる祭祀、遺跡などが、訪れる人を待つように息づいています。

御射山(富士見町)

中央道諏訪南インター近くに、御射山社があります。
諏訪大社は上社と下社がそれぞれ御射山を持っていますが、こは上社の御射山です。
御射山とは神事としての狩猟を行っってきた場所です。

丘陵を上ってみると案内板があります。
軽トラでも入ってゆけるので、案内板の通りに一巡してみます。

矢場だった場所を通り、鳥居と神殿を過ぎると、岩があります。
やはり諏訪の神様の依り代は岩なのです。

入ってすぐに矢場がある
鳥居が立って御射山社の領域となる
神殿が建つ
岩は諏訪系神社のマストアイテム

鳥居があって、くぐると祠がいくつか残っています。
その一つに「初代大祝有員(しょだいおおほうりありかず)」と標識が立っています。

有員は、「諏訪の神様が気になるの」でも印象的に取り扱われた上社の歴史上のキーマンの一人です。

上社の神職として、神長官と並ぶ「大祝」は、代々8歳の男子が即位し、神の化身といわれました。、
その初代の墓がここにあったのです。

初代大祝の墓を見ようとは・・・

上社御射山では、現在でも奉納弓道大会などが行われているとのこと。
目立たなくも、小ぎれいに整備されひっそりと時を刻む諏訪の神様の聖地のひとつです。

社を出て里山を望む

御柱(茅野市)

来年の令和4年は寅年で、御柱祭が行われる年です。
大社の氏子たちにとっては、そのために生きている、といっていいほどのお祭りです。

八ヶ岳農業実践大学近くの空き地に、上社用の御柱8本が切り出されて並んでいました。
本宮用、前宮用にそれぞれ4本です。

切り出された御柱が八ヶ岳を背景に並ぶ

三々五々、見学の人がやってきては写真を撮ってゆきます。

関係者らしき人がいたので聞いてみました。

それによると、八ヶ岳連峰の阿弥陀岳付近の山中から切り出したとのこと。
樹齢は150年から200年。
チェーンソーを使って切ったのもあるとのこと。
ここまでは重機で運び、もう少し下まで重機で運んでから、来年4月に氏子が曳いてゆくとここと。

この8本は、茅野駅裏手にある木落坂を下りて上社に向かいます。
全国的に有名なのは下社の木落坂で、急な坂を氏子たちを振り落としながら御柱が落ちてゆきますが、茅野駅裏手の木落坂はそれほど急ではありません。

「下社の御柱はクルクル回って落ちてゆくが、柱の枝を少し残しておけば回らないで落ちてゆくんだよ」と上社の御柱の特徴を説明してくれた関係者さんでした。

尖石(茅野市)

茅野市の郊外の八ヶ岳山麓に尖石という地名があります。

縄文時代に広く集落が分布した場所で、付近からは国宝に指定された土偶が2体発見されています。

その土偶が展示されている、尖石縄文考古館の近くに地名のもとになった「尖石」があります。

公園風に整地された芝生に標識が立つ

道路から、広い芝生を通り抜けて崖を下りると尖石はありました。

思ったよりは小さいですが、なんとなく存在感のある不思議な岩です。
むき出しの状態で今まで残ってきたのは、尖石が信仰の対象であるゆえんだと思います。

岩、ということからも諏訪信仰とのつながりがうかがえます。

諏訪の神様は諏訪湖畔にある日突然に現れたものではなく、縄文の文化をその揺籃として醸成せしめたものとすれば、ここ八ヶ岳西南麓こそがそのルーツの一つであるともいえるでしょう。

崖を下ると尖石があった
不思議は存在感を放つ尖石

戦前から民間による遺跡発掘のフィールドとしての歴史を持つこの一帯。

何より八ヶ岳の強力なパワーに満ち満ちた場所にみえます。
諏訪の神様と八ヶ岳の親和性、関係性は強いように思います。

雪を頂く11月初旬の八ヶ岳連峰

玉ねぎ定植

今年も玉ねぎの苗を定植しました。

まず100本。
後で50本ほど捕植しました。

品種はネオアース。
収穫後、翌年の3月まで保存可能という品種で、農協などで一般的に売っている苗です。

今年は植え方を工夫しました。

ガッテン農法の講習会で知り合った、富士見町に入植している60歳前後の人からの情報です。

まず畝は踏み固めて固くする。
ついで畝の表面に菜種油かすを蒔く。
マルチング。
苗は体重をかけて土を締めて植える。
です。

トウモロコシを作った畝のマルチを剥がして、天日に当てておきます
定植の当日、畝を踏み固めます
菜種かすを薄く蒔いた後、マルチングします
苗を植え、体重をかけて固めます

来春にはマルチの下が、油粕のおかげで白く菌糸に覆われるそうです。
そうなれば追肥も不要か?

玉ねぎは収穫まで8か月近くかかります。
その間、水やりはもちろん、追肥もなし、となれば苗自体の活力に頼むしかありません。

今回は、ナス、トマトで大成果を上げたガッテン式畝に植えたので、土のコンデイションは良いとして。
あとは植える苗に力を込めて土を固め、根っこの自力給水を促し、幸運を祈りました。

畑は根菜類の収穫を終えれば仕舞です。
マルチを剥がし、支柱を撤去して、作物と畑の労をねぎらいます。

カマキリの卵がありました

軽トラ流れ旅 ディープな松代めぐり

軽トラでのショートトリップのコーナーです。第一弾は、紅葉も始まった10月の下旬、長野市松代地区へ行ってきました。

現在は長野市と合併している旧松代町。
昭和時代の群発地震や戦時中の大本営移転先候補地として知られています。

武田氏が築城し、のちに真田氏の居城となった松代城の城下町です。
真田幸村が大坂冬の陣で討ち死にした後、幸村の弟・信之が上田城から松代城に移り、子孫が代々お殿さまとなりました。

真田家の長男だった信之は、父昌幸と次男幸村が関ケ原の合戦以降、一貫して豊臣方についたのに対し、父昌幸の命令で徳川についた人です。
上杉、武田など有力豪族の間を渡り歩いてきた地方豪族の真田氏にとって、長男信之を徳川方につけるのは御家存続のためのやむなき手段でした。
思惑通り、徳川の世になった後は信之の子孫が真田家を現在まで存続させています。

松代の秋の風景
松代の武武家屋敷
里山を望む松代の風景

上田市真田の直売所

松代へ行くには地蔵峠越えの県道35号線、通称長野真田線を使います。
このルートを選んだのは、真田地区の直売所に寄る目的もあります。
真田氏存続の地・長野市松代地区へ行く際に、真田家発祥の地・上田市真田地区を通る、というのも不思議なご縁です。

真田地区のゆきむら夢工房という施設には、直売所と観光案内所が建っています。
直売所には地区の新米のほか、リンゴ、キウイ、白菜、など季節の産物が並んでいます。
真田米はうちの家族にも好評です。
値段も手ごろで、新米が5キロ1500円くらい、紅玉が4つ400円くらい、小さめのキウイが1袋200円くらいです。
季節ごとにここに寄るのが楽しみな直売所です。

構内にある直売所
本日のお土産に新米、リンゴなどを購入

隣の観光案内所にも寄ってみました。
入り口に、角間渓谷の案内図が貼られているのが目を引きます。
角間渓谷は真田から群馬に抜ける間道で、真田氏にも由来のある歴史的な道です。
「森林浴の道100選」にも選ばれています。

観光案内所の女性に角間渓谷マップはもらえないか?と聞いてみたところ、「おととしの台風の影響で通行止めになっている。ハイキングコースも台風の影響で樹木が倒れるなど景観が変わってしまった」と、新たな情報を加えつつマップを出してくれました。
ここの道も、台風19号の影響で修復中のようですが、いつか行ってみたいルートです。

地蔵峠を越えて松代へ

真田地区から県道35号線で松代へ向かいます。
地蔵峠までは山すその農村風景が続きます。

右手に鳥居が見えたので寄ってみました。
この地区の氏神様のようですが、本殿の造りがお寺の本堂のようにも見えます。
明治維新後の廃仏毀釈の影響で、無理やり神社1本にさせられる前はお寺も兼ねていた?のかもしれません。

新しめの鳥居の奥に本堂風の本殿が見える
ご神木に神社の歴史を感じる

峠が近くなると、道路わきに一列の別荘群が現れます。
まあ、立地的には上田と長野の中間地ではありますが・・・標高も高く、冬は寒そうな場所ではあります。
人様のことは言えませんが。

長野真田線の峠付近

上田市真田地区と長野市松代地区の境の地蔵峠を越えます。
峠にはお地蔵さまが立ち、トイレもあります。
トイレは湧水が常に流れっぱなしの「常時水洗」式です。
もみじがいい具合に色づき始めていました。

地蔵峠の紅葉

松代まち歩きセンターにて

松代郊外に皆神山という民間信仰の歴史を持つ里山がある。
県道わきの標識には「日本ピラミッド」という案内板が掲げられるスピリチュアル系のスポットでもある。

山小舎おじさんが一昨年だったか、皆神山山頂の神社にお参りした後、ふもとの松代中心部にある、松代まち歩きセンターを訪れた。
センターにはフットワーク軽く弁舌鮮やかなスタッフの同年輩がいらっしゃった。
彼から皆神山や松代のガイダンスをいただき、また地元発行の皆神山に関する冊子を買って帰った。

松代へ行ったら街歩きセンターへ行こう!

今回もまた、センターを訪れた。
ご同輩はいらっしゃった。
センターに入るや否や、足取りも軽やかにやってきて「何かご用?」と、2年ぶりのお出迎えをいただいた。

うれしくなって半時間ほども雑談したろうか。
今回の目的の真田宝物館と真田氏のことから、かつて盛り場だった場所、町のランチどころ、天皇御座所予定地のこと、町にある温泉のことまで、ビジターとして欲する情報のすべてをいただいた。

ご同輩は、サラリーマンを60歳定年の後、再就職がたがわず、このセンターに活動の場を求めたとのこと。
NPO法人仲間とボランテイアでセンターを運営しながら町おこしをしている由。

NPO法人の理念を模造紙で展示している

思うようにいかない過疎の町での町おこし。
若い人を巻き込んでの経済的にも継続性のある活動を模索中とのこと。
課題は全国共通であることを山小舎おじさんも痛感。

同様のまちづくりNPO施設は県内の各所にありますが、どうしても活動が内向きになるというのでしょうか、例えば情報が欲しくてその町の施設を訪ねても、仲間との活動中をお邪魔したがごとく、あんた誰?何しに来たの?とでもいわんがごとき空気に触れた経験もないではありません。

こちらのセンターのようにホスピタリティにあふれたスタッフを抱え、地道な活動を続けつつ形に残しているところは旅の流れ者にとっては本当にありがたく、また感心するのです。
その旨はしっかりご同輩にお伝えしました。

ということで、レンタサイクル(半日400円!)を借りて、教わったディープな松代の街歩きにゴー!

センターが誇る地元研究成果の数々

旧商家、氏神、旧飲み屋街、ランチ・・・

まずはセンターで勧められた、町の中心部に近い寺町商家へ。
江戸末期から昭和初期まで質屋を営んでいたという商家の建物を保存し、開放している。
昔日の松代の風景をうかがうには最適な場所。

入り口の門も豪勢だが、中の庭もきれいに手入れされている。
この日は貸し切りで行事が行われていたが、普段はランチもやっているとのこと。

寺町商家の門構え
内部の庭はいい感じ

次いで、センターで教えてもらった旧飲み屋街へ。

その途中に神社があった。
延喜式内の祝神社という。
場所的にも町の氏神的的な神社のようだ。

本来の神様のほかに、八幡様やお稲荷様も祀っているのが特徴的な神社で、正面が拝殿で、左90度に八幡神社と稲荷神社などがある。

これは諏訪下社本宮の配置と同じで、後から祀るようになった神様を、合祀するのではなく、本殿と90度ずらした拝殿に祀ってある。

この神社は地元で「お諏訪さん」と呼ばれるとのこと。
とすれば、正面の本殿に祀る神様が諏訪系の古神ということになり、年代が下るにつれ、境内に他国の様々な神様を取り込むようになったものと思われる。

さて、かつて栄えた場所であるなら必ずあるのが、料亭、赤線などなどの水商売系の場所。
センター情報によると、三業地的な場所はなかったようだが、飲み屋街としては、神屋横丁がその場所だそうだが、10年ほど前に古い建物は一掃されたとのこと。

行ってみると飲み屋が数軒残っていた。
後は住居が並ぶ一角になっている。
神屋横丁はサイズ的にも料亭、置屋などが立地するには狭く、お座敷文化はなかったのかもしれない。

鍵屋横丁の現状風景

ランチタイムになった。
一昨年訪れた、ニュー街道という食堂に行きたかった。
そこで食べたあんかけ焼きそばは質量ともに満足の一皿だった。
写真をとっても良いかと聞くと、店の大将は「そんなもん撮ってどうするの?」と言っていたっけ。

楽しみに訪れると・・・貸切営業の貼り紙が。

ここがだめだと、あとはカフェ、パン屋のイートイン、竹風堂(県内の有名和菓子屋)のおこわ定食、くらいしか選択はなく、やむなくコンビニで弁当を購入。
訪問予定の真田宝物館のある真田公園のベンチでいただくが、ちょっと残念だった。

松代の食堂、ニュー街道。この日は予約営業

真田宝物館

松代の真田宝物館には、信之以降の武具、家康らからの書状、衣装、家具などが展示されている。
現在まで続く真田家が収蔵してきた歴史的な品々である。
これらが残ったのも信之が徳川方について、城主として生き残ってきたからこそのこと。

歴代の城主たちが所有したという甲冑や真田家に輿入れした方々の守り刀などの本物の展示が目を引く。
中には幸村所有の刀というものもあった、真贋は不明だという。

また、戊辰戦争に官軍として出兵した折の真田藩の旗もあった。
六文銭の旗印であった。

反徳川勢の斬込み隊長として大坂の陣などで奮戦した真田の旗印は、のちの幕末にあって再び反徳川勢力の元に翻ったということか、それとも反骨の旗印は幕末には体制側に落ち着いたということなのだろうか。

真田氏の遺物の展示内容の充実度としては、上田市真田地区の博物館はもちろん、上田市立博物館のそれと比しても一番なのではないかと思う。
内容が信之以降の時代のものに限定はされているとはしても。

真田公園内にある宝物館。展示内容の充実度と集客数を誇る

松代城跡から大本営天皇御座所跡へ

真田宝物館から松代城跡へ向かう。
広がる景色の中にたたずむ平城とお濠が姿を現す。
千曲川に向かう扇状地に立地する松代の水はこのお濠に集めれられたという。

明治維新後は石垣のみが残ったという城跡。
城壁のほか、二つの橋と、本丸へ向かう太鼓門が復元されている。
扇状地の端っこにあり、住宅地も途切れている場所にあるので、少々寂しそうに見えるお城である。

お城見物もそこそこに自転車を走らせ、大本営跡に向かう。
戦争末期、大本営と天皇御座所などを松代の地下壕に移転しようとした経緯がある。
地下壕の一部は一昨年に見物した。

センターからの情報として、現在地震観測所となっている場所に天皇御座所跡があって見学できるらしいとのこと。行かねばなるまい。

扇状地をひたすら上って地震観測所を目指す。
これ以上は山に突き当たる、という場所に御座所はあった。

トンネルになっているのかと思いきや、別棟の建物があり、内部が当時の御座所そのままだという。
窓越しに眺めることができる。

今も保存される御座所内部を窓越しに撮影

うーん、こんな長野の山の行き止まりの場所で、どうしようというのか?当時の日本政府よ?
76年後の御座所周辺もおそらく何も変わっていないよ、と当時の為政者たちにお伝えしたい。
それとも変わらないから選ばれたのか?ここが。

感慨無量(感ずるところが何もないという意味で)の景色だった。

御座所から見た風景。左手が扇状地の扇頂に当たる山々

加賀井温泉 一陽館

街歩きを終え、自転車をセンターに返し軽トラに乗る。
教えてもらった温泉にでも入って帰ろう。

松代郊外、田園風景のただなかに一軒宿がある。
行き止まりの道を入ると時間が止まったような光景があった。
加賀井温泉一陽館。

東北の湯治場にあるような、ひなびすぎて人気もないような一軒宿。
手入れもされていない木造の母屋、浴室、荒れ果てた休憩棟が並んでいる。
奥からつげ義春が歩いて来ても不思議ではない。

撮影禁止とのことで駐車場からの風景を1枚

日帰り入浴のみの営業のようだ。
受付で入浴の旨を伝えるとおばさんが「初めてですか?」と顔を出す。
「センターから紹介されて」と答えるとおばさんが少し和んだように見えた。
入浴料400円を箱に入れる(500円玉を入れて100円のおつりを自分で取る)。

おばさんが建物から出てきて、浴室の入口の場所から露天風呂の入り方、源泉の流れるルートとそれに合わせた入浴方法などを立て板に水のような鮮やかさで説明し、案内してくれる。

行き止まりの道の角に案内板が立つ

板と日よけシートで区切られただけの露天風呂には湯あみ服を着た女性が子供と入っている。
この露天風呂は女湯からは直接行けるが、男が入りたければ裸のままつっかけを履き、外を歩いてゆかなければならないとの説明。

浴室は脱衣場がなく、浴室の脇に脱衣かごが並んでいる。
これならロッカーがなくても常に浴槽から自分の荷物を眺めていられるが、足をぬらさずに着替える場所がないのが不便。

教えてもらった通り、浴槽の最後尾から湯に入り、段々と源泉が流れる上手に移ってゆく。
41度の源泉が心地よい。

東北では、鶯宿、夏油、鉛、横向、後生掛、乳頭、泥湯、などに入ったことがあり、寂れ切ったというかひなびた温泉は知っているつもりだったが、経験上今までで一番古いというか、さびれたというか・・・。
建物が更新(建て替え、修繕、補修、手入れ)されていない一軒宿としてはナンバーワン(オンリーワン?)だった!

戦後から全く更新されていないであろう建物の中を源泉が流れてゆく。
この源泉、空気に触れると茶色く変色するというシロモノで、無味無臭。
刺激は全くないが、あとで驚いた。

温まってのどが渇くだけでなく、気分がリフレッシュし、入ってよかった感が半端なかった。

入って眠気が飛ぶことを、かつて東北の玉川温泉で経験したが、入って気持ちが前向きになるというのは経験ないかも。
これはすごい温泉かも知れない。
センターさん、ありがとう!

色が違う!? ベランダ塗装でDIY!番外編

「色」が違いました!

山小舎の外壁塗装をボチボチと始めた山小舎おじさん。

まずは、正面の玄関部分を塗装。
色は、改築してもらった際の塗装色に合わせました。
それは、キシラテコール塗料の「ビニー」と呼ばれる色。
黄土色というか、新しい板材の色です。

玄関周辺をキシラテコールの「ビニー」で塗ってみると、当然ながら改築部分の外壁と同じ色になりました。

正面の外壁。玄関周りはDIY。左のサッシ周りは改築時に大工さんが塗装。
使った塗料はキシラテコール。高いので少量缶を使用

今度はベランダ側の外壁を洗浄、塗装します。
ここでおじさんは考えました。

「キシラテコールは性能がいいが高い(ドイツ製)。
塗料を同じ性能といわれるナフタデコール(日本製)に替えよう。
一斗缶(16リットル)で、キシラテコールは3万前後、ナフタデコールだと1万6千円ほどだ。
色は、両塗料の対比表があるくらいだから、それに合わせて選べば大丈夫だろう」と。

そして「ビニー」に対応する色のナフタデコールを買いました。

キシラテコール「ビニー」色に対応するという色のナフタデコールを用意

塗ってみました。
色がかなり違います。

同系色だといわれれば確かにそうなのですが。
これがプロの仕事だとしたら「全然色が違うじゃないか」とクレームになるくらいです。

塗ってみるとこの違いが。左ナフタデコール、右キシラテコール

広告を信じたおじさんが悪かったのですが。
塗料のようにはっきりと結果となって表れるものには気を付けなければなりません。

しょうがないので、ベランダ側と裏側は、このままナフタデコールの茶色で塗ることにします。

最も、台所側はコールタール色の塗料(ケミソート)で塗ってしまっているので、すでに山小舎外観の色の統一性などあったものではありませんが。

カラフルになりつつある山小舎の外観。ベランダはもともとこげ茶の予定です

今年のリンゴ狩り

10月のある日、孫たちと小諸へリンゴ狩りに行ってきました。

行ったのは小諸にある中松井農園という観光リンゴ園。去年も行ったところです。
千曲川の南側に広がる丘陵地帯にあります。

時期的には、シナノスイートをはじめ、秋映、紅玉などが旬でした。
孫たちが好きなシナノゴールドという表が黄色くて、歯触りがパリパリし、甘さが抑えられた品種も採り頃でした。

シナノゴールド

青天の週末で、三々五々の集客。
園内のに置かれた10脚ほどのテーブルがちょうど埋まるくらいの人出で、混雑は全くしていないものの、寂しくもなく。
眼前に広がる浅間連峰が晴天下に展開する、もってこいの日和でした。

包丁と布巾がセットされたかごにリンゴをもぎ、テーブルで剥いて食べることができる
父親に肩車されてリンゴをもぐ孫娘。品種は秋映

小諸は山小舎から1時間ちょっと。
リンゴ狩りして、市内で食事でもし、懐古園にでも寄って帰るにはちょうど良い距離感です。

山小舎から1時間圏内には、立科町などリンゴの産地はありますが、リンゴ狩りのできる観光農園というとほとんどありません。
小諸の観光リンゴ園が一番近いくらいです。
一昨年には県南にまで行って、松川町というところの観光農園でリンゴ狩りをしました。

リンゴ狩りというものは、農家にとっても手間のかかるもので、それなりにお客の受け入れ態勢ができていないと、客にとっても困るものです。

小諸の中松井農園は、受付、案内などのスタッフが手馴れており、お客が受付に立つだけで、リンゴ園への案内、採り方の指導、園内での過ごし方、持ち帰り品の精算、までがスムーズに行えます。

小売業などでは当たり前のサービスですが、農家にそれを求めるのも現実的ではありません。
リンゴ農家がすべて観光リンゴ園となっていないことの理由です。

リンゴ狩りをするには観光リンゴ園としてノウハウを確立しているところへ行くのが安心です。

信州ソウルフード放浪記VOL.10 塩尻市役所食堂

2年ぶりのソウルフード放浪記です。
これからこの枠では、本来の地元ソウルフードに限らず、地元の名物食堂や、気になった食べ物などもネタとしてゆきたいと思います。

ということで、先日訪れた塩尻での昼食に、市役所食堂を訪れました。

なぜ、塩尻に行ったか?

塩尻は、山小舎暮らしの気分転換のドライブにちょうど良い距離にあること、季節の農産物に掘り出し物があること、信州3大シアター(おじさんが勝手に言っている)の東座という由緒ある映画館があること、かつて駅前の観光案内所で駅構内で収穫したブドウを1袋100円で買えたこと、ワインの産地出であること・・・。

つまりは、山小舎おじさん的見どころにあふれた街だからです。

この日も、まずは郊外にあるJAの直売所へ向かい、格安のイチヂク、ブドウ、ナシなどを購入しました。
「掘り出し物」とは、イチヂク1袋が150円で手に入るということでもあります。

ついで駅前へ。
30分無料の駅ロータリー内駐車場に軽トラを止めて、観光案内所へ。

駅構内のブドウの販売は先週終わっていた、とのことでしたが、地元産品コーナーに並んでいた地酒とワインの中から清酒・笑亀特別純米4合瓶とワインをセレクト。

観光案内所の女性職員さんは今日も気軽に雑談にも応じてくれました。

ちなみに塩尻市内には民間の路線バスは撤退し、岡谷や松本と結ぶバス路線はないとのこと。
市内と近郊を結ぶいわゆるコミュニテイーバスのみ運行中とのことでした。
諏訪から松本までバス旅をするのであれば、塩尻峠を歩いて超える必要がありそうですね。

塩尻・笑亀酒造謹製、笑亀特別純米原酒

塩尻での昼食。
気になっていた塩尻市役所の食堂へ行ってみることにしました。
一度トライしたことがあったのですが、2時のタイムリミットに引っ掛かり、食べられなかったことがあります。
長野県の食堂は2時で昼休みに入る、という厳しい不文律を痛感させる一コマでしたっけ。

市内で一番の威容を誇る塩尻市役所正面玄関。自衛官募集中の幟がはためく!
1階の入り口に立つ看板が食堂へ誘う!

さあ、市役所食堂の再トライです。
閑散とした1階ホールからエレベーターで5階へ。
そこにあったのはさらに閑散とした空間でした。

サンプルも券売機もないので食堂の中に入ってゆくと、おじさんが一人でキッチンで立ち働いていました。

ボードにメニューが書いてありましたが、注文する前に「焼き鮭がおすすめだよ」と言うのでそれを注文。
500円を手渡そうとすると「その箱に入れて、おつりが必要なら取って」とのこと。
紙の箱に500円玉を入れました。

閑散とした廊下からパーテーションで隔たれた空間が食堂だった

食堂内には三々五々、職員らしき人が食事しています。
食堂らしき活気はどこを探してもなく、昼休み時間外に数人が弁当を広げている会議室、のような風情です。

肝心のメニューですが、カツ定食など数種類のメニューがあるようでした。
食べた焼き鮭定食も見た目より満足感のある手作り風の味でした。

食堂に来た人が、主のおじさんと「ごはん半分ね」などともれなく会話を行うような、コミュニケーションにあふれる場でもありました。

この日のおすすめ焼き鮭定食。見た目より食べ応えあり!

市役所や公共機関の食堂はかつては、安く、まずいながらも活気にあふれた場でしたが、調布市役所が食堂を廃止したように、かつての直営食堂の姿は減少し、食堂があっても完全外注スタイルで、内部の造作もメニューや値段も各業者に応じたもの、になっています。
大学食堂も国公立ではCOOP食堂の経営に統一されています。

塩尻市役所の食堂。
主のおじさんが完全ワンオペの元、数少ない固定客を相手にコミュニケーションの貫徹を旨として孤軍奮闘しておりました。

主のおじさんが撤退したら市役所から食堂はなくなるのでしょうか。
主の元気の続く限り残ってほしいものです。

ネットが鹿に破られた

畑の1枚に張り巡らせたネット。
丈2メートルのネットを、50メートルほどの長さで囲んで、ジャガイモ、インゲン、枝豆、大豆を植えておりました。

何事もなく、夏にはジャガイモ、インゲン、枝豆を収穫。
秋になって大豆の枯れるのを待ちながら、空いたスペースに白菜とキャベツを植えておりました。

定植後、育ち始めていた白菜のかつての姿

10月にになって、畑に残るのは里芋、ヤーコン、菊芋など。
畑作業は一息ついておりました。

10月下旬、ヤーコンと菊芋の収穫に久しぶりに畑を訪れました。
まあまあの出来のヤーコンと菊芋を掘起し、ついでにネット内の白菜の様子を見に行きました。
そこで見たものは白菜の影も形もない畝と、倒れたネットの姿でした。

倒されたネットの全景。右側は強風によりかねてから支柱が折れたいたもの
白菜とキャベツが植わっていた畝の姿・・・

ネット内に入ると、奥の大豆も全滅していました。
ネットは内側から倒されています。

どう見ても鹿が親友して作物を食い尽くし、ネットを倒して脱出したようにしか見えません。
して、侵入路は?

大豆が旺盛に茂っていたあたり。風景が一変した…
鹿が脱出したあたりと思われる部分。ネットが内側から倒されている

よく見ると奥にネットが食い破られた穴が開いています。
ここから侵入し、食い尽くした後はネットをして支柱毎なぎ倒して出て行ったものとみられます。

鹿の侵入路

白菜、キャベツが跡形もないのはもちろん、硬い大豆の地表部も食べつくされています。

畑をあさる「野良鹿」たちとはいえ、野生のおきてに生きています。
彼らが「餌場」として認識している畑の、たとえネットに囲まれていたとしても、目の前の青々とした鉱物を何としても得んとしたのでしょう。

冬を前にし、食料をあさる野生動物の、宿命ともいえるどう猛さ、必死さが伝わってきました。

鹿が食べないといわれているヤーコンの葉も犠牲に。
この日の収穫。左がヤーコン、右が菊芋

【補遺】

山小舎の庭に植えたキセワタという草もネットをはぐって鹿が食べ尽くしていました。
夏までは見向きもしなかったのに。
これからはブルーベリーの枝なども狙われます。
人間と鹿の攻防が始まります。

山小舎の前庭。へこんだネットを見つけた。もしや・・・
ネットの中身(キセワタ)は食べ尽くされていました・・・

令和3年 衆議院総選挙 期日前投票

今年は10月31日に久しぶりの総選挙があります。
総選挙といえば昨今はAKB48の専売特許ですが、本来は、当たり前ですが国政選挙である衆議院議員選挙のことをいいます。

国民の権利である参政権を行使するためにも山小舎おじさんは期日前投票に行ってきました。

普段は長野の山小舎に暮らす身ですが、住民票は自宅のある調布市においている山小舎おじさん。
31日は自宅におりませんが、帰宅の折、期日前投票に初めて行ってきました。

選挙区は東京22区。
期日前投票所は調布市役所です。
事前に郵送されてきた投票券?さえ持ってゆけば期日前投票ができるので便利です。
この日は土曜日ということもあるのでしょうが、期日前投票所には20人ほどの人が集まっていました。

土曜日の調布市役所前。投票所までは看板が案内してくれる
1階の入り口を入れば投票所。三々五々有権者が訪れていた

過去の衆議院選挙では忘れられない光景がありました。
東日本震災の年(だったと思う)の総選挙。

基本、選挙権は行使していた山小舎おじさんは、いつものように投票所の小学校に向かいました。
出がけに軽く投票するつもりでした。

そこで見たのは校庭を突っ切って並ぶ選挙民の列。
「ああ、震災があったばかりだから、国の運営についても皆の関心はたかいわなあ」と思い「帰りに投票しよう」とそのまま出かけました。

夕方、帰りしなに見たのは、朝方よりは少ないものの、校庭へ延びる有権者の列でした。

こんなことはそれまでもそのあともありませんでした。

当時は国内の未曽有の災難を目の当たりにし、明日は我が身という謙虚な気持ちと、いざとなった場合に頼りのなるのは隣近所の人間だ、との「お互い様」のチームワークの気持ちが国内にあったような気がします。

その中で、国のかじ取りを担う政治家の選択は、国民にとってなおざりにはできないことでした。
選挙民の関心の高さが熱気となって投票所を取り囲んでも不思議ではありませんでした。

出口調査に駆り出された、まだ自民党に入っていなかったタレントの三原じゅん子が、テレビカメラに向かって「自民党大変です!まずいです!」と叫んでいたそうです。

後日、この選挙をマスコミは「史上最低の投票率。」と伝えました。
選挙結果は自民党の圧勝でした。

投票所の光景が目に焼き付いているおじさんはそれを聞いて「それは違う」と思いました。

「強烈な違和感」どころの話ではありません、自民党圧勝はともかく、史上最低の投票率とは何事か。
あの長い列、熱気は幻だったのか。

いくらお上から「白のものを黒」と言いくるめられ続けた歴史を持つ日本人の端くれであっても、我が身をもって体験したことを全否定されるのは決してうれしくはないものです。

調布市役所の建物にへんぽんと翻る選挙の幟

令和3年の東京22区は4人が立候補。

伊藤達也は地元の深大寺ペガサスという少年野球チーム出身で、かつては調布の少年野球大会の開会式に来賓であいさつしていました。
新進党から紆余曲折の末自民党入りしています。

山花郁夫は、社会党末期に委員長を務めた父・貞夫の2世で、実家は京王つつじヶ丘駅へのバス通り沿いにあります。

ほかに、れいわ新選組のくしぶちという女性が出ていますから、野党統一候補が成らなかった選挙区なのでしょう。

東京22区のポスター掲示板

投票し、国民の権利を行使し終わった山小舎おじさん。
気持ちも晴れ晴れと調布駅前広場を自転車で通ると、秋晴れの下、共産党とれいわ新選組が選挙活動を行っていました。

駅前では選挙活動。共産党
こちらはれいわ新選組

山本富士子と「夜の河」

神保町シアターの特集「恋する映画」でこの作品が上映された。
観たかった1本だった。

1956年の大映作品。
製作:永田雅一、監督:吉村公三郎、主演:山本富士子、上原兼、撮影:宮川一夫、照明:岡本健一。
キネマ旬報ベストテン2位。

当時の映画界と大映

当時映画産業は炭鉱などと並ぶ花形産業で、映画人口の最大期を2年後に控える絶頂期だった。

同年のベストテン作品を見ても、第1位の「真昼の暗黒」(今井正監督、橋本忍脚本)をはじめ、4位「猫と庄造と二人のをんな」(豊田四郎監督)、5位「ビルマの竪琴」(市川崑監督)、6位「早春」(小津安二郎監督)、8位「流れる」(成瀬己喜男監督)と日本映画の歴史に残る名監督たちの作品が並ぶ。

松竹、東宝、大映、東映、日活、新東宝の6社が専属のスタッフ、俳優をもって製作を行い、独自の配給網を持つ(新東宝を除く)という2度とは来ない夢のような時代だった。

その中で大映は社長永田雅一のワンマン体制が敷かれていたが、専務として新劇の劇作家だった川口松太郎と監督の溝口健二が永田を補佐し、俳優では長谷川一夫を筆頭に、京マチ子などがいた。
京都と東京調布にそれぞれ撮影所を有していた。
業界的には松竹、東宝に次ぐ3番手のイメージ。

社長の永田の資質もあるのだろうが、政治家とのつながりやプロ野球球団保有など目立つ活動を志向していたが、松竹の歌舞伎、東宝の阪急電鉄のような基盤とする背景に乏しく、上映館数も少ないなど、経済的には脆弱だった。

また、永田は当初、新生日活によるスタッフ引き抜き防止を主目的とした、いわゆる5社協定を主導したが、長期的には人材の交流の疎外という点では映画界全体の利益に反した。

一方で、東宝争議後のゴタゴタに嫌気がさしていた黒澤明を招き「羅生門」を製作するなどもしている。
日仏合作の「二十四時間の情事」(アラン・レネ監督)を作ったり、溝口健二監督に好きなように撮らせ、「近松物語」「雨月物語」「山椒大夫」などの名作を世に送り出したのも永田雅一だった。

山本富士子と大映

第一回ミス日本の栄誉を満場一致で受賞したという山本富士子が大映に入社したのは1953年。
当時絶頂の映画界は例えば宝塚スターの再就職先としても有力な先だった(乙羽信子、淡島千景、新珠三千代、有馬稲子など)。

しばらくはいわゆるプログラムピクチャーのヒロイン役ばかりだった山本が、有力監督の文芸作品のヒロインに抜擢されてブレイクしたのが「夜の河」だといわれる。

山本富士子という人、外見の美貌と物腰の柔らかさに反して自立心と自尊心に満ちていた。

当初の大映との契約は3年後にフリーとなる条件だったというが、大映は反故にし、その後も専属契約を押し付けた。
契約更新のたびにもめたらしい。

念願の第1回他社出演は松竹の「彼岸花」(1958年)。
小津安二郎初のカラー作品の準主役に抜擢された山本は、和服姿のあでやかな所作と滑らかな関西弁で画面をさらった。

大映プログラムピクチャーとして消費され、残されていなかった山本富士子の姿が映画の歴史に鮮明に刻印された瞬間だった。
後年の映画ファンにとっては隠されていた日本映画の宝がそこに燦然と輝いているのを発見したような気持だった。

他社出演では「墨東奇譚」(1960年)、「如何なる星の下で」(1962年)がある。
どちらも実力派・豊田四郎の監督作品。
女優に対しては意地悪なほど辛辣な演出を行いかねない豊田監督をして、気高く孤高の女性像を描かしめた。

山本富士子は永田雅一と他社出演をめぐって衝突し、大映を退社。
永田は怒って映画界からの永久追放を画策した。

1983年、「細雪」の映画化に際し、監督の市川崑が長女役に山本を指名し交渉したが断られたという。
山本富士子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子の「細雪」だったら・・・それはさぞあでやかだったことだろう。
完成した作品を見た山本が、出演すればよかったと思ったとのこと。
映画ファンにとっても逃した魚は大きかった。

山本富士子と「夜の河」

山本富士子が大映入社3年目。
一流スタッフを集めたカラー作品である。
共演にも東宝の上原兼をもってきている。

この作品についてはまず色彩設計の見事さがいわれる。
舞台は京都のろうけつ染めの工場。
そこの独身の跡取り娘役が山本で、大阪大学の教授の上原と恋をして別れるまでを描く。

色彩設計でいえば、赤や緑の染め物が並ぶ工場の風景が思い出される。
発色もいい。
観たのはデジタル版だが、オリジナルのカラーが再現されているのだとしたらば、カラー撮影は成功している。

カメラは宮川一夫。
溝口作品でのパンフォーカスやクレーンを使ったワンショットワンシークエンスの撮影に力を発揮するカメラマン。

「雨月物語」では、戦乱の世、我が家に戻った森雅之が妻・田中絹代の歓待を受けるが、我が家はすでに廃墟だったというシークエンスを、カメラを360度パンする間の場面、時間転換で表現。

「祇園囃子」では路地を歩く若尾文子が、20メートルほど先の通りの舞妓たちを見て、けいこに通えない身を恥じて姿を隠す場面を、歩く若尾と20メートル先の舞妓たちの双方にピントを当てる鮮やかなパンフォーカスによるワンカットで表現。

照明の岡本健一。
熊井啓が胃潰瘍で血を吐きながら撮った「忍ぶ川」(1972年)。
大映は倒産し、撮影所システムは崩壊する中で、熊井が特に照明担当としてスタッフに招いた人材として記憶に残る。

「夜の河」では、夏の夜、歩く山本と上原が雨に打たれ軒下に休むあたりから、お茶屋内のシーンでのライテイング。
徹底したバックライトで人物の表情を消し、ただならぬ心理状況を表す。
長時間にわたり、影や暗さを微妙にライテイングするには相当の経験と自信がいるはず。

されど「夜の河」では必要以上の技法的主張はなかった。
撮影はカラーの再現と主人公の心情の移ろいを写し取ることに傾注し、手際よくまとめていた。
すべての技術的効果は吉村監督の演出プランの範疇に収まっていた。

心惹かれる相手とのただ一度の逢瀬の後、「子供ができたら、あんさんに似て・・・」と主人公が漏らす。
「子供?」と我に返り逡巡する妻子ある男。
そのわずかな反応に醒め「もしできてもうちの子として育てます」と端然と述べる主人公。

あふれる情念と自立した女性の自尊心を合わせて表現した、主人公と山本富士子のキャラクターが被って見える山場のシーンであった。

「夜の河」の上原兼と山本富士子

逢瀬の場は通りかかったお茶屋。
そこのおかみは主人公と女学校以来の親友で、軒先の二人を招き入れる。
男を紹介しようとする主人公には「ワテは戸籍係であらへん」と客先のプライバシーには踏み込まない。

演じたのは阿井美千子という女優。
てきぱきとした京都弁といい、動きのいい物腰といい、これがプロの京都女性というものなのか?と感心する傑出した演技だった。

「月夜の阿呆烏」(1956年)の阿井美千子、右は堺俊二

SL! SL! SL!

県内に保存されているSL(蒸気機関車)の話です。

山小舎生活5年間。
長野県内の各所を訪れるにつれ、思いがけず、数々の保存されているSLと出くわしました。
一時のSLブームが偲ばれます。

駅前に大切に保存されているSL、人気のない公園の片隅に野ざらしでたたずんでいるSL、いろいろありました。

子供時代は、住んでいた旭川から例えば近隣の神居古潭(石狩川に白い吊り橋がかかる、旭川と深川の間の景勝地)まで行こうと思えば、当時の普通列車はSLでした。

札幌・函館間を走る急行ニセコはC62という高速型SLが二重連結で走っていました。

道内のちょっとした駅には、SL用の給水タワーが立っていました。
乗客はトンネルに入ると、煙を防ぐため窓を閉めました。
SLがけん引する客車の座席はすべて木製で、背もたれが直角だったような気がします。
SLには親近感を感じる山小舎おじさんです。

茅野駅東口のC12

まずは茅野駅東口のロータリーに大切に保存されているC12です。

戦前に茅野郊外の北山にあったという諏訪鉄山から茅野駅まで、鉄鉱石を運んだとのこと。
北山地区は茅野市内から白樺湖へ向かう道筋にありますが、今は鉱山も線路跡も痕跡を探すのが困難なくらい様変わりしています。

茅野駅前のC12

SLの保存状態はトップクラスです。
普段は訪れる人も少ないですが(駅に降り立つ人がそもそも少ない)、駅東口に大きく掲げられた「縄文のビーナス」の垂れ幕と合わせて目につく場所に置かれています。
それまでの苦労に十分報いるであろう待遇を受けているSLです。

茅野駅東口階段よりSLを見る

諏訪湖畔のD51

諏訪湖畔のメイン通り、大きな旅館や土産物屋が並び、花火大会の際はメイン会場となる場所にD51が保存されています。

戦後に上諏訪機関区に配属となり、中央本線や篠ノ井線で活躍した車両とのことです。
篠ノ井線を走ったということは、姨捨駅をスイッチバックで越えたということです。
頑張りました。

諏訪湖畔のD51

D51はSLの中で一番多く製造された車体です。
山小舎おじさんが乗ったSL列車のほとんどがD51が引っ張る列車だったことでしょう。

せっかくだから運転室に登ってみる
これがSLの運転室か・・・
運転席からの視界

屋外ですが屋根付きで展示されており、保存状態もまずまず良好です。
何より運転室に入れるのがいい。
安全面のこともあり、屋外のこういった展示車両で「乗車」できるケースはなかなかないものと思います。
展示場所が諏訪湖畔というロケーションもいいですね。

諏訪湖畔のロケーション
諏訪湖方面を見る

南牧村のC58

県外の人には「野辺山」といった方が通りがいいのが南牧村。
小海線野辺山駅を中心に広がる高原野菜の産地です。
かつてペンションブームの際に若者でごった返した清里(山梨県)の隣です。
近頃は高原野菜農家が労働力として頼りにする外国人研修生の関連で有名かもしれません。

南牧村の56

村の中心部、国道141号線脇の南牧村資料館の隣の公園内にC56が展示されています。
北海道から現佐久市中込の機関区に移り、小海線で貨客車両をけん引した活躍した車体とのことです。

小淵沢・清里間は急こう配、野辺山付近には鉄道最高標高地点があります。
冬期間の寒さもあります。
過酷な自然環境との戦いを乗り切った車体なのでしょう。

屋根付きで保存状態はすこぶる良好です。
のちにSLホテルとしても利用されたとのこと。
現在は、八ヶ岳をバックにしたロケーションも現役時代と変わらずに退役した車体を静かに休めています。

はるかに八ヶ岳を望むロケーション

飯山と飯田のD51

県北の飯山と県南の飯田にもSLが保存されています。

飯山では駅近くの児童公園の脇に野ざらしでポツンと置かれていました。
周りが草ぼうぼうです。
車体も傷み始めています。
このまま廃棄されてしまわないよう願うばかりです。

飯山の人気のない公園にたたずむSL
放置され朽ちてゆくのか孤高の姿

飯田では繁華街を過ぎたあたりの公民館の脇の空き地にありました。
野ざらしです。

「火の用心」の標語が飾られている程度には手をかけられてはいるようです。
それでも存在感を失わないのはさすがSLです。

飯田の公園内のD51

ブームが終わったいま、各地のSLをどう保存するのか。
動かすのは無理にしてもせめて傷まないように保存してほしい。
それが無理なら、部品別に保管してほかの保存車両の修繕などに使うとか。

全国の保存SLのデータベースのようなものは・・・ないのだろうな。