山小舎まで列車で移動

3月の山小舎開きの後、1週間ほどで孫の誕生会があり、自宅に戻りました。
8歳と5歳となり、3年生と年長さんの新学期を迎える彼女たちのお祝いをしました。

自宅までの移動は高速バスで、帰りは列車を使いました。
高速バス駐車場(乗客が自家用車を止めるための)が何年かぶりで満車に近くなり、コロナ時代の終焉を告げていました。
乗車した便(土曜午後)の乗車率は半分ほどでしたが。

帰りは自宅からJR三鷹駅までバスに乗り、そこから中央線高尾駅まで電車で、高尾からは小淵沢行きの普通列車に乗りました。
車窓は春爛漫の風景でした。

相模湖から大月あたりまでは、桜が満開から散り始めの時期でした。
様々な春の花が咲き乱れてりました。

笹子トンネルを越えて甲府盆地側に出たところ、甲斐大和駅から見える桜は満開でした。

甲斐大和駅の桜
甲斐大和駅土手の桜

甲府盆地を下ってゆき、勝沼のあたりになると、気温が高いのか桜は散り終わりに近い姿でした。

勝沼の駅の葉桜

甲府が近づくにつれて、沿線に桃畑が広がってきます。
濃いピンク色の桃の花が満開でした。
盆地の西側には富士山が山頂をのぞかせていました。

甲府盆地の桃の花

甲府駅で途中下車。
駅には春休みの少年少女の姿が目立ちました。

甲府で昼食です。
最近行きつけの駅前通りにある割烹料理屋のランチをいただきます。
信玄鶏のから揚げ定食、ごはん大盛です。

最近の値上げブームの影響か、唐揚げの量とごはんの盛が少なくなっていました。
去年までは、唐揚げを食べ尽くすのが一仕事、さらにご飯が普通盛だと唐揚げが余ってしまい、ならばとご飯を大盛にすると満腹すぎて・・・だったのですが、今では大盛でちょうど良い全体量になっていました。
値段は変わっていませんでした。

それでも腹いっぱい。
腹ごなしにいつものように甲府の中心街を一周。
ニュースで見た通り、甲府で長い歴史を持つ岡島というデパートが閉店になり、近くの2号店に統合されていました。
中心街唯一のミニシアターは営業していました。

駅へと戻る途中に城壁が見えます。
武田氏が滅んだあと、幕末までの間に領主が住んだお城です。

甲府の人々に圧倒的に人気があるのは武田信玄で、駅前に銅像が立ってたりします。
山小舎おじさんも、駅から30分ほどの武田氏の居城跡のお寺と博物館には行きました。
一方、駅前のお城には入ったことがなかったのでこの度寄ってみました。

復元された城門をくぐって城内へ

駅からほど近く、城壁に囲まれた小高い丘に城跡があります。
広い城内ですが、天守閣などはすでになく、復元の予定もないようです。
城壁や一部の門が復元されています。
桜はほぼ終わっていましたが、木の下では訪れた人が三々五々休んでいました。

天守台への鉄門
天守台の桜の下で憩う人

一番高い天守台に登りました。
富士山がきれいに見えました。
反対側には雪を頂いた南アルプスの山並みが見えます。

天守台から望む富士
天守台

甲府駅に戻り下り列車に乗りました。

茅野駅に帰ってくると、駅前の八重桜が満開でした。

茅野駅前の八重桜

冬の盛岡、八戸旅行

令和5年になった1月、盛岡経由で八戸を目指して1泊旅行をしました。

目的は八戸の八食センターで海産物の仕入れ。
1日目の昼を盛岡で途中下車して過ごすのも目的の一つです。

朝の新幹線で盛岡へ。

降り立った盛岡駅前は予想通りの雪景色。
雪を踏みしめ駅前のロータリーに集まるバスの光景に北国の風情を感じます。

まずは、駅ビルで家族リクエストの、南部せんべい「豆五郎」や、岩手の銘菓「かもめの玉子」を買い込みます。本屋で地元の情報誌もついでに。
盛岡駅の駅ビルが変わらず賑やかだったのはうれしい限りでした。

盛岡駅前

外へ出て中心街を歩きます。

北上川にかかる開運橋を渡り、大通りと呼ばれるアーケード街へ。
路面は圧雪状態ですが市民はすたすた歩いています。
北海道育ちの山小舎おじさんにとって、雪の残る車道や、歩道は懐かしい光景です。

大通り商店街

盛岡城跡公園を過ぎて、もう一つ川を渡るとバスセンターのある中心街・肴町エリアです。

目指す東屋本店で昼食です。
2階ではわんこそばもやっている、老舗のソバ屋です。
ここは丼物も美味しいので少し迷ったのですが、いつまた来れるかわからない盛岡ですので、王道のそばをチョイス。
期待通り、記憶通りの味でとてもおいしかったです。

東屋本店
天ざるそばを注文
黒柳徹子、仲代達矢ら大御所の色紙が並ぶ東屋本店店内

盛岡では城跡公園内の郷土資料館にも寄ってみました。チャグチャグうまっこや、さんさ踊りの展示、さらには盛岡藩の成立から幕末までの歴史が丁寧に展示されています。

欲を言えば、中世の俘囚長で、前九年の役で現盛岡市の厨川のあたりで滅亡した安部氏など、北東北固有の蝦夷の歴史にも踏み込んでもらいたかったですが。

夕刻迫る盛岡駅に再び凍り始めた圧接を踏みしめ戻ります。
16時ころの新幹線で八戸を目指しました。

盛岡、新八戸間の新幹線はトンネルの連続で景色が見えないのが残念です。

新八戸駅到着後、バスに乗って中心街についたのは、18時ころ。
既に夕方です。
真っ白な雪景色の中心街は街頭に照らされています。

夕闇の八戸中心街

ホテルに投宿後向かったのは居酒屋ばんや。
15年ほども前に一度来ていて、魚のうまさにうなったことがあります。

カウンターとテーブルが3席ほどの店内。
15年前にいた大将の姿はなく、おかみさんがカウンター内で陣取り、ホールにはバイトの女の子を置いた布陣です。

まずはビールを注文。
刺身はヤリイカとしめさばにします。

ついで地酒・陸奥八仙を注文。
バイトのお姉さんが、甘口、甘口、超甘口、辛口のどれにしますか?というので甘口を選択。
ぐい飲みに注いでくれますが、受け皿にこぼさない上品な注ぎ方が、ばんや流でした。

この後はメヌケのカマの煮魚を注文。
隣席の30代の大阪からのサラリーマンに声をかけると話が弾みました。
ネットで調べてこの店へやってきたとのことで、ウニなどの刺身を取り地酒をバンバン飲んでいました。

山小舎おじさんは店を出て雪の中を八戸の飲み屋街を一巡。
そのまま宿へ帰りました。

翌朝はバスで八食センターへ向かいます。

宿で教わったバス乗り場を探しますがうまくたどりつけません。
八食センター行きのバスが止まった停留所を見つけたのでそこで待ちます。

結局、新八戸駅行きのバスが来たのでそれに乗りました。
新八戸駅からも八食センター行きのバスはでているのです。

朝の八戸中心街でバスを待つ
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生鮮鮮魚市場に隣接して建つのが八食センター。
魚を中心にした小売市場です。

8年ほど前に家族と北東北旅行をした際にここに寄り、ホッケやサバの干物などを買って送り、食べたところったところ、家族に大好評でした。

今回の旅行の目的もここで鮮魚や干物を仕入れることだったのです。

8年ぶりの八食センター。
開店早々の時間だったとはいえ、人の少なさに驚きます。
前回来た時は夏の観光シーズンだったとはいえ、昼食を摂ることが困難なほど御客であふれていましたから。

しかも目指す、ヒラメ、サバなどの鮮魚が売っていません。
店の大将やおかみさんに聞けば、天候が悪く漁がない、とのこと。

それにしても全体の品ぞろえが、鮮魚を丸で売るというより、干物、冷凍もの、切身うり、が中心となっており、観光客向けの商品構成となっているような気がしました。
魚や全体に元気が感じられません。

店の構成も、魚屋と乾物屋が中心ではありますが、食堂、カフェ、酒屋、土産物屋などが増えていて、観光客や休日の地元家族連れがターゲットの場所になっていることがわかります。

回転ずしコーナー
お弁当売り場は昼時賑わう

目指す鮮魚はありませんでしたが、干物やホッキ、ホタテ、若干の刺身類を買って送りました。

お弁当のホッキ寿司を買ってバスで新八戸駅へ。
新幹線で東京に帰りました。

軽トラ流れ旅 加賀井温泉一陽館

12月になり、今年最後の流れ旅です。
今年最後に入りたかった加賀井温泉一陽館に行くことにします。

加賀井温泉は松代にあります。
そこまでのルートは国道18号線で行くのがメインですが、ほかに、千曲川の左岸を行くコースや真田地区経由で地蔵峠を越えて松代に下りるコースなどがあります。

千曲川左岸コースは、途中、上山田の温泉街を通り、千曲市稲荷山の旧宿場町を通るなど、見どころの多いコースです。
今回は、途中の千曲市八幡地区にある武水別神社に寄りたくて、千曲川左岸コースを行きました。

武水別神社

篠ノ井へ北上するバイパスを外れると千曲市八幡の街中に入る。
街中を走ってゆくと大きな鳥居をくぐる。
武水別神社だ。

境内に駐車場があり、遠慮なく入らせてもらう。
鳥居の内側に太鼓橋。
袂には古い旅館もある。
映画のセットのような光景。

大鳥居の内側にある太鼓橋
鳥居前に建つ松屋旅館

鳥居をくぐったところにはレンガ造りの塔がワンセット。
その先には年末にはちょっと早い屋台が2、3脚。
参拝客より、屋台や神社の関係者の方が多いが、広々としたすがすがしい、オープンな空間。

大鳥居をくぐった境内

奥に進んでゆくと広い空間に配置された様々な建物が目に入る。
右手に体育館のような空間を持つ建物が目に入る。
額殿というらしい。

正面には拝殿とその奥の本殿。
左手には、神話や戦国話をモチーフにした錦絵のような絵が飾られた建物。
賑やかな空間である。

額殿
拝殿
絵が飾られた御供殿

千曲川流域の五穀豊穣を祈った場所という神社。
畏れる神々の降臨の地、というより、地元の人々が折に触れ集い祈る場所、という雰囲気。
関東で言えば、府中の大國魂神社をカジュアルに、素朴にした感じ。
年末年始のそれなりの賑わいが想像できる、地元の人々に寄り添った神社だった。

焼き肉はやしや

昼食は稲荷山地区の地元の食堂へ。

稲荷山は北国街道の宿場町だったところで、かつての富の集積を物語る蔵の街並みが残っている。
武水別神社がある八幡地区から車で5分ほど。
ネットで調べた焼き肉はやしやへ行ってみる。

ロースターがセットされたテーブルに案内される。
ランチメニューには丼物もあるので、カツ丼を注文。
どんどん入ってくる地元のお客は、たいてい焼き肉を注文している。

ランチのカツ丼900円

赤ン坊を背負ってホールを切り回す若奥さんがカツ丼をはこんできた。
見た目は素人が作ったっぽい、ごちゃっとした出来上がり。
食べてみるとつゆだくというか、メリハリのない味。

肉が厚く、ボリュームは十分。
何より手作り感がいい。
この手作り感だけで合格点だ。
田舎の食堂はこれだからいいのだ。

川中島古戦場跡

目的地の加賀井温泉へ行く前に、長野市博物館へ寄ってみた、が、この日は休館日だった。
やむなく博物館が建つ、川中島古戦場史跡公園を歩いていると、公園の片隅に八幡神社があった。
武田信玄と上杉謙信の一騎打ちの場所に建つ神社とのことで寄ってみた。

一帯はきれいに整備され、様々な由来を持つ遺跡などが案内板とともに残っている。
信玄と謙信の一騎打ちが、それぞれの旗印とともに銅像で再現されている。

長野県民の心情としては、領内を深く侵略された武田より、それを一応は撃退した上杉の方に近いのか?
それとも外様同士の闘いを第三者的に見ているのだろうか?

武田にしても上杉にしても、地元を遠く離れた信濃の地に自身の銅像が、数百年後にも建立されていることに満足しているのだろうか。

加賀井温泉一陽館

さて念願の加賀井温泉。

一陽館の寂れたたたずまいは変わらず。
ただし、入浴料が値上がりして500円になっている。

午後の割と早い時間なので温泉を独り占め。
かけ流しの浴槽の下流から上流へ時間をかけてゆっくり浸かった。

右が浴場棟、左は受付

寒い時期に入って見るとお湯の温度が低く、なかなか温まらない感じがした。
長く浸かっても茹で上がるようなことはなかった。
硫黄臭などもないから、嗅覚からリフレッシュするタイプの温泉でもない。

休憩場は使われていない

ただし、当日よく眠れたり、翌日疲れが取れてすっきりしたのはさすがの効用だった。

今年もどうもありがとう、来年もまた来ます。

遠くに見えるのは北アルプス?

軽トラ流れ旅 高遠歴史博物館

12月初旬はシーズン最後の旅の時期、降雪と厳寒の季節を前に軽トラで旅に出ました。

目指すは杖突街道を高遠から伊那に向かうお気に入りのルート。
路面凍結を注意しながら、杖突峠へ向かいます。
幸い、杖突峠は雪もなく、路面は乾いていました。

杖突峠から望む茅野市街と蓼科山

杖突街道藤沢地区

杖突街道を高遠に向かって下る道にはひなびた里の景色が続いています。
藤沢という地区には、温泉施設やカフェなどが集まっています。

この地区の街道沿いの一軒が、天気の良い日などに、道具類を軒先に出しています。
通るたびに気になっていたので、軽トラを路駐して寄ってみました。

この家は古道具屋兼カフェをやっているようでした。
この日は道具類の軒先への蔵出しはやっていませんでした。
いつか改めて寄ってみたいところです。

藤沢地区にある古道具屋さん
古道具屋さんの蔵

高遠歴史博物館

高遠歴史博物館へ寄ってみました。
前回酔ったときは、ここで杖突街道の手づくりマップを買いました。

改めて歴史博物館の立地が絶妙なことに気づきました。
川をせき止めてダム湖とした景観のほとりに立地し、その川は高遠城が立つ山の崖を削っています。
城山と川の間を削った道をたどって博物館にたどりつきます。

博物館からは川をせき止めた高遠湖が見える
右手が城山から続く崖

博物館の1階には、杖突街道の沿道に建立されている、貴船神社で行われていたお祭りの舟形の山車が展示されています。
京都の貴船神社から勧進された神社が杖突街道にあるのです。

2階には、高遠城の最後の城主が家臣たちに下賜した鎧兜や刀剣などが展示されています。
下賜されたものが大事に保管されてきたからこその展示です。
城主は廃藩に当たって、藩の所有物を散逸させるのではなく、家臣たちに下賜したうえで、それらを記録に残したとのことです。
藩の宝物が当時の記録とともに今に残されたわけです。

また、高遠藩では射程変更できる大砲を自力で作ったとのこと。
家臣の子弟教育の水準の高さといい、当地の文化水準の高さがうかがえます。

高遠藩が開発した大砲
花火を放つ大筒

武田信玄が信濃侵攻の前進基地とした高遠城。
織田信長に攻められた武田軍が総崩れとなる中で、高遠城は武田軍が壮絶に抵抗したことでも知られます。

ローメンとソースカツ丼

伊那はローメンとソースカツ丼が名物。
高遠の食堂でそれらを同時に味わえる定食をいただきました。

高遠の食堂華蔵

ローメンは汁あり焼きそば。
汁はウスターソースの味です。

ここの食堂のウリは手作りの味です。
個人営業の食堂の何がいいかって、手作りの味が味わえること。
満足感があって、胃もたれしないこと。

ご当地定食Aを注文

伊那ではいつもの酒屋に行く

高遠まで来たら伊那に下りるのがお約束。
天竜川のほとり、伊那谷の北部の中心地、12月の伊那市は底冷えがします。

駅前アーケード街にある酒屋さんに寄ってみます。
この酒屋さんは手作りの看板が名物。

前回は「秘酒」の大文字に思わず入店し、買い求めた真澄、これがうまかったのです。
今回の看板には「夜明け前誕生50周年記念酒」とありました。

酒屋名物の大看板

看板の品を求めると、おかみさんが冷蔵棚から出してくれます。
ついでにこれも看板にある、無添加生ワインというのも買い求めました。

隣のスーパーで正月飾りを買う

更にアーケード街を歩いていると、地元出身の音楽家に名前をずらりと並べた看板がありました。
おお、そうそうたるメンバー。

その下には年寄りの心得を歌詞にした歌が書かれています。
ツボを得た歌詞に思わず深く納得させられました。

年末にふさわしい流れ旅でした。

軽トラ流れ旅 軽井沢歴史民俗資料館

晩秋の軽井沢へ軽トラを走らせた。

軽井沢。
夏は細い道々を人と車が埋め尽くし、その雑踏に、ここは信州か?と思わせる場所。
人のいない冬は・・・、「軽井沢に冬行っても何もないよ」(山小舎おばさん談)といわれる場所。
では冬の前の晩秋ならどうか?

ある日、つけっぱなしのテレビにローカルニュースが流れていた。
軽井沢の博物館でゆかりの人物の版画展をやっているとの内容。
ポール・ジャクレーという軽井沢に住んでいたフランス人版画家の回顧展とのこで、映し出される個性的な版画が印象に残った。

ジャクレー展の会場、軽井沢歴史民俗資料館は11月中旬から冬季休館に入るらしい。
その前に訪れてみた。

長野県東部を千曲川に沿って北上する主要国道は18号線。
これに沿って南下し、佐久を柵を過ぎてからは東方向に行けば県の最東端・軽井沢に至る。
古くは中山道の宿場町で、近年は避暑地、別荘地として栄えた軽井沢。

群馬県と上田、長野方面をつなげる国道18号線は常に交通量が多い。
山小舎からは2時間かからない行程だが、軽井沢が近づくにつれて車の量が多くなる。

軽井沢に近づくにつれ、初冬の平日とはいえ、ますます交通量が増える。
車だけではなく、人の姿も多い。
山小舎周辺の景色との差を感じる。

目指す歴史民俗資料館に到着。
庭の紅葉に迎えられる。

歴史民俗資料館玄関へのアプローチと紅葉

窓口のお姉さんに、他の施設(追分宿郷土館、堀辰雄文学記念館など)との共通券購入を勧められ、600円で購入。

急ぎの予定があるわけでもなし、お姉さんと世間話。
中山道軽井沢宿は本陣跡に標識があるだけとのこと。
一つ先の追分宿には多少の景観が残っているとのこと。

歴史民俗資料館の入り口

館内へ向かう。
常設展示を見る。
中世の東山道から近世の中山道に至る歴史、明治以降の外人宣教師による軽井沢開発の歴史、信州の寒村としての軽井沢の風俗・歴史、浅間山噴火の歴史とジオラマなどが見られた。

米が採れず、度重なる浅間山の噴火の逆境の中で、中山道の物流に助けられてきた軽井沢の歴史がそこにはあった。

特別展示企画のポール・ジャクレー展は思ったよりも狭い一室で行われていた。
じゃクレーは、幼くしてフランスから両親とともに来日し、戦時中を経て生涯を終えるまで軽井沢で暮らした人物。

日本画と版画を学び、戦前の朝鮮、満州、南洋を旅行し版画の題材とし、版画用の和紙を特別に作らせ、専属の摺師を雇い軽井沢にアトリエを開いたとのこと。

館内で配布していたパンフより

作品を見ると、南洋の人物を描いた作品には、独特の明るい色使いと、ゴーギャンがタヒチに魅せられたかのような感覚が見られた。

展示会のハイライトは満州の王女たちを描いた版画。
絶妙な発色を子細に組み合わせ、考えられないくらい手の込んだ版画。
解説によると、一つの色を再現するために7色の絵の具を調合したり、一作に200枚以上の版木を作ったとのこと。
画家としての感性もさることながら、作者の根気と執念に圧倒される。

館内撮影禁止のためチラシから撮影。満州の王女を題材とした版画

たっぷり時間を使って館内を一周。
ほかに入場者もなく心行くまで博物館を楽しむ。

挨拶をして出ようとすると、くだんのお姉さんが飛び出してきた。
何事かと思ったが、火曜日はほかの施設が休館、近々それらに訪問の予定がないなら共通券から単館券に変更する、とのこと。
年内に軽井沢を再訪問する予定もないので、差額を払い戻してもらう。
愛想のいいお姉さんには、かえってお手数をかけてしまいました。

1時を過ぎ昼食の場所を探します。
信州のローカルルールで地元の食堂は2時に閉まってしまいます。
国道18号線を追分方面へ走りつつ、目に留まった1軒の食堂に入りました。

1時過ぎても続々来客が入店していた食堂

想像された野郎系の威勢のいい食堂ではなく、地元のヤングミセスたちが待ち受ける定食屋さんでした。
数少ない外食では、チャンスとばかり大食いしがちな山小舎おじさん。
今回も唐揚げに大盛ご飯を頼みました。満腹でした。

みそ汁と漬物はサービスだった

軽トラ流れ旅 初秋の青木村、保福寺峠

今回の軽トラ旅は、9月のお彼岸の頃の旅。
上田地区から峠を越えて青木村へ、そこから旧東山道を通り、保福寺峠を越えて松本方面へ流れました。

青木村は収穫シーズンだった

上田市内の鹿教湯から、小県郡青木村へ抜ける峠道・県道12号線は、2019年の台風19号の被害で長らく通行止めになっていました。
今年2022年の春にようやく開通となりました。

県道12号線

ほぼ一車線の道幅の山道で通行量は少なく、たまに対向車が来ると緊張します。
ここを通行したときに同乗していた家族は、もう通りたくない、と言っていました。
山小舎おじさんはなぜだか時々走りたくなる道です。

松本街道とも呼ばれた県道12号線。道沿いには道祖神も

狭い山道を抜け、峠を下りると、青木村の里の風景が広がります。
収穫期の田んぼの間に、蕎麦の花が咲いています。
江戸時代になって中山道が別ルートで整備される以前は、このあたりを通る東山道が西と東を結ぶ主要街道でした。

青木村の田んぼは収穫時期
これから収穫を迎えるそば畑

村の歴史文化資料館を訪れました。
村出身の東急グループ創始者の五島慶太の業績を展示する記念館と併設して歴史文化資料館がありました。

展示コーナーは4つに分かれています。
昭和の生活を記録した民俗資料館、遺跡土器の展示コーナー、郷土出身の俳人栗林一石路の展示室、義民資料展示室です。

まず、古墳から発掘された直刀に驚かされます。
また石棒も展示されています。
この地方が、諏訪の神様やミシャグジ神と関連することもうかがえます。

古墳出土物。直刀があった
石棒は信州に多い神様の象徴

昭和の暮らしの記録と展示物のコーナーを見ます。
様々な展示物を見ると、青木村が豊かな地域(だった)ことがうかがえます。
かつては多くの人口を抱え賑やかだった様子、高度成長時代以降は都会並みの生活水準を享受し、当時の最先端の電化製品を駆使していたことに、軽く驚かされました。

山小舎おじさんなどは青木村というと勝手に過疎地域をイメージしますが、おじさんが育った北海道などよりよほど物資、文化に恵まれた地方だったようです。
本州と北海道の違いなのでしょうか。

青木村のかつての生活がうかがえる
戦前の青い目の人形は破棄されずに保管されていた

義民資料室へ行くと江戸時代の青木村の存在感が伝わってきます。

青木村の歴史は一揆とともにあったようです。
展示資料を見るとやはり東北、信越地方に一揆が多く発生しています。
農産物(穀物)の生育にハンデがあった地域です。
いかに勤勉でおとなしい民度を持つ地域とはいえ、人間には最低限必要な生活水準があり、我慢の限度もある。
青木村に限らず、上田、松本などにも一揆の記録があり、主導者を義民としてたたえ伝える歴史があるのでしょう。

県別の一揆発生状況。

時の権力者の徳川家康を恐れさせ、大坂冬の陣では家康の本陣寸前にまで迫った真田幸村といい、信州人は怒らせると怖いのかもしれません。

道の駅あおきへ行くと、太鼓の演奏をやっていました。
義民太鼓の幟が立っています。
やはり義民の歴史は村の誇りなのです。

道の駅あおきでは義民太鼓の演奏が

満員の食堂で、義民太鼓の太鼓の音を聞きながら天丼を食べました。
量は十分。
ご飯は地元のお米なのでしょうが、ぜいたくを言えばもうちょっとご飯が美味しければ・・・と思いました。

道の駅の食堂。マツタケご飯は本物を使ってます
天丼。900円

直売所へ行くと、キノコ、リンゴ、ブドウ、新米と秋の実りであふれています。
この地域は全国的にもマツタケの名産地で、時期には松本方面からもマツタケを求めて人がやってくるのです。

直売所では新米も

保福寺峠を越える

青木村と松本を結ぶ峠道が保福寺峠を越える県道181号線。
東山道が通った道で、明治になってウエストンという外国人がここの峠から眺めた風景に感動し、飛騨山脈を(北)アルプスと名付けたという。

現在は青木村と松本を結ぶ主要道路は、青木峠をトンネルでくぐる国道142号線にその座を譲っている。

県道181号線も2019年の台風19号の被害で、保福寺峠越ができなくなっていた。
山小舎おじさんにとっては初の道です。

県道181号線。麓の集落

麓には集落が広がる。
まもなく道幅一車線となり、対向車ゼロの山道が続く。
止まっている車はキノコ採りの地元の車。

走っても走っても、深い山に分け入ってゆくだけで先が見えない。
ところどころに東山道遊歩道の標識が現れる。
遊歩道というにはふさわしくない寂しさ、山の気配が支配的です。

ところどころに案内の標識が

ようやく峠に到着。
松本方面からバイクが1台通って行った。
軽トラを下り、少し歩いてウエストンの碑を見る。

明治時代にここまで来たというウエストン。
村人の案内で、籠できたのか、馬を使ったのか。
当時のゆったりとした時間の中とはいえ、休む場所にも事欠き、途中で宿泊など思いもよらぬ道中だったろう。
青木村に前泊し、早朝出発して1日かけて往復したのだろうか。

保福寺峠にあるウエストンの碑

ウエストンの碑から眺める北アスプス

周りの景色を眺める余裕もなく、東山道の昔を思う暇もなく、とにかく遠いと思いながら走った峠越え。
かつて家族とともに美ヶ原から山道を松本に下った時もたいがい遠く感じましたが、信州の山塊の懐の深さに改めて畏れを感じた山小舎おじさんでした。

麓の化石館で驚く

峠を境に小県郡青木村から松本市へ。
まもなく集落が現れ、県道181号線が国道143号線とぶつかるところに化石館があった。
最近、孫娘が博物館好きだとわかった山小舎おじさん、情報収集も兼ね寄ってみる。

なんでも、松本市四賀というこの地区は化石の宝庫らしい。

館内に入ってみる。
子供が親しみやすいように、化石に触れたり図鑑が並べてあるロビー。
その奥の展示室には復元されたクジラの大化石が、青くライトアップされて宙に浮かんでいた。

シガマッコウクジラの化石標本

立派なアンモナイトなどの化石も多数展示されている。
化石好きな人にはたまらない空間だろう。

館内にはアンモナイトの化石なども

ロビーへ戻る。
付近の地形のパノラマがあった。
化石の出土ポイントがたくさんある。
この地区の見どころは、化石と虚空蔵山だと感じた山小舎おじさん。

事務室の学芸員のお姉さんに、化石出土ポイントと虚空蔵山について質問。
クジラの化石が出土した状態で保存されている場所があるとのことで、その場所の地図をいただく。
虚空蔵山のビューポイントも聞いたがそれについては明確な回答はなかった。
虚空蔵山までは遠いから、まあいいか。

とりあえず地図に沿って進む。
人知れぬ川のほとりに、ガラス張りで展示された一角が見えた。
中を覗くと小型クジラのほぼ全身状態の化石があった。
震災前の宮城県で見た、歌津魚竜館の.化石を思い出した。

化石館から車で5分ほどのところにあるクジラ化石の現地保存場所
出土状態で保存されているクジラの化石

帰りは松本市街を通り、直売所に寄ってリンゴや漬物を買って帰りました。
まだまだ暑さが残る初秋の流れ旅でした。

松本に来たら寄る直売所
紅玉、漬物などを買って帰る

糸魚川カニ屋横丁

新潟へ行ってきました。
長野県に隣接し、日本海への出口に位置する新潟県ですが、案外遠くて、山小舎に来てからは行けていませんでした。

今回は家族と行きました。
自宅に帰り、合流して自動車で行きました。

関越道で群馬と新潟の県境を越え、六日町のインターでした道に下りました。
魚沼郡、十日町などを越え、上越市に入りました。

ここで一泊。
地元の居酒屋で海鮮中心の夕食。
上越市の旧直江津市街地の店でした。

家族で一泊し、翌朝は日本海沿いを糸魚川に向けて出発。
好天の日本海沿いの道は快適でした。

糸魚川に入り、道の駅能生という場所へ向かいます。
駐車場は、関東や中京、北陸方面のナンバーで満車に近い状態です。

構内にカニ屋横丁というカニ専門の店が並ぶ一角があります。
鮮魚店が3店ほどあります。
道の駅なので土産物屋、食堂などもあります。
付近には道の駅が管理するキャンプ場もあるようでした。

カニ専門店が並ぶカニ屋横丁

鮮魚店で自宅に送る鮮魚を買い求め、宅配便を手配しました。
ノドグロをはじめ、南蛮エビ、イカ、石鯛などの鮮魚、サバの干物なども売られています。
その場で食べられる生ガキ、焼きイカなども売られていました。

カニ屋横丁と直角に鮮魚店が並ぶ
鮮魚店内の鮮魚の数々

カニ屋横丁前のパラソル付きテーブルにはカニを食べるお客でにぎわっています。
茹でたカニを買うと、バケツとはさみと割りばしと手拭きがついて来て、その場で割ってほじって食べられるのです。

カニ屋横丁前のテラスでカニをむさぼる

何とも豪快です。
日本は狭いようで広く、現地に行かないとわからないことがまだまだたくさんあります。

かつて夏に秋田の日本海沿いを車で走った時に、真夏の道の駅で人々が生ガキをじゃんじゃん食べては、蛎殻で一斗缶を山にしていた光景を思い出しました。
夏に生ガキを食べたことがない山小舎おじさんはその光景に驚きましたが、今なら喜んで仲間に入ることでしょう。

夏の新潟では茹でカニをむさぼり食う光景が繰り広げられているのでした。

カニをチョイスした山小舎おばさんによると、1杯1600円ほどでカニを買うと、倍くらいのおまけをしてくれたとのことでした。

これで1600円(おまけ込み。唐揚げ、コロッケは別)

家族で無言でカニをむさぼり食べました。
外なので多少こぼしても、汁が垂れても大丈夫。

茹でカニは生臭いこともなく都会ではなかなか出会えない味でした。
合わせて、カニご飯とカニクリームコロッケも食べましたが美味。

9月中旬ながら夏の日差しの日本海で思わぬプレゼントでした。

軽トラ流れ旅 須坂デイープ旅

軽トラで須坂まで行ってきました。
上田から真田をとおり、菅平へあがって須坂へ下るコースで行きました。

須坂は、新潟方面へ北上する谷街道と、菅平をとおって現群馬方面へ抜ける大笹街道が交わる交通の要衝として中世より発展。
江戸時代になると須坂藩が置かれ、物資の流通により豪商が発生しました。
明治以降は生糸の生産の中心地として発展したところです。

当時の蔵が立ち並ぶ町が残っており、小布施と長野の中間地という立地から、観光客にも人気の町です。

山小舎おじさんは2度目の訪問。
前回は江戸時代の豪商田中家の屋敷を見、蔵の街並みを見、長野電鉄が走る須坂駅に行き、地元で人気の食堂で昼食しました。
この度、前回訪問時には改修中だった博物館を見たくて再訪問しました。

臥竜公園で博物館と動物園

臥竜公園は須坂市民の憩いの場です。
春は桜の名所となります。
一角に須坂市博物館があります。

須坂市博物館前景

常設展示室では、カモシカのつがいが、はく製姿でお出迎えしてくれます。

常設室最初の展示はカモシカ

石器時代から古墳時代のエリアへ行くと、この地域に古墳が多くあり、剣など重要な埋葬品が発掘されたことがわかります。
長野県は古墳の数では全国有数の、古代の文化圏だったのです。

古墳から出土した直刀

隣の展示室には須坂の観光名所の、米沢瀑布と米沢鉱山跡の展示がありました。
興味をひかれたので、学芸員の方に詳細を聞くと、米沢瀑布は紅葉の名所でシーズンにはシャトルバスが出るとのこと。
ただし現在は2019年の台風19号の被害で交通遮断となっていること。
駐車場から40分くらい歩くこと、などを聞きました。

また、硫黄鉱山跡の米沢鉱山は、瀑布からさらに徒歩で行かなければならないこと。
鉱山とその周りの町の跡はすっかり撤去され、廃墟的なものは残っていないこと、なども教えてくれました。
いつかは行って見たい米沢瀑布と鉱山跡です。

博物館の後、公園内の須坂動物園に向けて歩いてみました。
ローカル放送で須坂動物園のイヌワシの話題があったのを思い出したのです。
イヌワシは捕獲禁止なのはもちろん、飼っている動物園も限られているとのことです。

臥竜公園

桜並木を動物園まで歩くと、園内にSLの姿が見えました。
入り口の案内板を見ると入場料が大人200円とあります。
迷わず入場券を買いました。

須坂市動物園入り口

臥竜公園の端の丘陵というか、坂を利用した動物園です。
細長い敷地で上り下りもあります。
女性のスタッフが働いようで、鳥類、小動物が多く飼育され、猛獣はツキノワグマだけです。

天然記念物イヌワシ
ペンギンもいます

小動物と触れ合う施設があったり、昆虫などの展示館もありました。

園内の様々なコーナーの一つ

入り口近くに、中央本線の木曽福島機関区で勤めを終えたD51が展示されていました。
野外展示ですが、まずまずの保存状態で、運転席に上がることもできます。

笠鉾会館とまゆくら

須坂市博物館で、市内にある博物館分館の笠鉾会館との共通入場券200円を購入していました。

笠鉾会館へ行って見ました。
付近の市営駐車場の駐車券2時間分をくれました。

市立博物館が自然と古代の展示を分担しているとするなら、笠鉾会館は中世以降近世までの展示を行っていました。須坂の夏の風物詩である祇園祭の山車の展示も。

7月に行われる祇園祭の山車
往年の祇園祭の様子

祇園祭なるものは佐久地方の岩村田でも行われており、京都と信濃の歴史上の関係がどうなっているのか興味があります。

また、笠鉾会館では、交通の要衝としての須坂の歴史や、幕末の名君・堀直虎のことなどを知ることができました。

ここまで来たら市内の博物館は全制覇です。
続いてまゆくらという場所に行きました。

生糸生産全盛期に繭の蔵として使われていた建物を移築した博物館です。

まゆくら全景

入場して、届け出表に住所氏名を記入すると、係の70歳前後のおばさんが話しかけてきました。
古い蔵造りの建物のことから、当時の製糸工場の女工さんのこと、大笹街道のこと、などなど、話が途切れません。

須坂の女工さんは給料などの待遇がよかったとのことでした。
豪商田中家では屋敷の庭石を大笹街道を通らせ、菅平を越えて運ばせたこと。
製糸業衰退後は富士通の進出で精密工業が興ったこと、などなど。

まゆくら3階部分

話が尽きないので、須坂の町の花街のことも聞いてみました。
芸者さんがいたエリアを教えてくれました。
ほかに青木新道という場所と駅前もそういう場所だったことも。

後でわかりましたが、青木新道と駅前はいわゆる赤線、青線の地帯でした。
全盛期には長野からもお客が須坂駅前に来たとのことです。

須坂の闇、赤線地帯へ

博物館めぐりを終えた後は、地酒、どら焼きなどのお土産を買いがてら、まゆくらで得た情報の場所を巡ってみました。

芸者さんがいた花街の跡はすぐ見つかりました。
地図上で教えてもらった場所に料亭が1軒残っていました。

花街の現在

午後2時を過ぎ、昼食もまだでしたので急いで赤線地帯にも行ってみました。
昔のことを知っているとはいえ、女性の記憶なので、まゆくらのおばさんからの情報では、確かな場所がわかりません。
ネットで検索すると、劇場通り、青木屋小路などがその場所のようでした。

大体の方向へ歩いてみると、果たして劇場通りにぶつかりました。
かつては映画館(前身は芝居小屋)があり、にぎやかな商店街だったとのことです。
今はひっそりした劇場通りを歩いてゆくと、青木屋小路の看板がありました。

劇場通りの行灯
青木屋小路

青木屋小路に入り、ぶつかった道にはスナックなどがありました。
見ればそれらしき建物の名残も。
ここら辺がかつての遊興の巷だったのでしょう。

時代も変わったこともありますが、富士通も撤退し若い勤め人がいなくなったことが衰退の主な原因なのでしょう、かすかな残滓を残し住宅地に変貌してゆく地域となっていました。

青木新道に現存するスナック
かつての赤線と思われる建物
付近の道路標示。「現在地」に隠れたあたりが青木新道

歩き疲れ、腹も減り、須坂での今回の目的も果たしたので駐車場へ戻りました。
既に3時を回っており地元の飲食店はとっくに休業に入っている時間帯でした。

令和4年青春18きっぷの旅 大糸線で穂高、白馬へ

日曜日に穂高と白馬へ行ってきました、青春18きっぷの旅です。

穂高神社再訪

茅野から松本へ行き、大糸線のホームへ。
連絡するのは穂高行き普通列車。

通路片方にボックスシートが並び、反対側はベンチシートという作りの車両です。
白馬や南小谷まではゆかない、穂高止まりの下り列車なので乗る人もほとんどいません。

大糸線穂高行き普通列車
ボックスシートとベンチシートが混在する珍しい車両

松本郊外の宅地の風景を抜け、田んぼばかりの農村風景となった頃、穂高駅に着きました。

御船に飾られるような武者人形が迎える穂高駅

車窓からも見えたこんもりした森が穂高神社です。
朝9時の穂高神社は、鳥居へ向かう途中の木漏れ日の鮮やかさが新鮮です。
鳥居をくぐる際の空気感に襟を正します。

穂高神社の森の木漏れ日
鳥居。神楽殿の背後に拝殿

2,3年前に来た時同様、境内は掃き清められ、鳥居正面の神楽殿は真新しい姿をとどめています。
拝殿にお参りします。

神楽殿から鳥居を望む
拝殿

ふと見渡すと、穂高のお祭りで活躍する、御船が見えました。
桃太郎をテーマにした作りです。

毎年9月に行われる御船まつり。
船をかたどった山車がぶつかり合うというもので、安曇野に船でやってきたという遠い祖先の言い伝えを今に伝えるものといわれています。

境内には御船があった

船で当地にやってきたという安曇野の祖先の神様にして、北アルプス総鎮守でもある穂高神社を後にします。

穂高神社の鶏がいない

前回、穂高神社に来た時に印象的だったのが境内を走り回っていた放し飼いの鶏。
神様のお使いだとのことでした。
今回、その鶏の姿がないので聞いてみました。

先ず、お守りを売っている巫女さんに聞きました。
今はいなくなりました、野獣に捕られたのでしょうか?とのこと。

売店でコーヒーをテイクアウトした際に店主のおばさんにも聞いてみました。
最近まで2羽いたんですが、いなくなりましたね、とのこと。

皆さん鶏と神社の関係は認識しており、またいなくなったことは知っているようです。

駅に向かい下りの列車を待つ間に、駅前の観光案内所に行って見ました。
お土産の生わさびを買いつつ、係の人に鶏のことも聞いてみました。
あれっいなくなったんですか、知りませんでした。とのこと。

観光案内所でおろし生わさびを購入

穂高神社から神の使いがいなくなってしまいました。
鶏よ、よかったら戻ってきてください。

大糸線の車窓より

穂高から南小谷行きの列車に乗ります。
座席は8割がた埋っています。

信濃大町を過ぎて北上します。
車窓にはそろそろ北アルプスの姿が見えてもいいのですが、この日天気は良く気温も高いのですが、雲が里山の上あたりにかかっていて、背後に壁のようにそびえるアルプスの姿は見えません。

北アルプスは雲で望めず

標高が上がるにつれ、水田の間にそば畑が広がり収穫前の白い花を咲かせています。.

北アルプス方面の里山と田園風景

大町と白馬の間の山間に湖が3つ続きます。
木崎湖、中綱湖、青木湖です。

天気の良い休日とて湖面には釣舩やモーターボートが浮かんでいます。
諏訪湖と違い、藻なども発生していません。
遠目からでも、静けさと水質の良さがうかがえるようです。

このあたりの地形、安曇野が湖だったころの名残なのでしょうか。

車窓から見る木崎湖

白馬は外来者天国?

白馬で下車します。。

白馬駅。観光地特有の空気感

11時を過ぎていたのでまず腹ごしらえ、とネットで調べたとんかつ屋へ向かいます。

12時過ぎになってロースカツ定食にありつくことができました。
有名店らしく、県外ナンバーの車両が開店時間に詰めかけるのですが、店の玄関は締まっています。
11:30の開店時間も過ぎてから中から店の人が顔を出し、そこにいる人の予約を受け、ついでに開店時間を12:00に書き直しました。
CLOSEDの看板は出したままです。

ネットで評判のとんかつ屋へ行って見た
案内板(食事中に一部書き換えられていた)

コロナで、予約客のみの対応という方針もあるのかもしれませんが、開店前の看板からではよくわかりません。11:30にやってきた県外ナンバー車両は、あきらめて開店前にほとんど去ってゆきました。

店内のレイアウトも一人ずつアクリル板で区切られており、テーブルには瓶入りのソースとチューブ入りのからしが乗っています。
注文と同時に会計でした。

1100円のロースカツ定食は、肉が特段厚くもなく、また明らかにお米の質が悪く、ごはんが美味しくありません。
高遠で食べた1000円のソースカツ丼の方がずっとおいしかったでした。

ロースカツ定食。

近くには、キャンプサイト用品のショップがあり、庭ではマルシシェが開かれていました。
スタバのテラスで憩う人々は都会からの移住者なのか、避暑客なのか、観光客なのか?
マルシェの出店者も、来客も地元の人ではなく、”外来者”ばかりのようでした。
店内には外国人の姿や、関西弁をしゃべる人の姿も目に付きます。

サイクルショップの庭からスタバのテラスを望む
サイクルショップの庭ではマルシェが開かれていた

ここで駅に戻り貸自転車を借りて行動。
まずは白馬村歴史民俗資料館を目指しました。

自転車で15分もかかりましたでしょうか、白馬グリーンスポーツの森という場所の一角に資料館がありました。
係の女性が一人います。
入場無料です。
このあたり、外来者が集まるエリアとは異なる、のんびりした空気が流れています。

資料館はワンフロアだけのスペース。
石器時代からの歴史、林業、農業に関する歴代の道具のほか、塩の道という現在の大糸線にトレースする旧街道のパノラマが目を引きました。
白馬らしく登山やスキーの歴代の道具の展示もありました。

資料館の展示。。
塩の道パノラマ

続いてマップを頼りにジャンプ台まで。
長野オリンピックのジャンプ会場です。

ここに至るまでの道すがら、とにかくたくさんのペンションを見ました。
それも3,4階建ての大掛かりな建物をよく見ました。
現在はともかく、スキーや避暑に訪れる客でごった返した時代があったことをうかがわせます。

白馬ジャンプ競技場

ジャンプ台の下でしばし休憩。
ジャンプ団体で日本チームが優勝した時の競技の模様を思い出します。

この日はトレイルランの大会が開かれているようで、高低差のある地形の中をランナーたちが駆けてゆきます。空にはパラグライダーが浮かんでいます。
こういった地道な活動、観光は無理がなくていいものです。

ジャンプ台下でオリンピックの旗がひらめく

白馬村内には温泉もたくさんあるようです。
八方というエリアをとおると、温泉施設があり、足湯は満員でした。

トレイルランのゴールがあり、次々とランナーたちが帰ってきます。

八方温泉の足湯
トレイルランでゴールするランナーたち

古くから登山とスキーの基地として開発され人があふれていた白馬村。
ペンションブームを経て、国内・海外からの移住者が増え、観光客の人気も続いています。
一方、古くからこの地方の中心地として主に農業・林業で栄えてきた歴史があります。

地元の人にとって、外来者は生活の糧でもありましょうが、両者の接点は金だけで、生活圏から人的交流まで隔絶されているのかな?とも思いました。

先のとんかつ屋の客あしらいにしても、貸自転車屋の全く事務的な対応にしても、明らかに外来者に対する、飽き飽きした感情、人的な交流を拒否する感情、があるような気がしてならないのです。

もともと外部に対して閉鎖的な県民感情のベースが、観光基地として長年外来者に荒らされてきた白馬にあって強化された結果なのかもしれませんが。

令和4年 青春18きっぷの旅 中央本線で木曽路へ

夏の青春18きっぷ発売の季節です。
今年も購入しました。

ある土曜日、中央本線の塩尻・中津川間の列車に乗ってみました。
木曽路を巡る各駅停車の旅です。

茅野~塩尻~十二兼

07:07茅野発松本行きの普通列車に乗りました。
土曜日ですが高校生たちでにぎわう茅野駅のホームでした。

土曜日朝7時の茅野駅下り線のホーム

塩尻駅で下車し、中央本線中津川行きを待ちます。
コーヒーを飲もうと駅構内のキヨスクを訪ねました。

しかしながらレジわきのコーヒーメーカーには故障中の貼り紙が。
レジのおばちゃんに確認すると、10分待ってくれれば、とのこと。

すぐ近くの待合室で座って新聞を読んでいると、すぐに直ったと声がかかりました。
レジのおばちゃんの人間味のある対応に心が温かくなりました。

塩尻駅で中央本線中津川行きに連絡

中津川行き列車に乗りました。
初めての木曽路です。

塩尻を出発してすぐ、盆地から、中央アルプスと北アルプス南端の間の山間を上ってゆきます。
山間を縫う木曽谷をたどる路線です。
かつて木曽谷には中山道が通っていました。

車窓は急峻な山々、というよりは、日本的な山の緑が続くという感じ。
思ったよりも開けた場所が多く、そういた場所には町が広がっています。

木曽谷を行く

木曽地方の中心地である木曽福島、大関御嶽海の出身地・上松を過ぎたあたりに十二兼という駅があります。
実は山小舎おばさんの実母の母親の出身地だそうです。

山小舎おばさんは全く記憶にないそうですが、親せきによると、川の音が聞こえるいい場所、とのこと。
せっかくなので下車してみました。

下車して駅の発着時刻表を見ると、次の列車まで2時間半もあります。
たまたま駅にいた青年に聞くと、中津川方面へは路線バスもないとのこと。
中津川方面に進むには駅に戻って2時間半後の列車に乗るしかありません。

駅前の観光案内標識

駅前には名所案内版が一つ立っているだけ。
現中山道(国道19号線)に面した駅ではないとはいえ、周りには店1軒、停留所一つありません。
集落といえるのかどうか、人家がぽつぽつと並んでいるだけです。
雑草が伸び放題の廃屋も目立ちます。

駅前の風景

仕方がないので、温泉施設や民宿があるという名所・柿其渓谷(かきぞれけいこく)へ向かって歩きました。
木曽川を渡り、重要文化財というコンクリート製の水路橋をくぐります。

木曽川を渡る

木工所などを過ぎます。
集落らしい集落にも乏しい地域です。
ここら辺、南木曽町のはずれの地域で、柿其渓谷付近の水力や林業の基地だったようです。
果たして山小舎おばさんの母方の実家はどのあたりで何をしていたのでしょうか?

コンクリート製の水路橋をくぐる
斜面に集落が点在する
渓谷に向かうにつれ民宿が現れる

汗だくになって歩いているうちに時間が過ぎ、折り返して駅に向かう時間が近づきました。
渓谷入り口の温泉宿を見た後、折り返して駅に戻りました。
山道の上り下りで計7~8キロも歩いたでしょうか、腰が痛くなりました。

傾向入り口にある温泉施設

岐阜県中津川

列車に乗り終点の中津川で下りました。
土曜日だからでしょうか座席はほぼ満席でした。

駅の立ち食い蕎麦で昼食です。
愛想のよい主人が袋から出したそばを湯がき、温めたダシをかけて出してくれます。
ダシは完全に関東風というか東日本風で、色が濃くしょうゆ味がしっかりしたもの。
美味しかったです。

かき揚げ蕎麦450円

折り返しの列車は1時間後。
駅前を散策します。
駅前に立つ観光センター・にぎわい特産館に入ってみました。

どら焼きなどの銘菓、産品が並んでいました。
菓子の種類が多いのと、温暖な地で産するお茶が並んでいるのが目を引きました。
今どきの各地方は、地元の農産品を魅力あるお土産に加工しているものです。
自宅用の土産に、煎茶、菊芋の粕漬、飛騨美濃伝統野菜を加工した七味唐辛子を買いました。

お土産を購入

岐阜県の中津川は長野県とは違う匂いがしました。

木曽福島で中山道散策

中津川から折り返しの松本行き列車に乗り、木曽福島で途中下車しました。
木曽路の風景に触れるためです。

木曽福島は長野県木曽郡の中心地で、木曽谷では大きな町となります。
町の中心部に中山道宿場の景観が残っています。

次の列車まで1時間しかないが、中山道の景観を見ておきたく、駅前の観光案内所に飛び込みました。
マップを所望するおじさんに係の女性はにこやかに応対してくれ、中山道に関心あるなら、と街道案内の冊子までくれました。

木曽福島駅前

マップを頼りに宿場の景観保存地区へ急ぐ。
残って入のはわずかな区間でしたが、建物の景観が保存され、水が昔ながらに流れていました。

宿場の景観保存地区

駅までは別の道、現在の商店街を歩きました。
地方の商店街とて、さびれてはいるが、江戸時代の景観保存地区よりも人々の匂いが感じられます。

街中の風景
御嶽海の出身地は隣町
街角の風景

こういった通りにこそ、その地方独特の風情というか歴史というか、が強く漂っているものだと思いました。