ポスティングに挑む その2

シルバー人材センターからの仕事が来ました。
社会福祉協議会の公報「ふくしの窓」のポスティングです。

今回も約30003000部を預かりました。
配布地域は前回と同じです。

山小屋おじさんの、3月までの現金収入の手段は、障害者のガイドヘルパーとシルバー人材センターからだけです。
待ちに待った仕事です。

ポスティングも、大判サイズの冊子を3000部ともなると片手間ではできません。
配布機関が1週間あるとはいえ、前回の反省も踏まえ自分なりに工夫して臨みました。

工夫その1

自転車の荷台にかごを設置しました。
1〆500部に近い冊子を自転車に積む場合、重心の設定が大事です。

前回は前かごだけに積みましたが非常にバランスが悪く、運転しずらい上に自転車を止める場所に苦労しました。
普通に止めると前かごに重心が取られて、自転車が倒れたり動いたりするのです。

そこで今回はプラスチック製の買い物が語を荷台に取り付けました。
1回に500部を積むとして、主力は荷台のかごに積み、手元用の手提げには少数の部数だけ入れるようにしました。
自転車のバランスと、配る際の勝手が格段に向上しました。

工夫その2

ポステイングの天敵は雨と風です。
本降りの際は仕事自体ができませんが、小降りの時や、突然の降雨の際には冊子を雨から守るために大き目のビニール袋(ゴミ袋など)を用意しました。

工夫その3

また強風も大敵です。
何の備えもなく強風にあおられると冊子が簡単に捲れたり、飛ばされてしまいます。
荷台には重しを備えておいて、冊子の上から押さえておきます。

工夫その4

配る順番工夫しました。
前回はとりあえず自宅の近くから配り始めました。
そのあたりは一戸建ての多い地域で、効率が悪く、期間内に配り終えられるかと心配したものでした。

そこで今回は集合住宅を最初に配ることにしました。
国道20号線沿いやバス通り沿いには集合住宅が集まっています。
数十戸が入居しているマンションなどでのポステイングは非常に効率がいいのです。

最初の2日間、集合住宅優先で配布してみると、たちまち3分の2近くがはけました。
担当地区の3分の2近くが集合住宅に住んでいることになります。

2日間で集合住宅を配り終わりました。
効率の悪い一戸建てについては、後半でのんびりとやる予定です。

工夫その5

配る先には様々なポストがあります。
冊子を二つ折りにして幅広いサイズのほう(ヨコ)から入るもの、狭いほうのサイズ(タテ)からでないと入らないものなど。

一戸建てのポストでは、新築戸建てでは特にデザインの斬新なものが多く、一見どこから投入すればよいのか迷ったものでした。

今はだいたいのポストに関して最短時間での投入を工夫できるようになりました。
集合住宅のポストでは、2,30部の冊子を送り出しやすいようにずらして左手で持ち、右手で1部ずつ取ると同時に折りながら投函していくイメージです。

一連の動作で投入できれば上出来ですが、ポストのふたのバネが固くて左手でフォローしなければならない時もあります。

集合住宅では、配布物で満タンになったようなポストも散見されます。
その場合は無理には投入しません。

また、不要配布物を捨てるごみ箱が設置されたポストも多くなりました。
市報なども捨てられていました。

ふくしの窓第261号の表紙

メイン特集は手話講習会へのお誘いです

社会福祉協議会関係のイベントカレンダーが見開きページに

ボランテイア募集の伝言板も

皆さん、税金で賄われている市報などの行政サービスにはぜひ目を通してみましょう。

ポステイングの合間に見た近くの畑では春が訪れていました。

深大寺だるま市

三多摩の春の風物詩の一つ、深大寺だるま市が今年も3月3日、4日に催されました。

1500年以上の歴史を三多摩に刻む深大寺。
例年3月3日、4日に、「厄除元三大師大祭」という深大寺最大の年中行事が行われ、それに伴い境内に全国のだるま屋が集まって市をなしたのが、だるま市の始まりだそうです。
今では全国三大だるま市の一つに数えられるそうです。

今年は新型肺炎の影響で、大祭の出し物の一つの「お練り行列」が中止とのアナウンスが境内に流れる中、だるま市に行ってきました。

このだるま市、地元の小中学生には重要な年中行事で、うちの子供たちもその当時には学校が終わってから友達と待ち合わせて行ってました。
おじさんは実はちゃんと行くのが、今回が初めてです。

ということで、参道入り口の風景。新型肺炎のブームと、冬寒い小雨の影響か、閑散とした雰囲気が早くも漂っています。

参道には屋台が並んでいます。
それこそ全国からテキ屋が集まってきたかのような勢いです。
テキ屋にとっても最重要スケジュールの一つなのでしょう、このだるま市は。

しかしながら歩く人が少ない!

山門をくぐった境内にも屋台が密集しています。
というか、本格的なだるま屋の屋台は境内でこそ開かれているようです。
お寺とだるま市の共存共栄の関係の歴史がうかがえます。

境内にはさすがに人出もまあまああります。

古いだるまの納め場所もあります。

だるまの目入れ、にはマスク姿のお坊さんが並んでいます。

おじさんはそれこそ何年か、何十年か前に買っただるまを収め、新たに小型のだるまを買いました。

高崎から来たという夫婦がやっている屋台で買いました。
だるま屋の大将は「こんなご時世だから、人出は例年の3分の1」と言ってました。
まあ、こんな年もあるということでしょう。

帰ってから筆ペンで片眼を入れました。
1年間、仏壇の前で一家の幸運を祈ってもらうことにします。

小金井のパン屋・カンデル

武蔵小金井駅からほど近く、住宅地の一角にカンデルというパン屋がある。

個人住宅の敷地に小屋を建てて店舗としているパン屋だ。
釜とキッチンは小屋の裏手にあるらしい。

フランスのアルザス地方でパン職人の修業をしたという女性が焼いている。
月、水、金のみの営業。
昼休みも1時間取っている。
2012年に開業してから生き残っており、地域に根付いた店となっている。

ここのフランスパンは、今まで日本で食べたフランスパンの中では一番おいしいと、山小屋おじさんは思っている。

本場のフランスパン-バケットは、外側が香ばしく、中がモチッとして、小麦の香りがする。
ほかに飲み物があればと昼食の一食分になるようなパンだった。

フランス人がバケットを抱えて歩いている?のは伊達ではなく、十分「実用」に耐えうる食品なのだ、と思った。
その代わり1日たつとカチンカチンになった。
山小屋おじさん40年近く前の、パリ滞在時の思い出だ。

原料が違うのか、焼き方が違うのか、消費者の好みの問題か、日本で売っているバケットは、外側も含めてふにゃふにゃのものが多かった。
固めに焼かれたものでも、中のモッチリ感や香ばしさが足りなかった。

カンデルのバケットはフランスのバケットそのままではないが、かなり特徴を残している。
何よりその香ばしさがよい。

バケットだけではなく、菓子パンのカンデルちゃんをはじめとする代わり種もいくつかそろえている。
クリスマスシーズンにはシュトーレンなども店頭に並ぶ。

開店当初の何年間かは、店の売り子さんがアルザス地方の民族衣装をユニフォームにしていたことも思い出される。

これからも小金井を訪れた際には寄ってみたいパン屋さんである。

ガイドヘルパーを始めました その2

1月から、障害者ガイドヘルパーのバイトを始めて1か月たちました。
2月にはおかげさまで7本ほど仕事が入りました。

平日の15時から18時までのプールの送迎(中1時間は時給発生せず)が2本、あとは土日の1日仕事が5本です。
1日仕事5本のうち、職員あるいは先輩ヘルパーに同行したものが2本、単独でガイドしたものが3本でした。

この仕事は、利用者と1日一緒に散歩すればいいだけのようにも見えるのですが、手間のかかる利用者であればもちろん、自立度の高い利用者であっても、気を遣う大変な仕事なのだと、やってみて思いました。

気を遣うタイプの利用者の場合でいえば、例えば、定期的にトイレに連れて行かなければおしっこを漏らしかねない人、電車などで子供の甲高い声に反応し最悪はその場で走り出しかねない人、あるいは子供に興味を持っていて隙あらば行動に移しかねない人、などがいます。
こういった人の場合は、ヘルパーは常に本人の動向に注意を集中しており、体力的には大変ですが仕事としては張りがあります。

自立度の高い利用者の場合、おとなしく、人の言うことをよく聞き、トラブルなどは起こりづらいのですが、逆にほとんど自己主張がありません。
かといって、展示館やショッピングモールなどを見て回っても特段興味を示すことはなかったりするので、時間を過ごすのが大変です。
ヘルパーと信頼関係ができれば、利用者も遠慮せず意思表示して、本人が行きたいところ、興味あるところに案内できるようになるのでしょうが・・・。

これまで、立川の昭和記念公園、立川防災館(立川消防署横の防災に関する体験ができる施設)、渋谷、江戸東京博物館などに行きました。

場所の選定は、利用者サイドが指定してくることもありますが、漠然と「渋谷」に行きたい、とか「お任せ」の場合は考えます。

あまり外に出ていない利用者だったら、運動のため公園へ行って歩きを多くしたりします。
博物館やスタジオパークなどの展示館へ行った場合は、本人が興味を持ってくれれば一番いいのですが、展示物に興味がない場合でも、そこで時間を過ごす工夫をしなければなりません。

ある利用者と渋谷へ行ったときは、スタジオパーク、東急ハンズ、ドン・キホーテ、ヒカリエと歩きましたが、ほぼ素通りで時間が持たず、帰りの駅を「渋谷」から二つ先の「駒場東大前」まで歩いて時間調節したことがありました。
これはガイドヘルパーの失敗例だと思います。

行く先の選定は、本人の希望が優先するものの、これからの季節は、高尾山とか郊外のハイキングコースとかをゆったり散策するのがいいような気がします。

トイレと昼食場所を条件にそのようなコースを選定して、提案してみたいと思います。

三多摩の「闇」を行くVOL.3 三鷹の特飲街と調布のRAA施設

特飲街。
特殊飲食街の略だろうか、警察用語です。
いわゆる赤線街のこと。

昭和33年以前に警察公認の売春宿があった場所。
といっても江戸時代からの伝統だった身請け(人身売買)制度による、廓を舞台にした売春は明治の時代に非合法化されており、昭和の時代のそれは、客と女性による自由恋愛に部屋を貸す、という理屈で業者が公認されており、そのような店が集まっている場所が特飲街(赤線)と呼ばれた。

東京都内に相当数の特飲街がありました。
単にそういった店が集まった特飲街のほかに、神楽坂、赤坂、日本橋、浅草などのいわゆる「三業地」があり、旦那衆や権力者が遊ぶ場所となっていました。
当時の東京はいわゆる「悪所」に不自由しない町だったのです。

三鷹の八丁通り特飲街

三鷹にも特飲街がありました。
駅北口の八丁通りあたりです。

今でも八丁通りの交差点に近く、それらしい建物が残っています。
2階の手すりの造作や仰々しい塀が、それらしい歴史を物語っています。
この建物、裏手にも塀を巡らし、勝手口を設けています。

この建物から通りを挟んだ向かい側には今なお飲み屋街となっている一角が残っています。
特飲街時代から綿々と水商売が受け継がれてきた一角なのでしょう。

八丁通りに面して計測機械製作の横河電機があります。
大正時代からのメーカーで、戦時中は軍需工場として成長しました。
工員さんたちは、飲食街のお得意さんだったことでしょう。

付近にもう一軒、それらしい雰囲気の家が残っていました。

三鷹の八丁通り特飲街は、戦後直後は占領軍慰安のための施設だったという話があります。

敗戦直後に日本政府が占領軍のために、特殊慰安施設協会(RAA)という組織を作り、都内を中心に慰安所を指定設置したことがあります。
RAAはレクレーション・アンド・アミューズメント・アソシエーションの略です。

八丁通り特飲街がRAAに慰安所として指定されたとのことですが、はっきりとしたことはわかりません。

調布の日本楽器工場跡に「調布園」があった?

かつて調布には陸軍飛行場があり、終戦後には進駐軍が駐屯し、米軍住宅なども建てられ、そこは米軍基地となりました。

基地の近くにRAAの施設があったとのうわさもあります。
その場所は日本楽器工場の跡地です。
調布園と呼ばれた施設だったそうです。

現在その場所はサレジオ修道会の教会などになっています。軍需工場が、特殊慰安施設を経てキリスト教団に払い下げられる。
占領下日本では、「いかにも」な流れです。
この「流れ」には単なる慰安施設の有無などよりもよっぽど深い「闇」の世界が垣間見えます。

現在のサレジオ協会構内です。
鎖国時代の日本に来訪し、弾圧により改宗し、日本人として死んだ、キアラ神父の墓が移設されています。
本来ならば改宗者として不名誉で有らばこそ、現在でも教団にこうして称えられていることの背景や如何。
この流れも立派な「闇」です。

なお、RAA施設「調布園」については存在しなかったとの説もあります。
京王閣に米軍用ダンスホールがあったこと、「調布園」についての文献、証言がなかったことによるようです。

特飲街についての記録はともかく、RAA関係の施設については正確な記録に乏しいようです。
敗戦国の負の遺産としてその扱いはしょうがないのかもしれません。
まさに歴史の「闇」です。

新型肺炎について、上海からのレポート

新型肺炎の流行は気になるところです。

山小舎おじさんの知り合いで、上海に住んでいる日本人がいます。
20年近く前から調布の田んぼ作りで一緒に活動していた人です。
その人は現在、中国人女性と結婚して上海に移住、時々帰ってきています。

中国での新型肺炎流行のニュースを見て心配になり、LINEで連絡をとってみました。
以下の通り返信が来ましたので本人の許可を取って転載します。

なお、明らかな変換ミスはこちらで修正しました。
また文章ごとに段落を改めました。

こんにちは‍‍。武漢が閉鎖されてから丸一月が経ちました。
今の私達上海の人たちは小区と呼ばれる数棟から数十棟の塀に囲まれたマンションの中で息をひそめるように暮らしています。
幾つかある門は正面玄門关 正面玄関以外は全て閉鎖され、出入りは特別今回発行された証明書を提示することになりました。
住人以外の立ち入りは親戚といえでも禁止です。
用事のある時は門のところまで出向いて行くことになります。
外出から帰ったときは全ての人に検温がおこなわれます。
配達の人も同様で荷物は警備の人受け取ります。

外出もできるだけ控えるように通達されているし皆恐怖感があるのでたまに街に出ても人出は通常の2割ぐらいでしようか?
それにス一バ一や市場、商店街には必ず検温所があって、一度の外出で何度も検温されることになります。
マスク着用が義務付けられていて、していない人はバスも地下鉄もタクシーも乗車を拒否されます。
咳をするにも気をつけないと、ひどいと通報されかねないのでそういう人は出かけることを控えるので安心な面はあります。
それほどみんな気を使っています。

そのマスクですがなかなか手に入らないのですが小区で5枚ずつ配布したのと薬局で混雑を避けるために予約製で5枚買うことができます。
高値で売り出した人が何人も逮捕されました。
偽マスクを販売した人達も即逮捕されました。
今の上海人はこういう事には敏感ですぐパトカーを呼び警察も厳しいのです。
昨日久しぶりに散歩に出たのですが商店街は閑散としていて開店している三分の一くらいか?いつも太極拳に通っている公園も閉鎖されていて学校も休学中なので元気な声も聞こえません。オンラインで授業を行なっているようです。

十日から会社も始まっているのですが70%くらいの出勤率だそうで、自宅勤務も多いそうです。春節の休暇が終わって中国各地から帰ってくる人達で感染者が増加するのではという懸念がありましたが幸いそういう事もありませんでした。
帰宅した人達には二週間の自宅待機が義務付けられましたが、これが厳格に守られたのは上海人の住まい方にあります。
現在は帰宅者は全てチェックされ外出できないし、用事があれば居住委員会が代行してくれます。

最近の二千五百万都市上海の感染者の推移です
16日328名、
17日332名、
18日333名、
19日333名、
20日334名、
21日334名、
22日335名、
23日335名、
24日335名です。


次に退院者の推移
16日、140名
17日、161名
18日、161名
19日、177名
20日、199名
21日、211名
22日、227名
23日、249名
24日、261名 となっています。


この様に既に80パーセントの人が退院しています。

ちなみに死亡者が3名います。
これらの情報は每日スマホの画面で閲覧でき住所氏名年龄性别,行動歴がわかります。
ちなみに私の住む渋谷区感染者は17名,時々通る、歩いて10分から20分くらいのところに4か所感染者が出て一帯が封銷され近付かないようにしています。

次にこれまでの経緯を記します、武漢が閉鎖された1月23曰の数日前からニュースで危険なウイルスが広がって来ていると知ったのですがその時はこんなに大ごとになるとは思ってもいなかったので春節を利用して24日(大晦日)から近辺の旅行に出かけました。
すると3曰目の朝バスの中で団体旅行禁止命令が出たとガイドさんから伝えられて、予定を繰り上げて帰路に着きました。
上海市に入るところでチェックがあるかもしれにというという話でしたがそういうこともなく帰宅しましたが翌日あたりから大変な騒ぎとなりました。
上海へ入る地下鉄、髙鉄(新幹線)バス、自動車もすべて検査体温チェックが行われるようになり、公園閉鎖,料理店の营業停止と厳しさをまししていきました。

今日のニュースでは上海の病院では全ての病院が正常な状態に戻ったと伝えています。
このように上海に関してはコロナウイルスの経緯封じ込めに成功しつつあると思います。
他方湖北省、武漢に目を向けるとまだまだ悲惨な状況が続きそうで心が痛みます。
これもすべて隠蔽体貭と初動の遅れによる医療崩壤があり、地方政府が制御不能に陥った結果だと残念でしかたりません。
その証拠に湖北省,武漢以外では明らかに收束に向かっているからです。
ただし感染者,退院者がほとんど上海と同じ様な経過をたどって来た北京の病院で一昨日突然大量の感染者が出たのには哑然としています。

その医療崩壤ですが、上海から真っ先に医療支援隊1380名が数日して1500名の第二陣が救助に向かいました。
その後大病院中心だった救隊が三日前八次となる救援隊は中規模の病院(東山病院くらいの)まで駆け付け正に上海中の病院が空っぽになるのではと心配になるほどの势いです。
このようにして中国中の病院から武漢入りした医療隊は3万人に上ると言われています。
8曰で完成させた病院は前もって現地入りしていた1300名の軍隊の医療隊が治療にあたりその後2次の救援隊も现地入りました。

まだまだ続く 最初のころ现地の医療么従事者は訳もわからない混乱状態の中で極度の睡眠不足疲劳,ストレスの中では多くの感染者,死亡者も出で正に不条理な犠牲者というほかありません。救援隊の方々人たちは大勢だし髪の毛もばっさり切って勇ましく出発していますが(勝ってくるぞと勇ましく)正にこちらでも(白衣の戦士)と呼ばれています。
新しく现在入りした人たちによって以前からの人たちの労苦が少しでも和らぎみんな無事で帰ってこられることを祈るばかりです。

今の時点で考える所は、上海のような普通の医療体制ならそれほど恐ろしいウイルスではないのではないか?という事です。
きちんと栄養、睡眠 を取り、手洗い、マスクを付け(他人のため)免疫力を高めることが肝心なことだと思います。
お互い十分気を付けて早く普通の曰常生活に戻れる日を待ちたいと思います。
以上です。^_^

 

臨場感のあるレポートです。
奥さんが中国人であり、現地に溶け込んで暮らしている人なので中国人目線の気持ちが伝わります。

なお、文中、略字の漢字が散見されるのは中国製のスマホだからでしょうか?
中国製スマホで日本語変換ができるのかな?

*文中にある「東山病院」とは調布駅前にある中規模の総合病院です。

三多摩の「闇」を行くVOL.2 競馬場、競艇場のある町

我が町調布が属する三多摩地域。
三多摩とは、旧武蔵国多摩郡のうち、南多摩、西多摩、北多摩の三郡のことをいいます。
調布や府中は旧北多摩郡に所属します。

おじさんが調布に住んで30年以上。
いろいろと地元の歴史に接してきました。
今回は地域の歴史の中でおじさんが興味を惹かれる「闇」の部分を歩いてみました。

府中競馬場とその周辺

調布の隣町・府中には競馬場があります。
地元では府中競馬場で通っていますが、正式には東京競馬場といいます。

全国に10か所ある中央競馬場のトップに位置する競馬場です。
目黒にあった東京競馬場を、戦前に府中が誘致して立地したとのことです。

賭博が現在は法律で禁止されている日本で、例外的な法律に基づき行われている公営ギャンブルの代表格が競馬です。
法律的には競馬は「公営ギャンブル」とはいわず「公営競技」と呼ばれます。
つまり競馬は賭博ではなく競技だとの位置づけです。

元はと言えば幕末に居留外国人が始めた競馬を黙認したのが日本における競馬の始まりとされています。

府中競馬場を見に行きます。
あたりを睥睨する周囲の壁と巨大な陣容。


東門です。

京王線府中競馬場駅より空中回廊が正門につながっています。

正門はまるでどこかの迎賓館の門のようです。

正門わきにある古くからの飲み屋街です。
競馬の開催日ではないとはいえ、飲み屋街というには陣容的に寂れすぎていると思います。
テキ屋の流れを汲む人たちの屋台から派生した店舗なのでしょうか。

現代のギャンブラーたちはこんなところではずれ馬券の憂さは晴らさないのでしょうか?
それともはずれギャンブラーの憂さ晴らしの場所は、浅草や錦糸町の場外馬券売り場近くの飲み屋街になっているのでしょうか。

府中競馬場の立地は、武蔵国一といわれる大國魂神社の裏手で、付近には卸売市場やビール工場などがあります。
付近では、京王線の本線・支線のほか、JR南武線、武蔵野線などが交差します。

聖賤入り交じり、人間社会の必要悪が密集した場所です。
そのようなもともと人間臭い場所に、「クリーンさ」を強調するようにそびえる競馬場の姿は、周辺から浮きまくる巨大な宗教施設のように見えるのはおじさんだけでしょうか。

多摩川競艇場とその周辺

府中競馬場から自転車だと10分ほども走ると多摩川競艇場があります。

元は砂利採取場だった場所だそうです。

競艇も法律で「公営競技」とされる公認ギャンブルのうちの一つです。

A級戦犯でありながら裁判なしで無罪放免された笹川良一が主宰した船舶振興会(現日本財団)が胴元を務めるギャンブルの会場の一つです。

競艇はほかの「公営競技」(競輪、競馬、オートレース)が競技としての歴史を戦前から持っているのに対し、唯一戦後になってギャンブルが公認された競技だそうです。

競艇はほかのギャンブルに比して射幸心をあおる度合いが高く、依存すると悲惨な結果になることで批判されていました。

公営ギャンブルの売り上げが全盛期に比して凋落傾向なのですが、競馬同様にテレビコマーシャルでイメージ回復に努めているようです。

多摩川競艇場へのルートは、西部多摩川線のほか京王線などから無料バスが運行されています。
かつては西部多摩川線が接続するJR武蔵境駅などに一目でそれとわかるギャンブラーのおじさん方がいましたっけ。

この日は競艇が開催されていましたが正門前は盛り上がっているようには見えませんでした。

正門前には2軒ほど飲み屋が営業していました。
屋台ではなく食堂と言っていい店でした。

正門から少し離れた西武多摩川競艇場駅付近にも飲み屋がありました。
入口には「会員制」との札が貼ってありました。

寂れた飲み屋の姿は、公営ギャンブルのひとつの終焉を物語るのか?それとも場外売り場、ネット参加など多様化するギャンブルの姿を反映するものなのでしょうか?

調布の農家で大根抜き大会

令和2年の2月の晴日。
調布の農家で大根引き抜き大会がありました。

先日、小松菜の収穫をさせていただいた農家です。
出荷用の大根を収穫した後を自由に引き抜かせてもらいました。

コーディネーターは小松菜収穫大会の時と同じお姉さん。
フリーカメラマンの傍ら地域活動も行っている人です。
山小屋おじさんの奥さんの知り合いです。

当日は連休の最終日。
子供連れのファミリーが大挙して参加しました。

畑に残っている大根は太くなりすぎたり、二股になったり、あるいは生育不足の細いものばかりですが、初めて大根を抜く子供たちは大喜びでした。

プロの農家の畑は土がこなれていて大根もすっと抜けました。

一人当たり4から5本の大根のお持ち帰り。

残り物をコンテナ2箱もいただいた山小屋おじさん。
切干大根にでもしましょうか。

深大寺周辺を歩く

調布市は、調布町と神代村が合併して誕生しました。

甲州街道の宿場に端を発し、多摩川の川筋に位置し、戦時中には陸軍飛行場を擁していた調布町とは異なり、多摩川の河岸段丘を何段か上った場所に位置する神代村は、武蔵野台地の南端に位置する純畑作地帯でした。

神代村が有する数少ない歴史的遺産が深大寺です。
今回は深大寺周辺を歩きました。

青渭神社

深大寺の北東に位置する古社です。
旧武蔵国多摩郡にある3つの青渭神社のうちの一つで、延喜式に記載されており、設立年は不明です。

地元では青浪様と呼ばれる水の神様です。
バス通りを挟んだ向かい側には都立農業高校の農園が谷戸の地形に沿って広がっており、園内にはワサビ田もあります。
神社は、鮮烈な湧水が滾々と湧く場所を守る神様だったのでしょう。

現在、人々は青渭神社ではなく深大寺に初詣に向かうので、忘れられた神様になりかかっているのが残念です。

深大寺境内

山門をくぐると深大寺境内です。
平安時代の733年に開基と伝えられる天台宗の別格本山です。

武蔵野台地南端のハケの地形を利用して開山しており湧水にも恵まれています。

本堂には毎年たくさんの人が初詣に訪れます。
普段の日も観光客が多く、路線バスが京王線つつじが丘駅から運行されています。

本堂とは別のお堂ではこの日も檀家衆などを集めてお経が詠まれていました。

国宝の釈迦如来像を祀るお堂です。
白鳳時代の仏像が安置されています。

大みそかには周辺の檀家衆が鐘を突きます。

深大寺周辺の参道

参道は、蕎麦や団子を出す茶店でにぎわっています。

鬼太郎茶屋はかつては時雨茶屋という屋号の店でした。
店の二階の座敷で、門前の池を見下ろして蕎麦を食うのもおつでした。

大みそかの夜から三が日はこのあたり人でごった返します。
地元の子供たちは中学生くらいになると友達同士で大みそかの夜に深大寺へ集まります。

神大寺城跡

古い本には神代城ともあります。
成立は不明で、歴史上に現れるのは16世紀になってからとのこと。
現水生植物公園を見下ろす高台に位置します。

江戸城をにらむ前進基地として場所の利があったのかもしれません。
徳川時代が万全になってからは廃城となったのでしょう。

現在どれくらい発掘が進んでいるのか?
現在はテニスクラブ(松岡修造が通っていた)と住宅地に占められています。

高田馬場から神楽坂を歩き市ヶ谷まで(下)

さて、早稲田の食堂・キッチンオトボケにてカツカレーを食べた山小屋おじさん。
満腹の腹を抱えて、早稲田通りをさらに西進。
神楽坂方面に向かいます。

古本屋の姿もなくなり、学生街の雰囲気から落ち着いた街並みに変わります。

捨て猫?を斡旋する店でしょうか。
様々な猫ちゃんの写真が貰い手を探しています。

しばらく歩くと早稲田通りが、右手にカーブしてゆきます。カーブする通りを進むと神楽坂界隈です。

神楽坂は大正時代に興隆した三業地(置屋、茶屋、料理屋が集まる場所)です。
大商店の旦那や政治家などが、芸者を呼んで飲み食いし、気が向けば泊ってゆける施設が集まった場所だったのです。

芸者が所属するところが置屋、旦那衆が芸者を呼んで飲み食いするところがお茶屋、お茶屋に料理を仕出しするところが料理屋となります。

神楽坂は表通りが商店街。
一歩裏手へ入ると石畳の路に面して、かつてのお茶屋、置屋が佇む風情が残っています。
かつてのお茶屋などは、カフェやレストラン、甘味屋などにリニューアルして観光客を呼び込んでいるようです。

神楽坂の商店街です。
早稲田通りの両側に路面店が続いています。
八百屋、雑貨屋、肉屋など生活に必要な品々を扱う個人商店が残っています。

商店街の雰囲気は「地に足がついた」というよりは、ちょっと浮ついた雰囲気です。
もともとの出発が三業地にくっついた出店なのでその雰囲気が残っているのでしょう。

食堂にも一工夫あり、おいしそうなメニューがラインナップされています。

お茶屋さん(三業地のそれではなく、茶葉を売る店)も残っています。
この店は土日には店頭でほうじ茶を炒っています。

団子屋さんです。

飯田橋の駅の近くには、地元民御用達のエリアもあります。

地元民御用達の飲み屋街入口。

食堂の値段も手ごろになります。

数年前までピンク映画館だったところ。
この手の映画館も希少価値になりました。

飯田橋ギンレイホールという古くからの名画座が残っています。

名物、一升チャーハンとジャンボ餃子を出す中華食堂。
チャーハン5,800円、餃子9,600円。
完食しても無料とはなりませんが、残しても持ち帰れます。

飯田橋駅を左に見て外堀を渡ります。
江戸城の牛込見附という、見張り台の石垣跡です。

外堀の内側には、青森会館がありアンテナショップ・北彩館が営業しています。
リンゴジュース、地酒、ヒバ製品などを常においています。運よくリンゴの特売などが開かれていれば、産地直送の青森リンゴが手に入ることがあります。

飯田橋から市ヶ谷に向けて、外堀沿いの堤防の上を歩きます。
右手には外堀と、外堀に並行して走る総武線の電車が見えます。
もうすぐここは花見の季節となります。

高田馬場から市ヶ谷までの半日散歩でした。