旅行記を読む ユーラシア篇

旅行記を読むのが好きな山小舎おじさんです。

ちょっと前に「ヒマラヤ自転車旅行記」という本を読んで、それまで読んだ旅行記を思い出しました。
ユーラシアを舞台にした旅行記で忘れられないものを挙げてみました。

「ヒマラヤ自転車旅行記」B・セルビー著 東京書籍

47歳、子供3人を育て上げたイギリス人女性が自転車でパキスタンのカラチから、ギルギットを経て、インドに入りカシミールに入り、戻ってインドからネパールを横断、シッキムまでの旅行記です。

1980年代の旅です。
1970年代の第一次バックパックブームの後の時代で、ヒッピーブームも終わっていました。
とはいえ、西ヨーロッパ人にとってはパキスタン、インドは遥か彼方の文化果つるところ。マイナー地帯もいいとこです。
そこへ挑むのは、西洋社会では変わり者と言っていいでしょう。
しかも47歳の女性というのがすごい。
思い込んだら突き進む馬力は白人らしいし、自転車の整備や部品の手配、飲み水の消毒剤の携帯や、宿泊場所を各国の事情に合わせてなるべく事前に手配してゆくという用意周到さも白人らしい。

パキスタンのラワルピンディーからギルギットへの道・カラコルムハイウエー(といっても絶壁を削った砂利道)は、1982年に、不肖山小舎おじさんもバスで通りました。
47歳の著者が自転車で通った1年後です。
もう1年早かったら47歳の白人女性の自転車を、26歳の山小舎おじさんが乗ったバスが追い越していたかもしれません。

「シルクロードを全速力」 D・マーフィ 現代教養文庫

1963年にヨーロッパからインドまでを自転車旅行したアイルランド女性の旅行記。
ヒッピーブームもバックパッカーブームもなかった60年代のユーラシア紀行として貴重でもある。

1983年の「ユーラシア自転車旅行記」と比べて共通点と異なる点があります。
共通点としてはどちらの女性も現地人からメンサヒブと呼ばれることです。
貴婦人とか女主人とかの意味で、植民地人が白人の女性に使った称号の名残でしょう。
また、女だてらの自転車冒険旅行に対する尊敬の念からのことかもしれません。

自転車の機材、宿泊場所に対する用意周到さも共通しています。
1963年の冒険者はピストルさえ携行し、あまつさえバルカン半島を走行中に使用さえしています。オオカミに対してですが。

1983年の白人女性冒険家は、ピストルは携行していません。
当時のユーラシアは(特にインド、パキスタン、ネパールは)旅行している限りでは命の危険はむしろ北米、中南米などよりは安全な場所であることが認知されていたことによるのでしょう。
むしろ、白人旅行者は現地人からは金だけを落としてもらう対象として見られていたきらいがあります。
そうでなければ麻薬を吸いに来たアウトサイダーのイメージでした。
現地人もかなりすれてきており、興味があるのは彼らが持っている金だけ、といった風情になっていました。

その点、1960年代の旅行記「シルクロードを全速力」は、主人公の白人も現地人もまだまだフレッシュで、読者も一緒に冒険しているかのような、ハラハラ感に満ちた旅行記になっています。
空路を嫌い、フランスのダンケルクからバルカン半島を通っての行程。
不潔だ、野蛮だいう前に異文化世界に飛び込む勇敢さには、ヒッピー出現以前の正統派冒険旅行者の潔さを感じます。

イランの行程では、おじさんにも懐かしい地名が出てきます。
おじさんがソ連の侵攻で行けなかったアフガニスタンのカブールやバーミアンの描写もあります。

現在、旅行記は巷にあふれています。
世界中で旅行記に著されていない場所はもうないくらいの勢いです。
よほど珍しい場所でなければ、また不自然なほどキャラの立った著者でなければ旅行記を出せないような状況です。
その点、「シルクロードを全速力」は正統派の旅行記として貴重です。
誰もが今となってはうらやむものの、同じ時代に生きていたとしても決して行わなかったであろう、冒険旅行を行った著者の淡々とした事実の記録です。

「脱出記」S・ラウッツ著 ソニーマガジンズ刊

これは貴重な記録です。
旅行記ではありません。
第二次大戦でソ連の捕虜となり収容所送りとなったポーランド将校が、収容所を脱走し、6500キロを踏破してインドまでたどり着いた記録です。

ポーランド将校がなぜソ連の捕虜になるのか?
ご存知のようにポーランドがソ連の衛生国になるのは戦後の話で、それまではドイツからもソ連からもいじめられるのがポーランドだったからです。
特にソ連にとって戦後の衛生国化を見越したポーランド政策は、国力の弱小化が戦前からテーマでした。
国のエリート層である将校クラスの粛清はその一環だったのです。

シベリアの収容所を6人の仲間と一緒に脱走した主人公は、バイカル湖を越え、モンゴルに入り、ゴビ砂漠、チベットからヒマラヤ山脈を越えて、インド領シッキムへと到達します。
その間仲間を3人失います。
バイカル湖付近では17歳ほどのポーランド人少女が一向に加わりますが、その少女は、ゴビ砂漠で疲労と栄養失調から行き倒れとなります。

本筋は脱走記なのですが、旅行記として読んでみてもこれ以上の冒険旅行は聞いたことがないくらいです。

ソ連領を越え、モンゴルに入ってからは放牧民から施しを得つつ、ゴビ砂漠では食べるものがたまにいる蛇しかなく仲間を失い、チベットでは再び住民に施しを得つつの旅。
雪のヒマラヤ越えでは、登山家でもしないと思われる雪渓や崖を越えます。
こんなところには誰もいないだろうという崖の中腹に、放牧民の越冬場所がある記録などは紀行文としても貴重なのではないでしょうか。

モンゴルに入った時点で投降するという選択肢もあったでしょうが、最後まで頑固に初志貫徹するところに白人のメンタリティを感じます。

最後のヒマラヤ越えの時に、雪男?とみられる2匹の動物を3時間にわたり数百メートル離れた場所から観察する描写があります。
わざわざこの脱出記に書き加えたのですから事実だったのでしょう。

いずれにしても稀有な記録です。

「カシュガルの道」S・ジョインソン著 西村書店刊

題名にひかれて購入しました。小説です。
1923年に伝道のためにカシュガルに赴いたイギリス人姉妹の物語。

その子孫が現代のロンドンで、自らの先祖の1920年代のシルクロード最深部での伝道を通しての人間性の秘密に向き合う、といったストーリー。
どうせ100円で買ったゾッキ本、面白くなかったらやめようと思って読み始めて、2ページ目、1923年のカシュガルの道端での現地人少女の出産の描写で度肝を抜かれ、そのままこの小説に引き込まれました。

本書のテーマは、先祖の秘密を暴く行程ですが、自我と妄執が絡み合った白人ならではの業の深さを感じる秘密自体はともかく、舞台となるカシュガルの描写は、紗がかかったセピアの写真のようでもあり、現地の埃を感じるようでもあり(カシュガルに行ったことはありませんが)、なんともいえないものがありました。

「チベット旅行記」河口慧海著 講談社学術文庫

シルクロード、チベット関連の旅行記というと本著にとどめを刺すのではないでしょうか。
日本人僧侶が外国人入国禁止の当時のチベットに入るため、羊をおともにヒマラヤを越えてゆく話です。
携帯食料は麦焦がし、現代の防寒着もなく雪山を越えてゆきます。
襲い来るチベット犬を杖で払い、放牧民の庇護に助けられます。

現在のネパールからチベットに入りますが、カイラス湖を通ってラサに至る詳細の行程は現在でも明らかになっていないそうです。

チベット語を学び、僧侶として道中で修業し、情報を集めたうえでの入国です。滞在中はチベット人で通し、日本人であることが見破られそうになった時点で再度秘密裏に出国しています。

この本のハイライトは雪のヒマラヤ山中で道に迷い、羊とともに死を覚悟する場面でしょうか。
まさに冒険旅行記の神髄にして白眉です。
1901年のことでした。

信州ソウルフード放浪記VOL.9 中華といえばテンホウ

長野県も緊急事態宣言。
そんなときにソウルフードもないのだが、腹は減る。
茅野へ買い物に行ったときに地元長野の中華チェーン・テンホウへ行きました。

県民には常識以前の中華チェーン・テンホウ。
茅野市内だけでも3店舗の存在を、長野県4年目の山小屋おじさんでさえ知っています。

別荘管理事務所のバイト仲間(東京出身)いわく「長野県民はテンホウを中華料理と思っている」。

そんなこともないと思いますが、ある意味真実をついている言葉です。

そんなこともない、と思うのは、全国チェーンのバーミアン(茅野市内に1店舗ある)にもそこそこ客が入っていることからもうかがえます。

ある意味真実、と思うのは、このテンホウチェーン店、コンセプトが昔懐かしい「デパート食堂」のようで、地元に愛されているからです。

「デパート食堂」のコンセプトとは、一つの食堂で洋食、和食、中華、すしを出し、デザートまで用意していることなどです。

山小舎おじさんが育った北海道旭川には丸井さんと呼ばれるデパートがあり、そこの食堂のコンセプトがまさにその通りでした。
メニューが多いだけでなく、そこそこ本格的な味でした。
今でも丸井さんの食堂で食べたハヤシライス以上のハヤシライスを食べたことがありません。
ハッシュドビーフが乗っているライスではなく、焦げ臭い(小麦粉をちゃんと焦がしている)ルーが適度のとろみで乗っているハヤシライスでした。

話がそれたついでに、岩手の花巻にマルカンデパートというデパートがあります。
出張ついでにそこの食堂に行ったことがありますが、街中に人気のない花巻にあってそこの食堂だけは地元民でいっぱいで、来てよかったと思いました。
メニューは昔ながらのデパート食堂そのもの。
トルコライスというものを頼みました。
専用の台にセットされたソフトクリームも現役でした。

話を戻します。

テンホウは失われたデパート食堂のコンセプトを一部受け継いだ中華食堂です。主力メニューは中華定食ですが、デザートメニューにラインナップされている、ソフトクリームが泣かせます。

そういえばお隣の上田市内でそこだけ地元の人が並んでいる、富士アイスという店があります。
今川焼が主力商品なのですが、ソフトクリームも出しています。
小さなサイズですが今どき150円でソフトが食べられます。

テンホウといい、富士アイスといい、地元民の心をつかんでいるのは、昔ながらのデパート食堂のコンセプトを受け継いでいるからなのかもしれません。

さんざん前置きが長くなりました。

緊急事態宣言下のテンホウ。
土曜日なのに客はおじさん一人でした!
時刻が13時を過ぎてはいましたが。
かつては茅野市役所近くの店舗など、昼時はいつ行ってもほぼ満員だったのに。

そのうちもう一人お客が入ってきました。
それからテイクアウトのおばさんも。

食べたのはラーメン野菜炒めセット。
ラーメンの麺がいい縮れ具合で結構でした。
野菜炒めはおとなしすぎる味付けでしたが、もともと本格中華をコンセプトとした店ではありません。
そんなことより温泉卵がセットされていたことが新鮮でした。
値段は810円。
県内にしては強気の値段設定だと思います。

決して満足感が足りない味と量ではありませんが、過剰なプレゼンは一切行わない質実剛健な県民性を表したかのような内容のメニューでした。
おじさんは嫌いではないけれどね。

茅野市内での外食シーンとしてはついつい選んでしまうテンホウ。

ちなみにうちの家族と一緒に昨年夏に山小舎へ来たとき、到着が遅れ、テンホウで夕食を摂ったことがあります。
おじさんとしてはあまり勧めなかったのですが、家族が「どこでもいい」とのことで寄りました。
結果、家族がその味に怒っていたことを思い出しました。

あなたが、ある中華メニューにこだわりがあり、そのメニューをテンホウで注文したとして、必ずしもご期待に沿えないのが残念なテンホウではあります。

というわけで県内限定の味!中華チェーン・テンホウでした。

玉ねぎを補植、排水路を補修、氏神へお参り・・・

畑へ行きました。今日の作業は玉ねぎの苗の補植と鹿よけテープの補修、そして排水路の様子見と補修です。

改めて玉ねぎの畝を見ました。
よく見ると葉先がカットされているような苗がかなりあります。
鹿よけテープが破られていることもあり、鹿の食害であることは間違いありません。
前回見たときは気が付きませんでした。
ここ1,2日で食べられたものなのか?気が付かなかっただけなのか?

根っ子ごとなくなっている苗もあります。
苗を補植します。

冬を越してから玉ねぎの苗が植えられるとは知りませんでした。
昨日茅野のJAへ寄ったときに「今からでも間に合う」とのキャッチフレーズで玉ねぎの苗が売られていたので試しに買ってみたのです。
サイズ的には冬前に植える苗と同じくらいです。
1株20円でしたので20株ほど買ってみました。

えひめA1で潅水しておいた苗を植えてゆきます。
これからの気温と地温で6月の収穫に間に合ってくれることを祈ります。

合わせて鹿よけテープの補修もします。
いちど破られたテープでもあり、効果は不明ですが、せめて鹿に対して防御の姿勢だけでも見せなければなりません。

懸案の排水路のメンテも行いました。
昨日の本降りの雨もあって、排水路の本流には水が勢いよく流れています。
水の流れがあるということは石や泥の堆積が発生しているということです。
特に本流と石垣下からの傍流の合流地点は、定期的に堆積した泥や石をさらっておかなければ、効率よい排水ができません。

雨の翌日にしては畑表面の水たまりは増えておらず、全体的な排水は進んでいるようでしたが、一部の傍流では水量が減っていませんでした。
本流への水流が発生するように合流地点の泥や石をさらいました。

この日の昼食は手製のサンドイッチ。
食パンにハムを挟んだもの。
マヨネーズと粒コショーがポイントです。
畑で食うとうまいんです。

畑のある長久保地区の氏神様にご挨拶のお参りをしました。
松尾神社です。
豊作と無事故を祈願しました。
今は人気のない田舎の集落とはいえ、かつての中山道の宿場である長久保の守り神は立派な造りの神社です。
御柱も立っています。
枝垂桜が最後の見ごろを迎えていました。

帰りに上田JAに寄ってみました。
キャベツや白菜の苗が出ていました。
畑の準備がまだなのでこれらの苗は買いませんでした。

トマトの小さな苗が20円ほどで出ていました。
自根の5センチほどのサイズの苗です。
畑に定植するためにはもう少し育てなければならないので、都会のホームセンターなどには出回らないサイズです。
面白そうなので8本ほど買ってみました。

帰ってからトマトの苗をポットに植え替えました。
夜間は保温のため、プラスチックのケースに入れ室内に置きます。

昨日茅野JAで買った苗です。
アイスプラント、あしたば、ローズマリー、パクチー、パセリなどです。
ホームセンターで売られている苗に比べてその勢いが違います。
今年は畑にハーブの一角を作って楽しみたいと思います。

ジャガイモもたくさん種類が出ていました。
デストロイヤーが1袋あったので買いました。
今年はジャガイモだけで4種類の栽培となります。

茅野JAは、苗の種類の多さといい、上田JAとはかなり違います。
都会的なニーズに合致し、別荘族など不特定多数の顧客を相手にしたJAと、実用一点張りで地元の農家御用達のJAとの違いでしょうか。

おじさんの経験では、夏野菜の苗などは田舎へ行くほど、活きがよく、安価なものが手に入るような気がします。
またハックルベリーや食用ほうずき、ヤーコンなどの苗は田舎のJAや直売所へ行かなければ手に入りません。
一長一短です。

また、精米所で糠を調達しました。
畑1枚に1袋見当で、耕耘の前に撒いておきます。
そのほかにも追肥となるボカシ肥の原料や、生ごみたい肥を作る際の原料にもなり1年中重宝します。

徐々にシーズン到来です。

畑の排水路をさらいました

借りている畑には浸水があります。
段々畑4面を借りていますが、その両脇に水路があります。
山際の素掘りの水路のほうは通常は水が流れていません。
道路わきのU字構の方もほとんど水流はありません。

ところが段々畑の断面を覆う石垣から、それぞれ1,2か所ずつ水が湧いているのです。
山からの水が伏流水となり、段々畑の断面からしみだしているのです。
伏流水は、雨の後は増水して畑に水たまりを作ります。
浸水ポイント近くの土壌は常に水気を帯びて粘土状を呈しています。

こういった浸水は畑の大敵。
うまく誘導して、両サイドの水路に流れるようにしようと思いました。
よく見ると、湧水ポイントから脇の水路に向かって素掘りの溝の跡が残っています。
田んぼ時代はともかく、その後の畑時代には湧水の処理が必須だったようです。

落ち葉が積もり、流れをせき止めていた溝を鍬ですくってゆきます。
脇の水路まで落ち葉と泥をさらってゆくと、高低差によりたまっていた水が水路に流れてゆきます。
両脇の水路自体も流れがよくなるようにさらってゆきます。
雨による増水分も含めて、水が畑にあふれ出ず、両脇の水路に排出されるようになればOKです。
あとは畑にあふれてしまっている水の蒸発としみ込みを待てばよいはずです。

4面の畑のうち、下の2面は石垣からの湧き出しポイントも1か所だけで、また脇の水路の流れが畑の下にもぐっている(伏流化している)など、もともと畑への浸水量が少なくすぐにでも作付け可能です。
上の2面は今回の整備の結果待ちです。

流れが戻った水路ですが今後ともに手入れが必要です。
落ち葉や泥、雑草の根などををかき出して、水流を確保しなければなりません。
大雨などにより溝や水路から水があふれるようであれば、土手を強化しなければなりません。

この畑、去年の台風19号の被害で、鹿よけの電線が寸断されてしまい、現在は丸裸になっています。
今年の作付けでは、鹿の食害を考慮しなくてはなりません。

里芋、ヤーコンなどは鹿は食べませんが、カボチャ、サツマイモ、キャベツなどは大好物のようです。
水が湧いている場所に鹿の糞が多いことから、畑が鹿の水飲み場になっている可能性もあります。
鹿よけの工夫も考えてゆかなければなりません。

帰りにJAでジャガイモの種芋などを買いました。
今年は男爵ほかに2種類の芋を作付けしようと思います。

芽出し用の種と、作土も買いました。

 

今年の作付けは、山小舎での芽出しは、枝豆、インゲン、モロコシなど最低限に抑えて、夏野菜はもちろん、カボチャ、ハーブ類なども苗で購入し、少量多種で行こうかなと思います。

楽しみながらいろんな種類の作物に接していきたいです。

緊急事態宣言下 生島足島神社へ「初詣」

緊急事態宣言下の東京から、レベル2で警戒中の長野県へやってきました。
山小舎への入口、茅野市では、もともとと人気がないところに持ってきて、がらんとした街と少ない交通量に尋常ではない雰囲気を感じました。

山小舎到着翌日には畑の下見をし、その後で、買い物を兼ねて上田方面に向かい、生島足島神社にお参りしました。
例年4月がおじさんにとっての長野での「お正月」です。
神社への年初のご挨拶は、季節外れの「初詣」となります。

ブログでは何度か紹介した、上田市の生島足島神社。
成立年がわからないほど古い歴史を持つ、上田地域の守り神です。
信濃国一之宮の座こそ、諏訪大社に譲ってはいますが、上田に信濃国国府があった時代からこの地にあった神社ですから、実体的に信濃国(長野県)全体の守り神といってもいいでしょう。

訪れた境内は、レベル2下の県内事情を反映してか、ひっそりとしていました。
手洗いの場所も使用禁止になっています。

構わず本殿にお参りし、今年の家内安全を祈願しました。
古いお札を納め、新しいお札をいただきました。
社務所はガラス戸で遮断され、応対してくれた巫女さんもマスクをしていました。

上田市中心部には寄らずに帰宅しました。

山小舎内のしかるべき場所にお札を安置し、柏餅などを供えました。
今年は神さんのパワーにすがるしかありません。

令和2年畑開きの様子

今年初めて畑に行ってみました。

植わっているのは年越しの玉ねぎとニンニク。
畝全体に鹿よけのテープを施しての年越しでした。

畑に着くと、ピンクのテープが目に飛び込んできました。
風雪にさらされてボロボロになっているかも?とも予想しましたが、思ったよりテープが残っています。

軽トラを降りて畝に近づきました。
よく見ると、数か所テープが破られています。
シカが齧ったのでしょう。

肝心の苗は、とみると、苗は案外齧られていません。
マルチに2,3か所、鹿の足跡はありますが、苗そのものに対する食害はほとんどないといっていいのではないでしょうか。

それよりも玉ねぎの苗がほとんど伸びていないのがショックでした。
地温が低かったのか、肥料不足か?
去年11月に定植した時とほとんど同じ丈の苗を見て、残念の気持ちしかありませんでした。
一昨年のような、ピンポン玉程度の収穫になるのか?

反面、にんにくの苗はそろって伸びていました。
食害も全くなく、ニンニクは土地と相性が良いいのかもしれません。

持って行ったネギ用の化成肥料を追肥として散布しました。今後、気温が上がります。
6月の収穫まで少しでも伸びてほしいと思いました。

この畑は、田んぼだった場所で、50坪ほどの畑が4枚あります。
用水路の名残が畑の脇の残っており、常に水が染み出ているような場所もあります。
放っておくと畑のかなりの部分に水が浸透します。

水が多いと耕耘がやりずらくなると同時に、地温が低くなったり、保水量過多の害が出ます。
畑を作る前に、用水路の整備と排水路の整備を行いたいと思いました。

半分朽ちかけた素掘りの水路跡が残っています。
この水路内の落ち葉や枯れ枝を取り除き、土を削って排水の便を良くしようと思います。

長和町ではすでにジャガイモの種植えや、キャベツなどの定植の時期ですが、すでに出遅れた山小舎おじさん。

急げば回れです。
非常事態の年でもあり、焦らず、自然と対話しながらじっくりやりたいと思います。

もう一か所の畑へも行きました。
ここは4年目の付き合いとなります。
フェンスに囲まれており食害の心配がなく、夏の果菜を中心に作付けしています。
ここは耕耘して畝を立てればすぐにでも作付けできる感じです。
今年も頼んます。

山小舎暮らしを再開しました

2020年の山小舎暮らしをスタートしました。

4月14日に東京から長野に移動しました。

今回は特急あずさに乗って茅野までの旅をしました。

調布から京王線で八王子へ。
JR八王子駅へ着いて異様な雰囲気に驚きました。
世の中は緊急事態宣言下だったのです。

駅のコンコースです。
ひとの少なさは尋常ならずですが、なによりも雰囲気がいつもと違っています。
人々の様子が暗いというか、苛立っているというか・・・。

八王子駅のみどりの窓口はまるで開店休業でした。

車中での昼食を求め、駅ビル地下食品館へ向かいました。
地上階のデパート部分は休業中のようでした。

特急あずさが入線しました。
山小舎おじさんが乗った車両の乗客は7,8人でした。
ビジネスマンらしき若者が2,3人いました。

異常事態でも腹は減ります。
車中での昼食です。
高速バスと違って列車の居住性は抜群です。

車窓の風景も目線が低いというか、高速道路から見る風景と違って、人々が暮らす目線の高さからの景色がとても興味をそそります。

中央本線の駅駅を過ぎ、やがて笹子トンネルを越えて甲府盆地へ。
甲府盆地も過ぎて八ヶ岳のふもとの景色の中へ。
長野県に入ると間もなく茅野駅に到着しました。

非常事態宣言下の世の中とはいえ、長野県は少しはのんびりした雰囲気なのかな?と漠然と思っていましたが、駅を降りてすぐに幻想は打ち砕かれました。

茅野駅舎内の観光案内所と物産館が閉まっています。
駅直結の商業ビルの食堂はパン屋を除いてしまっています。

アルピコ交通の営業所へ行き、バスの時間を確かめました。白樺湖方面への路線バスは運行していました。
しかし営業所の係員はマスク姿は仕方ないとしても、おじさんが入ってゆくとさっと警戒するような視線を送り、よそよそしく対応するのはやはり感じがよくありませんでした。

のんびりとした長野県気質がとげとげしくなっています。
しょうがないことなのでしょうか。
それとも例の北朝鮮発のロケットの着弾時のJアラートの発信に対しても、まったく安全圏の土地柄ながら、きっちり小中学校の登校時間を10時に遅らせる措置をとった長野県の、まじめというか、過剰反応気味の遵法性のなせる業なのでしょうか。

バスの時間までの間、ビル内の床屋で散髪しました。
カットのみ1650円。
開いててよかった!

ビル内の小津安二郎コーナーはいつも通りでした。
人気のないコーナーの片隅に、清酒ダイヤ菊の魅力的なポスターが立っていました。
巨匠が愛した茅野の地酒です。
ポスターの芸者さんだけは、いつも通りに茅野でおじさんを迎えてくれているようでした。

白樺湖経由車山高原行のバスで途中のAコープまで行きました。
Aコープで買い物をして残りの行程はタクシーを呼びました。
荷物が少なければ大門峠までバスで行って1時間弱歩くという方法もありますが、今回はやめました。なお、バスの乗客はおじさんのほかにおじいさんが一人でした。

タクシーの窓から見る八ヶ岳連峰の山すそまで、昨日降ったという雪が積もっていました。

山小屋の周りも真っ白でした。

管理事務所からの、コロナ注意のお願い文書が郵便受けで待ち受けていました。
今までにない、尋常ならぬ1年の始まりです。
果たしてどういう結末が待っているのでしょう。

調布卸売センターを歩く

調布卸売センターという場所があります。
昔は武蔵野市場といいました。

セリが行われる市場は、東京では青果なら大田市場、鮮魚は築地市場が有名です。
本当の市場というか、中央市場というか、鮮魚だったら漁港にあって上がってくる魚をセリで売ったり、青果だったら農協から運ばれてくる箱詰めの野菜を扱っているのが、本当の市場だと思います。

武蔵野市場はそういった市場ではなく、都心に仕入れに行けない業者のための市場です。
鮮魚も野菜もバラで売ってくれます。小売りもしてくれます。
築地で言うと「場外」市場に相当します。
市場というよりマーケットというべき場所なのかもしれません。
三多摩地区では、八王子、府中などにこういった市場があります。

調布にあるのが、武蔵野市場です。
かつては鮮魚、干物、乾物、紙器、駄菓子、青果、精肉、などの店を擁し、食堂が付随した場所でした。
一帯の飲食店、小売店などが仕入れに来る場所だったようです。
小売りにも対応していました。

市場の建物の周りには、同じく卸売が目的の金物店なども集まっていました。
調布という場所柄かキムチ専門店もありました。

そういった昔ながらの卸売商店が歯が抜けたように減っていき、武蔵野市場が活気を失っていた時期がありました。
「武蔵野市場ってまだやってるの?」と思っていました。
夏まつりの出店用に、冷凍焼き鳥の箱や、景品用の駄菓子を仕入れるときにだけ利用していました。

そして気が付くと、武蔵野市場は「深大にぎわいの里」と愛称を冠したスペースとなっていて、文字通り賑わいを取り戻していました。

建物の一角にできた、産直所「野菜畑」の存在が大きいと思われます。
調布はもともと農村ですから、畑の収穫物には不自由しません。
あちこちの農家の庭先に野菜スタンドがあり、ほぼ1年中、野菜の供給には困らない地域です。

近年の産直ブームに乗って、地場野菜の大規模な直売所を設ける発想は時期を得ていました。
「野菜畑」の発想は、地場野菜にのみこだわらず、端境期であれば全国から野菜を仕入れ、地元に産しない作物についても並べ、味噌、ワイン、乾物などの加工品も全国から仕入れています。
時期によっての商品ラインアップの濃淡を極力抑え、品ぞろえをなにより重視する昨今のマーケテイングが忠実に守られています。

ということで、センター内の直売所「野菜畑」も、そのコンセプトは、「地場野菜を目玉に並べた全国うまいもの物産展」の様相を呈しています。
これが今どきの直売所のトレンドなのです。

これが当たり、緊急事態宣言後の調布卸売センターも、直売所「野菜畑」だけはにぎわっています。

市場内には現在でも様々な商店が営業しています。

土曜日になると炭火をおこし来客に肉を焼いてサービスしていたアンデス食品です。
今も炭火焼をやっているのかどうか。

鮮魚店は午前中で閉まってしまいます。
店員のおじさんに注文し、奥の経理係へ持って行って精算するのが市場のスタイルです。
鮮度はいいです。

乾物屋さんです。

かつては駄菓子屋などが多くのスペースを占めていましたが、空きスペースが目立つようになっています。

パン屋、カフェなどの新しい食堂が増えています。

この先、調布卸売センターがどう発展してゆくのか楽しみです。

 

緊急事態宣言2日後の調布市内

政府から緊急事態宣言というものがなされました。
新型コロナ肺炎の蔓延にかかる政府の措置です。

全国が対象なのではなく7都道府県が対象とのこと。
あまり実効性がないような気がします。
それでも日本人は空気を読むので、不要不急の外出はなくなり、疫病は終焉に向かうのでしょうか?

山小屋おじさんも今シーズンの山小屋開きを4月初旬に予定していましたが、家庭の事情により、何よりも世の中の流れにより、延期して現在に至っております。
山小屋周辺の人々からは、4/9より仕事が始まるがいつ帰ってくる?などと電話が入りましたが、日取りが確定しないままとなっております。

今年は畑は予定通りにはいきそうもありません。
すべてがイレギュラーな年になりそうです。
山小屋元年の2017年も、6月からの畑のスタートでしたから、そういうつもりでのんびり構えることにします。

さて、緊急事態宣言下の東京。
調布駅前に買い物に出かけついでに世の中の様子を見てきました。

自宅付近のグラウンドの様子です。
小中学校が休校になってから、ここに集まる子供たちの歓声と躍動にあふれる場所でした。
緊急事態宣言後は早朝からの歓声が聞こえなくなりました。
元気に運動している子供はいますが、宣言前の半分くらいの人数でしょうか。

コロナの蔓延には関係なく、畑は春を迎えています。
レタス系が最盛期を迎えています。
キャベツの苗も大きくなりました。
直売所もいつも通りです。

野川の河川敷は桜が終わり、本格的な春の風景になっています。

調布駅前広場です。
元旦でも近頃はこんなに閑散とはしていないでしょう。
雪が降ったか、台風前の時のような人出です。
人数もさることながら、のんびりというか、暗いというか、独特の閉そく感が街から感じられます。

パルコの地下食品館では、人出は少なくはありませんでした。
むしろ、鮮魚や加工品、総菜、生菓子などに掘り出し物、特売がありました。
販路が限られ、高級品、し好品、生鮮品などについては業者も販売に苦慮していることがうかがえます。
消費者にとってはある意味、買い物のチャンスでもあります。
普段は手が出ない、マグロのカマやフランクフルト、イチゴのタルトなどが手ごろな値段で売られており、買ってしまいました。
自宅の炊事担当のおじさんにはメニューを開拓し、デザートをつけることができるチャンスとなりました。

スクランブル交差点の人通りは、平時の半分から3分の1でしょうか。

天神通り商店街も平日昼間とはいえ人通りが少ないです。

食堂はテイクアウトに力を入れていますが、食品街では総菜が割引で並んでいる状況ですので果たしてどうなのか。

こうなりゃ神頼みだ!
天神様、世の中をよろしくお願いします。

「アメリカの鏡・日本」という本を読んでみた

国分寺の古書店・七七舎の店頭、百円コーナーで見つけて買った本です。
新書でこの本の抄訳が出ていて、買ったものの読んではいませんでしたので、今度こそ読んでみました。

1995年刊の全400ページほどのハードカバーです。
原著は1948年にアメリカ人女性のヘレン・ミアーズという人が書いています。
著者は1900年まれで、1920年代から中国と日本に滞在・研究し、その後、アメリカの大学で日本社会について講義、1946年にGHQの諮問機関「労働政策11人委員会」のメンバーとして来日した人物です。

日本における同書の翻訳は、1948年に試みられたがGHQによって却下され、その後1953年に出版はされたものの注目されなかったという経緯を持つそうです。

テーマは「アメリカの行動と原則が一致しているか」

占領下の日本に降り立った著者が、日本社会の研究者として、アメリカなどによるこれまでの対日政策と占領政策が「正しい」ものかどうかを省みたのがこの本です。

アメリカ人が正しいとする価値観があります。
その価値観を「アメリカン・ウェー」と名付けます。

「アメリカン・ウェー」とは、
政治的にいうと、
・政府批判の権利が認められた社会
・容認できない政策を変えさせる権利が認められた社会
・少数派の権利が認められた社会、です。

経済的には、
・個人の能力を最大限に発揮できる機会を持つ社会
・生活水準の向上を目指す意識。だそうです。

著者は「アメリカン・ウェー」そのものはともかく、その価値観を他民族に押し付けるのであれば、アメリカ人自身が言動一致していなければ、他民族は従わないだろうと説きます。

天然資源の豊かなアメリカと、資源が不足しあまつさえ戦争で破壊された日本とでは出発点がまるっきり違うこと、そして日本占領の基本問題もそこにあると指摘します。
「アメリカン・ウェー」の無意識の押し付けと、押し付けられる側への無理解です。

歴史上の日本の立ち位置

さて昨今、日本の側に立ち、列強との不公平を強調し、日本の「正しさ」を訴えたり、日本を戦争に駆り立てたのは列強の陰謀だとする論調は、国内で目立っています。

著者はアメリカ人の研究者として歴史上の観点から日本の立ち位置について説いています。
その視点は、公平で、冷徹な世界のバランスを明らかにしてくれます。
日本は「正義の国」「被害者」などではなく、世界のパワーバランスの中で踊り、踊らされた脆弱な(貧乏な)島国であったことも明らかにされます。

まず、戦時中のアメリカ国内における「日本人は好戦的」「日本は世界制覇を目指している」といったプロパガンダを論破しています。
すなわち歴史的に鎖国していた日本を武力を背景に、不平等条約を強いて強引に開国させたのはアメリカであったこと。

また、開国後の日本が、日清・日露戦争などで躍進し、列強並みの扱いを受けていた時点でも、日本は列強から受けた教育に忠実な「優等生」ではあっても、決して「大国」などではなく、実際の立ち位置は「将棋の駒」に過ぎなかったこと。
つまり、日英同盟などの政治的な後ろ盾と、列強による物資支援(貿易)がなければ独立国として成り立たない存在であり続けたこと。

日露戦争後に、日本は、韓国を併合し、また海外に利権を求めていったが、これらの行為はかつて日本が列強から受けた「教育」の通りに行った「合法的」なものであり、列強がまさに行ってきたふるまいそのものであったこと。
つまり、韓国や満州に対する日本の覇権行為を列強が避難するのは自己矛盾だったこと。
おまけに、政治的には日本を非難しつつも、戦争の1年前まで戦略物資を日本に売り続けたのが列強だったこと。

太平洋戦争の意味

アメリカは「日本のアメリカ征服を阻止する」ことを謳っていたものの、本当の戦争目的は「日本征服」であったとするのが著者の説いたところです。

理由は、戦争の終盤を待たずに日本は戦闘能力を失い、また終戦工作を行っていたにもかかわらず、アメリカは日本よりはるかの巨大な予算を投下し、また非人道的な手段を用いて戦闘を継続していたことなどです。

極めつけは、終戦の破壊された日本に、アメリカ基準の贅沢な占領コストを負担させていることを明らかにしています。
ちなみに占領期間9け月の費用45億円を日本政府が負担していますが、これは1940年の日本の戦争費用23億円を倍近く上回るものでした。

結論

国際社会のルールとは暴力とどん欲を合法化したようなもの、と著者は説いています。

キリスト教の理念に基づいたスペイン、ポルトガルの大航海時代から、太平洋戦争までの列強の行動基準に比して、アメリカがプロパガンダした「好戦的で狂信的な日本民族と神道イズム」などはどう考えても歴史上の事実に反する、とも述べています。

アメリカが日本を「人類に対する罪」で断罪するのは正義ではない、とも述べています。

この本は、アメリカという、帝国、覇権、列強、国際スタンダードを代表する国家の実像を、対日戦争と占領を通して見つめ、総括した快作だと思います。

堂々たる進歩的、理知的、科学的、自省的な著書です。
日本人受けを狙ったわけではなく、歴史と社会を学んだ学者の自国向けの見解だから重みがあります。

当時にはアメリカにも一定程度の流れがあった、左翼的、理想主義的な晴れ晴れとした空気も行間に感じられます。

日本が犯した罪とは「国費」を人権の上に置き、「国家の存亡にかかわる利益」を武力で守ろうとしたこと、だと述べています。

歴史が進み、今日現在では、国家どころか、グローバル企業がTPP、FTAなど「合法」の名において、帝国主義も裸足で逃げ出すような人権蹂躙を行おうとしています。

1948年に著した著書には、当時のアメリカ人の知性と理念と自省の魂が溢れています。
それから70年以上。
こういった高邁な理念はどこへ行ってしまったのでしょうか。