ガッテン農法、畝づくりを実践

その講習会に参加し、ネジネジ藁の威力を体感させてもらっている山小舎おじさん。
ガッテン農法の本にある、畝立ての方法を実践してみました。

教科書その1、穴掘り

自然の力を最大限に引き出して野菜を作ることを目標とし、農薬、化学肥料を使わないガッテン農法。

というか、無農薬、無化学肥料が目的の農法ではなくて、野菜が育ちやすいように土を作り、手順を追って作ってゆくと、農薬、化学肥料は必要ない、というのがガッテン農法のキモのようだ。

教科書その2、耕盤層砕きと資材投入

ガッテン農法では、畝は1回だけ作ればいいという。
畝の場所を変えることも不要で、連作も可能と。
耕運機による耕耘も不要と。

教科書その3、資材投入と整地

いいことだらけなので、だまされたと思い、畝づくりを実践してみた。
時期的にはちょうどいい。
冬の間に畝を作って来春からガッテン農法の実験ができる。

まず、幅50センチ、深さは堅い耕盤層に当たるまで畝予定地を掘る。
これが大仕事で、長さ7メートルの畝を、深さ30センチに掘るのにたっぷり1時間半ほどかかった。

実戦その1、穴掘り。深さ30センチほど掘った

表土はサクサクしていたが、少し掘ると石が出てくる。
しかも大きい石がある。

ガッテン農法では石も土のミネラル供給源として排除していないが、通気性の良い畝のためには多すぎる石は排除しなければならない。
畝堀りは石との格闘だった。

石が出てくる。同様な石の山が3つで来た

どうしても掘り出せない石が2つ残った。
深さ30センチほど掘ったときに、粘土層が出現。
これを耕盤層と判断し、掘削をストップ。
久しぶりに汗だくの畑作業となった。

耕盤層と思われる粘土層が出現

次の日、いよいよ畝完成までの作業をした。

教科書通りの資材を用意する。
まずススキ。
結構大量に必要なので、採取場所を探していた。
大門街道沿いにススキの群生場所があったので、5群ほどを鎌で切って、大きな一抱え分を採取した。

燻炭は、山小舎にたくさんあるので持って行った。

資材を集めるその1、ススキと燻炭

落ち葉は山小舎の周辺で、ミズナラの落ち葉を米袋2つ採取。
枯れた葉っぱを袋に詰めてゆくのは結構面倒だ。

糠は畑の集落の精米所でもらってきた。

最後に、教科書では醸造酢の希釈液とあったが、勝手にえひめAIの希釈液を使うことにした。

資材を集めるその2、落ち葉と糠
資材を集めるその3、醸造酢ならぬ えひめAI

耕盤層にスコップを入れて砕いた後、手順に沿って、資材を畝に投入してゆく。
穴掘りと異なり、仕上げの作業は気持ちよい。
不慣れな作業で、この日も結局1時間半ほどかかったが。

あとは春の植付の時期まで自然に任せるだけ。
掘り返した土が生き生きと力強く見えたのは気のせいだろうか。

実戦その2、砕いた耕盤層の上に、えひめAIと燻炭を撒く
実戦その3、ススキを並べる
実戦その4、落ち葉と糠を投入、さらに燻炭を入れる
実戦その5、深いところの土から戻しいれる
実戦その6、かまぼこ型に畝を整地して終了

ここまで、畝1本を作るのに丸二日。
計3時間ほどの力作業。

畑全体をガッテン農法の畝とするまで一体何年かかることやら。
とりあえず、フェンス付きの畑だけでも来シーズンまでにはやっつけたいと予定を立てる山小舎おじさんでした。

ビーナスライン→諏訪→辰野の旅

11月中旬の土曜日。晴れた日に軽トラでぶらりと旅に出ました。

 晩秋のビーナスライン

茅野から美ヶ原までの76キロの観光道路がビーナスラインです。
この日、このビーナスラインを通って、大門峠から霧ケ峰高原まで行きました。

ビーナスライン、大門峠付近

土曜日とはいえ、まだ10時前。
紅葉も終わりに近く、初霜はとうに降りています。
思ったより交通量が少ない、この日のビーナスラインです。

展望台から茅野方面を見る。朝もやがたなびいている

途中、展望台が各所にあります。
雲海なのか、朝もやなのか、視界の下に雲かキリカがたなびいています。

富士見台という場所もありました、遠くではありますが、富士山がこんなにきれいに見えるとは思いませんでした。

富士見展望台から見る富士山のシルエット

目を西に転じると、すっかり雪化粧をした北アルプスの峰々も展望できます。
空気のキレイな時期のビーナスラインもいいなと思いました。

北アルプスが見える、写真がピンボケですみません

 諏訪の町に立ち寄る

ビーナスラインを途中で下り、上諏訪の町に下ります。
急激なつづらを降りると、国道20号線、上諏訪の町(諏訪市)の中心部、酒蔵が並んでいるあたりに降り立ちます。

上諏訪へ下りる途中の山の紅葉

今日の目的地は、辰野から牛首峠への道なので、上諏訪は通り道です。
とはいえ、いつものように、20号線や、湖岸の道で、上諏訪の町を通り過ぎるのではなく、気になっていた崖際の道を通ってみました。
崖際の道とは、国道20号線と並行して、諏訪湖の段丘の下を走る道です。

通ってみると、昔ながらの生活感のある町の姿がありました。
観光とは縁のない地元住民の町です。
駅近くには寂れかかった味のある飲み屋横丁もありました。

思わず軽トラをストップさせ、足を運んだのは通りの一角にある手長神社の鳥居が見えたときでした。

上諏訪の手長神社鳥居

参道には長い階段が続いています。
階段を登り切った段丘の上に、社屋がありました。

雰囲気のある神社です。
湖面が遠望される一等地に立つ境内は、明るさを感じさせる場所です。

参道には階段が続いている

宮司さんが本殿のお勤めをしていたので挨拶すると、「地元の方ですか?」と聞いてきたので、「長和町からです」と答えました。

御朱印集め?と思われたようでしたが、この神社の雰囲気にひかれてお参りしたとわかると、「東信にもいい神社が多いですよ。町々で祀っている神社に寄ってみてください」とのことでした。

手長神社の本殿
境内からは諏訪湖が望める

 辰野町のタイガー食堂にて昼食

諏訪から国道20号線で塩尻方面へと向かいました。
塩尻峠に至る途中を左折し、伊那谷を通る国道153号線へ出ようと山を越えました。

山越えの道沿いの風景

郷の集落風景を抜けると、国道153号線に行き当たりました。
伊那街道・小野宿のあたりです。
今日の目的の一つは、辰野町小野地区の御料理・タイガーという食堂に寄ることです。

中央線・小野駅

タイガー食堂は、昭和29年に、かの山下清が1か月ほど逗留していたこともあったという、地元で有名な食堂です。

「裸の大将」(1958年)は小林圭樹が山下清を演じた東宝映画でしたが、劇中、駅弁を作る仕出し屋に清が逗留(一応雇われていた)するシーンがありました。その仕出し屋のモデルかな?と思いましたが、そうではなく、画家として有名になった後の清が、新潟に花火を見に行く途中で逗留していた食堂とのことでした。

小野駅前の御食事・タイガー

ソースカツ丼のほか、鶏だしの効いたラーメンもお勧めらしい。
そこで、ミニ焼き肉丼とラーメンのセットにしました。

ラーメンは汁まで完食。
完全手作りの味、満腹感はあるも、後悔感が一切なし。
値段が1,530円と高めだったこと以外は文句なし、でした。

ミニ焼き肉丼とラーメンのセット。文句なし!

田舎の食堂にありがちな、惰性で営業しているかのような停滞感がない空間。
山下清が長期逗留したのもむべなるかな?
1958年公開の映画「裸の大将」に描かれていた、戦中から戦後の日本の地方と人々の姿が思い出されるような、タイガー食堂でのひと時でした。

かつて山下清がここに逗留していた

 牛首峠に迷い込む?

さあ、今回の旅の目的の一つ、辰野から牛首峠を越えて、木曽側に出るルートへゴーです。

辰野町小野地区から伊那街道を伊那に向かって右折し、牛首峠を目指します。

牛首峠への道

峠道は県道254号線です。
しばらくは集落を過ぎる道。
畑のあぜ道のようなところもあります。
軽自動車でも交差不可能な道幅が続きます。

集落を繋いで道が続く
崖の途中から往来を見守る道祖神

伝説に彩られた牛首峠を越えると、下りの山道。
ここまで、行きかった車は2台、道を譲って追い抜かせたのが1台。

伊奈側から木曽へと抜ける貴重な道の一つですが、利用する人はほとんどいないようでした。

牛首峠の案内板
峠付近の風景

突然、国道19号線・中山道に出て、峠越えは終了。
塩尻方面へと軽トラを走らせて帰りました。

国道19号線と合流

廃材をもらってきた

暖房のシーズンが到来し、山小舎では順調に薪を消費している。

新たな薪割を日々こなしては、乾燥台に積み込んでいるものの、今シーズンの燃料として使える、昨年割った薪の残量は、来春までもつのか?心配になってきた。

そこで、別荘地の解体現場から廃材をもらってきた。

通りかかりの別荘の解体現場

別荘地の道沿いで1軒の解体が行われていた。
道端に、柱や梁が解体されて積み上げられていた。

作業中の業者に聞いてみると、4、5本を除けば持って行っていいとのこと。
解体現場から出る廃棄物の木材、コンクリ、金属、その他は産廃として有料で廃棄される。
持って行ってくれれば、その分、業者としても御の字なのだ。

廃材をもらって軽トラに積む。3往復した

軽トラで3回運んだ。
柱や梁ははすでに乾燥した木材なので、無垢のものであればよい燃料になる。
ただし、釘を抜かなければならないのがネック。

運んで積み上げる。
次の日から釘抜き。
以前、同様に廃材をもらってきたはいいが、あとで釘を抜こうと、まずチェーンソーで廃材を切ったところ、刃が釘をかんでしまって刃が傷んだことがある。
チェーンソーの刃に金属や石は禁物だ。

庭の薪割スペースの隅に積み上げる
釘が飛び出ている。廃材は古釘付きが多い

今回は念入りにくぎ抜きをしてからカット。
それでも何度か軽く刃から火花が散った。
隠れていた釘を噛んだのだ。

くぎ抜きで抜く。古釘は錆びて抜けずらいことも多い
釘を抜いた廃材はチェーンソーでカットする

40から45センチにカットした廃材を軒下に積み上げる。
苦労して運んだ廃材も、カットして積み上げると、おそらく冬ならば2週間持つかどうか?の量がいいところ。
山小舎暮らしは、燃料集めとの闘いでもある。

ガッテン農法講習会に参加

茅野のAコープのレジ外の掲示板に「ガッテン農法講習会」というビラが貼ってあった。
5時間の講習で、参加費6,500円と微妙に高額なのが気になったが、参加を申し込んだ。

三浦講師の著書「ガッテン農法」

畑を作って4年が終わった。
必ずしも順調にいっているわけではない。
安定した収穫をもたらすべく、畑づくりのキモを学びたい。
鹿などの食害防止についても知恵を得たい、との気持ちだった。

11月上旬のある日。
茅野市湖東の民家が会場だった。
講師はMOA農業の指導員という三浦氏。
湖東地区は山小屋から大門街道で茅野に下りたあたりのまあ近場。

MOAとは世界救世教のことで、戦前の神道系新興宗教の大本教から分派した教団。

定員30名というが果たして何人集まるのか?
山小舎おじさん1人だったらマンツーマンでじっくり学べるな、と思いながら、30分ほどかけて会場へ行くと、どんどん人が集まってくるではないか。
なんと遠くは岐阜県や横浜からも来ている。
女性が多く、参加者通しの知り合いも多いようだった。
三浦講師はこの世界では有名らしかった。

会場は湖東地区の移住者が住む民家だった

午前中は座学。
午後から実習の1日だった。

座学では、講師の三浦さんの経験に基づいた、土の話、植物の話、土(地球、自然)と植物の関係の話。

座学では絵を使って説明がされた

聞いていて、三浦さんが豊富な経験に基づいた農業者であることがわかる。
また、ただの農業者ではなく、その人ならではの世界に突入した稀有な人であるとわかる。

会ったことはないが、「奇跡のリンゴ」で有名になった木村秋則さんももこういう人なのではないか、と思った。
あるいは、マスコミ的には無名なままだが、各地、各時代に存在した、単なる篤農家を越える、名人と呼ばれる人はこういう感じなのかな、とも思った。

一般常識とされるものを突き抜けた世界に到達した人の境地は、一般民には理解不能で、マネしても結果を得られないもの。
我々が無農薬リンゴを作ろうとしてもできないし、不耕起・無肥料で野菜を作ろうとしても、自然農法の泰斗・福岡正信さんのようにはいかない。

とはいえ、先人、名人が到達した世界を想像、追体験し、少しでも自然の本当の姿を理解することによって、畑の世界を運営できるのであれば、是非そうしたい。

弁当持参だったが、サラダとスープ、玄米おにぎりが出た

午後からの実習は、稲わらを持って畑に出た。
なんでも三浦講師が2年ほど前にひらめいた、ネジネジ農法の実地講習だ。

土の団粒構造の実現、作土の下の耕盤層の解体、を日々考える中で考え付いたものだというネジネジ。
藁をねじって、それをねじり合わせて結んだもの。
これを畑に置くだけで、土は柔らかくなるという。

会場に展示されたネジネジの数々

藁で作ったネジネジを石を入れたバケツに置いて軽さを実感してみたり、胸に当てて深呼吸してみたりした。
なるほど、軽く感じるし、呼吸が軽くなるような気がする。

畑で実習

それから、ネジネジづくりの実習。
教えてもらいながら作ったネジネジはなぜか大切なものに思えて持って帰って山小舎の玄関に飾った。

それから、体がよく動くようになったのは気のせいだろうか。
何よりも、4年目の矢籠や生活に入り、体を動かすのが億劫だったのが、前向きな気持ちになったし、力仕事がはかどるようになった。

山小舎おじさん自作のネジネジ

山小舎おじさんもガッテン農法の信者になったのか?

令和2年の紅葉

山小舎から畑への道、大門街道沿いの紅葉です。

大門街道沿いの山が彩られています

大門街道が中山道に合流したあたり、長和町長久保地区にある、お寺の境内のイチョウです。

お寺の蔵の屋根にもイチョウの葉が敷き詰められています

長久保宿の本陣近くの植木も見事に燃えていました。

長和町のあぜ道沿いの柿の木です。

軽トラを止めて思わずパチリ

上田市丸子地区のショッピングセンターの歩道です。

霧ケ峰から上諏訪に下りる道沿いの山の景色。

辰野町の郊外を走っていると見事な紅葉がありました。

バックが竹林というのも風情があります

山小舎の前のささやかな紅葉です。

須坂市の田中本家という豪商の庭です。

菅平を越えて須坂まで行ってきた

11月初旬の旅です。

地図を見ると、上田市から真田地区を経て北へ進むと菅平高原に至ることがわかります。
その道は上州街道といい、群馬との県境を越えて嬬恋村に至ります。
上州街道を菅平口という分岐点で左折すると、菅平高原に至り、さらに進むと須坂市に至ります。

 菅平高原への道

上田市北部の真田地区を進みます。
国道144号線、上州街道です。
ちなみにこの道、群馬に入ってからは長野街道と呼ばれるようです。

上田市郊外の真田地区から菅平方面を望む

標高があってゆきます。
分岐点がありました。
菅平方面に左折します。

分岐点「菅平口」。右手は群馬方面

菅平高原は、ラグビーなどスポーツの合宿地として有名です。
グラウンドや体育館の設備が整っています。
絵にかいたような高原の風景です。
東京からの距離は遠い印象ですが、ある程度の期間をスポーツ合宿などで過ごすにはいい場所だと思います。

菅平入口の看板
整備された野外グラウンドが散見される
立派な体育館やセンターが並ぶ

スキー場も何か所かあります。
東京からの日帰りではちょっときつい立地です。
かつてのスキーブームの頃ならともかく、昨今の集客状況は如何?と思ってしまいます。
菅平高原に入ったときは上田市の領域でしたが、いつの間にか須坂市への境を越えていました。

 須坂、大笹街道沿いの風景

菅平から須坂に至る国道406号線は、大笹街道といいます。
須坂の市街地まで急坂をつずれ折りして下ってゆきます。
高原のカラマツ林が過ぎると、スギの植林がカラマツや雑木林の中に混じった景色が現れました。

大笹街道を下る。

麓の集落を過ぎ、町に入ったとき、右手に不思議な塔の建物が見えました。
太鼓楼という建物で、お寺の一角に建っています。
かつては法要の時などに太鼓を打ち鳴らしたらしい。
楼の土台の建物の造りに、お寺とは思えない妙な艶があります。

大笹街道沿いのお寺の太鼓楼

また、お寺本体の建物を見ると、屋根が瓦葺ではなくトタン屋根となっています。
雪国ならではの造りで、東北北部から北海道のお寺に見られます。
山小舎おじさんはトタン屋根のお寺を見ると、郷愁を感じてしまいます。

大笹街道の少し先にある田中本家。
江戸時代から藩の御用を務めた豪商の屋敷で、現在は歴代の品々を展示して一般公開しています。

陶器、箪笥から着物など、状態よく保存されてきた様子がうかがえます。
なるほど今となっては貴重なものの展示ですが、例えば酒田の本間家のような圧倒的なきらびやかさを感じませんでした。

酒田という当時国内有数の物流拠点が生んだ蓄財とは所詮異なる山国のつつましやかな文化の集積、というべきなのでしょうか。
他を圧倒するギラギラな豪勢さではなく、趣味がよいというか、身の丈に合っというか。
同じ豪商でも、信州らしさを観ることができた田中本家でした。

館内の展示
庭も来館者に解放されている

 昼食はとら食堂で

地元の人が集まる県道沿いの食堂で昼食を食べた。

県道沿いに立つとら食堂の幟。駐車場も昼は満車だ

ホールに近所のパートさんらしき3人を配置した活気のある食堂。
がっつり系で定評と聞き行ってみた。

来客が引きも切らぬ。
単身の男性が多いが、カップルや仕事途中のグループも多い。
評判の焼肉定食を頼む客が多いようだ。
ごはんとキャベツはお替り自由とのこと。

カツ煮定植。見た目よりボリュームあり

手作り感十分で、満足感あり。
ただ1,250円は割高感あり。
ごはんのお替りを見越した設定額なのか、それなりの原材料を勘案するとやむを得ないのか。

 須坂、旧市街を歩く

須坂は群馬からの大笹街道と、千曲川沿いに飯山から千曲に向かう谷街道の合流地点の町。
谷街道沿いに栄えた旧市街地が蔵の町として再開発されている。

須崎の旧市街入口。左は蔵の町観光案内センター

菊祭りが開かれて、家々の前に見事な菊が飾られていた。

旧家の前に飾られる立派な菊

かつての商家の後には、カフェなどの新しい店が入っているのが目立つが、一方、昔ながらの商家の造りや味わいのある商店が現存しているところに味がある。

古い商家の建物
入口は狭く奥に長い商家の造り
休業となったが堂々たる造りを残す商店の建物
信州ならではの看板。はちみつ屋さんにて

 須坂駅前を歩く

須坂のオモテの歴史の一端に触れた後は、現在進行形の須坂の姿、あるいはウラの姿の一端に触れたくて駅前に行った。

長電須坂駅前。長電バスが停車する

須坂駅は、長野電鉄線の駅。
長野市と湯田中を結ぶ私鉄路線上にある。
長野市までの運賃は550円。

土曜日昼間ながら、駅周辺及び駅構内には人気が少ない。
駅前にあたりを睥睨するように屹立しているイオン周辺は多少違うようだが。

いずれにせよ、人の流れは駅周辺から、国道沿いの郊外型店舗地帯に移っているようだ。
ほかの全国各地同様、ご多聞に漏れずに。

駅構内の券売所
駅2階からみた駅前風景

駅前に1本怪しげな通りがあったので一巡してみる。

駅前の飲み屋通り

飲み屋街というよりはキャバレー、スナックが集まった通りのようだ。
コロナ禍以降どうなっているのか。
建物の荒廃ぶりから見て、景気が良ければ真っ先に再開発されそうな地域だがその気配やナシ。
店子の撤退→建物の解体→更地の道を歩んでいくのだろうか。

かつては賑やかだったのだろうか
貸店舗の看板が見える

 式内・墨坂神社にお参り

市内にある神社にお参りした。

式内神社の表参道。参道が路地というところに古い商店街の歴史を感じる

広い境内にお太鼓橋と池。
ご神木の幹が立派である。

落ち葉を踏んで参拝。

帰りは谷街道を使った。
途中の松代で長芋の直売所へ寄る。
50センチ以上の長芋が2本で1,000円。
土産に買って帰った。

松代にある長芋の直売所
50センチ以上が2本。これで1,000円!

 須坂のお土産

須坂で買ったお土産。地元産。
須坂市内の醸造所製の味噌
須坂の和菓子屋・盛新堂のどら焼き。バタどら焼きがうまかった
シナノゴールド。須坂の無人直売所で200円。

晩秋から初冬へ

標高1300メートルの山小舎では初冬を迎えました。

令和2年、11月になってからはしばらく秋晴れの日が続きました。

家族が山小舎に来た時のシーツを洗濯して干しました

11月の第一週が終わるころに寒波が来ました。今シーズン一番の寒気です。紅葉を迎えていた葉っぱが猛烈な勢いで散ってゆきました。

すっかり落葉したミズナラ林

ある朝起きると屋根にうっすら雪が積もっていました。いよいよ冬の到来です。

屋根にうっすら雪が張り付いていました。
薪の乾燥台の上の雪。陽が差すまで残っていました

寒気の合間を見て、野菜を干したり、もみがら燻炭を焼いたりしています。

干し芋第二弾を干しました
今年ももみ殻燻炭を焼いてます

チェーンソーのチェーンを取り換えたので、刃がキレッキレッのうちに、太い丸太を玉切りして、返す刀でミズナラを1本、伐採しました。

ミズナラの余分な立ち木を伐採
倒木を玉切りします

茅野の新星劇場へ行った

茅野駅近く、中央線の線路際に新星劇場という映画館がある。

近くを通るたびに気になる存在だ。
毎年9月に開催される「小津安二郎記念蓼科高原映画祭」には、映画祭の会場になり、入り口の駐車場にレッドカーペットが敷かれ、地元のスタッフによるふるまい酒、コーヒー、ポップコーンなどの出店が並ぶ。
映画祭は県外からの来訪者も多く、上映作品には沢山の観客が訪れる。

昨年の映画祭パンフレット

令和2年は映画祭が中止になった。
山小舎おじさんは過去の映画祭で、この劇場で司葉子のトークショーを聞いた。

シネコンやらミニシアターとは異なる、天井が高い造りと大画面。
かつては全国に存在した、旧スタイルの映画館の造りを今に残す、という誠に懐かしい空間でもある。

この新星劇場、興行を常打ちしていない。
劇場経営者の女性に聞くと、今では出張上映や貸館を主にしているとのこと。
出張上映用のデジタル上映機器を持っているのは県内でここだけとのことだった。

星空の映画祭。映写は当劇場の出張によるとのこと

ということで、今年も一度くらいは新星劇場に入りたい、と思っていた。

ある日、通りかかると映画のポスターがデイスプレイされていた。
軽トラを駐車場に入れ、窓口へ寄ってみると、いつもは人気のない入口に経営者の女性がいた。
戸を開けて聞いてみるとちょうど午後の回の上映開始直後とのこと。

よしっとばかりにシニア料金1,100円を払って飛び込んだ。
とうとう3度目の新星劇場入場ができた!
しかも映画祭で、ではなくて一般上映で!

新星劇場の場内。懐かしい映画館の雰囲気が残る

場内にはほかに2人の観客がいた。
上映中の作品は「夜明けを信じて」。
新作である。
幸福の科学の製作作品であるが、日活配給の一般作品の扱いとのこと。

映画の内容は、教祖・大川隆法の自伝で、ひたすら同人へのよいしょに終始した、信者向けのものだった。
しかしなんとなく憎めない雰囲気があったのは、主演の新人俳優の個性のせいだったのか?

宗教がらみのスポンサード映画というと、創価学会の「人間革命」(1973年)が真っ先に思い出される。
監督、主演ともに通常映画でも大作仕様のものだったが、何よりも脚本に橋本忍という、日本映画の脚本家の重鎮を起用しており、同作品は宗教枠を超えて、例えば、橋本忍からみの回顧上映においてもフューチャーされる程のクオリテイーを有していた(ようだ)ことが印象的な作品だった。

このように、1970年代の新興宗教映画が、大向う受けを狙ったもので、たとえていえば、田舎の成金百姓が自宅をお城のように作りたがるようなコンセプトだったとすれば、眼前に展開する2020年の新興宗教映画は、現代の一般社会・一般人の価値観・ムードを理解し、それに迎合したもの、として映った。

今どきの新興宗教は上から目線ではだめだ、こけおどしでは人は騙せない、との理解に立ったうえでの戦略なのであろうか。

そうはいえどもやっぱりスポンサード映画。
主人公はともかく、また一般の芸能人崩れの千眼美子(旧名・清水富美加)などはともかく、脇役で出ている、映画テレビで初めて見る方々は、俳優、女優としてはプロなのだろうが、その全員に漂う不自然さ、マイナー感、は、作品そのものに対するそれ、よりもより多くの違和感を生じせしめていた。

戦略の不徹底か、隠しようにも隠し切れない本質の一端なのか。

上映後、もぎり役の女性から改めてお話を伺った。
定期上映より、出張上映に力を入れざるを得ない要因として、人気作の上映条件がきつい、とのことだった。
例えば人気アニメの「鬼滅の刃」は1日8回の上映が条件だったりするのでやりたくてもやれないとのこと。

シネコン上映が前提条件だったりする現在の興行の難しさを感じた。
これからも存続してほしい新星劇場だが、ご高齢に近い現在の経営者に後継者が現れるかどうかがカギだろうと思われる。

地元パワースポット訪問記 VOL.14 長野といえば善光寺

10月27日の信州ワンデーパスの旅で3時間ほど長野市にいた。
気になる市内のポイントを回って、善光寺にたどり着いた。

堂々たる木材の柱が支える長野駅。信州の玄関口だ

 ポイント1、市内の映画館まわり

気になる市内の映画館2館に行ってみた。
権堂通り商店街にある相生座と、駅前の千石劇場だ。

シネコン以外のいわゆる旧来の映画館は、県内には知っているだけで、上田映劇、茅野・新星劇場、塩尻・東座、伊那・旭座がある。
ほとんどが、昔ながらの大スクリーンと多数の座席を有し、フィルム上映も可能な映画館だ。

そういった映画館が長野市には2館残っている。
長野に来た時は、入場しないまでも当該2館の外観だけでも確かめたくなる。
映画鑑賞歴50年のオールドファンの、これがサガなのだ。

相生座。
「小津4K」と「ルイス・ブニュエル」の各特集のとき入場したことがある。
入場者にはまずお茶のサービスがあった。
女性支配人は雑談に応じてくれた。

意欲的なプログラムが目を引く。
なんと明治30年の開業。
現在は3スクリーン制で営業している。

120年の歴史を誇る相生座の正面風景
手書きの宣材が掲示板を飾る。「天井桟敷の人々」をやるのか!

千石劇場。
入ったことはないが、昭和25年開業と歴史は古い。
去年通りかかったときは、「仁義なき戦い」の連続上映のポスターがあった。
フィルム上映もできるのか。
2スクリーン制とのこと。

千石劇場の建物。映画館用に作った歴史ある建物とのこと
プログラムは一般向けだ

 ポイント2、権堂通りと小路

長野の街並みは、善光寺参道を中心に形作られている。
参道へと集まる小路があちこちにある。
参道が光とハレの場所だとすると、小路は日常と影の世界なのか。

市内に数多い小路。しまんりょ小路というところ
お寺への通行路なのか
街角にある銭湯

権堂通り商店街は昔ながらのアーケード商店街で、小売店、食堂などのほかに飲み屋も集まった、商店街と歓楽街が合わさったようなところ。

商店街から長野大通りを挟んだ東側には、善光寺参り客が精進落としをしてゆく、飲み屋、宿が並んでおり、今も名残の飲み屋が軒を連ねる。
聖俗併せのむ長野の歴史を飲み込んだ場所。

商店街の一角を占めていたイトーヨーカドーが撤退した時は、しばらく県内のニュースをにぎわしていた。

権堂アーケード街にあったヨーカ堂の建物
かーけーど街の一角にレコード屋があった
食堂のメニューが食欲をそそる

 そして善光寺

毎年訪れている善光寺。
3時間の長野散歩で街を歩いているうちに、今年もたどり着いてしまった。

参道が尽きたところに山門がある
仲見世通りには参拝客が引きも切らない

やはり長野の町の中心は善光寺なのだと思った。

堂々たる山門が他を圧倒する

参道を善光寺に近づくにつれて、人の密度が高くなる。
平日とはいえ常ににぎわう参拝客。

小学生の一団に追いつき追い越し、大急ぎでお参りだけを済ませる。
帰りの列車は14時半だ。

本堂へお参りしようと小学生の一団が登ってゆく

堂々たる大寺院の造作。
醸し出す伝統の風格。
何度訪れても、にぎやかで、明るさに圧倒される善光寺。

大昔から現在に至るまで、参拝客、観光客が絶えないのも、それなりのありがたさがあるからなのだろう。

折角長野にいるのだから、これからも折に触れて訪れたい場所だ。

カラマツを割る

ちょっと前に「ミズナラを割る」というブログを書きました。
薪ストーブで暖を取る山小舎では薪割は欠かせない仕事です。

燃料の薪は、伐採業者や管理事務所からもらっているので、山小舎には雑多な木材が集まります。
近辺で採れる木材は、ナラなどの広葉樹のほか、カラマツなどの針葉樹、白樺などが主なものです。

このうち広葉樹は薪として売り物になる、など商品価値があるものなので、いきおい、山小舎に回ってくる丸太は良くてシラカバ、多くはカラマツです。

このカラマツ、やにを多く含み、そのまま燃やすとストーブを傷めたり、煙突が詰まりやすくなるといわれており、一般的には燃料には適しません。

しかも、非常に割りずらい材質なのです。

試しに1本、玉切りしたカラマツを割ってみます。

長さ45センチほど、直径も15センチほどでしょうか。
これがもしミズナラだったら、斧で気持ちよく割れることが多いサイズ感です。ところがカラマツでは・・・。

斧で一刀両断できることは稀です。
いや、割れないまでも斧の刃が手ごたえも気持ちよく丸太の断面に食い込むことすら期待できないのです。

半分に割ったカラマツでも斧では割れないことが多い

やむなく、楔を使い、ハンマーで切り口から食い込ませてゆきます。
斧で一刀両断できなくとも、楔を使うと割れるのが、広葉樹やシラカバなどですが、カラマツはそれでも解決しない場合が多いのです。

楔を使うがスパッとはいかない
割った後に木くずが多く出るのもカラマツの特徴

楔は食い込むものの、スパッツと割れないカラマツ。
ある程度、ひびが入った場合は、丸太を横にして斧で割ることもあります。

細めの玉は楔で切り口をつけた後、横にして割ってゆく

特に節などがなくても、丸太の内部の筋がねじれ、絡まりあい、スパッツと割れないのがカラマツの特徴です。

嫌がる木を無理やり引き裂いたかのようなカラマツの断面
最後まで断裂に抵抗するかのようなカラマツの材質

非情の粘っこいというか、往生際が悪い。
扱いずらい材質。
カラマツの姿に外来生物の特質さえ感じてしまう山小舎おじさんですが、カラマツは日本固有種とのこと。

薪炭資材には適さず、乾燥後に狂いが生じやすいので板材としても適さないというカラマツがどうしてこんなに豊富にあるのか。

生育が早いので戦後、山林に大規模に造林されたかららしい。
植えっぱなしでほおっておくような山にはカラマツを植林する、ということなのでしょうか。

といっても、木材として利用もせず、熊、鹿などの野獣を、その実などで涵養する性質もないカラマツは、資源としてどうなのだろう、と思う山小舎おじさんでした。

まだまだ割らなければならないカラマツが庭にたくさんあります。

注)カラマツは割った後に、一定期間、雨ざらしにし、やに成分を飛ばしてから薪に使うと聞いたことがあります。
動力式薪割り機などでどんどん割って、雨ざらしでやにを飛ばしてから十分乾かせば、カラマツも燃えやすい薪として使えるのかもしれません。