定年おじさんの 極私的上田めぐりVOL.1

上田市はおじさんの住む別荘地の行政的な中心地。
距離的には茅野市のほうが近いけどね。

上田で食事

上田といえば真田。だが、食べ物もうまい。
蕎麦、鰻、とんかつが有名だが、五目焼きそば、ラーメン、洋食もうまいところがある。

今回食べたところはカレーで有名なベンガルのポークカレー。正統派の味です。
付け合わせのサラダは、大きめに切ったコールスロー。何気ないところも手抜きしない店はいい。

蕎麦の刀屋も有名店。

五目そばの福昇亭は、いつも満員。

信州はポークもうまいが、上田中心部で地元の客が引きも切らないのが、こぶたや。
荒いパン粉に、決して柔らかさ一辺倒ではない、大きな肉。いやというほどとんかつを味わえる。

こぶたやの力強い看板。

鰻は駅前の若菜館かな。
名物馬肉うどんは、駅前の田中屋で食べられる。
新しい名物では、駅ビルのから揚げセンター。決して際物ではない。

夜のメニューはタレ焼き鳥が有名だが、おじさんはまだ上田で飲んだことはない。残念。

上田のデザートは?

地元っ子の甘味のソウルフード。富士アイスはいつも並んでいる。
今川焼を箱で買う人が多い。小型のソフトクリームが150円。

おやきや団子のやまざきや。
おやきの皮がもっちりしてうまい。おじさん、おやきに慣れていなかったが、ここのおやきを食べて好きになった。

ほかにも、みすず飴や、長野市本店の竹風堂のどら焼きなどもうまい。

上田では上田映劇を見逃すな

古いものが残る街、上田では昭和な風景が渋く残っている。

中心部で異彩を放っているのが、大正6年に芝居小屋からスタートした上田映劇。現役の映画館。
「あさくさ雷門ホール」の看板は、全国各地に銀座と名乗る繁華街があるのと同じコンセプトか。

街中の古い造りの元商家が、祝日を祝う。

今は廃業した造り酒屋。

こんな小路もある。

北国街道沿いの歴史の町

上田はすぐ近くに信濃国分寺があった場所。
かつての信濃国の中心地だったわけ。
新潟へと抜ける北国街道に面してもいる。

北国街道沿いにかつての面影が残るのが、柳町通。
岡崎酒造では地酒の亀齢を造る。真面目、正直な味わい。

隣には天然酵母パンで有名なルヴァン。

街の風景に溶け込んだような銭湯。

町の中を川が流れるのも風情。

一方、人口比で飲み屋の数が多い上田は、飲み屋街が充実。夜は楽しそうだ。まだ飲んだことはない。

定年おじさん畑を借りる その4

定年おじさん畑を借りる その3から続きます。
2018年の畑の様子です。
畑は2か所借りてますが、今回は中山道沿いのフェンスに囲まれた畑について報告します。

作った作物

ここの畑には、2017年の秋に植えた玉ねぎが植わってました。
越冬を前に、もみ殻と燻炭をできるだけ施しておきました。
玉ねぎの苗の防寒と、土壌改良にいいと思ったからです。

2018年は4月中旬から始めました。
玉ねぎがほとんど太っておらずに、かえって苗が枯れているものが結構ありました。
枯れて場所が開いたところに長ネギの苗を植えました。

5月中旬に、夏野菜の苗を植えました。
トマト、キューリ、ナス、ゴーヤ、ズッキーニ、オクラ、ヘチマ、ツルムラサキ、食用ホウズキ、ハックルベリー、オクラです。
ホウズキ、ハックルベリーは長野ならではの野菜です。

肥料はいつもの微生物液、えひめAIのほかに、去年の秋に積んだ堆肥を使いました。
堆肥は別荘地内の落ち葉を集めて、鶏糞、ぬか、もみ殻などと混ぜて積んでおいたものです。

その後、インゲン、枝豆を植えました。インゲンは直播、枝豆はポット播きして苗を作って植えました。

今年の出来具合

畑に通うのは2日~3日に一度。
今年の猛暑に植えたばかりの苗も息絶え絶えでした。
オクラなどは苗が枯れてしまいました。
苗が大きくなるまで、えひめAI液を混ぜた水やりをしました。
畑のそばの側溝には常時、山からの冷たい水が流れており、それをじょうろとポリタンクに汲んで水やりをしました。

いつもながら、わが作物の育ちはゆっくりでした。
でも夏を迎えると茎が太く、びっくりするほどたくましくなりました。

その中で、早めに実が成りだしたのが、ズッキーニ。
初収穫は図太いズッキーニでした。
キューリも早めに成りだして今はほとんど枯れています。

トマトは8月下旬くらいから実が成りだしました。ゴーヤも現在が最盛期です。
インゲンは夏の暑さからか、収穫量が去年に比べて少なかったのですが、8月下旬の雨で、第二弾の花が咲き、収穫が続きました。
ナスも真夏の時に剪定をし、木を休ませたのが良かったのか、今も収穫が続いています。

朝市へ出品する

2018年は畑も2倍に増え、収穫量も種類も倍増する予定でした。
こうなると収穫した野菜のことについても考えなければなりません。
近所に配ったり、自宅に送ったりしただけでは余ってしまうでしょう。

別荘地では夏の間、朝市が開かれていました。
ダメもとで責任者の方に電話してみました。
朝市の出店者も減っているとのことで参加を許されました。朝市は7月下旬から9月第1週くらいまで開かれます。

出店はほかに3店ほど。
別荘に定住する老夫婦が自作の野菜を持ってくるのが1店。
近くの農家から仕入れた野菜を売るのが1店。
地元の人でスモモやトウモロコシを持ってくるのが1店です。

おじさんの畑の収量を考えると、毎日出品するのは無理ですので、1日置きに出店しました。
最初はジャガイモとインゲンくらいしか品物がなく、また、7月中はお客さんの出足も悪く、最初の日は、売り上げがゼロでした。

それでも出店を続けていると、やがては売り上げが500円とか1000円行くようになりました。
全部で12回出店して、売り上げの合計は13000円ほど。

一番来客数の多い、お盆の時期に枝豆やトウモロコシが間に合わないなどマーケテイング不足を痛感しました。一方、お客さんとのコミュニケーションで勉強できたことも多々ありました。
朝市でのエピソードについては稿を改めたいと思います。

 

秋の一日 裏山ハイキング

昨日までの雨天から、初秋の晴れ間。
裏山へ登ってみた。

カラマツの国有林の間を登る

山小屋のすぐ裏が国有林の山になっている。
30分もかからずに尾根に出て、眼下に白樺湖が見える。途中、秋の植物が見られ、うまくすればキノコが採れるので、今年も登ってみた。

途中、人気はまったくない。
山林での作業用か、人が通るには十分な道はついている。
下草や、シダ、笹などが生い茂る道を登ってゆく。
ところどころ、獣道と交差する。
獣道へ入ると、シカのものと思われるフンがよく転がっている。

分水嶺トレイルから白樺湖を望む

尾根に到着。
尾根に沿って下草を払い、砂利を敷いたトレイルが続いている。
初夏にここをコースとした、トレイルランが開かれる。トレイルをはさんで、樹木からすすきの茂る草原に代わり、白樺湖畔へと下ってゆく。

白樺湖の背後にそびえる蓼科山は、今日は上半分が雲に隠れている。
蓼科山は八ヶ岳連峰の最北端の頂である。
標高は2500メートルほど。
近隣の小学生の遠足ルートであり、中高年登山グループのメッカである。7合目まで車で行ける。

山小屋への最短ルート

諏訪方面から山小屋へ在来交通で行き来する場合、最短コースは山小屋から分水嶺に上り、白樺湖へ下る、今歩いてきたコースである。
山小屋の前所有者の、通称仙人さんは、コースの所有時間25分と公称していた。
山の達人にして、足の速い仙人さんならともかく、定年おじさんならその1.5倍程度かかる。

白樺湖からは日に2本の路線バスが、茅野駅まで走っている。去年一度利用したことがある。
バスは茅野駅から車山高原行。
大門峠の停留所で降りて、分水嶺トレイルに入ってゆくのが山小屋への最短ルートだろう。

ちなみに上田方面からだと、日に2本程度、上田駅から別荘地への直通バスがある。
また、途中の長久保バスターミナルで乗り継げば、別荘地行きのバスはもっとある。

今日のキノコは3種類

今日歩いたルートで見られた植物は、トリカブトなど。紅葉はまだで漆や山ブドウの葉の色づきは浅い。

このルート沿いでタマゴタケというキノコを採ったことがあるが、去年から見ていない。
今日のキノコは、3種類。
一番大きな白いキノコを持ち帰ったが食べないようにする。

焼き肉のタレを作る

リンゴが安かったので買ってきた。
サンつがるという早生の品種が、大玉5個で300円。チリンゴを使って焼き肉のタレを作った。

タレの材料

リンゴを中心に、玉ねぎ、トマト、ニンニク、ショウガが素材。
セロリなど香辛野菜があれば入れたかったところ。
また、ニンジンなども、甘みが出ていいかもしれない。
素材はすり下ろします。
トマト、玉ねぎはみじん切りでもいいです。

ここで、ジンギスカンのタレの話

おじさんは北海道生まれ。
小学生のころ、校庭でキャンプをした時の夕食がジンギスカンだった。
その時、同じ班の女の子が自家製のタレにつけた肉を持ってきていた。
当時は羊肉をタレにつけたものを焼くのが主流だったように思う。タレは各家庭の手製が多かったようだ。
それから、大学生になってからも、遠足だの、花見だの、観楓会(紅葉狩りのことを北海道ではこう言った)だのと必ずジンギスカンだった。

最近、札幌市内のジンギスカン屋でタレの話を聞いた。その店では、醤油と焼酎を合わせて寝かせたものを使っているという。
店でわいわい食べるには、あっさりしてちょうどよいタレだった。
ジンギスカン屋の中にも、リンゴや玉ねぎを煮込んだドロッとしたたれを使っている店もある。

なお、家庭用のタレでは、ベルという道内のメーカーが決定版ともいえるタレを発売してから久しい。
今や、家庭で食べるジンギスカンといえば、ベルのタレの味を連想するほどだ。

タレを作るときの調味料など

素材に調味料を加えて煮込みます。
醤油と砂糖がベースです。
酒、みりん、トウガラシなどを加えます。
昆布や干しシイタケを入れて出汁を第二のベースにしてもいいでしょう。

隠し味としては、味噌。赤味噌のほうがいいかもしれません。
おじさんは更に酒粕を入れます。上田市の地酒・亀齢の酒粕。
煮物には和風、洋風を問わず、酒粕を使います。

このように、発酵調味料の力を存分に発揮してもらいます。コクが出てまろやかになります。
タレにとろみが出るくらいまで煮込みます。

できたタレの使い方

できたタレは瓶などに入れて保存します。
使い方は焼き肉のタレのほか、洋風煮込み料理のベースなどです。
チャツネより味が濃いので、少量で料理にアクセントがつきます。
タレとしても市販のものより薬臭さがなく、またリンゴなど素材が生きた手作り風の味がして重宝します。

 

おじさんの高遠小旅行

日頃の山小屋単身暮らしの気分転換に、定年おじさんは高遠に小旅行しました。

茅野に下り、杖突街道を走る

今日は、山小屋から茅野に下って、床屋へ行きました。茅野のビーナスライン沿いの床屋、若いスタッフが丁寧にやってくれました。
いちいち、苦しくないですか?熱くないですか?と声掛けしてくれました。
最後に年齢を確認して、シニア料金にしてくれました。シャンプー、顔そり付きで1750円でした。

気晴らしにそのまま、高遠方面にドライブしました。
茅野市内で国道20号線を超え、高遠方面へ峠を目指します。
国道152号線。杖突街道を軽トラで走ります。
峠を越え、谷あいの集落と、色づき始めた田んぼを眺めながら。

途中の直売所で休憩。店番のおばさんに今年のマツタケの出来具合などを聞きます。
今年はいいみたい。最盛期は10月、とのことでした。
やがて街が見えてきて、高遠町に到着です。

高遠の商店街を散歩

高遠は、市内の高遠城址公園の桜が全国的に有名です。伊那市街へ向かう国道361号線沿いに商店街が続きます。
店店は白壁も新しく、町おこしされています。
伝統のソバ屋、菓子屋などの間にカフェなども散見されます。
不動産屋の店先に「田舎暮らし希望の方へ古民家を紹介します」の張り紙があるのも時代にタイムリーだと思いました。

まず、地元の守り神の槍持神社に参拝。
境内の巨木と長い階段に圧倒されました。
境内のすぐ隣の建物が、廃屋のように窓ガラスが割れ放題なのが目を引きました。
商店街に戻りぶらぶらしました。

古書店の主と話す

商店街の一角に古書店がありました。定年おじさんは古書店を見かけると素通りできないたちです。

店内に入ると早速店主がいろいろと案内してくれました。
ざっと見て県内の資料関係が主な品揃え。
その話を振ると、「かつては雑多な品揃えだったが、店のスペースの関係もあり、また雑然としたレイアウトが嫌いなため、郷土関係に絞っている」とのこと。
松本と上田で行われる古本市が主な仕入れ先だとか。

店主の話が面白いので、部落関係、被差別民関係など、定年おじさんが興味のある話を振ると、店内の関係書籍を示してくれました。
それらの本は、多くが箱入りの専門書で、店主の関心の深さが見て取れました。
店主の興味がおじさんと割と近かったので、話が弾みました。

結局、上田在住の古書店主の周辺雑記という「裏町文庫周辺記」という本を購入しました。
地元の人が書いた、地元ならではの本がないか?というリクエストに応え、店主がわざわざ書庫から出してくれた本でした。
また、明日から、TAKATOU  BOOK  FESというのが開かれるというので、来てくれとパンフレットをもらいました。

市内にはほかに2軒、古書店があるとのこと。
県内の古書店が次々に閉店している状況にもかかわらず、うれしいことだと思いました。

商店街裏手の食堂でラーメンセット

軽トラは、商店街の一角にある無料駐車場に止めたのですが、神社への参拝の途中、目に留まった食堂がありました。
高遠町総合支所、旧町役場でしょうか、そこの近くにあ。る食堂でした。
今日のおすすめメニューなどが出ています。
役場の近くで、おすすめメニューがある食堂なんておいしそうではないですか。

入ってみると果たして、すでに4組のお客がいました。残ったテーブルは1つだけの状況です。
今日のおすすめの中から、ラーメンとマグロソースカツどんを注文しました。

ソースカツどんのたれな甘さは期待通りでした。
ラーメンは思った以上にあっさりしていました。
ほんのりとゴマ油の香りがしましたが、動物性のこってり感はほぼゼロでした。
定年おじさん的には好感度マックスに近い味で、完食でした。
店内を見回すと、アナウンサーの羽鳥慎一の色紙がありました。

伊那市街に下り、国道153号線を北上。山小屋へ帰りました。

 

 

 

定年おじさん畑を借りる その3

定年おじさん畑を借りる、その3。今日は、今年の畑の様子を報告します。

2018年の様子 その1

今年は、4月下旬から畑を始めた。
東京での越冬を終え、山小屋に復帰して畑を見た。
雪と霜に耐えてきた畑には、玉ねぎが半分くらい生き残り、枯れかかった葉をかろうじて伸ばしていた。
長野の厳しい冬を玉ねぎは生きながらえていたのだった。

玉ねぎの苗が枯れた後のマルチの穴に、長ネギの苗を植えた。
長ネギは細いながらも育った。

玉ねぎは、最終的にピンポン玉程度に太って6月に収穫となった。
苗を100本植えて収穫した玉は30~40玉程度だったろうか。ちょっとがっかりしたが、来年頑張りたい。

今年から、畑を借増しした。
去年から大家さんが使ってくれと言っていた畑だった。こちらの畑は、大家さんの家の裏側にある。100メートルくらい、今までの畑とは離れている。
フェンスに囲まれてはいない。
隣は田んぼである。

去年まで生えていた雑草を草刈り機で借り、大家さんのトラクターで耕す。
通りかかったおばあさんが、きれいになりますね、とあいさつしてくれた。
しばらく耕していない土地なので、トラクターの葉が深く入らない。
一度耕した後、鍬で3列の畝を切り、ジャガイモ10キロを植えた。

本に書いてある浅植え方式とし、マルチをかけた。
何とか芽が出て、茎が育って、7月には収穫できた。
収穫量は30キロ程度だったろうか、もうちょっと収穫量が欲しかった。来年頑張りたい。

通りかかった近所の人が、だいぶ簡単に植えたようだができているね、と言ってくれた。
ほとんど人通りのない集落だが、案外人は見ているのだなあと思った。

ジャガイモの隣には里芋とショウガを交互に植えた。
里芋は、現在、旺盛に育っている。
その隣に、サツマイモを植えた。
マルチを敷いてから、サツマイモの苗を植えたが、今年の猛暑でマルチの表面にくっついた苗が枯れてしまった。
苗がマルチに接触しないように植え直し、現在は弦を大いに伸ばして生育中。

その隣に、ヤーコン3本と、カボチャとスイカを植えた。
ビニールマルチを敷かずに、枯れ草を苗の周りにかぶせた。
土壌と合わないのか、肥料不足か、カボチャの弦はいじけたように縮こまって伸びなかった。収穫も苗1本に1個だけだった。
スイカも弦が伸びず、小さな実が一つだけついて、最後には食害にあって皮だけ残してなくなった。
まだまだ畑のスペースがあるので、トウモロコシを1列、サツマイモをさらに1列、枝豆を1列作った。
トウモロコシは、ポットに種まきから始めて育てた。
本を見て、尿素を2回追肥した。
50粒ほどの種をまき、25本ほどの収穫。
売り物のトウモロコシと比べて50から70パーセントの実の太りだったが、まあ食べられた。食害は2,3本にとどまった。動物も少しづつ食べようとしたのかもしれない。
枝豆もポットへの種まきから始めたが、すぐに芽が出て、定植後もうまく育った。
キレイに一斉に育つ様子は、農家の枝豆畑のようだった。
8月末に収穫した。実はよく太ったが、味が今一つだった。
去年作ったものより甘くないのは不思議だった、畑が違うからだろうか。
今、畑には、里芋、ショウガ、ヤーコン、サツマイモが残り収穫を待っている。

(続く)

 

 

定年おじさん畑を借りる その2

定年おじさんが畑を借りて2年目になる。
最初は1か所の畑。今年からもう1か所増えた。
それぞれの畑の去年と今年の様子を報告します。

去年から借りている畑

2017年の6月中旬に借りた。中山道沿いの傾斜地で面積は約50坪。

2017年の様子

しばらく放置された畑だった。
耕運機で一度耕したが、土を起こす前に、枯れ草がたくさん倒れた。
その枯れ草をレーキで集めて燃やした。

隣の畑の人がアドバイスしてくれた。よく乾かしてから燃やさないと、鎮火まで時間がかかるとのこと。
畑で火を使うのはダメだ、と言われなかったのは幸いだった。
その人は、それからも会うたびに一言二言声をかけてくれた。

枯れ草を燃やしてから、スコップで土を掘り起こした。
一応、畝型に縄を張って、起こしていったが、せいぜい長さ数メートルのひと畝を起こすのに体が悲鳴を上げた。
定年後の体力はここまで落ちているのか、と思った。

東京の家庭菜園ならば5月のゴールデンウイークのころが夏野菜の苗の定植時期だった。
ここは長野県とはいえ、すでに6月中旬だった。

あわてて、トマト、キューリ、なすの苗をを2.3本ずつ買い、やっと起こした畝に植えた。
元肥がどうの、追肥がどうのという知識はなかった。
たまたま本で読んだ、微生物農法というのをやってみることにした。

本を買ってきて、えひめAIという微生物液を作った。りそれを畝にたっぷりかけ、マルチで覆い、苗を定植した。
マルチを使うのも初めてで、風が入らないように土を覆うのに苦労した。

その時、すでに夏野菜定植の最盛期は過ぎており、農協で買った、売れ残りのトマトやナスのひょろ苗が、黄色い姿をマルチの上に頼りなくさらしていた。

たまたま近くに来る用事があり、畑の紹介者の自動車屋社長が様子を見にやってきた。
社長は、頑張ってるねと言いながら気の毒そうな顔で畑を見回した。
その時、定年おじさんは暑さと疲労に耐え、肩で息をしていた。

畑に行くたびに、苗の根元に微生物液・えひめAIの希釈液を潅水した。
しばらく苗は根付くのに精いっぱいの様子だった。

夏野菜を定植してから、畑の残りのスペースを耕した。そこにインゲン、枝豆を直まきした。
まいている最中に、山から鳥が集まってきたような気がした。
案の定、種はなくなっていた。
雑草で覆うなりして鳥に食べられないようにまき直した。

夏になり、畑の畝間から周辺から雑草が生い茂った。
草刈り機を購入し、草刈りした。
石や鉄パイプに歯が当たるキーンという音に驚いた。
ビニールひもを巻き込むと、からんで回転がストップする。
畑一面を除草して倒れそうに疲れた。
大家さんから気を付けるようにと言われていた、タラの芽の木を間違って切り倒してしまった。

それでもえひめAIの効果か、トマトが急に伸びてきた。茎ががっしりしてきた。
植えた時のひょろ苗の面影がなくなった。
ナスやキューリもそれなりに伸びたが、実の成りは今一つだった。
トマトの脇芽かきは知っていたが、ナスやキューリの選定などはまったくやらなかったからだろうか。

夏野菜の収穫は今一つだったが、なんとなくえひめAIの効果を感じ、その後も使い続けることにした。
インゲンはよく実がなった。隣近所に配り、乾燥野菜にし、水煮にして瓶詰めしたりした。
枝豆はほんのり甘かった。

秋野菜には、大根、人参、白菜、キャベツを植えた。キャベツは苗、白菜はポットに種まきし苗を作ってから植えた。大根、人参は畑に直播した。

結果、満足行く収穫は人参だけだった。
白菜は途中まで順調に育ったが、葉が溶ける病気が出た。
キャベツ、大根は大きくならないままだった。
9月初旬に一斉に植えたり、まいたりしたが、時期が早ければいいというものでもないらしかった。

新米の収穫時期には、コイン精米所に大量のもみ殻とヌカが出るので、もらってきてはせっせと畑にまいた。
もみ殻は、山小屋の敷地にあるごみ焼きストーブで燻炭にしてまいりした。
来年以降の土づくりのためだった。

11月には玉ねぎの苗を植えたが、雨で苗が流されて植え直すなどした。
翌年の収穫はピンポン玉くらいにしかならなかった。

(続く)

定年おじさん畑を借りる その1

定年おじさんが田舎に来た目的の一つ。畑について話そう。

どうやって畑が見つかったか

定年おじさんは、去年(2017年)から長野県の山小屋に住んでいる。
山小屋に住むにあたって、日ごろの足として軽トラを買おうと、隣町のモータースに飛び込んだ。

そこの社長が面倒見のいいひとで、移住者のおじさんに対し、畑はやらないのか?と聞いた。
我が意を得たりと答えたところ、後日、見つけてもらったのが現在通っている畑。

約50坪の面積で、耕運機と草刈り機は自由に使ってよく、賃料などはいらないとの条件。
社長からは、畑とその大家の自宅の2枚の住宅地図コピーをもらい、現地へ向かったものだった。

畑の大家さんに会う

大家さんの家に挨拶に向かい、畑に案内された。
この時、もう一か所畑があるので使ってほしいと言われ驚く。

もともと、おばあさんが畑を作っていたが、できなくなったとのこと。大家本人は畑をする気はないとのことだった。畑は去年の草でボーボーだった。

大家本人にあったのはこの時1回だけ。時々訪問する本人は、職業上、不在であることが多く、奥さんか子供が時々いた。

大家が取引しているモータースの紹介とはいえ、見ず知らずの人間に無条件で畑って貸すものなのか?と思った。
これがご縁というものなのか、それとも、こういう大家さんだったからなのか。今もってわからない。

その後、大家さん宅には、年2回、東京土産を持って挨拶に行っている。
また、収穫した初物などを玄関先に置いてくるようにしている。

山小屋から畑に通う

定年おじさんの住む山小屋は、長野県小県郡というところにある。
山小屋は高度1500メートルにあるが、そんなところで野菜はできない。
借りた畑も高度700メートルくらいのところにある。
山小屋から畑まで軽トラで30分かかる。毎日は通えない。

畑に行く日は、ある程度まとまった作業をするようにしなきゃならない。
JAやホームセンターやスーパーに寄る用事に合わせて、行くことが多い。

畑の様子

50坪の畑は、中山道の道沿いの傾斜地にある。
フェンスに囲まれたの中の一画。近所の数軒が集まって、それぞれ50坪から200坪ほどの畑を隣り合わせている。
我が畑の端っこには、大家さんの秋の食用に、タラの芽の木が植えてある。
借り始めたころは、枯れた雑草が生い茂り、刈りはらってから山にして燃やしたものだ。
今年は、ナス、トマト、キューリ、インゲンなどの夏野菜を中心に植えた。

その当時、もう一か所あると言われた畑は、大家さんの家の裏側にある。
昨年は定年おじさんの体力が一杯いっぱいで、そこの畑のことまで考える余力はなかった。

今年から頑張って、そこの畑も耕し始めた。
大家さんの耕運機を借りて、畑まで自走で行けるのが助かる。今年はジャガイモ、サツマイモ、サトイモ、トウモロコシなどを植えた。実がなってから、トウモロコシが食害にあった。1株だけ植えたスイカも折角成った小さな球が皮だけ残して食べられてしまった。

田舎暮らし 「別荘」か「集落」か その2

その後の北海道の地震。
札幌の親せきによると、9月7日の夜8時には通電したとのこと。
この間、水道、ガスは通じていたものの、2日間の停電は、おそらく戦後初めての体験のはず。
親せきの家は、防災グッズなどの備えはなかったが、道内ではむしろ普通だったのではないか。
北海道出身者の定年おじさんの実感である。
同様な地震や停電が首都圏で起きたとしたらどうであろう。住民の防災意識と備えが頼みである。

さて、田舎暮らしをする上での「別荘」と「集落」の比較その2である。
その利点と欠点を、定年おじさんの経験上から述べる。

別荘地の光と影

1.光の部分

別荘住民はお客さん。つまり商売上の買い手そのもの。
別荘を建て、おとなしく暮らし、遅れなく代金を払ってくれれば、売り手に文句は言われない。

買い手を都市住民としているから、よそ者同士である住民同士の関係も都会的。新参者も入り込みやすく、おおむねお互いの生活レベルは近い。
近所付合いをしたくなければしなくても済む。
バーベキューや花火、ゴミ焚きなど敷地内での振る舞いも、別荘地管理規則などに明文化されたことを逸脱しなければ自由である。
ゴミの処理など住民サービスは公平にやってくれる。

買い手としての責務を果たす限りは、住民の権利は都会並みに保証され、生活上の義務は明文化された最小範囲にとどめられるのが、別荘住民に与えられた利点といえる。

2.影の部分

では別荘暮らしが完全に都会生活の延長か、というとそうでもない。

基本的にはイーブンな住民同士の関係だが、そこは人間社会なので、居住年数の長い住民がイニシアチブを握るのは仕方のないところ。
しかも、元都市市民とはいえ、別荘暮らしが長くなると、住民の生活範囲はだんだん狭くなる。「世界」が別荘地内とその周辺に限定されてくるのだ。
かつ、基本的に暇なので、狭い人間関係の間を、当該人間に限定した噂話が駆け巡ることになる。
都会的人間関係をイメージして移住したところが、狭い人間関係に閉じ込められることにもなりかねない。

なお、別荘住民のイメージはリタイヤした金持ちというところだが、実際はリタイヤ後の現金収入に汲々としなければならない人も多いし、つてを頼んで別荘地に流れ着いた人もいる。
性質が全員円満なわけでは、もちろんない。
別荘地とて現実社会の一面でしかないのは、当たり前だが忘れないでおきたい。

集落の現実

1.いいところ

では、別荘地ではなく、集落に移住する場合はどうだろう。

現実的な選択で、空き家に住むとして、リフォーム代はかかっても、新築の別荘暮らしより初期費用は少なくて済む。ランニングコストも別荘価格より安く済むかもしれない。
集落の立地は、別荘地より都市部に近いから、買い物や公的機関の利用にはより便利だ。中学校までは町村内で通える。

また、都市ガスや下水道などのインフラは別荘地より整っているのが通例。
畑も隣接しているから、せいぜい軽トラで数分もすれば通える。
一般的に、映画やショッピングなど都会的娯楽以外の生活は、自宅周辺で賄えるのが集落での生活だ。

そして、最大の利点は、住民同士の生活互助的な共同体が残っていることだろう。
暮らし全般に関して情報を共有し、防災に対しては共同して対応し、祭りなど文化的な伝統行事を伝承する、為の制度的、精神的な組織体のことだ。
例えば、災害が起こったとして、その後の避難生活を一番安心して暮らせるのは、田舎の共同体が残っている地域だろうと思われる。

2.集落特有の事情

あなたが田舎暮らしをしようと、気に入った集落に空き家を求めたとして、簡単に家や畑を買ったり借りたりできるだろうか。多分、人的な紹介がないと無理だろう。

最近は地元の自治体が、移住促進や空き家補助などの施策を行っているので、若い人は考えてもいいかもしれない。

基本的には、しかるべき人などの紹介があるなど、貸し手にとっての必然性がないと、新参者に家や畑を貸さないのが田舎の人である。
いわば縁がない人には貸さないのだ。

また、最大の問題点は、共同体の一員になれるかどうかである。

移住者について、地元の人に尋ねると、「最初はよく来てくれたと感謝するが、そのうちにこんなはずではなかったとなる例が多い」と聞いたことがある。

「こんなはずではなかった」とは、移住者が集落の共同体員として期待外れだったということだ。
今時、日本の田舎とて、表面的には排他的ではない。自分たちの高齢化、過疎化を十分認識し、本気で若い移住者を求めている。

それがしばらくすると、こんなはずではなかった、となる。共同体の暗黙の了解事項、義務を、移住者がないがしろにしたとしたら、共同体員としては期待外れであろう。移住者が、近所から届けられる野菜を負担に感じて邪険に扱えば近所はがっかりするかもしれない。

こじれれば、共同体からの排除、ひいては公平なはずの公的サービスからの排除という事態を招くかもしれない。そうなると移住者は居ずらくなって去ってゆく。

公平に見て、田舎の過疎化は待ったなしの状況で、移住者の選り好みなどしていられないのだから、贅沢言うなとも思う。
が一方、これまで受け継がれてきた価値観を最優先しなくなったとしたら、共同体ではなくなるだろうし、そうなると日本の集落の制度的、精神的な存続はどうなる?とも思う。
日本の集落は、その存続がある限り、共同体としての精神的な背景も併せて存続し続けるものなのかもしれない。

 

田舎暮らし 「別荘地」か「集落」か その1

田舎暮らしにあこがれる定年者へ

定年後のライフスタイルとして、「田舎暮らし」は一つの選択肢になっている。

テレビ番組の「人生の楽園」ではないが、退職後は夫婦で山麓にログハウスでも建て、悠々自適に趣味のバードウオッチングでも満喫、という第二の人生像が、今は一種のステータス化しているかのもしれない。

いかような第二の人生を選択しようが、はたまた「第一の人生」たる現役生活にできる限りしがみつこうが、当事者の自由ではある。

ここでは、定年後の第二の人生に「田舎暮らし」を志向するご同輩に、移住先として考えるときの「別荘地」と「集落」について考えてみたい。
定年おじさんのささやかな経験を紹介する。

「別荘地」とは

ここでいう「別荘地」とは文字通りの別荘地のこと。
立地は、たいてい、地方の限界集落のさらに先の、傾斜地を切り開いた場所にある。

地元の人にとっては、山菜取りにしか出かけなかったような場所で、標高が1000メートル以上で1500メートルのこともある。
観光地に隣接していることも多い。

都市部からは遠いが、高速道路からのアクセスや、主要街道筋へのアクセスは考慮されている。と言ってもインターまで1時間、は普通だが。

1区画の広さは100~200坪ほど。土地は自治体が所有していることが多いので、購入者が土地に設定できるのは借地権となる。

建物は、購入者が建て、購入者の所有権が設定できる。
簡易水道、電気などのライフラインは整備されているが、都市ガスや下水道までは通っていないことが多い。

別荘地内の道路等共有部分の整備や、ごみ収集場所の管理などは管理会社が行い、購入者は管理料金を払うのが通例。

なお、購入者は別荘に住む住まないにかかわらず、建物の固定資産税や住民税(住民票を置かなくても建物の所有者に課税される)の納税義務を負う。

地元の自治体は、いかに別荘購買者を開拓し、管理費を徴収し(管理会社は自治体の第三セクターであることが多い)、また税収など周辺利益を上げるかに関心がある。
いわば、別荘経営は地方自治体の数少ない「産業」となっている。

バブル期までは、売出し即完売、だったが、時代と世代が変わり、今はがらがら。その気さえあればすぐ買える。

今時の購買層は、イメージ通りの「夏だけ避暑にやってくる年配の金持ち」もいるにはいるが、定年後に定住している夫婦や、単身で暮らす高年齢者など様々。

夏の一時期以外は人気が少ないのは、昔から変わらず。
長野県内の別荘地なら、首都圏と中京、近畿圏からが多い。

「集落」とは

「集落」とは、ここでは地方の市町村の一地域のことをいい、長野県なら、○○町○○区、などと住居表示されるところの、○○区を指す。
「集落」への移住とは、その○○区の一員として住むことをいう。

地方の場合、住民の帰属意識は、合併の進んだ市町村ではなく、集落にある。
地元では、○○町在住というより、より小規模の○○区在住という方が通りがよく、実感がわく。

本州の集落は歴史が古く、狭い傾斜した街道にへばりつくように形成されること多い。
街道から家々に入る路地はさらに狭く、傾斜している。
家屋の敷地は案外狭く、畑は近隣に数件分がまとまっていることが多い。
現代の感覚からすれば、住宅地としての利便性に乏しい。

住民は代々その集落に住んでおり、少数なうえに平均年齢は高い。
働き手は職場に通っており、平日昼間はほとんど人気がない。
郡部の街道筋をドライブしていて、ほとんど歩行者を見かけないわけである。

なお、今時はかなりの郡部でも下水道が整備されており、奥地の別荘地よりライフラインは近代化しているが、都市部や、大規模商店へのアクセスは別荘地に次いでよくない。

自治体が予算を組んで移住者や子供への優遇策を行っていることもあるが、郡部で全くのIターン者が完全に定住したという話はあまり聞かない。
Uターンした人が、集落の古民家などを拠点にパン屋で定住している例はある。

以降、その2、「別荘地の現実」「集落の現実」へ続く。