城戸四郎著「日本映画傳・映画製作者の記録」を読む

城戸四郎は1894年(明治27年)、東京の築地の生まれ。
一高、当代法学部を出て一度は国際信託銀行(現みずほ銀行)に就職したものの、当時の松竹社長・大谷竹次郎に乞われて松竹キネマに入社。
以降、松竹鎌田撮影所長、松竹副社長、社長、会長を歴任した。

その城戸の1956年文芸春秋社刊「日本映画傳」を読む機会があった。
創立当初から現在に至るまで、日本映画のメジャーの地位にある松竹の戦前戦後を通しての、会社経営者であり映画製作者であり、日本版タイクーン(ハリウッドでいえば、セルズニックやザナックの位置づけか)でもあった城戸の自伝である。
全盛期の日本映画の記録としても貴重なものだった。

新聞記者志望で弁護士資格を持つ城戸が、戦前の興行会社である松竹に入社した経緯は、本著では「以前からぼくの家とはちょっと知り合いの松竹の大谷社長から、松竹へきて働かぬかという話をうけた」(同著P11)と簡単に表現している。
これは、城戸の生家が築地精養軒という日本における西洋料理の草分けであり、東京の拠点を築地に置いていた松竹の大谷社長との接点があったこと、大谷社長が長男を亡くし後継者を捜していたことが契機になってのことだと思われる。

城戸四郎

松竹は関西の芝居小屋の経営を母体にした興行会社であり、当時も今も関西の芝居、映画の興行、東京での歌舞伎、芝居、映画の興行がメインの会社である(映画製作については現在も行ってはいるが、唯一の直営撮影所であった大船撮影所を手放した現在では、メインの事業ではなくなっている)。
当時の興行界は、小屋に出入りするヤクザ、巡業先の地元のヤクザ、役者、小屋主との付き合いが、今よりも重要視される特殊な業界であり、城戸のようなエリートが就職先として選ぶことはまれであった。

サイレント映画の撮影風景。当時は楽隊の演奏をバックに撮影していた

本著では城戸が行った松竹キネマを舞台にした経営者としての業績が数々つづられる。
具体的には、
撮影所内で女優を妾とし、少し人気が出れば自分の実力のためと過信する俳優たちと対峙して撮影所内のシステムと風紀を是正した。
契約したフィルム貸出料金を滞納する映画館主たちから回収を行い松竹の財政を改善した。
戦前の対抗勢力であった日活との間で興行戦争を行いスターを引き抜き合った。
新興勢力東宝との間で日比谷の興行街の利権争いでは一敗地にまみれたものの、別件でまき返した、などなど。

一方、製作責任者として、自らの理念に沿った施策も行った。
具体的には、
撮影所内にシナリオ研究所を作って人材を育成し、
撮影所をスターシステムからデイレクターシステムへと変更し、
新人育成用に中編映画を製作する、など。

また、
映画批評家と松竹作品の内容を巡って論争したり、興行に向かない作品は遠慮なくオクラ入りして才能ある監督に更なる奮起を促す、などの出来事には、映画理論家としての城戸の妥協なき理念性が現れてもいる。

城戸が映画製作においてその理念としているのは、「人間社会に起こる身近な出来事を通して、その中に人間の真実というものを直視すること」(本著P39)であり、また「いわゆる社会の常識を考え、社会的の思想なり判断、社会の大衆の分析やその判断に沿い、そうしてそれにマッチしながら、なおかつその人たちに感動を与える」(同P241)である、と述べている。

これがいわゆる蒲田調、大船調の底流ととなった理念である。
同時に松竹映画の、良くも悪くもこれが限界となって今に至るのではあるが、1956年、映画産業全盛期に書かれた本著では、それら理念の成果や反省がご本人によって述べられる時期ではなかったのが残念でもあり、一方で安心もする。

松竹蒲田調の結実。島津保次郎監督「隣の八重ちゃん」

エリートで感受性に優れ、正義感もある城戸は、映画界の悪癖、因習を改革し、また戦中戦後にあっては映画界を代表して国家や権力側と交渉し、松竹のみならず、業界全体の利益と透明性のために尽力していることが本著から窺える。
監督や俳優に対する、愛情のこもった視線も本著の随所に表れている。

これらを見ると、映画製作者(日本版タイクーン)としての城戸の特性は、大映の永田雅一などに見られる、斬った貼ったの興行主としてのそれではなく、また東宝の経営者のように不動産をやりくりしながら財政をキープするスマートなものでもなく、映画青年の感受性を持ちつつ、新聞記者を目指した客観性を維持しながら、映画製作者という極めてヤクザな職務を全う(しようと)した点にあるのではないかと思う。

(余談)

本著には、1929年(昭和3年)、ソビエトからヨーロッパ、アメリカへと9か月にわたる洋行の著述がある(本著P57~71)。

ソビエトでエイゼンシュテインやプドフキンと面談し、モンタージュ論を議論し、城戸の持論を述べたこと。
また持参の「からくり娘」を見せたが、「長い」といわれたことに触れている。

城戸がその際思ったのは、日本人が出ていること自体、彼らの想像と理解から離れ、それをして彼らに「この映画は長い」と言わしめたのだ、彼らに興味を持たせるにはすでに彼らの日本に対する常識となっている、時代劇的なものでなければだめだ、ということだった。

さらに興味深いのはハリウッドで製作者、B・P・シュルバーグに会っていること。
B・Pは大著「ハリウッドメモワール」を書いたバッド・シュルバーグの父親。
城戸は試写室に招かれ、B・Pが監督とデスカッションをしている場面を見て、ハリウッドの生存競争がいかに激しいかと感じる。
晩さん会ではノーマ・シアラー、グレタ・ガルボ、駆け出しのゲーリー・クーパーらと会食をしており、VIP待遇だったことをうかがわせる(ガルボが出てきたということは、B・Pがルイス・B・メイヤーのもとで製作をしていた頃であったのか)。

城戸が接待されたB・Pシュルバーグ、愛人シルビア・シドニーと。(メイヤーと袂を分かちパラマウントと契約していたころか)

城戸はトーキーシステムの事前調査も行っており、彼なりにあたりをつけて帰ってきており、帰朝後はさっそく日本でのトーキー映画の研究をスタートさせる。

当時はサイレント時代の末期で映画界が下り坂だったらしく、ホテルに投宿する城戸らに、ハリウッド女優のあっせんがあったそうである。
値段を聞くと一晩10ドルといわれたとのこと。
映画界の実情を表す記録として貴重な記述でもある。

節分の日の田無神社

令和5年節分の日は日曜日でした。
たまたま自転車散歩で立寄った田無神社では、節分の例大祭が行われていました。

新青梅街道を新宿から武蔵野市を越え、西東京市に入り、所沢街道への追分の手前に鎮座する田無神社。
鎌倉時代の創建と伝えられ、青梅街道旧田無宿の付近に位置する。
現在でも地域住民の参拝で賑わう。

通りかかると外からでもうかがえるほどの賑やかさに思わず自転車を止める。
鳥居をくぐると、移動カフェや屋台も出店し、家族連れが三々五々集まっている。
賑わいに誘われるように境内へ進む。

神楽殿も開かれ、獅子舞も出ている。
本殿には参拝を待つ人の列。

開かれた神楽殿
獅子舞と一緒に記念撮影をする親子

ひっそりとした神社仏閣の風情もいいが、縁日で賑わう境内はさらにいい。

本殿に並ぶ参拝客
本殿

都心の神社のメジャー感や、にぎやかさはないが、地域独特のまったり感がいい。

女性宮司が本殿で神事を行っていた
鯛がここの名物なのか

ここまで自転車に乗ってきて、立春を迎える喜びを味わわせてもらった思いで、田無神社を後にしました。

新春の神田明神

令和5年の1月下旬。
神保町からお茶の水へと歩いたついでに神田明神に参拝しました。

神田明神は江戸総鎮守の神社で、江戸城の鬼門に位置します。
主宰神の一人が平将門で、その時代に関東で反朝廷の武力蜂起を起こした人です。

将門は捕らえられて処刑されましたが、この場所に神と祀って、その祟りを抑えるとともに、江戸の鬼門を封じたのです。

久しぶりに訪れた神田明神。
都心の由緒ある神社としての格調、品格があります。
主宰神の荒々しい主張は極々薄められ、代わりに長い間庶民が集い祈った場所の、穏やかさ、賑わいを感じます。

正月ではないので、お参りに並ぶ人の数もわずか。
おみくじが結ばれた木が、真っ白に待っているのが目を引きます。

都内のみならず、全国から人が集まっているようです。
山小舎おばさんの仕事の繁盛を祈願して、お札をもらって帰りました。

浅草寺と浅草界隈

令和5年1月。
遅い初詣を兼ねて浅草へ行ってきました。

平日の金曜日ながら、都営浅草線のホームにはアジア系の観光客の姿が見られ、気分はコロナ前に戻った浅草界隈です。

浅草へ行くのなら、と家族からリクエストのあったどら焼きの亀十。
店へはいってゆくと「並んでください」とのこと。
外へ出てみると中国人らしき観光客などが三々五々並んでいる。
どこが最後尾かと聞けば、次のブロックあたりだという。
どれくらい並ぶ?といえば4、50分との返答。
速攻で並ぶのをやめる。

見れば隣にも和菓子屋があり、店内には全く客がいない。
値段も亀十が350円とすれば、どら焼き1個が240円と適正価格。
こちらの店でお土産のどら焼き購入とする。

亀十前に並ぶ人の列

雷門の前へ。
内外の観光客であふれている。

ここから浅草寺への参道沿いの仲見世は浅草随一の人出が集まる。
折角なので浅草寺へお参りする。

仲見世を行く人出を見ると、中国人やらスペイン語?をしゃべる外国人やらに交じって、修学旅行?の中学生グループの姿が目立つ。

浅草寺仲見世

浅草寺の山門をくぐり、煙を浴びて本堂で御参り。
振り返ってみる五重塔と山門の姿がいい景色だった。

諏訪大社本宮にあった神宮寺の五重塔も現存していれば国宝級、という話を思い出した。

浅草寺の山門
本堂から山門方面を見下ろす

浅草寺の後は、法善寺通りを通り、ホッピー横丁から、六区興行街へ。

和装で人力車の乗る内外の観光客やら、目指す店に並ぶ人の姿が目に付く。

人力車で浅草を回る観光客
天丼の大黒屋にも人が並ぶ

六区興行街のはずれにあった浅草名画座やピンク劇場の跡地にはホテルが建っていた。
向かいの場外馬券売り場は今日は休業日だ。

六区の浅草名画座跡地に建つホテル。突き当りは関東大震災で倒れた「十二階」が建っていた場所になる

ひさご通り入り口にある、350円のラーメンで昼食。

千束通りへ抜け、土手から旧あしたのジョー商店街、山谷、泪橋から三ノ輪へ行ってこの日の行程を終えました。

教のランチは350円ラーメン。東京風のあっさり味
ひさご通りから望むスカイツリー
土手の伊勢屋(天丼)も営業中だった
アーケードを取っ払い、ドヤ街とは訣別した?旧あしたのジョー商店街
山谷の労働者福祉会館。稼働しているのだろうか?
泪橋交差点にあるその名も泪橋ホールという映画喫茶。次回訪問してみたい

令和5年 山小舎新年

山小舎の新年は孫たちとともに明けました。

1月初旬、孫たちが雪遊びがしたいと山小舎へやってくるのに同行し、令和5年の山小舎新年を共に祝いました。

心配していた山小舎の水回りは、上水の凍結は、水抜きしていったので当然なかったのですが、台所と洗面所の排水が凍り、排水が流れるまでに2,3時間かかりました。
配水管の構造上の問題かと思われますが・・・。

そうはいっても、白樺湖のスズランの湯に浸かって山小舎へやってきた一行を、地元の鶏、豚、牛の炭火焼きで迎え、華々しく山小舎新年を祝うことができました。

翌日は午前中は山小舎周辺で孫たちとそり遊び、午後は池之平ファミリーゲレンデへ孫一家はお出かけ。
ジイジたちは買い物とお留守番。

3日目も帰る時間まで山小舎の周りでそり遊び。
十分楽しんで帰りました。

賑やかな山小舎の新年となりました。

令和5年初詣 その2

田端神社

新年早々自転車でほっつき歩いていると、杉並区に気になる神社がありました。
荻窪のはずれにある神社で、表道路から参道が長く続いており、その奥を覗いてみたくなります。

田端神社といい、昔この地区にあった村の田んぼのはずれに立っていた氏神様のようです。
1月早々ですが、境内に梅が咲いておりました。

本殿わきには梅が咲いていた

住宅街に取り囲まれた小さな敷地の神社ですが、よく手入れされたこぎれいな場所でした。

神明宮

阿佐ヶ谷にある神社です。
古くから有名で、ヤマトタケルが東征の帰途に休憩したとか、近世では甲州街道の旅人が内藤新宿から寄り道して参拝したという記録もあるそうです。

去年、山小舎おじさんが立寄った際には、神楽殿で晴れ着姿の娘さんたちによるかるた大会が開かれており、大変華やかでした。
また、その時に初もうで客がずらりと並んでおり、参拝をあきらめたことでした。

神楽殿はこの日は閉鎖

この日はほどほどの人出。
ゆっくり参拝することができました。

拝殿の奥の本殿の造りと配置を見ると、伊勢神宮を連想しました。
伊勢系、天孫系の神社なのでしょう。

東京の神社らしく、敷地も広く、きれいに整備され、華やかな雰囲気が漂う神社です。

拝殿にて参拝
拝殿の奥に鎮座する本殿

布田天神

調布住民はこの神社への挨拶は欠かせません。
古くから調布地区の氏神様です。

布田天神境内に作られた鬼太郎のサンドアート

3が日もとうに過ぎているので参拝客はまばら。
サクサクとお参りを済ませます。
調布地区の守り神なので、家族の安泰と併せ、調布地区の安寧もお祈りします。

本殿

参拝を終わって境内を見渡すと、神楽殿、社務所の造りや配置が堂々としており、都下の氏神とはいえやはり首都東京の神社の堂々たる様を感じます。

社務所の立派な造りに改めて気が付く

令和5年初詣 その1

令和も5年となりました。
新年を東京の自宅で迎えた山小舎おじさん。

自宅の切り盛りは、今やすっかり現役で働く山小舎おばさんこと、奥さんの主導のもととなっております。
一方、自宅ではお邪魔むしとなりかかっている山小舎おじさん、今年も自の行動で自らの生活を切り開かんと気分一新、頑張っています。

年末年始のかなりの期間、風邪で調子の出なかったおじさんですが、体調の合間を見ては初詣に出かけました。

小金井 金蔵院

小金井には自転車でよくゆきます。
野川が形作る国分寺崖線の上段と下段に広がっている小金井市。
崖下の道に沿って走ると、突き当たりに金蔵院というこぎれいなお寺があります。

金蔵院正面

通りかかると初詣の参拝客がチラホラ見えたので寄ってみました。

山門から本堂を望む

きれいに整備されたお寺で、初もうで参拝客を迎える準備も整っていました。

金蔵院本堂

青謂神社

深大寺に隣接するようにこの神社があります。
お寺と神社が等分されたように隣接しているのはたまに見ますが、お寺の深大寺が栄え、神社が付属するように残るというのは珍しいのかもしれません。

鳥居をくぐる

無人のおみくじ売り場でおみくじを引きました。
上がり目が残る中吉でした。
この後は深大寺へ向かいました。

本殿にお参り

深大寺

この地域の古の中心部だったのでしょうか。
神代城なる幻のお城もあったという場所で今も栄えるのが深大寺です。

門前の団子屋に並ぶ参拝客

三多摩地域の観光地として定着した深大寺。
初詣の地として、大みそかから三が日は参拝客で長蛇の列。
調布をはじめ地域の住民は大体ここに初詣します。

山門を上がる人々

この日もほどほどの参拝客でにぎわっていました。

本堂で初もうで

お寺としての深大寺は、大規模なものであることがわかります。
住民として1年の家族の健勝を祈願しました。

立派な常香炉もある
回向柱、なのでしょうか
お札お守りに交じって土鈴が売られているのも深大寺らしい
山門から門前市を眺めます

DVD名画劇場 MGMアメリカ映画黄金時代 子役万歳!動物万歳!

アメリカ映画には、子役ものが伝統の一つだ。
動物ものも。

有名な子役といいえば、シャーリー・テンプル、マーガレット・オブライエン、デイアナ・ダービンなど。
彼女らは当時の日本でも人気者で、テンプルちゃんなどの愛称で呼ばれた。
マーガレット・オブライエンは日本に招かれ、美空ひばりと共演もした。

動物では何といっても名犬ラッシー。
山小舎おじさんなどはテレビドラマのラッシーを毎週見ていた世代。
番組で流れるミツワ石鹸のCMソングまで覚えている。

世界一の映画会社MGMでも、子役を主人公にした映画は定番のジャンルで、ミッキー・ルーニー、ジュデイ・ガーランド、エリザベス・テーラーなどがスタジオ内にある学校に通いながら映画出演していた。

今回はMGMが製作した子役と動物が主演の作品を3本見た。

「名犬ラッシー・家路」 1943年 フレッド・M・ウイルコックス監督 MGM

大人になっても「猿の惑星」などで活躍した、ロデイ・マクドウールがラッシーの飼い主の少年役。
ラッシーを買いとる侯爵の孫役で11歳のエリザベス・テーラーが出演。
実質的な主役はラッシー。

大戦下のイギリス・ヨークシャー。
厳しい生活を送る家族。
父は犬好きの侯爵にラッシーを売る。
学校の行き帰りを共にし、学校帰りにラッシーと遊ぶのを楽しみにしている少年は悲しむ。

侯爵が住むスコットランドに連れてゆかれたラッシーは、ヨークシャー目指して何百キロの旅にでる・・・。

子供向きのドラマだが、ラッシーの旅の途中のエピソードは、十分に見ごたえのあるエピソードが続く。

嵐に遭って倒れたラッシーを見つけて介抱し、元気になったラッシーを黙って旅出させる老夫婦のエピソードが心温まり、老夫婦の人生の余韻までを残す。

エリザベス・テーラーとラッシー

馬車を仕立て、芸を仕込んだテリアとともに、日本でいうところのタンカ売のような商売をして歩くおじさんとのつかの間の道連れのエピソードもいい。

放浪者であり、ボヘミアン、人生哲学者であるこのおじさんのキャラは、この時代ならではの世間離れしたもの。
行商に集まる当時の人々の描写にも、時代を感じてしみじみする。
おじさんはラッシーとの別れに際し「孤独に耐えられないなら、行商人はできない」と自分に言い聞かせる。

少年ロデイは品行方正で個性に乏しいが一生懸命な演技。
お嬢様役のエリザベスは演技らしい演技はしないが、美人女優の片鱗を示し、大人の顔が子供の体に乗っているよう。

ラッシーは水に濡れたり、足を引きずったりの演技。
子供をさえ酷使する当時の映画スタジオで、動物が「虐待」されるのは当たり前だったのだろう。
同じようなコリーが何頭も用意されて、酷使しつつの撮影だったといわれている。

「緑園の天使」 1944年 クラレンス・ブラウン監督 MGM

クレジットの順番は、ミッキー・ルーニーが単独トップ。

子役時代からMGMで活躍したルーニーは当時24歳。
青年時代になっても「アンデイ・ハーデイ」シリーズなどで人気を継続していた。
この作品では、過去の事故のトラウマから各地を放浪して歩く元競馬ジョッキーの役。

ミッキー・ルーニー主演アンデイ・ハーデイシリーズ第4作「初恋合戦」(1938)。左ジュデイ・ガーランド、右ラナ・ターナー

実質の主役である、エリザベス・テーラーは当時12歳。
イギリスを舞台にしたこの作品にふさわしい英語を話し(エリザベスはイギリス生まれ)、乗馬にも熟達していたエリザベスはこの役を熱望。
主人公役には体が小さすぎる、というハンデを、3か月で身長を7センチ半伸ばし、体重を4キロ半増やして克服したという(自伝より)。

「緑園の天使」。エリザベス・テーラーとミッキー・ルーニー

監督には、グレタ・ガルボ出演作を手堅くまとめるクラレンス・ブラウンを起用。
単なる子供向け映画にはしない、というMGMの姿勢が見て取れる。
テクニカラー作品。

1950年ころ、ハリウッドを訪問した淀長さんとクラレンス・ブラウン

とにかくエリザベス・テーラー扮するベルベットが元気。
年頃の姉(「ガス灯」でデビューしたアンジェラ・ランズベリー。のちのテレビドラマ「ジェシカおばさんの事件簿」)が、ボーイフレンドを見て胸がドキドキするのに対し、ベルベットは馬を見ると胸がドキドキする設定。

セーラー服姿(1920年代のイギリスの少女は通学服として着用)で馬に飛び乗り疾走する。
家では、型どおりに権威的な父親の言うことは聞きつつ、独特の迫力で家庭と家業を切り盛りする母親に深く傾倒している。

母役はアン・リヴィアという女優。
単なる美人女優でも良妻賢母タイプでもない。
20歳の時にドーバー海峡を泳ぎ渡って栄誉と小金を得た過去があるが、いまはイギリスの片田舎の肉屋のおかみさんに収まっている。
いざという時には自分がそうであったように、勇気をもって進む人間(ベルベット)を応援する、という真に勇気あるキャラ。

この母親と、放浪の異分子ミッキー・ルーニーの存在が互いに化学反応を起こし、ベルベットのやる気と努力と希望に点火する。
母親と放浪者は、単なる田舎の子女の人生に飛躍を与えるべく、作りこまれたキャラであった。

男子しか出場できない大障害レースに出るため髪を切って男に扮するベルベット。
ルーニーがエリザベスの髪を切るシーンは監督ブラウンが本当に切るように指示し、出来上がりの映像も本当に切っているように見える。

がエリザベスの自伝によると、監督の指示に抵抗し、断髪後のカツラを作って撮影に臨んだという。
エリザベス・テーラーの「強さ」がうかがえるエピソードだ。

髪を切るシーン

ホームドラマとして大人の鑑賞に堪える作品。
大人たちの中を12歳のエリザベス・テーラーが駆け回り、馬で疾走しまくって存在感を十分に発している。

「仔鹿物語」 1947年 クラレンス・ブラウン監督 MGM

「緑園の天使」では少女を取り巻く大人や青年の人物像を描き分けたクラレンス・ブラウンが、さらに深く、味わい深い描写で少年の周りの世界を描いた作品。
子供向けというには、暗く、現実的で、残酷でさえあるドラマになっている。

登場するキャラは、自然が好きで夢見がちな主人公の少年。
知識人として地域に頼られながら、天然で世間離れしたところもある父親。
子供を2人亡くし、1人を死産し、以来心を閉ざす母親。
足が悪く、木の上の秘密基地で暮らしながら、少年に夢の世界を伝える隣家の友達。

主人公を子役のクロード・ジャーマン・ジュニア、父親をグレゴリー・ペック、母親をジェーン・ワイマンが演じる。

中央ジェーン・ワイマン

舞台は1800年代後半、南北戦争後のフロリダの湖沼地帯。
戦争に敗れた南部の知識人が新天地を求めて開拓に移住した背景が読み取れる。

母は開拓の苦労に疲れ、夢を見る時期はとっくに過ぎている。
父は夢をあきらめず、開拓地での苦労も、たまに町へ行くことも、両方楽しみつつ、妻へのいたわりも忘れない。
生き残ったただ一人の息子の成長が生きがい。

少年は裸足で暮らす。
熊に家畜を襲われ、父とともに熊を追う。
豚を隣人に盗まれる。
大嵐で作物が全滅する。
隣家の友人が死ぬ。
マイルドな描き方で表現されるが、どれもシビアな開拓生活の現実だ。

少年は動物を飼うことを母親から禁じられているが、あるとき父親が撃った母鹿に取り残された仔鹿を持って帰り、飼うことを許される。

この仔鹿が、大事な作物を食べ、防護の柵を立ててもそれを飛び越える。
少年が兄弟のように大切にしていた存在に裏切られる。
鹿が少年を裏切るのではなく、現実が夢を裏切るのだ。
やむなく鹿を撃った傷心の少年に父親が言う「受け入れて前に進むんだ」と。

父の言葉は、少年に現実を教える言葉であろう。
一方でこういう見方もできる。
大人の価値観に合わせそれに従え、と。

それは当時の常識でもあったろうし、第二次大戦に勝ち我が世の春を謳歌するアメリカの支配層が大衆に従わせたい価値観でもあったろう。

もし、仔鹿が異民族や異教徒の暗喩だったらどうなのだろう?
少年の悲しみと納得のいかなさは、いわゆる大人の価値観への疑問とはならないか。

かつて、動物であろうと人間であろうと、自分たちの価値観にそぐわないものに対して不寛容な人間の歴史が長くあった、という自制につながるメッセージが、そこに浮かび上がっては来ないだろうか。

この映画の根底を流れる暗いトーンは、そのような人間の宿痾に対する、必ずしも楽天的とはいえない現状と未来を諦観してのものだったのかもしれない。

軽トラ流れ旅 加賀井温泉一陽館

12月になり、今年最後の流れ旅です。
今年最後に入りたかった加賀井温泉一陽館に行くことにします。

加賀井温泉は松代にあります。
そこまでのルートは国道18号線で行くのがメインですが、ほかに、千曲川の左岸を行くコースや真田地区経由で地蔵峠を越えて松代に下りるコースなどがあります。

千曲川左岸コースは、途中、上山田の温泉街を通り、千曲市稲荷山の旧宿場町を通るなど、見どころの多いコースです。
今回は、途中の千曲市八幡地区にある武水別神社に寄りたくて、千曲川左岸コースを行きました。

武水別神社

篠ノ井へ北上するバイパスを外れると千曲市八幡の街中に入る。
街中を走ってゆくと大きな鳥居をくぐる。
武水別神社だ。

境内に駐車場があり、遠慮なく入らせてもらう。
鳥居の内側に太鼓橋。
袂には古い旅館もある。
映画のセットのような光景。

大鳥居の内側にある太鼓橋
鳥居前に建つ松屋旅館

鳥居をくぐったところにはレンガ造りの塔がワンセット。
その先には年末にはちょっと早い屋台が2、3脚。
参拝客より、屋台や神社の関係者の方が多いが、広々としたすがすがしい、オープンな空間。

大鳥居をくぐった境内

奥に進んでゆくと広い空間に配置された様々な建物が目に入る。
右手に体育館のような空間を持つ建物が目に入る。
額殿というらしい。

正面には拝殿とその奥の本殿。
左手には、神話や戦国話をモチーフにした錦絵のような絵が飾られた建物。
賑やかな空間である。

額殿
拝殿
絵が飾られた御供殿

千曲川流域の五穀豊穣を祈った場所という神社。
畏れる神々の降臨の地、というより、地元の人々が折に触れ集い祈る場所、という雰囲気。
関東で言えば、府中の大國魂神社をカジュアルに、素朴にした感じ。
年末年始のそれなりの賑わいが想像できる、地元の人々に寄り添った神社だった。

焼き肉はやしや

昼食は稲荷山地区の地元の食堂へ。

稲荷山は北国街道の宿場町だったところで、かつての富の集積を物語る蔵の街並みが残っている。
武水別神社がある八幡地区から車で5分ほど。
ネットで調べた焼き肉はやしやへ行ってみる。

ロースターがセットされたテーブルに案内される。
ランチメニューには丼物もあるので、カツ丼を注文。
どんどん入ってくる地元のお客は、たいてい焼き肉を注文している。

ランチのカツ丼900円

赤ン坊を背負ってホールを切り回す若奥さんがカツ丼をはこんできた。
見た目は素人が作ったっぽい、ごちゃっとした出来上がり。
食べてみるとつゆだくというか、メリハリのない味。

肉が厚く、ボリュームは十分。
何より手作り感がいい。
この手作り感だけで合格点だ。
田舎の食堂はこれだからいいのだ。

川中島古戦場跡

目的地の加賀井温泉へ行く前に、長野市博物館へ寄ってみた、が、この日は休館日だった。
やむなく博物館が建つ、川中島古戦場史跡公園を歩いていると、公園の片隅に八幡神社があった。
武田信玄と上杉謙信の一騎打ちの場所に建つ神社とのことで寄ってみた。

一帯はきれいに整備され、様々な由来を持つ遺跡などが案内板とともに残っている。
信玄と謙信の一騎打ちが、それぞれの旗印とともに銅像で再現されている。

長野県民の心情としては、領内を深く侵略された武田より、それを一応は撃退した上杉の方に近いのか?
それとも外様同士の闘いを第三者的に見ているのだろうか?

武田にしても上杉にしても、地元を遠く離れた信濃の地に自身の銅像が、数百年後にも建立されていることに満足しているのだろうか。

加賀井温泉一陽館

さて念願の加賀井温泉。

一陽館の寂れたたたずまいは変わらず。
ただし、入浴料が値上がりして500円になっている。

午後の割と早い時間なので温泉を独り占め。
かけ流しの浴槽の下流から上流へ時間をかけてゆっくり浸かった。

右が浴場棟、左は受付

寒い時期に入って見るとお湯の温度が低く、なかなか温まらない感じがした。
長く浸かっても茹で上がるようなことはなかった。
硫黄臭などもないから、嗅覚からリフレッシュするタイプの温泉でもない。

休憩場は使われていない

ただし、当日よく眠れたり、翌日疲れが取れてすっきりしたのはさすがの効用だった。

今年もどうもありがとう、来年もまた来ます。

遠くに見えるのは北アルプス?

たくあん漬け込み

12月になり山小舎周辺の寒さは本格化しています。

たくあん用に買った干し大根を追い干ししていますが、大根が凍っています。
それでも寒風にさらされた大根が細くシワシワに乾いてきました。
山小舎仕舞が近づいたある日、沢庵を漬けました。

半分凍り、雪にまぶされた大根を取り入れます。

ネットで調べて塩、ぬか、ザラメの分量を量ります。
その前に大根の重さを1本ずつ量ります。

大根は4キロありました。
塩が200グラム、ぬかが800グラム、ザラメが160グラムの計算になります。

それぞれを量って混ぜておきます。

樽の底に混ぜた糠等を敷きます。
大根を隙間の内容に並べて、その上に糠等を被せます。

大根が3段ほどになりました。
大根が見えなくなるほど糠等を被せ、最後に塩を一握りふります。
蓋をして重しを載せます・・・。あつ、樽の内側に漬物用のビニール袋をセットして大根を入れる予定でした!
ビニールを使うのを忘れてました!

やむなく水漏れ防止に樽の外側にビニールを被せることにします。
重しを17キロほど載せます。
水が上がってくるかどうかが勝負です。
水が上がってくれば、1月中にも食べられるのではないでしょうか。