アンナ・カリーナの美しさ!「女と男のいる舗道」㏌上田映劇

上田映劇で「ジャン=リュック・ゴダール反逆の映画作家」(2022年)公開を記念に、ゴダールの初期作が3本上映された。
そのうち「女と男のいる舗道」に駆け付けた。

当日の劇場前ディスプレイ

本作はゴダールの長編4作目で、アンナ・カリーナのゴダール作品出演3作目にあたる。
二人は1961年の「小さな兵隊」の後にゴダールの熱烈なアタックにより結婚していた。

長編第1作の「勝手にしやがれ」をモノグラム映画社(B級専門のハリウッド映画会社)に捧げ、第3作目の「女は女である」をハリウッドミュージカルに捧げたゴダールは、4作目の「女と男のいる舗道」をB級映画に捧げている。

2作目の「小さな兵隊」はアルジェリア戦争をモチーフにした独自の政治的スタンスに基づくオリジナルな作品だったから除くとして、ほかの3作品はアメリカ映画のスタイルへの仮託を標榜した作品が続いていたとことになる。

この事実には、前提として映画批評家ゴダールの深い映画的経験と、その志向(アメリカ映画のそれもB級映画が好き)があるにせよ、映画監督としてのキャリアの浅さからくる自信のなさがうかがえる。

長編劇映画を作ることは、収益上の責任を持つということで、ヒットすることが劇映画の監督を続けられる必要条件となる。
ゴダールは、目くるめくストーリー性があるわけでもなく、集客力のあるスターが出ているわけでもない自身の作品を、既存のカテゴリーに仮託して観客に提示せざるを得なかったのだろう。
自虐的であるとも、客観的であるともいえる行為である。

劇場前の上映予定看板

「女と男のいる舗道」 1962年  ジャン=リュックゴダール監督  フランス

この作品、はるか昔に16ミリ版のフィルムで見たことがある。
暗い画面に、アンナ・カリーナがうつむいてばかり、という印象だった。
暗いのは内容ばかりではなく、映写機によって映し出される画面が物理的に見えずらいのだった。.

この度上映されたデジタル版では、映像がクリアに抜けていて、明るい場面でも、暗い場面でも、中間の場面でもその通りに再現される。
いい時代になった。

チラシより

当時22歳、若さはもちろん、本来の可憐さが残るアンナ・カリーナ。
初々しく緊張した「小さな兵隊」、天真爛漫な「女は女である」を経て、若さの中に憂いと陰影を加えた表情を見せる。
「気狂いピエロ」「メイドインUSA」などカリーナ=ゴダール時代の後期作では疲れと不機嫌さが目立つ(ゴダールとの離婚後の作品ということもあるか?)カリーナにあって、その若々しさが残る最後の作品なのかもしれない、(「離れ離れに」は未見だが)。

この作品でのゴダールのカリーナに対する視線は、「小さな兵隊」における、まるで自主映画の監督が主演に連れてきた女優に対するような憧れを隠せないようなもの、から、カリーナの内面に迫るものに変化している。

カリーナの髪形、衣装、メイクはかなり凝っており、短髪(かつら?)、アイシャドーを施したばっちりメイクは、映画が進むにつれ濃くなってゆく。
若々しいカリーナの肌は濃い化粧のノリもよく、また化粧負けしてもいない。

チラシより

愛するカリーナに、夫と別れて出奔し、家賃も払えないほど困窮し、友達に誘われて街娼となり、ヒモにいいように翻弄される女性を演じさせるゴダール。
カリーナは、カール・ドライヤーのサイレント映画「裁かるるジャンヌ」を見て涙し、カフェで自分を見ていた哲学者と会話を交わす。
金もなく、街娼の境遇にまで至った女性だが、自らの内面を見つめようと無意識にせよ模索し続ける。

ゴダールは突き放した視線で、カリーナ扮する無垢な女性の内面を捉え続ける。
同時に、ジュデイ・ガーランド(カリーナが務めるレコード店で客がそのレコードをオーダーする)、エリザベス・テーラー(カリーナの背後にポートレートが貼ってある)などゴダールのアメリカ映画趣味が垣間見られたり、「突然炎のごとく」公開の劇場に並ぶ観客の実写カットなどの楽屋落ち(仲間のフランソワ・トリュフォー作品なので)があったりもする。

カリーナは本作での自分の姿を見て、きれいに撮れていないと激怒し、ゴダールとの離婚の一因ともなったという。
客観的に見てアンナ・カリーナの若き日の代表作ともいえる本作は、彼女の表面上の美しさだけではなく、内面の葛藤もとらえた画期的な作品である。
カリーナの無理解は、映像的なものからくるのではなく、その内面に迫ろうとした作風に対するもののようだ。

講談社現代新書

講談社現代新書「ゴダールと女たち」(2011年刊 四方田犬彦著)では、本作について「ゴダールがこのフィルムで試みたことは(中略)みずからの眼差しによってアンナの身体の内側に隠されている魂の美しさを引き出し、画面に定着させてみせることだった。(攻略)」(同書 P68)と評している。

同書目次

ゴダールのその試みは十分達成され、「女と男のいる舗道」は22歳のアンナ・カリーナの姿が永遠に刻印された記念碑的作品となった。

ゴダールとカリーナのコンビは、映画史上では、スタンバークとデートリッヒ、溝口健二と田中絹代、小津安二郎と原節子、に比べることができるのかもしれない。
ヒッチコックとグレース・ケリーというコンビもあった。
いずれも手練れの業界人同士によるビジネスカップル(小津と原はプラトニックな関係。ヒッチコックは一方的な横恋慕)だが、結婚までいったゴダール組はある意味正直で素人っぽかった。

アンナ・カリーナはゴダールとの結婚期間中からそれ以降、ゴダール以外の多彩な監督作品に出演している。
「輪舞」(1964年 ロジェ・バデイム)、「修道女」(1966年 ジャック・リヴェット)、「異邦人」(1968年 ルキノ・ヴィスッコンテイ)、「悪魔のような恋人」(1969年 トニー・リチャードソン)などなど。

このそうそうたるキャリアは、カリーナ本人の才能によることもさることながら、ゴダールの眼を通して探求、表現されたその諸作品におけるアンナ・カリーナの魅力が、名匠たちにインスピレーションをもたらして実現したもの、と思えてならない。

DVD名画劇場 ハリウッドカップルズ① メリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクス

手許に「ハリウッド・カップルズ」(キネマ旬報社1998年刊 筈見有弘著)という本がある。
1930年代から90年代にかけて、ハリウッドで人気を博したカップル(ビジネスカップルも含む、というかそれがほとんど)について書かれており、キネマ旬報での連載をまとめたものだという。

連載にあたって古い作品や日本未公開の作品を、ビデオで見直し、またニューヨークに毎年通うなどして拾って歩いたという、映画評論家筈見有弘の著作。
内容は個人的作品評論に偏重せず、古い作品群の紹介や映画人の回顧録などの文献からの引用を多用し、記録としても貴重な著書となっている。

「ハリウッド・カップルズ」表紙

この本の最初に登場するのが、メリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクス。
ハリウッドの伝説上のカップルである。

同・目次

「アメリカン・スイートハート」と呼ばれた永遠の少女スター・メリーと、一代の剣劇スター・フェアバンクスは、実際に結婚していたビッグカップルだが、共演作は1929年の「じゃじゃ馬馴らし」ただ一作。
1910年代から人気を誇っていたメリー37歳の、いわば「晩年」の作品となる。

ハリウッド映画史で、初めて名前で観客を集めることができたという、スター第一号のメリー・ピックフォードとは何だったのか。
ここに、スター・メリーの本質に迫った著書がある。
「ハリウッド☆不滅のボデ&ソウル銀幕のいけにえたち」(1980年フィルムアート社刊 アレグザンダー・ウオーカー著)である。

「銀幕のいけにえ」表紙

前書きには、この本のねらいとして、「スクリーンに、またそのスター自身にあらわれでた女性のセクシュアリテイの本質をきわめること。」とあり、セダ・バラ、クララ・ボウ、デートリッヒ、ハーロー、モンローなど10人のスターが取り上げられている。
メリー・ピックフォードが第二章に登場する。

同・目次

1893年カナダトロントで生まれたメリーは5歳で父親を亡くし、以降母親と兄弟を養うべく旅芸人とともに舞台に立つ。
13歳の時、ブロ-ドウエイのプロデユーサーに自らを売り込み巡業団の女優となり、16歳でバイオグラフ社というD・W・グリフィス率いる映画会社に採用される。
清純な少女が好みのグリフィスの眼に敵ったという説があるが、グリフィス作品の常連にはなっていない。

メリー・ピックフォード

1910年代を迎えていた映画界は、全米で1万館を超える映画館(ニッケルオデオン)が大衆的人気を博し、製作側も資本投下を本格化して作品の質的な向上が起こった時期。
当時、俳優の名前はスクリーン上に表されていなく、「巻毛の少女」として大衆に親しまれ始めていたメリーは、はじめてメリー・ピックフォードという芸名をスクリーンに映し、大衆に知らしめた映画俳優となる。

150センチちょっとの身長と童顔。
幼い兄弟の親代わりに過ごしたリアルな幼女時代の体験に基づいた演技力。
巻毛と子供用エプロンの衣装。
これらは、当時の観客が求める少女像にぴったり適合し、小公女、あしながおじさん、不思議の国のアリスなどを題材とするメリー主演の映画はヒットし続けた。

「ハリウッド☆不滅のボデ&ソウル銀幕のいけにえたち」では、この時期のメリーの演技について、古い価値観に縛られ、大衆人気に迎合した少女像を演じながらも、随所に覗くセクシュアリテイについて指摘している。
それらのセクシュアリテイは、決して大衆を扇動し、新たな風俗を出現させるようなものではなく、大衆にとっては彼らの住む裏街のコミュニテイでは日常茶飯事のことだった、と。
それこそがメリーという女優の本質だったのだろう。

メリーとグリフィス(左)

実際のメリーはしっかり者で、契約更新のたびに倍増するギャラの交渉にも抜け目なく、名を成してからは、監督、製作者よりも製作現場で権限を持つ契約内容を要求した。
これはのちに、グリフィス、チャップリン、フェアバンクスとともに映画製作会社、ユナイテッドアーチスツを設立する行動につながる。

また、30歳を超えても少女役を要求される状況から脱しようと、人妻やヴァンプなどの役に挑戦するがヒットはせず、これが1933年に迎える女優人生の終焉につながった。
私生活では3度の結婚。
フェアバンクスとの結婚はお互いに2度目の結婚だった。
生活は堅実で、二人が暮らす豪邸でのパーテイは、ハリウッドスターにありがちな酒池肉林的なものではなかったという。

「じゃじゃ馬馴らし」 1929年  サム・テイラー監督  ユナイト

メリーとフェアバンクス唯一の共演作。
それまで共演作がなかったのは、それぞれが単独で十分商売になったこと、さりながらこの時代になってお互いの人気に陰りが出てきたことによるという。

「じゃじゃ馬馴らし」日本公開時のポスター

シェークスピア原作の映画化。
興行収入、批評共にパッとしない(というか惨憺たる実績と評価の)作品という。

フェアバンクスに鞭をふるうマリー

フェアバンクスの剣劇スターとしての動きはともかく、メリーは伝説の少女役を卒業し、じゃじゃ馬そのものの役を演じている。
そこにメリーの女優としての真価が見られたのかどうか。

結婚したマリーはフェアバンクスから仕返しされる

美人女優としての素地は隠しようがなく、整った美貌のメリーが、父親や妹に当たり散らし、鞭を振り回す。
そこへ財産目当てに駆け付けた頓珍漢な男、フェアバンクス。
相手の気持ちにかまわず、己をしゃべり散らかしメリーに接近。
それならばと、心許すふりをして痛撃を加えようと手ぐすね引くメリー。
まるで実際のメリーとフェアバンクスのカップル像のようにも見える。

堂々たるマリーと苦笑いのフェアバンクス

とおりが良く朗々としたセリフに、大都映画のアクションスター・ハヤブサヒデトのような、ファンタステック!なフェアバンクスのアクション。
正統派美人の気品と貫禄をたたえつつ、リアルなヒステリー演技に徹するメリー。

功成り名を遂げたスター達が、「流した」演技で撮ったフィルムのようでもあり、さりながら一代の名俳優がその実力と経験を示した熟練の「十八番」のようでもあり。

「ハリウッド・カップルズ」では、メリーとフェアバンクス夫婦について、
「(二人の屋敷は)ハリウッドの大使館のような役割を果たしていた。私生活を隠すスターが多い中にあって彼ら夫妻は、ファンあってのスターであるというポリシーを崩さなかった。そうした態度を崩さなかったことによって業界からの信望は厚くファンからも支持された。」と評した。

私生活に問題が多く、今の時代であれば(昔であっても)、性加害、幼児虐待、パワハラ、殺人などの犯罪行為で社会的制裁を受けてしかるべき人間に事欠かなかったハリウッドにあって、これは最上級の賛辞なのではないか。

ヘチマたわし完成?

畑で収穫したヘチマをたわしに加工しました。

適当な長さに筒切りして煮込み、皮を除きます。
この時点で繊維だけになるのですが、繊維には皮の緑色が色濃く残り、種もたっぷり含んでいます。
4~5日の間、水を替えつつ、脱色と種抜きをしました。

もういいかなと思った頃、繊維の水を絞って天日干ししました。
絞った繊維は日に当たって形を回復させてゆきます。

水を絞って天日乾燥させる

ざっと乾いた後は、ストーブの近くに置いて乾燥状態を継続させています。

心配した色残りも少なく自然な感じの色になりました。

乾燥状態では硬く、これで体をこすると痛くないのかな?と思われます、が水を含ませるとちょうどよくなるのかもしれません。

台所で使うにはいいでしょう。

画像を見た小学3年生の孫が興味を示したということです。

完成?したヘチマたわし

上田映劇でジャン・ルノワールの「どん底」を上映

我らがミニシアター、上田映劇がまたまたやってくれた。
ジャン・ルノワール初期の代表作「どん底」(1936年)の上映だ。

今回上映された素材は、4Kレストア版というデジタル素材。
輸入したのは川崎市アートセンター。

川崎市アートセンターは同市麻生区新百合ヶ丘にある、小劇場と上映館からなる、「しんゆり・芸術のまち」を標榜する施設。
小劇場ではミニシアター系の作品を連日上映している。

川崎市アートセンターの2023年9月のプログラム
プログラムの見開き。ロバート・アルトマンの再輸入作品の上映もある

海外のデジタル化した旧作は、近年精力的に輸入公開されている。
ベルモンド傑作選と銘打って「カトマンズの男」「リオの男」などが上映されたり、ミムジー・ファーマー主演の70年代のムード漂う「モア」「渚の果てにこの愛を」が公開されたり、マルセル・カルネ監督の歴史的フランス映画「天井桟敷の人々」が再輸入されたことは記憶に新しい。

これらの作品の日本での輸入元は、キングレコードだったり、個人会社だったりするようだが、いずれにせよ版権が存在し、またフィルムの状態では(日本では)存在しない海外の旧作品を、映画館の大画面のクリアな映像で鑑賞できることは、名画座やテレビの映画放送がほぼなくなった現在、大変貴重である。
川崎市アートセンターと上田映劇には感謝しつつ、駆け付けた。

上田映劇の劇場前案内

「どん底」 1936年  ジャン・ルノワール監督  フランス

「ジャン・ルノワール自伝」(1977年 みすず書房刊)でルノワールはいう。
「シャルル・スパークと私が作り上げたシナリオは、(原作者)ゴーリキイの芝居の原作とは大いに違っていた。われわれはこれを原作者の承認を得るために、ゴーリキイのもとに送った。」(自伝 160P)。

また、「ある役の演技に、すぐ形をつけようとする俳優は、陳腐な形にはまり込む危険を冒している。一個の芝居、一本の映画のいかなる部分たりとも、オリジナルな創造たらずんばあるべからずなのだ。」(自伝 161~162P)ともある。

原作者から映画化の同意が得られたことについては、原作者ゴーリキイが映画を芸術としては全く認めておらず、どうでもよく、送られてきた脚本も読まなかった、との話もある。
ロシア人プロデユーサーからの依頼仕事であるこの作品の製作に際し、ルノワールは熟練の脚本家、シャルル・スパークと共同で脚色して臨んだ。

原作にはない重要な役柄の「男爵」には、舞台俳優にしてフランス高等演劇学校の教授、パリ国立劇場の演出家でもあったルイ・ジューベを起用。
場末のミュージックホールからジャン・ギャバンを見出して抜擢し、ジューベと組ませた。

ジューベが演じた没落男爵。
ギャンブルで遺産を食いつぶし、自殺を決心した夜に泥棒に入ったジャン・ギャバンと意気投合する役柄。
ついにはギャバンらが住む、掃き溜めのような安宿に転がりこんでくる。

この男爵、没落する自身を「人生を振り返っても、その時々に着ていた服でしか覚えていない」と回想するほどで、没落してからが我が人生、といわんばかりの達観した人物。

ルイ・ジューベ扮する男爵(右)、安宿の女将(奥)

名優ジューベが演じる浮世離れしたこの男爵を見ていると、ルネ・クレールの「自由を我等に」で、財閥からもとの放浪者に戻った主人公の晴れ晴れとした気分を思い出す。
また、ルキノ・ビスコンテイの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」で、無賃乗車した主人公の運賃を払い、しばらくは自らの露天商に同行させて去っていった、放浪詩人のようなキャラクターをも。

ギャバンとジューベと子供たち

安宿の経営者は、強欲な老人で、その妻はギャバンとの通じていたりする。
店子たちはいずれも老齢だったり、社会に不適合な人物ばかり。

この安宿の人物たちは、しかしルノワールが創造、演出すると、悲惨なばかりではなく、ユーモラスともいうべき人間味が加わる。
人間は必ずしもその一面だけの存在ではない、というルノワール流世界観の創出である。

再輸入、再公開にあたってのチラシ

カメラは彼らの芝居を丸ごととらえようと、あるいは邪魔しないように、長回し移動撮影でとらえる。
時にピントがずれるのも構わずに。

安宿のどぶに咲く一輪の花たる、ナターシャが意に添わぬ監督官に誘われてガーデンレストランでデートするシーン。
カメラは、べたべたするアベック客などの様子を捉えつつひたすら移動してゆき、ナターシャと監督官のテーブルに行きつく。
まるで舞踏会で繰り広げられる踊りの渦に迷い込むときのマックス・オフュルス(「輪舞」「たそがれの女ごころ」)の移動するカメラのように。

ルノワールは自伝でいう、「男爵は観客にとって親しみ深い存在となり、観客はギャバンと一体化して、男爵の物語を聞こうという気になるのだ。」(自伝 164P)。

ルノワールの「どん底」は、ルノワールとスパークが創造したルイ・ジューベ扮する男爵の物語でもあり、その人物により照射されるギャバンらどん底に住む人間味ある人物らの物語でもあった。

チラシ裏側

蓼科山登山

数年ぶりに蓼科山に登りました。
10月初旬の単独登山です。

数年前の初登山の時は、まだまだ足に自信がありました。
7月に登りましたが、蓼科山はツアー客やグループの中高年女性達であふれており、山頂には遠足に来た佐久穂町の小学生たちまでもいました。

当時は、9合目からの急な岩場に「降りてこられるかな?」と心配しながら登った山小屋おじさんでしたが、小学生の一団に交じり、ワイワイ言いながら降りてきたのを思い出します。

この日の蓼科山全景

数年後の現在は、前期高齢者となり、体に自信はありません。
果たして蓼科山に登れるのか?
ダメだったら帰ってこよう、と思いなおし、重い腰を上げました。

9時に登山口の7合目出発を目指し、携行食のおにぎりを握ります。
ほかに菓子パン1個と200ミリペットボトル1本の水を持参しました。
外へ出ると寒かったので、用意したヤッケのほかに、ジャージの上着を着こみました。
ジャージは登山中一度も脱ぐことはありませんでした。

出発前におにぎりを握って準備

平日の朝9時、7合目登山口に着くと最寄りの駐車場は県外ナンバーの車両で満車でした。
少し離れた駐車場に軽トラを止めます。

7合目付近の登山客はチラホラ。
夏山シーズンを過ぎた今、団体客はいませんでした。

7合目登山口前駐車場。午前9時

鳥居をくぐり、山頂の蓼科神社の参道でもあるのでしょう、歴代に渡って踏み均された登山道を歩きます。
夜の寒気が残った登山道はとても寒く、立ち止まると震えるほどなのでひたすら歩き続けます。
マツやシラカバの天然林が取り囲む登山道は光がほとんど射しません。

登山口には蓼科神社の鳥居が立つ
雷に打たれた?巨木が立つ登山道
登山道には山頂にある蓼科神社への道しるべも

やがて眼下に視界が開けてきます。
女神湖が遥か眼下に見えます。木々は紅葉し始めています。

登山道は大きめの石が転がる急な道になります。
足を取られないように坂を斜めに歩きます。
このルートの最初の難所です。
前を行くのは中高年夫婦。
山小舎おじさんとは同じペースです。
早い登山者は我々をいとも簡単に追い抜いてゆきます。

視界が開け眼下を望む。紅葉越しに女神湖が見える
高山植物が目を楽しませる
日陰には霜柱が残っていた

ゴロ場を抜けると将軍平。
山小舎が開店しています。
9合目に到着です。
ここまで約1時間かかりました。

9合目、将軍平の山小舎。土産物が並ぶテントも立っている

山小舎前のテントにはキーホルダーやTシャツなどをデイスプレイし、髪を後ろで結んだお兄さんが山小舎を切り盛りしています。
頼めば食事も出ます。
有料のトイレもあります。
今朝はマイナス2度だったとのこと。
登山客はここで休憩し、最後の岩場の登りに備えます。

最後の岩場へ向かいます。
文字通り手足を使ってよじ登らなければならない急坂に大きな岩が重なっています。
健脚でバランスのいい人はひょいひょい登ってゆきます。
岩と岩をひょいひょい伝って下ってゆく人もいました。
健脚でもあり山で鍛えられている人です。

9合目からは岩場になる

急な岩場の登り体力も消耗します。
自分のペースを意識しますが時々立ち止まらざるを得ません。

思い出してナンバ歩きをやってみました。
ナンバとは日本古来の体の使い方で、足と手を同時に出す歩き方などを言います。
本で読んだだけのニワカですが、例えば下半身の動きを足から下の筋肉にだけ任せるのではなく、骨盤や上半身とも連動させて行うことだとすると、こういった急坂の上り下りには有効だと思いました。
大きめの段を下りる時など、自然に足と手を連動させますが、ああいった動きのことだと思います。
心持、登る速度が上がったような気がして、励みになる山小舎おじさんでした。

急な岩場には鎖も
岩場から眼下を望む

山頂に至る岩場は、崩れる心配もなく大勢の登山客の足場になっています。
昔から昇りやすいよう、岩が崩れないように整備されていたことがうかがわれます。
先人たちの思いと努力に感謝です。

頂上が見えてきた

ようやくの思いで山頂に着きました。
標高2530メートルの山頂は風が強くて寒く、大きな岩がゴロゴロしています。
ここでおにぎりを食べるのは早々に諦めます。
10月の天気はあくまでも天高く、八ヶ岳の山並みや眼下の町々がクリアに見えます。

頂上に建つ山頂ヒュッテ
頂上から八ヶ岳連峰を望む

三角点まで行って記念撮影していると、次々に撮影を頼まれます。
その中の舞鶴から来たという60歳過ぎの男性と話しになりました。

頂上から下り、将軍平の山小舎前の陽だまりでおにぎりを食べながら改めて話しました。
この男性は、退職後の趣味で登山をしており、今回は木曽駒ケ岳などに行ってきたとのこと。
退職後の第二の人生についての話しになったので、三々五々、此方の現状も伝えると、男性は山小舎おじさんの単独田舎暮らしに驚き、「奥さんの理解がなければできませんねえ」といいました。
「お互いやりたいことはできるうちにやろう」とエールを交換して別れました。

頂上の岩場を三角点へと向かう
頂上の三角点に建つ標識

下りは体に負担がかかりました。
将軍平でのおにぎりの後、山小舎でコーヒーなど飲んで休養をたっぷりとったのですが、ほぼ休みなしで歩いた下りは足腰にきました。
最後は足の筋肉が言うことを聞かなくなる寸前でした。

同行者がいるなど目的や気晴らしがないと登山は楽しくないこと。
自分に合ったペースを守ることもさることながら、たっぷり休憩を取らないと体力が回復しないこと、を痛感しました。

軍手が必要だったことにも気が付きました。
登山では、態勢を崩したりして砂利や岩に手を突くことがあります。
素手で登った山小舎おじさんは、手が傷だらけになりました。

足の筋肉が悲鳴を上げた蓼科山登山でしたが、滞留していた体内の気がすっかり一巡したような爽快感を得られたことも事実です。

ヘチマでたわしを作る

畑に2本ヘチマがぶら下がりました。
今年初めて植えてみたヘチマです。

収穫しました。

ヘチマの利用方法は・・・。
実ができたツルから樹液を採ってヘチマ水にする。
実を乾かしてたわし(スポンジ)を作る、しか知りません。
たわし作りにチャレンジすることにしました。

ネットで作り方を調べました。

先ず、適当なサイズにヘチマをカットします。
たわしやスポンジになった時に使いやすいサイズです。

次いでカットしたヘチマを煮込みます。
皮つきのまま自然乾燥させても、あるいは水につけて皮が腐るまで放っておいてもできるそうです。

煮込んだヘチマを自然冷却させて皮を取ります。
よく煮込むと皮はするっと取れます。
煮込みが弱いと、包丁などでむかなければ皮は取れません。

皮の緑色が色濃く、またワタに種をたっぷり仕込んだヘチマが出現します。
このまま乾かすわけにはいかないので、水にさらします。

何日か水に漬けておくと、だんだんに色が抜けてゆきます。
水を取り替えるたびに種が出てきます。
繊維が思ったより強いのでびっくりします。
十分たわしやスポンジになりそうです。

そろそろ色も抜けて、種も出きったようです。
明日から水気を絞って天日乾燥させることにします。

薪割り機出動!

畑が一段落し、暑さも収まった10月。
薪づくりの季節です。
玉に切った丸太を割る仕事の開始です。

今年も薪割り機を借りました。
ちょくちょく斧で手割りしているのですが、手割りだと全部割り終わるのがいつになるのか見当がつきません。
これからは大量の玉を割る時には薪割り機が必要です。

重たい薪割り機をラダーレールを使って軽トラに積込み、山小舎に持ってきました。
2か所にまとめた、玉のそばに薪割り機を移動します。
スターターを引いてエンジンの始動です。

エンジン式の薪割り機の馬力は強力です。
よほどの節でもない限り、ぐいぐい割ってゆきます。
エンジン音がうるさいので、ご近所に気を配り、昼1時間は稼働停止、夕方も4時までには切り上げます。

今日一日で、薪棚にして3列弱の薪ができました。
ナラ材とその他(カラマツ、シラカバ)に分けて積みました。

あと1日やれば、玉はほぼ処理できそうです。

食用ほおずき

酷暑が終わり寒暖差が大きくなった畑で食用ほおずきが伸びている。

夏の暑さと乾燥で苗の伸びがイマイチだった食用ほおずき。
出荷先での評判がいいので、今年は8本ほど苗を植えていた。

9月に入り、樹が伸び始めていたが、成長の遅れは明白で、収量は期待していなかった。
ほおずきの収穫期は初秋。
枝に花が付き、ほおずきの袋がつり下がってくる。
袋が枯れた頃、実が熟する。
熟した実は、甘いだけでなく、酸っぱいだけでなく、独特の味の複雑さと上品さを持つ。
ほおずきの直売所などでの売値は安くはない。

食用ほおずきの実

10月に入った頃の畑でほおずきが伸びていた。
幹は太く重くなり、枝枝が四方に伸びている。
土に付かんばかりに垂れ下がった枝には無数の袋がつり下がっている。

熟するのを待つほおずきの実の数々

これは豊作だ。
このまま幹と枝を放置しておくと今後の着果に影響しかねない。

ということで幹と枝を管理する。
支柱を立てて、改めて幹を縛り付け、枝を支える。
幹は硬く、太く、枝は重い。
時間をかけてくくり直す。

伸び放題のほおずきの枝を管理する

この日は若干の収穫もあった。
10月の第一弾として出荷する。

試食したほおずきの味は例年にも増して独特の味わい。
これはいい!

この日収穫したほおずき

実りの秋

令和5年も実りの季節を迎えました。

暑かった夏。
暑すぎて外出する気にもならなかった8月、9月ですがその間にも季節は進んでいました。
田んぼはいつの間にか黄金色に波打っていました。

刈り取った稲をハザに干す風景があちこちで見られるのも信州ならでは。

直売所やスーパーには早くも新米が出ています。
あちこちの畑では夏野菜の終わりの時期を迎え、秋物の大根が育っています。
山小舎おじさんは夏の暑さにやられて、今年は秋野菜の作付けはできませんでした。

手前にコスモス、後ろにハザの風景

信州はいよいよ実りの時期の最終章を迎えます。
お米が採れてリンゴの収穫期を迎えるといよいよ実りの季節の終わりです。

第26回蓼科高原映画祭 「秋日和」と岡田茉莉子

今年も蓼科高原映画祭が開かれた。
毎年、茅野市の2会場で1週間ほどに渡って開かれる映画祭。
蓼科の別荘でシナリオを練った小津安二郎を記念して開催され、小津作品出演者などの豪華ゲストが訪れる。

第26回蓼科高原映画祭のプログラム

今年のテーマは、蓼科と野田高梧・小津安二郎。
例年にも増して小津作品を多数上映し、メイン会場の茅野市民館では蓼科の別荘と野田、小津の写真展が開かれるなどした。

上映スケジュール

今年のゲストは岡田茉莉子。
出演作「秋日和」の上映後にトークショーがあるとのこと。
メイン会場の茅野市民館に駆け付けました。

茅野駅から続くコンコースに葉映画祭の幟が

ロビーにはボランテイアの茅野市民が受付などに展開、中庭には「もてなし」のテントも張られています。
諏訪地域でいう「もてなし」とは、御柱祭の山出しなどの時に沿道の住民が祭りの参加者に差しれる風習を言います。
この日のテントでは、コーヒー、ポップコーンのほか、寒天菓子、豚汁などが無料でふるまわれていました。

茅野市民間受付のレイアウト

立派な舞台を持つ市民館のホールに入場します。
例年、ゲストのトークショーは盛況で、かつて市内の現存映画館・新星劇場で行われた司葉子さんのトークショーは満員だったのを思い出しましたが、市民館のホールは収容人数が多いのか、この日は7,8割の入場者でした。

舞台では短編映画コンクールの入選作品とその監督の紹介が行われていました。
最後にコンクール審査委員も舞台に出てきて、審査委員長の伊藤俊也監督も登壇しましたが、姿勢がすっかり老人となっており時間の経過を痛感しました。

受付横の手書き看板

「秋日和」上映の前に関係者のトークショーがありました。
小津監督の甥の長い秀行さんと、「秋日和」の撮影助手だった兼松さんの対談です。

寡聞にしてお二人のことを知らなかったのですが、兼松さんは松竹撮影所で小津組の「専属」だった厚田カメラマンの助手として「彼岸花」以降の小津作品に参加したとのこと。
既に高齢で杖をお使いながらも、撮影所育ちの活動屋の匂いを感じさせる方。
スタッフ思いで、ユーモアのある小津監督のエピソードを語ってくれました。

市民館ホール入り口の様子

「彼岸花」 1960年  小津安二郎監督 松竹

そして「彼岸花」の上映。
デジタル修復版で色彩も完璧に再現されている。

原節子の小津作品最終出演作であり、東宝の司葉子の小津作品初出演。
また重要な役を演じる岡田茉莉子の小津作品初出演作でもある。
端役ながら岩下志麻も出ている。

豪華絢爛な女優陣を他社からも招き、自社の若手を厳選してのカラー作品。
小津作品のこういった傾向は「彼岸花」(1958年)からなのではないか。
山本富士子(大映)、久我美子(フリー)、有馬稲子、田中絹代(ともに松竹)らを並べたカラー作品「彼岸花」の華やかさは今でも忘れられない。

対する男優陣。
晩年の小津作品には自らを揶揄したような初老(といっても当時の実年齢は50代の設定と思われる)の社会的地位のあるおっさん方が数人出てくる。
「秋日和」では佐分利信、中村伸郎、北竜二の3人。
それぞれ会社重役だったり、大学教授だったりする。
大学時代(東大)からの仲間の未亡人と娘(原節子、司葉子)と七周忌で再会した場面から話が始まる。

適齢期を迎えた亡友の娘を心配し、未亡人となった大学時代のマドンナの再婚を気にするおっさん達。
類型的な心配ではなく、老いて未だに心残りな若き時代のマドンナに対する私的心情が混じってのことである。
要は暇な爺たちのエロ話がこの作品の一つのテーマなのである。

こういったテーマを庶民的に、あるいは通俗的に処理すると、みじめだったり生臭かったりするが、演劇界の重鎮(中村)や正統派の二枚目(佐分利)にやらせ、かつ設定も中流上の悠々自適な人物設定なのだから、そこは生臭さとは無縁。
かえって小津独特のユーモアが生きてくる。

また、爺の価値観にべったりではなく、分析・批評を加えるのも小津流。
「秋日和」では司葉子の友人役で起用した岡田茉莉子がその役割を担う。
岡田は爺たちの、悪意こそないが勝手な振る舞いに翻弄される友人(司)を見かねて、爺たちの本拠(会社の重役室)に乗り込み、ストレートに言いたいことを言って最後は爺たちに謝らせる。

ここのシーンは、岡田茉莉子らしい歯切れのいいセリフの連発で、観客からも同感の笑いが起こる。
爺たちの退屈まぎれの勝手な振る舞いにうんざりしていた観客の気持ちをすっきりさせるとともに、小津自身の自身に対する客観性をうかがわせる大事な場面である。

当時の地位のある爺たちのふるまいに関しては、例えば「彼岸花」での佐分利信の着替えシーンが思い浮かぶ。
会社から帰ってきた佐分利は、結婚前の娘(有馬稲子)の行動に上から目線で文句を言いながら、背広、ズボン、ネクタイと畳の上に脱ぎ捨てる。
着物姿で片ビザついて控える妻(田中絹代)がかいがいしくそれらを拾ってはハンガーにかけたりする。

昭和時代に育った山小舎おじさんでもそういった爺の姿を実見したことがないのだが、中流上の家庭では、そうだったのかもしれないと思わせる、昭和の時代の爺たちを分析するに足る描写である。

「秋日和」でも中村伸郎が帰宅後、背広とズボンを脱ぎ捨て、ハンカチを取り出して放り捨てる。
片付けるのは妻の三宅邦子の役目なのだ。
山小舎おじさんの世代でそんなことをしても、翌日まで服はそのままの姿で残っていただろうし。
さらにその下の世代となると、妻(パートナーといわなければならない)から不思議そうな顔をされるのが落ちなのであろう事実に時代の流れを感じざるを得ない。

そして小津作品永遠のテーマである家族の崩壊。
「晩春」「麦秋」「東京物語」。
紀子三部作といわれ、原節子が主演してきた小津の代表作のテーマはいずれも、家族の崩壊を通して描く、人間はしょせん一人だという、寂しく残酷な人生の真実だった。

「秋日和」では娘の結婚で残された未亡人の孤独が余韻となる。
紀子三部作ではいずれの作品でも、自分が出て行く(残された家族の崩壊が想定される)側の人間を演じた原節子が、残された側を演じている。

日本映画全盛期の文化遺産のような作品。
こういった作品を残してくれた小津安二郎と松竹撮影所に感謝したい。

映画祭プログラムより、上映する小津作品の解説

岡田茉莉子トークショー

「秋日和」の上映が終わり、岡田茉莉子のトークショーとなった。
果たしてどんな岡田さんが出てくるのかと少し心配した。
杖もなく歩いて壇上に現れた。
思ったより小柄である。
歩き方は少しよちよちしている。

トークの相手は、10年前の小津没後50年を記念したNHK番組を演出したデレクターで、その際にも岡田本人と、存命だった吉田喜重監督にインタビューした関係とのこと。
岡田単独でのトークはもう無理かもしれない。

耳がかなり遠くなっており、質問が伝わるまでに時間がかかったりしたが、いざ話となると立て板に水のようにスムースで内容的にも焦点のあった話ぶりだった。

「秋日和」のセットでは元気よく挨拶して明るく振舞ったこと。
本作の共演者で演技的に感心した人はいなかったこと。
小津作品では小津監督の演出以上のことをしてもダメなこと、ただしセリフのテンポだけは自分で工夫して事。
「秋日和」で爺さんたちをやりこめる場面は自分でも好きなシーンなこと。
小津本人から小津組の1番バッターだといわれてうれしかったこと。
当時の松竹大船撮影所は同時に6作品を制作しており、計600人ほどのスタッフが常に駆け回っており、活気に満ちていたこと。
松竹は監督にも物言える雰囲気で家庭的だったこと。等々

最後に今後とも映画をよろしくお願いします、と言い残した岡田さん。
映画女優としての矜持、プライドを全身にまとい、また映画全盛期を知る女優の言葉として重みがありました。

市民館中庭でのもてなしテント
もてなしのコーヒーを飲みながらアンケートに記入