高田馬場から九段下まで

ある春爛漫の日、早稲田通りを散歩しました。

高田馬場駅で降りて早稲田通りを歩きます。
賑やかな高田馬場駅周辺を抜け、明治通りを超えると、学生街の雰囲気が漂います。

ここら辺、20年前は古本屋が軒を連ねていたのですが、今では数軒から10件未満が残るばかり。
代わって飲食店の出店が目立ちます。

早稲田界隈の古本屋には、左翼思想や沖縄問題などの専門店があったり、値段が安かったりして、覗くのが楽しみです。
この日も映画関係の本や戦後の対米慰安婦関係の本を買ってしまいました。

更に早稲田通りを下り、穴八幡神社のある交差点を過ぎると、キッチンオトボケがありました。
ここで昼食です。カツカレーは720円に値上がりしていましたが、ボリュームとルーの味は変わりありませんでした。
店内のスタッフは、変わらず元気なビルマ?人の若者たちでした。

この日もにぎわっていたキッチンオトボケ
カツカレーは変わらぬ味

神楽坂方面へ歩きます。

ここからは主に和菓子屋、お茶屋、パン屋を覗き、適当なお土産を探しますが、値段が高い!ので断念。
名画座とピンク映画館があった路地へと進みました。

名画座(今ではミニシアターといわれる)のギンレイホールが閉館になっていました。
場所を移して再開するとのことですが、また一つ昔ながらの映画館がなくなりました。
ピンク映画館は数年前に閉館しています。

閉館していたギンレイホール

この後は飯田橋駅を横に過ぎて、青森県会館にあるアンテナショップを覗いてから九段下まで歩きました。

靖国神社の鉄製の大鳥居(必要以上に大きくないかい?)を見ながらベンチで休憩。
都営新宿線で帰りました。

「レッドパージ・ハリウッド 赤狩り体制に挑んだブラックリスト映画人列伝」を読む

先日「ハリウッドとマッカーシズム」という本を読んだばかりの山小舎おじさん。
続いて「レッドパージ・ハリウッド」という本を読んでみた。

なぜに映画界が赤狩りの主なターゲットとされたのか?
そこにはユダヤ人などへの差別はあったのか?
それとも左翼勢力と「民主国家」アメリカの価値観との覇権争いが本質だったのか?否か。

「レッドパージ・ハリウッド」 2006年 上島春彦著  作品社刊

定価3800円、399ページの大著を吉祥寺の古本屋で2000円で思い切って購入。
帯に「映画ファン必読の労作ー蓮見重彦氏絶賛」の文字が踊る。
本のタイトル、ボリュームからして、ハリウッド赤狩りの歴史的経緯と評価が体系的、時系列的に網羅された内容を連想する。

目次

読んでみて、著者がハリウッド赤狩りの歴史的、時系列的解説に興味のないことがすぐ分かった。

本書は、チャップリンがドイツからの亡命人作曲家で左翼のハンス・アイスラーにかかわりがあった、という話から始まり、「ライムライト」撮影後に共産主義者としてアメリカを追われたチャップリンの話へと続く。

その後も赤狩りの時系列的、歴史的経過に著者の関心はなく、ジョン・ガーフィールド、ベン・マドウ、フィリップ・ヨーダンといった俳優、脚本、製作者の個別の話が続く。

これらの登場人物は、赤狩りの犠牲者だったり、赤狩りでブラックリストに載った脚本家の「フロント」(名義貸し)だったり、一連の「赤狩り事象」に深く関係した人たちだった。
が、日本ではあまりなじみのない人物でもある。

著者は彼らの経歴のみならず、演劇・映画の作品の背景(作品完成に至る、人物関係、業界関係など)に分け入り、また枝分かれした先の情報をたどってゆく。
そこに確証のない情報だったり、著者の推測が混じる。

第一次、非米活動委員会に召喚された19人

本書「はじめに」によれば、「著者の関心は普遍的部分にはなく」また「本書は基本的には年代記ではなく人物伝の形式をとる」とある。
本書はハリウッド赤狩りに関心のある初心者用に書かれたものではなく、ある程度の時系列的事実を押さえた者でかつ映画史の周辺に興味を持つマニア向けに書かれたものだ、ということがわかる。
なるほど蓮見重彦氏が推薦文を書くはずである(文体、文脈も蓮実氏と似ている)。

赤狩り時代を題材にした、ハリウッド人物伝として読めば、豊富な裏話(確証のないものも含めて)に溢れる本書は確かにマニアにとっては面白い。
本書が採り撃揚げた人物には以下のような映画人がいる。

  ジョン・ガーフィールド 俳優

1913年ロシア系ユダヤ人の移民の息子としてニューヨークに生まれ、ストリートキッズとして少年時代を過ごし、16歳の時にメソッド系の演劇レッスンの練習生となる。
左翼系の演劇集団グループシアターで売り出し、ハリウッドに進出。
自らの経歴を生かすようなストリートキッズ役で脚光を浴び、ジェームス・ギャグニーの後継者としての評価を得る。

独立プロを作ったガーフィールドは、エイブラハム・ポロンスキー脚本、ロバート・ロッセン監督で代表作「ボデイアンドソウル」を製作する。

1951年、共産主義シンパとして非米活動委員会の召喚を受けたガーフィールドは、自らを「共産主義者でもないし、その思想に共鳴もしない」と議会で証言。
ただし、仲間の名前を出すことは拒んだ。

第二次、非米活動委員会で証言するガーフィールド

1952年、ガーフィールドは知人女性の部屋で死亡。
自死ともいわれたが、最近では持病の心臓発作によるものと思われている。
赤狩りのストレスが間接的な死因であることは自明。

フィリップ・ヨーダン 脚本家、製作者

1914年シカゴ生まれのポーランド系ユダヤ人。
「犯罪王デリンジャー」(1945年)を製作しヒット。
「大砂塵」「折れた槍」「バルジ大作戦」などの脚本、製作を経て1990年代まで映画製作に関与した人物。

筆者が特に関心を寄せたのは、このヨーダンがブラックリストに載った脚本家を起用し、そのフロントとなったことが多々ある(のではないか)という点。
「最前線」の脚本でブラックリスト作家ベン・マドウのフロントを務めたとのこと。

このヨーダンなる人物、メジャースタジオの内部で働いてきたわけでもなく、脚本家としての実績もあいまいで、いかにも胡散臭い人間(独立系映画プロデューサーとはかような人物をさす)。
著者にとっても、どの作品がブラックリスト作家のフロントだったのか確証がない。

本書からは「いかがわしい映画人」以上のヨーダン像が伝わってこない。
ただし、日本人がほとんど論評してこなかったヨーダンなる映画人に、スポットライトを当てた点だけは意味があるのかもしれない(まったく意味のないマニアの自己満足なのかもしれないが)。

怪人フィリップ・ヨーダン

   エイブラハム・ポロンスキー  脚本家、演出家、映画監督

ユダヤ系の薬剤師の家庭に生まれ、社会主義の家風に育ちコロンビア大学を出て弁護士の資格を持っッテイタポロンスキーは、小説家志望から劇作家となり、ハリウッドでの活動に至った。
主に脚本家で活躍する。
監督処女作は「フォースオブイーグル」。

エイブラハム・ポロンスキー

1951年には盟友ジョン・ガーフィールドに次いで非米活動委員会の召喚を受けた。
ガーフィールドを除く仲間の密告によるものだった。

ポロンスキーは筋金入りの共産主義者で、人種差別と偏見に基づく非米活動委員会の召喚リスト中でも「唯一追放に値するハリウッドの共産主義者」といわれた。

ブラックリスト入りで早々にハリウッドを離れたポロンスキーはニューヨークの演劇界に戻り、50年代をテレビの台本執筆などで過ごした。

この時期1959年にはロバート・ワイズ監督、ハリー・ベラフォンテ主演の「拳銃の報酬」でノンクレジットながら脚本を書いている。
「拳銃の報酬」は、偏見に満ちた白人が、犯罪仲間の黒人と協同する中でお互いの理解に至るまでを描いた犯罪映画。
著者は「善意の黒人を白人が受け入れる、というそれまでのプロット(「手錠のままの脱獄」などでシドニー・ポワチエが演じる善良な黒人のイメージ)から一歩進んで、ありのままの黒人が白人の理解を得る、という、より進歩的なプロットを描いたもの」(山小舎おじさん要約)と評価している。

  エリア・カザン 演出家、映画監督

トルコ、コンスタンチノーブル(現イスタンブール)出身のギリシャ系。
移民とはいえ絨毯で財を成していたおじさんにより裕福な生活を送る。
学生時代から演劇に親しみ、左翼系演劇集団グループシアターでジョン・ガーフィールドなどと親交を結ぶ。
この時期に共産党に入党し、のちに脱退。

1952年非米活動委員会の召喚を受けたカザンは、委員会の活動を全面支援するとともに、共産党シンパの名前を10名近く挙げた。

この密告について著者は、「ハリウッドで監督として商売する以上は、非米活動委員会に協力するよりほかにない」(山小舎おじさん要約)状況だったと述べている。
事実、密告したエドワード・ドミトリクもエリア・カザンも、ロバート・ロッセンも、もともと監督としての実力があったにせよ、(密告をした)50年代以降の監督としてのキャリアはそうそうたるもので、非協力を貫いたポロンスキーとは見事な対比を見せている。

陸井三郎著「ハリウッドとマッカーシズム」中のアーサー・ミラーによっても、本書著者の上島春彦によっても、「救いようがない」と両断されたカザンの行動。
仲間を売るという行為が、ハリウッドで演出家が生き残るための当時唯一の手段だったとはいえ、その後も自分の裏切りに開き直り、売った仲間を誹謗し続けたカザンの人間性を非難している。

また、著者はカザンが自伝やのちのインタビューで盛んに強調したという、「自らの移民としてマイノリテー性」なる「被害者意識」にしても、恵まれた幼少時代からの生活ぶりなどを理由に切り捨てている。

  まとめ

時系列を無視し、著者の興味と知識(確証がない部分も含めて)の赴くまま、自在に時空を超えて展開するブラックリスト人の映画ワールド。
混乱する展開が多々あるとはいえ、「映画マニア」としての著者が思わず熱を込める筆致が、えもしれぬ魅力を発していたのも事実。
本書の切り口、端はしに顔を見せるマニアックな豆知識の数々。
例えば・・・。

ブラックリスト中では有名人のドルトン・トランボが、「ローマの休日」の原案者だった?とか、トランボの別名執筆といわれている「黒い牡牛」だが、背後はそんな単純なものではなさそうなこ話。

「ボデイアンドソウル」のユダヤ人母親役が「緑園の天使」でエリザベス・テーラーの母役を演じた個性的なアン・リヴェアという女優である話。
などなど。

ドルトン・トランボ

何やかんや言いながら、映画ファンの端くれ・山小舎おじさんもつかの間、映画の光と影にが作り出す渦に巻き込まれ、夢を見させてもらったような読後感でした。

筆者の関心は、ユダヤ人問題にも、左翼問題にもなく、ひたすら映画マニア的な人物関係にあったような気がします。
本書の値段が高いのは読者層が非常に限られているからでしょう。

 

藤純子「女渡世人おたの申します」

ラピュタ阿佐ヶ谷の、令和4年から5年にかけての年越し企画、2か月にわたる「血沸き肉躍る任侠映画」特集があった。
藤純子主演の「女渡世人おたの申します」を見てきた。

「女渡世人おたの申します」 1971年 山下耕作監督 東映

「おたの申します」とは「よろしくお頼み申し上げます」をやくざ風の言い回しにしたもので、藤純子は「女渡世人」「緋牡丹博徒」などの主演シリーズ中、仁義を切るシーンで使っている。

「女渡世人」シリーズは「緋牡丹博徒」シリーズをヒットさせた藤純子による新シリーズ。
「おたの申します」はその第二弾。

監督は東映京都撮影所で「将軍」と呼ばれた山下耕作。
脚本は「仁義なき戦い」シリーズでやくざ映画の新境地を切り開いた笠原和夫。

重要なわき役に島田正吾と三益愛子を配しており、東映プログラムピクチャア中では異色にして鉄壁の布陣。
映画は期待にたがわぬ完成度の高いものだった。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーに飾られた本作のポスター

「緋牡丹博徒」シリーズなど、藤純子主演の任侠映画のパターンは、仁義を通して渡世稼業(ばくち打ち)に生きる女渡世人の藤が、悪徳やくざの理不尽な所業に耐えかねて殴り込み、日ごろ藤の応援団を自任する親分(若山富三郎)が助っ人に駆け付けるなどして悪漢をやっつける、というもの(だと思う)。

「おたの申します」ではそのパターンを一ひねり。
藤は主なストーリーのむしろ脇に回り、理不尽な所業に苦しむ渡世人(ばくち打ちではなく、正業を営んでいる)を島田正吾が演じて、正統派の芝居をたっぷり見せる。
その妻役の三益愛子による、大時代的ではあるがそれでも抑えた演技も任侠映画に枠を超えて見ごたえがある。

当日のラピュタ阿佐ヶ谷のロビー風景

「男はつらいよ」シリーズでもパターンが煮詰まっていた時期に、浅丘ルリ子扮する場末の歌姫・リリーを創出し、道東を走る夜汽車の中で寅さんと邂逅させたり、東京の場末の街でリリーが実母に金をせがまれたりする場面によってリリーの「異色な」キャラ付けを行い、シリーズに新境地を開いたことが思い出される。

「緋牡丹博徒」シリーズで藤がバッタバッタと悪漢を斬り伏せるというファンタジィに疲れた東映が、ここは藤のスーパーウーマンぶりを抑えて、しっとりとした人情の世界を描き、シリーズの世界に厚みを持たせよう、としたのが本作ではなかったかと推察する。

ロビーに飾られたポスターより

悪漢の理不尽に耐える正義の人、の役柄は島田正吾がしっかり演じ、盲目の妻・三益愛子は藤を息子の婚約者と思って情けをかける。
不肖の息子はとっくに殺され、藤は婚約者でも何でもない渡世人だと知りながら。

その状況に悩む藤は、威勢のいい女渡世人ではなくて一人の若い女として描写される。
とはいっても堅気の女衆は決して、やくざの藤を受け入れない。

ラストシーン、堪忍袋の緒を切って悪漢に殴り込み、しょっ引かれる藤に、ただ一人三益愛子が思わず「お前は本当の(義理の)娘だと思っている」と声をかける。
思わず「おっかさん」と叫ぶ藤。

「義理と人情」の虚構の話が「真情」に変わった瞬間。
母親の愛を知らずに育った女渡世人が弱弱しい年相応の娘に戻り、母を慕う心情を吐露した瞬間だった。

「日本映画全作品の鑑賞が目標」といい、ラピュタ阿佐ヶ谷の客席でも時々見かける、落語家の快楽亭ブラックが生涯ベストテンで第二位にランクした作品。
いつどこのメデイアに、だったのかは覚えていないが。

特集パンフの作品解説

令和5年のお雛様

令和5年の3月3日。
お雛様を祝ってちらし寿司を作りました。

孫娘2人のお祝いです。

前日に干しシイタケを戻しておきました。
当日朝に、かんぴょうを熱湯で戻します。
ごぼうをささがけにし、ニンジンを切り、油揚げを熱湯で洗います。

シイタケの戻し汁にこれらの具を入れ、砂糖、しょうゆ、酒、みりんなどで炊き合わせます。
具の味が出来上がりの寿司の味を決定づけるので、念入りに味付けします。
若干濃い目、甘めが好みです。

炊きあがった具材は、かんぴょうとシイタケを細かく切っておきます。

米を5合、昆布を入れ酒を垂らして炊きます。
若干硬めの水量にします。

炊きあがりをおひつに開けて、ヘラで切ってゆきます。
全体を切ると同時に、すし酢を合わせてゆきます。
うちわで湯気を飛ばしながら行うのが理想ですが、おひつが余分な水分を吸収し、また保温、保湿してくれます。

酢飯を味見してOKならば、炊きあがって冷ましておいた具を投入して混ぜ合わせます。
具は煮汁を絞らず、むしろ若干の煮汁をまぶすようにして酢飯に混ぜ合わせます。
この時にちらし寿司の味が決まります。

味見をしてOKならば、飾りつけの具材を乗せてゆきます。
飾りつけは青、黄、赤が基本。
今回は、キヌサヤを甘酢で茹でたもの、錦糸卵、でんぶとしました。
ほかにレンコンの薄切りを甘酢で茹でたものも加えました。

半分を孫たちに持って行き、半分を自宅で食べました。
大好評でした。

2月の山小舎

令和5年。
2月下旬に山小舎の様子を見に家族と行ってきました。

毎年、冬の間も、月に1回は山小舎の様子を見に顔を出すようにしています。
心配なのは積雪と、水道関係の凍結です。

上水道は水抜きをしてゆくので大丈夫として、複雑な排水関係が一部凍結していることがあるのです。
この3月に、娘一家が雪遊びに来たいとのことなので、冬の山小舎の下見も兼ねての山小舎行です。

高速道路を下り、茅野市内から大門街道を白樺湖方面へ上ります。
標高が上がるにつれ、路肩に残雪が見えてきます。
路面は雪がなく、走行に問題はありません。

大門街道を白樺湖方面へ向かう

白樺湖は湖面が凍結しており、全体がもやっていました。
蓼科山は靄で見えません。

白樺湖畔の風景

大門峠を下り、姫木別荘地へと入ります。
心配していた別荘地内の路面凍結は、別荘地入り口付近ではありません。

姫木別荘地入り口付近

山小舎前の枝道は白く雪が残っていました。
辛うじて雪遊びができそうです。

山小舎への枝道

今回の滞在中は、炭火焼きをしたり、温泉に入ったり、家族でゆっくりしました。
水道関係の凍結は、排水に多少ありましたが1月の時ほどではありませんでした。
今回は排水溝にも不凍液を流し入れて帰ることにしましょう。

滞在中は玄関へのアプローチを雪かき。雪は凍結していた

3日目の朝は晴れました。
新雪に彩られた山小舎周辺です。

3日目の朝の景色
滞在中に若干の積雪があった

3月は第2週に娘一家と来て、山小舎おじさんが常駐を開始するのは第4週目からになりそうです。