地元パワースポット訪問記 VOL.14 長野といえば善光寺

10月27日の信州ワンデーパスの旅で3時間ほど長野市にいた。
気になる市内のポイントを回って、善光寺にたどり着いた。

堂々たる木材の柱が支える長野駅。信州の玄関口だ

 ポイント1、市内の映画館まわり

気になる市内の映画館2館に行ってみた。
権堂通り商店街にある相生座と、駅前の千石劇場だ。

シネコン以外のいわゆる旧来の映画館は、県内には知っているだけで、上田映劇、茅野・新星劇場、塩尻・東座、伊那・旭座がある。
ほとんどが、昔ながらの大スクリーンと多数の座席を有し、フィルム上映も可能な映画館だ。

そういった映画館が長野市には2館残っている。
長野に来た時は、入場しないまでも当該2館の外観だけでも確かめたくなる。
映画鑑賞歴50年のオールドファンの、これがサガなのだ。

相生座。
「小津4K」と「ルイス・ブニュエル」の各特集のとき入場したことがある。
入場者にはまずお茶のサービスがあった。
女性支配人は雑談に応じてくれた。

意欲的なプログラムが目を引く。
なんと明治30年の開業。
現在は3スクリーン制で営業している。

120年の歴史を誇る相生座の正面風景
手書きの宣材が掲示板を飾る。「天井桟敷の人々」をやるのか!

千石劇場。
入ったことはないが、昭和25年開業と歴史は古い。
去年通りかかったときは、「仁義なき戦い」の連続上映のポスターがあった。
フィルム上映もできるのか。
2スクリーン制とのこと。

千石劇場の建物。映画館用に作った歴史ある建物とのこと
プログラムは一般向けだ

 ポイント2、権堂通りと小路

長野の街並みは、善光寺参道を中心に形作られている。
参道へと集まる小路があちこちにある。
参道が光とハレの場所だとすると、小路は日常と影の世界なのか。

市内に数多い小路。しまんりょ小路というところ
お寺への通行路なのか
街角にある銭湯

権堂通り商店街は昔ながらのアーケード商店街で、小売店、食堂などのほかに飲み屋も集まった、商店街と歓楽街が合わさったようなところ。

商店街から長野大通りを挟んだ東側には、善光寺参り客が精進落としをしてゆく、飲み屋、宿が並んでおり、今も名残の飲み屋が軒を連ねる。
聖俗併せのむ長野の歴史を飲み込んだ場所。

商店街の一角を占めていたイトーヨーカドーが撤退した時は、しばらく県内のニュースをにぎわしていた。

権堂アーケード街にあったヨーカ堂の建物
かーけーど街の一角にレコード屋があった
食堂のメニューが食欲をそそる

 そして善光寺

毎年訪れている善光寺。
3時間の長野散歩で街を歩いているうちに、今年もたどり着いてしまった。

参道が尽きたところに山門がある
仲見世通りには参拝客が引きも切らない

やはり長野の町の中心は善光寺なのだと思った。

堂々たる山門が他を圧倒する

参道を善光寺に近づくにつれて、人の密度が高くなる。
平日とはいえ常ににぎわう参拝客。

小学生の一団に追いつき追い越し、大急ぎでお参りだけを済ませる。
帰りの列車は14時半だ。

本堂へお参りしようと小学生の一団が登ってゆく

堂々たる大寺院の造作。
醸し出す伝統の風格。
何度訪れても、にぎやかで、明るさに圧倒される善光寺。

大昔から現在に至るまで、参拝客、観光客が絶えないのも、それなりのありがたさがあるからなのだろう。

折角長野にいるのだから、これからも折に触れて訪れたい場所だ。

真田氏発祥の郷を歩く

上田地方は戦国時代にその名を謳われた真田氏の本拠地だ。

真田氏は、初代が現在の上田市真田町に居城を築き、二代目で上田城に本拠を移した。

初代で歴史に登場したとはいえ、地方のいち土豪として、武田、北条、織田、徳川と有力勢力とつながることで命脈を保ってきた真田氏だったが、上州の領土をめぐって徳川の不評を買い、大軍で上田城を攻められること2回。
そのたびに、謀略、戦略、実力を持って徳川軍を上田城から撃退し、有名を馳せた。

次に、関ケ原の合戦で豊臣方に付いたが、敗戦側の将として幸村らが島流しにあい、上田城も取り潰された。

豊臣と徳川の最終決戦となった、大阪の陣で、幸村は再び豊臣方に付き大阪城の出城・真田丸に布陣。
最終的に出城を撃って出て家康の本陣に突入せんとすること3度。
寸前にて本陣突入を果たせず、幸村は討ち死にした。

徳川方の島津氏が、本国への書簡に「真田、日本一の兵」と記したように、真田の有名は、その後軍記物などで語り継がれることとなった。

真田氏は現在でも上田地方の誇りだ。
初代の居城があったこのあたり、真田を地名を残して現在に至る。
今回は真田の郷と呼ばれるあたりを歩いてきた。

国道144号線沿いに広がる真田の郷。下方上田市街地、上方菅平高原

真田氏本城跡

上田市の北部。
真田町の東方向。
里山のふもとのリンゴ畑のわきの道をたどってゆき、集落を抜け頂へ上る。

本庄麓のリンゴ畑は収穫間近
頂から国道144号線方面を見る

真田の郷から上田方面が一望できる。
あいにくの雨模様だったが、霧が立ち込める山際が戦国時代を髣髴とさせるよう。
あたりに漂う雰囲気もなんとなく襟を正しめるようだった。

雨天のせいか山霧がものものしい
ここから山頂にかけて築城されていたとのこと
頂から上田市街方面を見る

真田氏館跡と歴史館

本城跡を下り、国道144号線へとつながるリンゴ畑に囲まれた集落。
その一角に、真田氏の館跡がある。
館とは土豪らの屋敷のことで、周りに土塁を築き、厩などを持った砦のようなものだったのだろう。

現在は石垣の一部や門の後、土塁後などが残っている。
敷地の中央部には神社が建っている。
館からお城へと居住を替えるにあたり、館跡が荒廃しないようにと建立したとのこと。

館跡に建つ神社

歴史館に入ってみる。
真田氏3代を中心にその歴史が周辺の勢力の遍歴とともにディスプレイされている。

当時の書簡、文書の実物が展示されているのはうれしいが、例えば真田氏の鎧はNHKドラマで使用したものの展示だった。
敗軍の将としてそれらの実物は破棄され、あるいは散逸したのだろうか?
それとも上田城内にある博物館には本物があるのか?
今度、確かめてみよう。

歴史館ロビーには芸能人の色紙が並ぶ

山家神社

真田氏が武運を祈願したというゆかりの神社が郷にある。

山家神社一の鳥居

地方に埋もれた神社の中に、とてつもない尊厳を感じることがある。

山家神社も、普段の人気は感じられないが、隅々まで人出がかけられた感じがする。

本殿を望む
本殿。きれいに整えられている印象

人家が栄えて、神社は埃だらけということもあるだろう。

人家は寂れているが、神社は大事にされていることもあろう。

パワーを感じる山家神社だった。

境内には招魂碑と社も建つ
最近ではこいういったブームもあるようだ

本城、館、山家神社とも、現在でも集落に囲まれて残っている。
真田氏と領民との関係をうかがわせるようだった。

郷から群馬方面へと続く角間渓谷の入口

今日のお土産

途中の直売所で買ったかりん。はちみつ漬けにします
畑で全滅したデストロイヤーが売っていました
家族に好評な真田産の新米を購入

ご近所立寄り湯めぐりVOL.10 下諏訪温泉の矢木温泉に入る

下諏訪町に噴出する下諏訪温泉。集めの源泉は、町内の何か所かの公衆浴場に引かれています。

公衆浴場には、新湯、菅野温泉、矢木温泉などが、町中に点在しています。
また、中山道・下諏訪宿付近には、より観光性の強い、旦過の湯があります。

今回は国道20号線に沿いに看板が出ており、その存在が普段から目についていた、矢木温泉を訪れてみました。

国道20号線の下諏訪町沿道を走っていると見える看板

駐車場は10台ほども止められます。
玄関の造りは、ほどほどに整えられており、地元限定に鄙びすぎてもいなく、観光性を追求した派手さもありません。

収容台数の多い駐車場を完備
つつましやかな入口から入場する

番台には地元の住民と思しき高齢者のおじさんが座っており、また県内のこういった公衆浴場と同様に、検温や氏名住所の提出、マスク着用・・・の手続きは一切ありません。

入浴料240円を払って入浴。
混んでもいない客層は、地元の高齢者が中心でした。
下諏訪温泉の湯の印象は高温、ですが、旦過の湯はもちろん、菅野温泉ほどに熱くはなく、適温でした。

松本、塩尻方面からの帰途、国道20号線を利用するときの立寄り湯として貴重な存在です。
ただし、気温が低くなるこれからの季節、ここから約1時間かかる山小屋までの間、軽トラの座席での湯冷めを心配する必要はありそうです。

杖突街道→伊那→塩尻

10月に入った秋晴れの日。
軽トラで旅に出発した。

鄙びた別世界のような杖突街道を走って、高遠では行きそびれていた郷土資料館へ入り、伊那でソースカツ丼を食い、国道153号線を北上しつつ箕輪町の直売所で仕入れ、さらに北上して行ったことのない塩尻市内を見物しよう、という予定だった。

杖突街道での発見

伊那地方と諏訪地方を結ぶ杖突街道こと国道152号線。
杖突峠を越えて古都・高遠までの沿道風景は、時間から取り残されたような鄙びた集落が続く、山小舎おじさんお気に入りのルートだ。

高遠歴史博物館で買った杖突街道のマップ。情報がてんこ盛り

木造の古い建物が目をかすめた。
木造校舎か?と立寄ってみた。
正体不明の建物だった。

とりあえず写真撮影して、近くに神社があったので表敬訪問。
貴船神社とあるその神社。
案内板を見ると京都の本家・貴船神社から正式に勧請された、とのこと。
縁結びで有名な貴船神社。
調べてみると全国に450社の分社があるという。

杖突街道からこの木造建物が目についた
正面から見た木造建物
京都から勧請した貴船神社
貴船神社の本殿
このあたりの集落は新しい蔵が目立つ

さて不思議な木造建物の件。
この先で寄った、沿道唯一の直売所の駐車場で荷造りしていた地元?の男性によると、地元(藤沢地区)の公民館だったとのこと。

沿道唯一の直売所は閉まっていた

高遠を経て伊那で昼食

高遠では歴史博物館へ寄ってみる。
ここの展示の目玉の一つが、絵島囲屋敷。
絵島という江戸時代の女性が、大奥で女中頭の身でありながら、歌舞伎見物で帰城の門限を破り、当地に島流しにあって、27年間幽閉の身を過ごした屋敷が博物館に隣接しているのです。

高遠歴史博物館で購入した朱印

13時を回ったので慌てて伊那を目指す。
目指すソースカツ丼屋は、長野県の食堂の例にもれず、昼食は14時までの営業時間。
遅れるわけにはいきません。

目指す、たけだという食堂に着いたのが13時36分。
既に看板は「準備中」に裏返っています。
店員に掛け合ってみましたが、「ごめんねラストオーダーは13時30分なの」というばかり。
残念ながら諦めました。

さてどこで何を食べようか?何度か行ったことがある田村食堂へだめもとで行ってみますと、こちらは「ラストオーダーが13時45分」の看板が。
同時刻に滑り込み、快く受け入れてもらいました。

たけだを目指したがかなわず、田村食堂へ

国道153号線沿いに出現する信濃国二ノ宮・小野矢彦神社

伊那から北上して箕輪町の直売所で季節の紅玉リンゴなどを仕入れ、さらに国道153号線を北上する。

伊那地方と塩尻・松本方面を結ぶ国道153号線は交通量も多く、車両の運行速度も速い。

長野県の交通事情は、運転マナーもよく、奥ゆかしいイメージがあるが、どうして、平地を走る主要国道・バイパスの車は飛ばす。
のろのろ走っているとあっという間に後ろがつながってしまう。

国道20号線の塩尻峠、佐久平を北上する国道141号線などは、通行車両が「必死になって先を争って走る」印象がある。

ということで、後ろを気にしながら走っていると、ただならぬ雰囲気の神社が左手に出現して慌ててストップする。
辰野町小野地区と塩尻市にまたがる、小野矢彦神社だった。

国道153号線沿いに出現する小野矢彦神社。巨木がそびえる
手水場はコロナ下(禍)でも閉鎖されていない。心意気やヨシ!

境内に外にまでにじみ出る荘厳な雰囲気。
境内には巨木が立ち並ぶ。
取り急ぎ拝殿に参拝。

参拝したのは小野神社のほうで、矢彦神社は隣にあったらしい。
信濃国二ノ宮とのことがだが、二ノ宮は上田の生島足島神社もそうだったよなあ、と思う山小舎おじさんでした。

小野神社の拝殿。派手にデイスプレイされている
小野神社の神楽殿は拝殿の正面に建つ

塩尻でびっくり!

塩尻は松本と隣接し、つながってしまっている印象だが、実際訪れてみると個性豊かな町だった。

国道から市街地方面へ折れると目の隅に看過できない建物が飛び込んできた。
よく見ると映画のポスターが貼られた建物だ。
東座と銘が打たれた大き目の建物。
よく見るとピンク映画のポスターも貼られている。

待てよ、これは絶滅危惧種の昔ながらの映画館の生き残りではないのか?
慌てて軽トラを止める。

塩尻東座の建物が現れた

「新東宝映画」「大蔵映画」の文字がうれしいというか時代錯誤というか。
都内でも、ここ2.3年で飯田橋駅前にあった専門館が撤退し、上野と池袋にのみ現存するピンク映画の上映館が、一般映画上映館と併存とはいえ塩尻に残っていたとは!
後日ゆっくる訪問することにして写真撮影を済ます。

上映作品のポスター
一般映画上映の1号館入場口

行き当たりばったりの塩尻初訪問。
町の情報を得ようと塩尻駅でパンフ類を収集する。

隣の観光案内所に行って再度びっくり!
コンテナにマスカットを山盛りにして、「3房で100円」の張り紙。
どうしたものかと眺めていると、職員が「駅構内で栽培しているんですよ、黄色めのものが熟してます。種は出さずに食べると甘いです」とのご案内。
思わず100円玉を出し、買う旨を伝えると、袋に詰めてくれ、おまけにもうひと房をくれました。
昔ながらのマスカットは香り豊かで、甘さ充分でした。

JR塩尻駅
観光センター入口
駅構内特産のマスカット特売現場!
駅構内には黒葡萄が実っていた

折角なので、イヅツワインの醸造所まで行ってみます。
塩尻はワイン醸造の名所でもあります。

イヅツワインの売店でワインとジュースを購入しました。
醸造所限定品などはなく、むしろ出荷優先で販売しているとのことでした。

国道19号線沿いの、桔梗が原と呼ばれる当たり、イヅツのほかに五一ワイン、アルプスワインなどの醸造所が集まっているエリアです。

塩尻市桔梗が原のイヅツワイン工場売店

杖突街道から派生する金沢街道などの旧街道筋はぜひ行ってみたいともいました。
また、塩尻の東座は近々訪問したいと思いました。
うれしい宿題二つをもらった今回の旅でした。

上田アリオに行ってきた

アリオといえばセブンイレブン系のショッピングモール。
長野県第三の都市、上田にはもともと西武系のイオンタウンがあったが、後発のアリオが上田駅近くにモールを出店したもの。

ご存知の通り地方都市では(昨今は首都圏でも、都内でも)既存の商店街は閑古鳥が鳴いている状況。
とはいえ、住民の日々の買い物、休日のショッピングの需要はあるわけで、国道沿いの郊外型店舗群がその受け皿となっていたが、近々のマーケテイングというか、商圏として出現したのが、モールという存在。
大規模なものとしてはららぽーと、一般的には○○タウンなどと呼ばれる複合型商業施設が全国的に存在する。

上田では、駅前から続く真田坂、それと直行する海野町商店街などが元来の商店街なのだが、人通りはほとんどない。
店舗を占めた商店も目に付く。

では上田の消費者はどこにいるのかというと、イオンタウンだったりアリオ。
特にアリオは真新しい店内と、全国チェーン店の出店で、休日は地元のファミリーやヤングが繰り出している、という印象だった。

「印象だった」というのは、山小舎おじさん、このアリオに過去1回行ったときに、店内をそぞろ歩く人たちを見て「上田の人は(商店街にではなく)ここにいたのか!」と安心した記憶があったからだ。

地方では、人気のない商店街や住宅地をみて「ひとがいないんだなあ」と感じるが、いざ何かの行事が開催されると、スタッフや参加者に人があふれ「人がいるじゃないか!」と思うことがある。
例えば、茅野市街地では歩く人の姿を見るのも稀な印象だが、蓼科高原映画祭開催の時は、市民ホールと新星劇場に和解世代も含めた住民スタッフが溢れ、「茅野にもこんなに人がいたんだ!」と安心する。
今年のコロナ騒動では、春先の休日に諏訪湖畔に散歩する人の姿が溢れ、普段感じられない地域住民の人数の多さを実感し、頼もしく思ったものだ。

何が言いたいのかというと、地方都市にはまだまだ人がいるということだ。

閑話休題。
前置きが長くなりました。

この日の上田アリオ。
平日の午前中に訪れると、1階のイトーヨーカドーのスーパーマーケットエリアは人が集まっているものの、ショッピングエリア、レストランエリアは閑散としておりました。

上田アリオの入口
1階のイトーヨーカドー
2階から1階通路を見る

もともと地方では、人口の絶対数が少ないうえに、日中、若い人は学校に、壮年は職場に、主婦はパート先に・・・と居る場所が決まっています。

食堂も全国チェーン店以外は、14時から休業時間に入ります。
東京のように勤務時間が様々だったり、何をしているのかわからない人が大量にいたりすることがないので、結果として人の行動は規律的になります。
昼食にしても12時から13時の間にほぼ全員が摂るわけで、食堂はその時間以外に空けておいても客が来ないのです。

たとえ話が長くなりましたが、ついでに続けます。

平日日中のショッピングセンターの閑散ぶりは、東京でも見られます。
街中のスーパーに見られる閑散とした店内と、休憩コーナーで時間をつぶす高齢者の姿です。
この日の上田アリオの雰囲気もそれに近いものでした。

地方に特有の「のどか、のんびり、まったり」した雰囲気ばかりではない「閑散」とした雰囲気。
これが原因は、地方云々というばかりではなく、大きくいえば日本全体の景気停滞、社会の疲弊に端を発するのかもしれませんが。

衣料品店が並ぶストリート
ストリート中ごろには、ハロウイーンのデイスプレイ
シネマコンプレックスも併設
TOHOシネマズのロビーは最新式

とはいえ、新築でこぎれいな、上田アリオ。
で歩いていて気持ちのいい場所です。

上田では貴重な新刊書店もあります。
レストラン街のほかにフードコートもあり、昼食には便利です。
何より全国チェーンの衣料、雑貨店がもたらす都市カルチャーとの直結感が貴重です。

1階のレストラン街、和洋中がそろう
2階のフードコートはそこそこの人出

用事を済ませ、カフェで一息つきながら、午後を迎えたに山小舎おじさん。
その時間には下校時の高校生など、午前中より客層が若返り、人数も増えてきました。
「やはり上田で一番賑やかな場所だ」と感じることができました。

この日の用事はJTB
スタバで休憩した

実は、アリオ訪問記を「パワースポット探訪記」の一環としてまとめる予定でしたが、訪問後、その気持ちがなくなりました。
ひとが集まる場所としては上田で一番なのでしょうが、その割にパワーを頂けなかったという気持ちでした。

それが原因は、自然発生的で歴史ある場所ということではない、現代の商店街・モールの持つ性格なのでしょうか。
地域との共存共栄というよりは、採算が悪くなればいつでも撤退してゆく、という、そのコンセプト。
それを承知で刹那に訪れる人々の移ろい感。

安易に「パワー」を求めてさまようことへの自戒も含めて勉強になりました。

岡谷へ行ってきた

岡谷という町があります。
諏訪湖の北西に面する、人口47,000人の市です。

長野県に居て4年目ながら、家族が来た時にうなぎを食べに行くか、諏訪湖を一周するとき、あるいは松本方面から国道20号線で帰る時に通過したことがあるだけの町でした。
あっ一回街の中心部に行ったことがありましたっけ。

長野といえば善光寺、松本といえば松本城、上田といえば真田、軽井沢といえば別荘族・・・が全国的にも有名です。
その点、岡谷といえば・・・うなぎを連想するくらいでしょうか?

今回は、中信地方にあり、山小舎から割と近い場所にありながら、一般的に連想される特色に乏しい、と思われる町・岡谷に行ってきました。
そこには、現在では忘れられつつある歴史と、独特な町の個性が残っていました。

諏訪湖西岸を通って岡谷市街へ

茅野方面から岡谷へ行くには、諏訪湖東岸の国道20号線を通るより、諏訪湖西岸を抜けたほうが早い。
諏訪湖東岸から北岸にかけては、いわゆる表の諏訪湖であり、観光ホテルなどが立ち並んでいます。
花火大会が開催される場所も表の諏訪湖です。

対して諏訪湖の裏側に当たる西岸は、湖岸道路が、茅野方面から岡谷、塩尻方面への抜け道として利用されており、交通量も少なくはないのですが、信号が少なく流れが速いのです。

「裏諏訪湖」から湖面を見る
夏の名残の藻が浮く諏訪湖畔

諏訪湖西岸の湖岸道路から一本奥に入ったところに集落を抜ける道がありました。

今どきの地方の集落ですから、表通りから一本中に入っただけで、人通りも途絶え、車の往来も少なくなります。
コミュニテイバスが通っていましたが。

諏訪湖西岸の集落のメインストリート
かつて栄えた商家の外壁

この集落に残っていたのは、かつて諏訪湖からもたらされていた豊かな資源の痕跡です。
水産資源のほかに観光資源としての諏訪湖の圧倒的な存在感をうかがわせる地元の集落です。

諏訪湖の水産の興隆を忍ばせる文字
かつての趣のある魚屋の建物。現在は隣の新社屋で営業継続していた
これは旅館か?下宿屋か?諏訪湖の昔をしのばせる建物
シャッターを閉めた商店と郵便ポスト


諏訪湖水門を渡って岡谷市街地へ

諏訪湖北岸の西端には、湖水の排出口の役割を果たす、水門と呼ばれる場所がある。
伊那谷を削りながら太平洋にそそぐ、天竜川の起点となる場所です。

水門にかかる釜橋

釜橋と呼ばれる赤い鉄橋で水門を渡って岡谷市街に向かいます。
中央本線も国道20号線も、諏訪湖の東岸から北岸を走っており、岡谷市街地も諏訪湖及び天竜川の北岸に広がっています。

釜橋から天竜川下流方面を見る

少し走ると、レイクウオーク岡谷なるモールに出くわしました。
全国各地にあり、ファミリーからヤングまでの買い物からデートまで、一括して商業的に承るモールが岡谷にもありました。
かつては地方中核都市の象徴的な存在でもありましたが、今では川崎、横浜から埼玉まで、都市部においても人が集まる場所として認知されている、あのモールです。
自宅近くのモールは、山小舎おじさんの娘一家も孫娘も大好きな場所です。

どこにでもあるモールの風景。岡谷では人呼んでレイクウオーク

ここに岡谷の消費一切が集約されているのか!と、モールを横目に見ながら岡谷駅方面に軽トラを進めると、中央通りなる商店街へ。
かつては製糸工場の女工さんであふれたという昔からの中央通り商店街ですが、現在では全国津々浦々の商店街の例にもれず、さびれていました。


イルフプラザにてお買い物

中央通りの中ほどに、商業施設・イルフプラザがあります。
街の中心部ながら5時間無料の駐車施設をもつイルフプラザは、岡谷市街を訪れる際の駐車場所としてマストな存在です。
2回目の訪問となりました。

中央通りにそびえるイルフプラザ
イルフプラザ駐車場。地方でも5時間無料は大サービス!

イルフプラザ食品館で掘り出し物を探します。
今回もリンゴのB品が10個ほども入って、290円で売られていました。
一瞬触手が動いたのですが、リンゴの加工品を作るにはまだちょいと時期が早いかな?と思い返して我慢。
地元の味噌と、今晩のお惣菜を買いました。

地元岡谷の味噌をお買い上げ

土曜日のこともあり、食品館の集客もまあまあ。
何より、ご当地の、地元感を味わえる貴重な場所でした。
ゲームコーナーには独特の寂寥感が漂っていましたが。

イルフプラザ館内には「ケンカ禁止」の張り紙。御嶽海もにらみを利かす
岡谷にはスカラ座というシネコンがある
イルフプラザ横にある味噌蔵。煙突が立派
イルフプラザから岡谷駅方面を望む


蚕糸博物館で初めて知る岡谷の盛隆

なぜ岡谷が戦前に村から飛び級で市制に移行したのか?

なぜ、岡谷が東洋のスイスと呼ばれる精密工業の中心地なのか?

その源流が、明治から戦前にかけての製糸工業の発展にあることを学べる場所がありました。

この博物館は、過去の遺産の展示だけを行ってはいませんでした。
なんと現役の製糸工場が組み込まれた博物館だったのです。

製糸の歴史の展示コーナーの続きには、現役の工女さんが糸繰をする様子が見られる操業コーナーがあります。
機械が並び、数人の女性が操業しています。

デモンストレーションにしては意気込みが半端ではないな!と思って見終わると、現役製糸工場の実際の操業です、との説明がありました。
博物館は実際の工場が組み込まれたものだったのです。

全盛期には、岡谷の人口の半分が製糸工場の工女だったことや、寮暮らしの工女たちが消費する食料、燃料などの流通が岡谷の経済を発展させたことなどが、博物館の展示コーナーで学べます。

興味ある向きには、工女が手動で操った当初のものから、現在の無人全自動機に至るまでの製糸機械の現物が代々展示保存されているのも貴重です。

戦後、生糸が衰退した時、いち早く精密工業を誘致できたのも、製糸工場というハードと、工女という熟練ソフトが残っていたため、との流れです。

伊那道と呼ばれる、市役所が面するもう一つの目抜き通りにも古い商店の建物がわずかに残り、かつての町の隆盛をかすかに漂わせています。

いまだ残る数々の製糸工場跡などの文化的活用が、わかりやすくアピールされているとは、まだまだ感じられない岡谷ですが、その隆盛の名残が漂っている町でした。

帰りは下諏訪温泉でひとっ風呂

岡谷の帰り道は国道20号線を通って。
途中の下諏訪でひとっ風呂。
菅野温泉、250円。

まちがいありません。

八ヶ岳高原ラインを走ってみた

八ヶ岳南山麓の標高1300メートルあたりを巻いて走る道路があります。
八ヶ岳高原ラインといいます。
小淵沢から清里を結ぶ、山梨県の県道11号線の別称です。
久しぶりにこの道を通って清里、野辺山、小海を回ってきました。

今回のルートをマジックでなぞってみました


八ヶ岳エコーラインから高原ラインへ

山小舎から大門街道を茅野へ下ります。
途中、八ヶ岳エコーラインにぶつかるので、原村方面に右折します。

八ヶ岳エコーライン

原村に入る直前に、八ヶ岳農業実践大学方面に左折します。
ここの売店に寄ってみます。

農業実践大学の売店内部
農業実践大学構内の芝生から八ヶ岳方面を望む

農業大学をさらに八ヶ岳に向かって走ると、美濃戸口と呼ばれる場所があります。
八ヶ岳連峰の主峰の一つ、赤岳への登山口です。
美濃戸口を入ったところに駐車場もあり、赤岳などへの登山ルートがあるので一度登ってみたいものです。

美濃戸口登山口の看板。路線バス終着点


山梨県へ入り、県道11号線(八ヶ岳高原ライン)へ

美濃戸口から、長野県内を県道484号線で、八ヶ岳山麓を南下、富士見町に入ります。
両側に富士見高原と呼ばれるレジャー施設が続きます。

県道484号線を山梨方面へ

山梨県に入り、県道11号線にぶつかるので左折。
ここからが八ヶ岳高原ラインです。

別荘やレジャー施設は影を潜め、雑木林が両サイドに広がる道を進みます。
原生林の道、といった感じのいい道です。

天気が悪いと霧に包まれる標高1300メートルの道です。
この日は晴天で、行きかう車、バイクでひっきりなしでした。

県道11号線を清里方面へ
途中に「仙人小屋」があった。壁板に熊の毛皮がぶら下がる
仙人小屋の本日のメニュー


ペンションブームの清里は今

やがて高原ラインは清里に至ります。
かつてペンションブームで栄えた、清里駅周辺は、昨今の事情を勘案しても、ひっそりとしていました。

ペンションブームが終わったことと、鉄道客の減少のせいでしょうか。
付近の国道141号線沿いの施設が、自家用車で混雑しているのを見ると、時代の移ろいを感じざるを得ません。

この日の清里駅前の目抜き通り

清里地区の美し森。
ここいら辺は、都市部の自治体や大学などの保養施設のメッカでもあります。
山小舎おじさんも20年ほど前は、毎冬、自宅のある調布市が持っている「少年自然の家」へ、家族でよくスキーに来ていました。
調布の学校に通っていた子供たちは、夏の林間学校などでよく来ていたようです。

調布市八ヶ岳少年自然の家の入口
調布市の施設の全景。外壁などは補修されているようだ

小金井市や明治大学の施設が近所にあります。


南牧村美術民俗資料館

国道141号線(佐久甲州街道)を野辺山方面に走ると、右手に南牧村美術民俗資料館という建物がありました。
寄ってみました。

館内は民俗資料館と美術館に分かれています。
おじさんは民俗資料館のほうに興味がありました。
展示内容は、先史時代の遺跡や石器から、近代の農具や生活道具など。
地域の動植物のはく製、標本など。
いわば各地にある博物館、資料館の定番です。

展示物の中でやっぱり気になるのが、昔の写真です。
南牧村は野辺山といったほうが有名ですが、戦後の開拓時代の写真などは雄弁に地域の歴史を物語っています。

展示物を開設するパネルが毛筆で書かれていたので、学芸員の女性に聞いてみました。
地域の高齢の筆自慢がものしたのかな?と聞くと、そうではなく女性書道家によるものとのこと。

そのほかにも、標高2000メートルにある露天風呂に2時間歩いて入ってきた話、高原野菜を生産する農家の事情など、女性の学芸員は、世間話をするように、南牧村の情報をたくさん話してくれました。

たっぷり話ができて、南牧村が好きになった山小舎おじさんでした。

パンフなどを持っていたら、学芸員さんがポスターを再利用した袋をくれた。
付近には鉄道最高地点がある


海ノ口と海尻

国道141号線を小海方面へ北上します。
高原野菜が広がる開けた地形が狭まり、急坂を降りてゆくと、海ノ口という地域です。
このあたり、野辺山の観光ポイントも多く、高原、牧場といったハイカラなイメージの世界から、昔ながらの鄙びた歴史の世界へと一変します。

大昔、浅間山の噴火でせき止められた千曲川がこのあたりで湖を形成していたとのことです。
湖の入口が海ノ口で、出口が海尻と呼ばれ、地名が今でも残っています。

谷が迫り、標高が下がった海ノ口付近の地形
海尻まで川沿いの谷の地形が続く

海尻地区の国道沿いに、古い神社がありました。
諏訪神社でした。
墓地が隣接していたので、「もともと神社とお寺が一体となっていた場所が、明治時代の廃仏毀釈で神社として残ったのかな?」と思っていたら、国道の少し先に立派なお寺がありました。

海尻にある諏訪神社

海尻山医王院という天台宗のお寺で、門構えにあたりを払う威厳があります。
裏山に海尻城という、戦国時代の山城の跡があるとのこと。
お寺自体も佐久33番観音霊場の19番札所とのこと。

医王院の入口
本堂へ続く参道に立つお地蔵さんと仁王像
山門と鐘突き堂が一体となった、鐘楼という作りの山門が建つ

国道を挟んで、医王院の反対側に位置する集落の家々にも歴史を感じます。

門前には古民家が残っていた


番外・道端の古墳

八ヶ岳南麓を回り、野辺山、小海など八ヶ岳の東側を北上。
八ヶ岳北側山麓を西へ回って山小屋へ帰りました。

帰り道、佐久市望月地区から白樺湖方面へと向かう峠道のふもと。
ふもとの集落の一角に古墳がありました。

大規模な古墳ではなく、民家の片隅に取り残されたような風情です。
標識がなければそれとはわからず、保存状態も成り行き任せ。
いつの時代の誰のものなのかも判然としません。

県内では、前方後円墳の巨大なものでも、その由来は皆目不明で、便宜的に地名を冠した○○将軍塚、などと呼ばれています。
畿内の「由緒ある」古墳群と異なり、地方のその時代の歴史は何の記録もない「暗黒時代」なのです。

古墳全景。標識がないとわからない
山の神第三号古墳というらしい。よく残り、発見してくれたものだ
古墳入り口の様子。間に合わせの保護状態が何とも言えない
古墳内部。鉄板の隙間からのぞける

記録が残っていないだけで、いわゆる古墳時代から、この信州には人間の歴史が、あちこちに色濃く刻印されているのでしょう。
何せ、浅間山が噴火して、千曲川をせき止めたのは西暦800年代のことで、それに由来する地名の、海ノ口、海尻が今に残っているのですから。

「峠を攻めて」みたい

長野県は山の国です。
県内の都市、町はおおむね盆地にあり、その盆地は山によって区切られています。
山の低いところは峠と呼ばれ、盆地と盆地とを結ぶ交通路となっています。

山小舎を中心に見ても、大門街道を諏訪地方へ超える「大門峠」、中山道を諏訪へ抜ける「和田峠」、中山道を佐久方面へ超える「笠取峠」、白樺湖から佐久へ抜ける県道40号線沿いの「雨境峠」などがあり、山小舎おじさんは生活道路としてよく通ります。

八ヶ岳を小海地方に向けて横断するメルヘン街道こと国道299号線の「麦草峠」も通ってみました。
伊那谷へ抜けるには、茅野と高遠を結ぶ杖突街道の「杖突峠」を通ります。

上田盆地の最西端、塩田平にある青木村から、松本盆地に向けての間道というか、山道に「保福寺峠」があります。

日本アルプスの父と呼ばれた、イギリス人宣教師・ウインストンが、上田から青木村を抜け、「保福寺峠」までやってきてそこからの景観を絶賛したとあります。
また中世まで、近畿から東国を結ぶメインルートであった、東山道が通ったといわれる峠道です。

9月に入った夏日、「保福寺峠」を通ってみたくて、青木村へ軽トラを走らせました。
ところが、峠への分岐点まで行くと「保福寺峠までは行けますが、通り抜けできません」との看板が。
昨年の台風19号の被害のようです。

青木村から鹿教湯温泉へ抜ける山道も、去年から通行止めとなっています。
遠方では佐久穂町から群馬へ抜ける武州街道も十国峠付近が通行止めとなったままです。

仕方がないのでUターン。
国道143号線へ戻り、松本に行こうか?と、初の「青木峠」越を試みました。

国道143号線を松本方面に走ってしばし、国道から右折する県道12号線に接しました。
山の中へ分け入ってゆく、なかなか魅力的な道の雰囲気を醸し出しています。
地図で確認すると、ぐるっと回って千曲川沿いの戸倉上山田に戻るルートです。このまま143号を走ても松本まで40キロ以上もあります。
えいっと右折しました。

ほとんど交通量のない山道。
つづらに上ってゆく県道12号線。
路面には走り屋たちのタイヤの跡。
やがて左手に修那羅石仏群の案内板が見えました。

国道143号線から分かれた県道12号線
県道12号線は、修那羅峠まで急な上りが続く

気になったので行ってみました、石仏群。
ふもとの集落から車道が続いています。
安宮神社へと続く山道。
神社の境内に石仏群があるようです。

江戸時代に修験者が開いたという神社とその神社に奉納された石仏たちが参拝客を人知れず待っていました。

峠を下ったたりの集落に安宮神社の参道入り口がある
参道を登り切り、駐車場を降りると神社の境内へと続く参道がある
杉の巨木が両側に並ぶ参道。戸隠神社ほどではないが神々しさが漂う
参道の途中で鳥居が参拝客を迎える
安宮神社の本殿。猫はいたが人気はない
本殿で記名し、とパンフレットとお札をいただく
案内板に沿って、ここをくぐり石仏群を見に行く
石仏群が神社の裏側の山頂で待っていた

ここは青木村から峠を越えた、東筑摩郡の築北村というところ。
神社のふもとの集落は俗世間をはずれた別世界の雰囲気。
県道は交通量もほぼなく、ストレスなく別天地へのドライブが楽しめました。

もう別天地過ぎて、早く通過しないとこのまま別天地から出られなくなってしまうのではないか?とさえ思ってしまうほどの「別天地」感に満ちたルートでした。

県道12号線はやがて開けた田園地帯に達し、県道55号線へと合流。
このあたりは山間というには広めの盆地風景を展開。
傍らにはJR篠ノ井線も走っている。

篠ノ井線は長野市郊外の篠ノ井から松本を経て塩尻へと至る、中央本線と旧信越本線を結んだ路線となる。
関東から続く、中央本線、旧信越線という幹線を、長野県内で繋いでるのが篠ノ井線。
鉄道の役割が相対的に低下している昨今は、民間委託か廃線かにおびえる、忘れられた路線にも映るが、沿線に歴史と文化を湛えた魅力ある鉄路でもある。

JR篠ノ井線の冠着駅
県道55号線を上ってゆく。前方にはまた峠が・・・

篠ノ井線とはすぐ分かれて、千曲川沿いの戸倉上山田へと向かう県道55号線。
途中の「四十八曲峠」は長いトンネルでくぐる。
交通量の割には立派なトンネルをくぐると、千曲川へ向かっての急な下り。
リンゴやブドウなどの果樹園が目立つ田園風景を抜けると戸倉上山田へ至った。

峠を攻めるつもりが、忘れられたかのようなひっそりとした、魅力あふれる別世界ルートに巡り合うことができた旅だった。

上諏訪を歩く

お盆が過ぎ、例年なら待っていたようにの秋風が吹き渡るころなのですが、過酷な残暑が続く今年の長野県。
諏訪へ下りたついでに、気になっていた上諏訪(諏訪市)を歩いてみました。

諏訪湖東岸に沿って、南から諏訪市、下諏訪町、岡谷市と続く諏訪地方。
その中で、甲州街道の宿場として、諏訪湖観光の拠点として、歴史を刻んできたのが諏訪市(上諏訪)。

北隣には、諏訪大社の下社2社が鎮座し、6年ごとに御柱祭を挙行し、中山道と甲州街道が合流する宿場でもあった、下諏訪町があります。

上諏訪住民のシンボル・高島城に向かいます。
諏訪湖畔の軟弱地盤に丸太で土台を組み、その上に石垣を積んで築城したという、別名「浮城」と呼ばれるお城です。
お堀と石垣、天守閣の塩梅が絶妙です。

城門をくぐると手ごろな規模の庭園が広がっており、市民の憩いの場になっています。
天守閣に登り、諏訪湖を眺望するつもりだったのですが、マスクを軽トラに忘れたおじさんは入場をやんわりと断られてしまいました。
残念。

お掘り越しの高島城天守。まるで諏訪湖に浮かんでいるようだ
城門越しに手入れされた庭園が望める
天守閣への階段は遠かった・・・。入場料310円。

城下町・上諏訪の風景です。

諏訪は醸造の産地。これはお城近くの味噌蔵
町中に諏訪湖へ流れる水路が張り巡らされている
街の小路には由緒ありげな街並みが散見される

甲州街道こと国道20号線は今でも住民の生活道路であり、山梨方面とを結ぶ幹線道路でもあります。
往年のメインルートの名残を残した、商店や蔵が残ります。

甲州街道沿いには今も5軒の造り酒屋が軒を連ねる
歴史を感じる呉服店の店構え

甲州街道から1本入った裏町には住民の生活の歴史が残ります。

裏町の生活路には歴史を感じさせるお寺があった
街角の民家にも住民の生活の歴史を感じる

温泉の町でもある上諏訪にはもともと多くの飲食店街があったようです。
今では寂れた感じの飲食店街ではありますが、往年の温泉街の艶は残っています。

街から諏訪湖畔へ向かう商店街
歴史ある温泉街らしい旅館も現存する
駅前の飲み屋街
「居酒屋放浪記」の吉田類が2014年に来店したらしい
こういう看板はいい。ひとの生活の歴史と風情を感じる

中央本線上諏訪駅とその周辺です。
甲州街道に接した駅は文字通り上諏訪の玄関口です。

JR中央本線・上諏訪駅。国道20号線に接する
駅前には最近、商業ビルができた。
お土産は駅構内の直売所で地物の桃。1パック200円を2つ。

上諏訪のもう一つの玄関口である諏訪湖畔の風景は今回はカット。
湖畔のホテル、旅館、みやげ物店などは今も活気があります。
恒例の諏訪湖花火大会の日などは渋滞で車で近づけないエリアとなります。

湖畔エリアには、紡績で財を成した財閥の遺産である、片倉館などの建物も残ります。
片倉館は、巨大なローマ風呂を擁する、かつての紡績職員用の厚生施設だった建物で、現在では一般客が入浴などで利用できます。
次回はこのエリアもレポートしたいものです。

この日の昼食はハルピンラーメン。
独特のダシがうまい。県民のソウルフードの一つでもある

北国街道 海野宿

旧北国街道(信越)は、軽井沢で中山道と別れ、千曲川の右岸を北上、上田、松代などを経て新潟の日本海海岸に至る街道。
佐渡から金を江戸へ運ぶ道筋として、五街道に次ぐ位置づけだったとのこと。

軽井沢の追分から、上田までの間には城下町で有名な小諸宿があり、その先に田中宿、海野宿と続きます。
現在では小諸市内の街道風景は、往時の建物と雰囲気が残ってはいますが、道幅などは拡張されており、基本的には「現代の風景の中に歴史建築が散在して」いる風景となっています。
その先の田中宿も、駅前商店街として開発整備されています。

一方、海野宿の景観は奇跡的に往時の様子をとどめています。
建物の保存もさることながら、道のわきに流れる側溝が埋め立てられもせず、暗渠化されもせず、その流れをさらさらと露天にさらしている素晴らしさです。

宿場の入口には常夜灯を模した行燈が立っています。
格子と土壁づくりの建築が100軒ほど残っています。

訪れたのは土曜日でしたが、観光客の姿は2,3組。
ちょっと寂しい気もしますが、一方、土産物店、食べ物屋、などの数が少なく、また店のデイスプレイが本来の建物の邪魔をしていないのが好感が持てました。

旅籠だった建物が資料館となっています。
荷役などに使った馬に塩をなめさせる石が残っていました

この地域、商圏は隣の田中駅周辺だったり、上田だったりしますから、無理な開発もなく、住宅地として100年以上現状保存され、価値が認められてからは景観保存の措置が取られた結果の景観維持状態ものと思われます。
日本の道100選にも選ばれています。

これほどまでに景観が保存されている宿場というと、県内では中山道の木曽路にある奈良井宿が思い出されます。

全国的知名度はありませんが、山小舎から比較的近い位置に残っている旧街道の歴史的遺産です。