新・諏訪の神様が気になるの 大祝屋敷跡を見る

諏訪の神様シリーズの続編です。
諏訪大社本宮から程近くに、大祝屋敷跡があるので行ってきました。

大祝(おおほうり)は、諏訪大社の上社、下社の両方にいた最高位の神職です。
特に上社の大祝は諏訪の神様の化身、生きるご神体とのあがめられる存在で、諏訪(諏方)家が代々引き継いできたとのこと。

当時の大祝は、祭祀を司るだけではなく、政治権力を握り、鎌倉時代までには武士化して、幕府、朝廷と積極的に関係を持ったということです。

大祝の禁忌として、厳しい「郡外不出の禁」「清浄保持」があったとのことだが、当時の大祝家は、中央の軍事遠征に参加したり(当然実戦にも参戦)、あろうことか総領家(下社エリアの政治権力を分担した勢力)を大量に謀殺するに至っては何をかいわんや。
禁忌を無視するどころか、踏みにじって、最大限に冒涜し、栄華を競った時代があったようです。

明治になって神官職が中央からの派遣となり、さしもの大祝職もその長い歴史を閉じることになり現在に至っています。
大祝を奉じた諏訪家も途絶え、屋敷のみが残されているのです。

さて、五月晴れのある日、その大祝諏訪家屋敷があった場所に行ってみました。
住宅地の一角に天保年間に再建されたという屋敷の一部が残っていました。

今に残る屋敷門

門構えを眺め、案内板に従って屋敷の周りを一周します。
当初、3000坪の敷地に320坪の主屋があった場所には、いまは主を失った43坪の建屋が残っている。
完全な古民家というのではなく、窓にはサッシが入り、玄関には掃除道具などが残っており、平成14年に直系を失ったという、大祝・諏訪家の近時の断絶を物語ります。

案内板に沿って屋敷まわりを一周する
最終的に残った屋敷
屋敷を池越しに見る
敷地には立派な蔵も立つ

隣接して小さな神社がある。
鳥居と祠のみの造りで、境内には滑り台も置かれたのんびりとした雰囲気だ。

隣接する神社
藁ぶきの雨除けに囲われた祠
御柱も立つ
東照宮?

代々続いた大祝職を司る一族が途絶えたことは、諏訪の神様を巡る時代が大変化を迎え終わったたことを物語っている。
その大変化が、単に人間界についてのことなのか、神界を含むものなのかはわからない。

続々・諏訪の神様が気になるの 御頭祭で「鹿の頭」を覗き見る

毎年4月15日に、諏訪大社本宮と前宮を結んで、御頭祭が行われる。
本宮を出発したみこしの列が、前宮まで行列し、前宮で鹿の頭を供えて祈祷するという「奇祭」だ。

事前に確認すると、行列が本宮を出発するのは13時ころとのこと。
神長守矢資料館で仰天した鹿の頭のお供えの現実版が見られるのだ。
果たしてそこには土着の縄文系神様の魂が感じられるのか。

当日の諏訪大社本宮の鳥居

「諏訪の神様」初心者の山小舎おじさんは、畑仕事を休んで駆けつけました。

12時半ころの本宮駐車場はガラガラでした。
境内へあがってゆくと、半纏を羽織った人の姿が見えました。
下から拝殿のほうを覗くと、ネットで見た、黄色い装束が見えたので慌てて上がってゆきました。

境内には法被を着た関係者の姿が

三々五々、黄色や白の装束を着た参加者が集まっています。
女性もいます。
参加者の一人に話しかけてみました。

拝殿の前にはみこし行列を担う方々が。女性の姿も見える

「地区の人が抽選で役割を割り振られる」とのこと。
「女人禁制ではない」とのこと。
「言われたとおりのことをするだけ」とのこと。
「おみこしで前宮まで運ぶのが何かは知らない。詳しいことは巫女さんにでも聞いてくれ」とのこと。
地区の行事に半ば義務感だけで参加しているかのような気楽さあふれる返答ぶりでした。

やがて神主さんがやってきて、彼らにいろいろと指示を出します。
指示に従って、一般人立ち入り禁止の拝殿前に入ってゆきます。
やがて、色とりどりの装束を着た神主の集団、背広を着、法被を羽織った地区の有力者など参拝者の集団、みこしを担ぐ集団の3つに分かれて拝殿前に整列します。

神主の合図で拝殿に向かって並び始める関係者たち
儀式を見守る見学者たち

やがて神主が祝詞を上げ、拝殿から何物かを下ろし、みこしに乗せます。
おろしている間は参加者は頭を下げ続けます。

神主集団はマスクをしていませんが、何物かを下ろすときだけは息がかからないようなマスクをし、手袋をつけていました。

境内には雅楽が(テープで)流れ、礼拝などの合図はマイクから流れます。
みこしに何物かが乗った瞬間には花火まで打ち上げられました。
このころになると、見学者が増えてきました。

神主が拝殿に上り祝詞を唱える
前宮へ「持ってゆくもの」がみこしに乗せられる
担ぎ手がみこしを担いでいよいよ行列が始まる

境内から参加者が流れ出て、前宮へ向かう列を作ります。
見学者の多くもついてゆくように流れてゆきます。
おじさんは軽トラに戻り、座席で弁当を食べてから、前宮へ向かいました。

関係者がみこし行列を形作る

本宮から前宮への道路は、おみこし行列のため交通規制されており、う回路に不案内なおじさんの軽トラはあちこちさ迷い歩きました。
やっとのことで前宮駐車場にたどり着くと、行列はすでに到着していました。

鹿の頭を供えて祝詞を上げる建物の脇には見学者がぎっしり。
カメラの砲列ができています。
ここが祭りのクライマックスだと多くの見学者は知っていたのでしょう。
出遅れた山小舎おじさんは、神主の姿を眺め、体をねじってようやく鹿の頭を実視しました。

前宮では神主が拝礼する
お供えの鹿の頭が並ぶ
儀式を見守るカメラの砲列

建物の反対側には有力者らが整列して参列しています。
方や、黄色い装束の担ぎ手たちは、境内の片隅で三々五々休んでいます。

担ぎ手は参列できないということなのでしょうか。
ということはもともとの身分と関係することだったりするのでしょうか。

確かに見学者が気軽に声をかけられるのは、担ぎ手の方々までで、参列者や神主などは全く「別格の」「あちら側の」人といった感じなのです。

有力者たちは恭しく参拝する
方やみこしの担ぎ手たちはリラックス

前宮での儀式が続く中、おじさんは境内を後にしました。
いつも参拝者で賑わう本宮はともかく、いつもは静かな前宮が輝いて見えました。

神社には地元の人が似合います。
久々に地元の人でにぎわう境内には、にぎやかさと明るさがあふれていました。
地元の神様が喜んでいるのでしょう。
これが本来の前宮の姿なのだろうなと思いました。.

別の拝殿には、野菜、果実、魚のほか名産の寒天が供えられていた
みこし行列がかつできたなぎなた。重かった。
前宮からは雪を頂いた八ヶ岳が望まれた

続・諏訪の神様が気になるの  神長官守矢資料館と諏訪博物館へ行った

諏訪の神様とは何か?、気になってしょうがない山小舎おじさん。

「諏訪の神様が気になるの 古文書でひもとく諏訪信仰のはるかな旅」を読んで、諏訪の神様の正体へと向かうであろう、様々なキーワードが、おぼろげな霧のかなたから浮かび上がりました。

キーワードは、大祝(おおほうり)、神長(じんちょう)、諏訪氏、守矢氏、ミシャグジ等々。

「諏訪の神様が気になるの」にも重要人物として登場する守矢氏。
神長官という諏訪大社の神官を78代にわたって受け継いでいる家系です。

もう一方の神官のトップが、大祝と呼ばれる職位で、こちらは諏訪氏が受け継いできたのですが、もともとは守矢氏の方が諏訪地方の先住だったとのこと。
その守矢氏は、諏訪大社の「公式」の主祭神・建御名方神より古い、洩矢神という神様をもともとは祀っていたのだといいます。

神長官守矢資料館へ

そいういえば、茅野市にある諏訪大社の前宮から、諏訪市の本宮へと向かう道路脇に、「神長官守矢資料館」なる看板を見たことがある山小舎おじさんでしたが・・・。

守矢氏?フー。
わけのわからない古文書が展示しているだけ?つまらなさそう、と寄ることはありませんでした。

今や、守矢氏なるキーワードは、「諏訪の神様初心者」としてのおじさんにとっても避けては通れないところ。
早速、資料館に向かいました。

資料館は、78代続く守矢家の敷地内にあります。
屋敷そのものは現在空家で、78代当主の守矢早苗さんは東京住まいとのこと。
門構え、母屋、祈祷殿が保存されています。

敷地内には、古文書保存と資料展示のための資料館が建っています。
また、ミシャグジ神を祀る祠や一族の墓、古墳などもあります。

表通りに立つ看板

門をひとたびくぐると空気が一変。
折からの季節のためか、咲き乱れる花々と降り注ぐ陽光。
手入れされた下草の斜面に今を盛りと桜が点在しています。
草の斜面では来場者の親子が遊んでおり、屋敷の若い住人が庭で戯れているのかと見まごうようでした。

表札が残る門構え
門を入るとまず祈祷殿がある
祈祷殿の隣が母屋、今は空家だ

資料館に入ってみます。
学芸員の方の解説を聞くまでもなく度肝を抜かれるのが、壁一面に備え付けられた鹿やイノシシの頭。
ウサギの串刺しもあります。

御頭祭という毎年春の諏訪大社本宮のお祭りに関する展示です。
神様へのお供えとして、鹿の脳みそやウサギの燻製などの展示もありました。

資料館が建つ
資料館の内部はパンフレットから転載

一見して、この展示は神事を表したものなのか、縄文時代の狩猟生活を表したものなのか、はたまた、地域の自然環境を表したものなのか、理解ができずに混乱しました。
解説を聞いて、諏訪の神様を祀る神事を表したものと確認し、再び驚きました。

文字だけで接してきた、諏訪の神様が実像を伴って現れた瞬間でした。
それは、物質、生命の塊ともいえる獣の質感を持ったものでした。

敷地に建つ案内板
母屋の全体像

神社では、お米と塩を供えるものだと漠然と思っていた山小舎おじさん。
天照大神一族を祀る高天原系(天孫系)の神社はその通りなのでしょうが、ここは諏訪。
高天原勢力に放逐された神様が遷座した土地。
いや、それ以前から土着の神々が息づいてきた土地です。
それらの神々はいわゆる縄文系の神様で、狩猟による山の幸がごちそうだったのです。

土着の神々の総称ともいえる?ミシャグジ神を祀る祠もありました。

ミシャクジ神を祀る祠

大祝・諏方家のお墓が、敷地上手の一等地に日の光を浴びて勢ぞろいしています。
守矢家と諏方家の関係や如何?

日を浴びて墓標が建つ

敷地を奥へ行くと、不思議な物体がありました。
資料館をデザインした藤森照信氏による、空飛ぶ泥船と高過庵です。
地元出身のデザイナー藤森氏が、太古の諏訪神にインスパイアされての創作なのでしょうか?

敷地に建つ泥船。
同じく高過庵。

守矢家は不思議な空間でもありました。

諏訪市博物館へ

諏訪大社本宮前に諏訪市博物館があります。
おじさん2度目の訪問は、諏訪の神様という目的を持ってのもの。

パンフレット表紙

常設室の展示物には、廃仏毀釈の折に、隠しおおせて破棄を免れた仏像(本宮に隣接する神宮寺の五智如来)などがありました。
神仏習合の時代には、神宮寺の敷地のほうが諏訪大社本宮の何倍も広大だったことを示す地図なども。

パンフレットより

博物館の奥に、その名も「すわ大昔情報センター」という資料室がありました。
入ってみると郷土史に詳しい係の人がいて、「諏訪大社のことを知りたくて・・・」と訪れたおじさんに、まずは入門書的な写真版概説書を取り出してくれました。

それを閲覧した後、書架を眺めていると、おじさんの興味を察したのか、係の人が出してくれたのが、ミシャクジ神についての冊子でした。
その冊子には、守矢家の77代当主・守矢真幸が書き残した、一子相伝の「神長家の秘伝」なるとじ込みページがあり、薦められてコピーして帰りました。

いきなりの本格的な資料は猫に小判ですが有り難く頂きます。
同時に、地元の有志の郷土に対する愛着と探求心を強く感じた山小舎おじさんでした。

コピーした「神長家の秘伝」
77代当主真幸の筆跡部分

「諏訪の神様が気になるの」・・・

長野県に住んで早や5年目。
山小舎の簡易神棚には毎年、諏訪大社と生島足島神社のお札をいただいています。

山小舎は行政的には上田地方に属するので、生島足島神社のテリトリーですが、直線距離的には諏訪が近く、東京からの入口でもあるので、諏訪大社へのお参りも毎年欠かしません。

「諏訪の神様が気になるの」という本を読みました。
東京の書店で見かけました。

2020年信濃毎日新聞社刊。
同新聞は、北海道で言えば「道新」のような存在で、午後のローカル番組には、同社のデスク格のおじさんがコメンテーターで出ていたりします。
著者は1958年上田生まれという女流作家です。

そもそも諏訪の神様って、どんな神様?という著者の疑問からスタートしたこの本。
著者は数々の古文書を紐解く方法によってこのテーマに迫ってゆきます。

著者が読破した古文書は「古事記」を始め、「諏訪重信解状」(1249年)、「諏訪大明神神絵詞」(1356年)などなど。

諏訪初心者の山小舎おじさんにとって、迷路のような世界です。

諏訪大明神はともかく、建御名方神(タケミナカタノカミ)、ミシャグジ、などの神様の名前。
大祝(オオホウリ)、神長(ジンチョウ)などの神職名。
これらはおじさん、初めて聞く名前です。

これらに各時代の個人名が加わって、神話時代から現代までの出来事がこまごまと続くので、文字を追うのが精いっぱい。
本文中のエピソードが記憶に残らなく、全体の流れなど霧の中をさまようがごとく、まったく把握できませんでした。

著者は山小舎おじさんより2歳年下でした

その後、神長職を77代務めたという守矢家の資料館を訪れたり、諏訪博物館の資料室を訪ねたりして、おじさんなりに、諏訪の神様像を求めてゆきました。

このブログをまとめるにあたり、改めて「諏訪の神様が気になるの」を斜めに再読してみました。
ちんぷんかんぷんだった本書の内容と、諏訪の神様の世界がおぼろげに浮かび上がってきました。

諏訪の神様を紐解くキーワードごとに章建てした内容

諏訪の神様たち(「諏訪の神様が気になるの」より)

「古事記」によると、大国主神の息子の建御名方神が高天原からの使者により諏訪湖のほとりに追放された、いわゆる国譲りが行われたとある。

一方、国譲り以前から諏訪地方には土着の神様がおり、それは、神長を務めた守矢家が祀る、洩矢神だったり、包括的にはミシャグジと呼ばれる古来の神格、霊性たちであった。

諏訪大社は、実はこれら歴代の神々を祀る社であること。

神仏習合時代には仏も含めて祀っていた。
明治維新後の廃仏毀釈と国家神道の流れの中で、主祭神を建御名方神として時代に迎合し現在に至っている。

独特のイラストに彩られた本です

神職たち(「諏訪の神様がきになるの」より)

大祝といわれる、諏訪大社の神職は諏訪家が代々務め、祭祀と為政者のトップとして君臨していた。
同時に、先住者として、諏訪家と争ったものの、敗れた守矢家が、下社周辺にあって、神長という神職を続けた。

諏訪家、守矢家ともども、鎌倉時代には武家化し、実力を持って血で血を洗う抗争を行い、また武田氏など時の支配勢力に迎合・対立するなど、時代によって変容しつつ存在してきた。

最終的には明治維新後、国家神道のもとに統制されることになった諏訪大社に於いて、諏訪家が担ってきた大祝職は消滅し、地元の血脈による諏訪大社の運営はその長い歴史を終えた。

神長・守矢家は、ミシャグジ神を下ろすという、一子相伝の秘法こそ明治で途絶えたものの、78代目が現存している。
当代の女性は家に伝わる古文書を茅野市に寄付し、資料館で保存して後世に伝えている。

読後感想

以上は、山小舎おじさんが本書を再読後に、無理やり内容の一部を要約したもので、理解不足があるかもしれません。

いずれにせよ、静謐として整えられた現在の諏訪大社の背後には、鬱蒼たる太古の神々が控えていることを想像して、興味が絶えないことを感じています。
おじさんなりに、その実像に迫ってゆこうと思っています。

このテーマについては、次回以降、「神長守矢家資料館訪問記」、「諏訪大社下社の御頭祭祭見物記」、などでブログでフォローしてゆきたいと思います。
ブログのシリーズ名は、勝手ながら、「諏訪の神様が気になるのVOL.〇」にしようと思います。

大祝(諏訪家)と神長(守矢家)の当初の抗争のシーン

底冷えの上田に「真田」を探す

予報通りに雪が降った12月中旬の日。
山小舎仕舞いを前にして、別荘地管理事務所と畑の大家さん宅にちょっとしたお歳暮を配りました。
ついでに上田の街に出て今シーズンの名残りを惜しみました。

上田市内から見る里山も真っ白

中華モリタで腹ごしらえ

昼前に上田に着きました。
山小屋周辺では真っ白だった路面も、雨でぬれた程度の上田市内でした。

先に昼食を摂ることにしました。
地元で働く人がランチで選ぶ店、というブログに載っていた、駅前の中華モリタに行ってみました。

雪は少ないとはいえ、底冷えのする上田市内。
これが信州の冬の寒さでしょうか。

目指す食堂のあるあたりは、とんかつ力亭、馬肉うどんの中村屋などが並ぶなじみのエリア。
目指す店はすぐ見つかりました。

まだ温まりきらない店内には先客が一人。
滞在中にあと2組が入ってきました。

駅前、天神の中華モリタ

チャーハンとラーメンのセットを注文。
チャーハンは期待通りというか、予想通りの、町中華の味。
ラーメンはやや物足りなかったかな?

チャーハンラーメンセット880円

地方の食堂は、都会のラーメン屋ように「味にヒステリー」を競うようなことは全くありません。
手作りの味と、量と、皿数が売り物です。
おいしいみそ汁と手作りの漬物が定食についているだけで満足するほどです。

が、ラーメンのような、「力づくのダシ」で食う料理は、手作りがアピールできる種類のものではありません。
しっかりダシを取るなどして、味にメリハリをつけてもらいたいものです。

現に、辰野町のタイガー食堂など、地鶏のダシで抜群にうまいラーメンを出す店はあります。

ラーメンへのダメ出しが続いたところで、上田駅へ行って、観光案内所と特産物販売店をパトロールして最新の情報収集。

台風で千曲川にかかる鉄橋の一部が落下して1年たつ、上田電鉄別所線の復旧工事がやっと進み、来年3月の全線開通を目指し、鉄橋の土台部分を工事中との明るいニュースにも接する。

博物館で「真田の鎧」を探す

上田訪問の目的の一つ、上田城内の市立博物館へ向かう。

本館の正面

底冷えする城内には人影も少ないが、そこは有名な観光地、博物館には三々五々観光客の姿も。

目指すは「真田の鎧」。
というのは、真田氏の本拠地・上田市真田地区にある「真田歴史館」という資料館に展示されていたのが、NHKドラマで使用されたという、レプリカの鎧一式。
では、ホンモノは残っているのか?どこの博物館にあるのか?と思ったから。

別館の正面

ありました。
市立博物館の別館2階が真田関係の専用コーナー。
その中央に幸村の父親で、ともに上田合戦で戦い徳川軍を撃退し、関ケ原の後、ともに高野山に蟄居の時を過ごした、真田昌幸の本物の鎧兜が。

他にも当時交わされた、秀吉など有力者との書状なども。

江戸時代になってからの幸村らの錦絵は、葦に隠れて家康の本陣をうかがう幸村や、騎馬上で一騎打ちする幸村と家康など、史実とはかけ離れた設定ながら当時からの真田人気を物語る貴重なものでした。

さすが真田氏の本拠、上田城を擁する上田市の博物館。
さりげなくも貴重な資料が保存展示されています。
真田ファンは一見の、いや二見三見の価値があります。

上田城のお掘を外側から見る

池波正太郎真田太平記館へ

真田本流の鎧兜の本物に接することができた勢いで、市内中心部にある「池波正太郎真田太平記館」へも行ってきました。

市内中心部に建つ真田太平記館

週刊朝日での連載、NHK大河ドラマ化、の小説「真田太平記」の作者、池波正太郎を記念しての資料館。
小説家池波を通しての真田史に触れることができる場所だった。

映像シアターも併設されている

真田氏の歴史という視点を通しての上田めぐり。
帰りの路面凍結を心配しつつ、夕暮れまでに山小舎に帰りつくように帰途につきました。
上田よまた来年!

浅間山、山麓に行ってみた

令和2年、12月になったある日、急に思い立って浅間山を見に行ってきた。

ひとつ山越しゃ、見える景色が一変する信州。
地域地域で仰ぐ山々も変わってくる。

茅野から見えるのが八ヶ岳連峰、松本からは北アルプスが地元を見守る山、というか地域のシンボル的な存在だとすれば、上田、佐久地方にとっては浅間連峰が、同様な存在なのではないか。

佐久地方から遠望する浅間山の秀峰

ということで、空気も澄み、仰ぐお山の姿も鮮烈なこの頃、佐久地方の母なる山、浅間山に近づきたくて軽トラを走らせた。

地図を見ると、小諸から山麓までのルートがある。

あたりは上信越高原国立公園エリアだ

10月に孫たちとリンゴ狩りをした小諸のリンゴ園の脇を通り、浅間山麓へと登ってゆく。

峠への道を登ってゆく

シーズンオフ、曇天、行きどまりのルート(冬季間、群馬へ抜ける道、湯ノ丸港高原へ抜ける林道は閉鎖)。
通行量はほとんどない。

浅間山登山口への分岐点を過ぎる

浅間山の山頂も雲がかかっている。

雲がかかった浅間山山頂

けっこうな傾斜のルートを登りきると、群馬との県境の車坂峠に到着。
下山してきた登山者もいるにはいたが、肌寒い気温と霧。
単独行の高齢登山者一人のほか、あたりに人影はない。
浅間山一帯が完全なシーズンオフであることを物語っている。

登山者への警告
峠から見た浅間山山頂

湯の丸高原への林道が閉鎖されているので、元来た道を引き返す。
とりあえず浅間山に近づけたドライブだった。

中山道シリーズ第五弾 芦田宿と茂田井間宿

今回、中山道二十六次・芦田宿と、その江戸よりにある茂田井間宿を訪ねた。

芦田宿

白樺湖から、県道40号線を使い、雨境峠を越えて下ってゆくと立科町の中心部に着く。
旧甲州街道との交差点を左折すると、中山道芦田宿だ。

長和宿と望月宿の間にあり、諏訪に向かって笠取峠のふもとに位置する宿場だ。

旧甲州街道・芦田宿

全国的に有名な場所でもなく、山小舎おじさんもあまり来たことがない。
通過するには旧中山道ではなく、新道を使うことが多いので通過することもほぼない。

本陣跡の門構え
現役で営業中の旅館

現役の旅館や、現役の醤油屋、本陣跡などを表面から見て歩き、町の中心部と思しきエリアに建つ「ふるさと交流館」に入ってみた。

ふるさと交流館に入ってみた

最初はいぶかしげに対応してくれた女性職員。
館内にはリモートワーク風にパソコンに向かう利用者、井戸端会議風に情報交換する利用者が三々五々。
平時のこともあり、全員女性だ。

来館の意図を伝えると、職員さんは地域紹介のパンフをくれたり、現役旅館のマッチをくれたり、付近の直売所の情報交換に応じてくれたりした。
部外者には戸惑ったものの、相手の意図を理解するとフレンドリーに対応してくれた職員さんに感謝。
館内に展示されている、東山道、東海道、地元の名士などの資料を見せてもらう。

この芦田宿には、立科町の役場がある。
昔からの街の中心地なのだが、車の流れ、商圏は完全に中山道の新道沿線に移っている。

町の中心部とバス停

ひっそりと時を刻む芦田宿の現在。
真新しい白壁の古民家が軒を連ねる歴史遺産的なエリアでもなければ、古民家が一掃され、宿場の香りが残っていない町に変貌していることもない。
無理なく自然な感じが好ましかった。

茂田井間宿

芦田宿から望月宿(江戸方面)へ歩いてすぐの場所に茂田井間宿がある。
間宿というのは、幕府が定めた正式な宿場ではなく、その中間にあり、宿場で賄いきれない客などをさばくための場所だという。
したがって本陣などはなく、殿様はあくまで正式な宿場の本陣に泊り、家来が泊まるのだという。

旧中山道。茂田井間宿には古い町並みが残っている

ここには造り酒屋が2軒残っており、その白壁が目を引く。
酒屋の一つ大澤酒造が民族資料館を併設しているので入ってみる。

大澤酒造の門構え、敷地内に資料館がある

声をかけると50代くらいの当主が出てきて、二階にある資料館の電気をつけてくれる。
びっくりしたのが鎧兜の展示。
かつての当主が殿様より賜ったものという。
宿場の住民で会っても名主を務めるような存在ならば、名字帯刀を許されたのだ。
名のある街道筋で歴史を刻んだ旧家の重みを感じることができる空間だった。

資料館の中央には鎧兜があたりを睥睨する
名主としての歴史を感じさせる展示物

入場料代わりに酒蔵の新酒を1本購入。

大澤酒造大吉野新酒を購入

通りがかりに見えた諏訪神社。
柱を組んだような本堂脇の外観が珍しくて寄ってみる。
かつての名工が刻んだ彫刻を保護するために柱で囲んでいるようだった。

集落にある諏訪神社
左の骨組みの中に名工の彫刻が保存されている

軽トラを駐車したのはかつての集落の中心地。
村立の学校から後に公民館として使われたという木造の愛すべき建物の前の広い駐車場。
バスが展開するというその場所は、今ではJAも閉店し、ひたすら無聊の時を刻んでいるようだった。

村立学校だった建物
柿の実越しに遠望する浅間連峰

地元パワースポット訪問記VOL.15 日本アルプス総鎮守・穂高神社

気になっていた穂高神社へ行った。

ガイドブックには「信州屈指のパワースポット」と、凛と輝く社屋の写真とともに紹介される穂高神社。
是非いかなきゃ!

穂高神社があるのは安曇野市。
山小舎から行くには諏訪側へ峠を越え、北上しなければならない。
しかも交通量が集中する松本周辺を抜けなければならない。

うーん、混むのは嫌だなあ。
そこで、諏訪側に出て国道20号から19号に入った後、アルプス側に迂回北上し、松本を避ける形で安曇野を目指すことにした。

国道19号線沿いの塩尻から山沿いの山形村へと迂回する。
通称「サラダ街道」と呼ばれている県道25号線を進む。

周辺はバラエテイに富んだ畑作地帯。
いろんな作物が植えられていて観ていて楽しい風景。
リンゴの収穫は終わっていた。

上高地から流れてきた梓川を越える

安曇野市に入ったあたりで、山裾の道から大糸線沿いのメインルート、国道147号線に下りた。

安曇野市の中心部で、大糸線の豊科駅があるエリアは、長野自動車道の安曇野インターにも近く、地元商店街のほか、郊外型チェーン店も並んでおり、交通量も多かった。
北アルプスが雪を湛えた姿を見せている。

安曇野から望む北アルプス
安曇野市豊科地区の商店街

かつては「壁」として日本列島を東西に隔てていた日本アルプス。
その東側は「毛人」の住む場所といわれていた。
朝廷が京都にあった時代の一方的な歴史観だが、なるほど遠望される北アルプスは、近寄りがたくも決然としてそびえる壁のようだ。

安曇野市豊科郷土博物館に寄ってみる。
郷土が現在まで受け継いでいる「御船祭り」に特化したといっていい館内のレイアウト。
手作りの「御船」がぶつかり合う祭りの映像が流れている。
石器時代からの歴史を追うような、一般的な郷土博物館より、郷土の一押しに特化したレイアウトは印象的に映った。

二階では特別展示として、郷土から出征し特攻隊として戦死した青年の資料や、満蒙開拓団、空襲、疎開などに関する聞き書きなどが展示されていた。
きちんと保存されている当時の遺品や、手打ちのワープロによる説明文などを見ると、まじめな県民性がうかがえるようだった。

博物館玄関にあったニホンカモシカの毛皮。寒さに強そうな手触りだった

国道147号線を北上して穂高神社へ。
日曜とはいえ、渋滞ともいえる交通量にビックリ。
大糸線・穂高駅駅前の穂高神社までは程ない距離。

穂高駅前の商店街の背後に隠れるようにして穂高神社はあった。
鳥居をくぐって1時間無料の駐車場へ。
境内に入ってびっくり。

まず、そこら中に鶏が放し飼いになっている。
あとで聞くと「神様のお使い」だからとのこと。

混んでもいなく、閑散ともしていない参拝客。
ガイドブックの写真で目に付くピカピカの社屋は、拝殿の前、境内の中央に立つ神楽殿。

思わず足取りが軽くなり、自然に笑みがこぼれるかのような雰囲気。
来てよかったと思えるありがたさ。
これだけ有名で、参拝者も数知れずの歴史を持ちながら、今も境内に流れるすがすがしい空気。

拝殿
神楽殿
ご神木

帰りに境内にある、御船会館という宝物館に入ってみる。
ここも、安曇野郷土博物館同様に、御船中心の展示だった。
7年ほどごとに行われる遷宮の行事にも、御船に乗った飾り物が欠かせないようで、歴代の写真が展示されていた。

安曇野地方。
真のパワースポット、北アルプスの神々しいパワーを背景に、空気がすがすがしいエリア。
そうすると穂高神社は、「北アルプスのパワーを受取る場所」という意味での「パワースポット」なのだろうか。

菅平を越えて須坂まで行ってきた

11月初旬の旅です。

地図を見ると、上田市から真田地区を経て北へ進むと菅平高原に至ることがわかります。
その道は上州街道といい、群馬との県境を越えて嬬恋村に至ります。
上州街道を菅平口という分岐点で左折すると、菅平高原に至り、さらに進むと須坂市に至ります。

 菅平高原への道

上田市北部の真田地区を進みます。
国道144号線、上州街道です。
ちなみにこの道、群馬に入ってからは長野街道と呼ばれるようです。

上田市郊外の真田地区から菅平方面を望む

標高があってゆきます。
分岐点がありました。
菅平方面に左折します。

分岐点「菅平口」。右手は群馬方面

菅平高原は、ラグビーなどスポーツの合宿地として有名です。
グラウンドや体育館の設備が整っています。
絵にかいたような高原の風景です。
東京からの距離は遠い印象ですが、ある程度の期間をスポーツ合宿などで過ごすにはいい場所だと思います。

菅平入口の看板
整備された野外グラウンドが散見される
立派な体育館やセンターが並ぶ

スキー場も何か所かあります。
東京からの日帰りではちょっときつい立地です。
かつてのスキーブームの頃ならともかく、昨今の集客状況は如何?と思ってしまいます。
菅平高原に入ったときは上田市の領域でしたが、いつの間にか須坂市への境を越えていました。

 須坂、大笹街道沿いの風景

菅平から須坂に至る国道406号線は、大笹街道といいます。
須坂の市街地まで急坂をつずれ折りして下ってゆきます。
高原のカラマツ林が過ぎると、スギの植林がカラマツや雑木林の中に混じった景色が現れました。

大笹街道を下る。

麓の集落を過ぎ、町に入ったとき、右手に不思議な塔の建物が見えました。
太鼓楼という建物で、お寺の一角に建っています。
かつては法要の時などに太鼓を打ち鳴らしたらしい。
楼の土台の建物の造りに、お寺とは思えない妙な艶があります。

大笹街道沿いのお寺の太鼓楼

また、お寺本体の建物を見ると、屋根が瓦葺ではなくトタン屋根となっています。
雪国ならではの造りで、東北北部から北海道のお寺に見られます。
山小舎おじさんはトタン屋根のお寺を見ると、郷愁を感じてしまいます。

大笹街道の少し先にある田中本家。
江戸時代から藩の御用を務めた豪商の屋敷で、現在は歴代の品々を展示して一般公開しています。

陶器、箪笥から着物など、状態よく保存されてきた様子がうかがえます。
なるほど今となっては貴重なものの展示ですが、例えば酒田の本間家のような圧倒的なきらびやかさを感じませんでした。

酒田という当時国内有数の物流拠点が生んだ蓄財とは所詮異なる山国のつつましやかな文化の集積、というべきなのでしょうか。
他を圧倒するギラギラな豪勢さではなく、趣味がよいというか、身の丈に合っというか。
同じ豪商でも、信州らしさを観ることができた田中本家でした。

館内の展示
庭も来館者に解放されている

 昼食はとら食堂で

地元の人が集まる県道沿いの食堂で昼食を食べた。

県道沿いに立つとら食堂の幟。駐車場も昼は満車だ

ホールに近所のパートさんらしき3人を配置した活気のある食堂。
がっつり系で定評と聞き行ってみた。

来客が引きも切らぬ。
単身の男性が多いが、カップルや仕事途中のグループも多い。
評判の焼肉定食を頼む客が多いようだ。
ごはんとキャベツはお替り自由とのこと。

カツ煮定植。見た目よりボリュームあり

手作り感十分で、満足感あり。
ただ1,250円は割高感あり。
ごはんのお替りを見越した設定額なのか、それなりの原材料を勘案するとやむを得ないのか。

 須坂、旧市街を歩く

須坂は群馬からの大笹街道と、千曲川沿いに飯山から千曲に向かう谷街道の合流地点の町。
谷街道沿いに栄えた旧市街地が蔵の町として再開発されている。

須崎の旧市街入口。左は蔵の町観光案内センター

菊祭りが開かれて、家々の前に見事な菊が飾られていた。

旧家の前に飾られる立派な菊

かつての商家の後には、カフェなどの新しい店が入っているのが目立つが、一方、昔ながらの商家の造りや味わいのある商店が現存しているところに味がある。

古い商家の建物
入口は狭く奥に長い商家の造り
休業となったが堂々たる造りを残す商店の建物
信州ならではの看板。はちみつ屋さんにて

 須坂駅前を歩く

須坂のオモテの歴史の一端に触れた後は、現在進行形の須坂の姿、あるいはウラの姿の一端に触れたくて駅前に行った。

長電須坂駅前。長電バスが停車する

須坂駅は、長野電鉄線の駅。
長野市と湯田中を結ぶ私鉄路線上にある。
長野市までの運賃は550円。

土曜日昼間ながら、駅周辺及び駅構内には人気が少ない。
駅前にあたりを睥睨するように屹立しているイオン周辺は多少違うようだが。

いずれにせよ、人の流れは駅周辺から、国道沿いの郊外型店舗地帯に移っているようだ。
ほかの全国各地同様、ご多聞に漏れずに。

駅構内の券売所
駅2階からみた駅前風景

駅前に1本怪しげな通りがあったので一巡してみる。

駅前の飲み屋通り

飲み屋街というよりはキャバレー、スナックが集まった通りのようだ。
コロナ禍以降どうなっているのか。
建物の荒廃ぶりから見て、景気が良ければ真っ先に再開発されそうな地域だがその気配やナシ。
店子の撤退→建物の解体→更地の道を歩んでいくのだろうか。

かつては賑やかだったのだろうか
貸店舗の看板が見える

 式内・墨坂神社にお参り

市内にある神社にお参りした。

式内神社の表参道。参道が路地というところに古い商店街の歴史を感じる

広い境内にお太鼓橋と池。
ご神木の幹が立派である。

落ち葉を踏んで参拝。

帰りは谷街道を使った。
途中の松代で長芋の直売所へ寄る。
50センチ以上の長芋が2本で1,000円。
土産に買って帰った。

松代にある長芋の直売所
50センチ以上が2本。これで1,000円!

 須坂のお土産

須坂で買ったお土産。地元産。
須坂市内の醸造所製の味噌
須坂の和菓子屋・盛新堂のどら焼き。バタどら焼きがうまかった
シナノゴールド。須坂の無人直売所で200円。

地元パワースポット訪問記 VOL.14 長野といえば善光寺

10月27日の信州ワンデーパスの旅で3時間ほど長野市にいた。
気になる市内のポイントを回って、善光寺にたどり着いた。

堂々たる木材の柱が支える長野駅。信州の玄関口だ

 ポイント1、市内の映画館まわり

気になる市内の映画館2館に行ってみた。
権堂通り商店街にある相生座と、駅前の千石劇場だ。

シネコン以外のいわゆる旧来の映画館は、県内には知っているだけで、上田映劇、茅野・新星劇場、塩尻・東座、伊那・旭座がある。
ほとんどが、昔ながらの大スクリーンと多数の座席を有し、フィルム上映も可能な映画館だ。

そういった映画館が長野市には2館残っている。
長野に来た時は、入場しないまでも当該2館の外観だけでも確かめたくなる。
映画鑑賞歴50年のオールドファンの、これがサガなのだ。

相生座。
「小津4K」と「ルイス・ブニュエル」の各特集のとき入場したことがある。
入場者にはまずお茶のサービスがあった。
女性支配人は雑談に応じてくれた。

意欲的なプログラムが目を引く。
なんと明治30年の開業。
現在は3スクリーン制で営業している。

120年の歴史を誇る相生座の正面風景
手書きの宣材が掲示板を飾る。「天井桟敷の人々」をやるのか!

千石劇場。
入ったことはないが、昭和25年開業と歴史は古い。
去年通りかかったときは、「仁義なき戦い」の連続上映のポスターがあった。
フィルム上映もできるのか。
2スクリーン制とのこと。

千石劇場の建物。映画館用に作った歴史ある建物とのこと
プログラムは一般向けだ

 ポイント2、権堂通りと小路

長野の街並みは、善光寺参道を中心に形作られている。
参道へと集まる小路があちこちにある。
参道が光とハレの場所だとすると、小路は日常と影の世界なのか。

市内に数多い小路。しまんりょ小路というところ
お寺への通行路なのか
街角にある銭湯

権堂通り商店街は昔ながらのアーケード商店街で、小売店、食堂などのほかに飲み屋も集まった、商店街と歓楽街が合わさったようなところ。

商店街から長野大通りを挟んだ東側には、善光寺参り客が精進落としをしてゆく、飲み屋、宿が並んでおり、今も名残の飲み屋が軒を連ねる。
聖俗併せのむ長野の歴史を飲み込んだ場所。

商店街の一角を占めていたイトーヨーカドーが撤退した時は、しばらく県内のニュースをにぎわしていた。

権堂アーケード街にあったヨーカ堂の建物
かーけーど街の一角にレコード屋があった
食堂のメニューが食欲をそそる

 そして善光寺

毎年訪れている善光寺。
3時間の長野散歩で街を歩いているうちに、今年もたどり着いてしまった。

参道が尽きたところに山門がある
仲見世通りには参拝客が引きも切らない

やはり長野の町の中心は善光寺なのだと思った。

堂々たる山門が他を圧倒する

参道を善光寺に近づくにつれて、人の密度が高くなる。
平日とはいえ常ににぎわう参拝客。

小学生の一団に追いつき追い越し、大急ぎでお参りだけを済ませる。
帰りの列車は14時半だ。

本堂へお参りしようと小学生の一団が登ってゆく

堂々たる大寺院の造作。
醸し出す伝統の風格。
何度訪れても、にぎやかで、明るさに圧倒される善光寺。

大昔から現在に至るまで、参拝客、観光客が絶えないのも、それなりのありがたさがあるからなのだろう。

折角長野にいるのだから、これからも折に触れて訪れたい場所だ。