修那羅山 安宮神社

築北村の修那羅山に行きました。
数年ぶり、2度目です。

築北村は上田と安曇野の間の山間部にあります。
山小舎からは、まず青木村に行き、国道143号線から県道12号線を北上します。
県道12号線を走ると、左手に「修那羅石仏」の標識が現れます。

県道12号線沿いの修那羅山参道口

修那羅山方面へ参道を上がります。
やがて一般車両通行禁止の看板が現れます。

前回は神社の境内まで軽トラで行ったなあ、と思いながら山道を歩いて進みます。
狭いものの、軽自動車が通れる舗装道路を上ってゆくと、神社の鳥居が現れます。

参道途中の標識。ここから歩く

独特の安心感というか、浮世離れ感というか。
特別の雰囲気に包まれた空間が支配する安宮神社に到着です。
神社の隣に居宅はあるのですが、住人に出会ったことがありません。

安宮神社に到着
鳥居越しに神社、住宅を見る

早速寄ってきた人懐こい猫を見ると、飼いネコであることがわかります。

猫が2匹いた

参拝を済ませ、今回の目的である、修那羅山特製のお札をいただき、これまで軽トラの運転席で揺られていた古いお札を納めます。
ライダー用の旅人ノートにその旨を記入し、お賽銭を多めに納めます。

安宮神社本殿
神社手製のお札をいただく
古いお札を納める
真新しい茶店の看板も

折角なので、神社の建物をくぐって、裏の石仏群のもとに。
神社の表は暑いくらいの陽光があふれているものの、石仏群がたたずむ場所は、苔むしたしっとりとした空間です。

鳥居をくぐって神社の裏手へ
裏手には石仏群が待つ
お地蔵さまもいらっしゃる

お参りの後は、参道を下り軽トラまで歩きます。
帰りは築北村中心部へ下り、直売所を訪ね、日帰り温泉(草湯温泉冠着荘)につかって帰りました。

県道を下ると、築北村坂井の集落

守屋山表参道 守屋神社

諏訪(茅野)と高遠を結ぶ峠道の杖突街道(国道152号線)。
杖突街道を諏訪側から越えたところに、古屋敷という集落があります。
諏訪大社の神長官・守矢氏の弓矢の埋蔵伝説がある場所とのことです。
杖突峠から少し離れたところに登山口のある守屋山は、諏訪の神様の依り代であるといわれています。

また、杖突街道は中央構造線に沿って走る谷沿いの道で、西側と東側では地質が異なっているそうです。
街道の沿線には、パワースポットの寺社があったり、地質が露呈している場所が複数あります。

山小舎おじさんは、高遠、伊那方面に行くときに杖突街道をよく通ります。
ある日、山小舎への帰りに杖突街道を通っていて、古屋敷付近に通りかかりました。
ふと見ると古い神社がたたずんでいます。
時間があったので軽トラを止めて寄ってきました。

守屋神社の碑と鳥居
手水鉢には水があふれている

守屋神社です。
諏訪のご神体・守屋山の参道に立つ古社です。
参道といっても車道ではありません。
今ではほとんど通る人もない山道です。

石段を上ると本殿が見える
本殿前には常夜灯がともる

神社は小規模な集落に建つにしては立派なものです。
手入れもされています。
境内の空気も澄んでいます。

境内から鳥居越しに杖突街道を見る
隣のバス停

隣がJRバスの高遠側からの終点のようで、展開場所と停留所がありました。

まだまだ、諏訪の神様信仰が生き残っている、守屋山周辺でした。

攻めまくり!伊那グリーンファーム直売所

伊那市にグリーンファームという直売所があります。
NHKの「ドキュメント72時間」という番組で紹介されるまで、山小舎おじさんは知りませんでした。
どうも、道の駅とか、農協の直売所ではなく、個人経営のマーケットのような場所らしいのです。
ノーチェックの場所でした。

番組を見たら、面白そうな場所だったので、伊那方面に行ったついでに寄ってきました。
実に攻めまくり!の直売所でした。

この日は日曜日、昼近くの駐車場は満車に近い盛況です。
伊那市の西側の田園地帯にあるグリーンファーム。
野菜や鶏卵の生産者である団体が経営しているようです。

伊那グリーンファームに到着

夏のような日差しの中、軽トラを止めて店舗に向かいます。
まず目に入るのは、店舗の建物の外壁に沿って並ぶ中古家具の姿です。

店舗の外側には古家具の山が

それを眺めながら店舗入り口へ向かうと、信州ではなかなか見ることができない、大人数の列が入り口に向かって並んでいます。
「えっ、こんなに混んでいるの?」と一瞬ひるみました。
なんと、人気の大学芋を買うために人が並んでいたのです。

店舗内に入ると買い物客で混雑しています。
直売所というよりは、廉価販売の倉庫風の店の雰囲気が漂います。

商品は、雑貨、菓子、金物、調味料から古本、古レコードまであります。
野菜、果物のコーナーが面積の半分ほどを占めているとはいえ、何でもありの商品構成です。

「ドキュメント72時間」でも、入植したばかりの素人風の生産者が、ハーブを出品している場面がありました。
古本や、古レコードを出品する人もいるのでしょう。

陳列商品には信州の特産品が
乾物、荒物も売っている
地域に必要な日用品の数々

来客のお目当ては何と言っても野菜、果物などの生産物。
折から季節的にはブドウをはじめリンゴ、ナシで大盛り上がり。
この日はマツタケなどもありました。

メインは新鮮野菜と果実

オオスズメバチの生きた成虫を、幼虫が入っている巣ごと売られているのは初めて見ました。
熊肉や鹿肉などもあります。

これは!危なくないのか。値段高いけど
ジビエの品ぞろえも抜かりなく

野菜では、ローゼルというハイビスカスに似た植物のつぼみや、最近見掛けるポポーという作物の実などもありました。
ローゼルは初めて見ました。

総菜、弁当などは売られていませんが、グリーンファーム手作りの新米おにぎりがありました。
パンやエスニックカレーの弁当はありましたが、ここでランチなどを調達しようとすると、選択肢が少ないかもしれません。

外へ出ると、ケージの中に鶏が数羽遊んでいて子供が眺めています。
この鶏も売り物で2700円とありました。
ソフトクリームの売り場もあり300円と割安です。

旨そうなおにぎりがてんこ盛り
ランチにはエスニックカレーも
攻めてるなあ

ローセル、おにぎり、グリーンファームさんの鶏卵のほか、保存瓶、酢の大びんなどを買いました。

帰りの駐車場には中京圏を中心に県外ナンバーの車が押し寄せての大盛況でした。
家族にも一度見せたいと思う伊那グリーンファームでした。

グリーーンファーム駐車場より西方を望む

小野神社、矢彦神社の戦争遺産

信州で戦前から続く文化遺産に接していると、戦前の文化がそのまま残っている例に接することがあります。

例えば御柱祭のトランペットマーチです。
御柱を氏子たちが引いて歩き、世話人が要所で木遣りを詠いますが、その際に地元の青年団などが景気づけにトランペットでマーチを演奏します。

その曲目が、旧日本陸軍の突撃ラッパだったりします。
今どき日本国内の公共の場所で、それなりの公人が旧国軍の戦意高揚の曲を高らかに奏であげるものでしょうか。
あっけらかんとした痛快さに驚きました。

それこそ戦後すぐにGHQが目の敵にし、それの意を汲んだ国内勢力がGHQなりに忖度して自主規制してきた文化の一つなのではないでしょうか。
その時期もとうに過ぎ、今や昭和遺産としてレトロブームの一環なのかもしれませんが。

そういうことで、辰野町小野地区の国道153号線を走っていると目につく古い神社、小野神社と矢彦神社を訪れてみると、同様な遺物に接することができます。
そこには、戦前の国威発揚のたまものなのでしょうか、大砲の弾丸だったり、砲筒だったりが境内に飾られています。

小野神社の鳥居
小野神社本殿

小野神社には大砲の弾丸の碑が建っています。
同社には、乃木希典書の忠魂碑もあります。
国内の大きな神社は、明治以降の国家神道時代を生き抜いてきた施設ですから、戦前の国威発揚時代の遺物だったり、土俵だったりはよくあります。
弾丸も神社にはよくあるものの一つなのでしょうか。
異彩を感じたのは私だけなのでしょうか。

小野神社境内の弾丸碑
小野神社境内の土俵

秀吉時代に行われた、知行割りの結果として分社して小野神社の隣に立つ矢彦神社には、大砲の筒が碑として立っています。
これも弾丸同様に、現代にあっては、歴史と時代の変遷を色濃く感じさせる遺物です。

矢彦神社鳥居
矢彦神社本殿
矢彦神社境内の砲筒碑

会津若松の白虎隊終焉の地、飯盛山へ行った時のことを思い出しました。
そこの一角に鍵十字をあしらった碑が建っています。
鍵十字はドイツ国防軍のトレードマーク’(現在も)ですが、この碑は、戦前のドイツが白虎隊の精神に感動して贈ったものだそうです。
戦後直後はGHQによる没収を恐れて、地元有志が隠していたとのエピソードが添えられていました。
歴史を感じさせる重みがありました。

松代へアンズ仕入れ旅

6月下旬、信州ではアンズが実る季節です。
いつごろからかアンズを作るようになった信州。
現在の千曲市あたりが名産地です。

千曲市に並んで隠れた名産地が松代。
現在の長野市松代町です。

6月下旬の信州、直売所にはアンズの幟が立つ

アンズを仕入れに松代へ向かいました。

山小舎から上田へ下りて、真田経由、地蔵峠を越えて松代へ向かいます。

途中によるのが真田の直売所です。
季節の野菜からお米までそろいます。
季節にはアンズも売られています。
さっそくひとパックを購入。
トマト、ニンジン、ジャガイモなどの野菜も買いました。

久しぶりにビーツが売られているのを見ました。
自宅でスムージーに使っているのでゲットします。
山小舎でも甘酢漬けにしてみましょう。

上田市真田地区にある直売所へ
アンズのほかにビーツなどを仕入れる

地蔵峠を越え、松代に下りてゆきます。
真っ先に地元のスーパーに向かいました。
アンズの大袋があったので購入。
ついでにプラムも。
プラムは酸っぱさがジャムにしたときに生きてきます。

スーパーの隣のお菓子屋でパンと和菓子も買いました。

松代のスーパー現金屋へ
アンズ2袋のほかプラムを購入

昼ご飯は久しぶりに行きたかった地元の食堂、ニュー街道一(あんかけ焼きそばが美味しかった)が予約客のみの営業だったので断念し、スーパーで弁当を買い軽トラの座席で食べました。

次いで地元のJA選果場へ。
アンズの幟が立ち、三々五々車が来場しています。
直売所にはパック詰めのアンズのほか、ジャム用のB品がキロ400円で量り売りされていました。
お客が自分で選び袋に詰める方式です。
B品とはいえ、粒も大きく、熟したものが混じっており、加工用には十分すぎるほどです。
2キロ買いました。

松代の選果場へ
量り売りのB品を2キロゲット

松代でたっぷりアンズを仕入れた山小舎おじさん。
最後に松代温泉に入り、黄金の湯に浸かって大広間で仮眠までして帰りました。

ここへ来たら松代湯には入りたい

「風立ちぬ」、富士見高原療養所

「風立ちぬ」といえば山小舎おじさんの世代は堀辰雄の小説(読んではいないが…)。
それから松田聖子の歌(大瀧詠一作曲)。
百恵・友和コンビによる映画化もあった。

旧富士見高原療養所

堀辰雄の小説は長野県富士見村にあった療養所を舞台に、婚約者との死別を描いたものであった。

松田聖子の歌の歌詞には、『高原のテラスで手紙・・・。一人で生きてゆけそうね・・・。さよならさよなら・・・』などとあり、高原の結核療養所で暮らす彼女が婚約者に別れ(死別)を示唆する内容ともとれることから、堀辰雄の同名小説をモチーフにした歌なのかもしれない。

また、山口百恵、三浦友和のコンビで同名の映画があった。
これは堀辰雄の原作の映画化だった。

堀辰雄「風立ちぬ」の舞台となった富士見高原療養所は、今は富士見高原病院となって、長野県富士見町のほぼ同じ場所で続いている。
病院には旧療養所時代の資料を展示した資料室があるので行ってきた。

町の中心部に立つ現富士見高原病院

富士見町の中心部に高原病院の新館が建っている。
入院病棟がある旧館の端の二部屋が資料室になっている。
新館の受付で資料室の見学を申し込み、3階へ上がって担当のお姉さんに案内してもらい入室する。
ちなみにマスクが必要だったので急遽自販機で購入した。

資料室には他の見学者はいなかったが、陳列する資料を見てゆくと病院の歴史を彩る様々な人材の体験と記憶の残像が、ぬぐいきれずに残っていることを実感するのだった。

高原病院旧館

療養所の始まりは一人の気鋭の医学博士の理想からだった。
スイスでサナトリウムを見ていた、長野出身で詩歌を愛する初代院長は理想の療養所を国内に作り上げた。

療養所の沿革を残す石碑が立っている

日光を取り入れるバルコニー付きの病室、栄養豊富な給食、ベールを被ったシスターのような看護婦の制服。
入院費用は庶民にはとても手の出ないものだったという。

入院患者には堀辰雄のほか、竹久夢二、横溝正史など有名人がいた。
入院原簿が展示されており、竹久の欄には死亡とある。

療養所資料館の看板が旧館の外壁にあった(ここから入室はできない)

結核療養所というと、町のはずれに木造の入院棟が建ち、木枠の窓が寂しく連なっているイメージがある。
昭和も中期までの印象であろうか。
そのころは地方でも中核都市の郊外には結核療養所があったように思う。

結核が死の病ではなくなって以降、療養所は病院などに転用されていった。
多くの大衆向け療養所の存在に比して、富士見療養所は著名人の患者が集まるモデル療養所だったようだ。

新館の受付で申し込んでから3階の資料館に入る。内部は撮影できない

旧療養所の面影はすでにないが、病院新館の前庭には高原の森をイメージするかのような木々が残り、往時の療養所周辺の風景を思わせるのだった。

現病院の前庭には高原の風景が・・・

戸隠神社 足腰健康守 

この冬に家族で戸隠神社へ行き、山小舎おばさんが奥社で足腰のお守りをもらって帰りました。
しばらくすると携帯に付けていたお守りのひもがぷっつりと切れました。
お守りが守ってくれたのか、不吉なことがあるのか、ちょっと心配になりました。

自宅から山小舎へ戻った山小舎おじさんは、再び戸隠神社へ行ってお守りをもらいなおすことにしました。

4月のGWのある日、軽トラで戸隠に向かいました。
長野市内をかすめ善行寺から戸隠への道をたどります。

急坂を上がりしばらく行くと飯綱高原という場所に出ます。
大座法師池のほとりに蕎麦屋や茶店が並び、キャンプ場などもあるリゾート地です。

飯綱高原の大座法師池

法師池昼になったので軽トラを止め蕎麦屋に入りました。
満員で食べ終わるまで1時間ほどかかりましたが、手打ちの二八蕎麦を一気にすすりこみました。
待たせたお詫びなのか、野菜の天ぷらが2つサービスについていました。

蕎麦屋で食べた二八蕎麦

飯綱高原から戸隠まではさらにひとっ走り。
戸隠の集落では桜が満開でした。
戸隠神社中社の鳥居の周りには観光客がたくさんいました。

戸隠神社中社の大鳥居

奥社の駐車場に着きました。
そこから鳥居をくぐり参道を歩きます。

約2キロの参道は冬の間には見ることができないほどの参拝客が歩いていました。
今はやりのインバウンド客の姿もありましたが、圧倒的に多いのは日本人の参拝客。
家族連れやカップルが思い思いに歩いています。

ここまで来てせかせか歩く人の姿はなく、いいムードが流れています。
由緒ある神社への参拝の前の心身を整える過程を楽しんでいるかのような人の流れです。

戸隠神社奥社の大鳥居の混雑
奥社参道途中の随神門は参道の中ほど
隋神門を過ぎると奥社へと続く杉並木が現れる

お守りをもらいに来た山小舎おじさんは、いつものマイペースな歩きではなく、おじさんにしては速いペースで一生懸命歩きました。
ノンストップで奥社に着き、拝礼の列に並びました。
汗を拭きます。
奥社、九頭龍社と拝礼し、社務所に並びます。

奥社で参拝

折角来たので、九頭龍社のお札、お守りももらいました。
目的の戸隠神社足腰健康守りももらって目的達成です。

目的の足腰健康守

夕方に近くなり寒気が押し寄せてきた戸隠の里を下って山小舎へ帰りました。

戸隠エリアは魅力的な場所です。
次回は中社参拝、戸隠地質化石博物館、民俗資料館、女人結界碑などの見学を行いたいと思いました。

無言館 成人式

塩田平に建つ無言館は、戦没画学生たちの絵画や遺品を展示保管する民間施設です。
毎年GWのころに「成人式」を行うというので行ってみました。

無言館で成人の誓を立てたいと希望する若い人であれば参加できる式が毎年行われています。

上田市の塩田平の小高い山林の中に無言館はありました。
令和6年4月29日。
4月というより初夏の気候です。
新緑の雑木林に囲まれた場所です。
既に駐車場はかなりの車で埋まっています。

無言館駐車場わきの雑木林

入り口に向けて歩いてゆくと、テントが幾張かと椅子が見えました。
受付もあります。

「成人式はこれからですか。一般なんですが」と係の人に聞くと、「一般の方は成人式に参加できません。見学もできません。美術館は開館しています、此方から入場してください。美術館の窓口は出口にあります。」と丁寧に答えてくれました。
残念ながら成人式の様子はうかがえないようです。

無言館入り口。成人式会場が準備されている

無言館はNHK日曜夜の「日曜美術館」という番組で紹介されていたり、県内ローカルニュースで「成人式」のことが報道されていました。
いつかは行こうと思っていました。

館内はそこそこの人出。
戦没した画学生らの作品がかけられ、ガラスケースには遺品が展示されています。
絵の脇には作者の紹介文が添えられています。
見ると20歳そこそこの学生のほか、30歳前後の妻子ある人も多いのに気づきました。
奥さんや恋人、妹などを描いた絵も目に付きます。

油絵が多いのですが日本画の遺品もありました。
展示されている日本画のレベルの高さには伝統を感じました。

子供や若者の見学者も多い館内です。
山小舎おじさんにとっては、戦没時に20歳代前半の画学生達は自分の父親と同年代になります。
自分の父親が20歳前半で残した遺品だと思えば他人事には思えないものがあります。
それらの遺品に、傷んだ状態で、直接(ガラス越しではなく)接することができました。
時間の経過と故人の個性を実感できるようでした。

館内からは戦没が学生らの無念の気配は感じましたが、それは個人的な感慨を前面に出したものではなく、時間の経過もあるのでしょうが、すでに諦観に近いものに昇華されておりました。
戦争が、「個人の体験」から「歴史」となりつつあるようでした。
戦争体験を語る人たちがほとんどいなくなっている時代だからでしょう。

こうして作品が残り、展示されているのは彼らが学生が特別な才能を持つ「エリート」だったからであり、そのすそ野には何万倍もの無名の戦没者がいます。

10年ほど前のサラリーマン時代の仙台赴任の折、休みに訪れた山形県新庄市の郷土資料館で、無名兵士の軍人手帖が、ほかの戦争関連の資料とともに置かれていて、思わず手に取ってめくったことがありました。
思ったよりも固くて薄い紙質でした。

無言館の裏側

美術館を出て駐車場に戻る間に、戸外に設営された「成人式」会場を通りました。
テント内では地元の方々が山菜の天ぷらを揚げ、赤飯の折がテーブルにセットされ、新成人(18歳から30歳くらいまでの希望者)をまっていました。

生島足島神社でお札をもらう

令和6年の大型連休初日、塩田平の生島足島神社に今年のお札をもらいにゆきました。

生島足島神社

神社に近づくにつれ賑やかな雰囲気が伝わってきます。
休日ということもあり、お宮参りの家族連れが境内を歩いています。

塩田平や上田市の住民にとって、初もうでやお祝い厄落としなどでご縁のある神社です。
お宮参りの家族らは本殿の中に入ってお祓いをしてもらうようです。

本殿への橋の前で

山小舎おじさんは神前にて令和6年の山小舎の安全を祈願。
社務所にてお札をもらいました。

本殿で御参りする人

去年のお札を収めましたが、他の神社のお札は断られました。

神楽殿の方が賑やかなので覗いてみると、巫女さんらが店を出してコーヒーなどを出していました。
神楽殿内に席を設けお客らは上がって休んでおりました。

いつだったか、秋にこの神楽殿で小学生くらいの巫女さんたちが舞っているのを見たことがありました。
所作を間違えないように舞っている巫女さんを袖で見守る中学生くらいの女の子の姿が印象的でした。
彼女も小学生の時に舞っており、次代の巫女さんたちが心配で見守っているのだろうなと思いました。

神楽殿ではコーヒーのサービスが(有料)

晴天に恵まれた神社はとにかく明るくてにぎやかでした。

諏訪大社上社前宮に「初詣」

山小舎おじさんの毎年の地域初詣は4月です。
まず諏訪大社に参拝しました。
今年は上社前宮へ行きました。

諏訪信仰の本山。
諏訪大社4社の最古の社。
上社前宮です。

茅野市にあり、御柱街道と呼ばれる道に面して大きな鳥居が建っています。
上社本宮や下社のように参道に茶店などが建ってはいません。
また境内を仕切る塀がないので、神社が地区の民家や畑と一体化しており、素朴な民間信仰の形態や香りを残してもいます。
明治以前の神仏習合の時代には、周囲をたくさんのお寺が取り囲み、上社本宮までの間は賑やかな参道だったといいます。

観光地化しておらず、熱心な参拝客が三々五々訪れます。

4月には諏訪大社に伝わる奇祭「御頭祭」が行われ、本宮を出発した神輿が前宮を訪れます。
前宮では鹿の頭を備えて神事が執り行われます。
「狩猟」「肉食」がキーワードでもある諏訪信仰の形を今に残す貴重なお祭りです。

鳥居をくぐって一歩中に入ると、そこは素朴で武骨な気配に支配された世界です。

第二の鳥居をくぐり、御頭祭の神事が執り行われる殿の横を上って本殿へ向かいます。
民家の庭先や畑の間の道をとおって、杜に囲まれた本殿に着きます。
一層孤高の風格を感じさせる本殿です。

第二の鳥居
御頭祭の神事が執り行われる神殿

本殿は御柱に四方を囲まれ、麓には清らかな小川が流れています。
神様に今年1年の山小舎の安全を祈願します。

杜に囲まれた本殿
斜めから見た本殿
本殿を囲む御柱と流れる清流

お参りを済ませて、麓にある社務所に向かいます。
コロナのころには閉まっていた社務所です。
今年は宮司さん2人が受付していました。

本殿から下って第二鳥居方向を見る

宮司さんに「家内安全のお札をください」というと、「お札とは天照大神系のもので紙製のもの。本宮でもらえる」と言われました。
「地元の諏訪系の神様のものがいいです。木製で」というと宮司さんはうれしそうな顔をしました。

宮司さんに諏訪大社についていろいろ聞きたくて雑談していると、御朱印帖をもった参拝客が並んだので社務所を離れました。

小雨の降る肌寒い日の諏訪大社「初詣」が終わりました。

山桜が咲く里山