立寄り湯めぐりVOL.12 片倉館千人風呂

上諏訪温泉街にある片倉館・千人風呂へ寄ってきました。

諏訪湖畔の一番賑やかな一帯。
旅館や飲食店が立ち並び、遊覧船の船着き場もあります。
JR上諏訪駅からほど近いこの一帯、思えば県内では長野、松本の繁華街に次ぐ賑やかな場所かもしれません。

この場所の一角、高層ホテル群の間に片倉館という施設が残っています。
岡谷で製紙業で財を成した片倉財閥が、従業員と地域住民の福利厚生を目的にした施設で三つの建物があります。
そのうちの一つが地元の上諏訪温泉を引いた千人風呂を備えており、現在では一般客も利用できます。

12月の冬じまいに追われるある日、雨が降って外の作業ができなくなりました。
かねてより気になっていた片倉館千人風呂へ行くことにしました。

諏訪湖畔の風景

12月の平日、天気は不順ながら、交通量の多い諏訪湖畔です。
さすがにそぞろ歩く観光客らの姿は少なく、湖畔の無料駐車場もガラガラではありましたが。

片倉館の3棟の洋風建築は、それぞれが国の重要文化財に指定されています。
隣の敷地には諏訪市立美術館が建っています。
それなりに広い駐車場もあります。

片倉館の建物から美術館方面を見る

千人風呂へ向かいます。
洋風建築の威容をたたえた正面入り口の前に立つと、左側に巨大な煙突も見えます。

玄関を開けるとすぐ靴を脱いで上がります。
古い洋風建築物をリユースした博物館のような建物内部の印象です。
受付で入場料750円を払います。

千人風呂がある建物正面

浴室へ入るとそこは少し年代ががったスーパー銭湯のような造り。
広々とした脱衣場にロッカーが並んでいます。

浴室は広いといえば広いですが、最近では大浴場付きホテルのそれと同じくらいかもしれません。
昭和の時代に団体さんを受け入れた各地の温泉ホテルの大浴場を知っている方々からすると「千人風呂」とはまた大風呂敷な、と思うかもしれない程度の広さです。

浴室内部の様子はパンフレットから

浴室の壁の装飾というか意匠は、洋風というのかローマ風呂風というのか。

思えば、昭和時代なのか、その前からなのか、温泉では浴室を西洋風にデコレートする風潮がありました。
まん丸の浴槽にミロのビーナス風の石像が建ち、石像が持つ甕からお湯が噴き出ていたり、ステンドグラス風の装飾があったり・・・。

かつて山形県最上市の瀬見温泉というところで立寄った旅館の浴室がまさにそうでした。
時代を経過したその風情は、それはそれで非日常的でもあり悪くはありませんでした。

休憩室には年代物の備品が展示されている

野麦峠を泣く泣く超えてきて、倒れるまで働いた女工さんたちが千人風呂で疲れをいやした時代ははるか彼方となりました。
その時代に思いをはせるには時がたちすぎた令和3年の冬。
片倉館の千人風呂に浸かって今年の疲れを癒します。

浴槽がそれなりに大きいので温まります。
泉質に強烈さは感じませんが。

大正時代の日本に成金というバブルを生んだ産業の一つである製糸業。
その興隆が産み落とした遺構のような温泉施設が諏訪湖畔に残っていました。

二階の休憩室では入浴客が一人憩う

諏訪の神様が気になるの 令和3年のお礼参り

今年も山小舎仕舞が間近となる12月のある日。
この1年の山小舎暮らしの無事を感謝して、諏訪の神様にお礼参りしました。

ミシャグジ神

諏訪の神様が気になるにつれて、その存在がクローズアップされてくるのがミシャグジ神。
どうやら現存する諏訪の神様の中で最も歴史が古く、また核心部分に位置する神様のようです。

長野を中心に上越、関西地方に分布するというミシャグジ神の総社が、茅野市の神長官守矢家の敷地内にあります。

久しぶりの神長官守矢家は今日も光に包まれていた

総社というにはあまりに素朴で、簡素ですが、ご神木に守られひっそりとたたずんでいます。
社から見下ろすと、今に続く神長官屋敷が孤高の気高さを漂わせながら現存しています。

古武士のような風格のミシャグジ神総社

地元の銘酒・真澄のワンカップなどが供えれらている社に、ささやかなお賽銭を供え、今年の無事を感謝しました。

ワンカップがたくさん供えられていた

諏訪大社本宮

守矢家から車で5分ほどの本宮へ向かいました。
途中に前宮がありますが、今回はカット。

本宮へ着くと取り急ぎ、拝殿への階段を上りました。

本宮は、本殿がなく、本来のご神体は守屋山へと続く山であり、そこに生える原生林と、岩だといわれています。
それらご神体は、他の神社の配置と同様に、鳥居をくぐり、拝殿への階段を上がった正面に位置しています。

ところが現在の本宮は、左90度の位置に拝殿を構え、多くの参拝客をそちらに誘導しています。
拝殿から望むのは、現在では本宮のご神体と呼ばれるタケミナカタの神です。

今回は、ひとつ本来のご神体に参拝しようと拝殿への階段を上っていると。
いまさらですが、正面にご神体の守屋山方面を遥拝できるような空間が開いているのに気が付きました。
階段を上がった参拝客は塀に区切られた導線に誘導されて右折してから、拝殿や宝物館のある境内に入るのですが、右折へと誘導する塀が一部空いているのです。

これって、参拝客が本来のご神体に向けての視線を切らさないための造作か?と思いながら境内へ。

正面に開けられている「入口」。通行はできない

今までは気が付かなかったのですが、境内には守屋山へと続く神域に向かう遥拝所があったりして、本来の諏訪の神様への敬意を忘れていませんでした。

改めて、本宮独自の配置の妙を確認しました。
そういえば松代の神社でも本殿の90度左に、八幡様やお稲荷さんが建っていましたっけ。
古くからの神様を祀る神社が、新しい神(多くはのちの権力者によってもたらされた神)を別扱いで祀ることがあるのですね。

鳥居から向かって正面に本来のご神体への遥拝所がある
遥拝所左わきに天皇が祈願する場所という建物がある
左90度に設置された拝殿からタケミナカタの神にも参拝

諏訪の神様のご神体のもうひとつは岩です。
本宮における岩は硯岩と呼ばれており、拝殿脇にあります。
近くにまで寄れないのが残念ですが。

拝殿の右側に硯石の頭だけが見える

立寄り湯めぐりVOL.11  上諏訪温泉 湯小路あたり

上諏訪(諏訪市)は諏訪湖沿岸最大の観光地であり、温泉街です。
街中にも温泉が湧いています。

これまで、下諏訪温泉郷の立寄り湯には何度か入っていた山小舎おじさんですが、なぜか上諏訪の温泉にはご縁がありませんでした。

上諏訪の、表通り(国道20号線)から1本裏手に入った街中の通りを走ると、湯小路という交差点があります。
湯小路交差点を折れると、ひなびた街並みのはずれに年代物の立寄り湯の建物があります。

平湯から湯小路交差点方面をみる

平湯という建物です。
昔からあるお湯で、武士など支配階級が入る湯が別にあった時に、庶民(平民)が入る外湯として設けられたことから平湯と名付けられたそうです。
現在の建物は大正10年に建てられました。
上諏訪の歴史を感じる湯小路の街並みと、平湯の建物のマッチング感が絶妙です。
昭和30年代を想定した映画のロケがそのままでできます。

この平湯は、会員限定の入浴施設です。
会員の資格は年会費等を支払えばだれでもなれますが、現在はご時世柄、新規会員は募集していないそうです。

平湯の建物を側面から見る

すぐ隣に、これまた会員限定の上湯という外湯もあります。
これだけ平湯に近いと、源泉が同じで浴槽だけを別にした施設のようにも見えます。

すぐ隣にある上湯の入り口

この先へ入ったところにもう一軒、外湯があります。
大和温泉といいます。

入り口は注意していないと通り過ぎてしまいます。
通りから狭い通路を入ってゆき、そのお宅の中庭が「番台」になっています。
浴室は民家の敷地内にあります。
ご時世柄一時閉鎖していたとのことですが、現在では氏名、住所を記帳すると一般人でも入れます。
300円です。

大和温泉の入り口

山小舎おじさん、よそのお庭に入ったようで、恐る恐る申し出ると、管理の方は「入浴前に石鹸で体を流してください。浴槽が循環式ではないので」とのことでした。
普段、温泉には石鹸、シャンプーを持ってゆかない山小舎おじさん、恐る恐る「石鹸持っていないのですが」というと「貸してあげます」とのこと。
泡式のボデイーシャンプーボトルをお貸しいただきました。

いつだか、家族で立寄った下諏訪の菅野温泉で、小分けのシャンプーがないか?と聞いた我が奥さんに、番台のおばさんが「私のを貸してあげる」と言ってくれたことを思い出しました。

この大和温泉。
熱めのお湯がお約束の諏訪の例にたがわず、昔の夕方前の銭湯のように、体にヒリヒリとしみいるお湯が特徴。
かすかな硫黄臭とともにあふれ出る源泉は紛れもなく温泉浴のだいご味。
きっちりと体に温泉成分をしみ込ませていただきました。

ほかにお客がいないので浴室内を撮らせていただきました

いい温泉は、入った後に気分がリフレッシュします。
心地よく疲労感を感じるというよりは、むしろ心身(特に心の方)が一皮抜けたように前向きになるのを感じるのです。

この日もささやかに心身を脱皮させた山小舎おじさんです。

大和温泉とその並び

中山道シリーズ第七弾 笠取峠の松並木

中山道六十九次中、二十六次・芦田宿と二十七次・長久保宿の間に笠取峠があります。
笠取峠には江戸時代に植樹・整備されたという松並木が残っています。

広重・木曽街道六十九次より望月宿。描かれているのは笠取峠松並木

現在の国道142号線は、ほぼ旧中山道をトレースし、高崎から軽井沢へと碓氷峠を越え、佐久平を貫通して諏訪へと峠を越えてゆく幹線道路です。
関東から諏訪、松本方面へつなぐ物流ルートとしてトラックなどの交通がひっきりなしに行きかっています。
山小舎おじさんも、別荘地の周りの人たちも、佐久、軽井沢方面への行くときによく利用する道です。

国道142号線のルート上で、佐久平から諏訪方面へと越えるときの最初の峠が笠取峠です。
峠は、現・北佐久郡立科町と小県郡長和町の境に位置しています。

この日は、長和町から立科町に向かって国道142号線を走りました。
笠取峠を越えたあたりに右手に斜めに折れる旧道があります。
そこが、旧中山道の景勝地として、安藤広重の浮世絵にも絵が画れた松並木への入り口です。

国道142号線から松並木へ折れる分岐点

斜めに折れた道に入ってゆきます。
いわゆる松並木の景色を残したところもありますが、現在では松がところどころ残っている並木跡、といった風情です。

今に残る松並木

旧道は国道142号線を越えて続いています。
国道を逆落としに突っ込んでくるトラックたちに気を付けながら渡ると、常夜灯が建つ公園のような場所になっています。
峠の茶屋があった場所だそうです。
現在では、駐車場とトイレを備えた広場として整備されています。
地元の人々により中山道の歴史が大事に保存されている様子がわかります。

峠の茶屋跡

街道を芦田宿方面(軽井沢宿方面)へと下ってゆく眼前には佐久平が広がり、遠く浅間連峰が望まれます。
今よ変わらなかったであろう昔日の景色を想像できるかのような一瞬です。

松並木より佐久平方面を望む

上高地

長野県と岐阜県の県境をなす穂高連峰。
そのふもとの上高地は穂高連峰へ、北アルプスへの登山口として、また風光明媚な観光地として有名だ。
11月中旬の山じまいを前に、長野在住5年目にして初めて上高地へ行った。

国道158号線を松本方面から西へ向かう。
谷沿いを縫って走る山道だ。
道路標識は岐阜県の飛騨高山までの距離を示し続ける。
峠を越えれば岐阜県につながる国道なのだ。

沢渡という場所が上高地への入り口に当たる。
上高地はマイカー乗り入れができないため、バスターミナルのある沢渡からバスまたはタクシーに乗り換えて向かうのだ。

沢渡大橋バスターミナルから上高地バスターミナル行きのバスに乗る

バスは上高地のバスターミナルまで運んでくれる。
河童橋が梓川にかかる、上高地の中心部だ。

われわれ(山小舎おじさん夫婦)は2つ前のバス停で下りて、大正池から河童橋まで約1時間のコースを歩くことにした。

大正池前で下りる

道路から大正池の湖畔に下りると、彼方に穂高連峰の威容が見え、さっそく上高地の世界に取り込まれるようだった。

しばらく梓川沿いに原生林と湿原が織りなす風景の中を進む。
このコース、この日は人出も少なく気持ちよい散策ができた。

時に木々の間から垣間見える穂高の山々がだんだん大きく迫ってくる。

絵葉書にあらず!大正池から望む穂高連峰を実写
湿地を流れる水がとことん透明だ
遊歩道は整備されている
原生林の間から穂高連峰の姿が迫ってくる

途中の上高地帝国ホテルで昼食を摂ることにした。
ホテルのランチなので、味、サービスともに満足でした。

上高地帝国ホテルでランチ
カレーはうまかった。サラダの野菜も絶品

少し歩いてバスターミナルに到着。

梓川沿いに出れば、観光客でごった返す河童橋があった。

東京が緊急事態を解除した後の時期とはいえ、思った以上の人出。
通常の年ならもっとすごいのだろうな、と思わざるを得なかった。

外国人、関西人の姿、声も目立った。
上高地は軽井沢と並ぶ県内有数の観光地だった。

上高地バスターミナルに到着
梓川に河童橋がかかる
河童橋からもと来た方を見る。逆光に焼岳のシルエット

かえりに白骨温泉に寄ってみた。

立ち寄りの露天風呂はややぬるめの湯ながら、山に囲まれた景色ともども旅の風来坊たちの心身を慰めてくれた。

帰りは白骨温泉の公共露天風呂でひとっ風呂

「美濃戸」へ行ってみた

「美濃戸」と聞いてわかる人は、山歩きの愛好家か八ヶ岳に詳しい人だろうと思います。

美濃戸は南八ヶ岳の主峰・赤岳の登山口の地名です。

八ヶ岳連峰では北端にある蓼科山にしか登ったことがない山小舎おじさん。
せっかく近くにいるのだから、年に一回くらい八ヶ岳の各ピークにでも登りたいな?と思いつつ腰が重く今に至っています。

11月のある日、偵察がてら美濃戸まで軽トラで行ってみました。

南八ヶ岳山麓には縦横に走る道路が続いています。
連峰と並行に、茅野から原村、富士見と走りぬける、八ヶ岳エコーライン。
原村の高原野菜畑を赤岳方面に駆け上る八ヶ岳ズームラインなど。

山麓の道路を駆け抜け、まずは美濃戸口へ向かう分岐点へと向かいます。
美濃戸口は美濃戸への入り口です。

美濃戸口への分岐点

分岐点を過ぎ、美濃戸口へ向かう道路わきには別荘が点在しています。

美濃戸口に着きました。
どんな山の中か?と想像していた眼前に、小ぎれいな山荘とこじゃれたカフェが現れました。
ここまでは路線バスも、毎日2~4本運行しています。

美濃戸口へ着いた、バスの転回場の向こうに山荘
路線バスの停留場
美濃戸口のしゃれたカフェ

美濃戸口から美濃戸まで、歩いて1時間の行程ですが、車道が続いてみるので行ってみることにします。

大変な悪路でした。
乗用車では行かない方がいいでしょう。
軽トラでも1速か2速でヒヤヒヤしながら行きました。
凸凹のガードレールのない砂利道で、対向車があれば行きかうのが大変な道です。

美濃戸へ向かう道

いつまで走ればいいのか?本当に美濃戸に着くのか?と思っていたころ、山小舎が見えました。

美濃戸へ着きました。迎えるのはやまのこ村山荘

とりあえず駐車場に軽トラを止め降り立ちます。
美濃戸口とは異なり本格的な山の気配が支配的です。

美濃戸には3軒の山小舎があり、それぞれ駐車場を持ています。
11月とはいえ休日のこの日、満車とはいえなくとも思ったより多くに車が駐車しています。
山から下ってくる登山者もちらほらいます。

美濃戸から望む赤岳山頂

赤岳山荘のおばさんと話をしました。

ここからだと往復8時間で赤岳山頂までいってこれるとのこと。
本来であれば朝7時までに駐車場に来てスタートするのが望ましいこと。
自信がないのであれば途中の行者小屋まで行ってみるのもいい。
この先にもう1軒山小舎があり、登山ルートの分岐点があるから行って見てみなさい。

おばさんが話してくれた赤岳山荘

おばさんの言う通り、.北沢コースと南沢コースの分岐点まで行ってみました。

カップルの登山者が下りてくるところでした。
山小舎前の湧水を汲みながら休んでいるところを話しかけました。

登山ルートの表示

赤岳に登ってきた。
山頂までは3時間だった。
雪があるので滑り止めをつけないと死にますよ、夏でも登山靴を履いた方がいいでしょう。
赤岳は何回か登ったが年配者も単独者も多いよ。
夏は前泊で乗り込む人が多いから駐車場も満杯になる。とのこと。

登山ルート分岐点に近い美濃戸山荘

すでに深山の気配が色濃い美濃戸。
三々五々下りてくる登山客と赤岳山荘のおばさんがいなければ、一刻も早く下界に退散したくなる、寂しくも厳しい「山の領域」です。

来年の夏。
混雑する休日を避けて、朝7時着で駐車場を目指し、登山靴を用意したうえで、とりあえず途中の行者小屋あたりを目指して登ってみましょうか。

まだ・諏訪の神様が気になるの 御射山、御柱、尖石

八ヶ岳山麓の南西エリアは諏訪の神様のゆかりの地です。
歴史に埋もれかかった神社、現代に生きる祭祀、遺跡などが、訪れる人を待つように息づいています。

御射山(富士見町)

中央道諏訪南インター近くに、御射山社があります。
諏訪大社は上社と下社がそれぞれ御射山を持っていますが、こは上社の御射山です。
御射山とは神事としての狩猟を行っってきた場所です。

丘陵を上ってみると案内板があります。
軽トラでも入ってゆけるので、案内板の通りに一巡してみます。

矢場だった場所を通り、鳥居と神殿を過ぎると、岩があります。
やはり諏訪の神様の依り代は岩なのです。

入ってすぐに矢場がある
鳥居が立って御射山社の領域となる
神殿が建つ
岩は諏訪系神社のマストアイテム

鳥居があって、くぐると祠がいくつか残っています。
その一つに「初代大祝有員(しょだいおおほうりありかず)」と標識が立っています。

有員は、「諏訪の神様が気になるの」でも印象的に取り扱われた上社の歴史上のキーマンの一人です。

上社の神職として、神長官と並ぶ「大祝」は、代々8歳の男子が即位し、神の化身といわれました。、
その初代の墓がここにあったのです。

初代大祝の墓を見ようとは・・・

上社御射山では、現在でも奉納弓道大会などが行われているとのこと。
目立たなくも、小ぎれいに整備されひっそりと時を刻む諏訪の神様の聖地のひとつです。

社を出て里山を望む

御柱(茅野市)

来年の令和4年は寅年で、御柱祭が行われる年です。
大社の氏子たちにとっては、そのために生きている、といっていいほどのお祭りです。

八ヶ岳農業実践大学近くの空き地に、上社用の御柱8本が切り出されて並んでいました。
本宮用、前宮用にそれぞれ4本です。

切り出された御柱が八ヶ岳を背景に並ぶ

三々五々、見学の人がやってきては写真を撮ってゆきます。

関係者らしき人がいたので聞いてみました。

それによると、八ヶ岳連峰の阿弥陀岳付近の山中から切り出したとのこと。
樹齢は150年から200年。
チェーンソーを使って切ったのもあるとのこと。
ここまでは重機で運び、もう少し下まで重機で運んでから、来年4月に氏子が曳いてゆくとここと。

この8本は、茅野駅裏手にある木落坂を下りて上社に向かいます。
全国的に有名なのは下社の木落坂で、急な坂を氏子たちを振り落としながら御柱が落ちてゆきますが、茅野駅裏手の木落坂はそれほど急ではありません。

「下社の御柱はクルクル回って落ちてゆくが、柱の枝を少し残しておけば回らないで落ちてゆくんだよ」と上社の御柱の特徴を説明してくれた関係者さんでした。

尖石(茅野市)

茅野市の郊外の八ヶ岳山麓に尖石という地名があります。

縄文時代に広く集落が分布した場所で、付近からは国宝に指定された土偶が2体発見されています。

その土偶が展示されている、尖石縄文考古館の近くに地名のもとになった「尖石」があります。

公園風に整地された芝生に標識が立つ

道路から、広い芝生を通り抜けて崖を下りると尖石はありました。

思ったよりは小さいですが、なんとなく存在感のある不思議な岩です。
むき出しの状態で今まで残ってきたのは、尖石が信仰の対象であるゆえんだと思います。

岩、ということからも諏訪信仰とのつながりがうかがえます。

諏訪の神様は諏訪湖畔にある日突然に現れたものではなく、縄文の文化をその揺籃として醸成せしめたものとすれば、ここ八ヶ岳西南麓こそがそのルーツの一つであるともいえるでしょう。

崖を下ると尖石があった
不思議は存在感を放つ尖石

戦前から民間による遺跡発掘のフィールドとしての歴史を持つこの一帯。

何より八ヶ岳の強力なパワーに満ち満ちた場所にみえます。
諏訪の神様と八ヶ岳の親和性、関係性は強いように思います。

雪を頂く11月初旬の八ヶ岳連峰

SL! SL! SL!

県内に保存されているSL(蒸気機関車)の話です。

山小舎生活5年間。
長野県内の各所を訪れるにつれ、思いがけず、数々の保存されているSLと出くわしました。
一時のSLブームが偲ばれます。

駅前に大切に保存されているSL、人気のない公園の片隅に野ざらしでたたずんでいるSL、いろいろありました。

子供時代は、住んでいた旭川から例えば近隣の神居古潭(石狩川に白い吊り橋がかかる、旭川と深川の間の景勝地)まで行こうと思えば、当時の普通列車はSLでした。

札幌・函館間を走る急行ニセコはC62という高速型SLが二重連結で走っていました。

道内のちょっとした駅には、SL用の給水タワーが立っていました。
乗客はトンネルに入ると、煙を防ぐため窓を閉めました。
SLがけん引する客車の座席はすべて木製で、背もたれが直角だったような気がします。
SLには親近感を感じる山小舎おじさんです。

茅野駅東口のC12

まずは茅野駅東口のロータリーに大切に保存されているC12です。

戦前に茅野郊外の北山にあったという諏訪鉄山から茅野駅まで、鉄鉱石を運んだとのこと。
北山地区は茅野市内から白樺湖へ向かう道筋にありますが、今は鉱山も線路跡も痕跡を探すのが困難なくらい様変わりしています。

茅野駅前のC12

SLの保存状態はトップクラスです。
普段は訪れる人も少ないですが(駅に降り立つ人がそもそも少ない)、駅東口に大きく掲げられた「縄文のビーナス」の垂れ幕と合わせて目につく場所に置かれています。
それまでの苦労に十分報いるであろう待遇を受けているSLです。

茅野駅東口階段よりSLを見る

諏訪湖畔のD51

諏訪湖畔のメイン通り、大きな旅館や土産物屋が並び、花火大会の際はメイン会場となる場所にD51が保存されています。

戦後に上諏訪機関区に配属となり、中央本線や篠ノ井線で活躍した車両とのことです。
篠ノ井線を走ったということは、姨捨駅をスイッチバックで越えたということです。
頑張りました。

諏訪湖畔のD51

D51はSLの中で一番多く製造された車体です。
山小舎おじさんが乗ったSL列車のほとんどがD51が引っ張る列車だったことでしょう。

せっかくだから運転室に登ってみる
これがSLの運転室か・・・
運転席からの視界

屋外ですが屋根付きで展示されており、保存状態もまずまず良好です。
何より運転室に入れるのがいい。
安全面のこともあり、屋外のこういった展示車両で「乗車」できるケースはなかなかないものと思います。
展示場所が諏訪湖畔というロケーションもいいですね。

諏訪湖畔のロケーション
諏訪湖方面を見る

南牧村のC58

県外の人には「野辺山」といった方が通りがいいのが南牧村。
小海線野辺山駅を中心に広がる高原野菜の産地です。
かつてペンションブームの際に若者でごった返した清里(山梨県)の隣です。
近頃は高原野菜農家が労働力として頼りにする外国人研修生の関連で有名かもしれません。

南牧村の56

村の中心部、国道141号線脇の南牧村資料館の隣の公園内にC56が展示されています。
北海道から現佐久市中込の機関区に移り、小海線で貨客車両をけん引した活躍した車体とのことです。

小淵沢・清里間は急こう配、野辺山付近には鉄道最高標高地点があります。
冬期間の寒さもあります。
過酷な自然環境との戦いを乗り切った車体なのでしょう。

屋根付きで保存状態はすこぶる良好です。
のちにSLホテルとしても利用されたとのこと。
現在は、八ヶ岳をバックにしたロケーションも現役時代と変わらずに退役した車体を静かに休めています。

はるかに八ヶ岳を望むロケーション

飯山と飯田のD51

県北の飯山と県南の飯田にもSLが保存されています。

飯山では駅近くの児童公園の脇に野ざらしでポツンと置かれていました。
周りが草ぼうぼうです。
車体も傷み始めています。
このまま廃棄されてしまわないよう願うばかりです。

飯山の人気のない公園にたたずむSL
放置され朽ちてゆくのか孤高の姿

飯田では繁華街を過ぎたあたりの公民館の脇の空き地にありました。
野ざらしです。

「火の用心」の標語が飾られている程度には手をかけられてはいるようです。
それでも存在感を失わないのはさすがSLです。

飯田の公園内のD51

ブームが終わったいま、各地のSLをどう保存するのか。
動かすのは無理にしてもせめて傷まないように保存してほしい。
それが無理なら、部品別に保管してほかの保存車両の修繕などに使うとか。

全国の保存SLのデータベースのようなものは・・・ないのだろうな。

又々・諏訪の神様が気になるの 守屋山

諏訪大社上社の奥宮にしてご神体、依り代ともいわれる守屋山に上ってきました。

この絵地図を参考に登ってきました

雨上りの翌日。
茅野へ下りて杖突街道を上がります。
杖突峠の展望台を過ぎ、伊那市に入ってすぐ、守屋山への登山口があります。

この日、登山口の駐車場にダンプが集まって道路工事の準備をしていました。
軽トラで乗り付けた山小舎おじさんがおろおろしていると、あとから来た電設会社の車が山道を上り始めました。
登山道の途中のキャンプ場までは車道があることを聞いていた山小舎おじさんは、電設会社の車の後をついてゆくことにしました。

杖突峠を伊那側に越えたあたりに登山口があります
奥の駐車場には登山客の車が止まっています。平日ながら人気の山であることがわかります

雨水に掘られた後も生々しい砂利道を時速10キロくらいで登ってゆくと、メガソーラーというのでしょうか、斜面一面にソーラーパネルが張り巡らされ、送電施設が併設された場所で、電設会社の車は止まりました。
登山道は続いています。

登山道を軽トラで登ってゆくと・・・・
途中にメガソーラー基地がありました

山すその気配も濃厚になった頃、キャンプ場に着きました。
車が通行できる林道はここまで。

軽トラを止めてキャンプ場経由、登山道へ入ってゆきます。
駐車場から歩いてきたという中高年の男女3人組が小休止していました。

キャンプ場から徒歩でスタートです
手作り感あふれるキャンプ場を象徴する看板です

ここから約1時間。
雨に濡れた粘土質の道を上ってゆきました。

いつも思うのですが長野県の山道(登山道、車道を問はず)は、少々の斜度であれば直線的に上ってゆく傾向があるのです。
蓼科山もそうでした。
山を巻いてゆっくり上るよりは、脚力を頼みに駆け上ることを信条としているのかもしれません。
さすが山に囲まれた歴史を持つ信州の土地柄です。

湿っている道は、粘土の地面より木の根に注意します。
湿った木の根を踏ん張るとツルっと滑ってしまうのです。

登山ルートは急な場所もありますが、案内板が整備され間違えようはありません

肌寒い気温でしたが汗だくになります。
久しぶりの山歩きは全身運動で非常に体に良いのですが、体内が一巡してスッキリするまではひたすら汗と熱気が放出されてゆきます。
呼吸も荒くなります。
山頂の奥宮への参拝を楽しみに上ります。

東峰の山頂が見えてきました

守屋山東峰は標高1631メートル。
360度のパノラマで、八ヶ岳から諏訪湖、南アルプスまでが一望できます。
山頂は今までの湿気と肌寒さが嘘のように晴れ渡っていました。

山頂から南側の高遠方面を望みます
東南方面、八ヶ岳を望みます
諏訪湖上空の雲が晴れ渡りました

奥宮は西峰方面へ少し下がったところにありました。
守屋神社とあります。
氏子総代として守屋姓の名前が記されています。

かつて雨乞いのために山頂からけり落されていたという祠と、現在の石の祠は違うもののようです。
付近にはやはりというか、諏訪のご神体である「石」の一団が配置されていました。

山頂には平日にもかかわらず、登山客が入れ替わり現れていました。
いくつものルートがある守屋山は地元のハイカーにとって親しみやすい山のようでした。

登山道は特色もないのですが、頂上に立った時のすがすがしさと、信州中部の山々を一望できる眺めは素晴らしいものがありました。
諏訪大社の奥宮としてこれ以上のない立地だと思いました。

山を下り、伊那方面へ下りました。
いつもの杖突街道ルートではなく、千代田湖畔を通るルートを走ってみました。

守屋山の東方向、金沢峠のふもとにある千代田湖という人知れぬ湖
湖畔の旅館は休業中だった

伊那市へ下りてから車を置いて久しぶりに街中を歩いてみました。
いつも思うのですが、伊那市はどこかとぼけたような、明るさのある、味のある街だなと思いました。

歩く場所は毎回同じようなところになってしまいます。
街角には、1年や2年では変わらないような歴史のしぶとさがにじみ出ていますが、それでも昨今の「緊急事態」にダメージを被った感も少し見えたような気がします。
変わらずに頑張ってほしいのですが。

天竜川を渡り伊那市中心部に入ると・・・
旅のお客に対する「ローメン」からのお出迎え
ローメンの碑が建っている
脱力系ギャグでも旅人たちをウエルカム
居酒屋の張り紙にもご時世柄が・・・
改めて飯田線と伊那の街の親和性を感じる景色
そういえば町の景色もアバンギャルドな気が・・・
上田映劇、塩尻東座と並ぶ県内3大シアター(おじさん談)伊那旭座は健在
旭座2はささらに渋い

南箕輪村を通って帰ります。
南箕輪村ではいつも直売所によります。
ブドウ、リンゴの季節です。
今年はマツタケが豊作で値段も安いとのことでたくさん出ていました。
自宅のお土産にたくさん仕入れました。

イチヂク、ブドウ、マツタケ、紅玉、地粉などを仕入れる。マツタケの安さは記録的?

又・諏訪の神様が気になるの 「諏訪の神・封印された縄文の血祭り」

諏訪の神様が気になって目についた本を読んだり、ついでに関連する場所をさ迷っている山小舎おじさんです。
「諏訪の神・封印された縄文の血祭り」という本が目についたので読んでみました。

この本を手に取ったのは、おじさんのような諏訪の神初心者でミーハー者にとって読みやすいものに思えたからです。
諏訪の神様の世界の始原は、その開闢を特定できないほど古く、文献など記録のない世界。
古事記などの文献に記録されてから以降の諏訪の神様は、果たしてオリジナルの姿を現したものなのか?それともその時代の体制にとって都合のいい姿を現したものなのか?その検証にも決定打となる傍証が乏しいのが実情。

諏訪の神様がカテゴライズされる神道の世界すらが、神仏習合→廃仏毀釈→国家神道と変遷しまくってきています、時代時代における諏訪の神様の位置づけも同様です。

学術的であればあるほど、著者が公平で客観的であればあるほど、その本が著す諏訪の神様の姿は混とんとしており、おじさんのようなミーハーな読者には、かゆいところに手が届かない、のココロ!となってしまいます。

河出書房新社刊の「諏訪の神様」は著者の想像と推察によるものとはいえ、諏訪の神様の歴史以前の姿を具体的に表し、また歴史以後のその姿については古文書に記録された背景にまで踏み込んで独自の解釈を施しつつ、その真の姿に迫ろうとしています。

本書の結論はこうだと思います。

①もともとの諏訪の神はミシャグジと呼ばれるものであり、当時信州から越後にかけての住民にとって、大地溝帯の形成にかかわる大地震を鎮めるべく生贄を供えて祈る対象だった。

②諏訪地方に蘇我馬子に追われた物部守屋一行(冤罪により逆賊とされた)が逃れ、住民に祟り神として畏怖され、タケミナカタの尊としてミシャグジ神と同じ場所で祀られるようになった。
「諏訪大明神絵詞」によるタケミナカタの尊の諏訪入り(地元のモリヤ神を破って諏訪入りした)は鎌倉時代の創作で、タケミナカタの尊とモリヤ神は同一(どちらも物部守屋だから)。

③ミシャグジ神は山、木、石を依り代(神社の本殿にあたる)とした。
諏訪大社本宮でいえば、ご神体(依り代)は境内の硯石であり、背景の守屋山になる。
そこに向かって左90度に座す拝殿とタケミナカタの尊を祭る神居は後になって祀られたことを表す。
御柱を引きずってから立てるのは生贄を供えたことの名残。

④諏訪大社下社2社の設立理由は、ミシャグジ神及び逆賊のタケミナカタの尊を祀る下社を監視、けん制するため。

どうでしょう。
①から④はおじさんの勝手な要約ですが、諏訪の神様のミーハーファンが疑問に思っていたことが明快に解説されています。
全部が著者の独自の理論ではなく、すでにオーソライズされているおなじみの内容もありますが、①のミシャグジ神の根源に切り込んだ部分は著者のオリジナルだと思います。

本宮のご神体といわれる守屋山の山頂

読後の感想は、この本が古文書に基づいたアカデミックな種類のものと、例えば小説家が自分の好みに基づいて自由に発想した時代考証ものとの中間に位置する読み物なのかなあ、です。
著者独自の世界観が展開される本とはいえ、そうだからこそのすっきり感!があります。
誰かが断言してくれるからこそ、一般の読者にとってそこの部分の歴史認識に一定の基準が築けるのです。
仮の基準とはいえ、その後の興味や理解には役立ちます。

縄文時代から続く石棒。ミシャグジ神の依り代の一つか

八切止夫という忘れられた作家がいます。
歴史大衆小説家という後年の評価でしょうが、独自の歴史観から一部に信奉者がいます。
「野史辞典」という著作は古書店で高額で売られています。

古代から中世に至る日本庶民の歴史を、八切史観と呼ばれる、アカデミックな歴史観とは180度異なる解釈で描いています。
例えば、大化の改新とは百済・唐連合軍の進駐によるクーデターで、以来、日本の権力は百済・唐由来の藤原氏が担い、原住民系の純日本人は被差別部落に閉じ込められた、というのが八切史観の根底にあったりします(山小舎おじさんの理解)。
これって、アカデミズムや権力側があえてか無意識にか、残してこなかった歴史観ですが、独断的なその表現といい、権力に忖度しない庶民目線の視界といい、おじさんのような全き庶民からすると誠に心地いいのです。

一時期は八切止夫のファンであった山小舎おじさんからすると、本書の著者・戸板学さんの姿勢にも心地よさを感じてしまうのです。