旧制松本高等学校

戦前から戦後直後にかけて、日本の学校制は今と違っていた。
旧制中学を卒業すると、次の進学先は旧制高校だった。
旧制高校は現在の新制高校と違い学校の数も少なく、文字通りエリートが通うところだった。
現在の学校制下では大学の教養課程に相当した。

松本に旧制高校ができたのは、大正8年。
9番目に設立された官制高等学校で、地名スクールとしては初の設立だった。
地名スクールとは、設立地名を冠する学校のことで、一高(東京)から八高(名古屋)までのいわゆるナンバースクールの後に設立された学校であることを表していた。

松本のあがたの森公園に旧制松本高等学校の校舎が残されていると聞いて行ってみた。
松本駅からは2キロほど。
住宅地の中に公園がある。
その中に旧制高校の本館の一部と講堂が残っている。

本館の建物正面
本館内部の廊下

歴史を感じさせる建物。
正門から続くメインルートにはヒマラヤスギの巨木が、往時を記憶するかのように並んでいる。

本館と講堂の間のメインルート

この日、講堂では信州大学のオーケストラが練習していた。
また本館には公園事務所のほか、図書館などが入っている。
往時を偲ばせるものとしては、本館の中に校長室などが復元されている。

講堂ではオーケストラが練習中
本館にある復元された校長室

本館に隣接して旧制高等学校記念館という建物がある。
これが実にユニークな施設だった。

展示内容は広く旧制高校の歴史から、松本高校に関する様々な資料まで。
特に松本高校に関しての展示は実に念入りで、思誠寮という学生寮の部屋の再現から、山岳部の穂高岳登頂ルート再現のパノラマ模型、名物教授たちのプロフィールなどなど、これでもかと並んでいる。

寮の部屋が再現されていた(実物に比べるとずいぶんきれいであると思われる)

 バンカラ、学生自治、などというすでに世の中から絶滅した言葉があるが、例えば40年前の大学の一部には、片鱗が残っていたそれらの概念は、旧制高校から生まれたのだという。
学帽に下駄のスタイルはともかく、寮の暮らしぶりや自治などは、山小舎おじさんの世代にとっても懐かしさに満ちたものだ。

往時の松本市内の映画館前にたたずむ松高生
花街で遊ぶことも忘れなかった

「どくとるマンボウ青春記」という書物がある。
旧制松本高校OBの北杜夫による独特のユーモアに満ちた青春時代の自伝だ。

この作品では何といっても思誠寮に暮らしたバンカラ時代の描写が印象的で、ストームなど当時の寮生たちの生態のほか、名物教授たちの生態までが遠慮なく活写されている。

展示室にはビデオコーナーがあって、北杜夫のほかに映画監督の熊井啓などのOBの対談を視聴することができた。
旧校舎の庭で機嫌よく対談するOB達の映像の合間に、名物教授や世話になった食堂のおかみさんたちの話が挟まる。

談話するOB達の視聴資料。左から熊井啓、北杜夫

「どくとるマンボウ青春記」に数学の名物教授を描いた一節がある。

終戦後の春、2年生となった主人公が学徒動員と戦直後の混乱から解放されて学校へ向かうと、グラウンドでは荒縄を着物の帯代わりにした格好の人間が砲丸を投げたり走ったりしている。
なんで乞食があんな真似をしているのか、さすがに高等学校とは変わったところだ、と思った。云々

乞食に間違われたのが蛭川先生という名物教授で、生前の姿がビデオに登場する。
まさか「どくとるマンボウ青春記」に出てきた名物教授の実物を映像で眺められるとは!
一読者としても感無量であった。

これが伝説の蛭川先生の晩年の姿だった・・・

思誠寮の建物はすでに取り壊されて駐車場になっている。
本部と講堂以外のスペースは公園として市民の憩いの場となっている。

市民とOB達の旧制松本高校への思いは、資料館に簡潔に濃縮された形で強烈に残っていた。

寮があった場所は駐車場になっていった
公園の一角に立つ松高の記念碑
一帯はあがたの森公園として保存されている

松本スイカ村

松本周辺はスイカの産地。
松本市波田地区などが名産地として有名だ。

JA松本ハイランド和田支所では、毎年7月から8月にかけて、スイカ村が開かれる。
農協の集荷場に生産者がスイカを持ち寄り、農家ごとに運営する直売所に地元客などが並ぶ、松本地区の夏の風物詩だ。

山小舎おじさんはある年のラジオのローカル放送で、スイカ村のことを知り、その後は毎年のように通っている。

松本のスイカは美味しいらしく、娘がつわりの時に送ると、「これだけはのどを通る」と喜ばれた。

おととしだったか、山小舎に集まった家族を連れて訪れると、いつもずらりと並んでいるスイカの姿がなく、客の姿も閑散としていたっけ。
聞くと天候不順で収穫量が少ないとのことで、買えなかった。

今年はどうか?
8月に入った1日、毎年の風景に誘われるように、暑い暑い松本盆地へ向かった。

山小舎から上田エリアへ下り、鹿教湯温泉わきの三才山トンネルを通って松本エリアへ入る。
市街地を迂回して、上高地から流れる梓川に沿って南下し、目指す、JAハイランド松本和田支所へ向かう。

夏雲をバックに流れる梓川

日曜日とあって、広いJA構内は客が集まっている。
直売所のテントは数張りあるが、客が集まっているのは毎年同じテント。
期待通りの風景が展開している。

一番人気のテントに今年も並ぶ。
次から次へとスイカが売れてゆく。

L玉を2個買う。
かつては1600円ほどのL玉が今年は1900円だ。

スイカ村ならではの、集荷場にずらりと並んだスイカの列。
暑い中集まってはスイカをぶら下げて帰ってゆく人々。
今年もいつもの風景が見られて安心した。

スイカは今週山小舎にやってくる、家族と娘一家へのお土産としよう。

一番人気のテントに並ぶ
テント内ではおばさんたちが懸命の客あしらい
集荷場でも大忙し
直売所への出荷を待ち受けるスイカの列
今年もスイカ村は盛況だった
L玉を2個買ってきました

中山道シリーズ第六弾 下諏訪宿

中山道下諏訪宿の面影を訪ねに下諏訪町に行ってきました。

広重画「下諏訪宿」

下諏訪宿は中山道を京に向かって、和田峠を越えたところ、現在の長野県小県郡から諏訪エリアへ郡をまたいだ場所にあります。

また下諏訪宿は甲州街道の最終地点でもあります。
現在でも国道20号線(甲州街道)は、塩尻峠を越えた地点で、国道19号線と合流し、その役目を終えています。

軽井沢で峠を越し、佐久地方を進んできた中山道が、いよいよ諏訪という信州の一つの中心地に降り立ち、木曽を抜けて中部地方へ向かわんとする起点の場所が下諏訪宿なのです。

現在の中山道下諏訪宿

また、下諏訪の町は諏訪大社の下社を中心とする町でもあります。

下社は、諏訪市、茅野市にある上社とは、覇権を争い、対立してきた歴史があります。

「国譲り」で高天原系の神様に追われた、出雲神がのがれてきて、地元の土着神(モリヤ神)と戦ったのは上社に於いてのことであり、神長・守矢家と大祝・諏方家が続いてきたのも上社周辺での話です。

つまり、肉食・狩猟系のバリバリの諏訪の神様らしいのは上社のことなのです。
では、下社とはいったい?

宿場街道資料館

旧中山道のメインルートに資料館がありました。
旅籠だった古民家を保存し、その時代の民具を展示したり、下諏訪宿の当時の歴史を展示しています。

資料館の外観。七夕篝もある
建物の上り口
はたごの看板も並んでいる

思いのほか細かい展示物に感心しました。
当時の文化、風俗の再現が細かくなされています。

皇女和宮の降嫁も幕末当時の中山道にとっては、経済的負担も含めて歴史的なイベントだったようで、資料を駆使して展示されています。

当時の備品も展示
当時のはたごの食事を再現。実際よりはかなりいい?
下諏訪温泉が番付・小結だったとは高評価!
和田峠が街道随一の難所だったことがわかる

街道点描

本陣、甲州街道との合流地点の碑、などを見てゆきました。

本陣の建物
甲州街道との合流地点
錦絵に残る温泉があったところ

下諏訪は今でも温泉の町。
温泉旅館や立寄り湯などが町内に点在します。

立寄り湯が並ぶ坂道。温泉街の風情が残る

地元出身の女流歌人・今井邦子という人の実家が保存されており、資料館になっています。

今井邦子資料館。地元出身の女流歌人の生涯

青塚古墳

旧中山道の1本裏に諏訪地方唯一といわれる前方後円墳があります。

誰が埋葬されているのかはわかりません。
埴輪などが出土したそうです。
現在は市街地に飲み込まれてひっそりと存在しています。

信州は古墳が多い場所で、中央との結びつきを推測させる前方後円墳も見られます。
大和地方のそれと異なり、まったく歴史の闇に埋もれてしまっている古墳たちです。

古墳全体が神社になっています
石棺の入り口でしょうか?
草で判然としませんが、後円の頂に立って前方を見ています

新々・諏訪の神様が気になるの 下社御射山社

下諏訪への途中

ある日、中山道下諏訪宿へ行こうと和田峠を下り、下諏訪の町へと軽トラを走らせていた。
中山道をトレースして走る国道142号線、現在はトラックがひっきりなしの幹線物流ルートだ。

沿道には峠の茶屋があったという「西餅屋」の地名や、幕末期に攘夷のため上洛せんとする水戸浪士を迎え撃った諏訪の高島藩が、戦没した浪士を弔った「水戸浪士の墓」、などの地名、旧跡が点在している。

また、天下の奇祭といわれる諏訪大社御柱祭で、運ぶ途中の丸太を坂から落とす「木落し坂」と呼ばれる場所もある。
御柱祭は諏訪地方の各所で行われ、それぞれの場所に「木落し坂」はあるのだが、映像などでみられる有名な場所がここ下諏訪町の木落し坂なのだ。

国道142号線を70キロで真っ逆さまに下る途中、国道の左側に木落し坂の方向看板を目の隅に認めた山小舎おじさんは、行きがけの駄賃とそちらの方向へと左折した。

それ以来、木落坂方面の看板を見ることなく、林道へと迷い込んでいった。

御射山林道を行く

山すそを巻くように進む林道だった。
舗装道路はすぐにダート道となり、ところどころ長雨の水たまりができていた。

右側に崖が続くが、木々の間からふもとの集落が見え、標高は高くはない。
諏訪湖の北側の山塊を貫くというか、その中を行き来する林道だ。

堂々たるスギの林、カラマツ林、雑木林などが続く。
林が開けた場所に、ミツバチの巣箱が置いてあったりした。

対向車は軽トラが1台きりだった。
林道の出口に、御射山林道開通記念の碑が建っていた。

林道をさ迷い始めて、木落坂への道を誤ったことに気が付いたがそのまま進んだ。
このまま進んでも、まったく別の地域にたどり着く心配はなかった。

というのも、諏訪湖北岸の山塊の林道を走っているのであり、林道の出口を下ってゆけば下諏訪の町へ下りることになるのがわかっていたからだった。

林道の開けた場所では養蜂が行われていた

下社御射山社

愛想のない林道に突然鳥居が現れた。
思いもよらぬことだった。
軽トラを下りて碑と案内板を見ると御射山社とある。

そういえば諏訪大社全盛の時代、霧ヶ峰、八島湿原のあたりで狩猟を象徴した祭祀を行い、その場所を御射山と言っていたような・・・。

後で調べると、霧ヶ峰の御射山を旧御射山といい、林道沿いのこの場所が現在の御射山だったのだ。
また、上社にも御射山があることも知った。

偶然とはいえここまで来たからには社の全容を見ずには帰れない。

鳥居の横は車両の通行できる広さの道が続いている。
遠慮なく軽トラで上がってゆくことにした。

やがて現れた池にびっくり。
山中の湧水が溜まった池なのだろう、何とも言えぬ雰囲気。
恐ろしくはない。

本殿まで徒歩で行く。
賽銭箱もなく、祠が三つ並んでいる。

とにかくすがすがしい空気。
山のオゾンのせいもあるだろうが、諏訪の神様の祭祀を行う場所が有するすがすがしさのせいでもあろう。

思わぬ参拝に気持ちも晴れる山小舎おじさんだった。
参拝後は間もなく林道出口に到達し、坂を下りて下諏訪の町へとたどり着くことができました。
木落坂訪問はまた後日。

林道わきに突然現れた御射山社の参道入口
鳥居わきに立つ案内板
参道の途中にある池
池と祠の間の境内には巨木が立つ
奥まった場所に祠が三つある
林道開通記念碑が分岐点に建っていた
林道の分岐点には道路標識も

新・諏訪の神様が気になるの 大祝屋敷跡を見る

諏訪の神様シリーズの続編です。
諏訪大社本宮から程近くに、大祝屋敷跡があるので行ってきました。

大祝(おおほうり)は、諏訪大社の上社、下社の両方にいた最高位の神職です。
特に上社の大祝は諏訪の神様の化身、生きるご神体とのあがめられる存在で、諏訪(諏方)家が代々引き継いできたとのこと。

当時の大祝は、祭祀を司るだけではなく、政治権力を握り、鎌倉時代までには武士化して、幕府、朝廷と積極的に関係を持ったということです。

大祝の禁忌として、厳しい「郡外不出の禁」「清浄保持」があったとのことだが、当時の大祝家は、中央の軍事遠征に参加したり(当然実戦にも参戦)、あろうことか総領家(下社エリアの政治権力を分担した勢力)を大量に謀殺するに至っては何をかいわんや。
禁忌を無視するどころか、踏みにじって、最大限に冒涜し、栄華を競った時代があったようです。

明治になって神官職が中央からの派遣となり、さしもの大祝職もその長い歴史を閉じることになり現在に至っています。
大祝を奉じた諏訪家も途絶え、屋敷のみが残されているのです。

さて、五月晴れのある日、その大祝諏訪家屋敷があった場所に行ってみました。
住宅地の一角に天保年間に再建されたという屋敷の一部が残っていました。

今に残る屋敷門

門構えを眺め、案内板に従って屋敷の周りを一周します。
当初、3000坪の敷地に320坪の主屋があった場所には、いまは主を失った43坪の建屋が残っている。
完全な古民家というのではなく、窓にはサッシが入り、玄関には掃除道具などが残っており、平成14年に直系を失ったという、大祝・諏訪家の近時の断絶を物語ります。

案内板に沿って屋敷まわりを一周する
最終的に残った屋敷
屋敷を池越しに見る
敷地には立派な蔵も立つ

隣接して小さな神社がある。
鳥居と祠のみの造りで、境内には滑り台も置かれたのんびりとした雰囲気だ。

隣接する神社
藁ぶきの雨除けに囲われた祠
御柱も立つ
東照宮?

代々続いた大祝職を司る一族が途絶えたことは、諏訪の神様を巡る時代が大変化を迎え終わったたことを物語っている。
その大変化が、単に人間界についてのことなのか、神界を含むものなのかはわからない。

続々・諏訪の神様が気になるの 御頭祭で「鹿の頭」を覗き見る

毎年4月15日に、諏訪大社本宮と前宮を結んで、御頭祭が行われる。
本宮を出発したみこしの列が、前宮まで行列し、前宮で鹿の頭を供えて祈祷するという「奇祭」だ。

事前に確認すると、行列が本宮を出発するのは13時ころとのこと。
神長守矢資料館で仰天した鹿の頭のお供えの現実版が見られるのだ。
果たしてそこには土着の縄文系神様の魂が感じられるのか。

当日の諏訪大社本宮の鳥居

「諏訪の神様」初心者の山小舎おじさんは、畑仕事を休んで駆けつけました。

12時半ころの本宮駐車場はガラガラでした。
境内へあがってゆくと、半纏を羽織った人の姿が見えました。
下から拝殿のほうを覗くと、ネットで見た、黄色い装束が見えたので慌てて上がってゆきました。

境内には法被を着た関係者の姿が

三々五々、黄色や白の装束を着た参加者が集まっています。
女性もいます。
参加者の一人に話しかけてみました。

拝殿の前にはみこし行列を担う方々が。女性の姿も見える

「地区の人が抽選で役割を割り振られる」とのこと。
「女人禁制ではない」とのこと。
「言われたとおりのことをするだけ」とのこと。
「おみこしで前宮まで運ぶのが何かは知らない。詳しいことは巫女さんにでも聞いてくれ」とのこと。
地区の行事に半ば義務感だけで参加しているかのような気楽さあふれる返答ぶりでした。

やがて神主さんがやってきて、彼らにいろいろと指示を出します。
指示に従って、一般人立ち入り禁止の拝殿前に入ってゆきます。
やがて、色とりどりの装束を着た神主の集団、背広を着、法被を羽織った地区の有力者など参拝者の集団、みこしを担ぐ集団の3つに分かれて拝殿前に整列します。

神主の合図で拝殿に向かって並び始める関係者たち
儀式を見守る見学者たち

やがて神主が祝詞を上げ、拝殿から何物かを下ろし、みこしに乗せます。
おろしている間は参加者は頭を下げ続けます。

神主集団はマスクをしていませんが、何物かを下ろすときだけは息がかからないようなマスクをし、手袋をつけていました。

境内には雅楽が(テープで)流れ、礼拝などの合図はマイクから流れます。
みこしに何物かが乗った瞬間には花火まで打ち上げられました。
このころになると、見学者が増えてきました。

神主が拝殿に上り祝詞を唱える
前宮へ「持ってゆくもの」がみこしに乗せられる
担ぎ手がみこしを担いでいよいよ行列が始まる

境内から参加者が流れ出て、前宮へ向かう列を作ります。
見学者の多くもついてゆくように流れてゆきます。
おじさんは軽トラに戻り、座席で弁当を食べてから、前宮へ向かいました。

関係者がみこし行列を形作る

本宮から前宮への道路は、おみこし行列のため交通規制されており、う回路に不案内なおじさんの軽トラはあちこちさ迷い歩きました。
やっとのことで前宮駐車場にたどり着くと、行列はすでに到着していました。

鹿の頭を供えて祝詞を上げる建物の脇には見学者がぎっしり。
カメラの砲列ができています。
ここが祭りのクライマックスだと多くの見学者は知っていたのでしょう。
出遅れた山小舎おじさんは、神主の姿を眺め、体をねじってようやく鹿の頭を実視しました。

前宮では神主が拝礼する
お供えの鹿の頭が並ぶ
儀式を見守るカメラの砲列

建物の反対側には有力者らが整列して参列しています。
方や、黄色い装束の担ぎ手たちは、境内の片隅で三々五々休んでいます。

担ぎ手は参列できないということなのでしょうか。
ということはもともとの身分と関係することだったりするのでしょうか。

確かに見学者が気軽に声をかけられるのは、担ぎ手の方々までで、参列者や神主などは全く「別格の」「あちら側の」人といった感じなのです。

有力者たちは恭しく参拝する
方やみこしの担ぎ手たちはリラックス

前宮での儀式が続く中、おじさんは境内を後にしました。
いつも参拝者で賑わう本宮はともかく、いつもは静かな前宮が輝いて見えました。

神社には地元の人が似合います。
久々に地元の人でにぎわう境内には、にぎやかさと明るさがあふれていました。
地元の神様が喜んでいるのでしょう。
これが本来の前宮の姿なのだろうなと思いました。.

別の拝殿には、野菜、果実、魚のほか名産の寒天が供えられていた
みこし行列がかつできたなぎなた。重かった。
前宮からは雪を頂いた八ヶ岳が望まれた

続・諏訪の神様が気になるの  神長官守矢資料館と諏訪博物館へ行った

諏訪の神様とは何か?、気になってしょうがない山小舎おじさん。

「諏訪の神様が気になるの 古文書でひもとく諏訪信仰のはるかな旅」を読んで、諏訪の神様の正体へと向かうであろう、様々なキーワードが、おぼろげな霧のかなたから浮かび上がりました。

キーワードは、大祝(おおほうり)、神長(じんちょう)、諏訪氏、守矢氏、ミシャグジ等々。

「諏訪の神様が気になるの」にも重要人物として登場する守矢氏。
神長官という諏訪大社の神官を78代にわたって受け継いでいる家系です。

もう一方の神官のトップが、大祝と呼ばれる職位で、こちらは諏訪氏が受け継いできたのですが、もともとは守矢氏の方が諏訪地方の先住だったとのこと。
その守矢氏は、諏訪大社の「公式」の主祭神・建御名方神より古い、洩矢神という神様をもともとは祀っていたのだといいます。

神長官守矢資料館へ

そいういえば、茅野市にある諏訪大社の前宮から、諏訪市の本宮へと向かう道路脇に、「神長官守矢資料館」なる看板を見たことがある山小舎おじさんでしたが・・・。

守矢氏?WHO?。
わけのわからない古文書が展示しているだけ?つまらなさそう、と寄ることはありませんでした。

今や、守矢氏なるキーワードは、「諏訪の神様初心者」としてのおじさんにとっても避けては通れないところ。
早速、資料館に向かいました。

資料館は、78代続く守矢家の敷地内にあります。
屋敷そのものは現在空家で、78代当主の守矢早苗さんは東京住まいとのこと。
門構え、母屋、祈祷殿が保存されています。

敷地内には、古文書保存と資料展示のための資料館が建っています。
また、ミシャグジ神を祀る祠や一族の墓、古墳などもあります。

表通りに立つ看板

門をひとたびくぐると空気が一変。
折からの季節のためか、咲き乱れる花々と降り注ぐ陽光。
手入れされた下草の斜面に今を盛りと桜が点在しています。
草の斜面では来場者の親子が遊んでおり、屋敷の若い住人が庭で戯れているのかと見まごうようでした。

表札が残る門構え
門を入るとまず祈祷殿がある
祈祷殿の隣が母屋、今は空家だ

資料館に入ってみます。
学芸員の方の解説を聞くまでもなく度肝を抜かれるのが、壁一面に備え付けられた鹿やイノシシの頭。
ウサギの串刺しもあります。

御頭祭という毎年春の諏訪大社本宮のお祭りに関する展示です。
神様へのお供えとして、鹿の脳みそやウサギの燻製などの展示もありました。

資料館が建つ
資料館の内部はパンフレットから転載

一見して、この展示は神事を表したものなのか、縄文時代の狩猟生活を表したものなのか、はたまた、地域の自然環境を表したものなのか、理解ができずに混乱しました。
解説を聞いて、諏訪の神様を祀る神事を表したものと確認し、再び驚きました。

文字だけで接してきた、諏訪の神様が実像を伴って現れた瞬間でした。
それは、物質、生命の塊ともいえる獣の質感を持ったものでした。

敷地に建つ案内板
母屋の全体像

神社では、お米と塩を供えるものだと漠然と思っていた山小舎おじさん。
天照大神一族を祀る高天原系(天孫系)の神社はその通りなのでしょうが、ここは諏訪。
高天原勢力に放逐された神様が遷座した土地。
いや、それ以前から土着の神々が息づいてきた土地です。
それらの神々はいわゆる縄文系の神様で、狩猟による山の幸がごちそうだったのです。

土着の神々の総称ともいえる?ミシャグジ神を祀る祠もありました。

ミシャクジ神を祀る祠

大祝・諏方家のお墓が、敷地上手の一等地に日の光を浴びて勢ぞろいしています。
守矢家と諏方家の関係や如何?

日を浴びて墓標が建つ

敷地を奥へ行くと、不思議な物体がありました。
資料館をデザインした藤森照信氏による、空飛ぶ泥船と高過庵です。
地元出身のデザイナー藤森氏が、太古の諏訪神にインスパイアされての創作なのでしょうか?

敷地に建つ泥船。
同じく高過庵。

守矢家は不思議な空間でもありました。

諏訪市博物館へ

諏訪大社本宮前に諏訪市博物館があります。
おじさん2度目の訪問は、諏訪の神様という目的を持ってのもの。

パンフレット表紙

常設室の展示物には、廃仏毀釈の折に、隠しおおせて破棄を免れた仏像(本宮に隣接する神宮寺の五智如来)などがありました。
神仏習合の時代には、神宮寺の敷地のほうが諏訪大社本宮の何倍も広大だったことを示す地図なども。

パンフレットより

博物館の奥に、その名も「すわ大昔情報センター」という資料室がありました。
入ってみると郷土史に詳しい係の人がいて、「諏訪大社のことを知りたくて・・・」と訪れたおじさんに、まずは入門書的な写真版概説書を取り出してくれました。

それを閲覧した後、書架を眺めていると、おじさんの興味を察したのか、係の人が出してくれたのが、ミシャクジ神についての冊子でした。
その冊子には、守矢家の77代当主・守矢真幸が書き残した、一子相伝の「神長家の秘伝」なるとじ込みページがあり、薦められてコピーして帰りました。

いきなりの本格的な資料は猫に小判ですが有り難く頂きます。
同時に、地元の有志の郷土に対する愛着と探求心を強く感じた山小舎おじさんでした。

コピーした「神長家の秘伝」
77代当主真幸の筆跡部分

「諏訪の神様が気になるの」・・・

長野県に住んで早や5年目。
山小舎の簡易神棚には毎年、諏訪大社と生島足島神社のお札をいただいています。

山小舎は行政的には上田地方に属するので、生島足島神社のテリトリーですが、直線距離的には諏訪が近く、東京からの入口でもあるので、諏訪大社へのお参りも毎年欠かしません。

「諏訪の神様が気になるの」という本を読みました。
東京の書店で見かけました。

2020年信濃毎日新聞社刊。
同新聞は、北海道で言えば「道新」のような存在で、午後のローカル番組には、同社のデスク格のおじさんがコメンテーターで出ていたりします。
著者は1958年上田生まれという女流作家です。

そもそも諏訪の神様って、どんな神様?という著者の疑問からスタートしたこの本。
著者は数々の古文書を紐解く方法によってこのテーマに迫ってゆきます。

著者が読破した古文書は「古事記」を始め、「諏訪重信解状」(1249年)、「諏訪大明神神絵詞」(1356年)などなど。

諏訪初心者の山小舎おじさんにとって、迷路のような世界です。

諏訪大明神はともかく、建御名方神(タケミナカタノカミ)、ミシャグジ、などの神様の名前。
大祝(オオホウリ)、神長(ジンチョウ)などの神職名。
これらはおじさん、初めて聞く名前です。

これらに各時代の個人名が加わって、神話時代から現代までの出来事がこまごまと続くので、文字を追うのが精いっぱい。
本文中のエピソードが記憶に残らなく、全体の流れなど霧の中をさまようがごとく、まったく把握できませんでした。

著者は山小舎おじさんより2歳年下でした

その後、神長職を77代務めたという守矢家の資料館を訪れたり、諏訪博物館の資料室を訪ねたりして、おじさんなりに、諏訪の神様像を求めてゆきました。

このブログをまとめるにあたり、改めて「諏訪の神様が気になるの」を斜めに再読してみました。
ちんぷんかんぷんだった本書の内容と、諏訪の神様の世界がおぼろげに浮かび上がってきました。

諏訪の神様を紐解くキーワードごとに章建てした内容

諏訪の神様たち(「諏訪の神様が気になるの」より)

「古事記」によると、大国主神の息子の建御名方神が高天原からの使者により諏訪湖のほとりに追放された、いわゆる国譲りが行われたとある。

一方、国譲り以前から諏訪地方には土着の神様がおり、それは、神長を務めた守矢家が祀る、洩矢神だったり、包括的にはミシャグジと呼ばれる古来の神格、霊性たちであった。

諏訪大社は、実はこれら歴代の神々を祀る社であること。

神仏習合時代には仏も含めて祀っていた。
明治維新後の廃仏毀釈と国家神道の流れの中で、主祭神を建御名方神として時代に迎合し現在に至っている。

独特のイラストに彩られた本です

神職たち(「諏訪の神様がきになるの」より)

大祝といわれる、諏訪大社の神職は諏訪家が代々務め、祭祀と為政者のトップとして君臨していた。
同時に、先住者として、諏訪家と争ったものの、敗れた守矢家が、下社周辺にあって、神長という神職を続けた。

諏訪家、守矢家ともども、鎌倉時代には武家化し、実力を持って血で血を洗う抗争を行い、また武田氏など時の支配勢力に迎合・対立するなど、時代によって変容しつつ存在してきた。

最終的には明治維新後、国家神道のもとに統制されることになった諏訪大社に於いて、諏訪家が担ってきた大祝職は消滅し、地元の血脈による諏訪大社の運営はその長い歴史を終えた。

神長・守矢家は、ミシャグジ神を下ろすという、一子相伝の秘法こそ明治で途絶えたものの、78代目が現存している。
当代の女性は家に伝わる古文書を茅野市に寄付し、資料館で保存して後世に伝えている。

読後感想

以上は、山小舎おじさんが本書を再読後に、無理やり内容の一部を要約したもので、理解不足があるかもしれません。

いずれにせよ、静謐として整えられた現在の諏訪大社の背後には、鬱蒼たる太古の神々が控えていることを想像して、興味が絶えないことを感じています。
おじさんなりに、その実像に迫ってゆこうと思っています。

このテーマについては、次回以降、「神長守矢家資料館訪問記」、「諏訪大社下社の御頭祭祭見物記」、などでブログでフォローしてゆきたいと思います。
ブログのシリーズ名は、勝手ながら、「諏訪の神様が気になるのVOL.〇」にしようと思います。

大祝(諏訪家)と神長(守矢家)の当初の抗争のシーン

底冷えの上田に「真田」を探す

予報通りに雪が降った12月中旬の日。
山小舎仕舞いを前にして、別荘地管理事務所と畑の大家さん宅にちょっとしたお歳暮を配りました。
ついでに上田の街に出て今シーズンの名残りを惜しみました。

上田市内から見る里山も真っ白

中華モリタで腹ごしらえ

昼前に上田に着きました。
山小屋周辺では真っ白だった路面も、雨でぬれた程度の上田市内でした。

先に昼食を摂ることにしました。
地元で働く人がランチで選ぶ店、というブログに載っていた、駅前の中華モリタに行ってみました。

雪は少ないとはいえ、底冷えのする上田市内。
これが信州の冬の寒さでしょうか。

目指す食堂のあるあたりは、とんかつ力亭、馬肉うどんの中村屋などが並ぶなじみのエリア。
目指す店はすぐ見つかりました。

まだ温まりきらない店内には先客が一人。
滞在中にあと2組が入ってきました。

駅前、天神の中華モリタ

チャーハンとラーメンのセットを注文。
チャーハンは期待通りというか、予想通りの、町中華の味。
ラーメンはやや物足りなかったかな?

チャーハンラーメンセット880円

地方の食堂は、都会のラーメン屋ように「味にヒステリー」を競うようなことは全くありません。
手作りの味と、量と、皿数が売り物です。
おいしいみそ汁と手作りの漬物が定食についているだけで満足するほどです。

が、ラーメンのような、「力づくのダシ」で食う料理は、手作りがアピールできる種類のものではありません。
しっかりダシを取るなどして、味にメリハリをつけてもらいたいものです。

現に、辰野町のタイガー食堂など、地鶏のダシで抜群にうまいラーメンを出す店はあります。

ラーメンへのダメ出しが続いたところで、上田駅へ行って、観光案内所と特産物販売店をパトロールして最新の情報収集。

台風で千曲川にかかる鉄橋の一部が落下して1年たつ、上田電鉄別所線の復旧工事がやっと進み、来年3月の全線開通を目指し、鉄橋の土台部分を工事中との明るいニュースにも接する。

博物館で「真田の鎧」を探す

上田訪問の目的の一つ、上田城内の市立博物館へ向かう。

本館の正面

底冷えする城内には人影も少ないが、そこは有名な観光地、博物館には三々五々観光客の姿も。

目指すは「真田の鎧」。
というのは、真田氏の本拠地・上田市真田地区にある「真田歴史館」という資料館に展示されていたのが、NHKドラマで使用されたという、レプリカの鎧一式。
では、ホンモノは残っているのか?どこの博物館にあるのか?と思ったから。

別館の正面

ありました。
市立博物館の別館2階が真田関係の専用コーナー。
その中央に幸村の父親で、ともに上田合戦で戦い徳川軍を撃退し、関ケ原の後、ともに高野山に蟄居の時を過ごした、真田昌幸の本物の鎧兜が。

他にも当時交わされた、秀吉など有力者との書状なども。

江戸時代になってからの幸村らの錦絵は、葦に隠れて家康の本陣をうかがう幸村や、騎馬上で一騎打ちする幸村と家康など、史実とはかけ離れた設定ながら当時からの真田人気を物語る貴重なものでした。

さすが真田氏の本拠、上田城を擁する上田市の博物館。
さりげなくも貴重な資料が保存展示されています。
真田ファンは一見の、いや二見三見の価値があります。

上田城のお掘を外側から見る

池波正太郎真田太平記館へ

真田本流の鎧兜の本物に接することができた勢いで、市内中心部にある「池波正太郎真田太平記館」へも行ってきました。

市内中心部に建つ真田太平記館

週刊朝日での連載、NHK大河ドラマ化、の小説「真田太平記」の作者、池波正太郎を記念しての資料館。
小説家池波を通しての真田史に触れることができる場所だった。

映像シアターも併設されている

真田氏の歴史という視点を通しての上田めぐり。
帰りの路面凍結を心配しつつ、夕暮れまでに山小舎に帰りつくように帰途につきました。
上田よまた来年!

浅間山、山麓に行ってみた

令和2年、12月になったある日、急に思い立って浅間山を見に行ってきた。

ひとつ山越しゃ、見える景色が一変する信州。
地域地域で仰ぐ山々も変わってくる。

茅野から見えるのが八ヶ岳連峰、松本からは北アルプスが地元を見守る山、というか地域のシンボル的な存在だとすれば、上田、佐久地方にとっては浅間連峰が、同様な存在なのではないか。

佐久地方から遠望する浅間山の秀峰

ということで、空気も澄み、仰ぐお山の姿も鮮烈なこの頃、佐久地方の母なる山、浅間山に近づきたくて軽トラを走らせた。

地図を見ると、小諸から山麓までのルートがある。

あたりは上信越高原国立公園エリアだ

10月に孫たちとリンゴ狩りをした小諸のリンゴ園の脇を通り、浅間山麓へと登ってゆく。

峠への道を登ってゆく

シーズンオフ、曇天、行きどまりのルート(冬季間、群馬へ抜ける道、湯ノ丸港高原へ抜ける林道は閉鎖)。
通行量はほとんどない。

浅間山登山口への分岐点を過ぎる

浅間山の山頂も雲がかかっている。

雲がかかった浅間山山頂

けっこうな傾斜のルートを登りきると、群馬との県境の車坂峠に到着。
下山してきた登山者もいるにはいたが、肌寒い気温と霧。
単独行の高齢登山者一人のほか、あたりに人影はない。
浅間山一帯が完全なシーズンオフであることを物語っている。

登山者への警告
峠から見た浅間山山頂

湯の丸高原への林道が閉鎖されているので、元来た道を引き返す。
とりあえず浅間山に近づけたドライブだった。