糸魚川カニ屋横丁

新潟へ行ってきました。
長野県に隣接し、日本海への出口に位置する新潟県ですが、案外遠くて、山小舎に来てからは行けていませんでした。

今回は家族と行きました。
自宅に帰り、合流して自動車で行きました。

関越道で群馬と新潟の県境を越え、六日町のインターでした道に下りました。
魚沼郡、十日町などを越え、上越市に入りました。

ここで一泊。
地元の居酒屋で海鮮中心の夕食。
上越市の旧直江津市街地の店でした。

家族で一泊し、翌朝は日本海沿いを糸魚川に向けて出発。
好天の日本海沿いの道は快適でした。

糸魚川に入り、道の駅能生という場所へ向かいます。
駐車場は、関東や中京、北陸方面のナンバーで満車に近い状態です。

構内にカニ屋横丁というカニ専門の店が並ぶ一角があります。
鮮魚店が3店ほどあります。
道の駅なので土産物屋、食堂などもあります。
付近には道の駅が管理するキャンプ場もあるようでした。

カニ専門店が並ぶカニ屋横丁

鮮魚店で自宅に送る鮮魚を買い求め、宅配便を手配しました。
ノドグロをはじめ、南蛮エビ、イカ、石鯛などの鮮魚、サバの干物なども売られています。
その場で食べられる生ガキ、焼きイカなども売られていました。

カニ屋横丁と直角に鮮魚店が並ぶ
鮮魚店内の鮮魚の数々

カニ屋横丁前のパラソル付きテーブルにはカニを食べるお客でにぎわっています。
茹でたカニを買うと、バケツとはさみと割りばしと手拭きがついて来て、その場で割ってほじって食べられるのです。

カニ屋横丁前のテラスでカニをむさぼる

何とも豪快です。
日本は狭いようで広く、現地に行かないとわからないことがまだまだたくさんあります。

かつて夏に秋田の日本海沿いを車で走った時に、真夏の道の駅で人々が生ガキをじゃんじゃん食べては、蛎殻で一斗缶を山にしていた光景を思い出しました。
夏に生ガキを食べたことがない山小舎おじさんはその光景に驚きましたが、今なら喜んで仲間に入ることでしょう。

夏の新潟では茹でカニをむさぼり食う光景が繰り広げられているのでした。

カニをチョイスした山小舎おばさんによると、1杯1600円ほどでカニを買うと、倍くらいのおまけをしてくれたとのことでした。

これで1600円(おまけ込み。唐揚げ、コロッケは別)

家族で無言でカニをむさぼり食べました。
外なので多少こぼしても、汁が垂れても大丈夫。

茹でカニは生臭いこともなく都会ではなかなか出会えない味でした。
合わせて、カニご飯とカニクリームコロッケも食べましたが美味。

9月中旬ながら夏の日差しの日本海で思わぬプレゼントでした。

軽トラ流れ旅 須坂デイープ旅

軽トラで須坂まで行ってきました。
上田から真田をとおり、菅平へあがって須坂へ下るコースで行きました。

須坂は、新潟方面へ北上する谷街道と、菅平をとおって現群馬方面へ抜ける大笹街道が交わる交通の要衝として中世より発展。
江戸時代になると須坂藩が置かれ、物資の流通により豪商が発生しました。
明治以降は生糸の生産の中心地として発展したところです。

当時の蔵が立ち並ぶ町が残っており、小布施と長野の中間地という立地から、観光客にも人気の町です。

山小舎おじさんは2度目の訪問。
前回は江戸時代の豪商田中家の屋敷を見、蔵の街並みを見、長野電鉄が走る須坂駅に行き、地元で人気の食堂で昼食しました。
この度、前回訪問時には改修中だった博物館を見たくて再訪問しました。

臥竜公園で博物館と動物園

臥竜公園は須坂市民の憩いの場です。
春は桜の名所となります。
一角に須坂市博物館があります。

須坂市博物館前景

常設展示室では、カモシカのつがいが、はく製姿でお出迎えしてくれます。

常設室最初の展示はカモシカ

石器時代から古墳時代のエリアへ行くと、この地域に古墳が多くあり、剣など重要な埋葬品が発掘されたことがわかります。
長野県は古墳の数では全国有数の、古代の文化圏だったのです。

古墳から出土した直刀

隣の展示室には須坂の観光名所の、米沢瀑布と米沢鉱山跡の展示がありました。
興味をひかれたので、学芸員の方に詳細を聞くと、米沢瀑布は紅葉の名所でシーズンにはシャトルバスが出るとのこと。
ただし現在は2019年の台風19号の被害で交通遮断となっていること。
駐車場から40分くらい歩くこと、などを聞きました。

また、硫黄鉱山跡の米沢鉱山は、瀑布からさらに徒歩で行かなければならないこと。
鉱山とその周りの町の跡はすっかり撤去され、廃墟的なものは残っていないこと、なども教えてくれました。
いつかは行って見たい米沢瀑布と鉱山跡です。

博物館の後、公園内の須坂動物園に向けて歩いてみました。
ローカル放送で須坂動物園のイヌワシの話題があったのを思い出したのです。
イヌワシは捕獲禁止なのはもちろん、飼っている動物園も限られているとのことです。

臥竜公園

桜並木を動物園まで歩くと、園内にSLの姿が見えました。
入り口の案内板を見ると入場料が大人200円とあります。
迷わず入場券を買いました。

須坂市動物園入り口

臥竜公園の端の丘陵というか、坂を利用した動物園です。
細長い敷地で上り下りもあります。
女性のスタッフが働いようで、鳥類、小動物が多く飼育され、猛獣はツキノワグマだけです。

天然記念物イヌワシ
ペンギンもいます

小動物と触れ合う施設があったり、昆虫などの展示館もありました。

園内の様々なコーナーの一つ

入り口近くに、中央本線の木曽福島機関区で勤めを終えたD51が展示されていました。
野外展示ですが、まずまずの保存状態で、運転席に上がることもできます。

笠鉾会館とまゆくら

須坂市博物館で、市内にある博物館分館の笠鉾会館との共通入場券200円を購入していました。

笠鉾会館へ行って見ました。
付近の市営駐車場の駐車券2時間分をくれました。

市立博物館が自然と古代の展示を分担しているとするなら、笠鉾会館は中世以降近世までの展示を行っていました。須坂の夏の風物詩である祇園祭の山車の展示も。

7月に行われる祇園祭の山車
往年の祇園祭の様子

祇園祭なるものは佐久地方の岩村田でも行われており、京都と信濃の歴史上の関係がどうなっているのか興味があります。

また、笠鉾会館では、交通の要衝としての須坂の歴史や、幕末の名君・堀直虎のことなどを知ることができました。

ここまで来たら市内の博物館は全制覇です。
続いてまゆくらという場所に行きました。

生糸生産全盛期に繭の蔵として使われていた建物を移築した博物館です。

まゆくら全景

入場して、届け出表に住所氏名を記入すると、係の70歳前後のおばさんが話しかけてきました。
古い蔵造りの建物のことから、当時の製糸工場の女工さんのこと、大笹街道のこと、などなど、話が途切れません。

須坂の女工さんは給料などの待遇がよかったとのことでした。
豪商田中家では屋敷の庭石を大笹街道を通らせ、菅平を越えて運ばせたこと。
製糸業衰退後は富士通の進出で精密工業が興ったこと、などなど。

まゆくら3階部分

話が尽きないので、須坂の町の花街のことも聞いてみました。
芸者さんがいたエリアを教えてくれました。
ほかに青木新道という場所と駅前もそういう場所だったことも。

後でわかりましたが、青木新道と駅前はいわゆる赤線、青線の地帯でした。
全盛期には長野からもお客が須坂駅前に来たとのことです。

須坂の闇、赤線地帯へ

博物館めぐりを終えた後は、地酒、どら焼きなどのお土産を買いがてら、まゆくらで得た情報の場所を巡ってみました。

芸者さんがいた花街の跡はすぐ見つかりました。
地図上で教えてもらった場所に料亭が1軒残っていました。

花街の現在

午後2時を過ぎ、昼食もまだでしたので急いで赤線地帯にも行ってみました。
昔のことを知っているとはいえ、女性の記憶なので、まゆくらのおばさんからの情報では、確かな場所がわかりません。
ネットで検索すると、劇場通り、青木屋小路などがその場所のようでした。

大体の方向へ歩いてみると、果たして劇場通りにぶつかりました。
かつては映画館(前身は芝居小屋)があり、にぎやかな商店街だったとのことです。
今はひっそりした劇場通りを歩いてゆくと、青木屋小路の看板がありました。

劇場通りの行灯
青木屋小路

青木屋小路に入り、ぶつかった道にはスナックなどがありました。
見ればそれらしき建物の名残も。
ここら辺がかつての遊興の巷だったのでしょう。

時代も変わったこともありますが、富士通も撤退し若い勤め人がいなくなったことが衰退の主な原因なのでしょう、かすかな残滓を残し住宅地に変貌してゆく地域となっていました。

青木新道に現存するスナック
かつての赤線と思われる建物
付近の道路標示。「現在地」に隠れたあたりが青木新道

歩き疲れ、腹も減り、須坂での今回の目的も果たしたので駐車場へ戻りました。
既に3時を回っており地元の飲食店はとっくに休業に入っている時間帯でした。

DVD名画劇場 溝口健二と田中絹代「西鶴一代女」

映画の教科書のような作品だった。
1950年代の映画撮影所の力量を思い知らされた。

監督の溝口健二は戦前のサイレント時代からのベテラン。
同棲中の女性に剃刀で背中を切られるなどの修羅場を体験し、女を描かせれば当代随一といわれた。
それも、玄人の女性だったり、運命に翻弄される逆境の女性を好んで描いた。

新東宝で撮影した「西鶴一代女」(1952年)は、ベネチア映画祭に出品され国際賞を受賞した。
溝口はその後、「雨月物語」(1953年)、「山椒大夫」(1954年)で、連続して同映画祭の銀獅子賞を受賞する。

国際的にも評価を受けた溝口健二は、ヌーベルバーグの若手監督らからも崇拝され、ジャン=リュック・ゴダールは来日時に、たっての希望で溝口の墓にお参りした。

主演の田中絹代はこの作品の撮影年に43歳となるベテラン女優で、松竹の大幹部女優として戦前から活躍していた。戦後の1949年に親善大使として渡米したが、約3か月の滞在後の帰国時に、投げキッスやアメリカナイズされた服装がバッシングを受けた。

スランプに陥った田中は、溝口から「西鶴一代女」の主人公お春役のオファーを受けた。
御所勤めの身分から、夜鷹、乞食にまで落ちぶれるが、気高さを失わない女性の一生を、鬼気迫る演技で応え、スランプを脱した。

その後も、わきに回りながらも映画、テレビで活躍した。
1974年「サンダカン八番娼館・望郷」で年老いた元からゆきさんを演じた田中に、ベルリン映画祭は最優秀女優賞をもってたたえた。

「西鶴一代女」  1952年  溝口健二監督  新東宝

御所のお女中?として権勢を誇っていた10代のお春。
欲張りなだけで、意気地なしの父親(菅井一郎)の自慢の種だった。

お春にほれ込んだ若侍(三船敏郎)の一途な愛に応えたのがお春の転落の始まり。
不義密通の罪に問われ、洛外追放。
若侍は死罪となり、三船は開始早々いなくなる。

御所からの見舞金を当てにして散財していた父親に泣きつかれて、島原に売られ太夫として売れっ子になるお春。
廓ではあさましく金に右顧左眄する主に嫌われて里へ帰る。

商家へ奉公するが、島原にいたことがわかると態度を変える主(進藤栄太郎)や、玄人女性に嫉妬する奥方(沢村貞子)に翻弄され、いられなくなる。
店では手代(大泉晃)に惚れこまれ、のちに商家をクビになった手代に言い寄られることになる。

腕のいい扇職人(宇野重吉)に是非にと乞われて嫁に入って幸せになるのもつかの間、夫が辻斬りに合って死体で帰ってくる。

出家しようと尼寺に身を寄せるが、言い寄られた男との現場を見られ、庵主から追放される。

お春は、どんな状況にあっても己に正直に、孤高の姿勢を崩さない。
ただ黙っているだけでなく自分の気持ちを主張し、権力に反発する。
そのために零落していっても、慌てず、嘆かず、人のせいにせずにその状況(というか己の運命)を受け入れる。

溝口とのコンビの脚本家・依田義賢は、お春のキャラを1本芯の通ったわかりやすいものとした。
お春を巡る人々のキャラも、一途な者、まじめな者、ずるいもの、小心者、などと分かりやすく色分けされている。結果、作品は外国人にわかりやすいものとなっている。

お春を巡る男性陣の描き方にも溝口らしさが出ている。
金に右顧左眄する島原の廓の主人や、お春が島原出だとわかった瞬間、これからはただでできるわいとスケベな顔になる商家の主。
小心で、娘の金ばかりあてにする実父の描き方も徹底している。
男の卑近さの強調は、ほかの溝口作品、「雨月物語」、「祇園囃子」(1953年)、「赤線地帯」(1955年)などとも共通している。

一方、誠実で男らしい男は登場後すぐに死んでゆく。

このブラックジョークのような状況を敢然と受け入れてゆくお春を演じる田中絹代がすごい。
夜鷹になったお春が、羅漢の顔に三船扮する若侍の顔をオーバーラップさせるときのすごみのある表情。
夜鷹の客に、化け猫とからかわれ、取って返して啖呵を切る時の鋭い体の動きにみなぎる怒りの表現。
ラストシーン、乞食となって巡礼するお春の笠の下の表情は、諦観した聖女のようだった。

撮影は平野好美。
新東宝のスタッフなのか、溝口とは名コンビの大映の宮川一夫カメラマンではない、が、溝口の手法は変らない。

奥に細長い商家のシーンでは縦の構図を生かして撮影。
深度の深いフォーカスで手前にも奥にもピントを合わせた撮影で、ワンカットワンシーン演出に応える。

お春の運命が転換(ほとんどの場合は暗転)する場面では、走るお春を俯瞰で追いかけるクレーン撮影で、状況の変化をカットを切らないで表現する。

多くのショットは、フルサイズ以上で突き放すように登場人物たちを捉える。

家屋のセットでの人物の動きを、横の動きは障子越しにワンショットの移動撮影でとらえ、また2階から1階へ駆け降りる縦の動きでは、セットの壁越しにクレーンを使ったワンショットでとらえる。
緊張感の持続と、状況の説明に的確な撮影である。

1950年代の日本の映画撮影所の技術の高さ、俳優の演技のうまさ、入魂ぶりがさりげなくかつ十分に確認できる作品である。

令和4年青春18きっぷの旅 大糸線で穂高、白馬へ

日曜日に穂高と白馬へ行ってきました、青春18きっぷの旅です。

穂高神社再訪

茅野から松本へ行き、大糸線のホームへ。
連絡するのは穂高行き普通列車。

通路片方にボックスシートが並び、反対側はベンチシートという作りの車両です。
白馬や南小谷まではゆかない、穂高止まりの下り列車なので乗る人もほとんどいません。

大糸線穂高行き普通列車
ボックスシートとベンチシートが混在する珍しい車両

松本郊外の宅地の風景を抜け、田んぼばかりの農村風景となった頃、穂高駅に着きました。

御船に飾られるような武者人形が迎える穂高駅

車窓からも見えたこんもりした森が穂高神社です。
朝9時の穂高神社は、鳥居へ向かう途中の木漏れ日の鮮やかさが新鮮です。
鳥居をくぐる際の空気感に襟を正します。

穂高神社の森の木漏れ日
鳥居。神楽殿の背後に拝殿

2,3年前に来た時同様、境内は掃き清められ、鳥居正面の神楽殿は真新しい姿をとどめています。
拝殿にお参りします。

神楽殿から鳥居を望む
拝殿

ふと見渡すと、穂高のお祭りで活躍する、御船が見えました。
桃太郎をテーマにした作りです。

毎年9月に行われる御船まつり。
船をかたどった山車がぶつかり合うというもので、安曇野に船でやってきたという遠い祖先の言い伝えを今に伝えるものといわれています。

境内には御船があった

船で当地にやってきたという安曇野の祖先の神様にして、北アルプス総鎮守でもある穂高神社を後にします。

穂高神社の鶏がいない

前回、穂高神社に来た時に印象的だったのが境内を走り回っていた放し飼いの鶏。
神様のお使いだとのことでした。
今回、その鶏の姿がないので聞いてみました。

先ず、お守りを売っている巫女さんに聞きました。
今はいなくなりました、野獣に捕られたのでしょうか?とのこと。

売店でコーヒーをテイクアウトした際に店主のおばさんにも聞いてみました。
最近まで2羽いたんですが、いなくなりましたね、とのこと。

皆さん鶏と神社の関係は認識しており、またいなくなったことは知っているようです。

駅に向かい下りの列車を待つ間に、駅前の観光案内所に行って見ました。
お土産の生わさびを買いつつ、係の人に鶏のことも聞いてみました。
あれっいなくなったんですか、知りませんでした。とのこと。

観光案内所でおろし生わさびを購入

穂高神社から神の使いがいなくなってしまいました。
鶏よ、よかったら戻ってきてください。

大糸線の車窓より

穂高から南小谷行きの列車に乗ります。
座席は8割がた埋っています。

信濃大町を過ぎて北上します。
車窓にはそろそろ北アルプスの姿が見えてもいいのですが、この日天気は良く気温も高いのですが、雲が里山の上あたりにかかっていて、背後に壁のようにそびえるアルプスの姿は見えません。

北アルプスは雲で望めず

標高が上がるにつれ、水田の間にそば畑が広がり収穫前の白い花を咲かせています。.

北アルプス方面の里山と田園風景

大町と白馬の間の山間に湖が3つ続きます。
木崎湖、中綱湖、青木湖です。

天気の良い休日とて湖面には釣舩やモーターボートが浮かんでいます。
諏訪湖と違い、藻なども発生していません。
遠目からでも、静けさと水質の良さがうかがえるようです。

このあたりの地形、安曇野が湖だったころの名残なのでしょうか。

車窓から見る木崎湖

白馬は外来者天国?

白馬で下車します。。

白馬駅。観光地特有の空気感

11時を過ぎていたのでまず腹ごしらえ、とネットで調べたとんかつ屋へ向かいます。

12時過ぎになってロースカツ定食にありつくことができました。
有名店らしく、県外ナンバーの車両が開店時間に詰めかけるのですが、店の玄関は締まっています。
11:30の開店時間も過ぎてから中から店の人が顔を出し、そこにいる人の予約を受け、ついでに開店時間を12:00に書き直しました。
CLOSEDの看板は出したままです。

ネットで評判のとんかつ屋へ行って見た
案内板(食事中に一部書き換えられていた)

コロナで、予約客のみの対応という方針もあるのかもしれませんが、開店前の看板からではよくわかりません。11:30にやってきた県外ナンバー車両は、あきらめて開店前にほとんど去ってゆきました。

店内のレイアウトも一人ずつアクリル板で区切られており、テーブルには瓶入りのソースとチューブ入りのからしが乗っています。
注文と同時に会計でした。

1100円のロースカツ定食は、肉が特段厚くもなく、また明らかにお米の質が悪く、ごはんが美味しくありません。
高遠で食べた1000円のソースカツ丼の方がずっとおいしかったでした。

ロースカツ定食。

近くには、キャンプサイト用品のショップがあり、庭ではマルシシェが開かれていました。
スタバのテラスで憩う人々は都会からの移住者なのか、避暑客なのか、観光客なのか?
マルシェの出店者も、来客も地元の人ではなく、”外来者”ばかりのようでした。
店内には外国人の姿や、関西弁をしゃべる人の姿も目に付きます。

サイクルショップの庭からスタバのテラスを望む
サイクルショップの庭ではマルシェが開かれていた

ここで駅に戻り貸自転車を借りて行動。
まずは白馬村歴史民俗資料館を目指しました。

自転車で15分もかかりましたでしょうか、白馬グリーンスポーツの森という場所の一角に資料館がありました。
係の女性が一人います。
入場無料です。
このあたり、外来者が集まるエリアとは異なる、のんびりした空気が流れています。

資料館はワンフロアだけのスペース。
石器時代からの歴史、林業、農業に関する歴代の道具のほか、塩の道という現在の大糸線にトレースする旧街道のパノラマが目を引きました。
白馬らしく登山やスキーの歴代の道具の展示もありました。

資料館の展示。。
塩の道パノラマ

続いてマップを頼りにジャンプ台まで。
長野オリンピックのジャンプ会場です。

ここに至るまでの道すがら、とにかくたくさんのペンションを見ました。
それも3,4階建ての大掛かりな建物をよく見ました。
現在はともかく、スキーや避暑に訪れる客でごった返した時代があったことをうかがわせます。

白馬ジャンプ競技場

ジャンプ台の下でしばし休憩。
ジャンプ団体で日本チームが優勝した時の競技の模様を思い出します。

この日はトレイルランの大会が開かれているようで、高低差のある地形の中をランナーたちが駆けてゆきます。空にはパラグライダーが浮かんでいます。
こういった地道な活動、観光は無理がなくていいものです。

ジャンプ台下でオリンピックの旗がひらめく

白馬村内には温泉もたくさんあるようです。
八方というエリアをとおると、温泉施設があり、足湯は満員でした。

トレイルランのゴールがあり、次々とランナーたちが帰ってきます。

八方温泉の足湯
トレイルランでゴールするランナーたち

古くから登山とスキーの基地として開発され人があふれていた白馬村。
ペンションブームを経て、国内・海外からの移住者が増え、観光客の人気も続いています。
一方、古くからこの地方の中心地として主に農業・林業で栄えてきた歴史があります。

地元の人にとって、外来者は生活の糧でもありましょうが、両者の接点は金だけで、生活圏から人的交流まで隔絶されているのかな?とも思いました。

先のとんかつ屋の客あしらいにしても、貸自転車屋の全く事務的な対応にしても、明らかに外来者に対する、飽き飽きした感情、人的な交流を拒否する感情、があるような気がしてならないのです。

もともと外部に対して閉鎖的な県民感情のベースが、観光基地として長年外来者に荒らされてきた白馬にあって強化された結果なのかもしれませんが。

廃材をもらう

山小舎のリフォームをお願いしている大工さんから電話がありました。

廃材が集まったので取りに来ないかとのこと。
二つ返事で伺いました。

大工さんの資材置き場があるのは、長和町の和田地区。
旧小県郡和田村です。

軽トラで姫木別荘地内をエコー平スキー場付近まで上がり、鷹山牧場付近まで続く道をとおり、県同55号線に合流して和田峠の麓の男女倉(お目倉)まで行きます。
そこで中山道に合流して和田まで下ります。

角材を含めてたくさんの板材、垂木の端材などをもらいました。

軽トラの荷台一杯の廃材をもらいました

さっそく持って帰って廃材を再利用します。

長めの角材は、薪を干す台に使います。
薪の乾燥台は地面から15センチ以上あることが望ましく、また当然ながら台が水平であることが必要です。
その点、柱や梁に使われていた角材は、乾燥台の土台に最適なのです。

さっそく角材を薪の乾燥台の荷台に使います

板材は適当な長さに切った後、手斧で割って焚付に使います。
既に乾燥している板材ですので火の付きがよく重宝します。

この大工さんからは数年前にも板材の廃材をたっぷりもらい、焚き付けとして使っていましたが、それももうそろそろ使い切るところなのでした。
まさにグッドタイミングでした。

DVD名画劇場 グレタ・ガルボ伝説 「グランドホテル」「椿姫」

手元に「銀幕のいけにえたち・ハリウッド不滅のボディ&ソウル」という古本がある。
アレクサンダー・ウオーカーというアイルランド生まれの映画評論家が1966年に発表したものが原著。
10人の不滅のハリウッドスターのスクリーン上の、また彼女ら自身を通して女性のセクシュアリテイの本質を極めること、がテーマの一つだとある。

グレタ・ガルボについての1章があるので、引用、要約してみる。

ガルボは1905年スエーデンに生まれた。
労働者階級の家庭に育ち、学校に行ったのは13歳まで。
引っ込み思案で、人前できちんと話すこともできない性格だったという。

14歳で父親を亡くし、15歳の時には裏通りの散髪屋で石鹸娘として働いた。
のちにデパートで販売員として働いていた時、宣伝用の短編映画に出演、これを契機に王立劇場付属の俳優学校に通い始める。

俳優学校長の推薦で、当時スエーデン映画界で第一人者の一人だったモーリッツ・スティルレル監督の新作の主演女優に抜擢された。
特に美人でも才能があるわけでもないガルボをスティルレル監督は熱弁をふるって擁護したという。

この点では、同僚たちの反対を押し切ってマレーネ・デートリッヒを「嘆きの天使」に抜擢した、スタンバーグ監督のケースも同様だった。
ステルレルはグレタ・ガルボ(本名グレタ・グスタフソン)の名付け親でもあった。

1925年にMGMのタイクーン、ルイス・B・メイヤーがスティルレルともどもガルボをハリウッドに呼び寄せる。
まもなくスティルレルは独裁的な態度がスタジオの総反発を食らいMGMを解雇され、ガルボだけが残る。

当時のハリウッド映画(の女性性)は、フラッパーたちの”フリーラブ”哲学”か、もしくはリリアン・ギッシュに代表される清純に二分され、ガルボが象徴する、性的なものと精神性の組み合わせをうかがわせるキャラクターは希少価値があり、斬新な存在だった。

同時に「彼女は台本やシュチュエーションをたちどころに理解してしまうんだ。ほとんどリハーサルの必要がない。(中略)自分の才能と実力でもってドラマを膨らますことができる」とスタッフが述べるくらいの完璧な仕事ぶりだった。

スエーデン時代のガルボ

ジョージ・キューカー、エドモンド・グールデイング、クラレンス・ブラウンといった”専属”監督と、何よりカメラマン、ウイリアム・ダニエルズらスタッフの貢献もあり、ガルボは銀幕の大スター、生ける神話となった。

ファンが自分と同一化するのをかたくなに拒み、記者会見やインタビューに応じず、パーテイーに出ず、最後は全盛期の36歳で引退して、ガルボは永久に神話の中に閉じこもった。

「グランドホテル」 1932年 エドモンド・グールデイング監督 MGM

ベルリンの豪華ホテルを舞台に繰り広げられる人間模様。

登場するのは舞台にナーバスのなっているロシア人バレリーナ(ガルボ)、紳士を装った泥棒(ジョン・バリモア)、工場の経理係を休職し全財産をもって滞在中の初老の男(ライオネル・。バリモア)、企業買収を策動中の経営者と雇われタイプライター(ジョーン・クロフォード)。

各キャラの描写と演技が的確で味わいがあり、自然とドラマに見入ってしまう作品。

「我が家の楽園」とも共通する、ライオネル・バリモアの名演技も見られる。
声だけでこの人(ライオネル・バリモア)と分かるようになった山小舎おじさんは彼のファンになった!

紳士を装ったホテル専門の泥棒ながら、最後は本物の紳士として死んでゆく、ジョン・バリモアもいい。

ガルボに言い寄るジョン・バリモア

若き日のジョーン・クロフォード。
当時も今もいる、軽薄で金次第で世の中を渡ろうとしている、即物的な若い女性を軽やかに演じて、魅力的。
最後は人間の尊厳の何たるか、に目覚めて観客を安心させるのもいい!

そして、ガルボ。
これが、決して飾り物ではない存在感を見せる。

バレリーナに見えるかどうかは置いておいて、自らの繊細さに苦しむ芸術家が、時にはしゃぎ、時に鬱々とする姿をまるでガルボ自身のことのように演じていて、うまさを感じさせる。

「グランドホテル」のグレタ・ガルボ

寝巻の下にホットパンツをのぞかせて色気を振りまき、ラブシーンも欠かさないが、それがいちいち魅力的だ。

この時代にしては肌を見せることもいとわない?ガルボ…

ラストの大団円に向けて、各キャラが、まるで豪華ホテルがシェアハウスか何かのように自由に各部屋を行き来するのがおかしく、またいいなと思う。

30年代のアメリカ映画。
フランク・キャプラの「我が家の楽園」「スミス都へ行く」に見るような正義感、人間性を詠うことに躊躇がなかった時代。
観客もそれを受け入れていた時代。
現実はともかく映画の中くらい正義が通用してもいいんじゃないか、と思った。

「椿姫」 1937年 ジョージ・キューカー監督 MGM

「グランドホテル」と異なり、ガルボが完全な主役で壮大なその独演、相手役との駆け引き、を楽しめる。

ガルボとロバート・テーラー

19世紀中盤のパリの社交界。
素性の知れぬ男女が虚々実々の駆け引きを繰り広げる濁った世界。

ガルボ扮する椿姫も極貧から身を起こし、金持ちの男を渡り歩いてきた身の上。
人間関係は気の向くまま、流されるまま、そこに信頼も尊厳もない、というキャラ。

椿姫に夢中になる青年に若き日のロバート・テーラー。
「哀愁」以降の中年になったテーラーしか知らなかったが、若いころはハンサムなうえに初々しく誠実な見かけで、スケベ一辺倒のゲーリー・クーパーより好印象。

実年齢32歳になるガルボは、画面を通しても年相応の貫禄はごまかせなく、(声も1932年の「グランドホテル」当時よりは低くなっている印象)また、口をつく「ハハッ」という相手を小ばかにしたような笑いも年齢を感じさせるのが実情。
しかしながら、だからこそ、若い燕の言い寄りをいなす演技は絶妙。

青年との真実の愛に目覚めたときの演技よりも、社交界を浮遊しながら、あることないこと思いつくままに口をつく”余裕”の演技が印象に残る。

青年の父として、椿姫に身を引くことをお願いする役をライオネル・バリモアが演じ、通り一遍の敵役に収まらぬ余韻を残す。
さすがだ!

瀕死のガルボがテーラーを迎えて真情を披露し、ある意味、幸福のもとに死んでゆくラストシーンでは、思わず眼がしらが熱くなる山小舎おじさん。
おじさんもすでにガルボ伝説に囚われた身となったのか?それとも単純なヤツだけということか?

ガルボの豪華な衣装も楽しめる作品。

(余談)

スエーデン出身の女優というと、イングリット・バーグマンはじめ、アニタ・エクバーグなど、大女のイメージがある。
我がガルボは身長が169センチというから、大女とはいいがたい。
体の厚みもなく、ただし肩幅は広くがっしりした印象でそこにスエーデンの血は生きている。

「ニノチカ」(1939年エルンスト・ルビッチ監督)に見る、ロシアの”人民服”姿と男っぽいふるまいも、そのがっしりとした体つきには似合うというものである。

ちなみにスエーデン系のアメリカ人女優にはグロリア・スワンソン、ジーン・セバーグらがいる。
スワンソンは背は低いが肩幅広くがっしり型。
セバーグは背は低く肩幅も広くない。

スエーデン系にも色々いるという次第である。

令和4年 青春18きっぷの旅 中央本線で木曽路へ

夏の青春18きっぷ発売の季節です。
今年も購入しました。

ある土曜日、中央本線の塩尻・中津川間の列車に乗ってみました。
木曽路を巡る各駅停車の旅です。

茅野~塩尻~十二兼

07:07茅野発松本行きの普通列車に乗りました。
土曜日ですが高校生たちでにぎわう茅野駅のホームでした。

土曜日朝7時の茅野駅下り線のホーム

塩尻駅で下車し、中央本線中津川行きを待ちます。
コーヒーを飲もうと駅構内のキヨスクを訪ねました。

しかしながらレジわきのコーヒーメーカーには故障中の貼り紙が。
レジのおばちゃんに確認すると、10分待ってくれれば、とのこと。

すぐ近くの待合室で座って新聞を読んでいると、すぐに直ったと声がかかりました。
レジのおばちゃんの人間味のある対応に心が温かくなりました。

塩尻駅で中央本線中津川行きに連絡

中津川行き列車に乗りました。
初めての木曽路です。

塩尻を出発してすぐ、盆地から、中央アルプスと北アルプス南端の間の山間を上ってゆきます。
山間を縫う木曽谷をたどる路線です。
かつて木曽谷には中山道が通っていました。

車窓は急峻な山々、というよりは、日本的な山の緑が続くという感じ。
思ったよりも開けた場所が多く、そういた場所には町が広がっています。

木曽谷を行く

木曽地方の中心地である木曽福島、大関御嶽海の出身地・上松を過ぎたあたりに十二兼という駅があります。
実は山小舎おばさんの実母の母親の出身地だそうです。

山小舎おばさんは全く記憶にないそうですが、親せきによると、川の音が聞こえるいい場所、とのこと。
せっかくなので下車してみました。

下車して駅の発着時刻表を見ると、次の列車まで2時間半もあります。
たまたま駅にいた青年に聞くと、中津川方面へは路線バスもないとのこと。
中津川方面に進むには駅に戻って2時間半後の列車に乗るしかありません。

駅前の観光案内標識

駅前には名所案内版が一つ立っているだけ。
現中山道(国道19号線)に面した駅ではないとはいえ、周りには店1軒、停留所一つありません。
集落といえるのかどうか、人家がぽつぽつと並んでいるだけです。
雑草が伸び放題の廃屋も目立ちます。

駅前の風景

仕方がないので、温泉施設や民宿があるという名所・柿其渓谷(かきぞれけいこく)へ向かって歩きました。
木曽川を渡り、重要文化財というコンクリート製の水路橋をくぐります。

木曽川を渡る

木工所などを過ぎます。
集落らしい集落にも乏しい地域です。
ここら辺、南木曽町のはずれの地域で、柿其渓谷付近の水力や林業の基地だったようです。
果たして山小舎おばさんの母方の実家はどのあたりで何をしていたのでしょうか?

コンクリート製の水路橋をくぐる
斜面に集落が点在する
渓谷に向かうにつれ民宿が現れる

汗だくになって歩いているうちに時間が過ぎ、折り返して駅に向かう時間が近づきました。
渓谷入り口の温泉宿を見た後、折り返して駅に戻りました。
山道の上り下りで計7~8キロも歩いたでしょうか、腰が痛くなりました。

傾向入り口にある温泉施設

岐阜県中津川

列車に乗り終点の中津川で下りました。
土曜日だからでしょうか座席はほぼ満席でした。

駅の立ち食い蕎麦で昼食です。
愛想のよい主人が袋から出したそばを湯がき、温めたダシをかけて出してくれます。
ダシは完全に関東風というか東日本風で、色が濃くしょうゆ味がしっかりしたもの。
美味しかったです。

かき揚げ蕎麦450円

折り返しの列車は1時間後。
駅前を散策します。
駅前に立つ観光センター・にぎわい特産館に入ってみました。

どら焼きなどの銘菓、産品が並んでいました。
菓子の種類が多いのと、温暖な地で産するお茶が並んでいるのが目を引きました。
今どきの各地方は、地元の農産品を魅力あるお土産に加工しているものです。
自宅用の土産に、煎茶、菊芋の粕漬、飛騨美濃伝統野菜を加工した七味唐辛子を買いました。

お土産を購入

岐阜県の中津川は長野県とは違う匂いがしました。

木曽福島で中山道散策

中津川から折り返しの松本行き列車に乗り、木曽福島で途中下車しました。
木曽路の風景に触れるためです。

木曽福島は長野県木曽郡の中心地で、木曽谷では大きな町となります。
町の中心部に中山道宿場の景観が残っています。

次の列車まで1時間しかないが、中山道の景観を見ておきたく、駅前の観光案内所に飛び込みました。
マップを所望するおじさんに係の女性はにこやかに応対してくれ、中山道に関心あるなら、と街道案内の冊子までくれました。

木曽福島駅前

マップを頼りに宿場の景観保存地区へ急ぐ。
残って入のはわずかな区間でしたが、建物の景観が保存され、水が昔ながらに流れていました。

宿場の景観保存地区

駅までは別の道、現在の商店街を歩きました。
地方の商店街とて、さびれてはいるが、江戸時代の景観保存地区よりも人々の匂いが感じられます。

街中の風景
御嶽海の出身地は隣町
街角の風景

こういった通りにこそ、その地方独特の風情というか歴史というか、が強く漂っているものだと思いました。

軽トラ流れ旅 杖突街道~高遠~伊那の旅

茅野に下りて床屋へ行ったついでに、軽トラを飛ばして杖突街道を伊那方面に走らせました。
目的は初秋の物産調達です。

杖突街道沿道の直売所にて

茅野より杖突街道(国道152号線)を走って、杖突峠に登り、高遠方面に下ると、谷あいに取り残されたような里の風景が点在します。
伊那谷と諏訪地方、甲州街道を結ぶ街道だった道で、山城国から勧進された貴船神社などが残る集落が続きます。

かなり下って道が平坦になったあたり、塩供という地区に一軒の直売所があります。
沿線の商店や食堂が閉店している現在では貴重な有人販売所です。

杖突街道マップより、高遠北小学校の向い側に直売所がある

コロナが始まってからはこの直売所も閉まっていることが多くなりました。
たまに空いていても、怖いから午前中だけ開ける、と一人で経営しているおばさんの話しでした。

空いているのを見かけたので寄ってみました。
おばさん自家製の野菜とリンゴ、高頭饅頭などが並んでいます。
声をかけると奥からおばさんが出てきました。

今年はプルーンの出来が悪かったこと。もうすぐ駒ヶ根からナシを仕入れること。キノコはまだなこと。今年のキノコの出来はわからないこと。山から鹿、イノシシ、サルが出ること。最近木材の伐採が進んでいること。そば粉を知り合いからもらって年越しそばは自分で打つこと。などなど・・・。

一山380円のトマトを買いました。
一人で直売所を守るおばさんへの応援です。
これからもコロナとサルに負けずに元気でいてほしいものです。

高遠の華蔵食堂でソースカツ丼

高遠の町へ入り無料の商店街駐車場へ。
みすず食堂をという2回ほど入ったことがある食堂を目指しますが、本日休業。
駐車場隣の真新しい観光案内所へ行って昼食の場所の情報を聞きました。
教えてくれた高遠郊外の食堂へ。

観光案内所に紹介された食堂・華蔵

店内は田舎によくある飲み屋を兼ねた食堂。
小上りには作業着の4人組と地元の夫婦。
応対したおばさんの年季からして味に期待が持てます。
おすすめはローメン、ソースカツ丼のようです。
1000円のロースソースカツ丼を注文しました。

メニューにはまずローメンが出てくる

これが当たりでした。
伊那でソースカツ専門店のたけだへ行けば、1500円するソースカツ丼が、肉の分厚さではやや劣るとはいえ、1000円です!
味も遜色ありません。
観光客が詰め掛け、混んでおり、ややもすると客扱いが雑になりかねないたけだよりいいかもしれません。
14時に昼の部終了、という県内のローカルルールはどちらも同じで、その点は十分注意しなければなりませんが。

ロースソースカツ丼。十分!

昼食の後、近くの直売所に寄ってみました。
果物ではネクタリンが多く出ていました。
大石早生というスモモがあったので加工用に仕入れました。

高遠の直売所でゲット

伊那市創造館で大昆蟲食博

伊那市では博物館に行ってみました。
高遠の博物館に行ったことはあるのですが、なるほど伊那市博物館という施設はなく、検索で見つからなかったのです。

駅からほど近く、長らく図書館として利用されていた由緒ある建物が、伊那市の博物館に当たる創造館でした。
出土した貴重な土偶、土器のほか、関連する文化人の資料などが企画展示されています。

その中に!大昆蟲食博という展示がありました。
何気なく入ってみると、ザザムシで有名な伊那ならではの力の入った、見ごたえのある展示でした。

イナゴ、ザザムシ、ハチの子のほか、信州と伊那谷に伝わる昆虫食の歴史と未来がパネリングされています。
ザザムシのふりかけを開発した、上伊那農業高校の取り組みがビデオ化されており、見ることができました。

ザザムシを飼う上伊那農業高校生(ビデオより)
高校生の取り組みが紹介されたパネル

この企画、地元でやるのはいいのですが東京などでやってみてはどうでしょう?
タイムリーだとも思います。

ザザムシが気になって創造館を後にした山小舎おじさん。
伊那の商店街の一角に、ザザムシ、ハチの子の貼り紙を張った店があるのを思い出しました。

行って見ると店は無人で鍵がかかっていました。
御用の方は電話ください、とあったので電話してみました。
出てきたおばあさんに聞くと、ザザムシは季節ではないこと、季節になっても今はあまり出回らないこと、との返事でした。
残念。

かつてザザムシの貼り紙があった信州名物店

この店の隣の酒屋に力強い看板がかかっていました。
秘酒・突こしとは何者?店へはいって聞いてみました。
よく聞いてくれたとばかりに店主が冷蔵庫から出してくれたのは、真空パックに入った真澄の特別酒でした。
諏訪にある真澄の蔵元ショップでもお目にかかったことがないものです。
どうして諏訪から遠く離れた伊那に?と聞くのももどかしく、得意げな店主から1本買い求めました。

歩けば色んなものと出会えるのだなあ。

力強い看板の酒屋
真澄突こしをゲット

帰り道、いつもの南箕輪村の直売所JA上伊那ファーマーズあじーなに寄りました。
リンゴの早生品種が出ていました。地物の桃も出盛りで、B品がひと箱700円でしたので加工用に買いました。

いつにもまして収穫の多い、高遠、伊那谷の初秋の旅でした。

DVD名画劇場 デートリッヒ×スタンバーグ「嘆きの天使」「モロッコ」「上海特急」

今回はマレーネ・デートリッヒの初期の3作品を見た。
女優デートリッヒを世界的に有名にした作品群で、監督はいずれの作品もジョセフ・フォン・スタンバーグ。
この時期、デートリッヒの個人史も激動していた。

まずはスタンバーグ監督の紹介。
オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ人で、両親とともに渡米後、さまざまな職を経たのち、1本の自主映画を製作。
その後、米映画最初のギャング物といわれる「暗黒街」(1927年)がヒットし、一躍スター監督となった。
ドイツで製作された「嘆きの天使」(1930年)の監督として招かれ、主役にデートリッヒを発掘。
パラマウントに招かれデートリッヒとともに渡米。
以降1935年までデートリッヒとのコンビで映画史に残る作品群を発表した。

全盛期のジョセフ・フォン・スタンバーグ監督

「嘆きの天使」制作時、デートリッヒはすでに20代後半。
キャバレー歌手などを経て、舞台を中心に活動し、映画にも数本出ていた。
映画出演を機に監督助手と結婚し、一女の母親でもあった。

若きマレーネ・デートリッヒ

「嘆きの天使」 1930年  ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督  ドイツ

主人公の堅物教師がキャバレーの歌姫に魅入られて結婚。
ドサ周りの挙句落ちぶれて死ぬまでの物語。

歌姫役がなかなか決まらなかった。

スタンバーグはたまたまベルリンの舞台でデートリッヒを見て、歌姫ローラローラの配役を決めたという。
役を持ち掛けたスタンバーグに対するデートリッヒの反応は、私は写真写りがよくないんですよ、という冷ややかなものだったという。

ウーファ撮影所の当時最先端の技術を誇るスタッフ、ドイツ一の演技力を誇るエミール・ヤニングス(主人公の堅物教師役)、新進気鋭のスタンバーグ監督がそろったなかの最後のピース、退廃の歌姫・ローラローラの配役、が埋まった。

撮影が始まると、デートリッヒは妻、母として家事、育児をこなしながら撮影所に通った。

作品中、主人公の堅物教師と結婚して数年後、ドサ周り中のローラローラが普段着姿で家事をする場面がある。
普段着姿のがっしりした体形のデートリッヒはまさに堅実なドイツの主婦以外の何物でもなく見えた。

ただ、ひとたびローラローラの衣装に身を包んだデートリッヒは、煽情的なポーズをいとわず、退廃的な歌詞を、まだ若く高い声に乗せて歌った。
それは舞台を眺める堅物教師や、ギムナジウムの悪ガキどもに限らず、スクリーンの前の全世界の観客の目をくぎ付けにした。
今に至る伝説の女優マレーネ・デートリッヒ誕生の瞬間だった。

それにしても、場末の町の片隅の安キャバレーの舞台づくりよ!
当時のドイツ片田舎の場末の匂いと喧騒と退廃が今によみがえるよう。

その舞台では歌うローラローラの周りを女が取り囲み、客の指名を待つかのように、ビールを回し飲みしている。
当時のドイツの庶民の享楽を十分に想像させる舞台設定だ。

ローラローラはストッキングとガーターもあらわに椅子にそっくり返り、あるいはホットパンツのような格好で歩き回って客を煽情する。

堅物教師がいなくなった後の舞台シーンでは、椅子の背もたれをまたぐように足を開いて歌う。
このポーズは「キャバレー」(1972年)のライザ・ミネリにまで引き継がれている、場末の歌姫の〈決め〉のポーズでもある。

決して確信的な悪女ではなく、堅気の人間とは生まれた世界が異なり、金しか信じられるものがない芸人をデートリッヒは演じ切る。

ローラ・ローラの背後に女が並ぶキャバレーの舞台場面
DVDパッケージ裏面

安キャバレーの舞台、楽屋のセットは猥雑さにあふれ、そこに至る夜の下町のセットは、表現主義時代からのドイツ映画の伝統にを感じさせるように重厚で、陰影に満ちている。
これが戦前のウーファ撮影所のスタッフの技量であろうか。

「嘆きの天使」が後世に残したものはデートリッヒの誕生のほかに、ドイツの映画製作所の水準の高さがあった。

「モロッコ」 1930年  ジョセフ・フォン・スタンバーク監督  パラマウント

パラマウントは、「嘆きの天使」のアメリカ公開を1931年1月まで延期させ、その間にデートリッヒ、スタンバークによるハリウッド第一作「モロッコ」を撮影し、公開させた。
「嘆きの天使」の悪女ぶりを、「モロッコ」により弱めさせ、デートリッヒのイメージをアメリカ中産階級向けにアレンジするためという。

デートリッヒ個人は、夫と娘を残しての渡米を悩むが、むしろ夫が渡米を進めての決断だったという。

デートリッヒはスクリーン上のイメージと異なり、渡米後もたびたびベルリンへ帰ったりまた帰ろうとした。
娘をアメリカに連れて一緒に暮らし、夫や実母、実姉をアメリカに連れてゆこうとした。

「モロッコ」はパラマウントが、MGMのグレタ・ガルボに対抗してデートリッヒを売り出そうとしての第一作。
相手役に当代一の色男、ゲーリー・クーパーを持ってきたわけでもある。

このクーパー、田舎の消防団一の男前、といった感じで、ヨーロッパの歴史を背負うデートリッヒには文化的に対抗のしようもないが、これがアメリカ映画、文句を言ってもしょうがない。

スタンバーグのタッチなのか脚本のせいなのか、エキゾチックな舞台設定を生かし切ることなく、現地の欧米人たちの恋愛関係のドロドロにのみを粘っこく描いて映画が進む。

そういった中で、流れ者の歌姫、デートリッヒのステージシーンは一服の清涼。
この作品ではタキシードの男装姿を披露。
歌姫が男装で歌う、という、ひとつの〈定番〉の先鞭をつける。

男装のデートリッヒ
クーパーとデートリッヒ

ラストでハイヒールを脱いだデートリッヒが、クーパーらの外人部隊の後を追うが、フランスではこのシーンに失笑が起こったという。
熱い砂漠をはだしで歩けるか!ということだろうが、デートリッヒは単独ではなく、部隊について歩く女たち、いわゆる後衛部隊に合流していき、女たちが連れている山羊の手綱を持って歩き始めたのだった。

この後衛部隊、軍隊にはつきもので、日本軍にも民間の業者が女とともに同行し、駐屯地で慰安所などを開業した。
軍隊は何といっても当該国随一の官僚組織であり企業なので予算は潤沢、倒産の心配もなく、確実な取引先だったのだから各業者がぶら下がり群がるのは当然だった。

この時代にもそういったものがあったということだろう。

ロバに荷を積み、山羊を引っ張りながらよたよたついてゆく女たちの姿が哀れだが、何とも言えぬリアルな異国情緒を誘う場面でもある。

伝説のラストシーン
DVDパッケージ裏面

「モロッコ」撮影後、デートリッヒは家族の待つベルリンへ帰宅。
娘を連れてハリウッドへ戻る。
夫はドイツに残った。

「上海特急」 1932年 ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督 パラマウント

ハリウッドで娘と暮らしながらデートリッヒが撮った作品。

ハリウッド第3作。
舞台を混乱の中国に移してのエキゾチック路線。
デートリッヒの役柄も植民地を流れる訳あり玄人女。
謎めいて冷ややかな外見だが、内心は愛する男に純情を貫く役柄。
今回はステージシーンはなし。

戦前の中国。
北京から上海への特急列車の一等室が舞台。
植民地に巣食う列強の出身者の乗客の中に、デートリッヒ扮する流れ者の白人女とさらに謎めいた中国女(アンナ・メイ・ウオン)が加わる。
彼らが革命軍が策動する中国内戦に巻き込まれ、デートリッヒはかつて愛した英国人医師と偶然再会し・・・。

ステージシーンがない分、贅を凝らしたファッションでスタンバーグはデートリッヒを映す。
巻頭のアイ・ヴェールをかけた艶姿。
恋人との再会ではその軍帽を取って斜めにかぶって見せる。

ファッションを見せるだけではなく、スリリングなシーンでは大股で歩き、愛人を助けようと行動する。
肩幅の広い姿で、大股に動く場面では、「嘆きの天使」での普段着で家事を行う場面同様、ドイツ女性としてのデートリッヒの素に近いものが見える?

この作品の後、デートリッヒは夫に手紙を書き、娘とともにベルリンに一時帰国する旨連絡する。
夫は帰国するのは危険だと返事する。

デートリッヒが、愛するドイツ、ベルリンへ帰ることができたのは(公には)1960年になってからだったという。

DVDパッケージ裏面

モモとネクタリンを加工

夏は信州の農産物、特に果物が集中して出荷される季節。
6月下旬のアンズに始まって、プラム、プルーン、ブルーベリー、モモ、ネクタリン、ワッサー(モモとネクタリンの掛け合わせ)など。
秋にかけては、イチジク、ナシ、ブドウが出てリンゴが収穫される頃になるとシーズンの終了です。

どれも産地特有のおいしさがあります。
盛りの安い時に仕入れて、ジャムなどに加工するのが毎年の楽しみです。

最近では山小舎特製のジャム類の評判も良く、この前泊って行った来客にお土産で持たせたプラムのジャムが美味しかったとの反応もありました。

モモのコンポートづくり

実は長野県は全国有数のモモの産地でもあります。
長野市周辺の川中島が有名な産地ですが、各地の直売所などへ行くと、地元産のモモが売られています。

今回は上田市丸子地区の直売所で5個400円で売られていたモモをゲット。
コンポートにしてみました。

半分に切り、種を取って皮をむきます。
よく熟れています。

水に砂糖を溶かし、白ワインとレモンを少々。
砂糖が溶けたころに切ったモモを加えて30分ほど煮ます。

熱いうちに煮沸した瓶に詰め、蓋を軽く締めてから再び煮沸して蓋をきつく締めます。

余ったシロップは寒天に溶かすとフルーツ寒天ができます。
夏の特産品が一つ完成です。

ネクタリンのジャム

モモやネクタリンなどは、地元のスーパー、直売所などでは箱で売られています。
出盛りの時期を狙って買います。
完熟していて、値段も安い品物が手に入ります。
今回は長和町の道の駅で、ひと箱900円ほどで売られていたネクタリンを手に入れました。

生食でも十分おいしそうなネクタリンを煮てしまいます。

皮をむいて、実をカットし砂糖と一緒に煮ます。
思いのほか実が煮崩れしませんが、とろみがついたころで切り上げます。

季節の果物のジャムは風味がよく、短い夏の贈り物として1年間楽しみます。