2025年新春、折からラピュタ阿佐ヶ谷で「新春初蔵出し・東映時代劇まつり」なる特集上映が始まった。
東映が時代劇映画で一時代を築いた1950年代終盤から60年代にかけての諸作品がラインアップされている。
市川右太衛門、片岡千恵蔵の両御大をはじめ、大友柳太郎、東千代之介、大川橋蔵、そして中村錦之助。
彼らの主演になる、「旗本退屈男」、「丹下左膳」などのシリーズものからチョイスされた上映作品。
これまで上映機会が多かった、千恵蔵の「いれずみ判官」や錦之助の「一心太助」、橋蔵の「新吾十番五勝負」などはなく、レアもの中心のラインナップのようだ。
千恵蔵、右太衛門らを主役に据えての時代劇が大衆に受け、1954年には興行収入のトップに躍り出る東映は、60年代に入り旧来の時代劇が飽きられ、やがて任侠映画主流の製作方針へと舵を切ることになる。
戦後一時時代を築いた東映時代劇。
一般的映画本を読むと、黒沢明の「用心棒」、小林正樹の「切腹」などの名作時代劇についてのうんちくは語られていることが多いものの、東映の両御大や当時の若手剣劇スターについて映画評論家が語っている文献が少ない!
錦之助や大川橋蔵、丘さとみの写真アルバムがファン向けに発刊されているのは目につくが。
千恵蔵や右太衛門による「正調時代劇」の評価、検証はどうなった?
うんちく派の映画本に刺激を受けてきた地方の映画少年だった山小舎おじさんにとっては、鑑賞の動機もなく、また機会も少ない東映時代劇は、日本映画史上の抜け落ちた分野だった。
それはひょっとしたら忘れられた宝の山なのかもしれない
今回のラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映を機会を前に、まずは手元の映画本2冊をひもとき、東映の歴史と、時代劇スターの変遷について学んでみる。
「小説東映・映画三国志」と「東映京都撮影所血風録・あかんやつら」
「三国志」の著者は大下英治。
週刊誌の記者として、電通、三越事件などに取材したルポで売出す。
題材は政治から芸能まで幅広い。
「映画三国志」(1990年 徳間書店刊)は東映の歴史を小説化し、スポーツニッポン紙に連載したものの単行本。
人物の劇的なエピソードを中心にまとめている。
登場する人物は、映画人に限定せず、親会社の東急電鉄の五島慶太の豪快な振る舞いなどにも大いに及び、一般読者の興味を惹く。
記述内容は参考文献からの孫引きが多いようにも感じるが、読者を飽きさせない劇的な表現に富んでいる。
入門書として最適で、第三者的な視点からの東映史としても貴重な文献だと思う。
東映発足時の戦後直後から、実録映画が登場する70年代までをフォローしている。
「あかんやつら」は、映画史研究家の春日太一による一連の著作の1冊。
春日は、1977年生まれの若手だが、少年時代から時代劇ファンで大学卒業時には東映の入社試験を受け、研究者となった今でも映画・テレビ・時代劇関連以外の執筆依頼は受けないというファン気質が徹底した人物。
新書で「天才勝新太郎」や「時代劇は死なず!」などを執筆している。
映画評論家の大御所にありがちな、高踏的、芸術志向的、権威主義的な雰囲気とは一線を画した、著者特有の視点から、東映の、特に京都撮影所のエピソードを活写した本作は、記述に当たっての関係者からの聞き取りも多く含まれ、単なる参考文献の孫引きにとどまらない。
東映への親近感とファン気質に満ちた1冊となっている。
50年代の時代劇全盛時代から80年代の五社英雄らによる時代までをフォローしている。
東映の歴史(任侠映画全盛まで)
「映画三国志」と「あかんやつら」をもとに、戦後直後から1960年代までの東映史をひも解く。
東映の前身東横映画は1938年に、東急電鉄の子会社の映画配給会社としてスタートした。
戦後の1946年に映画製作に乗り出すにあたり、マキノ映画や満州映画協会出身の根岸寛一やマキノ光男らの製作陣、スタッフには松田定夫、稲垣浩らを招集し、配給は大映にゆだねる形でスタートし、1947年には第一作「こころ月の如く」を製作した。
1948年には大映との提携を解消、独自の配給を行うようになったが、都市部の劇場は東宝、松竹にほぼ抑えられており、地方の劇場との個別契約に活路を見出すしかなく低迷を極めた。
同年、マキノ映画時代にマキノ省三(光男の実父)のもとで売り出していて、戦後は大映などに出演していた、片岡千恵蔵と市川右太衛門が重役待遇で移籍してきて観客動員の起爆剤となる。
まだまだ製作費の工面にも事欠く中、1951年親会社東急の五島慶太は、東横映画、大泉スタジオ、東映配の3社を合併し、製作から配給までを1社で行うことを決定し、新生東映の社長に東急本社の経理担当重役だった大川博を送り込む。
新会社設立にあたって銀行は五島慶太の個人保証を融資の条件とし五島は己の判断でこれを了承した。
大川の仕事は、積み重なった支払手形の期日延長を、手形交換所にお願いすることから始まった。
現場では、マキノ映画、満州映画協会からの現場スタッフらが、徹夜と給料遅配、製作費枯渇をいとわず、番組の穴を1回も空けることなく撮影をつづけ、作品を送り出していた。
1954年、千恵蔵、右太衛門の時代劇本編に子供向けの娯楽版と称する中編を加えた2本立て番組が爆発的ヒットとなり、中村錦之助、東千代之介ら若手スターが主に地方の劇場で人気を博す。
東映は累積負債10億を一気に返済、興行収入で5社のトップとなるまでの興行収益をあげる。
1957年、アメリカを視察して帰国した岡田茂の提案により、京都撮影所を拡充し、新たなステージを建てる。
こうして日本初のシネマスコープ「鳳城の花嫁」を製作。
1958年は国内の映画入場者11億人、映画館数7000館という日本映画史上もっとも景気が良かった歳となった。
1960年の東映の国内シェアは1/3ほどにもなり、独走態勢を固める。
スター主義の東映では、千恵蔵、右太衛門の両御大のほか、大友柳太朗、月形龍之介がそれぞれの十八番シリーズで、また錦之助、千代之介のほか大川橋蔵が若手スターとして人気を博した。
1960年には調子に乗った大川社長が第二東映なる配給網をぶち上げ、製作本数を倍増させたが、収益倍増にはつながらず、かえって映画館主側の不評、製作現場の疲弊を招き、足掛け8か月ほどで解消となった。
1963年、さしもの隆盛を誇った東映時代劇も飽きられ、明らかな興行収入の減少を招いた。
東映は余剰人員の配置転換、両御大と旧来のスタッフとの契約解消、若手スタッフを登用し、リアルな殺陣による「集団時代劇」に活路を求めたが、観客動員の決定打にならず。
やくざ者の生態を描いた「人生劇場・飛車角」のヒットにより時代劇からやくざ映画へとシフトしてゆくことになる。
1964年、親会社の東急が東映を切り離す。
五島慶太を引き継いだ息子の昇が、何かとうるさい東映の大川社長を切りたかったからだとされる。
これを受け、大川社長は京都撮影所の社員数を1/3の500名体制とする合理化を決め、岡田茂に実施を命ずる。
岡田はテレビ部などを作って配置転換により撮影所の合理化を実現する。
次いでこの時代の個性極まる東映のキーマンたちを点描する。
マキノ光男の映画人生
戦前に日本映画の父と呼ばれたマキノ省三の実子で、兄はマキノ雅弘。
戦前にマキノ映画でプロデユーサーとしての経験を積み、マキノ映画の解散とともに海を渡り満州映画協会に参画するが、理事長の軍隊官僚・甘粕正彦と、典型的カツドウ屋のマキノでは、まったくそりがあわず、ぶらぶらする。
帰国して東横映画の製作立ち上げに尽力したマキノは、満映時代の仲間を引き込んで映画製作することにも注力した。
「困っている奴はどんどん使ってやれ」と各社をレッドパージされた人材を東映に引き入れ、監督の関川秀雄、俳優の佐野浅夫、信欣二などをどしどし使った。
戦前の無頼な映画界で修業し、大陸にわたって軍人官僚のもと現地人と渡り合ってきたマキノにとって、同じ日本人同士、映画製作という目的を一にすれば後は何とでもなる、の心境だったのだろう。
1950年、撮影所の進行主任だった26歳の岡田茂(のちの東映社長)の企画、関川秀雄の監督で「きけわだつみの声」を製作。
戦没学生の遺稿集「はるかなる山河へ」の原作の購入から、内容に干渉する東大全学連との折衝などに、脚本の八木保太郎とともに最前線であたった岡田を駆り立てたのは「こういった映画を残しておかにや、戦友が浮かばれんじゃないか」の心境だった。
岡田も学徒動員で出兵し、空襲を受けた生き残りだった。
1952年、占領軍からの干渉により大映で制作中止となった「ひめゆりの塔」を監督の今井正ごと引き受けたマキノは、今井に対し「周りからごいちゃごちゃいわれても全部はねたる。俺の目的はいい映画を撮ることなんや。右も左もないのや。大日本映画党や!」と啖呵を切った。
女学生役には当時の若手女優陣がキャステイングされた。
今井は撮影前、彼女らに、自分が扮する登場人物の履歴を作文にして提出することをを求めた。
渡辺美佐子、楠侑子ら若手女優陣は口に氷を含んで息の白さを隠しながらずぶ濡れで演技をつづけた。
彼女らは後々、今井を囲んで集ったという。
1600万の予算は4000万円にオーバーし、公開予定は遅れに遅れて正月第二週にずれ込んだ。
マキノは呼び付けられた大川社長宅で社長の前でわんわん泣いて大芝居を打ち、製作続行の了承を取りつけた。
1億8000万円の興行収益を上げたこの作品は東映起死回生のヒットとなった。
1955年、満映に渡った後、長く中国に抑留されていたマキノの盟友・内田吐夢監督の復帰第一作「血槍富士」を製作。
槍持ちの下郎に扮した千恵蔵が主君の仇と、槍を振り回し、泥にのたうっての7分間の立ち回りが圧倒的で、3週間続映のヒット作となった。
1956年、マキノは再び今井正と組んで「米」を製作。
農村の四季を取り入れた脚本は、戦前に「土」を書いた八木保太郎を想定した。
マキノと八木はこの時絶交状態だったが、心配する今井に対し「冗談やない。いいシャシンをつくるのに、喧嘩もへったくれもあらへんで」と答え、八木に脚本を依頼した。
例によって遅れに遅れて完成した今井正監督の「米」は、その年のキネマ旬報ベストワンをはじめ各賞を総ナメ。
東映現代劇の起爆剤となり、その後の「爆音と大地」(1957年 関川秀夫監督)、「どたんば」(1957年 内田吐夢監督)、「純愛物語」(1957年 今井正監督)など現代劇の秀作が生まれることとなった。
満映帰りの映画人の面倒を見、レッドパージ組の受入れるなどはマキノ光男の懐の深さを物語るが、根本は「映画は当たってナンボ」の精神が徹底していた。
「客のことを忘れたらアカンで。暇があったら小屋(映画館)に行って客の顔を見てこい。」「松竹、東宝は山の手志向や。それなら東映は浅草の客を目標にする!」と、ジャリ掬い、薄っぺらな紙芝居と一部の文化人に蔑まれていた大衆娯楽主義を徹底した。
1957年、脳しゅようと診断されたが、手術をはじめ一切の治療を拒絶。
薬も見舞いに来た錦之助が渡した時だけ飲んだ。
同年9月の東映本社での企画連絡会議には白装束の羽織はかま姿で現れ今までの礼を述べた。
まことに古きカツドウ屋そのもののマキノ光男の生涯だった。
東映時代劇を支えた現場の「天皇」たち
マキノ光男が破天荒な映画人生を送っているとき、京都撮影所には「天皇」と呼ばれる、アンタッチャブルな3人がいた。
監督の松田定次、脚本の比佐芳武、編集の宮本信太郎だった。
3人は、東横映画の製作開始に際し、マキノ光男が京都から連れてきた腹心のメンバーであり、マキノの大衆娯楽主義を作品として具現化するときの要となった腕利きたちだった。
松田定次はマキノ光男とは異母兄弟で、父の省三が愛人に産ませた子であった。
監督としての松田は「どうすれば大衆が喜ぶか」を第一に考え、時代劇の約束事として「ヒーローはストイックであり、無敵で不死身でなければならない」に徹した。
信頼するカメラマン、川崎新太郎を専ら起用し、被写体(ヒーロー)を中心に据えるオーソドックスな構図を徹底させた。
松田組は京都撮影所で「お召列車」と呼ばれ、最優先でスターやスタジオを確保でき、正月やお盆用の作品を任された。
日本初のシネマスコープ作品を任されたのも松田だった。
比佐芳武は、スピード感を脚本に求めた。
伏線設定や状況説明の書き込み、また時代劇特有の儀礼や作法などの描写をやめ、テンポよくストーリーを追った。主人公の登場シーンでは、何の説明もなく窮地にあるヒロインを救いに現れたりさせるなど、説明のための書き込みをやめ、観客が求めるヒーローの都合のよさに徹した。
「ヤマ場からヤマ場へ」がマキノ省三以来の京都映画の鉄則だった。
「東映時代劇の独特のテンポは宮本新太郎の鋏によって生み出される」と評されたのが、編集の宮本だった。
編集作業の一切を、監督でさえ立ち会わせずに自分一人で行い、目まぐるしいスピードで展開する東映時代劇のを作り出した。
その手法は、説明的だったり凡長なシーンは容赦なく切り捨てたり、長回しのアクションシーンを細かく切りつなげてスピード感を作り出すものだった。
年間100本近い時代劇をほぼ自分一人で編集したという。
3人の「天皇」の存在、その影響力と圧倒的技量は、東映時代劇のまさに心臓部となった。
そのパワーは東映躍進の原動力となったが、反面、新たな価値観や創造性の出現を妨げてもいた。
松竹のデレクターシステムによる監督の権限尊重や、ジャン・ルノワールやのちのヌーベルバーグ派による「作家主義」とは正反対の製作方針が東映の考え方だった。