山小舎に小さな秋

山小舎に秋到来です。

お盆を過ぎれば秋風が吹く標高1400メートル暮らし。
9月中旬ともなれば、吹く風の涼しさ(肌寒さ)はもちろん、木々の緑は勢いを失い、トンボが飛び、花々は種を結ぶ準備に入ります。

庭に蒔いたキセワタは成長の花が咲きました。鹿の食害除けのためネットをかけています
庭のルピナスは種をつけています

山小舎暮らしも、夏までの忙しさに一段落、時間に追われることもなくなります。
冬の準備に入りつつ、家の外や中の手入れを行う時期となります。

暑さはなくなり、しかし水が冷たくなる頃まではもうしばらく、のこの時期が家の外回りの作業には最適です。
外壁塗装や、土留め工事、護岸工事を再開しなければなりません。

台所側の外壁をたわしでこすって汚れを落とし、塗装の準備をします
丸太を薪割りして、去年の薪と積み替えます

また、秋の乾いた風は、家そのものや備品の保全に向いています。
窓を開けて室内に風を通すとともに、備品の乾燥、虫干しを行います。

今日は食事テーブルの椅子の乗っけているクッションのカバーを外して洗濯、中のクッションを干しました。

椅子のクッションカバーを洗濯しました
晴れた日は二階の窓を開け風を通します

青春18きっぷ 緊急事態下・飯田線の旅

世の中は緊急事態下です。
一方、わが青春18きっぷの有効期限は9月10日までです。
有効期限切れ当日、満を持して飯田線の旅を決行しました。

茅野から伊那新町まで 飯田線不通区間を突破

07:33茅野発の普通列車で岡谷まで行きます。
茅野にこんなに高校生がいたんだ!というほどの人がホームを埋め尽くします。

地元の高校生たちの距離感は微妙です。
混んだ車内とはいえ、リュックは背中にしょったままで、SUICAをカバンにぶら下げたままの姿の彼らは、だからこそ他人との距離感には敏感であるようです。
決して都会の満員電車のように互いに密着しません。
それがヒトとしての本来の感覚のなせるものか、混雑になれない地方人の臆病がなせる業なのかはわかりません。あっ、ソーシャルデイスタンスだったのか!?そうか。

朝7時半前の茅野駅ホーム。この後乗客が集まりだす

中央西線に乗り換えのために岡谷で下車。
岡谷は中央東線と西線の分岐点。
人の流れの主流は東線で、岡谷から塩尻へ最短距離で向かいます。
特急あずさもこちらを通ります。

一方、中央西線は辰野で飯田線と結んでから塩尻へ向かいます。
中央西線の辰野・塩尻間は峠越えの路線ですが、昨今の大雨で線路が土砂に覆われ、一時不通になっていました。
同時に辰野町内の飯田線が、天竜川にかかる鉄橋が雨で痛み、辰野駅と伊那新町駅の間が、現在も不通になっています。

岡谷駅ホーム。川岸駅は西線でみどり湖駅は東線方面。
朝の岡谷駅には高校生たちが大勢降り立つ

中央西線は初めて乗りましたが、天竜川沿いの絶景があったり、純農村風景が見られたり味のある路線でした。
本来のダイヤでは岡谷発がそのまま飯田線に乗り入れることが多いのですが、しばらくは飯田線方面は辰野で代行バスに乗り換えて伊那新町まで行かなければなりません。

18きっぷの遊興客が代行バスに乗り込んでいいものか?とも思いましたが、ラッシュ時間も過ぎたバスの乗客は少なく、JR職員の手慣れた誘導に身をゆだねてバスに乗車。
2駅間、約10分で代行バスは伊那新町駅近くの停留所に到着しました。

中央西線・辰野駅から代行バスに乗る

ここでもJR職員のきびきびとした仕切りで問題なく乗り換えができます。
伊那新町駅は田んぼとそば畑の風景の中にありました。
無人駅です。
残暑の日差しが照り付けています。

ホームで乗務する列車を待つ車掌さんに聞くと、不通箇所の鉄橋はくの字に曲がっており年単位の復旧時間が必要ではないか?とのこと。
伊那新町からの飯田線はダイヤ通りに運行している、とのことです。

毎年のように復旧まで年単位の時間がかかる災害に見舞われる国内の状況には不安を感じざるを得ませんでした。

飯田線・伊那新町駅ホームで飯田行列車を待つ

飯田線 中央アルプスに抱かれた風景を行く

初めて乗る飯田線は、辰野と愛知県豊橋の間を結ぶ単線です。
伊那谷を天竜川に沿って南下します。
長野県内でいうと伊那、駒ケ根、飯田、天竜峡などの主要駅を結んでいます。

今回乗車したのは伊那新町から飯田まで。
2時間15分ほどかかりました。

平地の直線路ではスピードを出すものの、天竜川の段丘上の地形を進むときには時速が40キロ出ていなのでは?と思うほどゆっくり進みます。
駅の数も多く、町や集落を拾いながら、蛇行して走ってゆきます。

飯田線というと、伊那市街地を通る線路を思い出します。
飲み屋などの建物のすぐ脇を通る線路を見て、街と線路の関係が路面電車のようだ、と思っていました。
飯田線の低速は、街との距離感の近さと関係があるのでしょうか?

飯田線・駒ケ根駅ホーム。彼方に中央アルプスが望める
飯田線社内のつり広告は、愛知県のレジャー施設のもの。沿線は名古屋の商圏。車内は天然のソーシャルデイスタンス。

駒ヶ根を過ぎたあたりから車窓の右手に中央アルプスが顔をのぞかせます。
里山、といってもそこそこの高峰ですが、の背後に見え隠れする中央アルプスの峰の姿は、人里の山とは一線を画す別世界の光景のようです。

車窓から中央アルプスの頂が見える(右端の雲の背後)
車窓左手には天竜川沿いに広がる田んぼと集落の風景

飯田の街を歩く

飯田駅に着きました。
飯田は人口数でいえば長野、松本、上田に次ぐ第四の都市です。
駅前から街を歩いて中心街の規模が上田より大きいと思いました。

飯田駅に着きました
飯田駅前の風景

着いたら、駅前の観光案内所へ行き、市内のマップをもらって、レンタサイクルを借りるつもりでした。
ところが観光案内所は閉鎖、レンタサイクルは貸出中止でした。
緊急事態下(長野県は宣言しておりません。人口比のコロナ感染率でも下から数えて数番目という低さです)での旅行がそもそも非常識だったのでしょうか。

観光案内所には臨時休業の張り紙が・・・

自転車がないので、隣村にある椋鳩十記念館へ行くのはあきらめました。
椋鳩十は飯田の隣の喬木村出身の作家で、サンカを題材にした小説を読んだことで興味があり、飯田に行ったときは寄ってみようと思っていたのです。

次に飯田城址に博物館と柳田国男記念館があるので歩いて行ってみましたが、臨時休館中でした。
非常事態だったのですね飯田。
というか県内が。

柳田国男と飯田(伊那・南信州地方)の関係は、柳田が民俗学のフィールドの一つとして紹介したことにあるようで、世田谷にあった柳田の書斎を飯田に移築したとのことでした。

博物館、記念館にも臨時休館の張り紙です
喫茶店の入り口にも・・・

緊急事態レベル5下でも人間、腹は減ります。
飯田は焼き肉の街として有名ですが、暑いので軽くラーメンでも、と地元の人気店へ行ってみました。

ネット情報通り昼時には人が並ぶ上海楼という店には実際に人が並んでいました。
並んで待って入り、中華そば並盛を注文。
どんぶりにナミナミ盛られたラーメンは、東京の今どきのこじゃれた風のラーメン屋の麺の3倍ほどの量があったでしょうか、満腹になりました。
地方の人気食堂の条件の一つが「量」であることを再認識しました。

昼食時人が並ぶ上海楼

飯田信用金庫の建物がそびえたつ中心街。
商店が多数入居する真新しい雑居ビルが並んだあたりは、最近の中心街の再開発の様子がうかがえます。
一方で古めのアーケード街も残っています。
映画館も2館残っていました。

銀座アーケード街
古くからあるといわれるトキワ劇場
映画館・千劇もあったが人気はない。
焼き肉の街・飯田を天下にアピールする堂々たる看板!
駅近くの焼き肉屋が並ぶ小路

飯田といえば人形劇フェスタという催しが毎年行われ、世界からパフォーマーが集まる場所としても有名です。

中心街にリンゴ並木といわれる並木通りがあり、リンゴの実が成っているのも素敵です。
自然環境のすばらしさを感じます。

お土産には地元の和菓子店でどら焼きときんつばを購入。
また、無人販売していたなしを2個買いました。

飯田人形フェスタの毎年のワッペンが並ぶ街角
中心街のリンゴ並木にはリンゴが実っていた

帰りの飯田線で大失態

3時間ほどの滞在で飯田を後にし、駒ケ根行きの飯田線に乗りました。

爆睡の後、乗っていた列車が駒ヶ根から引き続き伊那新町行き(本来は辰野行き)になるというので停車時間の間、改札口を出て駒ケ根駅前を歩きました。
中央アルプスの玄関口・駒ケ根の街の雰囲気を感じたかったのです。

戻ろうとすると列車が発車してゆきました。
私物のリュックを乗せたまま!

車内アナウンスで聞いたつもりの時間より早いのに!と思いましたが、確認すると時刻どおりでした。
思い込みによる失敗です。

自戒の念にさいなまれながらも、駅員に相談し、JRの遺失物センターへ電話で届け出。
次の列車で伊那新町に向かいました。

リュックには、時刻表、地図のほかお土産の和菓子やナシが入っています!
財布と携帯は身に着けていたのが幸いでしたが・・・。
軽トラや家の鍵もズボンのポケットに入っています。

約30分後の列車に乗り伊那新町に到着しました。
先行の列車がホームに停車し折り返しの出発を待っています。

その列車の車掌さんにリュックがなかったか聞こう、と最後列を歩いていると、わがリュックを持った車掌さんが降車客にそれを掲げながらホームの出口で待っているではありませんか。

リュックにお薬手帳が入っており、名前を確認したとのこと。
山小舎おじさんが名乗っただけで、持ち主確認できたとてリュックを渡してくれました。
持ち主が現れなかったら飯田駅で保管することになったそうです。

機転の利く、良心的な車掌さんに感謝しました。
辰野や岡谷など大きい駅に着く列車だったら、複雑な乗客の流れや車両の回送があったりして、手渡ししようにも困難だったでしょう。
伊那新町で折り返しだったので良かった、と車掌さんも言ってました。

飯田線が不通で代行バスにまで割り込んで地元に「迷惑」をかけ、目的地の飯田では緊急事態の連発で「締め出され」ても、最後に幸運があった!と思いました。
自分のボケが引き起こした、本来なくてもいいトラブルが原因とはいえ、急転直下の解決を幸運と感じ、最後にいい思いで帰途に就いた山小舎おじさんでした。

勝手な「思い込み」には気を付けなければなりません!

甲州トウモロコシ

トウモロコシの在来種を作りたくて、ネットで甲州トウモロコシの種を購入、育ててみた。

この品種、山梨の在来種とのこと。
昔の農家の縁側には、軒下にトウモロコシが吊り下げられていた。

干して保存し、粉にして使ったようだ。
もちろん来年の種にもなる。

近年、食用で出回っているトウモロコシはハニーバンタムなど軟らかい品種ばかりだが、F1種なので自家採種はできない。

トウモロコシの在来種を作ってみたくて、地元の人にも聞いてみたがはかばかしい返事はなかった。
当然、軒先にトウモロコシをぶら下げる風景も近隣ではとんと見かけない。

昔は実の硬いトウモロコシが出回っていて、風味のある味覚を味わうことができた。
山小舎おじさんは北海道育ちなので、地元では「ドン」といったが、ポン菓子というのか、コメなどを原料にした煎り菓子の実演が子供のころの楽しみだった。
利用客はコメを持ち込んで「ドン」を依頼するのだが、時々トウモロコシの実を持ち込む人もいた。
当然ながら在来種の実を乾燥させたものであったろう。

甲州トウモロコシは育てやすいことこの上なかった。
発芽率がものすごくよく、苗がよく育った。
定植後もどんどん伸び、背丈が2メートルを超えた。

ぐんぐん伸びる夏の日の甲州トウモロコシ

収穫後、ゆでて食べてみるが、とても食べられるものではなかった。
硬すぎるのだ。

奥さんはゆでた実をミキサーで砕いてコーンスープにして食べていた。
とてもおいしかったそうだ。

今回収穫した数本。
皮をはいでみると実がピカピカ光っている。
乾かして保存することにした。

乾いた後は粉にして食べようか。
鶏でもいたら餌にしたのに。

今回収穫した数本
軒先につるしました
実りの秋の風景に見えるでしょうか

ビリー・ワイルダーと「サンセット大通り」

山小舎おじさん、9月初旬にも自宅に帰りました。
その際、渋谷シネマヴェーラで「サンセット大通り」をやっていたので見てきました。
ここのところ気になっているビリー・ワイルダー監督の1950年作品です。

シネマヴェーラの作品紹介文

アメリカ映画は暴露ものが好きなのか?

「サンセット大通り」は名監督ワイルダーの代表作の一つ。
40年代から活躍し始めたワイルダーが評価を不動のものした記念碑的な作品でもあります。

ストーリーはサイレント時代の大女優が、時代がかった執事(往時の名監督で最初の夫でもあった、という設定)とハリウッド近郊の古い邸宅の中で暮らしているところへ、ひょんなことから売れないシナリオライターが迷い込み、大女優の妄執に翻弄された挙句、悲劇の結末を迎えるというものです。

大女優役は実際にサイレント時代のスターだったグロリア・スワンソンが扮し、執事役には実際にサイレント時代の名監督だったエリッヒ・フォン・シュトロハイムが扮しています。

左から、ウイリアム・ホールデン、グロリア・スワンソン、エリッヒ・フォン・シュトロハイム

これって、いわゆる「暴露もの」ではないでしょうか。
そうじゃなかったら「あの人は今」的な「のぞき見」もの。

アメリカ映画には「市民ケーン」(1941年 オーソン・ウエルズ監督)で当時の新聞王ハーストを批判的に描き、「独裁者」(1940年 チャールズ・チャップリン監督)で当時の対立世界の覇者ヒトラーをカリカチュアライズした、という「実績」があります。

当時のハーストを扱うということは、現代でいえは、ステイーブ・ジョブスだったりビル・ゲイツといった億万長者兼実業界のカリスマの裏面を暴くようなものでしょう。
また当時、勃発中の第二次大戦の主役の一人だったヒトラーを馬鹿にすることは現在でいえば習近平やプーチンにケンカを売るようなものでしょう。

その点、ワイルダーの「サンセット大通り」はすでに名声時代が過ぎ去った主人公たちを扱っています。
本人たちが納得ずくで没落した人物を演じるのですから、名誉棄損の批判を受ける心配もありません。
ワイルダーの狡さというか意地悪さが見て取れるのは私だけでしょうか。

主人公二人のほかに、セシル・B・デミル、バスター・キートン、ヘッダ・ホッパーなどの映画人を実名で登場させ、ヴァレンチノ、グリフィスなどの実名をセリフで言わせていますが、そこでは抑えた演出をしています。

ワイルダーにとっての暴露すべき悪とは

ワイルダーの演出は、主人公二人(スワンソン、シュトロハイム)については、暴露もの的な意味で、デミル、キートンについてはあの人は今的ない意味で使っています。

スワンソンとシュトロハイムに関しては思いっきりイジワルな演出をしています。
が、ワイルダー自身にはほとんど危害が及ばないところがミソです。

後で述べますが、結果としてスワンソン、シュトロハイムに関しては悲惨さよりはアイコンとしての貫禄が画面から漂い、ワイルダーの毒というか本心は露骨に表れない、という結果になっています。

表面には現れませんが、ワイルダーがケンカを売りたかったのは、ハリウッドシステムの尊大な滑稽さで、大女優と執事はその犠牲者という位置づけだったのかもしれません。

ワイルダーにとって本当の敵とは何だったのか?
祖国からの亡命を余儀なくさせたナチスドイツか?ユダヤ人という宿痾か?尊大で欺瞞に満ちたハリウッドシステムか?
それぞれのテーマをある程度は匂わせながら決して肉薄しないのがワイルダーです、隠しきれない毒は画面のそこかしこに現れてはいますが・・・。

ワイルダーは正義派でも社会派でもありません。
良い作品ができる題材と、多少は自分の毒が満足できる演出ができればそれでいいのでしょう。
自分に危害が及ばないのなら、他人の尊厳、プライバシーを犯すことに良心の呵責はありません。

1950年制作の「サンセット大通り」まではそれでも際物的な要素のも取り入れながら作品を作っていましたが、名声を得た50年代以降は際物的な要素は少なくなってゆきます。
「サンセット大通り」は転換期に当たる作品なのではないでしょうか。

グロリア・スワンソン

なお、暴露ものというジャンルはアメリカ映画の専売特許ではありません。
日本映画には権力者を批判的に描く骨のある暴露ものの作品はあまり思い浮かびませんが、実録もの、事件の再現ものなどのジャンルがあります。

事件の再現ということでは、あの阿部定がのちに座長として巡業したとか、アナタハン事件の後で事件の女主人公が再現劇で巡業したなどの話を聞きます。
暴露ものがあらゆるメデイアにとって親和性のあるジャンルということがわかります。

「サンセット大通り」の表面上のモチーフの「年増女が若い燕に狂って破滅する」は、2時間サスペンスや、ワイドショーのネタ、ドリフのコントのネタ、などとして綿々と受け継がれてもいます。
事実この作品を見ていて、コントみたいだと思った瞬間がありました。

それを防いだのはグロリア・スワンソンの存在そのものでした。
老醜、妄執がコンセプトの大女優役に於いて、当時50歳のスワンソンが実に魅力的だったのです。
まだまだきれいで、いわゆる怪奇派としての老嬢役に収まりきらない魅力が垣間見れるのです。

自分が所属していたマック・セネットの水着ガールやチャップリンの物まねまで再現、披露します。
ワイルダー演出は老嬢の若作り、悲惨さを狙ったのかもしれませんが、さすが往年のスター。
演技がしっかりしており、ポーズも決まるので単なるカリカチュアにとどまらないスワンソンの演技に、山小舎おじさん、魅入ってしまいました。

ストーリーの間に挟まる、若い燕・ホールデンと若い女性の逢引のシーンの方が70年前のアメリカ映画の古臭さを隠しきれないのに対し、スワンソンが出てくるシーンは時間が超越されているようでした。
本物は、類似品がのちにテレビのコントになって消費される時代が来ても古典として残るのだなあと思いました。

スワンソンの演技は、暴露ものという映画の設定を突き破り、自身のキャリアの尊厳を逆説的に主張しているかのようでした。
その点が作品に深みと救いをもたらしてもいます。

それがワイルダーが最初から意図したものだったかどうかはわかりません。

まだまだ魅力十分なグロリア・スワンソン