おじさんの東京自転車散歩VOL.7 多摩川サイクリングロード

多摩川サイクリングロードをママチャリでサイクリング。
立川まで行きました。
朝方は冬の寒さも、途中で春の陽気に恵まれ暖かい道中でした。

多摩川原橋から府中の景色

鶴川街道のたもと、多摩川原橋から土手のサイクリングロードを走りました。

上流から見て左岸、東京側を西に向かって走ります。

平日なので散歩する人も自転車の人も少ない日でした。
かつてのサイクリングブーム?のころは、休日ともなると、競技用自転車の集団が猛スピードで走り抜け、歩行者などとの事故現場も散見されましたが、ブームが落ち着いたのか、事故の危険性?からか、最近はヘルメット姿の自転車集団はあまり見かけなくなりました。

是政橋のたもとにつきました。
河川敷のグラウンドでは草野球をやっていました。

ここはその昔、是政の渡し船があったところです。

五本松という名所を通過。
その昔、甲州街道で行倒れていた甲州商人を助けたところ、恩返しに植えられた松が育って街道の名物になったという場所です。

河川敷は野球、サッカーなどのグラウンドに利用されています。

関戸橋のふもとを通過。
京王線の鉄橋です。
対岸に聖蹟桜ヶ丘の街が見えます。

読売新聞の工場が府中中河原にありました。

キューピーマヨネーズ工場も調布仙川から府中中河原に移転していました。

日野橋です。
橋を渡れば日野市。手前に戻れば立川市です。

立川という町

立川には戦時中まで陸軍飛行場があった。
戦後、米軍に接収され、立川基地となった。

今は返還され、基地機能は横田基地に移転吸収されたが、ベトナム戦争時代まで、立川のイメージは基地の町だった。
その時代、基地の拡張に伴い反対する周辺農民との間で紛争が起き、地名にちなみ砂川闘争と呼ばれた。

おじさんが知っている頃(30年前)には、まだ滑走路があり、プロペラ機が飛んでいた。

今、跡地は広大な公園(昭和記念公園)のほか、商業施設,首都補完施設(災害時などの首都移転のため)が建っている。

近々は、駅前の再開発などにより、近未来的な発達を遂げている立川だが、おじさんより上の年代のものには、立川=基地のイメージが濃い。

駅からほど近い通り、シネマストリート。
駅周辺の喧騒が嘘のように人気が少ない。
陸軍基地時代以来の歓楽街とだった場所。
映画館があったり、昭和33年までは赤線もあった。
米軍基地時代にはGI相手のバーが軒を連ねていたと思われる。

今ではその面影を捜すのが難しい。
一般の商店が残っていたが、今ではほとんど消えてしまっている。
いずれ町ごと再開発されるのだろうか?

中心部から徒歩圏内に競輪場がある。
立川のもともとの擦れたイメージを今に残す場所の一つだ。

今は住宅地に埋もれるようにして存在するが、かつては駅から北東方面に遠望でき、「ラスト1周」の鐘の音が物悲しくあたりに響いていたのかもしれない。

通称「立川陸事」と呼ばれる、多摩ナンバー車両の登録検査事務所。
実は立川をぎりぎり外れた国立にあるが、なぜか立川陸事と呼ばれている。

久々の自転車遠乗りにおじさんのお尻が痛くなった早春の一日でした。

 

 

投稿者: 定年おじさん

1956年北海道生まれ。2017年に会社を退職。縁あって、長野の山小屋で単身暮らしを開始。畑作り、薪割り、保存食づくり、山小屋のメンテナンスが日課。田舎暮らしの中で、60歳代の生きがい、生計、家族関係などの問題について考える。60歳代になって人生に新しい地平は広がるのか?ご同輩世代、若い世代の参加(ご意見、ご考察のコメント)を待つ。

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