えひめAIは畑の救世主。か?

おじさんの畑作りに欠かせないもの。
えひめAIという菌液だ。

野菜作りのキモは土壌づくりといわれている。
肥料は大事だ。
畝の建て方とか、土寄せの仕方、ビニールや敷き藁によるマルチングも大切だ。
だが、60歳過ぎの定年おじさんにはよくわからない。

Eテレの家庭菜園番組や、家庭菜園雑誌も見るが、その通り行うには、手間もお金もかかる。
おおざっぱでいい加減な性格のおじさんには、もっと楽な方法がないか?
自然に任せればいのではないか?(と言いたいところだがそこまでの哲学はない)。

せめて、土壌をいい状態にしようと思った。
土壌中の微生物、微量元素が活躍できるような環境にすれば、作物にもいいはず。
そこで出会ったのが、えひめAI。
どこにでも売っている食材で作ることができる菌液。
愛媛県工業技術センターの先生が開発した。
農作物用のほか消臭、環境改善などに利用できる。

おじさんは去年から自作してポリタンクに保存しておき、希釈して、種まきポットや苗の定植時の潅水などに使っている。
トイレの消臭、風呂の湯、洗濯機などにも使っている。

畑の土壌に対する効果としては、土着微生物を増やしたり、作物が土中のミネラルを吸収しやすくしたり、殺菌効果などもあるらしい。
なるほど、作物の生育はゆっくりしているが、後々ぐんぐん育ち、味も深みがあるような気がしている。
ズッキーニや、トマトは10月下旬に近くなっても微々たるものだが収穫が続いている。
枝豆がほんのり甘くできた。

おじさんが今年、買った肥料は、石灰(土壌中和)、尿素(とうもろこしなどの追肥)、玉ねぎ用の追肥。
畑に入れた資材は、もみ殻ともみ殻燻炭のみ。

えひめAIについて、詳しくは、現代農業の別冊に載っている。

えひめAIを作ってみる。
材料は、砂糖、イースト、ヨーグルト、納豆。

イーストと砂糖を混ぜる。

そこへヨーグルトを入れて混ぜる。

ぬるま湯で溶いて35度の液体にする。

納豆を1粒ほど入れる。

さっそく発酵してきてぶくぶくし始める。

イーストの酵母菌が砂糖を栄養として発酵し始めた。
保温容器に入れて1週間弱。保温に注意。
ヨーグルトの乳酸菌、納豆の納豆菌も発酵し、合わさってえひめAIが出来上がる。

嫌気性の納豆菌と好気性の乳酸菌を一緒に混ぜたのが画期的らしい。
開発したのが化学専門でなく、工業系の先生だったからの斬新なアイデアだった。

えひめAIの特徴をもう一つ。
虫が集まってくる。
畑に撒くとすぐに虫が飛んでくるし、玄関先のじょうろの中にはクワガタムシがいたりした。
じょうろでAIの希釈液を撒いていたから。
試しにスズメバチ用のトラップを作り中にAIの希釈液を入れておいたが、これは捕まらなかった。残念。

 

 

枯れ枝を燃やす

定年おじさんの田舎暮らし。
今回は、少し前に倒木した丸太から切外しておいた枝を燃やしました。

夏に山小屋の敷地内の立木を数本切り倒しました。
丸太は輪切りにして、割り、乾燥させて燃料にします。倒木した木の枝は、倒した際にチェーンソウで切っておきます。
後日、枝を更に切り分けます。
鉈で太い枝と、細い枝に切り分けてまとめておきます。太い枝は短く切って乾燥させると焚きつけになります。細い枝は葉っぱ付きのまま山にしておいて、後日燃やします。

今回は軽トラで2台分の枝をもやしました。
細い枝とはいえ、乾燥していない気を燃やす際は、ちょっとしたコツがあります。
まず、種火を本格的に起こしておきます。
焼却炉に乾燥した廃材などを完全に火おこししてから、枝を載せてゆきます。
種火が弱いと、上に乗せた枝が燃えた後は火勢が弱くなって消えてしまいます。
今回は威勢良く燃えました。

かつてはおじさんが暮らした東京の郊外でも、園芸屋さんが持ち帰った枝葉を畑の端っこで盛大に燃やしていたりしましたが、今ではバーベキューができるエリアも限定されています。
田舎では、畑で枯れ草や野菜の根っこを野焼きするのが常識です。

山小屋は秋 薪を割って燃料作り

おじさんのところは暖房は薪ストーブ。
脂分の多い針葉樹も燃やせるという優れもので、煙突も二重構造で燃焼効率がよい。

夏の間は、燃料の薪作りが仕事。
夏の日差しと風を浴びて、割ったばかりの薪が乾いてゆく。
理想的には、ふた夏超えた薪が良いとされる。
実際にはよく乾燥した薪はすぐ燃えるので、少しくらい湿気の残る太い薪のほうが火持ちがよい。
温度は乾いたまきのほうが断然出る。

また、別に焚きつけ用の木材をお用意しなければならない。
焚きつけは、おじさん、大工さんなどから不要の板材をもらってきて、テーブルソーでカットする。
それを手斧で細かく割って使う。
焚きつけ材は乾いていればいるほど良い。

ついで、本燃料用の薪作り。
まずは丸太を入手する。
おじさんは別荘地の伐採などを行う業者から入手する。クレーン付きのトラックで運んでくるので、普通は費用が掛かる。
今回は厄介者の白樺材ということで無料だった。
一般的には、伐採の情報を入手し、指定の場所に軽トラで駆け付け、その場でチェーンソウでカットして持ってくるなどの方法で入手するらしい。

おじさんの別荘地では、自分の敷地内であれば倒木自由なので、自力で倒木して入手することもできる。
自力の倒木は、チェーンソウのコンデイションやカットの方法が完全でなければならないし、倒れる方向のコントロールを間違うと、屋根に激突したり、ほかの立木に引っかかって倒れないなどのトラブルがありうる。

さて、丸太を入手すると、玉切りというカット作業に入る。
チェーンソウで行うが、この機械、慣れるまで使いこなすのが難しい。
刃を研がなければならないし、カットの仕方を間違うと、刃が挟まったり、跳ね返ってきたりする。
40センチ前後の長さでカットする。
太い部分は短めに、細い部分は長めにカットしてよい。

玉切りが終わると薪割だ。
「七人の侍」で千秋実が気持ちよく薪割していたシーンを思い出す人もいよう。
節のない、太くもない玉を、よく慣れた人が割るとああなるかもしれない。
実際は、節だらけの玉や、二股の玉などがあり、ああはいかない。
そこで、楔とハンマーも用意して薪割に臨む。
鉞は和式のものより、洋式のほうがいいかもしれない。

コツは実地で覚えるしかない。
太いものは、端から割るとか、節から遠い部分から割ってゆくとか。
最初は手のひらと指の節が固まるくらいダメージが残る。
鉞を振り下ろすポイントを間違えると、刃が跳ね返される。
刃が少しでも食い込むところが割り口のポイント。
全然だめなら、楔を使ってみる。
二股の玉なら、チェーンソウで縦に切れ目を入れないと歯が立たないかもしれない。

割ったまきは、乾燥させる。
風通しの良い、日当たりのいいところに積んで干す。
雨除けは、割ったばかりの時はあまり気にせず、乾燥した薪の場合はきっちり防水するようだ。
乾燥台設置のコツは、何より土台をしっかりさせること。ぐらぐらしたところに積むと途中で崩れる。
おじさんは、農協で廃棄する木製パレットをもらってきて土台にしている。
積み方のコツは、端っこが崩れないように互い違いにすること。

こうやって燃料を作る。
直接費用は0円。
10月の山小屋ではすでにストーブが活躍している

田舎暮らし 「別荘」か「集落」か その2

その後の北海道の地震。
札幌の親せきによると、9月7日の夜8時には通電したとのこと。
この間、水道、ガスは通じていたものの、2日間の停電は、おそらく戦後初めての体験のはず。
親せきの家は、防災グッズなどの備えはなかったが、道内ではむしろ普通だったのではないか。
北海道出身者の定年おじさんの実感である。
同様な地震や停電が首都圏で起きたとしたらどうであろう。住民の防災意識と備えが頼みである。

さて、田舎暮らしをする上での「別荘」と「集落」の比較その2である。
その利点と欠点を、定年おじさんの経験上から述べる。

別荘地の光と影

1.光の部分

別荘住民はお客さん。つまり商売上の買い手そのもの。
別荘を建て、おとなしく暮らし、遅れなく代金を払ってくれれば、売り手に文句は言われない。

買い手を都市住民としているから、よそ者同士である住民同士の関係も都会的。新参者も入り込みやすく、おおむねお互いの生活レベルは近い。
近所付合いをしたくなければしなくても済む。
バーベキューや花火、ゴミ焚きなど敷地内での振る舞いも、別荘地管理規則などに明文化されたことを逸脱しなければ自由である。
ゴミの処理など住民サービスは公平にやってくれる。

買い手としての責務を果たす限りは、住民の権利は都会並みに保証され、生活上の義務は明文化された最小範囲にとどめられるのが、別荘住民に与えられた利点といえる。

2.影の部分

では別荘暮らしが完全に都会生活の延長か、というとそうでもない。

基本的にはイーブンな住民同士の関係だが、そこは人間社会なので、居住年数の長い住民がイニシアチブを握るのは仕方のないところ。
しかも、元都市市民とはいえ、別荘暮らしが長くなると、住民の生活範囲はだんだん狭くなる。「世界」が別荘地内とその周辺に限定されてくるのだ。
かつ、基本的に暇なので、狭い人間関係の間を、当該人間に限定した噂話が駆け巡ることになる。
都会的人間関係をイメージして移住したところが、狭い人間関係に閉じ込められることにもなりかねない。

なお、別荘住民のイメージはリタイヤした金持ちというところだが、実際はリタイヤ後の現金収入に汲々としなければならない人も多いし、つてを頼んで別荘地に流れ着いた人もいる。
性質が全員円満なわけでは、もちろんない。
別荘地とて現実社会の一面でしかないのは、当たり前だが忘れないでおきたい。

集落の現実

1.いいところ

では、別荘地ではなく、集落に移住する場合はどうだろう。

現実的な選択で、空き家に住むとして、リフォーム代はかかっても、新築の別荘暮らしより初期費用は少なくて済む。ランニングコストも別荘価格より安く済むかもしれない。
集落の立地は、別荘地より都市部に近いから、買い物や公的機関の利用にはより便利だ。中学校までは町村内で通える。

また、都市ガスや下水道などのインフラは別荘地より整っているのが通例。
畑も隣接しているから、せいぜい軽トラで数分もすれば通える。
一般的に、映画やショッピングなど都会的娯楽以外の生活は、自宅周辺で賄えるのが集落での生活だ。

そして、最大の利点は、住民同士の生活互助的な共同体が残っていることだろう。
暮らし全般に関して情報を共有し、防災に対しては共同して対応し、祭りなど文化的な伝統行事を伝承する、為の制度的、精神的な組織体のことだ。
例えば、災害が起こったとして、その後の避難生活を一番安心して暮らせるのは、田舎の共同体が残っている地域だろうと思われる。

2.集落特有の事情

あなたが田舎暮らしをしようと、気に入った集落に空き家を求めたとして、簡単に家や畑を買ったり借りたりできるだろうか。多分、人的な紹介がないと無理だろう。

最近は地元の自治体が、移住促進や空き家補助などの施策を行っているので、若い人は考えてもいいかもしれない。

基本的には、しかるべき人などの紹介があるなど、貸し手にとっての必然性がないと、新参者に家や畑を貸さないのが田舎の人である。
いわば縁がない人には貸さないのだ。

また、最大の問題点は、共同体の一員になれるかどうかである。

移住者について、地元の人に尋ねると、「最初はよく来てくれたと感謝するが、そのうちにこんなはずではなかったとなる例が多い」と聞いたことがある。

「こんなはずではなかった」とは、移住者が集落の共同体員として期待外れだったということだ。
今時、日本の田舎とて、表面的には排他的ではない。自分たちの高齢化、過疎化を十分認識し、本気で若い移住者を求めている。

それがしばらくすると、こんなはずではなかった、となる。共同体の暗黙の了解事項、義務を、移住者がないがしろにしたとしたら、共同体員としては期待外れであろう。移住者が、近所から届けられる野菜を負担に感じて邪険に扱えば近所はがっかりするかもしれない。

こじれれば、共同体からの排除、ひいては公平なはずの公的サービスからの排除という事態を招くかもしれない。そうなると移住者は居ずらくなって去ってゆく。

公平に見て、田舎の過疎化は待ったなしの状況で、移住者の選り好みなどしていられないのだから、贅沢言うなとも思う。
が一方、これまで受け継がれてきた価値観を最優先しなくなったとしたら、共同体ではなくなるだろうし、そうなると日本の集落の制度的、精神的な存続はどうなる?とも思う。
日本の集落は、その存続がある限り、共同体としての精神的な背景も併せて存続し続けるものなのかもしれない。

 

田舎暮らし 「別荘地」か「集落」か その1

田舎暮らしにあこがれる定年者へ

定年後のライフスタイルとして、「田舎暮らし」は一つの選択肢になっている。

テレビ番組の「人生の楽園」ではないが、退職後は夫婦で山麓にログハウスでも建て、悠々自適に趣味のバードウオッチングでも満喫、という第二の人生像が、今は一種のステータス化しているかのもしれない。

いかような第二の人生を選択しようが、はたまた「第一の人生」たる現役生活にできる限りしがみつこうが、当事者の自由ではある。

ここでは、定年後の第二の人生に「田舎暮らし」を志向するご同輩に、移住先として考えるときの「別荘地」と「集落」について考えてみたい。
定年おじさんのささやかな経験を紹介する。

「別荘地」とは

ここでいう「別荘地」とは文字通りの別荘地のこと。
立地は、たいてい、地方の限界集落のさらに先の、傾斜地を切り開いた場所にある。

地元の人にとっては、山菜取りにしか出かけなかったような場所で、標高が1000メートル以上で1500メートルのこともある。
観光地に隣接していることも多い。

都市部からは遠いが、高速道路からのアクセスや、主要街道筋へのアクセスは考慮されている。と言ってもインターまで1時間、は普通だが。

1区画の広さは100~200坪ほど。土地は自治体が所有していることが多いので、購入者が土地に設定できるのは借地権となる。

建物は、購入者が建て、購入者の所有権が設定できる。
簡易水道、電気などのライフラインは整備されているが、都市ガスや下水道までは通っていないことが多い。

別荘地内の道路等共有部分の整備や、ごみ収集場所の管理などは管理会社が行い、購入者は管理料金を払うのが通例。

なお、購入者は別荘に住む住まないにかかわらず、建物の固定資産税や住民税(住民票を置かなくても建物の所有者に課税される)の納税義務を負う。

地元の自治体は、いかに別荘購買者を開拓し、管理費を徴収し(管理会社は自治体の第三セクターであることが多い)、また税収など周辺利益を上げるかに関心がある。
いわば、別荘経営は地方自治体の数少ない「産業」となっている。

バブル期までは、売出し即完売、だったが、時代と世代が変わり、今はがらがら。その気さえあればすぐ買える。

今時の購買層は、イメージ通りの「夏だけ避暑にやってくる年配の金持ち」もいるにはいるが、定年後に定住している夫婦や、単身で暮らす高年齢者など様々。

夏の一時期以外は人気が少ないのは、昔から変わらず。
長野県内の別荘地なら、首都圏と中京、近畿圏からが多い。

「集落」とは

「集落」とは、ここでは地方の市町村の一地域のことをいい、長野県なら、○○町○○区、などと住居表示されるところの、○○区を指す。
「集落」への移住とは、その○○区の一員として住むことをいう。

地方の場合、住民の帰属意識は、合併の進んだ市町村ではなく、集落にある。
地元では、○○町在住というより、より小規模の○○区在住という方が通りがよく、実感がわく。

本州の集落は歴史が古く、狭い傾斜した街道にへばりつくように形成されること多い。
街道から家々に入る路地はさらに狭く、傾斜している。
家屋の敷地は案外狭く、畑は近隣に数件分がまとまっていることが多い。
現代の感覚からすれば、住宅地としての利便性に乏しい。

住民は代々その集落に住んでおり、少数なうえに平均年齢は高い。
働き手は職場に通っており、平日昼間はほとんど人気がない。
郡部の街道筋をドライブしていて、ほとんど歩行者を見かけないわけである。

なお、今時はかなりの郡部でも下水道が整備されており、奥地の別荘地よりライフラインは近代化しているが、都市部や、大規模商店へのアクセスは別荘地に次いでよくない。

自治体が予算を組んで移住者や子供への優遇策を行っていることもあるが、郡部で全くのIターン者が完全に定住したという話はあまり聞かない。
Uターンした人が、集落の古民家などを拠点にパン屋で定住している例はある。

以降、その2、「別荘地の現実」「集落の現実」へ続く。