令和4年の御柱を訪ねる旅。
今回は上社本宮へ行きました。
5月の連休に茅野市から諏訪市にかけての道を、諏訪大社上社へ里曳きで運ばれた御柱は、前宮に4本、本宮に4本立てられています。
立派な本宮の鳥居をくぐったところに一の柱が立っています。
7月の3連休、そこそこの観光客が訪れています。
御柱を確かめ、本宮を後にしました。
後の3本は見る時間がありませんでした。
60代、第二の人生、田舎・時々都会暮らし
令和4年の御柱を訪ねる旅。
今回は上社本宮へ行きました。
5月の連休に茅野市から諏訪市にかけての道を、諏訪大社上社へ里曳きで運ばれた御柱は、前宮に4本、本宮に4本立てられています。
立派な本宮の鳥居をくぐったところに一の柱が立っています。
7月の3連休、そこそこの観光客が訪れています。
御柱を確かめ、本宮を後にしました。
後の3本は見る時間がありませんでした。
令和4年の諏訪大社御柱祭は5月に終わりました。
上社、下社ともに山出しはトレーラー曳きで。
山落し、川越は行われませんでした。
大社直前の2キロほどの里曳きだけが例年通り行われました。
その里曳きも、上社は5月連休に、下社は5月下旬に無事終了。
御柱は各社に立てられています。
現在は7月。
遅ればせながら令和4年寅年の御柱を下社前宮に見に行きました。
いつもながら神社と里の融和的関係を現代に残しているかのような、諏訪大社下社前宮のたたずまい。
里の民家と神社の境内の間に、塀も生垣もありません。
神様の威光を誇示するかのような壮麗さもありません。
あるのは歴史を経て、地元に鎮座する〈なにものか〉のありがたさ。
前宮の本殿は、田んぼと民家に囲まれた山道を登って行った先にあります。
背後に守屋山に連なる山をいただいた簡素な造りです。
本殿を囲んで真新しい御柱が4本立っていました。
境内を流れる清水。
簡素をたっとびながらも、人の手が入りすぎない程度に保たれた静謐さ。
諏訪の本来の神様の姿に一番近いといわれる前宮の景色です。
境内に交流館があるので寄ってみました。
御柱祭の資料がレイアウトされています。
今年は行われなかった、木落などの映像が流れていました。
次回は制限のない御柱祭が行われますように。
諏訪大社上社御柱祭の里曳きが行われる4日前の休日。
茅野市のたてしな自由農園という大きな直売所の横の空き地で、地元自治会による御柱祭の練習が行われていました。
たまたま買い出しに自由農園を訪れていた山小舎おじさんの耳に、塩田平の生島足島神社の御柱祭里曳きで聞いたことのある進軍ラッパが聞こえてきました。
さては?と駐車場を横断してラッパが聞こえる方に歩いてゆくとやっていました、御柱祭。
上社の里曳きは5月3日と聞いていたので、別の諏訪神社のお祭りかな、と思いました。
見ると、三友会と書かれたそろいの法被を着た数十人が、片や御柱に乗り、片や木遣りを詠い、片や進軍ラッパを吹いています。
後で調べると、三友会とは茅野市の湖東地区、米沢地区等の住民による団体で、諏訪大社上社の御柱祭にも参加しているとのこと。
法被の色は黄色、青、ピンクとなっており、黄色が木遣り衆、青が御柱を曳いたり乗ったりする衆、ピンクがラッパ隊に分かれていました。
見ていると、黄色い法被を着た木遣り衆が詠い、それにこたえて御柱に乗った衆がバトンのようなものを上げ下げする、頃合いを見てラッパ隊が突撃ラッパで景気を挙げる。
これを繰り返して練習していました。
ラッパ隊が消防団の応援だった、塩田平と違って、色違いながら三友会のロゴ入り法被を着ていることから、仲間うちで組織されたものであることがわかります。
ラッパだけではなくドラムと大太鼓にシンバルまで合奏しています。
吹いているのが進軍ラッパ、突撃ラッパというのは塩田平と同じです。
なおラッパ隊には女性もいました。
女性は木遣り衆にも一人いました。
いつもならそれとなく参加している団員に聞き取りをかける山小舎おじさんですが、きっかけがつかめず断念しました。
まとまりがいいというのか、団員が集中しているというのか。
観衆がいようがいまいが、団員たちの熱量が変わらなとい地元衆の団結の強さに付け入るスキがない感じでした。
ラッパ隊は指揮者の号令一家、見事な演奏ぶりでした。
生島足島神社で7年に一度の御柱祭が行われました。
山小舎おじさんも信州に来て初めて知ったのですが、諏訪大社以外でも、諏訪神社と呼ばれるお宮では御柱が山から切り出され、里を曳かれて、お宮の境内に立てられていたのです。
上田盆地の西側に広がる塩田平の守り神である、生島足島神社境内にも諏訪神社があり、御柱祭が行われています。
この諏訪神社で、4月中旬のある日、御柱祭の里曳きがありました。
塩田平を見渡す大鳥居の先を出発して神社まで、わずかな区間ながら参道を4本の御柱を曳いてゆくのです。
当日の朝、山小舎おじさんが少し離れた長野大学の駐車場に軽トラを止め、大鳥居を目標に歩いてゆくと、3本目の御柱が出発しているところでした。
御柱ごとに担当の集落が決まっているようで、3本目と4本目には神畑(かばたけ)の幟を立てた男衆がついています。
今年は牽引するのがトラクターです。
人が引っ張るとどうしても酒が入り、三密となるのでそれを避けたようです。
また、人が引っ張ると御柱に微妙なコントロールが効くので本来の入り口から神社に入場出来るのですが、それだと幹線道路を長時間通行止めすることになるので、それを避けるため、もあるようです。
御柱は要所で止まり、木遣衆というのでしょうか、男衆が3,4人御柱にのって口上を述べます。
諏訪の神様に御柱の奉納を乞うための口上のようです。
山小舎おじさんの耳には、2人目の木遣り衆が詠う「リキ入れて~」という言葉しかわかりませんでしたが。
それより驚いたのが、木遣りの後に突発する地元消防団の進軍ラッパと突撃ラッパでした。
時代錯誤というか消防団の周辺だけが戦前にでもタイムスリップしたかのような風景なのですが、かえって潔いというか、明治以降に国家神道として無理やり再編された神社の行事の色合いが残っているようで興味深かったです。
趣旨は甲子園のコンバットマーチと同じなのでしょうが、旧陸軍の突撃ラッパを公的な場所で思い切り吹いている場所は日本中探してもそんなにはないだろうなと思う瞬間でした。
御柱には女性の一団もついて行ってました。
沿道警備のご老人に聞くと、「ここは諏訪と違って女人禁制の縛りはきつくなく、御柱に乗って記念撮影する女性もいる」とのことだが、それでも行列に参加する女性は珍しいとのこと。
木落しや川声越えはしないのですね?と聞くと「昔は男衆がわざと田んぼに落としたりしたが、今はガードレールがあるし・・・」とのこと。
昔日の里曳きの勇壮さが偲ばれました。
御柱について行って神社に向かいます。
神社の周りには群衆が集まり、マイクによるアナウンスもされて祭りが盛り上がっています。
幹線道路を横断だけしてトラクターにひかれた御柱が入ってゆきました。
令和4年は7年に一度の御柱祭の年です。
山小舎おじさんにとっては御柱祭初遭遇の年。
御柱の切り出しから、山出し、里曳きまで一連の流れを追ってみたいと思いました。
現在は山出しが終わった状態です。
実は御柱祭は、諏訪大社(上社、下社の計四宮)に特有のお祭りではなく、県内の諏訪神社で行われているのです。
諏訪地方以外の神社でも、7年前に運ばれたであろう御柱が立っていますし、今年になって新たな御柱が神社の境内などに横たえられているのを目にします。
諏訪大社上社の御柱は八ヶ岳山中で倒され、ふもとの八ヶ岳農業大学のはす向かいの地に並べられ、3月に少し下った場所で〈木造り〉されたのち目的地の下社(前宮、本宮)まで、茅野市内を曳かれてゆきます。
木造りとは上社の御柱に特有の細工で、御柱に孔をあけて引手の持ち手になる角材をはめ込めるようにすることです。
人出が沿道を里まで御柱を引っ張って歩くことを〈山出し〉といいます。
沿道の住民は曳き手を酒菓で接待します。
御柱は、川があれば人力で〈川越え〉し、坂があれば引手を乗せて〈木落し〉して下ります。
よくテレビニュースで急坂を丸太にまたがって落ちてゆくシーンが報道されて、あれが御柱祭だということになっています。
下社の御柱8本が木落しされるシーンです。
諏訪湖畔の急峻な山に作られた下社の木落坂は斜度も急で、距離もあります。
ただしあれが御柱祭のすべてではないようです。
茅野市内の中央本線にほど近い、上社の木落坂は25度ほどの斜度で、距離も短いものです。
いずれにせよ県民、特に諏訪地方の住民が御柱祭にかける熱気は、よそ者の想像を超えたものがあります。
それは地域に根付いた習慣、信仰であり、一方では地元資本のかき入れ時でもあります。
木落し、川越を終え、山出しを終えた御柱は、最終的に奉納される場所まで改めて曳かれてゆきます。このことを〈里曳き〉といいます。
里曳きは、氏子や地域の人々にとって、山出し同様に盛り上がる瞬間です。
かつては、女性が御柱に触れるのはもちろん、跨ぐなはもってのほかだったとのことです。
こうして最終的に上社にたどりついた御柱は、境内に立てられます。
また、諏訪大社に限らず、県内のあちこちの諏訪神社で御柱が立っているのを見ますが、各社でそれぞれが、切りだしたり、曳いたり、お祭りしたのちに建立したものなのでしょう。
令和4年の御柱祭は、残念ながら、木落、川越、など山出しに関するお祭りは行われませんでした。
上社の場合、トレーラーで川越の地点にまで、8本とも持ってこられました。
史上初めてのことと思います。
良い意味での史上初ではないことだけは確かなのが残念です。
氏子たちによる山出しが行われずに、丸太が8本横たわっている場所を確かめに行きました。
地元の方々なのでしょう、見学者が後を絶ちません。
住民の関心の高さがうかがえます。
この場所から上社までの〈里曳き〉は氏子連により行われることが決定したようです。
どんな熱気が見られるのか楽しみです。
春爛漫です。
4月3日から10日までの間、第19回目という上田城跡千本桜祭りが開かれました。
週末の混雑を避け、週後半の平日に訪れた山小舎おじさん。
そこにはたくさんの人が集っていました。
御前11時過ぎに上田城の有料駐車場に着きました。
駐車場は奥の方から埋ってゆくところでしたが、まだまだ駐車スペースは空いていました。
県外ナンバーの車も見られます。
城内に入ってゆきます。
お堀端には屋台が並び、五分咲きほどの桜並木を人々がゆっくり歩いています。
西櫓に来ました。
上田城の現在のメインスポットで、本物の櫓です。
真田石と呼ばれる大石がはめ込まれた石垣に枝垂桜が満開でしなだれかかっています。
城内に入り、真田神社で今年の軽トラ用の交通安全のお守りをいただきます。
花見の名所でもある本丸跡に向かいます。
例年なら三々五々、シートを敷いて花見をする姿が見られるのですが、今年はこの辺の桜が満開でなはいからなのか、はたまたコロナ下の〈指導〉のたまものか、シートを広げての花見客はゼロでした。
やはり寂しいものがあります。
天気が良くて夏のような日差しです。
西櫓から出て、「二の丸横丁」へ向かいます。
毎年恒例、地域の商店などが出店するキッチンカー、出店が集まった一角です。
今年もホットドッグやバーガーの屋台が多く出店していました。
ジビエを使ったバーガーだったり、上田名物美味だれ焼きなど、食欲をそそるラインナップです。
山小舎おじさんのチョイスは、乱切りそばと地元産ソーセージのホットドック。
それぞれ1食分の食べ応えがあり、腹がパンパンになったのですが、お祭りで出会った食材たちに感謝です。
ホットドックに合わせたコーヒーは「街の小さなジェラード屋さん」という店から調達。
美味しかったです。
お堀端には上田電鉄真田傍陽線が走っていた時の軌道跡が残っています。
最近、「上田電鉄」に目覚めた山小舎おじさん、この目で見んと向かいました。
お濠の底にレールを敷いて走っていたようで、ホーム跡も残っています。
上田駅から一つ目の駅でした。
この後、赤線のあった花園駅などを経て真田の村へと続いていました。
今は軌道跡が遊歩道になっており、花見客が散策していました。
1月の山小舎開きは思わぬ水道管凍結とその手当で予定よりプラス2日の滞在となりました。
仕事のある奥さんを先に送り返した山小舎おじさんは、その2日後に山小舎を後にして単身帰還しました。
山小舎から自宅まで、軽トラ利用によらぬ帰還の手段は、在来交通によることになります。
白樺湖まで何らかの手段でたどり着けば茅野駅までの路線バスがあります。
茅野駅までのバスは平日で6本ほどの連絡です。
時間帯は6時台に2本、9時台1本、11時台1本、あとの2本は夕方です。
9時台のバスに間に合うようにタクシーを手配しました。
アルピコタクシーという、茅野、諏訪方面をテリトリーとするタクシー会社に予約の電話を入れると山小舎の前まで時間に来てくれます。
前日に電話して8時45分の予約を入れました。
当日は早めに来てくれて9時前には西白樺湖の停留所前に着きました。
停留場付近の駐車場
路面はアイスバーンなのですが、陽の光には暖かさを感じる冬の朝です。
時刻どおりにやってきた、車山高原始発のバスには意外にも乗客が3人ほどいました。
白樺湖を一周する間に乗客をして雪景色を堪能せしめたバスは一路、茅野の市街へと下ってゆきます。
1時間もしないうちにJR茅野駅前に到着しました。
料金は千円ちょうどでした。
茅野駅からはJRで帰って良し、少し歩いた高速バス停留所から高速バスで帰って良し。
今日は特急あずさで帰ることにしました。
茅野駅のホームに出ます。
上り線のホームには駅弁を売る売店がありました。
特産の黒曜石も飾ってありました。
こうしてみると茅野駅のホームも見どころは多々あります。
ちょうど高尾行きの各駅停車も出発を待っていました。
特急あずさは、小淵沢、甲府、八王子に停まりました。
立川で下りて三鷹まで乗り継ぎ、バスで自宅まで帰りました。
令和3年も無事、秋のお彼岸を迎えることができました。
いつ何が起こるかわからないこの時代。
既に「起こっている」じゃないか、といわれればその通りなのですが・・・。
9月の収穫と畑
9月の畑の収穫です。
8月以降、大雨があったり、低温があったり。
ここ最近は30度に近い夏日もあったりします。
畑ではキューリ、ズッキーニが終わりました。
トマトもミニトマト以外は着菓もなくなり、青い実も赤くなる時には傷んでしまうことが多くなっています。
ナス、ピーマンは案外しぶとく、樹自体が元気に生き残っているうえに、ぼちぼちと実もつけています。
ハーブ類も植えていますが放任状態です。
それでも何の気なしに東京に送った、花が咲いたペパーミントや、バジル、エゴマなどに反響があります。
都会の人に新鮮なハーブがアピールするのであれば今後とも栽培を続けようと思います。
これから収穫期を迎える作物も無事育っています。里芋、ヤーコンは背丈が低いのが気になりますが収穫量と味が肝心です。
菊芋はきれいな花が咲きました。
カマキリが二匹
野菜の収穫ケースで虫が羽ばたいているので見たらカマキリでした。
ケースをどけてみると2匹います。
交尾の時期なのでしょうか。
とすれば最終的にオスはメスに食べられて子孫のための栄養となるのでしょうか。
畑の氏神様
畑の最寄りの神社は松尾神社といいます。
畑と大家さんが所属する長久保地区の氏神様です。
ときどき畑の無事と豊作を願ってお参りしています。
この日は夏の収穫が一段落したことのお礼にお参りしました。
すると今まで見過ごしていた岩が見えました。
これって諏訪の神様の依り代にあたる岩なのか。
境内には信州の神社では定番の御柱もたっています。
里山を背に立地している神社です。
諏訪の神様のご神体は、山と岩と木、といわれています。
松尾神社にはその3つが備わっているのです。
松尾神社も諏訪の神様を祀る神社であることがわかります。
今後とも末永く平和なお彼岸を迎えることができますように。
山小舎おじさんにも、町からいわゆる地域振興券が配られた。
引換券を持って、別荘管理事務所に行くと、町内限定の金券3,000円分と町内の温泉施設への入場券2枚をもらえた。
山小舎おじさんは住民票は長和町に移していない。
が、固定資産税と地代を合わせて10万円弱、町(と財産区)に毎年納め、町民税約6,000円を納付している。
他の別荘オーナーも同様だ。
それなりに町の財政に貢献しているのだ。
町内で使うとしたら、限られた飲食店、コンビニ、直売所、ガソリンスタンドくらいしかないが、ありがたいことだ。
コロナ様様、なんちゃって。
早速、町内にある道の駅での買い物に使わせていただきました。
鷹山ファミリー牧場の煮込み用牛肉720グラム。
煮込み用としては見るからに肉質よく、家族にも好評だったもの。
2,000円分の振興券で購入し、自宅に送りました。
長和町さん、ありがとうございます。
農繁期も終わった10月のある日、かねてから歩いてみたかった和田峠へ行ってみました。
念願の和田峠へ行く
和田峠は中山道随一の標高を誇る峠です。
和田宿と下諏訪宿の間に位置します。
両宿場の間の距離が約21km。
その距離と標高の高さ、道の険しさなどで、和田峠は街道随一の難所と呼ばれていました。
今回、山小舎おじさんは、峠の下まで軽トラで行き、車を置いて、峠を往復するスケジュールを立てました。
手軽なハイキングコースです。
軽トラを置く場所は、東餅屋という、峠下の場所です。
中山道時代には2、3軒の茶屋が建ち、名物の力餅を出していたといいます。
近年はドライブインが建っていましたが、かなり前に廃業しています。
山小舎を軽トラで出発し、国道142号線(現在の中山道)が旧道と分岐する地点まで行きます。
旧道へ入り登ってゆきます。
旧道なので普段は交通量もほとんどありませんが、交互通行とはいえ無料のトンネルが峠を抜けて諏訪と結んでおり、新道の有料トンネルを避けるトラックや山道マニアの自家用車などが三々五々通行する道です。
接待小屋という場所を過ぎます。
中山道を人々が歩いた時代に、冬の間だけ、粥と暖と馬餌を旅人に施した場所だそうです。
ここまで、麓からはそこそこの距離ですが、東餅屋や峠まではまだまだあります。
歩くとすると1日がかりのコースでしょう。
東餅屋に着き、軽トラを置いて出発します。
交差する車道を渡り、標識に沿って旧中山道を登ってゆきます。
広々とした緑道が続きます。
地元の長和町によって、歩道はしっかり保全されています。
案内板も完璧です。
ビーナスラインを渡る時がちょっと注意です。
バイクやスポーツカーが集団で駆けてゆきます。
3回ほども車道を渡ります。
途中一組のハイカーに会いました。
霧ケ峰方面の峠から、和田峠まで尾根歩きをしてきたとのこと。
車を置いた場所まで帰る道を心配していました。
和田峠に到着です。
上りは少々くたびれましたがいい運動です。
峠からは諏訪地方が遠望されます。
峠は、現在でも、長和町と下諏訪町の境でもあります。
難所といわれる諏訪への下り坂を少し歩いてみました。
これまでの上り道と違い、つづら折りの狭い道が続いていました。
この道を参勤交代や、皇女和宮降嫁の一行が通ったのは大変なことだったと思いました。
現在の和田宿を歩く
板橋宿から第28次、和田宿が峠のふもとにあります。
旧道沿いにはかつての景観が保存されています。
もともとは和田村だったこの場所は、現在では旧長門町と合併して長和町の和田地区となりました。
宿場の中心だった本陣も復興されています。
金沢から参勤交代の殿様や、皇女和宮もここに泊ったのでしょう。
旧街道を忍ばせる景観もさることながら、地域に残る昭和の風景にも心惹かれるものがあります。
つい2,3年前に廃校になった和田中学の木造校舎です。
中学は統合されて長和町にただ1校となりました。
小学校は町に2校で、和田地区にも1校残っています。
山小舎のリフォームなどをお願いしている、60代の大工さんが和田地区在住です。
和田中学のOBだそうで、当時は中学も生徒がたくさんおり、また上田へ行くバスが通勤通学で満員だったと話していました。
帰りに国道沿いの、和田ステーションによって、長門牧場のソフトクリームを食べて帰りました。