地元パワースポット訪問記VOL.9 諏訪大社下社春宮と万治の石仏

諏訪という地方があります。
おじさんの山小屋からは峠を終えて1時間ほどの距離。
ご存知、諏訪湖を抱える盆地で、かつては甲州街道と中山道が合流する宿場として栄えたところです。
信濃国一之宮である諏訪大社を擁する歴史の里でもあります。

諏訪大社下社秋宮へ

ご存知の通り諏訪大社には4つのお宮があります。
より東京に近い諏訪市にあるのが、前宮と本宮。
東京から遠い、下諏訪町に位置する下社には春宮と秋宮。

このうち観光客でにぎわっているのが本宮と下社秋宮。
規模も大きい立派な神社です。

ひっそりして落ち着いているのが前宮と下社春宮。
特に前宮は、まったく観光名所化されておらず、原初の信仰の様子さえ感じられるような場所です。

ここ下社春宮は、秋宮と同じ造りに見えますが人出も少なくゆっくりできます。
立派な造りの神楽殿があります。
その奥に拝殿があります。
ここは本殿ではないそうです。

春宮を抜け歩いてゆくと万治の石仏があります

橋を渡ってゆきます。
春宮にお参りしたらここにもよらなければなりません。

万治の石仏は岡本太郎が絶賛してから有名になったとのこと。
造形と言い顔の表情と言い独特のものがあります。

長野県内の田舎にある、「巨石の上の小さな石」と造形が同じです。


信州地方の民間信仰上のコンセプトが共通しているのでしょうか?

おんばしら館よいさへ寄ってみる

石仏を見終わって川に沿って歩を進めます。
地元の健児たちはこんな急流で泳ぐのでしょうか?

近くにある、「おんばしら館よいさ」という資料館によりました。

地元のご高齢の方が案内してくれました。
立て板に水の案内コメントの端端からこぼれる、深く静かでありながら強烈な地元愛。

御柱が運ばれるルートから、平地に降りてからの地元住民のお祭り、当時の諏訪藩・高島城主がお祭りの道具を提供したエピソードまで、山小屋おじさんの頭から零れ落ちるほどの情報を連打してくれました。

御柱祭について聞き書き

諏訪大社4宮に7年に一度、新しい御柱をしつらえる行事が御柱祭。

標高1500メートルの霧ケ峰高原の国有林からもみの木を伐りだし、途中の木落坂ではニュース画面で有名な、御柱に人がまたがって35度の急坂を落とす場面を展開。
沿道の里の人に接待を受けながら数百人の地元の若者が綱を引き、諏訪大社4宮に御柱を引き立てるまで祭りは続くのだそうです。

戦前は、女性が御柱にはもちろん、引き縄などにも一切触れられなかったといいます。
おとなしいイメージの長野県民ですが、諏訪っ子はこの御柱祭に燃えに燃えるとのこと。

下諏訪町の下社春宮と秋宮の間は、旧甲州街道と中山道の合流地点があります。

山間部の宿場と違い、温泉が湧く平地の宿場が持つ艶っぽさが残っているような気がします。
興味の尽きないエリアです。

 

ご近所立寄り湯めぐりVOL.4 「三途の川」の彼岸の極楽、霊泉寺温泉

山小屋おじさん久しぶりの温泉です。
今回は、鹿教湯温泉へ行く途中にある霊泉寺温泉にゆきました。
最寄りの町・丸子から車で30分。
旅館4軒が営業中で、大人200円の共同浴場もあります。

国道を曲がって三途の川?を越えると別世界

丸子と松本を結ぶ国道を標識に沿って曲がると橋が架かっています。


雰囲気が変わります。
まるで「三途の川」にかかる橋のようです。

「三途の川」のほとりには遊具のある公園が。
公園のわきにはなぜかひまわり畑が。

道しるべに導かれ霊泉寺へ

温泉までは1本道ですが、道々に「道しるべ」の標識が立っています。


彼岸を行く我々を救ってくれるようにお地蔵さまが見守ってくれています。

やがて温泉名の由来でもある霊泉寺が現れます。
山裾の寒村にふさわしくない堂々たる寺院。
広大な本堂などもさることながら歴史を感じさせる一角です。

極楽・霊泉寺温泉共同浴場

人気のない温泉街です。
旅館は4軒が営業中とのことですが、ほかにみやげ物屋も万屋もありません。
廃業した旅館が寂寥感を誘います。

共同浴場は200円。
入浴料は自主的に料金箱に入れます。
一応管理人はいます。

無色透明な湯で、温まります。
近場で天然温泉に入れるので平日ながら高齢の客が数名訪れていました。
山小屋から1時間県内でこういった温泉に入れる幸せを実感しました。

少し離れた民家の敷地内にかわいいスナックがありました。ここでは貸す少ない温泉街らしい景色です。

地元パワースポット訪問記VOL.8 日本三辻・大門稲荷神社

おじさんの山小屋から畑へ通う道が、国道152号線、通称大門街道。
上田から丸子を越え、大門峠を越えて茅野へ降りる道。
その道沿い、大門集落の入口(大門峠側からみて)に、一目見ると忘れられない神社がある。

1700年ごろ建てられた古社

その神社は、大門稲荷神社という。
昼なお薄暗い場所にたたずみ、背後に巨岩をいただき、うっそうとした巨木に囲まれている。

大門街道に面して鳥居が建てられ、よく見ると境内には小山がある。
円錐形の小山は土俵である。

この土俵、すでに現役の土俵ではなく、その昔にも本当に使われたかどうかの確証はない。
言い伝えによると、この神社、江戸時代の相撲部屋・浦風部屋の隠し稽古場があったとのこと。

転がり落ちたら怪我しそうな土俵は、力士の稽古仕上げと真剣勝負の場として使われたとか。
上田地方の郷土力士で伝説の、雷伝為衛門もこの土俵に上がったらしい。

日本三辻、付近には熊も出る

この神社、日本三辻の一つに数えられているとのこと。
辻とは街角、通り、道端のことを言うが、この神社が日本三辻と呼ばれる経緯は不明だ。

神社としてパワーを持つ地相に建つことは自明として、街道沿いの立地や、相撲部屋との関係など、人の往来が、当時としては賑やかな場所だったのかもしれない。

夕方になると境内の街灯に明かりがともり、さらに神秘性を増す神社である。
気軽に立ち寄りたくも、良い鵜に近づけない孤高の気高さを感じさせる。

巨岩に食い込むように社屋が建てられている。巨岩信仰との関連がうかがえる。

社屋の背後の岩場には仏像が立っている。
信仰と修業の場でもあったか?

大門街道を渡ると、渓流釣りで知られる大門川流域。
毎年秋には熊の目撃ポイントとして地元ニュースをにぎわす場所です。

地元パワースポット探訪記VOL.7 国宝大法寺三重塔で癒される

古代・東山道という街道があった。

「令和」の出典という万葉集に、「信濃路は今の墾り道刈株に足踏しむな履はけ我が夫」の歌がある。
律令時代の良民の義務として、防人になるべく九州へ向かう夫を、東山道で見送った妻が詠んだもの。

万葉集に詠われた東山道は、江戸時代に五街道が整備されるまでの間、畿内から東国へ向かう主要街道の一つだった。

東山道が信濃路に至り、現松本盆地から峠を越えて現上田盆地へ降りる道沿いに、現青木村がある。
青木村に、奈良時代に創立され、東山道の浦野駅(当時の宿場)にちなんだ大法寺があり、境内に三重塔がひっそりとたたずむ。
三重塔は国宝に指定されている。

三重塔の由来と癒し

西暦1300年ころの造営と伝えられる三重塔。
鎌倉時代から南北朝時代に移る時代である。

地方にありながら、くずれのない正規の手法で建てられた、と現代において評価される塔。
当時の中央の工匠によって造営された正統的な造りの塔とのこと。

「見返りの塔」の別名があらわす通りの完璧なフォルムと、周囲の風景との調和が見るものを圧倒する。

古より東山道を行き来する旅人を見送りまた迎えたのであろう、当時の一大スポットにして名勝地である。

大法寺の本堂もまた古く存在感がある。

境内にたたずむお地蔵さん。

三重塔への沿道には羅漢が立っている。

観音堂の建物もまた大掛かりだ。

境内の一番奥、山を背景に立つ三重塔。
今は訪れる人も少ないだけに一層の気高さを備える。

静かに訪れる人を癒すパワースポットである。

ご近所立寄り湯めぐりVOL.3 「秘湯を守る会」沓掛温泉へ

日本秘湯を守る会の立て看板が迎える、沓掛温泉街の入口。

おじさんの山小屋から1時間ちょっと。
旧東山道沿道の青木村のはずれにある温泉街。
温泉街とはいっても1軒だけあった商店も閉店し、ほかに食堂らしき店が1軒。

旅館が2,3軒と共同浴場が1軒ある。

源泉かけ流しの共同浴場・小倉乃湯

共同浴場は小倉乃湯という。
平安時代の信濃国国司(当時の県知事?)が湯治して眼病を直したという歴史ある温泉。
背後の山が京の都の小倉山に似ていることから、小倉乃湯と名付けられた由。

2種類の源泉がかけ流し、とのことだった。
入浴料200円は、県内の立寄り湯の標準金額。

温めの湯に長時間つかる、足腰の疲れが出る

軽く硫黄臭のする浴室。

2つの浴槽がある。
何気なく片一方の浴槽に入ると、体温よりちょっと高めの温度。
外は夏の暑さだからよいものの、冬は寒いだろうと思わせるほど。
これもよかろうとたっぷり時間をかけてつかる。

試しに隣の浴槽にも入ってみるとこれがちょうどよい温度。これが2種類の源泉ということか。
高温の温泉に感じる、「湯あたり」がほとんどない。
とはいえ、つかっているうちに、肩や腰に痛みが出てきた。これは温泉が効いているということなのか?

帰りの道中、眠気と闘いながら山小屋へ帰りました。

 

地元パワースポット訪問記VOL.6 不動の滝へ行ってみた

おじさんの行動範囲である大門街道(国道152号線)沿いに、不動の滝への案内板がある。

町指定の景勝地であるらしい。
地元の人に聞くと「6メートルばかしの滝があるだけだ」とのことで興味は後退していた。
が最近別荘地の高齢者作業バイト仲間の一人が、「不動の滝への道沿いの側溝にはヤマベがうようよいる。地元の人は海の魚は食べるが、川の魚は食わないんだな」というのを聞き、がぜん行ってみたくなった。

大門街道から不動の滝への道

大門街道沿いの案内看板。

見ると集落の中を細い生活道路が続いてゆく。
車の出入りもほとんどなく、観光地の持つ輝きなど全く感じられない。
普通、わざわざ行ってみようとは思わない。

果たして車は交差できる道なのか?
入って行って地元の人に怪しまれないのか?

おじさんの長野ナンバーの軽トラで入ってゆくと、やがて集落は早々に消え、田んぼや畑が広がる。
なるほど側溝があるが、田植えの季節のせいか、水がごうごうと流れており、魚影が見えるどころではない。

林道を登ってゆくと獣除けのゲートがある。
ここまでですれ違ったのは農作業の軽トラ1台のみ。

不動の滝は厳粛な空間だった

ゲートをくぐると畑はなくなり、ひたすら林道が続く。
やがて不動の滝一口の看板が見える。

林道から滝の入口へ入ってゆく。
町の案内板が立つ車だまりとなっている。

そこから見える堰堤も大規模で、流れ落ちる水には滝の趣があるが、不動の滝はここからさらに600メートル先とのこと。

ダートの坂道を車で少し上ると車両通行止めの看板。
ここから450メートルを歩かなければならない。

坂道を登ってゆく。
階段は必要ないがそれなりに急な角度の坂道。
周りは全く人影などなく山の真っただ中にいるのだが、道の周りだけは辛うじて人の気配が残る。
それなりに人出はあるのだろう。

やがて左手に巨石の壁がそそり立つ景観となり、行く手に不動の滝が現れる。
大きな滝ではないが、巨石の壁の間から水が流れ落ちるシチュエーション。
滝の流れの背後の苔むした青が俗世間との距離を感じさせる。

遠く左手に見える祠はかつて修行者が篭った名残とのこと。
独特の静謐を感じる空間。
まったくの自然が持つ怖さや排他性ではなく、人間が支配する空間ながら神聖な感じ。

これだから信州は行ってみなければわからない。
不動の滝は立派なパワースポットではないか。

地元パワースポット訪問記VOL.5 和田峠に湧水を汲む

長野県は山また山。
湧水もあちこちに湧く。
有名な水から無名な水まで。

山小屋おじさんの山小屋から割と近場に、黒曜の水という割と有名な湧水がある。

和田峠の湧水、名付けて黒曜の水

長野県の上小地方(上田市及び小県郡)と諏訪地方の分水嶺が和田峠。
中山道が上小地方を通過し、和田宿を後にすると急峻な峠を越えて諏訪に降りる。
この急峻な峠が和田峠で、中山道随一の難所といわれた。
現在も群馬方面と諏訪、松本方面を結ぶ物流の動脈として、交通が引きも切らないが、和田峠はトンネルで越える。

峠近辺には湧水ポイントが多い、ふもとの集落、旧道筋などによくみられる。
この中でも、和田峠下の男女倉(おめぐら)という場所の付近に、黒曜の水と呼ばれる湧水ポイントがある。

湧水量がすごい。
休日などは水を組みに来る人で、蛇口が占領されることもある。

黒曜とは、石器時代に矢じりなどに利用された石の名前で、和田峠近くのその名も星糞峠の一帯が国内有数の産地だったといわれる。
石器時代の宝物、黒曜石は「星の糞」と呼ばれていたのだ。
そして、ここで産出された黒曜石が当時の全国にいきわたったという。

おじさんの山小屋の水は、別荘地内にある簡易浄水場からのもので、湧水由来。
かなりおいしいが、天然の湧水がやはりうまい。
おじさんも畑の帰りなどに時々寄って、黒曜の水を汲んでくる。

駐車場には長和町名物のゴミ無し地蔵が立っている。

旧和田中学校の校舎と桜の風景

今は長和町となった旧和田村は、中山道和田宿だったところで、本陣なども保存され趣のある場所である。

現在は廃校になった旧和田中学校の木造校舎が残っている。
映画のロケで使えそうな校舎だ。

桜の季節なので寄ってみた。
葉桜とグラウンドに散った花びらを前景に校舎が見えた。

信州桜前線VOL,3 上田城跡桜まつりにて

上田城跡千本桜祭りの最終日に行ってきました。
4月21日でした。

一般的に城の跡地は「城址」(じょうし)と呼ばれることが多いのですが、上田城の場合、「城跡」(じょうせき)と呼ばれています。

ご存知、真田家の居城として、徳川軍を二度にわたって撃退した城として有名です。

現存の建物は、櫓が3基ほど。
本丸跡地はありますが、そこにどのような天守閣があったのか、あるいはなかったのか、わからないそうです。

関ケ原の合戦で真田が西軍についたため、徳川によって1601年に城が一度破却されており、真田時代の上田城についての記録が潰えているのでしょう。

その後、徳川幕府の支配下の元、上田藩の居城となりましたが、明治になって廃城となりました。
その際、櫓が東京の料亭に売られたこともあったそうですが、地元の有志が買い戻して復元したそうです。
上田に限らず、地元の人のお城に対する愛着がしのばれます。

日本一の兵(日の本一のつわもの)と言われた真田軍の本拠地だった城跡です。
大きな実戦を二度経験した城のみが持つ迫力や凄み、が残るのでしょう。
おじさんには、観光地ずれしていない落ち着いた城跡に見えます。

千本桜祭り最終日、桜は舞っていた

お祭り最終日の午後、城跡に向かいます。

太鼓の音が聞こえてきます。
最終日の催し物は地元の太鼓保存会の演奏でした。

徳川軍を迎え撃った東門から城内に入ります。

最終日の午後のせいか、人出は思ったほどではありません。
夏の観光シーズンの出足と変わりがない感じです。

肝心の桜は満開が過ぎ、葉桜となっていました。
地元の団体や商店が屋台を出しています。

櫓の前の桜も散っています。

櫓門を過ぎると真田神社があります。

本丸跡地では三々五々、花見客がシートを広げていました。

桜の密集度といい、人出といい、花見客の様子といい、おとなしく控えめな感じがします。

都会の、ごみと人出とアルコール臭にまみれた花見を見慣れているせいでしょうか。
一見寂しい花見風景ですが、おじさんには好ましく映りました。

本丸跡地に上田藩戊辰役従軍の碑がありました。
明治維新の際の戊辰戦争に当時の上田藩が従軍したようです。
戊辰戦争とは幕府方に立った東北諸藩と、薩長の新政府軍の間の内戦ですが、上田藩は新政府軍側で従軍したとのこと。

真田時代には反権力だった上田もその後は体制側だったのですね。
これもまた、上田がたどった歴史の現実。

テキ屋さんの屋台もあります。

お濠越しに見る桜です。

花見の後は上田市内を散策

桜祭りを後にし、上田の街を散策しました。
地元の人でにぎわう、富士アイスでソフトクリームと今川焼を買います。

食べながら、近くの上田映劇をチェック。
この映画館、正面に「浅草雷門ホール」なるデコレーションがなされ、通りには「花やしき通り」のアーケードが立てられています。

実はこれ、2014年の劇団ひとり監督の「青天の霹靂」という映画のロケのためのデコレーションをそのまま残したものだったのです!

知らなかった。
映画館はNPO法人として再出発し、定期上映中。
おじさんも二回ほど入場したことがある。
懐かしい昔の映画館そのもので、おじさんは大好きです。
若い支配人が頑張ってました。

上田土産は地酒と寒仕込みみそ

上田に来たら必ず寄る、柳町通りへ。

通りの一角に保命水という湧水がある。
のどを潤す。

次いで岡崎酒造へ。
江戸時代のひな人形を保存していて時々公開もする古くからの造り酒屋。
今年も、自慢の酒・亀齢がいろいろと受賞している様子。
おじさんも好きな亀齢を一本買う。

並びの味噌屋で寒仕込みの看板があったので入ってみる。
去年の二月に仕込んだという寒仕込み味噌を買ってみる。

信州は、酒、味噌、醤油などの醸造系が素晴らしい。
上田地方も例外ではない。

地元パワースポット訪問記VOL.4 信州二之宮に山小屋安全を祈願

4月は山小屋のスタートです。
山小屋の家内安全を祈願に、信州二之宮の生島足島神社へ新年度の初詣をしました。

季節外れの寒気の中の生島足島神社

上田地方の最古の神社、生島足島神社はおじさんのお気に入りの場所です。

池に囲まれたこじんまりした境内には、伝統が持つ荘厳さと、今に至るも人を引き付ける独特の明るさのようなものをを感じます。

かつては信濃国の国府があった上田地方の古社です。
信州二之宮とのことですが、一之宮は諏訪大社とのこと。
歴史的には、設立年代が古すぎてわからない生島足島神社のほうが由緒あるとのことですが・・・。

季節外れの雪の日に参拝しましたが、参拝客はほかに一人だけ。
二分咲きほどの桜が凍えていましたが、境内はいつものように独特の明るさと温かさがありました。

山小屋の家内安全を祈願

本殿の前にはアヒルとカモが歩いていました。
池から上がったのでしょうか。
生き物が集う神社本来の姿を見たようで不思議な気持ちになりました。

山小屋の家内安全と畑の豊作を祈願しました。

参拝客はいなくても社務所は開いていました。
神職のおじさんがお札を扱っていました。
奥には巫女さんの姿も見えます。

家内安全のお札をいただきました。
満たされた気持ちになって神社を後にしました。

早春の信州へVOL2 パワースポットを巡る旅

山小舎おじさんは、4月の山小舎暮らしシーズンインを前に、山小舎開きを行ってきました。
ついでに早春の信州パワースポットを訪ねてきました。

分杭峠で磁場ゼロ体験

長野の県南に位置する伊那市。
諏訪湖に端を発する天竜川に沿った町です。
その伊那市の南東端、大鹿村との境に、分杭峠があります。

分杭峠は中央構造体に位置し、地場がゼロの場所だそうです。
磁場がゼロとは、磁石が方角を示さない場所です。
パワースポットとして人気の場所と聞き、一度行ってみたいと思ってました。

山小舎から国道152号線を南下し、茅野から2か所ほど峠を越えたところに分杭峠がありました。
シーズン中にはふもとからシャトルバスが出ているという人気の場所だそうです。
訪れた3月中は、シャトルバスの運行もなく、パワーを浴びるために休憩所が設置されている場所は閉鎖されていました。

この時期、人っ子一人、通行車両1台もない峠でした。
パワースポットかどうかはともかく、自然の力が支配した清冽な気配は十分感じることのできる場所でした。
途中の自販機で買い求めたミネラルウオーターを、パワー充電の地場ゼロ水として東京の自宅へのお土産としました。

お昼ご飯は峠から伊那市に降りて、たけだという有名店でソースカツどんを食べました。
おじさんは2回目ですが相変わらずのうまさでした。

聖地・戸隠神社へ。帰りは小布施でモンブランケーキ

翌日は懲りずに県北のパワースポットを訪ねました。
戸隠神社です。

山小舎から長野市方面を目指します。
長野市内から急坂を上り、戸隠方面へ。
有名な観光地なのにアクセス道路の斜面のきつさと道の狭さに身を引き締めます。
長野らしいワイルドさが早くもあふれています。

訪れた戸隠神社は広い範囲に社が分置されています。
それ以上に、道端の残雪が隠しようもなく、夏装備の行く手を阻みます。

戸隠神社の奥社に狙いを絞り、駐車場に車を止めます。
冬期間は社が閉鎖されている奥社ですが、それにしては参拝客が引きも切りません。
登山靴にストック姿の完全装備の参拝客もいます。

鳥居から社まで2キロあります。
途中の杉並木が清冽な空気を醸し出しています。
いかんせん路面がアイスバーンになっています。
同行したカミさんは社寸前で参拝をあきらめました。
夏靴では雪の急坂に対処できなかったのでした。

おじさんは恐る恐るの参拝。
奥社の社自体はささやかな造りながら、背後の山全体に「ご神体」が感じられる神社でした。

昼食は、奥社から下がった中社近くの蕎麦・うずら屋にしました。
思った以上においしいそばで、活気ある店内と細やかなサービスに大いに満足したのでした。

そのあとは、長野市の北隣の小布施町に寄りました。
栗の産地で有名で、葛飾北斎が逗留して売品を残した町としても名を残しています。

古い町屋が並び、古美術、栗の菓子などを扱っています。名物の栗を洋風にアレンジしたモンブランケーキを食べました。

また、北斎が逗留中に描いた屋台の天井絵も見ました。
迫力がありました。