DVD名画劇場 ドイツ表現主義時代の幻影「カリガリ博士」「吸血鬼ノスフェラトゥ」

第一次世界大戦後からヒトラーが台頭するまでの1918年から1933年まで。
ドイツ映画はその全盛期を迎えていた。

サイレント映画からトーキーへの移行にあたるこの時代、ベルリンのウーファ撮影所を中心に、幾多の名作が生まれ、ハリウッドをしのぎ世界一の水準を示した。

手許に「写真 映画百年史」という5巻シリーズのグラフ雑誌がある。
1954年から発刊され編著者に筈見恒夫、表紙に野口久光という一流の布陣。

発刊の趣旨は映画発祥時からサイレント時代、トーキー時代を経て1950年代までに至る世界の映画史を写真でたどるというもの。

グラフ雑誌「写真映画百年史第2巻」表紙

日本映画についてが半分ほどを占めるのは致し方ないとはいえ、残りの半分をハリウッド映画と欧州映画で分け合った構成となっている。

「写真 映画百年史」は、見開き2ページに一つのテーマで写真が載っている。
日本映画に関しては「目玉の松之助専本の映画を完成」としてサイレント時代の日本映画のヒーロー、尾上松之助の作品写真を集めたページがあり、外国映画に関しては「巨匠グリフィスの功績」としてD・W・グリフィスがチャップリンやピックフォード等のちにパラマウントを設立するメンバーと談笑する写真などを掲載している。
ファン向けでもあり、本格的でもある映画グラフとなっている。

注目すべきは第一次大戦後から、ナチス台頭までの時代のドイツ映画の取り上げ方だ。
第1巻では「表現派と歴史大作 敗戦ドイツ大いに賑わう」の表題で「ドクトルマブセ」や「カリガリ博士」を紹介するページがあり、「逞しいドイツ映画」の題でフリッツ・ラングによるゲルマン神話の映像化「ニーベルンゲン物語」などを紹介している。

第2巻では「ムルナウとパプストの活躍」と題してサイレント名画「最後の人」「パンドラの箱」を紹介。
「山岳映画と科学空想映画」と銘打ってアーノルド・ファンクらをフォロー。
「ドイツ映画 現実と幻想」として表現主義の後の潮流となったドイツ映画のリアリズムとロマンチシズムの諸作品を紹介。
「ウーファ映画華やかに咲く」では20年代に花開いたドラマの数々を紹介。
ほかに、ドイツからハリウッドに移ったエルンスト・ルビッチについてのページもある。

第1巻より。「カリガリ博士」が紹介されている
第1巻より。「ニーベルンゲン」などの紹介
第2巻より。ルイズ・ブルックスの顔が見える
第2巻より。「メトロポリス」など
第2巻より
第2巻より。忘れられたウーファ作品の数々

こう見ると「写真 映画百年史」におけるドイツ映画の比重はかなり大きい。
ドイツ映画の主に1920年代の流れが、表現主義、歴史もの、音楽ものからリアリズムとロマンチシズムへと続いて行ったことがわかる。
その流れの中に「カリガリ博士」「吸血鬼ノスフェラトウ」「嘆きの天使」「制服の処女」などの作品があり、また現在では忘れられている幾多の作品やスターがいたことも。
戦前のドイツ映画が質量ともに第一線にあったことが日本でも認識されていたことも。

なお、サイレント時代のドイツ映画で起こった「表現主義」とは、第一次大戦に敗戦したドイツの退廃と虚無が生んだ芸術形式(写真映画百年史第1巻P27)とある。
当時の主流であった、自然主義、印象主義への反動として生まれた前衛運動であったようだ。

では、表現主義時代の代表作「カリガリ博士」を見てみよう。

「カリガリ博士」 1919年  ロベルト・ウイーネ監督  ドイツ

「クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの冒険」という劇場用アニメを見たことがある。
街に出現したヘンダーランドという見るからに怪しい遊園地でもっと怪しいおかまが呼び込みをする。
街では呼び込みの歌が流れる「変だ変だよヘンダーランド、嘘だと思ったらチョイとおいで・・・」。
しんちゃんたちは果たして怪しさの究極地・ヘンダーランドから脱出できるのか!?

遊園地の、非日常的な空気感とそのいかがわしさを描く映画は「カリガリ博士」がその元祖だった。

カリガリ博士と棺桶のチェザーレ

分厚い眼鏡に山高帽、ずんぐりしたマント姿。
眼鏡を上に下にずらしてぎょろ目をむく。
役人や官憲に対しては卑屈にふるまい、弱いものを誘惑して遊園地のテントへと誘う。
その名もカリガリ博士が街に現れる。

ドイツの民話「ハーメルンの笛吹き男」からのモチーフなのか?
時代を越えて世界に敷衍する人さらい神話の援用か?

プラハ出身のハンス・ヤノウッツとグラーツ出身のカール・マイヤー。
オーストリア=ハンガリー帝国出身の第一次大戦経験者、二人による共同脚本。

遊園地と精神病院、バレーダンサーのような身のこなしの夢遊病者と怪人博士。
怪しすぎる映画的組み合わせが、抽象的な書割を背景として繰り広げる悪夢のような物語。

二人の脚本家は主人公の名前を「発見」したとき会心の叫び声を上げたという。
カリガリ。
魔術師、奇術師の類に通ずるというイタリア系のネーミングだ、カリオストロ、フィーデーニのような。

この作品の背景は思いっきりデフォルメされた書割で表される。
書割の道路や壁がゆがみ、入り口は斜めっていて悪夢の世界を増長する。
遊園地を表す書割には猥雑な賑やかさに満ちている。

カリガリ博士が見世物として棺桶で飼っている夢遊病者・チェザーレもすごい。
ぴっちりとしたタイツ姿でダンサーのような身のこなしで美女を狙う。
カリガリ博士がドイツ的な土臭さ、やぼったさ、頑迷さに囚われた存在とするなら、芸術的、情緒的、美的な存在のチェザーレは、遠近法を無視したゆがんだ書割セットを背景に、ダンスのようなあるいはパントマイムのような誇張した動きでさ迷う。

チェザーレの方が悪夢度が高い。

チェザーレに扮したコンラット・ファイト
チェザーレに扮するコンラット・ファイトが幻想的な書割を背景に美女を誘拐する

「カリガリは人間の価値尊厳を蹂躙するプロイセンミリタリズムの擬人化された姿であり、チェザーレは徴兵され殺人訓練を受ける一般民衆のことである、と二人の脚本家は考えた。
そのテーマは、第一次大戦で非人間的な体験に遭わずにおれなかった二人の反戦、反国家思想から出現したもの。」(岩崎昶著 朝日選書「ヒトラーと映画」P227より)

朝日選書「ヒトラーと映画」。1933年前後のドイツ映画を語る

リアリズムによらず、むしろ極端な表現主義によって反戦、反国家を謳った名作。
現在見ても、その表現の徹底ぶりに驚かされる。
また非人間的な権力に対する恐怖という点では時代を越えたテーマを有する作品である。

「ヘンダーランド」の原点でもある。

「吸血鬼ノスフェラトゥ」 1922年 F・W・ムルナウ監督  ドイツ

カリガリ博士というガチガチにカリカチュアライズされた自らの民族性の宿痾に次いで、ドイツ人は中欧の伝承の中により不安定で超自然的な吸血鬼というキャラクターを発見した。
ドイツ民族は災難から逃れられないようである。

カリガリという災難が反理性主義のいわば象徴で、時代の変遷や理性主義により克服し得るものだとすると、吸血鬼は歴史的かつ超自然的な存在で、その災難度は高く深い。

ドイツ映画が吸血鬼を素材にするこということは、理性主義ではどうにもならない当時の現実からの逃避なのか。

カリガリはともかく、吸血鬼は21世紀になっても映画の素材として生き残っていることから、ドイツを越えたキャラクターを発見したということなのか。

ノスフェラトウの象徴的なポーズ

「吸血鬼ノスフェラトウ」のストーリーは、ハリウッドによるリメーク「魔人ドラキュラ」にほぼトレースされている。
違うのは吸血鬼の見た目と性能。
「魔人ドラキュラ」の吸血鬼は人間に対してはオールマイテーで、魅入られた人間は対処できない。
まるでエイリアンや病原菌のような吸血鬼である。

「ノスフェラトウ」の吸血鬼は人間を倒すことはできるが、たとえ吸血したあとでも完全な下僕にはできない。
また、自己を犠牲にして他を助けようとする人間の崇高な意志の前に、あえなく朝日を浴びて溶けていってしまう。

自らを犠牲とする美女のクビに気を取られた挙句、朝日に溶け行くノスフェラトウの最後

まことに人間臭いのがドイツ製吸血鬼。
その姿はハリウッド版のベラ・ルゴシ扮するドラキュラのように支配的、魔術的なものではなく、「カリガリ博士」のチェザーレのように女性的で美的なもののようだ。

ノスフェラトウには、その城の麓に生きる村人に忌諱される悲しみがある。
日陰に生きる者の哀れさとでもいおうか。
さらにいうと、ノスフェラトウの尖った禿げ頭、鷲鼻、ひょこたんひょこたんと歩く姿はどこか奇形的で、被差別感すら感じられるのだ。

ノスフェラトウがワイマール時代のドイツ人にとって、社会的恐怖・差別の象徴であることは確かだ。

追加) 「M」 1931年  フリッツ・ラング監督  ドイツ

第一次大戦後のドイツ映画界は、表現主義、歴史もの、ゲルマン神話、音楽もの、と様々なジャンルで第一級の作品を発表してきた。
この時代の第一線の監督として、ムルナウ、パプスト、エルンスト・ルビッチなどと並んでフリッツ・ラングがいる。

ベルリンにそびえるウーファ撮影所はユダヤ人がいなければ成立しない、といわれていた。
ラングもユダヤ人だった。

ラングはゲルマン神話に題材をとった「ニーゲルンゲン」をナチス宣伝相ゲッペルスに絶賛されたものの、「怪人マブセ博士」(1932年 サイレント作品「ドクトルマブセ」のセルフリメーク)を上映禁止にされ、1933年ナチス党の政権奪取の年にフランスへ亡命した。
「M」は「怪人マブセ博士」のひとつ前の作品で、ラング初のトーキー作品である。

ナチスの政権奪取前後に、ユダヤ系映画人が多数アメリカに亡命している。
が、それ以前のドイツ映画全盛時代から、ドイツ映画人のハリウッドによる引き抜きが続いていた。
ハリウッドによる映画人の引き抜きと、撮影所への資本参入がドイツ映画界の衰弱を生んだ。
とどめを刺したのがナチス党の政権奪取だった。
ドイツ映画のシンボル、ウーファ撮影所は第二次大戦のベルリン陥落とともに文字通り崩壊した。

「M」はナチス党政権奪取前夜の不安感をユダヤ人フリッツ・ラングがこれでもか、と描いた作品。
スリラー仕立てだが、ラングの狙いが、組織や群集の愚かさ、群集心理の不条理さにあったことは明白だ。

ピ-ター・ローレ、畢竟の怪演

ピーター・ローレが児童誘拐の犯人を演じる。
まだ若くぽっちゃりしている。
彼もまたハリウッドに亡命し「毒薬と老嬢」では人造人間とともに逃亡を続けるドイツ訛りの医者を自虐的に演じている。
彼のハリウッド時代のおどおどした小悪党演技の原点が「M」なのだろう。

児童誘拐殺人犯Mを追いつめる警察と犯罪組織。
なぜ犯罪組織がMを追うのか?
Mのおかげで泥棒は上がったりだ、という理由で。
その理由もばかばかしいが、警察の方も捜査の決め手を欠き捜査会議でタバコをふかすばかり。
ラングはカットバックで犯罪組織と警察会議を並行して描く。
まるで警察も泥棒も同じだ、と言わんばかりに。

Mを捕まえた犯罪組織が人民裁判よろしくMの罪状を追いつめる。
小児愛好者という病気のMは自分でも犯行を抑えることができない。
形だけの弁護人役が、Mに必要なのは治療で処罰ではないと正論を述べるが、圧倒的群衆は処罰を求めて叫ぶ。
群集心理の絶望感が画面を覆う。

この作品、警察の捜査の一環で、ベルリンの娼婦が集まるいかがわしいバーに踏み込むシーンがある。
長い尺で。
ラングが、警察の藪にらみ的な愚鈍さとともに、当時のドイツ社会の絶望的な裏側を描きたかったことを物語る。

映画を通してみて、犯罪スリラーとしての鋭さも印象に残るが、その比重は少ない。
社会に潜む「普通」の人間が小児嗜好の持ち主であり、それは本人では抑止できない「病気」であるとの観点は新しい犯人像だと思うが。

ラングによる戦前のドイツへの訣別のメッセージともいえる作品。
フランス経由でハリウッドに渡ったラングは、暗黒ものから西部劇まで様々なジャンルで活躍することとなる。

アンナ・カリーナの美しさ!「女と男のいる舗道」㏌上田映劇

上田映劇で「ジャン=リュック・ゴダール反逆の映画作家」(2022年)公開を記念に、ゴダールの初期作が3本上映された。
そのうち「女と男のいる舗道」に駆け付けた。

当日の劇場前ディスプレイ

本作はゴダールの長編4作目で、アンナ・カリーナのゴダール作品出演3作目にあたる。
二人は1961年の「小さな兵隊」の後にゴダールの熱烈なアタックにより結婚していた。

長編第1作の「勝手にしやがれ」をモノグラム映画社(B級専門のハリウッド映画会社)に捧げ、第3作目の「女は女である」をハリウッドミュージカルに捧げたゴダールは、4作目の「女と男のいる舗道」をB級映画に捧げている。

2作目の「小さな兵隊」はアルジェリア戦争をモチーフにした独自の政治的スタンスに基づくオリジナルな作品だったから除くとして、ほかの3作品はアメリカ映画のスタイルへの仮託を標榜した作品が続いていたとことになる。

この事実には、前提として映画批評家ゴダールの深い映画的経験と、その志向(アメリカ映画のそれもB級映画が好き)があるにせよ、映画監督としてのキャリアの浅さからくる自信のなさがうかがえる。

長編劇映画を作ることは、収益上の責任を持つということで、ヒットすることが劇映画の監督を続けられる必要条件となる。
ゴダールは、目くるめくストーリー性があるわけでもなく、集客力のあるスターが出ているわけでもない自身の作品を、既存のカテゴリーに仮託して観客に提示せざるを得なかったのだろう。
自虐的であるとも、客観的であるともいえる行為である。

劇場前の上映予定看板

「女と男のいる舗道」 1962年  ジャン=リュックゴダール監督  フランス

この作品、はるか昔に16ミリ版のフィルムで見たことがある。
暗い画面に、アンナ・カリーナがうつむいてばかり、という印象だった。
暗いのは内容ばかりではなく、映写機によって映し出される画面が物理的に見えずらいのだった。.

この度上映されたデジタル版では、映像がクリアに抜けていて、明るい場面でも、暗い場面でも、中間の場面でもその通りに再現される。
いい時代になった。

チラシより

当時22歳、若さはもちろん、本来の可憐さが残るアンナ・カリーナ。
初々しく緊張した「小さな兵隊」、天真爛漫な「女は女である」を経て、若さの中に憂いと陰影を加えた表情を見せる。
「気狂いピエロ」「メイドインUSA」などカリーナ=ゴダール時代の後期作では疲れと不機嫌さが目立つ(ゴダールとの離婚後の作品ということもあるか?)カリーナにあって、その若々しさが残る最後の作品なのかもしれない、(「離れ離れに」は未見だが)。

この作品でのゴダールのカリーナに対する視線は、「小さな兵隊」における、まるで自主映画の監督が主演に連れてきた女優に対するような憧れを隠せないようなもの、から、カリーナの内面に迫るものに変化している。

カリーナの髪形、衣装、メイクはかなり凝っており、短髪(かつら?)、アイシャドーを施したばっちりメイクは、映画が進むにつれ濃くなってゆく。
若々しいカリーナの肌は濃い化粧のノリもよく、また化粧負けしてもいない。

チラシより

愛するカリーナに、夫と別れて出奔し、家賃も払えないほど困窮し、友達に誘われて街娼となり、ヒモにいいように翻弄される女性を演じさせるゴダール。
カリーナは、カール・ドライヤーのサイレント映画「裁かるるジャンヌ」を見て涙し、カフェで自分を見ていた哲学者と会話を交わす。
金もなく、街娼の境遇にまで至った女性だが、自らの内面を見つめようと無意識にせよ模索し続ける。

ゴダールは突き放した視線で、カリーナ扮する無垢な女性の内面を捉え続ける。
同時に、ジュデイ・ガーランド(カリーナが務めるレコード店で客がそのレコードをオーダーする)、エリザベス・テーラー(カリーナの背後にポートレートが貼ってある)などゴダールのアメリカ映画趣味が垣間見られたり、「突然炎のごとく」公開の劇場に並ぶ観客の実写カットなどの楽屋落ち(仲間のフランソワ・トリュフォー作品なので)があったりもする。

カリーナは本作での自分の姿を見て、きれいに撮れていないと激怒し、ゴダールとの離婚の一因ともなったという。
客観的に見てアンナ・カリーナの若き日の代表作ともいえる本作は、彼女の表面上の美しさだけではなく、内面の葛藤もとらえた画期的な作品である。
カリーナの無理解は、映像的なものからくるのではなく、その内面に迫ろうとした作風に対するもののようだ。

講談社現代新書

講談社現代新書「ゴダールと女たち」(2011年刊 四方田犬彦著)では、本作について「ゴダールがこのフィルムで試みたことは(中略)みずからの眼差しによってアンナの身体の内側に隠されている魂の美しさを引き出し、画面に定着させてみせることだった。(攻略)」(同書 P68)と評している。

同書目次

ゴダールのその試みは十分達成され、「女と男のいる舗道」は22歳のアンナ・カリーナの姿が永遠に刻印された記念碑的作品となった。

ゴダールとカリーナのコンビは、映画史上では、スタンバークとデートリッヒ、溝口健二と田中絹代、小津安二郎と原節子、に比べることができるのかもしれない。
ヒッチコックとグレース・ケリーというコンビもあった。
いずれも手練れの業界人同士によるビジネスカップル(小津と原はプラトニックな関係。ヒッチコックは一方的な横恋慕)だが、結婚までいったゴダール組はある意味正直で素人っぽかった。

アンナ・カリーナはゴダールとの結婚期間中からそれ以降、ゴダール以外の多彩な監督作品に出演している。
「輪舞」(1964年 ロジェ・バデイム)、「修道女」(1966年 ジャック・リヴェット)、「異邦人」(1968年 ルキノ・ヴィスッコンテイ)、「悪魔のような恋人」(1969年 トニー・リチャードソン)などなど。

このそうそうたるキャリアは、カリーナ本人の才能によることもさることながら、ゴダールの眼を通して探求、表現されたその諸作品におけるアンナ・カリーナの魅力が、名匠たちにインスピレーションをもたらして実現したもの、と思えてならない。

DVD名画劇場 ハリウッドカップルズ① メリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクス

手許に「ハリウッド・カップルズ」(キネマ旬報社1998年刊 筈見有弘著)という本がある。
1930年代から90年代にかけて、ハリウッドで人気を博したカップル(ビジネスカップルも含む、というかそれがほとんど)について書かれており、キネマ旬報での連載をまとめたものだという。

連載にあたって古い作品や日本未公開の作品を、ビデオで見直し、またニューヨークに毎年通うなどして拾って歩いたという、映画評論家筈見有弘の著作。
内容は個人的作品評論に偏重せず、古い作品群の紹介や映画人の回顧録などの文献からの引用を多用し、記録としても貴重な著書となっている。

「ハリウッド・カップルズ」表紙

この本の最初に登場するのが、メリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクス。
ハリウッドの伝説上のカップルである。

同・目次

「アメリカン・スイートハート」と呼ばれた永遠の少女スター・メリーと、一代の剣劇スター・フェアバンクスは、実際に結婚していたビッグカップルだが、共演作は1929年の「じゃじゃ馬馴らし」ただ一作。
1910年代から人気を誇っていたメリー37歳の、いわば「晩年」の作品となる。

ハリウッド映画史で、初めて名前で観客を集めることができたという、スター第一号のメリー・ピックフォードとは何だったのか。
ここに、スター・メリーの本質に迫った著書がある。
「ハリウッド☆不滅のボデ&ソウル銀幕のいけにえたち」(1980年フィルムアート社刊 アレグザンダー・ウオーカー著)である。

「銀幕のいけにえ」表紙

前書きには、この本のねらいとして、「スクリーンに、またそのスター自身にあらわれでた女性のセクシュアリテイの本質をきわめること。」とあり、セダ・バラ、クララ・ボウ、デートリッヒ、ハーロー、モンローなど10人のスターが取り上げられている。
メリー・ピックフォードが第二章に登場する。

同・目次

1893年カナダトロントで生まれたメリーは5歳で父親を亡くし、以降母親と兄弟を養うべく旅芸人とともに舞台に立つ。
13歳の時、ブロ-ドウエイのプロデユーサーに自らを売り込み巡業団の女優となり、16歳でバイオグラフ社というD・W・グリフィス率いる映画会社に採用される。
清純な少女が好みのグリフィスの眼に敵ったという説があるが、グリフィス作品の常連にはなっていない。

メリー・ピックフォード

1910年代を迎えていた映画界は、全米で1万館を超える映画館(ニッケルオデオン)が大衆的人気を博し、製作側も資本投下を本格化して作品の質的な向上が起こった時期。
当時、俳優の名前はスクリーン上に表されていなく、「巻毛の少女」として大衆に親しまれ始めていたメリーは、はじめてメリー・ピックフォードという芸名をスクリーンに映し、大衆に知らしめた映画俳優となる。

150センチちょっとの身長と童顔。
幼い兄弟の親代わりに過ごしたリアルな幼女時代の体験に基づいた演技力。
巻毛と子供用エプロンの衣装。
これらは、当時の観客が求める少女像にぴったり適合し、小公女、あしながおじさん、不思議の国のアリスなどを題材とするメリー主演の映画はヒットし続けた。

「ハリウッド☆不滅のボデ&ソウル銀幕のいけにえたち」では、この時期のメリーの演技について、古い価値観に縛られ、大衆人気に迎合した少女像を演じながらも、随所に覗くセクシュアリテイについて指摘している。
それらのセクシュアリテイは、決して大衆を扇動し、新たな風俗を出現させるようなものではなく、大衆にとっては彼らの住む裏街のコミュニテイでは日常茶飯事のことだった、と。
それこそがメリーという女優の本質だったのだろう。

メリーとグリフィス(左)

実際のメリーはしっかり者で、契約更新のたびに倍増するギャラの交渉にも抜け目なく、名を成してからは、監督、製作者よりも製作現場で権限を持つ契約内容を要求した。
これはのちに、グリフィス、チャップリン、フェアバンクスとともに映画製作会社、ユナイテッドアーチスツを設立する行動につながる。

また、30歳を超えても少女役を要求される状況から脱しようと、人妻やヴァンプなどの役に挑戦するがヒットはせず、これが1933年に迎える女優人生の終焉につながった。
私生活では3度の結婚。
フェアバンクスとの結婚はお互いに2度目の結婚だった。
生活は堅実で、二人が暮らす豪邸でのパーテイは、ハリウッドスターにありがちな酒池肉林的なものではなかったという。

「じゃじゃ馬馴らし」 1929年  サム・テイラー監督  ユナイト

メリーとフェアバンクス唯一の共演作。
それまで共演作がなかったのは、それぞれが単独で十分商売になったこと、さりながらこの時代になってお互いの人気に陰りが出てきたことによるという。

「じゃじゃ馬馴らし」日本公開時のポスター

シェークスピア原作の映画化。
興行収入、批評共にパッとしない(というか惨憺たる実績と評価の)作品という。

フェアバンクスに鞭をふるうマリー

フェアバンクスの剣劇スターとしての動きはともかく、メリーは伝説の少女役を卒業し、じゃじゃ馬そのものの役を演じている。
そこにメリーの女優としての真価が見られたのかどうか。

結婚したマリーはフェアバンクスから仕返しされる

美人女優としての素地は隠しようがなく、整った美貌のメリーが、父親や妹に当たり散らし、鞭を振り回す。
そこへ財産目当てに駆け付けた頓珍漢な男、フェアバンクス。
相手の気持ちにかまわず、己をしゃべり散らかしメリーに接近。
それならばと、心許すふりをして痛撃を加えようと手ぐすね引くメリー。
まるで実際のメリーとフェアバンクスのカップル像のようにも見える。

堂々たるマリーと苦笑いのフェアバンクス

とおりが良く朗々としたセリフに、大都映画のアクションスター・ハヤブサヒデトのような、ファンタステック!なフェアバンクスのアクション。
正統派美人の気品と貫禄をたたえつつ、リアルなヒステリー演技に徹するメリー。

功成り名を遂げたスター達が、「流した」演技で撮ったフィルムのようでもあり、さりながら一代の名俳優がその実力と経験を示した熟練の「十八番」のようでもあり。

「ハリウッド・カップルズ」では、メリーとフェアバンクス夫婦について、
「(二人の屋敷は)ハリウッドの大使館のような役割を果たしていた。私生活を隠すスターが多い中にあって彼ら夫妻は、ファンあってのスターであるというポリシーを崩さなかった。そうした態度を崩さなかったことによって業界からの信望は厚くファンからも支持された。」と評した。

私生活に問題が多く、今の時代であれば(昔であっても)、性加害、幼児虐待、パワハラ、殺人などの犯罪行為で社会的制裁を受けてしかるべき人間に事欠かなかったハリウッドにあって、これは最上級の賛辞なのではないか。

上田映劇でジャン・ルノワールの「どん底」を上映

我らがミニシアター、上田映劇がまたまたやってくれた。
ジャン・ルノワール初期の代表作「どん底」(1936年)の上映だ。

今回上映された素材は、4Kレストア版というデジタル素材。
輸入したのは川崎市アートセンター。

川崎市アートセンターは同市麻生区新百合ヶ丘にある、小劇場と上映館からなる、「しんゆり・芸術のまち」を標榜する施設。
小劇場ではミニシアター系の作品を連日上映している。

川崎市アートセンターの2023年9月のプログラム
プログラムの見開き。ロバート・アルトマンの再輸入作品の上映もある

海外のデジタル化した旧作は、近年精力的に輸入公開されている。
ベルモンド傑作選と銘打って「カトマンズの男」「リオの男」などが上映されたり、ミムジー・ファーマー主演の70年代のムード漂う「モア」「渚の果てにこの愛を」が公開されたり、マルセル・カルネ監督の歴史的フランス映画「天井桟敷の人々」が再輸入されたことは記憶に新しい。

これらの作品の日本での輸入元は、キングレコードだったり、個人会社だったりするようだが、いずれにせよ版権が存在し、またフィルムの状態では(日本では)存在しない海外の旧作品を、映画館の大画面のクリアな映像で鑑賞できることは、名画座やテレビの映画放送がほぼなくなった現在、大変貴重である。
川崎市アートセンターと上田映劇には感謝しつつ、駆け付けた。

上田映劇の劇場前案内

「どん底」 1936年  ジャン・ルノワール監督  フランス

「ジャン・ルノワール自伝」(1977年 みすず書房刊)でルノワールはいう。
「シャルル・スパークと私が作り上げたシナリオは、(原作者)ゴーリキイの芝居の原作とは大いに違っていた。われわれはこれを原作者の承認を得るために、ゴーリキイのもとに送った。」(自伝 160P)。

また、「ある役の演技に、すぐ形をつけようとする俳優は、陳腐な形にはまり込む危険を冒している。一個の芝居、一本の映画のいかなる部分たりとも、オリジナルな創造たらずんばあるべからずなのだ。」(自伝 161~162P)ともある。

原作者から映画化の同意が得られたことについては、原作者ゴーリキイが映画を芸術としては全く認めておらず、どうでもよく、送られてきた脚本も読まなかった、との話もある。
ロシア人プロデユーサーからの依頼仕事であるこの作品の製作に際し、ルノワールは熟練の脚本家、シャルル・スパークと共同で脚色して臨んだ。

原作にはない重要な役柄の「男爵」には、舞台俳優にしてフランス高等演劇学校の教授、パリ国立劇場の演出家でもあったルイ・ジューベを起用。
場末のミュージックホールからジャン・ギャバンを見出して抜擢し、ジューベと組ませた。

ジューベが演じた没落男爵。
ギャンブルで遺産を食いつぶし、自殺を決心した夜に泥棒に入ったジャン・ギャバンと意気投合する役柄。
ついにはギャバンらが住む、掃き溜めのような安宿に転がりこんでくる。

この男爵、没落する自身を「人生を振り返っても、その時々に着ていた服でしか覚えていない」と回想するほどで、没落してからが我が人生、といわんばかりの達観した人物。

ルイ・ジューベ扮する男爵(右)、安宿の女将(奥)

名優ジューベが演じる浮世離れしたこの男爵を見ていると、ルネ・クレールの「自由を我等に」で、財閥からもとの放浪者に戻った主人公の晴れ晴れとした気分を思い出す。
また、ルキノ・ビスコンテイの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」で、無賃乗車した主人公の運賃を払い、しばらくは自らの露天商に同行させて去っていった、放浪詩人のようなキャラクターをも。

ギャバンとジューベと子供たち

安宿の経営者は、強欲な老人で、その妻はギャバンとの通じていたりする。
店子たちはいずれも老齢だったり、社会に不適合な人物ばかり。

この安宿の人物たちは、しかしルノワールが創造、演出すると、悲惨なばかりではなく、ユーモラスともいうべき人間味が加わる。
人間は必ずしもその一面だけの存在ではない、というルノワール流世界観の創出である。

再輸入、再公開にあたってのチラシ

カメラは彼らの芝居を丸ごととらえようと、あるいは邪魔しないように、長回し移動撮影でとらえる。
時にピントがずれるのも構わずに。

安宿のどぶに咲く一輪の花たる、ナターシャが意に添わぬ監督官に誘われてガーデンレストランでデートするシーン。
カメラは、べたべたするアベック客などの様子を捉えつつひたすら移動してゆき、ナターシャと監督官のテーブルに行きつく。
まるで舞踏会で繰り広げられる踊りの渦に迷い込むときのマックス・オフュルス(「輪舞」「たそがれの女ごころ」)の移動するカメラのように。

ルノワールは自伝でいう、「男爵は観客にとって親しみ深い存在となり、観客はギャバンと一体化して、男爵の物語を聞こうという気になるのだ。」(自伝 164P)。

ルノワールの「どん底」は、ルノワールとスパークが創造したルイ・ジューベ扮する男爵の物語でもあり、その人物により照射されるギャバンらどん底に住む人間味ある人物らの物語でもあった。

チラシ裏側

第26回蓼科高原映画祭 「秋日和」と岡田茉莉子

今年も蓼科高原映画祭が開かれた。
毎年、茅野市の2会場で1週間ほどに渡って開かれる映画祭。
蓼科の別荘でシナリオを練った小津安二郎を記念して開催され、小津作品出演者などの豪華ゲストが訪れる。

第26回蓼科高原映画祭のプログラム

今年のテーマは、蓼科と野田高梧・小津安二郎。
例年にも増して小津作品を多数上映し、メイン会場の茅野市民館では蓼科の別荘と野田、小津の写真展が開かれるなどした。

上映スケジュール

今年のゲストは岡田茉莉子。
出演作「秋日和」の上映後にトークショーがあるとのこと。
メイン会場の茅野市民館に駆け付けました。

茅野駅から続くコンコースに葉映画祭の幟が

ロビーにはボランテイアの茅野市民が受付などに展開、中庭には「もてなし」のテントも張られています。
諏訪地域でいう「もてなし」とは、御柱祭の山出しなどの時に沿道の住民が祭りの参加者に差しれる風習を言います。
この日のテントでは、コーヒー、ポップコーンのほか、寒天菓子、豚汁などが無料でふるまわれていました。

茅野市民間受付のレイアウト

立派な舞台を持つ市民館のホールに入場します。
例年、ゲストのトークショーは盛況で、かつて市内の現存映画館・新星劇場で行われた司葉子さんのトークショーは満員だったのを思い出しましたが、市民館のホールは収容人数が多いのか、この日は7,8割の入場者でした。

舞台では短編映画コンクールの入選作品とその監督の紹介が行われていました。
最後にコンクール審査委員も舞台に出てきて、審査委員長の伊藤俊也監督も登壇しましたが、姿勢がすっかり老人となっており時間の経過を痛感しました。

受付横の手書き看板

「秋日和」上映の前に関係者のトークショーがありました。
小津監督の甥の長い秀行さんと、「秋日和」の撮影助手だった兼松さんの対談です。

寡聞にしてお二人のことを知らなかったのですが、兼松さんは松竹撮影所で小津組の「専属」だった厚田カメラマンの助手として「彼岸花」以降の小津作品に参加したとのこと。
既に高齢で杖をお使いながらも、撮影所育ちの活動屋の匂いを感じさせる方。
スタッフ思いで、ユーモアのある小津監督のエピソードを語ってくれました。

市民館ホール入り口の様子

「彼岸花」 1960年  小津安二郎監督 松竹

そして「彼岸花」の上映。
デジタル修復版で色彩も完璧に再現されている。

原節子の小津作品最終出演作であり、東宝の司葉子の小津作品初出演。
また重要な役を演じる岡田茉莉子の小津作品初出演作でもある。
端役ながら岩下志麻も出ている。

豪華絢爛な女優陣を他社からも招き、自社の若手を厳選してのカラー作品。
小津作品のこういった傾向は「彼岸花」(1958年)からなのではないか。
山本富士子(大映)、久我美子(フリー)、有馬稲子、田中絹代(ともに松竹)らを並べたカラー作品「彼岸花」の華やかさは今でも忘れられない。

対する男優陣。
晩年の小津作品には自らを揶揄したような初老(といっても当時の実年齢は50代の設定と思われる)の社会的地位のあるおっさん方が数人出てくる。
「秋日和」では佐分利信、中村伸郎、北竜二の3人。
それぞれ会社重役だったり、大学教授だったりする。
大学時代(東大)からの仲間の未亡人と娘(原節子、司葉子)と七周忌で再会した場面から話が始まる。

適齢期を迎えた亡友の娘を心配し、未亡人となった大学時代のマドンナの再婚を気にするおっさん達。
類型的な心配ではなく、老いて未だに心残りな若き時代のマドンナに対する私的心情が混じってのことである。
要は暇な爺たちのエロ話がこの作品の一つのテーマなのである。

こういったテーマを庶民的に、あるいは通俗的に処理すると、みじめだったり生臭かったりするが、演劇界の重鎮(中村)や正統派の二枚目(佐分利)にやらせ、かつ設定も中流上の悠々自適な人物設定なのだから、そこは生臭さとは無縁。
かえって小津独特のユーモアが生きてくる。

また、爺の価値観にべったりではなく、分析・批評を加えるのも小津流。
「秋日和」では司葉子の友人役で起用した岡田茉莉子がその役割を担う。
岡田は爺たちの、悪意こそないが勝手な振る舞いに翻弄される友人(司)を見かねて、爺たちの本拠(会社の重役室)に乗り込み、ストレートに言いたいことを言って最後は爺たちに謝らせる。

ここのシーンは、岡田茉莉子らしい歯切れのいいセリフの連発で、観客からも同感の笑いが起こる。
爺たちの退屈まぎれの勝手な振る舞いにうんざりしていた観客の気持ちをすっきりさせるとともに、小津自身の自身に対する客観性をうかがわせる大事な場面である。

当時の地位のある爺たちのふるまいに関しては、例えば「彼岸花」での佐分利信の着替えシーンが思い浮かぶ。
会社から帰ってきた佐分利は、結婚前の娘(有馬稲子)の行動に上から目線で文句を言いながら、背広、ズボン、ネクタイと畳の上に脱ぎ捨てる。
着物姿で片ビザついて控える妻(田中絹代)がかいがいしくそれらを拾ってはハンガーにかけたりする。

昭和時代に育った山小舎おじさんでもそういった爺の姿を実見したことがないのだが、中流上の家庭では、そうだったのかもしれないと思わせる、昭和の時代の爺たちを分析するに足る描写である。

「秋日和」でも中村伸郎が帰宅後、背広とズボンを脱ぎ捨て、ハンカチを取り出して放り捨てる。
片付けるのは妻の三宅邦子の役目なのだ。
山小舎おじさんの世代でそんなことをしても、翌日まで服はそのままの姿で残っていただろうし。
さらにその下の世代となると、妻(パートナーといわなければならない)から不思議そうな顔をされるのが落ちなのであろう事実に時代の流れを感じざるを得ない。

そして小津作品永遠のテーマである家族の崩壊。
「晩春」「麦秋」「東京物語」。
紀子三部作といわれ、原節子が主演してきた小津の代表作のテーマはいずれも、家族の崩壊を通して描く、人間はしょせん一人だという、寂しく残酷な人生の真実だった。

「秋日和」では娘の結婚で残された未亡人の孤独が余韻となる。
紀子三部作ではいずれの作品でも、自分が出て行く(残された家族の崩壊が想定される)側の人間を演じた原節子が、残された側を演じている。

日本映画全盛期の文化遺産のような作品。
こういった作品を残してくれた小津安二郎と松竹撮影所に感謝したい。

映画祭プログラムより、上映する小津作品の解説

岡田茉莉子トークショー

「秋日和」の上映が終わり、岡田茉莉子のトークショーとなった。
果たしてどんな岡田さんが出てくるのかと少し心配した。
杖もなく歩いて壇上に現れた。
思ったより小柄である。
歩き方は少しよちよちしている。

トークの相手は、10年前の小津没後50年を記念したNHK番組を演出したデレクターで、その際にも岡田本人と、存命だった吉田喜重監督にインタビューした関係とのこと。
岡田単独でのトークはもう無理かもしれない。

耳がかなり遠くなっており、質問が伝わるまでに時間がかかったりしたが、いざ話となると立て板に水のようにスムースで内容的にも焦点のあった話ぶりだった。

「秋日和」のセットでは元気よく挨拶して明るく振舞ったこと。
本作の共演者で演技的に感心した人はいなかったこと。
小津作品では小津監督の演出以上のことをしてもダメなこと、ただしセリフのテンポだけは自分で工夫して事。
「秋日和」で爺さんたちをやりこめる場面は自分でも好きなシーンなこと。
小津本人から小津組の1番バッターだといわれてうれしかったこと。
当時の松竹大船撮影所は同時に6作品を制作しており、計600人ほどのスタッフが常に駆け回っており、活気に満ちていたこと。
松竹は監督にも物言える雰囲気で家庭的だったこと。等々

最後に今後とも映画をよろしくお願いします、と言い残した岡田さん。
映画女優としての矜持、プライドを全身にまとい、また映画全盛期を知る女優の言葉として重みがありました。

市民館中庭でのもてなしテント
もてなしのコーヒーを飲みながらアンケートに記入

DVD名画劇場 イギリス時代のアルフレッド・ヒッチコック

ヒッチコックはハリウッド時代に世界的に花開いた大監督ですが、出身はイギリスのロンドン。
映画監督としてデビューしたのもイギリスにおいてです。

今回ご紹介するのは、イギリス時代に監督した3本。
それぞれの作品が、のちにサスペンスの巨匠といわれるヒッチコックならではの味わいを持ったものですが、同時にイギリスの風土性、文化性に彩られたものであり、これ以上はないイギリス映画らしいイギリス映画でもあるのでした。

ヒッチコックは1899年ロンドンのカソリック教徒の家に生まれ、幼少期をキリスト教系寄宿舎学校で過ごす。
理工科専門学校を経て、電信会社に就職し、海底電線の専門家として過ごす。
働きながらロンドン大学で美術を学び、演劇と映画に興味を持つ。
当時イギリスに進出していたパラマウント系のプロダクションンにタイトルデザイン(サイレント映画のセリフのデザイン)を応募し、採用され、映画界入り。
以降、シナリオ作家、助監督をしながら美術、編集にもタッチ。1925年「快楽の園」で監督デビューした。

参考文献はキネマ旬報社「世界の映画作家12 アルフレッド・ヒッチコック」とフイルム・ライブラリー助成協議会発行「イギリス映画の回顧上映1964」です。

キネマ旬報刊「世界の映画作家12 アルフレッド・ヒチコック」
フィルムライブラリー助成協議会編「イギリス映画の回顧上映1964」

「恐喝」 1929年 アルフレッド・ヒッチコック監督  イギリス

ヒッチコックがタイトルデザイン作家として就職した、パラマウント系のフェイマス・プレイヤーズ・プロは、撮影所をイギリスのプロデユーサー達に貸すことにし、アメリカ向けの映画製作から撤退した。

ヒッチコックに監督デビューさせたのは、この撮影所を根城にゲインズボロウ映画というプロダクションを興した製作者のマイケル・バルコンという人。
のちにハリウッドのセルズニックと組んで「第三の男」を製作した国際派のアレクザンダー・コルダとは異なり、弱小の映画製作会社を興しては、国内向けの映画を製作してきた人とのこと。

「イギリス映画の回顧上映」より

ヒッチコックはバルコンの製作により、ゲインズボロウ映画で5本監督する。
そのあとにブリテイッシュ・インターナショナル・ピクチュアズというこれまたイギリス国内向けの制作会社で10本ほど撮るが、「恐喝」はその時代の作品。

つまり、当時のイギリス映画はアレクザンダー・コルダがハリウッドなどと組んで製作する一部の映画をのぞき、バルコンなどの製作者が興した弱小プロによる国内向けの作品がほとんどで、ヒッチコックもそういった環境で映画を撮っていたということである。
のちの世界的監督のキャロル・リードやデビッド・リーンも初期には、国内向けの映画を撮っていたのである。

「イギリス映画の回顧上映」より

ヒッチコックの「恐喝」は、日本での「イギリス映画の回顧上映1964」という催しで上映されている。
探偵小説の本場であるイギリスで作られた戦前の純イギリス映画の1本として、またその当時のヒッチコックの代表作として選ばれたようである。

刑事の婚約者を持つ雑貨屋の娘が、一晩ほかの男につぃて行ったことから誤って男を殺してしまう。
真相を知るごろつきが恐喝する。
娘をかばう刑事。
状況は二転三転。
娘は警察に自首しようとするが、その時・・・。

ロンドンの下町の湿った薄暗さ。
密室で行われる不慮の殺人。
再三画面に出てくるニュー・スコットランド・ヤードの金看板とパイプをくわえた(威厳のある)上官。
金髪でコケテイッシュなヒロインとそれをかばうハンサムなヒーロー。
灰色決着ながらハピーエンドの安心感。
ブラックなユーモア。

イギリス的な、ロンドン的な風土性、精神性に彩られた作品。
イギリス的なものへの信頼に裏打ちされたヒッチコックタッチ。

ヒッチコック本人は、主人公カップルがデートに向かう地下鉄のシートで子供にいたずらされる乗客で登場。

[恐喝「の一場面。左端がヒッチコック

「三十九夜」  1935年  アルフレッド・ヒッチコック監督  イギリス

ヒッチコックのハリウッド時代の名作で、ケイリー・グラントとエバ・マリー・セイントが共演した「北北西に進路を取れ」を連想させる内容。

殺人犯に疑われ追われる主人公。
追うのは正体不明の国際スパイ団。
警察は味方だが最後まで助けにならぬ。
偶然にも逃避行に同行する美女。
スリル。
思いもよらぬ皮肉な状況の変化。
まさにハリウッド時代の全盛期に豪華絢爛にスクリーンを彩った、ヒッチコック映画の原点がここにある。

市民社会に溶け込んだ某国スパイの恐怖。
それと知って近づく主人公のサスペンス。
列車での逃走劇では高所から下を見るヒッチコックお馴染みのカットも。
迷い込んだスコットランドの農家で、かくまってくれる農婦の機転で危機一髪の脱出。
スパイの親玉との対決で一度は撃たれて倒れる主人公。
万事休すか。

「三十九夜」の一場面

魅力たっぷりの美女に通報され、警察と思いきや、偽装したスパイ団に拉致される主人公。
美女も一緒だ。
手錠でつながれたままの脱出。
ホテルで一夜を明かす際のドタバタ。

ヒッチコック流ジェットコースタームービー。
この作品が純国内向けのイギリス映画だったとは!
水準が高い。

美女役のマデリーン・キャロルは、エバ・マリー・セイントとはタイプが違うが、ハリウッド映画のおきゃんでコケテイッシュな女優のよう。
冤罪で逃げ回る主人公ロバート・ドーナットはケーリー・グラントほど洗練されてはいないがイギリス的。
ヒッチコックがどこに出ていたかはわからないほど画面に引き込まれた。

主役のロバート・ドーナット

「サボタージュ」  1936年  アルフレッド・ヒッチコック監督  イギリス

ひょんな弾みから殺人を犯すが、「三十九夜」同様に偶然に救われて罪には問われない(であろう)ヒロインをハリウッド女優のシルビア・シドニーが演じる。

シルビアはロシア・東欧系のユダヤ人で、ニューヨークで舞台に立っていたところをパラマウントの重席、B・P・シュルバーグにスカウトされてハリウッド入りした女優。
シュルバーグの愛人となり、「アメリカの悲劇」(のちに「陽の当たる場所」としてリメーク。シルビアはシェリー・ウインタースがやった役)、「激怒」などで売り出し中だった。
翌1937年には「暗黒街の弾痕」にも出演してキャリアの頂点を迎える頃。

シルビア・シドニー

このシルビアがなぜ突然イギリス映画に出たのかはわからない。
イギリス側の要請か、ハリウッド側の思惑があったのか。

ということで、どうしてもこのシルビア中心に映画を見てしまう。

意に添わぬ?40代の男と結婚し、男が経営する映画館のモギリなどをしているのがシルビアの役。
親がいないのか弟が同居している。
隣の八百屋にはシルビアに好意を寄せる売り子が働いている。

実はシルビアの夫は某国のスパイ。
八百屋の売り子はスコットランドヤードの探偵。
探偵はスパイのテロ行為を防ごうとするが、スパイ側の爆弾がシルビアの弟を巻き込んでバスで爆発してしまう。

ヒッチコックと打ち合わせ中のシルビア

映画館と八百屋を中心にロンドンの市中を舞台にしたドラマ。
場末の映画館のわびしいモギリ風景。
スクリーンの裏というか、裾が事務所であり、住居である。
映画館の埃ささが漂うかのような画面づくり。
シルビアが八百屋の売り子に親近感を抱き、やさしく微笑むだけに一層、情景のわびしさが際立つ。

スコットランドヤードには例によって007のボスのような威厳正しい上司がいる。
これが頼りがいがありそうで、そうでもなさそうで。
当時のパトカーが駆け付け、刑事たちがぞろぞろと降り立つシーンはどこかゆったりしており、緊迫感よりユーモアが感じられる。
これもイギリス流か。

「三十九夜」と違い、スピード感はなく暗さが目立つ。
スパイのキャラが、洒落た紳士ではなく、まるでロシア人を模したかのようにゴツイからか、それともシルビア・シドニーの演技がコケテイッシュというよりは悲劇的(逆境に暮らす薄幸な美人風)であるからか。

  

メキシコ時代のルイス・ブニュエル②

この8月、渋谷シネマヴェーラで「スペイン、メキシコ時代のブニュエル」という特集があり、スペイン時代の初期作から、メキシコに撃つっての50年代初期作品までが上映された。
貴重なメキシコ時代のブニュエル作品について述べる。

参考文献はキネマ旬報刊「世界の映画作家7 ショトイット・ライ ルイス・ブニュエル」とフィルムアート社刊「インタビュー ルイス・ブニュエル公開禁止令」。

「愛なき女」 1952年 ルイス・ブニュエル監督  メキシコ

メキシコに移ってブニュエル6本目の作品。
メキシコ時代から劇映画の演出を始めたブニュエルは、ここまでミュージカル風だったり、エスプリの効いた喜劇風だったり、悪女ものだったり、ドキュメンタルな社会派風だったり、と多岐にわたった作品を撮っている。

この作品(今回見たプリント)の開巻ではコロンビア映画のマークが映し出される。
ハリウッドメジャーのコロンビアが配給していることになる。
おそらくメキシコで製作後に、コロンビアが配給権を買い取り、アメリカ国内で配給したものと思われる。
マイナーな映画館での番組穴埋め的な公開だったと想像するが、ハリウッドメジャーが買い上げるほどの商業映画をこの時期すでにブニュエルは撮っていたということになる。

キネマ旬報刊「世界の映画作家7」のブニュエル自作を語るでは「完全な注文仕事である」と一言のみ。

「世界の映画作家7」ブニュエル自作を語るより(題名役が「恋なき女」となっている)

フィルムアート社刊のインタビュー集「ルイス・ブニュエル公開禁止令」でも1ページに満たない内容で、インタビュアーが「どこをとっても及第点の見当たらない唯一の映画だと思う」と切り出し、ブニュエルも「私にも見当たらないよ」と応じている。

モーパッサンの「ピエールとジャン」の翻訳で、すでにアンドレ・カイヤットが映画化していた。
「公開禁止令」によると、20日間の撮影期間中、ブニュエルはカイヤット作品のシーンをなぞって撮影したという。

ロザリオ・グラナダス(中央)

実家が貧しく、愛無き結婚をした女性(ロザリオ・グラナドス)が、若い時に林業技師と恋に落ち次男を設ける。
長男のために林業技師との駆け落ちを断念。
息子二人は医師に育つ。
息子たちの容貌、性格は異なり、厳格な父親との関係、昔の不倫を知った母親との関係に苦しむ。
最後はハピーエンド。

子供にとって理想的な母親像を演じるロザリオ・グラナドスの落ち着いた美貌が見られる。
また、戦後すぐとはいえ、恵まれたメキシコの上流階級の暮らしぶりを見られるのも貴重。

アラン・ドロンの出来損ないのような風貌の次男役の俳優、長男から次男に乗り換える女医役の女優のコケテイッシュ、長男とできている崩れた感じの看護婦役女優など、当時のメキシコの映画俳優の珍しい姿を見られるのも貴重。

まるでハリウッドの二流メロドラマのような映画だが、どこか漂うノワールなムードはブニュエルならでは。

シネマヴェーラのパンフより

「乱暴者」 1952年 ルイス・ブニュエル監督  メキシコ

この作品もコロンビア映画が配給。
主演のペソロ・アルメンダリスはジョン・フォード作品にも出ている国際派。

「世界の映画作家7」によると「出来上がった作品は卑俗の極致」とブニュエルは極言。

「世界の映画作家7」ブニュエル自作を語るより

「公開禁止令」でのインタビューは10ページに及び、ブニュエルは語る。
主人公は悪人ではないが一匹の野獣であり社会的常識を身に着けていなく、その暴力の振り方が好きではないこと。
主人公が近づき、結婚まで意識する娘(ロシータ・アレナス)の善良な甘美さと無垢さに魅了されたこと。
ラストシーンで主人公らが死に、情婦(カテイ・フラード)がその場を去る時に鶏が出現し情婦と見つめ合うが、鶏は私(ブニュエル)の持っている多くの幻想を形成するものであり、悪夢そのものである、こと。

ブルートとパロマの愛欲シーン

ブルートとあだ名される主人公(アルメンダリス)は強欲なボスに服従している。
ボスは所有するアパートの住民を立ち退かせようと主人公を屠殺場から手許に呼び寄せ住民のリーダーを襲わせる。リーダーは死ぬ。
下手人として住民らに追われた主人公は逃げ込んだ部屋で無垢な娘メチエに助けられる。
主人公はボスの妻パロマとも出来ており、パロマからボスを殺すよう迫られる。
主人公は一緒に住み始めたメチエを選び、ためにパロマから密告され殺される。

ストーリーは上記のように清と濁、富と貧困、正義と悪が混然となったカオスの世界を描く。
メキシコらしく、またブニュエルらしい世界である。
どちらかの価値観に誘導しようとしないところもいい。
ブニュエル自身の好き嫌いは画面に濃厚に出ているが。

終盤、ボスに反逆するブルート

開巻の屠殺場のシーンから強烈なブニュエルの世界が始まり、貧困を抉るような住民立ち退きを迫る富者の横暴な描写、凶暴な主人公と私欲丸出しの妖女の肉欲へと映画は展開してゆく。

主人公との初夜のシーンでストッキングを脱ぎベッドにもぐりこむメチエ役のロシータ・アレナス。
その若く無垢で善良な姿は「忘れられた人々」で盲目の乞食に牛乳で足を洗われる少女以来のブニュエル好みのキャラクターか。
ストッキングの場面については「ビリデイアナ」のシルビア・ピナルに、そして「小間使いの日記」のジャンヌ・モローへと受け継がれるブニュエルこだわりの場面の、これが出発点か。

淫乱とむさぼりの極致、パロマ役のカテイ・プラード。
女性の持つ二面性の一面だけを強調したキャラを存分に演じるプラードの、その「濃さ」も見どころ。

ラストでパルマと向き合う鶏も「忘れられた人々」以来の重要なブニュエル組の一員(一羽)。

シネマヴェーラのパンフより

「エル」 1952年  ルイス・ブニュエル監督  メキシコ

インタビュー集「公開禁止令」でブニュエルは語る。
「主人公には何か私の分身がいる」と。
それは主人公の性格(他人から賛美されたい願望だったり、嫉妬深さ、他人から追求されると逆上したりする)に表されている。
主人公はまた大衆を見下し、彼らを抑圧したいとの願望も持ち、ブニュエルもそれに組する。

片や主人公は祖父の代からの富豪であり、慎み深く理性的な人間として社会から信用を得ている。
その本性が出現するのは特定の他者(この作品では妻)に対するときだけなのだ。

こういった性格はパラノイア(あるいはサイコパス?)と呼ばれるものだろう。
事実この作品はある精神病院で典型的なパラノイア症状の理解のために定期的に上映されていたとのことである。

「世界の映画作家7」ブニュエル自作を語るより

ただしこの作品の目的は、パラノイア症状の描写ではなく、主人公の願望の発露にある。
つまり、主人公にとってはパラノイアと分類される諸願望を発揮することが自己解放であり、それが己の偽らざる願望であるのだ。
自己を偽らず、ついには社会的(宗教的)信用を失う事態になってもなお、自己を貫く人間を描くことにあるのだ。

こう書くと立派な人間のように聞こえるが、主人公の願望とは、嫉妬だったり、他社からの賛美だったり、大衆の抑圧だったり、サデイズムだったりするから全く立派ではなく、限りなく卑近でひょっとしたら万人の心の奥底に潜む恥ずべきものだったりするところがブニュエル流といえる。

冒頭の協会での洗足シーン。敬虔な主人公が後ろに控える

主人公フランシスコがのちの妻グロリア(デリア・ガルセス)をその足の美しさから教会で見染め、略奪婚。
新婚旅行の日からパラノイアぶりを発揮し新妻を苦しめる。

教会の尖塔から落とそうとしたり、心が離れた妻の寝室にロープと針と糸をもって侵入するなどの行動をとった挙句、追いつめられたフランシスコは教会で神父に対し乱暴を働き、社会的に抹殺される。
精神病院を経て修道院で暮らすフランシスコだが、自分はずっと正気であったとつぶやく。

教会の尖塔で新妻を転落させようとして逃げられる

嫉妬に取り乱すフランシスコがテーブルの下でグロリアの脚を見た瞬間に発情する場面。
ロープなどの小道具をもってグロリアの寝室に侵入する場面。
ブニュエルの本領発揮だがユーモラスというよりは、ひたすら暗い。

心が離反した褄の寝室にロープなどをもって忍び込む

妻がパラノイアの相手に不条理に追い詰められるシチュエーションや、教会の尖塔から突き落とされんばかりの場面は、ヒッチコック映画のようだった。

ブニュエルは、自己に忠実なあまり滑稽としか見えない行動をユーモラスに描いたわけでも、ましてやスリラーを描いたのではない。
自己の内部に潜むパラノイア性とそれに忠実に自己を解放しようとする人間を割と真面目に描いたのであろう。

DVDで見ました

ヒロインのデリア・ガルセスは気品ある聖女的なキャラで、パラノイアである主人公の願望を受け止める。
全く受け身的なポジション。

ブニュエル映画のヒロインが、聖女的な外面と妖艶な内面を併せて発露するようになるのは、「ビリデイアナ」のシルビア・ピナル、「小間使いの日記」のジャンヌ・モロー、そして「昼顔」「哀しみのトリスターナ」の真打カトリーヌ・ドヌーブの登場を待たなければならない。

メキシコ時代のルイス・ブニュエル①

御盆に自宅に帰ると、猛暑の東京。
渋谷のシネマヴェーラでは、「スペイン・メキシコ時代のブニュエル」という特集上映をやっていました。

シネマヴェーラの特集パンフ

ルイス・ブニュエルはシュルレアリストとして「アンダルシアの犬」を作ったスペインの映画作家。
作品の内容の、反権威、反宗教的過激さから故国を追われ、ハリウッド経由でたどり着いたのが同じスペイン語圏のメキシコ。
1940年代後半から50年代にかけて、ブニュエルは10本以上の映画をメキシコで撮っている。

ブニュエル映画永遠のミューズ、カトリーヌ・ドヌーブ。聖と淫のアイコン

メキシコでは、シュルレアリストとしてではなく一映画人として、商業映画を撮ったブニュエルだが、そこはそれ。美男美女の職業俳優を使い、一般的な観客に受けれられる商業映画の枠組みを踏襲しながらも、彼らしい、彼ならではの作品が生まれていた。

今月はメキシコ時代のブニュエル作品をシネマヴェーラで5本、DVDで1本見ることができた。
まず初期の3本についてお届けしたい。

参考文献はキネマ旬報社刊「世界の映画作家7 ショトジット・ライ、ルイス・ブニュエル」とフィルムアート社刊「インタビュー ルイス・ブニュエル公開禁止令」。

キネマ旬報刊世界の映画作家7
フィルムアート社刊「ルイス・ブニュエル公開禁止令」

「のんき大将」 1949年 ルイス・ブニュエル監督  メキシコ

キネ旬刊「世界の映画作家7」の「ブニュエル全自作を語る」によると「フェルナンド・ソレルの活躍する喜劇で、2週間で撮りあげてしまった。清潔な映画だが、面白味はない」とある。

一方「公開禁止令」ではインタビュアーとのやり取りが3ページにわたって記載されている。
この時期前作の「グランカジノ」を撮り終えてから仕事がなく、故国の母親からの仕送りで暮らしていたこと。
プロデユーサーの依頼でこの仕事をしたこと。
主演のフェルナンド・ソレルはメキシコ演劇界の重鎮的存在だったこと。
この作品撮影時のブニュエルの関心事は、己の感性をいかに作品に反映させるかではなく、モンタージュ、アングルなど劇映画撮影時の技術的習得にあったこと。

「のんき大将」フェルナンド・ソレル(右端)

作品は富豪の主人公(ソレル)が、世間知らずの娘や寄生する親戚夫婦に騙されたふりをしながら、一芝居うち彼らを立ち直らせ、娘を幸せな結婚に導くというストーリー。

人間の幸福は富にあるのではなく、真実にあるのだ。
というのが、ルネ・クレール映画のエスプリに満ちた皮肉を待つまでもなく、ハリウッド映画にも共通する鉄則であり、「のんき大将」もその鉄則を踏襲している。

その意味では1949年の段階でメキシコ映画は十分映画界の近代水準にマッチアップしており、またソレルを中心にした演技陣や、カメラ、セットなどのスタッフの技量も同様であることが確認できる。

娘とのちの結婚相手

最後の最後で、愛する娘の結婚式で司祭の愛の誓の確認に待ったをかけ、真実の愛を待つ青年のもとに娘を送り届ける主人公の姿に安心する観客の心理は、ハリウッド映画「ある夜の出来事」のラストシーンに喝采を送るのと同じ観客心理である。

ブニュエル本来の関心とは縁のない作品ではあるが、劇映画の習作として意味はあっただろうし、また当時のメキシコ映画界の高い(ハリウッド映画的基準を十分に意識しているという意味も含めて)レベルを知ることができる。

シネマヴェーラのパンフより

「スサーナ」 1950年  ルイス・ブニュエル監督  メキシコ

「のんき大将」の後ブニュエルは「忘れられた人々」を撮っている。
メキシコの非行少年の実態をドキュメンタルに撮った衝撃作だ。
その写実性もさることながら、女性の脚、不具者、鶏、母性などなど、この後のブニュエル作品に必ず出てくるアイコンが網羅された記念碑的作品が「忘れられた人々」だった。

「忘れられた人々」の次作が「スサーナ」。
「世界の映画作家7」ではブニュエルが語る。
「ハッピーエンドの虚偽がはっきりした。これは私の最悪の映画である!」と。

左から農場主、牧童頭、スサーナ

「公開禁止令」では8ページを使ってインタビューしている。
スサーナを演じる主演女優ロシーナ・キンタナが製作者の妻であること。
制作者からの依頼仕事であるが、ブニュエルの即興によって撮られたシーンがいくつかあり、それは主にエロテイシズムを暗喩しまた強調するためのものだったこと。
スサーナが農場に現れる際のびしょ濡れの姿や、牧童頭に言い寄られて前掛けの卵が割れて太ももを伝わり落ちる場面などがそれにあたること。

スサーナと牧童頭をのぞき見する農場主の息子

少年院を脱走したスサーナが嵐の夜に農園にたどりつく。
彼女を憐れみ、彼女の話すうそを信じ、滞在を許す農園一家。
主人、息子、牧童頭の男どもはスサーナに誘惑され、翻弄される。
仲良かった農園一家が解体寸前になってスサーナは警察に連れ去られ、一家は悪夢から覚める。

金髪で白人めいた主演のロシーナ・キンタナはブニュエル映画のヒロインとしては類型的過ぎた。
目指す男を見つけると、ドレスの襟ぐりを胸元まで下げて出てゆくスサーナに苦も無くメロメロとなる男ども。
農園主相手にはスカートをめくって足を全開にするロシーナ・キンタナは、もう立派なブニュエル女優。

悪女がばれて農場主の妻に殴打されるスサーナ

悪女スサーナが退場し一家に平和が戻るのは商業映画としては平常運転。
しかしながら、仮にこの映画からハピーエンドをカットし、男どもを自死か他死かで退場させ、スサーナが最後に誇らしく自分の女性性に居直ったら、立派なブニュエル映画にならないか?

その意味では半分はブニュエルらしい映画なのだと思う。

スサーナがその凶暴な正体を現し、農場主の妻に対して鎌を振りかざした後、警察に引きずられて叫びながら退場するラストシーン。
私の幻影なのだろうが、引きずられるスサーナを俯瞰でとらえた5秒ほどのの間にびっくりする場面が出現した。
それは、部屋がまるで熱帯の植物園のように彩られ、あまつさえ引きずられるスサーナの右側、部屋の隅に、足を出した熱帯娘がスサーナの反対をむいてブランコに乗っているのである!

老眼が進んだ私の目に映ったそれは幻想なのだろうが、幻想だとしても、まさにハッピーエンドを嫌うブニュエルの面目躍如の演出のようにも、正体を現したスサーナへの賛美のようにも感じる自分がいた。

また、農園主を演じたフェルナンド・ソレル。
その風貌といい、女性に翻弄される役どころといい、後年のブニュエル映画の常連、フェルナンド・レイを思い出す。
別人とは思えないくらいだ。

シネマヴェーラのパンフより

「昇天峠」 1951年 ルイス・ブニュエル監督  メキシコ

メキシコで商業映画を撮るようになったブニュエル6本目の作品。
メキシコの土着性あふる魅力的な作品が出来上がった。

主人公とリリア・プラドの夢想シーン。

「公開禁止令」によると、「愛なき女」という作品の方が先に撮られているようだ。
また、さらにひとつ前に「ドン・キンテイン」という作品があるようだ。
いずれも1951年の作品になる。

「昇天峠」についてブニュエルは次のように語っている。
主人公を誘惑する女を演じたリリア・プラドはルンバを踊る踊り子だった。
リリアに誘惑される主人公は母親と花屋を営んでいた若者。
脚本は要旨的なもので、即興も含めて演出はほとんどブニュエルのオリジナルによるものだった。
カンヌ映画祭の最優秀前衛映画賞を受賞した。

夢想シーンで主人公から、花嫁衣裳のまま川に投げ捨てられる貞淑な妻

田舎町に住む主人公は、瀕死の母親の頼みで、町の書記官を迎えにバスに乗る。
主人公は貞淑で親思いの女性と結婚したばかり、妻は義母の面倒を見るために残る。
主人公の乗ったバスには、なぜか主人公に迫りまくる酒場の女が乗っている。
バスは出発早々パンクし、川の増水で立ち往生し、葬式の棺が乗り込み、車内には羊が横行する。
最後は運転手の実家に立ち寄り宴会が始まる。
主人公は女に誘惑される・・・。

ブニュエル印のオンパレード。
義足の男、女の脚(バスが川で立ち往生すると乗客の女達はスカートをまくってバスを降り水浴を始める!)、羊、聖なる母(と、へその緒でつながっている主人公の夢のシーン)、貞淑な妻(を、川に投げ捨て酒場の女の誘惑に溺れる主人公の夢想シーン)。

無邪気に主人公に迫りまくるリリア・プラドの若く、野生的で、土着的な美しさ。

バスが川の増水でストップ、さっそく水浴びの準備をするリリア・プラド

すべては夢のようなメキシコの田舎のゆったりムードの中で展開し、どこまでが現実なのかわからない。
何かあると、楽隊が登場して宴会が始まったり、羊が主人公の体の上を歩いて行ったり、酒場の女が迫ってきたりするのだから・・・。

メキシコの貴重な50年代の田舎の風景と空気感。
それにブニュエルの幻想がぴったりマッチして夢を見るような映画に仕上がった。

シネマヴェーラのパンフより

DVD名画劇場 MGMアメリカ映画黄金時代 ザッツMGMミュージカル③ 40年代ジーン・ケリーとフランク・シナトラ

MGMミュージカルシリーズの第三弾です。
50年代に絶頂期を迎えるMGMミュージカルが、盛隆を誇った40年代。
今に残る名作群が生まれています。

戦中から戦後の時代、アメリカの明るさ、豊かさが爆発しそうな時代。
ブロードウエイの舞台出身のジーン・ケリーと、イタリア移民の子孫で楽団コーラス上がりのフランク・シナトラがMGMのスクリーンで共演していました。

「錨を上げて」 1945年  ジョージ・シドニー監督  MGM

製作はジョン・パスターナク。
クレジットはシナトラ、キャスリン・グレイン、ジーン・ケリーが1枚の画面に上から順で。

製作がアーサー・フリードではないせいか、全体に地味な作りの印象。
地味というのは、レビューシーンに美人ダンサーがずらりと出てくるような場面がないこと、色っぽくなまめかしい色付けがなく、むしろ男の子とその叔母さんを出すなどアットホームな場面を強調していること。

フリード製作ならば子供は女の子だったろうし、豪華絢爛のレビューシーンでは腕によりをかけた美人たちをギラギラにデコレーションして総動員したであろうから。

若いシナトラがケリーの踊りについてゆく

サンデイエゴに停泊する航空母艦上での「錨を上げて」のマーチングで始まるこの作品。
4日間の休暇をもらった水兵たちがハリウッドで体験する心温まる物語。

奥手でぎこちない水兵を演ずるシナトラと、その保護者よろしく万事やり手の水兵を演ずるジーン・ケリーのコンビ。
8か月ぶりの休暇を酒池肉林で過ごすのではなく、子供の夢をはぐくみ、それぞれ運命の相手に巡り合うというハリウッドストーリー。

劇中アニメのジェリーと踊るジーン・ケリー

シナトラが出合う運命の相手は、ブルックリン出身のウエイトレス。
移民のるつぼニューヨーク・ブルックリンの出身者同士の無理のない交際が、移民出身のシナトラには良く似合う。
若いシナトラは細身の体をしならせて、精一杯の踊りでケリーについてゆく。

ジーン・ケリーの相手に収まるのは、ソプラノ歌手としてMGM入りしたというキャスリン・グレイン。
黒髪豊かなラテン風の容貌で、メキシコレストランで歌ったりする。

この映画、ヒロインが二人とも移民系のキャラクター。
金髪美人がレビューシーンで媚を売りまくるようなミュージカルに比べると、毛色が変わってはいないか。

ジーン・ケリーが達者な演技で、シナトラの面倒を見続けるという、男の友情の物語であることもこの作品のカラーとなっている。

「踊る大紐育」 1949年 ジーン・ケリー/スタンリー・ドーネン監督  MGM

主演のケリーと振付師出身のスタンリー・ドーネンの共同監督。
製作は、まってました!アーサー・フリード。

コンセプトは「錨を上げて」同様の水兵の休暇の物語。
期間を24時間と短縮したせいもあろうか、テンポよく、まとまりよく出来上がっている。

休暇でニューヨークに上陸した3人。まずは歌で喜びを表現

今回の水兵チームは、シナトラ、ケリーにジュールス・マンシンの3人組。
ニューヨークで次々と巡り合うお相手が、ベテイ・ギャレット、ヴェラ=エレン、アン・ミラー。

女タクシードライバー(ギャレット)がシナトラに一目ぼれして迫りまくったり、博物学者(ミラー)が原始人に似ているマンシンに興味をしめしたリ。
出会いの場面は唐突でぶっ飛んでいるが無駄がない展開。

ヴェラ=エレンの若々しいスポーテイなダンスシーンもグッド。
アン・ミラーがタップダンスが特別にうまく、独特の色っぽい雰囲気も「イースターパレード」でお馴染み。

男の友情を基本線にしているのは「錨を上げて」同様だが、前作よりその色合いは薄い。
その分女性陣のパフォーマンスが前面に出ており、ホームドラマではなくコメデイとなっている。
彼らがさ迷う夜のクラブの場面では(待ってました!)派手なダンサーたちが次々登場し夜のムードも色濃く描かれる。

エンパイアーステートビルで、右からヴェラ=エレン、一人置いてアン・ミラー

ジーン・ケリーがやり手で達者なキャラ、シナトラが不器用で奥手なキャラなことは「錨を上げて」を踏襲。
育ちは悪いが歌が上手いあんちゃん、というこの時期のシナトラの存在感がわかる。

「私を野球に連れてって」 1949年 バスピー・バークレイ監督  MGM

大リーグの試合は7回の攻撃前になると球場に「私を野球に連れてって」の曲が流れる。
その曲をモチーフにした映画である。
製作はアーサー・フリード。

監督は振付師としてブロードウエイから招かれ一世を風靡したバスビ-・バークレイ。
バークレイはその名前が〈凝った作りのミュージカルナンバー〉という意味の一般名詞として辞書に載る有名人。

〈バズの暴力志向と、女性に対する倒錯的な態度は(彼が振り付ける)ダンスナンバーにもはっきりと表れている〉とは、ケネス・アンガーによる「ハリウッド・バビロンⅡ」でのバークレイの人物評。

幾多の女優を紹介、抜擢し、私生活では3人死亡の自動車事故を無罪で切り抜けたりもしたバークレイ。
ハリウッドに来てからは一般映画の演出もこなしたが、この作品が監督としての最終作になった。

ミッキー・ルーニーに振り付けするバズビー・バークレイ(左)

またもや主演はシナトラとケリー。
今度は野球選手の役。
シーズンオフには二人して旅劇団で歌って踊る、というおまけつき。

開巻の二人の舞台「私を野球に連れてって」の歌と踊りでかっさらい、あとは怒涛の展開だ。

球団の新オーナーとしてキャンプ地にやってきたのは若い美人のエスター・ウイリアムス。
エスターは水泳選手から水中レビューをしていたところをスカウトされてMGM入り。
本作では、なぜかは知らぬがキャンプ地から遠征先まで、ずーっつと球団について回り、監督にも口を出す球団のオーナー役。

ホテルの夜のプールで、エスターが黄金色の水着で泳ぐシーンの夢のような美しさ。
その動きの良さと、長身のスタイル、可愛げのある顔立ちは一瞬にしてみるものの心をつかむ。

野球のシーズンオフに芸に精を出す二人

同じように心をつかまれた球団のスター遊撃手・ケリーが彼女を追いかける。
片やぶきっちょで奥手なシナトラには「踊る大紐育」でシナトラに迫りまくった達者な女優ベテイ・ギャレットが再び登場して名コンビよろしくカップリング。

エスターのキャラが明るいので昼のムードに覆われた家庭向きの作品となっている。

ぶっ飛んだギャグが連発される中、ケリーが口八丁手八丁のやり手のキャラ、シナトラが不器用で奥手のキャラを演じるのは、今回の3作品に共通していた。
作品を貫く能天気なムードは東宝の「若大将シリーズ」をちょっと思い出したりして。

上田映劇にイタリア映画の名花集結

上田映劇で突然、ロッサナ・ポデスタとカトリーヌ・スパーク、ラウラ・アントネッリの代表作が上映された。

夏の日の上田映劇

ジャン=ポール・ベルモンド傑作選などで旧作発掘に意欲的なキングレコードの再輸入による特集。
今回はポデスタの2作品(「黄金の七人」「黄金の七人・レインボー作戦」)とスパークの「女性上位時代」、アントネッリの「セット・マッソ」をセレクト。

上田映劇に時ならぬイタリアの名花が咲き誇った。

「女性上位時代」 1968年 パスカーレ・フェスタ・カンパーレ監督  イタリア  上田映劇上映

カトリーヌ・スパーク主演の艶笑コメデイ。
カトリーヌは1945年フランス生まれの女優で、一族はベルギーの出身。
父親のシャルル・スパークはフランス映画黄金時代の脚本家だった。

10代のころからイタリアで女優として活躍していたカトリーヌ。
「太陽の下の18歳」「狂ったバカンス」などで175センチの肢体を披露し有名となった。

「女性上位時代」では20代となっていたカトリーヌだが、堂々の主演を張る。
監督は「若者のすべて」「山猫」の脚本家で、イタリア映画本流の実力派のカンパーレ。
相手役ジャン=ルイ・トランテイニャンをフランスから迎えるなど一流の布陣である。

入場者に配られた「女性上位時代」ポスター

カトリーヌは夫に死なれたばかりの富豪未亡人の設定。
世間知らずのお嬢様そのものの風体で、様々な最新ファッションに身を包み、男から男へと渡り歩く。
一度付き合うと、夢中になる男どもを相手にせず、次の男へ。

育ちがよく、アイドル性もあるカトリーヌの存在そのものがこの映画の生命線。
既に多くの出演作を経て、若干の疲れが表情とお肌に現れた?カトリーヌだがまだまだ20歳を超えたばかり。
脱ぎっぷりよく男優陣の間を駆け巡る。

60年代に活躍したイタリア女優のレジェンドの一人である、カトリーヌ・スパークの貴重な姿が見られた。
イタリア映画がなぜか固執する富豪の成金生活ぶりも今となってはキッチュ。
ある意味カルトっぽくもあるイタリア映画。

入場者にオリジナルポスターのコピーを配ってくれた上田映劇の対応もナイス。

「セット・マッソ」 1973年  デイノ・リージ監督  イタリア  上田映劇上映

イタリア映画の60年代以降の名花といえば、ラウラ・アントネッリを忘れてはいけない。
「青い体験」は当時のヤングにとって、母性と懐かしさに彩られた衝撃作であり、ラウラは永遠のアイコンとなった。

ラウラ・アントネッリは1941年クロアチア生まれ。
1971年に「コニャックの男」でベルモンドと共演して以来10年間の愛人生活。
「セット・マッソ」はその最中の作品。
その後、「青い体験」で全世界のアイコンとなり、ヴィスコンテイの遺作「イノセント」にも出演した。

入場者に配られた「セット・マッソ」のちらし

「セット・マッソ」はイタリア式艶笑コメデイの究極形。
10話に近いオムニバスの中で、演技派ジャンカルロ・ジャンニーニとのコンビで、ある時は富豪のマダム、ある時は極貧の子だくさん、ある時は尼僧姿で登場。

仮装の限りを尽くしオーバーなパフォーマンスに終始するジャンカーニに、演技力では一歩劣るも存在感では決して引けを取らないラウラ。
そのボリューミーな肢体を見せるだけですべてを納得させてしまうのは、彼女の女優としての財産。

庶民性と逞しさという、イタリア女優の伝統を継承しているのもいい。

チラシ裏面その1

イタリア映画の流れとしては、おおらかな時代の艶笑コメデイー例えば50年代のソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニのコンビの作品ーが60年代になってアイドル性の高い女優が華美なファッションに身を包んで登場し、70年代に至ってはより露出性を高めつつも混迷を極めてきた、ようにも見える。
「マット・ロッソ」にはその混迷のさまが見える。

チラシ裏面その2

ただしラウラ・アントネッリの存在の絶対感は改めて確認できた。